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無名への愛

 

 学生の頃モーツァルトを深く愛した。社会に出てしばらく遠ざかったが、その後は生活の一部であり続けた。モーツァルト没後二〇〇年の年、商業主義が吹き荒れて、誰でも彼でもがモーツァルトを安易に礼賛していた時、モーツァルトの周辺の音楽家たちに沈潜した。

 アンフォッシ、サッキーニ、ピッチーニといったイタリアの劇音楽作家、モーツァルトと同じように夭折したヨハン・ショーバート、大バッハの末息子のクリスティアン・バッハ、ウイーンで活躍した先輩のディッタースドルフ、ボヘミア出身のJ.B.ヴァンハル、そしてヨーゼフとミヒャエルのハイドン兄弟・…。これら前古典ないし古典派の音楽は今日一般に聴かれること少ないし、事実、今日的関心からは退屈な音楽かもしれぬ。

 しかし、「商業主義」や「今日的視点」を離れて、目立たぬが良心的で学問的な先達の解説に導かれつつ、こうした音楽家たちの曲に耳を澄ますと、これら「個性的な」音楽家たちの曲が、それぞれ異なった仕方でいかに深くモーツァルトの音楽の形成に関与しているかを感じないわけにはゆかない。モーツァルトの音楽は、これら諸先輩の音楽の模倣の集まりであるとさえ言える。


 たとえばモーツァルトが一七歳のとき作曲したト短調シンフォニー(K一八三=K第6版一七三dB)は、天才のみが作曲しうる孤立した悲劇的作品のように言われることがあるが、調性(ト短調)やホルンを四本使った特異な楽器編成が共通していることや作曲年代からみて、ヨーゼフ・ハイドンのシンフォニーがモデルになっていることは明らかである。この曲(ハンドンの交響曲第三九番、HOBT―三九)のたたえる悲劇的な情調は、バロック音楽風ないしは教会音楽風の静的、形式的な悲しみではなく、ひとりの人間の個人的な悲劇といった色彩が濃い。当時としてはきわめて情熱的、革新的な曲であったにちがいない。その当時四〇歳を越えたところであったハイドンと同世代のヴァンハルも、これと同調、同編成の曲(Kat.Bryan―g2)を作っていることからも、その影響力の大きさがわかる。ただし、モーツァルトのト短調シンフォニーは、情調の点から言えばハイドンやヴァンハルの曲よりもクリスティアン・バッハのト短調シンフォニー(作品六―六)に近い。いずれにせよ、「疾走する悲しみ」は、モーツァルトに固有の情調ではない。彼は一八世紀後半に音楽家たちの間で流行りだした悲劇的語法を使っているにすぎない。

 これら無名の曲たちを聴くと、「天才モーツァルト」という没後二〇〇周年の観光ガイドのような薄っぺらな知識は姿を消して、「天才は孤立して存在しない」という歴史の実相を、知識としてでなく、掬すべき滋味として味わうことができる。モーツァルトとヴァンハルやクリスティアン・バッハとの間にそんなに大きな壁があるわけではない。一八世紀においてはそれらは対等な価値を持っていたのだ。


 「モーツァルトは、これら諸先輩のスタイルを借りながらも、二〇世紀まで生き残る不滅の名曲を作った天才である」という見方もあるが、それはモーツァルトをなお特別視し、当時の歴史の実相を知らないゆえのとらわれた見方である。この凡庸な見方の背景にあるのは一九世紀ドイツ音楽美学である。一九世紀ドイツ音楽美学が作り上げた音楽史――即ち、一八世紀西洋の音楽は、バロック、前古典派を経て、ハイドン、モーツァルトと直線的に進歩し、ベートーヴェンが古典派音楽を完成させたという図式――は、歴史解釈学としてあまりに有効であったため、依然として人々の頭を支配している。

 一八世紀の音楽史は「ハイドンが基礎を作り、モーツァルトが発展させ、べートーヴェンが完成させた」という記述は真実を語っていない。一八世紀ヨーロッパ音楽の中心はイタリアオペラである。音楽家は誰もがイタリアオペラに憧れ、模範にし、宮廷で大ヒットをとばすことに賭けていた。ウィーンの宮廷で高い評価を得ていたのはモーツァルトではなくサリエリであり、少し後のシューベルトでさえ、生涯夢みたのは、決して「歌曲王」になることではなく、オペラ作曲家として世に出ることであった。一九世紀ドイツ音楽美学はこの歴史の真実を無視した観念を作り上げた。

 しかもこの観念には、歴史は常に「発展する」ものであるということが含意されていた。この図式によれば、ハイドンはモーツァルトの、モーツァルトはベートーヴェンの、そしてベートーヴェンは来るべきロマン派の「前座」にすぎないことになる。歴史は常に直線的に発展し、過ぎしもの、周辺のものは発展の過程での「未熟な存在」にすぎぬ。こうした固定観念は、今日の商業主義によってむしろ助長されている。というのも、今日の商業主義は、演奏会にしろディスクにしろ、売れるもの即ち声望の確立したものを最優先するため、レパートリーが特定の「大作曲家」に極端に偏っているからである。

 こうして一八世紀の歴史の実相は忘れられ、人々は偏った見方のために、音楽の楽しみを失うことになる。素直な耳であれば、モーツァルトのピアノ・コンチェルトを楽しむのと同じようにクリスティアン・バッハのコンチェルトを、またモーツァルトのカルテットを楽しむ以上にハイドンのカルテットを楽しむことができる。要は偏見と商業主義から自由になり、良き導き手を探す苦労を厭わないことだ。



 歴史は記憶や解釈のための学問ではない。自己の置かれた環境と流行を離れて、過去の中に「愛すべき無名」を見出す喜びであり、不易の真理を洞察する楽しみである。そのことによって、人は初めて「盲衆」から離れた自らの判断を持つことができるのである。

(一九九二年五月四日)

 

モーツァルト(一七五六年〜一七九一年)
 「モーツァルトの音楽、ベートーヴェンの音楽」の項参照。

アンフォッシ(一七二七年〜一七九七年)
 古典期イタリアのオペラ作曲家。ローマでオペラブッファ「迫害される未知の女」を上演するなど、活躍した。

サッキーニ(一七三〇年〜一七八六年)
 ナポリ楽派のオペラ作曲家。ロンドン、パリで活躍。生涯で五十曲以上のオペラを上演した。オペラ以外にも、オラトリオ、ミサ曲、器楽曲を残した。

ピッチーニ(一七二八年〜一八〇〇年)
 ナポリ楽派のオペラ作曲家。ナポリ、ローマで活躍後、パリへ進出。グルックに代表されるフランス派のオペラに対抗するイタリア派の中心人物と見なされた。

ヨハン・ショーバート(一七三五年頃〜一七六七年)
 ドイツ人だがパリで活躍。初期古典派的ギャラント(優美)様式による協奏曲、室内楽曲を残す。モーツァルトと同じように夭折した。

クリスティアン・バッハ(一七三五年〜一七八二年)
 大バッハの末息子。始めミラノで、ついでロンドンで活躍した。イタリア様式のオペラのほか、ギャラント・スタイルの器楽曲も残す。彼が亡くなった時、モーツァルトは「音楽界の損失だ」と悲しんだという。

ディッタースドルフ(一七三九年〜一七九九年)
 ウィーン出身の作曲家、ヴァイオリニスト。ドイツ風歌劇(ジングシュピール)を発展させたほか、交響曲、協奏曲など器楽曲も多数残した。

ヴァンハル(一七三九年〜一八一三年)
 ボヘミア出身のウィーンで活躍した作曲家。九十曲余の交響曲、百曲余の弦楽四重奏曲をはじめ、膨大な数の室内楽曲、ピアノソナタ、教会音楽などを残した。

ヨーゼフ・ハイドン(一七三二年〜一八〇九年)
 「ハイドンとモーツァルト」の項参照。

ミヒャエル・ハイドン(一七三七年〜一八〇六年)
 ヨーゼフ・ハイドンの弟。ザルツブルグ大司教のオーケストラでコンサート・マスターを務める。その教会音楽は当時高く評価された。ほかにも古典派様式の交響曲、室内楽曲など多数あり。

サリエリ(一七五〇年〜一八二五年)
 ウィーン宮廷音楽家として活躍したイタリア人作曲家。オペラを中心に、教会音楽、若干の器楽曲も作曲。ベートーヴェンら多くの後進の教育にも功績があった。彼がモーツァルトを殺害する理由は全くなく、モーツァルト毒殺説は彼にとってはとんでもない濡れぎぬ。

シューベルト(一七九七年〜一八二八年)
 初期ロマン派の早熟の天才作曲家。定職を持たず、ボヘミアン的生活を送りながら、歌曲やピアノ曲などを多数作曲した。あまり知られていないが、彼はオペラも十数曲作っている。

 

〈参考にしたCD〉

モーツァルト「交響曲ト短調K一八三」ピノック指揮ほか(アルヒーフ)

ハイドン「交響曲第三九番ト短調」ホグウッド指揮ほか(オワゾリール)

ヴァンハル「交響曲ト短調Kat・Bryan―g2」プラハ室内管弦楽団(スプラフォン)

クリスティアン・バッハ「交響曲ト短調作品六―六」ハルステッド指揮ほか(CPO)