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団塊の世代の弱さ

 

 第二次世界大戦直後数年間のベビーブーム時代に生まれた世代を団塊の世代と言う(三省堂「大辞林」による)。最近この世代のひ弱さばかりが目に付く。この世代の最大の問題は、マルキシズム、進歩派思潮の「はしか」にしてやられたことだ。学生運動も、志においては純粋な人も多かったのだが、方法論は全くリアリティに欠け、結局は、社会に甘えた「安全圏からの正義」に過ぎなかったことは今や明白である。ポスト団塊の我々が入学した頃の大学の荒廃はひどかった。教師と学生の間の信頼の糸が全く切れていた。学生運動が大学に残した傷跡はとてつもなく大きなものに僕には感じられたものだ。学生運動に参加していた団塊の世代たちは、結局、本物の正義漢になれず、世の中を斜に見ることが習い性になってしまった。

 また、左翼・進歩派と一線を画した団塊世代の中には、米国至上主義の一群も存在する。この連中は、まさに最近の市場至上主義者、グローバル・スタンダード至上主義者に「成長」している。一橋大学のN教授や東京大学のI教授がその例で、彼らの発言は、いずれも国益や国民生活への責任感の欠如した(国民経済が混乱しても自分たちは何も損しない立場からの)無責任な放言に思える。何でも「市場での実験」に任せればいいのだと言う時の彼らのしたり顔は、戦前の陸軍が、国際的視野や長期的ヴィションを欠いたまま、国益を無視し、政府や天皇の意向を無視して、「大陸での実験」を強行したのに似通う傲慢な態度である。

 米国型民主主義や米国型市場主義が絶対ではない例はいくらでもある。韓国の朴正熙やシンガポールのリー・クアン・ユーは、米国基準から言えば「独裁者」かもしれない。しかし、現に韓国やシンガポールが彼らの指導の下で遂げた目覚しい経済発展や彼らに対する国民の敬愛ぶりを見れば、独裁即悪などという幼稚な尺度で政治を見てはいけないことがよくわかる(誤解のないように付け加えると、僕は独裁政治を全て善としているわけではない。チェウシェスクや金正日の独裁は否定されるべきである)。また、インドネシアをはじめとするアジア各国へのIMF(国際通貨基金)の米国手法による教条的な介入の仕方については、米国内からも批判があがっている(例えば、四月一九日付日経新聞におけるフェルドシュタイン夫妻の指摘)。


 いずれにせよ、団塊世代とは、左翼・進歩派思想やアメリカニズムに冒されて、日本人としてのアイデンティティの形成が未熟に終わり果てた世代であることは確かだ。彼らは自国の歴史や伝統を素直に語ることができない。また、この世代は、戦後の物の無い時代に育ったため、物への欲望が強く、物質主義に毒された世代でもある。バブルに乗って第一線で「活躍」したのも彼らである。銀行で言えば、いわゆる「床柱を背にした」最後の世代でもあり、比較的楽でいい格好できる仕事をしてきた「甘さ」もある。

 今や彼らは、銀行でいえば、取締役や部長、支店長ポストについている。しかし、彼らの多くは、金融危機の中で、日和見と自己保身を決め込み、組織の長としてのヴィジョンや戦略を打ち出す気力も指導力もない。一体何人の「団塊部長、団塊支店長」が、部下に向かって自分の言葉でメッセージを送っているだろうか? 何人が、危機だからこそ必要な、勇気を奮い起こすメッセージを部下に送っているだろうか? 何故彼らはこうも情けない存在になってしまったのか? それは、時代が、物質主義や中途半端な左翼的正義感や単純なアメリカニズムでは、もう立ち行かなくなっているからだ。自己のアイデンティティをしっかり確立し、リアルにとらわれなき視座で物を考えることのできない団塊世代の多くは、今の状況に対しては、茫然自失するしかないのである。


 僕は、マックス・ウェーバーが、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の最後で、資本主義社会の未来を予想して、「精神なき専門人、魂なき享楽人。この無の者は、かつて達せられたことのない人間性の段階にまで既に登りつめた、と自惚れるのである」と描写した人間の姿と、日本の団塊世代の姿が重なって見える。彼らは、その職場の業務については「ノウ・ハウ」だけでなく「ノウ・フウ」にも通じた専門人であるが、職場を離れると、家庭と個人的な享楽しか残っていないことが多い。自分の職場や家庭以外の事柄についての知的好奇心や人格的陶冶への関心は、永い職業人人生の中で摩耗しがちで、やがてそれらをどこかへ置き去りにしてしまう。まさに「精神なき専門人、魂なき享楽人」である。

 団塊二世の子供たちが引き起こす最近の異常な事件は、子供と馴れ合うことしかできない、親自身のヴィジョンとアイデンティティ喪失によるものである。林道義氏の著書を待つまでもなく、家庭に厳しさを伴った父性が必要なのは当たり前なのである。「子供をしかってはいけない。やさしく説得すべきだ」と言うようなセンチメンタルな似非進歩主義は、こんな当たり前のことさえ曖昧にしようとするほど幼稚で愚かな存在である。


 では、団塊世代が蘇生できる契機はないのだろうか? 彼らの覚醒の可能性はないのだろうか? 恐らく、本人が「はしか」に気づいて深く改悛すれば、素直に世の中を見る目を取り戻すことは可能だと僕は思う。例えば、大蔵省財務官である榊原英資氏の「進歩主義からの訣別」は、団塊世代(榊原氏の言葉でいえば「アプレゲール世代」)としての自己を正直にかつ厳しく批判した上で、日本のとるべき戦略について具体的に語っており、極めて良心的な著書である。


 さて、偉そうに団塊世代を批判してきたが、我々「ポスト団塊・プレ新人類」世代は、団塊の世代を追い落とすにはまだ力が不足しているし、覇気が足りないような気がする。目覚めた団塊族と我々の世代は、もっと力をつけ、社会の中で積極的に発言すべきである。そして一日も早く、浅ましい物質主義や幼稚な左翼的正義感や単細胞なアメリカニズムから脱却した、日本人としてのしっかりしたアイデンティティに基づく、大人のリーダーシップを確立しなければならない。

(一九九八年四月一九日)

 

〈参考にした文献〉

 林道義「父性の復権」(中公新書)

 榊原英資「進歩主義からの訣別」(読売新聞社)