次の文章へ進む
前の文章へ戻る
「古典派からのメッセージ」目次へ戻る
表紙へ戻る

 

「生きがい」と「幸福」

 

 「生きがい」と「幸福」は違うと言った人がいる。「生きがい」とは、例えば国家建設とか、会社経営とか、学問、芸術、スポーツといったような公的で能動的な仕事に全力を挙げて打ち込む過程で、ある瞬間燃え上がるような生の歓喜が訪れることであり、その喜びは、打ち込む対象が巨大で困難なことが多いほど大きくなる。しかしその歓喜に永続性はない。

 一方、「幸福」とは、例えば、恋人、親友、親子の語らいといったような、私的でほのぼのとした永続的平和、安らぎである。私たちは人生の中で、「生きがい」と「幸福」を求めて生きている。

 僕は両者の区別は重要だと思う。例えば青年期と老年期では、人が求めるものは違うのではないだろうか。青年期は外へのエネルギー放出が盛んな時であり、燃えるような「生きがい」を欲する。老年期は逆に、自らの歩いて来た道を振り返り、同時代史でも書きながら、孫に囲まれる「幸福」を求める。

 「生きがい」や「幸福」を感じる感受性も年齢と共に変化する。青年期は感受性が豊かであり、自分の周りに起こる様々な事象に対し鋭敏に反応する。従って「生きがい」や「幸福」を感じやすい。それに対し、社会的地位も安定し、そろそろ先も見えてきた壮年期はとかく日一日が惰性で過ぎて行ってしまいかねない。物事への感受性が鈍り、「生きがい」や「幸福」を感じにくくなるのだ。

 このように、「生きがい」は、「幸福」と関わりあいながら、人生の各段階を追う毎にそれを得るのが次第に困難になって行く。しかも現代日本では、若者でさえ「大志」や「燃えるような生きがい」を求めることが少なくなっているように思われる。「生きがい」は求められず、「マイホーム主義」という言葉に象徴される「幸福」ばかりが求められているのではないか。時々、家庭が「生きがい」と言う人がいるが、これは家庭の持つ機能、性格を理解していないか、「生きがい」という言葉を「幸福」と間違っているかどちらかである。家庭は「幸福」の源泉であるが、「生きがい」の対象にはならない。家庭に「生きがい」を求めるのは無理である。

 本当にこれでいいのだろうか。人間が人間らしく生きるためには、「幸福」だけでは足りないと僕は思う。少なくとも僕自身はできるだけ「生きがい」を求める生き方をしたい。僕は「しらける」という言葉が嫌いだ。何かにつけ「しらけた」と言う若者は、たいてい無責任、小心、利己的である。そのくせ見栄っ張りで、かっこうだけは気取ろうとする。そんな人間が増えてほしくない。僕は文部省の先棒を担いで「若者よ、真面目になろう」などと言っているのではない。もっと夢を持ち、積極的にエネルギーを外に向けようと言いたいのである。その情熱はひょっとして反政府的、反体制的たらざるを得ないかもしれない。

 万人によって「幸福」だけが求められる、活力のない家畜のような人間ばかりの非人間的社会になってほしくない。万人によって「生きがい」と「幸福」の両方が希求される人間的な社会であってほしい。

(一九七五年一二月)