日本の政治におけるリーダーシップの欠如
酒井三郎「昭和研究会」を読み、福田恒存「孤独の人
朴正煕」(文芸春秋一月号掲載)を読み、最近の予算復活折衝の報道を読んで、日本の政治についてこう考えた。戦後の日本はひたすら国際情勢で「つき」があった。こんなに方向性も政治決断力もなく、よくこれだけ発展できたものだと思う。圧力と情実に流されるばかりの政治が行なわれる商人国家日本は、国際社会での基盤は実は脆弱なものだ。冷戦ゆえの米国の軍事的庇護という「つき」が落ちたら一体どうするのだろう。
政治的リーダーシップの極端な弱さという点では、現代は、「昭和研究会」が描く戦前の状況と変わりない。日華事変、三国同盟、太平洋戦争と、なし崩し的に破局へ向かって行った、あの戦前の決断なき政治状況と、財政再建予算ひとつ組めず、圧力団体を背景にした復活要求に容易に屈してしまう今の政治状況は、うりふたつだと言ってよい。このままでは、再び危機的状況が来た時に、また戦前のように、政治的リーダーシップのないまま決断と実行を先送りし、ずるずる何かのムードに乗って破局へ向かって行ってしまうような気がする。
「人間」によって正しく運営されない「制度」は国民を不幸にする。民主主義という「制度」は、責任ある政治家という「人間」によって運営されて初めて正しく機能する。今回、「孤独の人
朴正煕」を読んで、初めて、韓国の朴正煕大統領が、韓国の実態を正しく知ろうとしない日本や米国のマスコミの「民主主義原理主義者」から、単に軍人出身でクーデタによって政権を取ったというだけで「独裁者」として悪意で描かれていることを知った。実際の朴大統領は、農民出身で、軍事クーデタで政権を取ってからは、それまでの政治腐敗の原因であった外国勢力や李氏朝鮮時代以来の特権貴族「両班(ヤンパン)」の勢力を削ぐなど、韓国で初めて四民平等の近代国家を実現したのだ。大統領になってからも清貧に安んじ、「いざという時(北朝鮮が攻めてきた時)には自分はソウルから一歩も引かない」との強い責任感の持ち主である。日本のマスコミが描くのとは異なり、真のリーダーとして韓国国民の間では絶大な信頼を得ている人なのである。この福田恒存氏の朴正煕大統領への美しく抑制の効いた追悼の文章は、全ての日本人に読まれるべきである。いかに日本のマスコミ報道が奇矯なもので、真実から我々を遠ざけているか、心に染みてわかる。もう一度言う。民主主義という「制度」は、責任ある政治家という「人間」によって運営されて初めて正しく機能する。
政治家が単なる地域利害や職域利害のブローカーにすぎない制度にも問題があるのだろう。政治的多元主義者が言うように、現代民主主義は多元的圧力構造にならざるを得ないことはわかるが、それだけではまさに「小きざみな意思決定が大海に漂流している」状況に陥ることになる。政治家には政治家としての大きな決断と大きな選択が要求される。その決断は、時には選挙での当選という観点からはマイナスの場合もあり得る。例えば、財政再建という緊急課題のために、選挙にはマイナスの決断をあえて政治家はしなければならないこともあるはずだが、今の日本では望むべくもないようだ。かといって「これが民主主義の代償だ」などと呑気に諦観するわけにもいかない。政治的リーダーシップ確立のための何らかの処方箋を考えるべきだ。
四つほど処方を考えた。一つめは、政治家が地域利害や職域利害を離れて決断できる場をつくること。例えば参議院をそういう長期的視野で政策や国益を議論するための場に衣替えする。二つめは、首相や内閣の権限をもっと大きくし、米国の大統領に少し近づけること。三つめは、フランスのENAのような、真に国益を考える能力を有する政治家や官僚を育成する権威ある高等教育機関を作ること。四つめは、地方自治体(とりわけ市町村)において「大統領制」「直接民主主義」「情報公開」を活用し、身近な問題を解決する訓練を通して国民の「政治的資質」や「民度」を向上させること。時には住民エゴを辛抱できる資質を身につけ、かつ、マスコミ報道を疑う力のある国民を育成する場が必要だ。しかし、四つめの処方は、ひょっとすると住民エゴをますます盛んにし、収拾のつかない大衆民主主義を助長してしまうかもしれない。これを処方とすべきかどうか、今一つ自信がない。
(一九七九年一二月二九日)
〈参考にした文献〉
酒井三郎「昭和研究会」(TBSブリタニカ)
福田恒存「孤独の人 朴正煕」(「文芸春秋」昭和五十五年一月号掲載)