次の文章へ進む
前の文章へ戻る
「古典派からのメッセージ」目次へ戻る
表紙へ戻る

「グローバル・スタンダード」とのつきあい方

―米系投資銀行に転じた友への手紙―

 

 S君、転身以来一ヶ月たとうとしていますが、お元気ですか。僕と同い年の君が、四十歳を過ぎて敢えて新しい競争場裏へ参入したことに、まずは心から敬意を表します。新設日本法人のマネージング・ダイレクターという重責を担う君の苦労が思いやられます。今の様子などをできるだけ早く知らせて下さい。

 さて、君が都市銀行からアメリカ系インベストメント・バンクへ移った背景には、バツイチの独身の身軽さという個人的理由の他、総会屋との腐れ縁や、不良債権処理や経理処理の不透明さに象徴される邦銀全体のあり方に対しての不満と、そして何よりも、邦銀経営者の「経営の失敗」に対する責任のとり方への憤りがありましたね。君の主張は、「バブルの発生と崩壊の原因の一端は、明らかに金融機関の経営の誤りにあった。にも拘らず、破綻や不祥事のあった場合以外は、金融機関経営者で男らしく経営の失敗の責任を言明した人はひとりもいない。エリートとは結果に対して責任をとる存在であるとすれば、日本の金融機関経営者の中に真のエリートはいなかったのか。」という、金融機関に身を置く人間としての良心が発する切実な声であったと思います。そして、ついに君は、「グローバル・スタンダード」の貫徹する世界で働きたい、と言って去って行ったのでした。

 邦銀に身を置く者として、僕には、金融機関の国民経済への責任論や君が良き生き方を求める真剣さは痛いほどわかります。しかし僕は、君が言った「グローバル・スタンダード」なる言葉がどうも頭に引っかかっているのです。その言葉を何か理想的な意味としては受け止めることはできないのです。きょうは、この「グローバル・スタンダード」が、我々金融機関にとって、或いは日本の社会・経済にとってどういう意味を持つのか、我々はこれとどうつきあえばいいのか、といった問題について考えたことを君に伝えたいと思い、筆をとった次第です。

 

T グローバル・スタンダードの意味

〈アメリカ標準の拡大〉

 最近二年ほどの「グローバル・スタンダード」は、「市場主義」とともに、まるで水戸黄門の印篭のごとき存在となっています。あたかも英語が国際語としてスタンダードになったのと同様に、国際金融の世界ではアメリカ流儀がスタンダードになっています。

 しかし、考えるに、言われるところのグローバル・スタンダードとは、共産主義経済の崩壊により、アメリカの政治、経済力の地球上でのプレゼンスが高まってきたことに伴う、経済・金融分野における事実上の「世界標準」にすぎません。それは、アメリカの国益に基づいて推進されている「世界標準」であって、人類の理想としての「世界標準」、即ち、「どんな民族にも共通な価値観から成り立ち、機会の均等と公正で活力ある競争をもたらす経済、社会における諸ルール、諸基準」などではないのです。グローバル・スタンダードに従えばユートピアを実現できる訳ではないのです。真に国益や国民経済のことを考える人であれば、国際政治のこの冷徹な現実を見抜き、自国に固有の文化を自覚して、この事実上の「世界標準」から長所のみを取り入れ、短所は捨てる主体性と賢明さと慎重さを持つはずです。

〈資本主義対資本主義〉

 人を、経済学者が理論を組み立てるために仮定する「ホモ・エコノミカス」というような抽象的な存在と見ることに、僕は大きな違和感があります。人は、単なる労働力という「生産要素」でもなければ、単なる「消費者」でもありません。人は、固有の文明の中で生まれ育ち、その固有の社会に人生の喜怒哀楽を託すのです。

 日本におけるグローバル・スタンダード礼賛者は、このことに対する感受性が欠如しています。ナショナルなものを基盤としないインターナショナリズムは、世界の大勢の上に安易に乗った対外依存に過ぎません。日本人が国際的に評価されている分野は、全て日本独自の感性に裏付けられたものなのです。

 そもそも、抽象化された西洋を基準に、これと異なることを「歪み」「遅れ」と見る見方は、自文明に対して自己卑下と皮肉な考えを助長するだけで、未来に対する何の展望も生みません。近代化に無限の可能性があるなら、西洋の近代化はその一つにすぎず、日本やその他の文明には、それぞれの近代化のパターンやコースがあり得ます。全ては独自のものになるはずです。なぜなら、文明はそれぞれ個性を持ち、独自性を持っているからです。

 資本主義のあり方も、文明の固有性を反映して様々なバリエーションがあります。例えば、アメリカの資本主義と日本やドイツの資本主義との相違は、「資本主義対資本主義」として議論されてきました。アメリカの資本主義が「株主利益の極大化を目的とする」との前提から出発するのに対し、日本やドイツの資本主義は、株主の地位を一利害関係者に後退させ、株主、従業員、下請け、経営者、債権者等々の利害関係者(ステークホルダー)の長期利益パレート最適化を目標とする「ステークホルダー資本主義」の論理で動いています。現状、日本やドイツの流儀は、実際の経済パフォーマンスの悪さを反映して極めて分が悪くなっていますが、ステークホルダー資本主義は、長期的に見れば、ひとつの資本主義のありかたとして十分意味があると思います。経済学者には、これまでのような、アメリカの現実を背景にした理論を日本に適用できるかどうかの研究だけでなく、ドイツ・日本型資本主義の「理論化・モデル化」を図り、これがアメリカにも妥当するか否かの研究をしてほしいと思います。ドイツ・日本型資本主義の普遍性は充分立証できるはずです。

 

U グローバル・スタンダードの取捨選択

〈保守主義の原則〉

 アメリカ主導であれ何であれ、事実上のグローバル・スタンダードが存在する限り、それとどうつきあうかを次に考えなければなりません。日本の独自性とアングロサクソン標準の折り合いをどのようにつけるか、の問題です。

 僕の結論は、ファイナンス理論に基づいた技術に還元できる合理的手法は、良きグローバル・スタンダードとして積極的に取り入れるべきだが、その他、特に技術に還元できない文化や人間の生き方に係わることは、主体性を持って相当慎重に取捨選択すべきだ、というものです。「いつもながらの良き保守主義者だ」と言う君の苦笑が目に浮かびますが、安易に外来文化を吸収しがちな日本にあっては異端に見える古典主義者、保守主義者も、ヨーロッパや中国ではむしろ「世界標準」のあり方なのだ、とだけ反駁しておきましょう。

〈デリバティブの合理性〉

 ではまず、経理処理、リスク管理手法、ファイナンス理論の合理性については、積極的に取り入れるべきだ、との僕の論拠を述べてみます。銀行でデリバティブを担当する僕の立場からは、アメリカ流の金融・証券理論がいかに技術として一貫性のある優れた方法か、身にしみてわかるのです。デリバティブは、市場を合理化する力を持っています。

 例えば日本の貸出市場への金利スワップのインパクトは大きなものでした。従来の長期プライムレートを唯一の指標としていた日本の長期貸出市場に円円スワップという別の指標が登場し、長期貸出金利はスワップ市場の変動に合わせて頻繁に改定されるようになりました。何故なら、長期プライムレートが据え置かれたままスワップレートが上昇すると、長プラで借りてスワップで運用する裁定が出来てしまい、逆にスワップレートが低下する局面では、スワップで調達して長プラで運用する裁定が出来てしまうからです。日本の貸出市場はこうした不合理な裁定が効かなくなるような合理的なものに変容したのです。

 金利スワップだけではありません。株式に係わるデリバティブ(エクイティ・デリバティブ)は、現物株の価格形成にも影響を与えます。この影響が最も深刻に現れるのが、金融機関同士の株式の持ち合い慣習です。銀行の過小な資本を相互に株を持ち合うことで補うこの慣習は、高度成長時代の旺盛な資金需要を賄うための金融界の知恵として有効に機能してきました。しかしこの慣習も、今や金融機関相互にとって重荷になる場合が増えており、持ち合いを解け合う動きが見られます。こうした現物株売却の市場圧力は、エクイティ・デリバティブによって増幅され、一時的には、株式市場にとってかなりの痛みを生ずることになるでしょう。しかし最終的には、デリバティブは株式市場の価格形成を合理的なものにすることに貢献するはずです。

 また、最近成長著しいクレジット・デリバティブは、企業の信用リスクと調達コスト(投資家の立場からは投資リターン)との関係について、一層明確で合理的な指標を持つことを促すとともに、企業の信用力の値付けが行われることによって、日本の貸出の流通市場が形成される契機になるものと考えられます。

 VaR(ヴァリュー・アット・リスク)というリスク管理手法も、デリバティブの延長線上にあります。VaRの何がいいのか、一口で言えば、統計的に処理できるあらゆるリスク(金利リスク、為替リスク、株価リスクのみならず信用リスクも)を横に比較できる指標であると言う点です。あるポートフォリオの信用リスクと、別のポートフォリオの金利リスクを絶対額で比較できるのです。金融機関の経営者にとっては、各種投融資のパフォーマンスを比較判断するのに非常に有意な指標です。

 企業の経理処理についても、デリバティブ的な考えは応用できます。つまり、時価会計であり、ヘッジ会計です。これらは、期間損益至上主義、実現主義の会計の持つ不合理を補い、透明度の高い経理処理を日本にもたらすでしょう。

〈メインバンク、系列、終身雇用〉

 それでは、経理処理、リスク管理手法、ファイナンス理論以外のグローバル・スタンダードは積極的に活用すべきでしょうか。それを考えるうえで、まず、メインバンク制度、系列制度、終身雇用制度といった、いかにも特殊日本的と考えられてきた諸制度を評価することが必要になるでしょう。

 まず、銀行屋たる僕に身近なメインバンク制度について、私見を述べてみます。古典的な意味でのメインバンク制度とは、メインバンクが「取引先企業の骨を拾う」ことを期待される制度のことです。即ち、メインバンクが、取引先企業の倒産時に、他行の貸出のかなりの部分を肩代わりし、倒産企業の発行した社債を投資家から額面で買い取ることを期待される制度のことです。市場原理からすれば全く不合理で「社会主義的」とさえ言えます。これは、企業の倒産による社会的コストを銀行が負担する制度と言ってもいいでしょう。メインバンク制度は、銀行が余剰利益を抱え、企業の倒産確率が低かった高度成長期にはうまく機能しましたが、ゼロ成長時代には銀行の負担が大きすぎて、維持するのは無理でしょう。

 このように、古典的なメインバンク制度は、自行の貸した金額だけに責任を負う「貸し手責任主義」へと変容せざるを得ませんが、企業と銀行との安定的な関係維持のために、つきあう銀行或いは銀行群を特定しておくという意味でのメインバンク制度は、企業、銀行双方にとって、なくてはならないこともまた事実です。

 競争原理の貫徹がグローバル・スタンダードだとして、その極端なやり方としては、企業が、ひとつひとつの取引毎に多くの銀行に条件を入札させて取引銀行を選ぶやり方もあり得ますが、これは、却って財務の効率を悪くし、トータルの財務コストを上げる恐れもあります。企業は、一連のサービスをパッケージで一つの銀行から受けることによる「割引効果」と比較して銀行政策を考えるべきでしょう。また、財務の安定性に欠ける成長初期段階の産業や、逆に衰退期にある産業においては、多少のコストよりも資金の量的確保の他、人材受入等による経営の安定化のためにも、銀行との安定的な関係維持が望ましい企業が多いことでしょう。もし企業が古典的メインバンクを欲するならば、それなりの対価を払うことで銀行が自分の「骨を拾う」ことを期待することもできましょう。

 系列制度もメインバンク制度と同じ切り口で考えられます。従来のように、系列子会社群の悉くを保護し、ガチガチの系列を維持する体力はもう親企業にもないでしょうが、しかし、部品や素材を、その都度入札方式で購入することが本当に合理的とも言えません。 部品、素材の安定供給との比較で、ゆるやかな提携関係は残した方がいい場合も多いでしょう。

 終身雇用も然りです。労使双方にとって、労働力が激しく流動化することが本当に望ましいのでしょうか。終身雇用をあたかも公的保障のように社会に組み込むことはもはやできないでしょうが、安定的な雇用関係は、労使双方にとって決して無視できない重要性を持つと思います。そもそもアメリカでも、喧伝される人材の激しい流動の事例は一部の企業や人々のことであって、大多数の労働者は一つの企業で相当継続的に勤務しているのが実態ではないでしょうか。

 これらメインバンク制度、系列制度、終身雇用制度といった、いかにも特殊日本的と考えられてきた諸制度も、実は、極端に社会主義的な面がなくなり、むしろグローバル・スタンダードに近づいているのです。逆にアメリカでも、日本企業がもたらした「日本型経営」の影響は大きく、むしろ両者は、その中間で融合しつつあるのではないでしょうか。特殊日本的とかグローバル・スタンダードのアメリカ的とか、両社会の制度を対立したものととらえるのはもはや誤りだと思います。例えば、イトーヨーカ堂の商品管理スキルを全面的に学んでいる米国最大の小売業ウオルマート社や、日本の自動車メーカーに倣って部品メーカーの系列化を行っているクライスラー社の事例が報告されています(九八年七月二六日付日本経済新聞「新しい会社」C)。

〈文化の問題〉

 以上見てきたように、制度については、主体的かつ慎重に取捨選択すべきです。残すべき制度は時代の変化に合わせて改良を加えて残せばいいのです。我々は、技術に還元できることと、文化や人間の生き方に係わることとを峻別し、後者にグローバル・スタンダードを取り入れるのは特に慎重にする必要があります。

 言語もそのひとつです。英語が言語における事実上のグローバル・スタンダードになっていることは、英米語圏の人々にとって計り知れないアドバンテージになっており、それ以外の言語を使う人々にとって大きなハンディキャップになっていますが、今のところ、英語に代わる世界中の人々に公平な言語は存在しません。だからといって、日本人が英語教育に過大な時間を割くのはどうかと思います。英語は単に思想・信条の表現媒体に過ぎず、まずは、豊かな日本語で思想・信条を巧みに表現できなければ、器だけあって中身の無い人間に育ちかねません。言語については、僕は、フランスに習って、もっと自国言語を尊重すべきであり、もうこれ以上、英語の授業を増やして国語教育を疎かにするようなことをしてはいけないと考えます。

 政治の問題はもっとデリケートです。アジア各国は、確かに短期資金の無秩序な流入に飛びついて不動産投資やマネー投機に走り、国際投機筋から狙い撃ちされて経済が混乱しています。しかし、経済混乱の原因を政治体制に求めるのは正しい分析でしょうか。スハルトの政治体制は本当に「悪」と決めつけていいのでしょうか。アメリカ的「民主主義」が「善」で、それ以外の政治体制は全て改められるべき「悪」と決めつけていいのでしょうか。政治とは、人々に「最大多数の最大福祉」をもたらすことが第一の目的であるとすれば、これまでインドネシアの経済成長に果たしたスハルトの実績は大いに評価されるべきでしょう。縁故主義が決していいとは思いませんが、他国の古くからの文化的背景を無視して政治体制を一方的に非難するのは、非科学的態度です。

 かつて、未開の世界の住民に対して、生水を飲まぬようにといった生活改良指導を行ったり、隣の部族との戦いや食人などの悪い習慣を止めさせたり、薬品の配布によって寄生虫や風土病を防止するといった活動が、「慈善事業」とか「社会工学」とか称して行なわれました。しかし、こうした上からの強制的な文化干渉や慣習破壊は、住民の病気に対する免疫性の喪失や抵抗力の減退によって、却って広範な部族社会の衰退を招いただけでなく、強制された文化改造が、独自の文化体系を破壊することになったのです。レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」に、宣教師たちが集落の配列を強制的に変えたことで、南米インディオのある部族の社会組織と宗教組織が破壊された事例が苦い筆致で描かれています。

 たとえどんな良心から発したものであろうと、自らの「文明」と「正義」を振りかざしてこれを他の文化を持つ人々に押し付けるのは、今日の人類学の見識からは許されないことなのです。

 

V 国際金融市場の失敗

 合理的な金融・証券理論に支えられた市場経済は、確かに、高度成長期の遺物を処理しきれていない日本経済に活力を与える術になり得ます。しかし、市場経済は過去にその「失敗」が現実化し、様々な改良や規制が加えられて来たのも事実です。二十一世紀を迎えようとする現在、僕が最も懸念するのは、国際金融市場の失敗、即ち、マネーが実体経済を破壊する恐ろしさです。国際金融市場の規模は、貿易実需の何百倍という規模に膨れ上がっています。そこでは、各種資本取引に必要なヘッジの他、投機や裁定も活発に行われ、さらにデリバティブが、実態経済に与えるマグニチュードを増幅させています(デリバティブは、先ほど述べた合理化の効用を持つ一方、テコの原理で投機効果を巨大化させる手段ともなり得ます)。

 一方、国民国家は厳然として存在し、国と国とを自由に移動できない一般国民がその主体なのです。僕は、国際的なマネーゲームなどに何の利害もないロシア国民が、自国の通貨価値の下落によって引き起こされた激しいインフレで生活困窮するのを見過ごすわけにはいきません。アジア各国は、確かに短期的な資金の無秩序な流入を容認し、それに飛びついて不動産投資やマネー投機に走り、国際投機筋から狙い撃ちされた「油断」がありましたが、かと言って、ようやく成長してきた地道なアジア各国の製造業まで破壊されていいとはとても思えません。これらは明らかに、国際金融市場の失敗、つまりグローバル・スタンダードの失敗なのです。

 国民経済をマネーの暴力からどう守るか、という「金融安全保障」を各国と連携して考えなければならない時期に来ていると思います。もちろん、国際投機筋に狙い撃ちされないように、経済運営の健全性を維持することは、各国政府にとって一層重要な課題になることでしょう。しかしその一方で、投機的資金の規制や国際的監視ネットワークを、アジアでは日本が中心的役割を担って確立すべきだとも考えます。言わば、国が市場からモニターされると同時に、市場は国ないし国際機関によってモニターされる体制を作ることが必要なのです。


 随分大上段の話になってしまい恐縮です。こんな長談義に最後までつきあってくれてありがとう。僕は、邦銀にいる身として、日本の企業、機関投資家のニーズに長期的に応え得るような、日本型インベストメントバンクを志したいと思います(尤も、我が銀行自体は、まだしばらく、資産の流動性、調達の安定性に留意して展開しなければならない「安静」状態を脱却できないのが残念ですが…)。君も大いに外資系業者らしく活躍して下さい。いつまでも、学生時代のように、よきライバルでいられることを念願して筆を置きます。

(一九九八年九月六日)