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真の哲学者を愛す

 

 I先生は実に哲学者である。哲学者たる条件が二つある。ひとつは、現実より自己の観念が優先すること。I先生の場合、明治天皇やウィルソン大統領が、現実にいかなる人物であったかあまり詮索されることなく、「思無邪(思いに邪無し―論語の中の言葉)」「誠」「愛」といった彼の好きな観念を象徴する人物として紹介される。

 明治天皇が詠んだ「四海の内皆兄弟なり」の歌は、国際平和を希求する天皇の「誠」の現われであり、ウィルソンが最後まで第一次世界大戦に参戦しなかったのは、アメリカ国民を一人たりとも犠牲にしたくないという「愛」のためだったことになる。ウィルソンがついに参戦を決断したのは、ドイツの無制限潜水艦作戦のためではない。彼はラディカルな理想主義者であったため、人をめったに信じることが無かったが、ただひとり信頼していた腹心の某大佐が、ベルグソンの説得(これがまたフランス人らしい言い分で、今やドイツの侵攻でヨーロッパ文明が衰滅しつつあると言うのだが…)を大統領に伝え、これに動かされたためだ、と言う。

 I先生の頭の中には「思無邪の人」や「愛の人」や「誠の人」がいる。それを、孔子はじめ様々な思想家や、明治天皇など歴史上の人物に演じさせているのである。

 哲学者たる条件のふたつめ。それは、どこか人間に対して妥協できない思いを持っていること。普通の人は、人間が引き起こす悲劇や矛盾を見ても「これが人間というものだ」とか「現実は複雑なものだ」とか言って納得し、済ませてしまう。自分の利害と直接関係ない場合は特にそうである。しかし哲学者の資質を持った人にとっては、この矛盾がどうしても心の奥にわだかまり、ついに離れられなくなる。ゴータマ・ブッダ(釈迦)の青年時代が典型である。I先生は、若い恋の悲劇を描いた「野菊の墓」を読んで、衝撃のあまり一週間朦朧としていたそうである。先生の頭から人間の矛盾についての思いが離れなかったのである。

 I先生がされた印象的な話の一つに、「光を以って人に臨むことの矛盾」がある。知性や人格の輝きを持った優秀な人が、自分の優秀さをあけすけに表現し、他人に対する時、相手に対して大きな罪を犯すことがある。スタインベックの「エデンの東」はまさにこの問題を扱っていると言う。アロンとキャルは双生児の兄弟でありながら、兄は、容姿、性格、知性はじめ、あらゆる面ではるかに弟に勝る。兄と弟は一年中顔を突き合わして暮らさねばならない。弟がどれほど辛い思いをせねばならないか、兄は気付かない。のみならず、兄弟喧嘩にでもなれば、アロンは自己の優秀さ―学校での学業成績、クラス委員、スポーツのキャプテン等々―を武器にキャルを完全に圧倒し尽くした。この兄弟の生涯にわたる葛藤を描いたのが「エデンの東」である。光を以って人に対すること―人間の原罪とも言うべきもの―から逃れる手段を人は知らない。禅はこの人間の原罪に鋭敏に気付き、「和光同塵(光を和らげ塵と同じうす)」を修行者に求めた…。I先生のこの問題についての真剣さ、追求の奥の深さは尋常ではなかった。


 真の哲学者とは、現実より自己の観念が優先し、かつ、人間に対して妥協できない思いを持っている人である。第一の条件だけなら、誇大妄想狂になりかねない。第二の条件が加わることで彼は真の哲学者たりうるのである。彼の頭は常に人間についての理想を思い描いている。しかし同時に常に現実との矛盾に悩み、とりわけ自己内部の矛盾には敏感である。彼の精神は時に混沌の中をさまよう。

 普通の人から見ると、こうした人は純情すぎ、時に馬鹿に見える。何を一体こだわっているのか、と。しかし僕はこういう「馬鹿らしさ」を持った人に強く惹かれる。それは人間にとって大切な馬鹿らしさだと思う。こういう人たちを大切にしたい。傷つけたりはしたくない。

 何の悩みもなく、一直線に目的に向かって進むだけの生き方というのはどんなものだろう。本当の人間の魅力というものは、やはり「どこかおかしな所」や「利益にならないものに対してひたむきな所」にあると思う。僕は真の哲学者を愛す。

(一九七五年一〇月三日)