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近年の金融問題について―「構想日本」加藤氏への手紙

 

「構想日本(JI)」代表 加藤秀樹様

 

拝啓

 先日は、JI新年会にお招きいただきありがとうございました。政治家(を志す人も含め)、官僚、学者、各種シンクタンクの人、事業家、環境問題に関心を持つ人、ジャーナリスト、金融界の人等々、実に多様な方面の方が集まっていたこと、そしてそれぞれの人が、独立不羈というか、境遇の如何によらずたくましく「個」としてものを考えている姿に大いに刺激されました。

 その知的興奮がさめやらぬうちに、たいへん僭越ながら、小生が「構想日本」のこれまでの活動(それほど詳細に存じ上げているわけではありませんが、先般加藤代表からお聞きした話やマッキンゼーのU氏から聞いた話、新聞雑誌の記事で知る限りでの)、今後の方向性、課題について考えたこと、また昨今の金融をめぐる諸問題について考えていることを申し述べさせていただきたいと思い、筆を(パソコンを?)とった次第です。

 

JIの活動、方向性、今後の課題について

 まずはじめに、「どんな政策や改革を実施するにせよ、どういう日本にしたいのかという目標がなければならない」との発想に大いに我が意を得たりと感じました。特に今のコンフィデンスクライシス状況の日本には二一世紀に生きるためのグランドデザイン(人々が生きて行くための夢や希望の姿といってもよい)が必要とされていると思います。

 加藤代表が言っておられる「持続可能な発展」や「低コスト高満足社会」といったスローガンは、日本人の伝統的な生き方や価値観に照らしても、説き方によってはたいへん魅力的で受け入れやすいものだと思います。江戸の街の糞尿リサイクルは来日した外国人の目から見ても驚異的なエネルギー効率でしたし、町火消しや消防団の活動は公の仕事を民間が行う低コストでしかも自分たちも誇り高い、まさにNPOだったわけです。

 ただし、「持続可能な発展」や「低コスト高満足社会」といった言葉は大変難しく響くのです。グランドデザインは大衆受けすることが極めて重要です。、小乗仏教でなく、大乗仏教たるべきで、イギリス自由党の如く「正論は言うが大衆に向かって説こうとしない」ため衰退してしまった政党のようになってはいけないと思います(私見では大前研一氏や田中直樹氏の言葉も大衆には難しすぎます)。

 グランドデザインについてのもう一つの問題は、本来レベルの高い市民の素養を持つべき多くの高学歴者が、大企業組織や官庁組織に組み込まれてその中で生きがいを充足させてしまっていることです。日本のグランドデザインといったテーマにいかにこの層の目を向かせるかも重要な戦略課題かと思料します。いずれにせよ、日本人のアイデンティティに合致するような二一世紀の夢や生活イメージを「演出」するのもシンクタンクの重要な使命であると考えます。

 JIの課題の二番目は、大きな枠組みや理想を現実のものとしてゆくための個別の政策ないし法律・条例をいかに具現してゆくかという点です。JIがこれまで出した、NPO法案(条例案)、道路特定財源の環境税化の提案、内閣機能強化の提言等は、どれも時宜を得た、かつ、「持続可能な発展」や「低コスト高満足社会」といったスローガンの実現のための具体的施策としてすばらしいと思います。おそらくこのような具体的施策については、JIの専属調査スタッフ以外にもネットワークの中から様々な知恵やアイディアが出てくることでしょう(具体的政策について小生にアイディアがあるわけではありませんが、金融の分野については、後程若干の提言を試みたいと思っています)。

 そこで問題は、政策を具現する政治家探しということになるのでしょう。「政策を競う」風土が欠如している日本の政治社会の中で、道路族や郵政族等の各種圧力団体に対抗してでも有意な政策を実現しようという強い信念を持った「人材」をいかにキャッチするか(もう既に高知県の橋本知事等をつかまえておられるようですが…)。

 政策シンクタンクの評価は、提案した施策案を、政治や行政がどれだけとりあげたかにかかってくると思われます。道路特定財源の環境税化の提案などは最も有意な施策でありながら、これに反対する「利益のトライアングル」も強大であり、実現が最も困難な施策のように思われます。道路族の反対を押し切るための対抗勢力の組成が必要になるでしょう(尤もこれはシンクタンクの役回りを超えているのかもしれませんが)。政治家等外部との折衝を担当する専属の渉外スタッフの充実を考える必要があるかも知れません。

 最後に三番目の課題として、早期に法人成り(もちろんNPOとしての)して、財政基盤を拡充、安定化させることがあげられます。それにしても米国の百万を超すNPOはいったいどのように財政を賄っているのでしょうか?

 

近年の金融問題について

 日本の二一世紀に生きるためのグランドデザイン(人々が生きて行くための夢や希望の姿といってもよい)を考えるということは、金融の側面から言えば、これまでに貯えてきた国富をどう守り、どう生かすかという課題になるわけです。つまり、「資産国家」としてのストーリーを描くということです。

 まず国富を「守る」見地から何が必要か考えてみたいと思います。小生は最近つくづく米国の金融世界支配に対して、我が国がこれまで培ってきた国富なり対外資産なりをいかに守るか考えることが重要になってきていると感じています。つまり「金融安全保障」の問題です。

 八〇年代後半の円高、九〇年代初頭のバブル崩壊、そして今般九〇年代末のゆるやかな金融恐慌は、ホワイトハウスの冷徹な利害計算と無関係であるはずはありません。ヘッジファンドやムーディーズ等の格付機関の動きとホワイトハウスの意図は全く無関係といえるでしょうか。

 もちろん小生は反米主義者でも嫌米主義者でもなく、外交的には日本のとるべき方針は対米協調であると考えます。また、銀行でデリバティブを担当する立場からは、米国流の金融・証券理論がいかにグローバル・スタンダードとしてふさわしいものか、身にしみてわかっているつもりです。

 しかし、冷徹な国際政治経済の現実に疎い、お人好しの馬鹿旦那のような今の日本では、同盟者からも見放されるのではないでしょうか。言うべき事はきちんと言い、守るべき自分のカネは自分で守る気概がなければそもそも同盟は成り立たないでしょう。

 今後日本が一二〇〇兆円の個人資産を守ってゆくには、きちんとした米国へのバーゲニングパワーを持っておく必要があると考えます。ただしいたずらに米国市場を混乱させるようなことは避けなければなりません。その意味で、某首相が米国債を売りたい誘惑にかられたと発言したりするのも決して良いやりかたとはいえません(売るならこっそりと売るべきでしょう)。

 小生が考えるバーゲニングパワーは六点ほどあります。第一は外貨準備の運用を米国債に偏らせず、金(きん)やドイツ国債、アジア諸国の政府債券等、十分に銘柄、通貨のリスク分散を図っておくことです。

 第二は米国との債権債務の関係があまりに偏っていることから、これを是正する目的で、米国の機関投資家や個人投資家にもっと日本国債や日本株を保有してもらえるように商品の魅力を高めることです。対日直接投資はもっともっと優遇してもいいでしょう。

 第三は第二と同じ目的で「ハシモトボンド」を発行することです。つまりヤンキー市場で政府がドル建日本国債を思いきって一〇〇億ドル程度発行するのです。発行条件次第では米国投資家が相当購入し、その結果日本と米国の債権債務関係の偏りも是正されるものと期待されます。日本国政府の信用で調達したそのドルを主要邦銀との間で通貨スワップを組んで円に換えれば、邦銀の外貨資金繰りも一気に好転しジャパンプレミアムも解消するという副次的な効果も期待できます。現在日本の資産運用はあまりにドルと米国に依存しすぎています。米国が必ずしも「良き借り手」ではないことを認識して債権者(資金の貸し手)としての基本的なリスクヘッジをしておくべきです。

 第四はなかなか米国がいい顔をしないかもしれませんが、アジア円通貨圏の構築です。すでに実物経済では、アジアは日本の多国籍企業の国際分業拠点になっており、これらの国々の決済がドルを基軸に行われているのはいかにも不自然ですし、各国にとってもリスクが大きいといえます(今般のアジア通貨危機の原因の一端もまさにここにあります)。アジアでもっと円が流通し、アジア各国が外貨準備としてもっと円を保有するようになれば円の価値もより安定したものになるでしょう。

 第五は日本の個々の金融機関が海外戦略をもっと主体的に見直すことです。日本の金融機関の国際業務には戦略性が欠如していることが多く、現地では地元経済に溶け込まず、単なるローンや債券の買い手、つまり機関投資家であることが多いのです。もはやこうした資金は日本国内に戻すべきでしょう。

 第六に、「国益」の見地からの官民協調です。もちろん従来のような大蔵省主導の金融体制は維持できるはずもなく、官民のビジネス上の癒着はなくす方向にもっていかなければなりませんが、個々の金融機関が自由化の中で創造的な業務を展開しつつも、金融に関わる国益や危機管理といった事柄については官民の認識を共通にしておき、いざという時に機動的かつ一体として動けるようにしておく必要があると思います。

 以上が「金融安全保障」ないし「国富を守る」問題です。次に「国富を生かす」観点から何をなすべきか考えてみたいと思います。

 加藤代表も経済至上主義からの脱却を説いておられますが、小生も満腔から賛成です。日本はやはり文化国家へと進んでゆくべきだと思います。科学技術、文化芸術(そこには日本の得意なゲーム、コンピューターグラフィックス、アニメ等のメディア芸術も含まれるでしょう)で人類に何を残せるか、そのためにどのように金融資産を使うかを考えるべきだと思います。日本が、世界の芸術や学問のよきパトロン、旦那になることが目標であってもよいのではないでしょうか。

 現状は、あまりに多くの人材がビジネスの世界に吸収されています。教育体系、価値体系を変えて行く必要があります。自国の歴史や伝統を蔑まない、文化というものにもっとセンシティブな人間を育てる教育が必要と考えます(その意味で西尾幹二氏や藤岡信勝氏らの「新しい歴史教科書をつくる会」の活動は、ややドンキホーテ的ではありますが小生は大いに関心を持って見ています)。

 

金融問題についての補論

  1. 「資本主義対資本主義」の問題

 米国の金融・証券理論が、「資本主義=株主利益の極大化、市場経済至上」の前提から出発し、今や思想的にはグローバルスタンダードになっています。一方、日本やドイツの資本主義は、株主の地位を一利害関係者に後退させ、株主、従業員、消費者、下請け、経営者、債権者等々の利害関係者(ステークホルダー)の長期利益パレート最適化を目標とする「ステークホルダー資本主義」の論理で動いています。しかし、日本やドイツは、ステークホルダー資本主義の立場からの有効なファイナンス理論を構築できず、ドイツ資本主義の権化のような存在であったドイツ銀行ですら、モルガングレンフェルを傘下に収めて米国型インベストメントバンク化を急いでいます。あたかも英語が国際語としてスタンダードになったのと同様に、国際金融の世界では米国流儀がスタンダードになることは間違いありません。

 しかし、ステークホルダー資本主義は、長期的に見れば、ひとつの資本主義のありかたとして十分意味があるのではないかと思います。経済学者には、ぜひドイツ・日本型資本主義の「理論化・モデル化」を図ってほしいと思います。また、加藤代表が言っておられる地球環境を視野に入れた金融理論を展開する場合にも、ステークホルダー資本主義の立場からのファイナンス理論の方が組み立てが容易ではないかと直感的には思われます。

 これと関連して、近年の「規制緩和」論や「構造改革」論については、「各論」を大いに議論すべきであって、大上段に米国流資本主義を全面的に取り入れるべきだというような粗雑な「総論」は避けるべきだと考えます。ステークホルダー資本主義の良い点は相応に評価すればよいと思います。小生は、大文字「構造改革」論者より、自らの社会・経済を決して蔑むことなく、むしろ自らの社会・経済を守るために、時代の変化に応じて必要な各論の改革を具体的に進めている良心的な政治・行政実務家に与するものです。

 

2. 「市場」への行政・通貨当局の対応

 現在、行政・通貨当局の抱える問題として、一で述べた国際金融の市場化への対応の遅れから、市場からの信認が十分得られていないことが挙げられます。市場経済においては行政・通貨当局も外野からの監督者としてだけでなく、市場の中の一プレイヤーとしての役回りも演じざるを得ません。市場実務に長けた人材を早急に手当てする必要があるでしょう。

 すでに何人かの行政・通貨当局の若手職員が民間金融機関に長期の研修に出たりしているようですが、もっともっと民間との交流をして市場の臨場感をつかんでほしいものだと思います。特に米国スタンダードが貫徹しているデリバティブの市場はぜひ見るべきです。

 

3. 「政治、行政のリーダーシップによる切開手術」がグローバル・スタンダード

 昨今の大手金融機関や大手企業の破綻は、健全な中小企業の資金繰りにまで甚大な影響を及ぼしています。大型破綻が続いたことで、金融機関相互の信頼関係、金融機関と企業や預金者との間の信頼関係、そして国民相互の信頼関係が著しく傷つけられています。「民、信無くんば立たず」は真理だと思います。

 「効率の悪い金融機関、企業は市場原理に委ねて整理淘汰されるべき」との議論も、こうした国民の相互信頼が揺るがない範囲で行うべきです。よく引き合いに出される米国でも、あまりに社会的影響が大きい場合は決して「市場原理」に任せて「自主廃業」や「自己破産」に追い込んだりしていません。政治と行政の強力なリーダーシップによって、不良部分を切開し(必要に応じ税金等も投入)、旧経営陣を辞めさせて、残りを他社に合併させる等の処理を行っているのです。国民の相互信頼が崩壊しかねないような緊急事態を市場原理に委ねて傍観するのは政治、行政の無責任です。その意味で、最も限界的な存在である農林系金融機関に公的資金を投入して救済し、北海道の地域経済に大きな影響力を持つ拓銀を破綻させたのは、明らかに失政です。

 その間、国民相互の信頼や真の国益を考える誠意もなく、恐いもの見たさの大衆の好奇心を背景に、一見もっともらしい市場原理を唱えるだけの無責任な学者、評論家はまさしくデマゴーグそのものでしょう。

 大手金融機関や大企業が整理されるべき時は、政治、行政のリーダーシップで「中身の入替え、旧経営者の明確な引責、その上での引受け先の確保等の処理」がグローバル・スタンダードなのです。勿論その間に経営者等に法的不正があれば厳しく処分されるべきことは言うまでもありません。

 

4. 金融機関の経営者の「経営の失敗」に対する責任のとり方

 それにしても、金融危機がここまで広がり、大手金融機関まで破綻してしまった原因の一つに、小生は、金融機関経営者の「経営の失敗」に対する責任のとり方の問題があると思います。

 バブルの発生とその崩壊の原因の一端は明らかに、銀行の与信判断の誤り、証券会社の株価判断の誤り、機関投資家の投資判断の誤りにあったわけで、金融機関の社会的使命が、製造業やサービス業といった諸産業が生んだ付加価値を最終的に金融資産の形で預かり、その価値を減耗させず安定的に増大させることにあるとすれば、バブルの発生と崩壊によって国民の富を逸失させた社会的責任は大きいと思います。

 にも拘らず、破綻や不祥事のあった場合以外は、金融機関経営者で男らしく経営の失敗の責任を言明した人はひとりもいないのではないでしょうか。誰かひとりくらい「敗軍の将兵を語る」に寄稿するとか、失敗についての手記でも出版するとかで、せめて後世の歴史家の役に立とうという全うな発想の持ち主はいないのでしょうか。加藤代表もおっしゃるように、エリートとは、確乎とした歴史観、世界観を持ち、結果に対して毅然と責任をとる存在であるとすれば、日本の金融機関経営者の中には真のエリートはいなかったのか、と嘆ぜざるを得ません。

 こんな体たらくだから、無責任な学者、評論家の跋扈を許し、ついには拓銀や山一證券といった犠牲の牛を出さざるを得なくなったのです。日本の大衆は、経営の失敗それ自体にはさほど厳しい目は向けないと思います。しかし、結果に対して頬かむりすること、潔さの無さ、男らしさの無さといったことには極めて手厳しい人たちです。無責任なマスコミの言説の背景にはこうした大衆の怒りがあることを知るべきです(小生も一従業員として銀行に身を置きバブル時代を経験した者として、素直に申し訳ないという気持ちを持ちたいと思います)。

 

5. 「国益」への国民の意思統一の弱さ

 現代の日本人ほど、民族としては同一性が強いにもかかわらず、「国益」に対する共通の認識、意思統一が乏しい民族はないと思います。湾岸戦争への対応や金融危機に際してのとるべき処方について、これほど国論が分裂する国民は珍しいのではないでしょうか。その点、多様な民族を抱えながらも、米国の「国益」に対する国民の統合力は目覚しいものがあります(ヴェトナム戦争は例外)。

 今後ますます困難が増し、国としての決断を迫られる局面が増えると思われる国際状況を考えると、ここでも指導力ある真のエリート育成が求められています。

 

 以上、あれこれ雑駁な議論ばかりして恐縮です。最後まで読んでいただいてありがとうございました。小生としては、加藤代表のような中長期のヴィジョンを持ったエスタブリッシュメントが設立した日本初の政策シンクタンクの活動には大いに期待しておりますし、小生で何かお手伝いできることがあれば、何なりとおっしゃってください。

敬具

 

(一九九八年一月二一日)

 

〈参考にした文献〉

 大野克人「金融常識革命」(金融財政事情研究会)