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バッハの無伴奏ヴァイオリン曲について

 

 カザルスホールへ室内楽を聴きに行く。プログラムは、モーツァルトの不協和音カルテット、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ・ハ長調、ラヴェルのカルテットと並んだもの。僕は、プログラムや演奏の善し悪しよりも、一つ大きな宿題を投げかけられてしまった。それは本日のふたつめのプログラムであるバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ・ハ長調についてのものだ。

 このヴァイオリニストの技術を試す難曲は、しかし、聴いていて決して楽しいものではなかった。むしろ、しつこいまでのヴァイオリンの摩擦音の繰り返しに、神経を逆なでされた、といった印象を受けた。僕はバッハの無伴奏ヴァイオリン曲や無伴奏チェロ曲を聴いていて時々思うことがある。これはやはり単なる練習曲ではないのか、と。これらの曲を(ナマであれ、CDであれ)聴く時、大いに感動する時と、本日のように無味乾燥の練習曲に聞こえる時とで大きな差がある。以前は、それは演奏の善し悪しに起因するのだろうと考えたが、バッハの無伴奏ヴァイオリン曲や無伴奏チェロ曲は、名演奏家の演奏でもしばしば気難しく無味乾燥に聞こえる。

 カザルスが二〇世紀の「バッハ神話」の形成に大きな貢献をしているが、バッハの全てを神話化するのはどんなものだろう? 素直な耳にとって、元来、無伴奏ヴァイオリン曲や無伴奏チェロ曲が楽しめるものかどうか? 練習曲は単に練習曲だと割り切って位置づけるべきではないだろうか? バッハなら何でも人々に巨大な感動を呼び起こすというものではあるまい。渋面を作って無理矢理「神に近きバッハ」を味わわなければならない、などと力むのは滑稽だ。一八世紀においては、これらの曲は単に練習曲であった。バッハはヴァイオリニストやチェリストたちの注文に応じて練習曲を作ったのであり、そこに何か深遠な意図を読み取ろうとするのは、いかにも現代人らしい芸術神聖化の意識過剰であり、今世紀初頭以来のバッハ神聖化の行き過ぎであろう。

 我々は、作曲家のその時代における本当の役割を知るべきである。バッハもモーツァルトも作曲「職人」であった。彼らは、貴族や町の有力者にチェンバロやヴァイオリンの練習曲や内輪の楽しみの曲を頼まれれば、依頼者の背丈に合わせた曲を作ったにすぎない。バッハやモーツァルトの全てに「神の如き霊感」を見出さなければ気が済まない、というのは、夢想の行き過ぎであろう。練習曲には練習曲なりの楽しみがあればいいではないか。バッハの無伴奏ヴァイオリン曲も、練習曲としてはよくできた曲であるが、時に無味乾燥に聞こえても仕方ないのだ。


 もうひとつ、本日バッハを聴いて改めて感じたこと――それは、バッハの音楽の気難しさだ。以前から、例えば「マタイ受難曲」のイエスの死の前後の音楽や「音楽の捧げもの」には、かなりシュールな、まるで現代音楽に直結するような部分があると感じていたが、このヴァイオリンのための異常な激しさとしつこさを持った曲を聴いていると、やはり現代音楽を聴いている時のような不安感を喚起され、決して安楽を与えられることはない。このシュールさは、ハイドンやモーツァルトには無いし、バッハと同時代のヘンデルやテレマンにも無い。ナチスの上層部で、最も知性があり、かつ狂気を宿していた連中の愛した音楽はバッハとワーグナーであったそうだが、バッハの音楽の中にそうした狂気が潜んでいるのは否定できないと思う。その気難しさの一部は、次男エマヌエル・バッハのあのバランスの崩れた「感情表出主義」の音楽に多少とも受け継がれていると思う。

 バッハは一方では、「ブランデンブルグ協奏曲」のような、にぎにぎしく家庭的な暖かさに溢れる曲集を書いているし、教会カンタータでは、苦悩から歓喜へと向かう人間への共感に満ちた美しい音楽をいくつも書いている。しかし、バッハは時折、別人のように気難しい音楽風景を僕に見せることがある。僕は、時に、バッハのそうした気難しさについて行けないと感じることがある。

(一九九一年一一月九日)