次の文章へ進む
前の文章へ戻る
「古典派からのメッセージ」目次へ戻る
表紙へ戻る

戦中派の青春へ

 

 NHKで「ドラマでつづる昭和史」というシリーズをやっている。その第二話「青春(戦中派日記から)」を見た。

 彼らには確かにドラマがあった。戦争という特殊な状況の中での青年期というだけで、既に十分すぎるくらいドラマティックである。彼らにとっては一瞬一瞬が緊張の連続だった。仲間が戦争に行くのに、自分一人が肺結核で行かれず、それでも仲間に恥じざらんとして必死に勉強して医学校へ進もうとする男、京大での学業半ばにして学徒出陣に駆り出され、その極限状況の中で自己と様々の対話を交わした男等々…。

 我々はとかくその中の浪漫性に憧れを抱き、自分をその中に置いて考えたりしがちだ。しかしそれは、「あの時代のドラマ」と対照した「現実のドラマ」のつまらなさが強調され、現実否定や現実逃避になる危険を孕んだ夢想だ。我々には我々の置かれた状況での青年期がある。我々は、受験地獄などと言って自身の青年期を忌み嫌ったり、世間や社会にむやみにその責任をなすりつけたり、妙にすねてみたり、また逆に、利口そうになるがままに「適当に」努力してこの場を逃れようとすべきではない。

 我々の青年期の最大の特徴は何か。それは平和な時代ゆえの物質的、精神的余裕ということではないだろうか。我々はこの平和な時代を生きる者として、じっくりと余裕を持って思索し、自己を高めることができる。また、従来の様々な観念にとらわれることなく、世界に対して新たな価値を創造することもできる。

 現代はちっとも「混迷の時代」などではない。むしろじっくり余裕を持って考えることができる時代だ。受験地獄などと言う言葉は「現象」を「作り出す」ための言葉だ。マスコミの商業主義に基づく軽率な「現象作り」などに乗せられてたまるか。自分が今いかに余裕があり、また、戦中派に恥じないように今を堂々と生きるべきであるか、あの戦争中の青年たちの姿から学ばねばならない。

(一九七五年一月二一日)