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君は君自身で居給え

 

 「ムツゴロウの絵本」を読んだ(というより、楽しく見た)。僕は畑正憲のことはあまり知らなかったが、彼がたくさんの本を出しすぎているような気がしていた。マスコミに媚びているような気もしていた。が、この本を見た時、その思いは氷解した。動物王国は莫大な金がかかるのである。しま馬からアザラシからヒグマから…こんなにたくさんの動物がいては食べ物の手当てだけでも大変なことだろう。ムツ氏が軽い気持ちから動物を飼うのなら、何もここまで手を広げまい。この人を僕は無条件に好きだ。何かに抗している姿が彼にはある。ありとあらゆる束縛を解き放って生きている姿は、現代日本人にとって素晴らしい清涼剤である。陶淵明に通じるところがあり、しかも動物という友がいるだけ明るく楽しい。これは大きな発見であった。

 思えば、僕の視野は狭いものだ。これほど身近に居るムツゴロウ氏にさえ今まで気付かなかったのだから。が、あくせくしても仕方がない。いろいろ本をさばくってみた所で、本当に好きになれるものは少ないものだ。小林秀雄ではないが、良き思想家の最後のぎりぎりの言葉は「君は君自身で居給え」であろう。この小林の「読書について」の一節は大変印象的だ。少々長くなるが、引用しておきたい。

 

「小説の筋や情景の面白さに心奪われて、これを書いた作者という人間を決して思い浮かべぬ小説読者を無邪気と言うなら、なぜ進んで、例えばカントを学んでカントの思想に心奪われ、カントという人間を決して思い浮かべぬ学者を無邪気と呼んではいけないのか。…(中略)…それがたとえどんな種類の著者であってもだ。遂に姿を向こうから現わして来る著者を待つことだ。それまでは書物は単なる書物にすぎない。小説類は小説類にすぎず、哲学書は哲学書にすぎぬ。

 書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間がいるという、あるがままの世間の姿を信ずれば足りるのだ。なぜ人間は、実生活で、論証の確かさだけで人を説得する不可能を承知しながら、書物の世界に入ると論証こそすべてだという無邪気な迷信家となるのだろう。また、実生活では、まるで違った個性の間に知己ができることを見ながら、彼の思想は全然間違っているなどと怒鳴り立てるようになるのだろう。或いはまた、人間はほんの気紛れから殺し合いもするものだと知っていながら、やや類似した観念を宿した頭に出会って、友人を得たなどと思い込むに至るのか。

 みんな書物から人間が現れるのを待ち切れないからである。人間が現れるまで待っていたら、その人間は諸君に言うだろう。君は君自身で居給え、と。一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、それ以外の忠告を絶対にしてはいない。諸君に何の不足があると言うのか。」

 

 浪人して、受験勉強の合間に読む本が、ほんとうに心の糧になっている、と感じる。してみると、浪人も決していやなことばかりではない。このごろようやく本物の浪人になれたような気がする。浪人時代というのは、毎日毎日淡々とした積み重ねである。そこには激しい情熱の表わしようもなければ、新鮮な驚きを与えてくれる事件もない。この時代はむしろ内に沈潜し、これからの人生へ大きくはばたくための力をため、覚悟を決する時である。受験勉強というのは、決して価値のあるものではない。かといって有害なだけかというと、そうでもない。英語など、僕の場合、高校時代は「クソ文法」ばかりやっていたが、浪人時代を通じ、やっと「読解」を覚えた。これは将来も役に立ってくれるだろう。役に立つものも少なくない。しかし反面、歴史などは細かすぎる知識が要求されるし、現代文の穴埋め問題とか、古文のクソ文法とかのナンセンスも多い。こんなレベルの低い「勉強」は二年もやるのが限度、つまり一浪までが限度である。いわんや小学生のうちからこんなものをやらせるようになったら、人間がダメになってしまうだろう。小学生にとっては、「遊ぶ」ことが最大にして唯一の勉強である。

 本物の浪人は自己を決して被害者だとは思わない。自分の意志が存在するからである。本物の浪人は外界の楽しみを強いて求めようとはしない。そのほろ苦き珈琲の如き人生の味を味わう用意があるからである。そして本物の浪人は未来への展望を持つ。よく内に沈潜したからである。

(一九七五年一二月七日)

 

〈参考にした文献〉

小林秀雄「読書について」(角川文庫「常識について」より)

畑正憲「ムツゴロウの絵本 雑居の巻」(毎日新聞社)