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実証主義政治学について

 

 最近の日本の政治学の顕著な特徴は、実証主義の台頭だ。つまり、まずは政治のありのままの姿を正確に把握しようということだ。これまでの政治学は、いかに「ありのまま」を見てこなかったか、言い換えれば、恣意的な主張や観念的な主張が多かったことか。

 例えば田口富久治氏の最近の「法学セミナー増刊号」に掲載された論文もそうだ。田口氏は、日本の官僚、政治家、財界の関係を分析し、「官政財」は一枚岩とは言えないが互いに「癒着」している、ということをおっしゃっているが、「癒着」という言葉に既に価値判断が入っている。しかも、その論拠は若干の事例だけで、それも「癒着」が見られる産業だけを取り上げてそう言うのだから、本当の論拠とは言い難い。本当に「官政財癒着」を一般論として言いたいのなら、もっといろいろな産業を取り上げてケーススタディなりインタヴューなりを広範に行なう等の実証的な分析をすべきであろう。やはり観念の罠にはまっており、結論も最初から決まっているのだ。つまり、外野からの体制批判であり、抽象化された西欧モデルから日本の政治システムがいかに逸脱しているかの指摘である。そこからは、何の実行可能な有効な政策も、また反体制派にとっての有効な戦略も生み出す力は無い。つまり、体制、反体制いずれの立場からも使い道のない、社会的需要を満たすことのできない論文だ、ということになる。

 これに対して、例えば、福井治弘氏の「自由民主党と政策決定」や村松岐夫氏の「戦後日本の官僚制」や大嶽秀夫氏の「現代日本の政治権力経済権力」などの諸論文は、ケーススタディやアンケートといった実証ないしフィールドワークが充実しており、先入見なく現実を正確に見ている。特に大嶽氏の論文は問題意識も明瞭で、右の立場からも左の立場からも現実に使える政策や戦略を考えるヒントになる。

 大嶽氏の方法論と問題意識を要約するとおおむね次のようになろう。まず方法論としては、上述の田口氏の論文に見られるような、若干の例示によって支えられたアプリオリな先入見は、その例示自体を「検証」する事ができないため、こうした方法はできるだけ排除する。代わって、まず検証可能な法則を政治現象の中に見出し、それらの法則を説明するための理論を構築する。もちろん政治学の場合、自然科学ほどこれらの方法が万能というわけではないが、例えば、A・ダウンズの「民主主義の経済理論」に見られるように、現実の有権者の投票行動が教育レベル等々どんな要素に依存するのか多数の事例によって法則性を発見し、それを説明するのに「投票は自由市場における消費行動のごときもので、政治家は下水道の整備からイデオロギーまでの政策バスケットを販売する生産者のごときもの」との理論で説明するやりかたは、米国では既に一定の成果を収めている。

 ユニークなのは大嶽氏の問題意識で、日本の経済発展の中で従来の政治学が見落としてきた大企業の政治的権力という点に氏の問題意識がある。氏の論文「現代日本の政治権力経済権力」では、経済権力である企業がいかなる「資源」を用いて政治権力を行使し得るかを、欠陥自動車問題と日米繊維交渉というふたつのイシューのケーススタディを通じて実証分析される。僕も以前から日本における大企業の権力ということに関心があったので、大変興味深くこの論文を読んだ。

 これら最近の実証主義者たちに難点があるとすれば、ひとつは、多元主義に基づく実証が「利益団体」を抽象化しすぎ政治過程を「取引ゲーム」のようにとらえるあまり、「現実を全て容認する」陥穽に陥る恐れがあることだ。つまり実証主義は、政治の規範的側面が問われにくく、保守主義と直結しやすいという点だ。もうひとつは、実証主義が、科学的厳密性にこだわりすぎ、社会的需要を満たさない瑣末主義に陥りやすいことだ。その点、大嶽氏の論文は、問題意識の強さ(社会的需要に応えようとする意欲)と科学的厳密性とがうまく調和している。

 優秀な政治学者たちが、政治学における「啓蒙性」と「文芸性」に反発するあまり、問題意識の希薄な科学的厳密性の袋小路に入り込まないことを祈る。

(一九七九年六月二一日)