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豊かさの中の不安

 

 NHK放送記念日特集「日本の自画像・NHKスペシャルの中の二〇年―豊かさの中の不安―」を見た。今日の豊かな日本における「不安」を分析した番組。立花隆氏と山田太一氏の解説が、押し付けがましくなく、かつ、正義漢ぶった定式見解に陥らず、人間的であった。

 例えば、「仕事のしすぎ」「企業戦士」の問題については、山田氏曰く

「ゆとりとか家庭とか言われるようになると、今度はまた一定の基準を満たさなければいけない、という方向に行きがちだ。しかし、結局は個人個人が『今の流れ』に追随するのではなく、仕事が楽しければ仕事をする、で良いではないか。要は『一般的尺度』なるものに合わせようとすることが病理であって、ライフスタイルは一(いつ)に個人で考えるものだ。」

 また、老人問題、老後をどう生きるかの問題では、立花氏曰く

「インターネットは、まさに、老人が人間関係を広げる楽しみを作る手段として最適だ。地方自治体は、これを老人が使えるようにしてあげればよい。」

 同じテーマにつき、山田氏曰く

「老いや死は、単に忌み嫌うべきものなのか? 老いの楽しみというものもあるし、死は安らぎであり喜ばしいものという考えもある。」

 バッハの絶筆となったコラールが、「汝の御座(みくら)の前に我はいま進み出で」であったように、死が神の国への旅立ちであり魂の安らぎであるというのは、多くの優れた宗教家に共通の感性である。両人のコメントはいずれも、良い意味での楽天性とバランスに富んだ言葉だ。


 豊かな国日本でのこれら「不安」は、生活に対しての人々の要求水準が昔と比べて格段に高くなったことにも原因があると僕は思う。明日の食うものにも困る時代にあっては、「仕事のしすぎ」や「老後をどう生きるか」で悩む人はいなかった。つまり、世の中が悪くなったからこうした不安が生じたのではなく、世の中が良くなったから、人々の人生や社会への要求がより高度になったから生じたのだ。従って、こうした「不安」があることを悲観的に考える必要はない。世の中の発展の過程で必然的に生じることなのだ。

 もうひとつ、これら「不安」はマスコミによって捏造されている部分がある。不安を煽るのはマスコミ固有の仕事である。「今日も一日平穏無事な日でした」ではニュースにならない。何とか人の末梢神経を刺激するネタを探すのがマスコミの仕事であって、始めから、マスコミが世の中のことを正確に伝えるなどということを期待してはいけない。単身赴任の悲劇だの過労死だの、様々なもっともらしい事例を、これでもか、これでもかと見せ付けられれば、なるほど、働きすぎは現代日本の病理だと、自分を振り返って「不安」になったり、自分の生活スタイルに自信がなくなったりする。しかし、いくら事例を重ねたところで、日本人のほんの一部のことでしかない。報道されない、普通の暮らしをしている人が常に圧倒的に多いという単純な事実を思い出すべきだ。しかもそうした事例は、意図的に、始めから決まった結論を傍証するために、その結論に都合のいいものだけを集めたのかも知れない。

 例えばこんな例がある。最近マスコミに「熟年離婚、定年離婚が増えており、その多くは、それまで会社に縛られてきた夫に妻が愛想を尽かし、子育てが終わった時点で妻から言い出して離婚する形である。」というような記事が出て、決まってこれら働きすぎの夫は「濡れ落ち葉」と揶揄される。ところが、何十組もの熟年離婚を調べた或る作家によれば、実際は、夫が愛人のもとに走ったとか、新興宗教に熱を入れた妻を夫が見限ったとか、妻の浪費癖に夫が耐えかねた、というように夫が離婚を主導するケースが多いそうである。妻から離婚を切り出す場合も、強烈なエゴイズムや暴力を家庭内にまきちらす夫に我慢できず妻が飛び出すといった古典的なケースが殆どで、とてもマスコミが期待するような「自立した」妻が「濡れ落ち葉」の夫にさっそうと三下り半を叩き付けるというような話ではない、という。これなど、結論始めにありきの典型例で、その結論を満足させるごく希な事例を無理矢理取り上げたというのが実態だろう。


 マスコミに登場する「今の流れ」なるものが、作られたもの、実態に乏しいものではないか、疑ってみるべきである。そして過度に悲観的にならず、自分自身の感性を信頼して自分自身で考えることだ。再び山田氏の言葉を引用しよう。

「仕事が楽しければ仕事をする、で良いではないか。」

「ライフスタイルは一(いつ)に個人で考えるものだ。」

改めて我も言わん「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属す」と。

(一九九六年三月二一日)