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丸山真男の陸羯南論

 

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 僕は丸山真男の思想的立場に一〇〇%のシンパシーを抱く者ではない。しかし、この人の「言葉だけではない主張の一貫性」「自らの政治的立場を明快に表明する潔さ」といった政治思想家としての誠実さや精神の貴族性には強く惹かれる。彼は共産主義とは最終的には折り合えない人だと思うが、保守勢力との対抗上、戦略的見地からの日本共産党への支持を明快に宣言したこともある。七〇年代に入って、彼は、時代の状況に対してほぼ完全に沈黙を守っているが、その沈黙は何を意図するのか。少なくとも彼の思想的一貫性や潔癖さと無縁ではない気がする。いずれにせよ、凡百の進歩派とはダイヤモンドと炭ほどの違いがある。殊に時流に乗った無責任な風見鶏である清水幾太郎などとは全く異なる存在だ。

 丸山氏が陸羯南に寄せる共感も、陸羯南の「自らの主義に対する徹底した節操」によるところが大きい。陸は明治中期のジャーナリストで、ナショナリズムとデモクラシーの統合を説いた人であった。当時、藩閥政府はじめ保守勢力はデモクラシーを時期尚早としナショナリズムを国民の拠り所にしようとしたのに対し、在野の民権論者たちは国際情勢を無視したひたすらのデモクラシー拡張を主張していた。これに対し、陸は、視野広く世界の状況を観察し、「後進民族の近代化運動が、外国勢力に対する国民的独立と内における国民的自由の確立という二重の課題を背負うことによって、デモクラシーとナショナリズムの結合を必然ならしめる歴史的論理を正確に把握していたのである。」(丸山「戦中と戦後の間」より)

 このように、論理としては、陸羯南の思想は民権派に比べてラディカルなものではなく、むしろ保守的であった。しかし陸の真骨頂は、主義に対する徹底した節操であった、と丸山氏は言う――

「注意せねばならぬことは、進歩的とか反動的とかいう規定は、ある人間が口でどういうことを唱えているかで定まるのではなくして、彼が実践の上でどこまでその主張を貫いたかということが大事なのである。
 口先では羯南より勇ましいことを叫んでいた民権論者は少なくなかったが、そういう連中は後には、仇敵のごとく罵っていた藩閥政治家と平気で手を握ってしまった。それに比べると羯南は抽象的理論で示された限りの進歩性はそのまま彼の現実問題に対する批判において保持された。『日本』新聞が伊藤、黒田、山県、松方、桂等の歴代藩閥内閣に対していかに果敢に抗争したかということは、それが明治二十二年より明治三十八年までの間に、合計三十一回、二百三十三日に及ぶ発行停止を喰っていることからも推察されよう。」(丸山「戦中と戦後の間」より)

丸山氏の思想家としての誠実さが、陸羯南の節操に強く共鳴しているいい文章だと思う。

 

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 陸羯南は、政治をどこまでも人民に基礎づけようとし、国民に基礎を置いた立憲君主制を唱えた。しかし、明治中期における「国民」とは一体何なのか。その時期において、全ての国民が本当に政治の主体者たり得たのだろうか。丸山氏も陸羯南の「国民」の概念の曖昧さを指摘されているが、もっとはっきり言えば「民度」が問われざるを得ないであろう。これは、明治中期だけの問題ではない。現代でも、政治的自由、経済的自由等々さまざまな「自由」は、それを行使する人間の「民度」「能力」が問題になる。

 「人民大衆」は万能の自由を欲するわけではない。なぜなら彼らは自由を「自由に」使いこなす能力を持たないからである。彼らは無限の自由が不安になる。ここに「自由からの逃走」が始まり、ナチスのような独裁政治を登場させることになる。まして個人的不自由が常態であった江戸時代から半世紀も経っていない頃の「国民」はいかに脆弱な存在であったことか。陸羯南はこのことに気づきながらデモクラシーを説いていたのだろうか。

 デモクラシーが救いがたいポピュリズムに転落する危険について、いくら強調しても強調しすぎることはないと僕は考える。

(一九七七年五月二六日)

 

 

丸山真男(一九一四年〜一九九八年)

戦後日本の代表的政治学者。戦中応召し、戦後間もなく発表した「超国家主義の論理と心理」でセンセーションを巻き起こす。戦後進歩派の偶像的存在。大学紛争直後に東大を退官し、以降、現実の政治状況については沈黙を保った。

 

〈参考にした文献〉

丸山真男「戦中と戦後の間」(みすず書房)