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経済小国日本

 

 日本経済は、米国経済に引きずられ、またしても「輸出主導型」の景気回復の過程にあるようだ。なぜ「内需主導型」にならないのか? ――「合成の誤謬」がこの原因である。つまり、一つの企業にとって「減量経営」は、確かに業績回復の手だてとなろうが、「全ての」企業がこれを行うことにより、日本全体の内需の足を引っぱるという現象が起こっているためである。

 日本の企業社会は「合成の誤謬」を生じ易い社会である。どの企業も同業他社動向を気にした経営をし、「逆張り」の経営は少ない。自ずから景気も一方向へ流れやすい。これは、元を糾せば、日本という文明が、古代は中国の、近代は西洋の周辺文明であったことに起因する。日本は、自らが中心になってリーダーシップを発揮し、「流れを作り出す」経験に乏しい文明だったのである。

 リーダーシップの乏しさは、日本経済のいろいろな場面で観察することができる。金融の世界では、例えば、外国為替市場において、ニューヨーク市場やロンドン市場と比べて、東京市場の「主体的変動要因」が少ないこととか、スイス起債市場への日本企業の殺到によって、割高レート(いわゆるジャパン・レート)が出現したことなどに、日本の市場参加者や日本企業の主体性の無さが現れている。

 規模は大きくなっても、世界を主導する力がないという意味で、日本は依然として経済「大国」ではない。また、周辺文明という日本の性格は、五年、十年で変えられるものでもないだろう。その点を誤解した「大国」意識による経済政策の運営は、国を誤らせることになろう。もっと謙虚に、輸出洪水で相手国に迷惑をかけないことを考えるべきである。そして、十年後、二十年後に本当に必要とされる社会インフラとは何かをよく吟味し、そうしたインフラが整備されるように、内需拡大を誘導すべきである。いくら内需が必要であっても、公害や自然破壊や社会的ガラクタだけが残るような内需拡大や経済成長は不可である。

(一九八三年一二月二一日)