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長信銀伝説―友Yへの手紙

 

拝啓

 ごぶさたしているが元気でやっているか。

 小生は仕事の上では、新米融資担当者から中堅融資担当者へ着実に進歩を遂げていると思う。八月から二十三社の取引先を持たせてもらい、日夜折衝の日々である。我が担当先は資本金一〇〇億円以下の中堅・中小製造業がほとんどで、いずれも地味ではあるが「品質本位」の着実な会社である。

 近年日本経済のソフト化が言われ、ブランドやイメージ戦略といったことが企業の仕事の重要な部分を占めつつあるが、ブランドやイメージがマーケットを支配する社会というのは、自分独自の判断と趣味を持たぬ人々がマーケットを支配する社会であり、まぎれもない「下衆下郎」社会(言い換えれば大衆社会)である。そうした中で、小生の担当先のような、「商品価値」や「品質」を売り物にする堅実で良心的な会社は、多かれ少なかれ苦戦を強いられている。一日も早く「大衆」から一歩進んだ「新・中間階級」――即ち、マスコミ情報や企業広告を疑い、自分自身の価値判断と趣味を持つ人々――の形成が待たれる。そうでなければ日本に「文化」は育たず、後世の歴史家から、昭和後半の日本は野蛮な大衆時代であったという評価を受けざるを得ないであろう。

 銀行屋という商売の面白いところは、金融を通して、様々な規模・業種の企業のことを勉強できることだ。特に当行のような長信銀は、旧財閥系銀行と異なり、中立的立場が売り物なので、取引先企業とのつきあいも浅いが広く、各財閥の特徴などもよく見える。

 長信銀という制度は非常にユニークなものだ。純然たる民間銀行の形態をとりながら、ある程度国の産業政策に沿った設備資金の配分を戦略的に行なってきた。また、金融債の発行を通じて間接金融と直接金融の中間形態のファイナンス機能を営んでいる。米国式の資本市場(直接金融)が発達するまでの「つなぎ」と言ってしまえばそれまでだが、戦後の日本経済の中でうまく機能してきたことは事実である。先日も、小生担当先の某製壜(びん)メーカーが初めてスイス市場で外債を発行するというようなことがあったが、今後日本でも直接金融が主流になるとしたら、我々長信銀は、米国のインベストメント・バンクや英国のマーチャント・バンクのような存在に生まれ変わらねばならないだろう。

 当行にも、長信銀の良きカルチャーが存在している。それは、天下国家を論じ、人生を論じるような勉強家や個性派を許容し、尊重する企業文化のことである。入行と同時にスパルタ式の「訓練」の連続だという都市銀行の連中の悲鳴が時々聞こえてくる。小生のようなわがままな人間はとても都市銀行では勤まらないかもしれない。

 銀行屋は、やる気さえあれば、商取引の現場からのフィールドワークによって、経済論なり社会論なりを自分で作ることもできる。そういうことを考えず、ただ「日常業務に邁進」していては、「サラリーマンに堕する」ことになると思う。日本の多くのホワイトカラーは、インテリゲンツィア(プロレタリアの中での「自覚せる者」という意味での)たる自分を、永年に渡る実務生活の中で摩耗させてしまうことが多く、それが、現代日本において後世に残るような「文化」が生まれにくい原因の一つだと思う。

 貴君も公私共に多忙だと思うが、その後の様子など聞かせてほしい。また、正月にはK君らとも一緒に会おう。

(一九八三年一一月一三日)