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ハイドンとモーツァルト

 

 ハイドンとモーツァルトは、年が二四歳離れており、親子ほどの間柄である。こんなに歳の差があったにも拘らず、この二人は音楽史の中でも希に見る「肝胆相照らす」仲であった。ハイドンとモーツァルトが、その境遇、性格の相違にも拘らず、いや、むしろそれだからこそ、いかに互いに惹きつけられ、音楽上の深甚な影響を与えあっていたか。二人の出会いと別れの物語は、美しくまた悲しい。この物語を、最初のハイドンの伝記作者であるガイリンガーの記すところにしたがって見てみよう。

 

T

 

「この二人ほど性格の違う二人の人間を想像することはむずかしい。モーツァルトは驚くほど早く発展していった。一方、ハイドンの進歩は信じられないほど遅かった。事実、ハイドンは三六歳(モーツァルトはこの年齢で死んだ)の時には、まだほとんど重要な作品を書いていなかった。

 人間としてのモーツァルトは典型的な芸術家で、その気分は、快活な陽気さから深い憂鬱へと、また怒りの発作からほとんど女性的な優しさへと、急激に変化した。ハイドンの方はむしろ冷静な気分の持ち主で、常に静穏、快活、また多分にユーモアのセンスを持っていた…。」(大宮真琴「新版 ハイドン」より、ガイリンガーの言葉を引用)

 モーツァルトの音楽の中には、このような彼の性格を反映したドラマチックなものがいくつかあり、それらは、演奏が多少まずくても多少大時代的でも、音楽自身が何がしかを語ってくれることが多い(例えばピアノ協奏曲ニ短調 K四六六、同ハ短調 K四九一のような曲)。しかしこうしたドラマ性に全く依存していないハイドンの音楽には、知性とセンスのある演奏が必要だ。ハイドン演奏に欠かせない「いのち」とでも言うべき要素は、「ユーモアのセンス」「軽み」「乗りのよさ」「職人的作曲技巧に対する共感」といった資質である(例えば、交響曲第八二番「熊」、同第九〇番、弦楽四重奏曲第三九番「鳥」、同第六三番「ひばり」といった曲の特にフィナーレにハイドンらしい特徴がよく出ている)。鈍重さと生真面目さと感情移入過多はハイドン演奏の「敵」である。ハイドン演奏には常に「スマイル」がなければならず、その意味では、眉間に皺を寄せるのを常としているベートーヴェンの名手は、必ずしもハイドンの名手とは言えないかも知れない。

 モーツァルトの典型的な芸術家気質に対して、ハイドンの静穏さ、快活さ―この性格の違いを反映して、モーツァルトの音楽が時として繊細さを極めるのに対し、ハイドンの音楽はおおらかさを身上とする。小林秀雄が名著「モオツアルト」の中で―

「モーツァルトを聞いた後、ハイドンを聞くと、個性の相違というものを感ずるより…(中略)…外的な虚飾を平気で楽しんでいる空虚な人の好さと言ったものを感ずる。…(中略)…モーツァルトの音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞こえる程の驚くべき繊細さが確かにある。心が耳と化して聞き入らねば、ついて行けぬようなニュアンスの細やかさがある。ひとたびこの内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモーツァルトを離れられぬ。」

と言っているのは、ハイドンにはやや酷だと思うが、モーツァルトの音楽の美質とその虜になった人の心理を見事に浮かび上がらせている。

 ある休日、僕は昭和記念公園をサイクリングしながら、CDウオークマンでハイドンの「天地創造」を聴いていた。天気も爽快でとても気持ち良かった。ハイドンの音楽のおおらかさは、野外で聴くのにふさわしい、と思った。これに対して、例えば僕の大好きな「ハフナー・セレナード」(K二五〇)の第六楽章アンダンテの、美しい主題が万華鏡を見るように次々に現れては回って行く様は、野外で聞くにはあまりにニュアンスが繊細すぎる。モーツァルトの音楽は室内で聴くのにふさわしい、と思う。

 モーツァルトの気分の変化の早さ、つまり気まぐれさは、放棄された断片曲が多いことにもよく現れている。彼は、演奏される目処がなくなれば、途中でもさっさと作るのをやめてしまい、そのまま放棄した。どんな曲想の断片も大事にとっておいて何年も後に利用したベートーヴェンとは大変な違いである。モーツァルトの断片曲の中には、完成されていればさぞ傑作になっただろうに、と思わずにはおれないような「名曲」がある。例えば、一二〇小節まで書かれたピアノとヴァイオリンのための協奏曲 ニ長調(K・Anh・五六)は、管弦楽が素晴らしく充実しており、独奏楽器の組み合わせも大変興味深い。また、独奏楽器が展開部を開始する直後の一三四小節まで書かれたヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための協奏交響曲 イ長調(K・Anh・一〇四)も、最後まで書かれていれば、有名なヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調(K三六四)の姉妹品として、広く愛好されていることと思う。

 

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「モーツァルトは生まれながらにして劇的な作曲家であり、またピアノやヴァイオリンのいずれにおいても輝かしい名手であった。従って彼は、演奏家として驚くべき成功を勝ち得たのである。舞台音楽の作曲家としてのハイドンの才能は限定されていた。彼は自作品をハープシコードから目立たぬように指揮するのが好きだったし、独奏家としての月桂冠を勝ち得ようなどという野心は全く持ち合わせていなかった…。」(ガイリンガー)

 このような違いを反映して、二人の得意とする分野も対照的であった。モーツァルトの得意なジャンルはオペラと協奏曲であり、ハイドンは交響曲、弦楽四重奏曲、ミサ曲であった。

 僕は小林秀雄のように、モーツァルトのオペラは眼をつぶって聞く、とまで言い切る自信はない。しかし、モーツァルトの歌劇は器楽的であり、「彼の音楽は、声帯による振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている」との小林の指摘には共感する。一八世紀のオペラの台本は崇高な文学作品などではない。単なる娯楽芝居で、それも役者たちの都合でどうにでも書き直された。オペラの意味内容について詮索したり、深遠な意図を探求しても全く無駄である。モーツァルトのオペラもただ音楽によってのみ偉大なのだ。僕は「フィガロの結婚」のフィナーレで、伯爵が自分の行ないを悔い夫人に詫びる歌を歌う場面になると、「人間性の永遠の美しさ」を感じて必ず涙が出てくるが、多分モーツァルトの音楽でなければ涙は出ないと思う。

 ハイドンの交響曲や弦楽四重奏曲の偉大さについては語り尽くされている。僕は、これらのジャンルと並んでミサ曲が素晴らしいと思う。幸い最近、古楽器演奏家たちがハイドンのミサ曲をよく採り挙げるようになった。これら古楽器オーケストラによる鮮烈な演奏によって、ハイドンのミサ曲が、交響曲的な構築と伝統あるミサ曲の対位法的書法を融合させた大傑作群であることが解かってきたのだ。

 

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「モーツァルトの生活には、秩序や規則正しさについての感覚が欠けており、金銭の価値についても理解しなかった。ハイドンは生涯の大半を一種の機械的な正確さで送った。整然たる規則正しさは、彼にとって不可欠のものであった。経済的な事柄に関しても出版商に引けを取らなかった。モーツァルトが無一文で死んだのに対し、ハイドンは死後にかなりの財産を残した…。」(ガイリンガー)

 世俗的な価値観から言えば、モーツァルトは人生の失敗者であり、ハイドンは人生の成功者であった。モーツァルトは、幼少の頃は神童であり、ヨーロッパ各地の宮廷でもてはやされた天才少年であった。彼は、一四歳で、ローマ教皇から「黄金拍車」の勲章を授かったが、この栄誉は、音楽家では彼より二〇〇年以上前のルネサンス時代のオルランド・ラッソが受けて以来のことであった。ウィーンへ出てからの「自由音楽家」モーツァルトも、最初のうちは、オペラに、演奏会にと、華やかな成功を収めた。しかし飽きやすいウィーンの聴衆はすぐに彼を見捨てた。彼の演奏会には人が集まらなくなり、加えてモーツァルト夫妻のとめどもない浪費癖が家計を圧迫した。晩年、モーツァルトが有力者に借金を乞うた手紙が何通も残っているが、それらは哀れとも惨めとも言いようがない代物である。彼が三六年に満たない生涯を閉じた時、未亡人には一銭の蓄えもなく、夫を、名も無い人々を葬る共同墓地に埋葬するしかなかった。しかも未亡人は何年も夫の墓を訪れることをせず、ために、モーツァルトの遺体は永遠に失われてしまった。

 因みに、当時の「自由音楽家」がいかに悲惨な最期を遂げることが多かったか、モーツァルト以外にも事例に事欠かない。例えば、ハイドンと同世代人ディッタースドルフは、一七六〇年代にはウィーンでハイドン以上に尊敬を集めた作曲家であり、ハイドンとふたりで他の作曲家の曲の出来不出来を議論した仲であった。彼は出世し貴族の称号をも贈られた。しかしその後、ディッタースドルフは凋落し、一七九九年に名もないボヘミアの村で死んだ時、彼の机の引き出しには、誰も買わず誰も演奏しなかった、多くの交響曲、四重奏曲、ピアノ曲があふれていたのである。ハイドンの成功はまさに例外中の例外であった。

 そのハイドンも若い頃の生活は惨めなものであった。彼は、ハンガリーの片田舎の出身で、美声を買われてウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年合唱団に入ったが、一〇代半ばには声変わりのため少年合唱団を追い出されてしまう。それからのハイドンは、戸外でセレナーデを演奏して流す「巷流し」の一団に加わってその日暮らしをしていた。それでもハイドンの伝記には暗さといったものが感じられない。これは、彼の心をしっかり支える柱―音楽への飽くこと無き情熱と並外れた勤勉さ―があったからである。いろいろな偶然が彼の人生を次第に好転させてゆき、ついに二九歳の時、ハンガリー最大の貴族、エステルハージ侯爵家に仕える音楽家となる。そこでのハイドンの楽長としての成長は、ゆっくりではあったが、大地を踏みしめるように着実なものであった。侯爵との折り合いもうまくつけ、楽団のメンバーからも無条件に慕われた。やがて彼の名はヨーロッパ中に聞こえるようになり、六〇歳を挟んで行なった二回のイギリスへの演奏旅行は、音楽史上でも希に見る成功を収めた。ハイドンが七七歳で亡くなる年、ナポレオン軍がウィーンに侵攻してきた。彼の家が散弾射撃に遭い、窓も扉も激しく揺れた。その時、狼狽し恐怖におののく召使たちに、老ハイドンは「子供たちよ、恐れることはない。ハイドンのいるところでは、お前たちは決して不幸に陥ることはないのだ!」と言ったという。僕は、彼が晩年に到達した偉大な楽観主義と、それを支える人間としての勁(つよ)さ、寛やかさに強く心を動かされる。

 

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「この二人の天才が互いに惹かれたのは、こうした性格の相違によるものだったに違いない。もし彼らがいつもいっしょに住んでいたならば、互いにやりきれなくもなっただろうが、あまり頻繁に会うこともなかったので、一回一回の訪問がひとつの重要な出来事となった。ハイドンはモーツァルトの変わり易い気質に惹かれていたし、モーツァルトはハイドンの安定した暖かい感情に接して安らぎを覚えたのであった。」(ガイリンガー)

 ハイドンとモーツァルトが初めて会ったのはいつなのか、はっきりはわからないが、二人が会うようになったのは、モーツァルトがウィーンに出て来てからである。時にモーツァルトは二〇歳代半ば、ハイドンは間もなく五〇歳になろうとする頃であった。

 モーツァルトのハイドンに対する尊敬は、六曲の弦楽四重奏曲集をハイドンその人に献呈したことに端的に表れている。「ハイドン・セット」と称される曲集には次のような言葉で始まる美しい献呈文がついている。

「親友ハイドン! 広い世間に子供たちを送り出そうと決心した一人の父親は、彼らを、高名な方の保護と指導に託するのが賢明であることに気づきました。しかも幸いにして、この方は最も良き友なのです。高名にして最愛なる友よ、見て下さい。ここに私の六人の子供たちをお送りいたします。……」

この献呈に関して、モーツァルトは次のようにも語ったという。

「それは義務だったのです。四重奏曲をどうやって書かねばならないかを、私はハイドンから学んだのですから。」

「戯れたり、興奮させたり、笑いを引き起こしたり、深い感動を与える、といったような全てのことを、ハイドンほどうまく出来る人は誰もいません。」

また、ある人が、ハイドンの大胆なフレーズを批判して「私ならこんなふうには書かないのに」と言った時、モーツァルトはこう答えたともいう。

「私だってそうです。けれども、それは何故かわかりますか? あなたや私にはこんな素晴らしいアイディアは思いつかないからです。」

 一方、ハイドンもモーツァルトの才能に賛辞を惜しまなかった。一七八五年の一月と二月にハイドンがモーツァルトの家を訪問した時、上述の「ハイドン・セット」四重奏曲が三曲ずつ試演された。この時、モーツァルトの父レオポルトがザルツブルグから息子の家を訪ねて来ており、試演の様子をザルツブルグの家族あての手紙に書き残している。

「土曜日の夕方、ヨゼフ・ハイドン氏と二人のティンディ男爵が家に来て、新しい四重奏曲が演奏されました。それらは幾分軽い調子のものでしたが、なかなか良く書けていました。ハイドン氏は私にこう言ってくれました。『私は正直な人間として神に誓って申し上げますが、私の直接間接知っている限り、あなたの息子さんは最も偉大な作曲家です。美についての良い趣味をお持ちですし、優れた作曲の技術を身に着けておられます。』」

息子の音楽的大成にいわば人生を賭けてきたレオポルトにとって、ヨーロッパ一の大家からかけられたこの言葉ほど、忘れがたく心に染みた言葉はなかったことであろう。この二年後にレオポルト・モーツァルトは亡くなっている。

「ドン・ジョヴァンニ」がウィーンで初演された時のこのオペラに対する非難を聞いて、ハイドンはこう言ったという

「私はこの論争を解決することはできません。けれども私は、モーツァルトがこの世で最も優れた作曲家であることを知っています。」

晩年になってからハイドンは、眼に涙を浮かべてこう語ったともいう

「モーツァルトのピアノ演奏を生涯忘れることができない。それは胸に響くものだった。」

 

X

 

 二人がお互いに与えた音楽上の影響も大きかった。ハイドンのモーツァルトに対する影響は直接かつ明白に観察される。モーツァルトの若い頃の交響曲や弦楽四重奏曲に既にハイドンからの学習の跡が見られる。例えば、交響曲ト長調K一一〇のメヌエットがカノンで書かれているのは、明らかにハイドンの同調の交響曲(第三番や第二三番)の模倣であるし、所謂ウィーン四重奏曲中のニ短調の曲(K一七三)は、ハイドンの作品九の四の四重奏曲のエコーである。

 成人してからもモーツァルトはハイドンから何かと吸収した。弦楽四重奏曲ニ短調(K四二一)の八分の六拍子による変奏曲フィナーレは、ハイドンの作品三三の五(ト長調)に基づくことは誰が聞いてもわかる。しかし、その形式的同一性にも拘らず、その内包している音楽は何と異なっていることであろう! ハイドンのおおらかでチャーミングな変奏曲が、ロマン派の情調さえ見せる、変化と色彩に富んだ変奏曲に様変わりしているのだ。モーツァルトは単にハイドンを模倣しただけではない。明らかに自分の語法の中にそれを消化している。

 ハイドンがモーツァルトから受けた影響はどうか。ハイドンにとってモーツァルトの技法から何か学ぶということはなかった。だからその影響は、モーツァルトがハイドンから受けた影響ほど明瞭に音楽に表われない。しかし、例えば作品五〇の弦楽四重奏曲集の情調の深まりなどには、献呈されたモーツァルトの四重奏曲からの影響が窺われる。また、交響曲第九八番の第二楽章アダージョ・カンタービレは、モーツァルト風の半音階を多用した、秋の日の黄昏のような美しい曲である。

 

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 さて、二人の別れは、大宮真琴氏の「新版ハイドン」を少し脚色させていただくと、およそこんな物語であった。

 一七九〇年、ハイドンがロンドンの演奏会に出かけることが決まった。ハイドンの老齢を気遣い、また、父のごとく慕ったハイドンが去って行く寂しさに、モーツァルトは必死に思いとどまらせようとした。

「パパ、あなたは広い世間をご存知ないし、英語だってほとんど話せないではないですか。」

ハイドンは答えて言う――

「いや、私の言葉は世界中の人が理解してくれます。」

 ついに別れの日が来た。ハイドンとモーツァルトは感情が激して涙を流した。特にモーツァルトは激しく泣いた。彼は心を深く動かされ、ハイドンへの気遣いで心がいっぱいになり、ハイドンを両腕で抱きしめながら、こう言った――

「私は心配なんです、パパ。最後の別れを述べているみたいで!」

馬車は出発した。もう一度ハイドンは振り返って挨拶した。それから姿が遠ざかっていった。モーツァルトは一人で立っていた。彼にとって最良の友、最もふさわしい友が今去って行った。

 こうして、音楽史上、最もお互いを理解し合い、尊敬し合っていた二人の音楽家は永遠の別れを告げた。その時、わずか一年後に、親子ほど歳の離れた年下のモーツァルトが先に死ぬことを誰が考えただろうか――――。

(一九九〇年九月一七日)

 

ハイドン(一七三二年〜一八〇九年)

 ウィーン古典派の代表的作曲家。交響曲、弦楽四重奏曲などのソナタ形式による絶対音楽の形成に大きな役割を果し、モーツァルト、ベートーヴェンらの後進に多大な影響を及ぼした。

モーツァルト(一七五六年〜一七九一年)

 「モーツァルトの音楽、ベートーヴェンの音楽」の項参照。

 

〈参考にした文献〉

 大宮真琴「新版ハイドン」(音楽の友社)

 中野博詞「ハイドン復活」(春秋社)

 R・ランドン「ハイドン交響曲全集のライナーノート」岩井宏之ほか訳(キングレコード)

 小林秀雄「モオツァルト」(新潮文庫)

僕にとって小林のこの作は、大学生の頃、アルバイトの帰りにバスを乗り過ごすほど没入して読んだ時以来の永遠の愛読書

 サディー「モーツァルトの世界」小林利之訳(東京創元社)

 

〈参考にしたCD〉

ハイドン「交響曲第八二番ハ長調『熊』」クイケン指揮ほか(ヴァージン・クラシック)

ハイドン「交響曲第九〇番ハ長調」ヴァイル指揮ほか(ソニー)

ハイドン「弦楽四重奏曲ハ長調作品三三―三『鳥』」フェステティッチ四重奏団(仏ハルモニアムンディ)

ハイドン「弦楽四重奏曲ニ長調作品六四―五『ひばり』」タートライ四重奏団(フンガロトン)

ハイドン「オラトリオ『天地創造』」クイケン指揮ほか(アクサン)

ハイドン「ミサ曲ニ短調『ネルソン・ミサ』」ピノック指揮ほか(アルヒーフ)

ハイドン「交響曲第三番ト長調」ホグウッド指揮ほか(オワゾリール)

ハイドン「交響曲第二三番ト長調」ホグウッド指揮ほか(オワゾリール)

ハイドン「弦楽四重奏曲ニ短調作品九―四」コダーイ四重奏団(ナクソス)

ハイドン「弦楽四重奏曲ト長調作品三三―五」フェステティッチ四重奏団(仏ハルモニアムンディ)

ハイドン「弦楽四重奏曲集作品五〇」ザロモン四重奏団(ハイペリオン)

ハイドン「交響曲第九八番変ロ長調」クイケン指揮ほか(独ハルモニアムンディ)

モーツァルト「ピアノ協奏曲ニ短調K四六六」ブレンデル(ピアノ)ほか(フィリップス)

モーツァルト「ピアノ協奏曲ハ短調K四九一」ブレンデル(ピアノ)ほか(フィリップス)

モーツァルト「セレナードニ長調『ハフナー』K二五〇」ミュンヒンガー指揮他(ロンドン)

モーツァルト「ピアノとヴァイオリンのための協奏曲ニ長調KAnh五六」ハーガー指揮ほか(デンオン)

モーツァルト「ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための協奏交響曲変ホ長調KAnh一〇四」ハーガー指揮ほか(デンオン)

モーツァルト「オペラ『フィガロの結婚』K四九二」マリナー指揮ほか(フィリップス)

モーツァルト「弦楽四重奏曲集『ハイドンセット』」モザイク四重奏団(アストレ)

モーツァルト「交響曲ト長調K一一〇」ピノック指揮ほか(アルヒーフ)

モーツァルト「弦楽四重奏曲ニ短調K一七三」フェステティッチ四重奏団(フンガロトン)

モーツァルト「弦楽四重奏曲ニ短調K四二一」モザイク四重奏団(アストレ)