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企業とは何か

 

 戦後の日本は、経済の発展に最も重心をかけて来た。大多数の日本人が企業で働くようになった。企業とは一体日本にとって何なのか。僕は、戦後日本の企業、自分が現に今そこで働き、生きる糧を得ている企業のことを考えると、いつもアンビバレントな思いにとらわれる。


 始めに「企業と共に生きることに生きがいを投じてきた日本人」の健気な生きる姿が僕の胸中に去来する。松下、ソニー神話に代表される企業家たちの高い志と創造性、従業員の勤勉さと創意工夫、それら労使の協同が作り出す経済発展…。それは、世界の資本主義の歴史に記されるべき輝かしい成果だ。シュンペーターの創造的破壊が典型的に実現された事例としても、後世の歴史家に語られるだろう。第二次大戦直後、保有資源や市場規模からみて、発展の可能性が高いと言われたラテンアメリカ諸国のその後の停滞を考えると、日本の成功がいかに「奇跡的」だったかわかる。

 ラテンアメリカ諸国と日本の違いはどこから生じたか。経済学的分析はいろいろ可能だと思うが、僕は結局エトスの差、モラルの差(言い換えれば真面目に生きようとする姿勢の差)に帰着すると思う。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の向こうを張って、山本七平氏が「日本資本主義の精神」の中で、労働や商売に対する日本人のモラルの源泉を、江戸時代の鈴木正三や石田梅岩の思想に見出しているのは、たいへん面白い。

 日本は借金返済に関するモラルでも世界の見本である。東海道新幹線を作る時、日本には資本がなく、世界銀行からの三〇年の借款でこれを賄った。その後の資本蓄積、外貨準備の潤沢さから考えればさっさと期限前に返してしまってもよさそうだが、なんと日本は律義に当初約定したスケジュールに寸分違わず返済を続けているのである。金融機関にとっては、金が返ってこないのは一番困るが、返せるからといって優良企業にどんどん期限前に金を返されても困るのであって、約定どおり返してくれる借り手が一番ありがたいのである。その点でも本当に日本は優等生である。ラテンアメリカ諸国やアフリカ諸国で、国際協調融資の返済猶予を繰り返す国があり、返せなくて申し訳なさそうな素振りも見せず、堂々と開き直っているのには腹が立つことがあるが、要は、彼らには日本人のような借金は返さなければいけないというモラルが希薄なのだ。梅棹忠夫氏がこうしたカントリーリスクの判断について「何故銀行家は文化人類学者に意見を聞かないのか不思議だ」と述べておられるのは至言だ。その国のエトスを知らずして経済統計ばかり眺めていても、貸した金が返ってくるかどうかわからないということだ。

 日本企業の海外進出の歴史は、英米と比較すればまだ始まって間もないが、日本型経営手法の世界的な普遍性も、現地雇用への貢献とともに、日本企業の誇るべき成果だ。特に自動車産業において、強すぎる労働組合や短期的利益主義の経営等が原因で八〇年代に衰弱の危機にあった米国の自動車各社が、トヨタ式の生産方式を導入することで立ち直りつつあるのは、特筆すべき出来事である。


 さて、次に僕の頭に思い浮かぶのは、現在この名古屋の地で銀行の営業課長としてお付き合いいただいている取引先企業たちのことだ。我が愛しき担当先の多くが典型的名古屋の中堅企業たちで、バブルや財テクに同ぜず、堅実に本業に邁進し我が道を行っている。各金融機関の名古屋支店というのは、一部の都市銀行を除けば全国で最も不良債権の少ない支店ではないだろうか。

 当地区は何と言ってもメーカー中心の地域で、戦後日本の企業の行き方を最も忠実に反映している。僕の世代は既に相当「ソフト化」経済に毒されているが、我が高校の同級生で当地区のメーカーに就職した男などは「物を作らない仕事が仕事と言えるのか」と今でも言う。その言やよし、である。


 以上見たのは、世界の規範ともなり得る日本の企業の「陽」の部分であるが、次に、その「影」の部分も僕の視野に入って来ざるを得ない。

 始めに、社会の中で企業があまりに大きな力になってしまっているのではないか、という疑念。

 僕の出身地は愛知県豊田市である。典型的企業城下町で、人々の生活はトヨタ自動車に依存している。僕は高校生の頃、人々がこれほど生活の全て、人生の大部分を一企業に依存していいのかという、漠然とした疑問が頭から離れなかった。

 豊田市のルーツは伝統ある「挙母(ころも)」の町である。最近、自転車で、挙母の町の祖形ともいうべき旧城下町地域を巡ってみた。そこには、松江、島原など、僕がかつて訪ねたどこの城下町にも共通の「静謐」があった。企業はその城下町の市名まで変える影響力を持ち、人々を「揺りかごから墓場まで」取り込んでいる。たとえ企業が善意で従業員や地域社会の面倒を見ているとしても、その影響力が大きすぎ、地域社会があまりにそれに依存しているのは、昔からの地域の伝統や人間の多様な生き方を重視する立場からは疑問を呈さざるを得ない。


 次の負の側面は、企業内部のヒエラルキーの重みから生ずる人間性の歪みの問題。権力者への非人間的追従や派閥争いなど、組織人の悲喜劇はどんな企業にも絶えない。銀行も例外ではなく、横田濱夫氏の「はみ出し銀行マン」シリーズに、やや誇張された形で銀行における人間性の歪曲の姿が描かれている。幸い、我が銀行は人間関係はかなりリベラルで、その企業文化は相応に評価されて良いと思う。都市銀行の非人間的締め付けはここには無い。また、若手・中堅層が大切にされ、大きな仕事を任されることが多く、若い人にとっては張り合いのある職場ではないかと思う。少なくとも僕は、一〇年以上勤めてきて、人間関係のストレスで苦しんだことは殆ど無い。

 尤も、企業のヒエラルキーの問題は、現代日本特有の問題ではなく、古今東西のあらゆる組織に必ず存在する、いわば集団生活を営む動物たる人間の宿命である。アメリカでも、映画「アパートの鍵貸します」の中で、上司の浮気に自分の部屋を提供させられるサラリーマンが描かれているように、組織には常に非人間性が潜んでいる。


 そして最後に、僕にとって最も厄介な問題に行き着く。それは、企業が大衆の欲望を「依存効果」で煽り立てる存在であることだ。豊かな社会では、生産能力を吸収するに足るだけの十分な欲望をどうやって作り出すかという問題が生ずる。欲望が生産に依存して作り出されることをガルブレイスは「依存効果」と呼んだ。本来長期耐久実用品である自動車を、わざわざ三、四年で買い換えさせるために宣伝広告で消費者を誘導する自動車メーカーが、地球に優しいクルマ作りなどという広告を出しているのを見ると、「偽善」とはこのことだと子供たちに教えたくなる。

 企業はまた、文化、伝統、自然の破壊者であり、泡沫的な「ブーム」の作り手、軽薄で空虚な「産業至上主義」の担い手である。「あの臭いコーラのせいで茶の味や香りがわからなくなった日本人がなんと多いことか」という立原正秋の言葉に僕は共鳴する。おまけ付きハンバーグの虜にされている子供に、魚のおいしさを教えるのは大変難しい。僕は或る不動産開発業者から、開発予定地から遺跡が出て来はしないか心配しているという話を聞いて、これこそ「産業至上主義」の悪だと強く感じた。遺跡は貴重な文化遺産であり、遺跡が発見され、祖先の生活の営みが明らかになることは一国民として大いに喜ぶべきことなのに、この業者は、遺跡発掘に伴うよけいな開発コストがかかる事だけを気に病むのである。

 人間が古典や歴史を尊重し、自然や伝統と共に生きる価値観を人々から奪い去るのが企業である。


 僕は学生の頃、企業の力を減殺する対抗勢力を社会の中でつくれないだろうか、というようなことを考えた時期がある。しかし、現実の社会の中では企業こそが日本の活力になっていることもまた否定できず、企業活力を削ぐべきではないとも思う。むしろ今は、企業自身を文化、伝統、自然の擁護者にするにはどうしたらいいのか、また、人材がビジネスの世界に吸収されすぎている現状を変えて、政治や文化や科学や教育の領域にもっと多くの優秀な人材が流れるようにするにはどうしたらいいのかを長期的、戦略的に考えるべきだと思っている。

(一九九三年八月七日)