恋をめぐる往復書簡
若き女の恋は夢や憧憬から始まり、若き男の恋は切実な希求から始まる。恋の歯車はかみ合ったりかみ合わなかったりする。それは、およそ次のような物語を展開するだろう。
若き女、都に住める若き男のもとに文を遣りて言う―
「昨夜、I大学混声合唱団の演奏会に行った時のことです。私は一人で行ったのですが、市民会館の大ホールだというのに一階はほぼ満席という盛会でした。席を捜していたら、下からこちらへ上がってくる人がいるのです。挨拶をされたのですが、私はその人が誰かをすぐに思い出せませんでした。曰く『ぼく S です。』そうその瞬間思い出しました。Sさんの彼のT氏だったのです。その時の彼の表情といったら、おかしくておかしくて。でも何とも言えず自然な感じで、『Sです』の言葉がその場には最もふさわしかったのです。それがあなたの場合だったら何て言うかしら、なんて考えていました。
このうらやましい程仲のいい、いつも一緒の二人に、私たちはうらやましがられているらしいのです。Sさんが私たちのことを何と話したのか知らないけれど、彼は『高校時代から続いているなんて、よっぽど想い合っているんだなあ』と言っていたそうです。
確かに長さではもう三年にもなるけれど、朝昼といつも一緒のSさんたちと比べれば、問題にならないほど接触は少ないんですよね、私たち…。私について言えば、もう五年になるのです。私は高校一年の終わった時に何とも寂しくてあなたの存在に気づいたのです。それ以来、あなたのことは私の胸の中だけにいつもありました。私の中であなたは憧れでした。理想でした。夢でした。そして憧れであり、夢であるがゆえに、現実の人ではなく、私の理想のすべてを代表する架空の人だったのです。
そんなあなたから、忘れもしない文化祭の日、声をかけられて、それはもう、うれしかったことといったら、この世の幸福が全部私のところに集まってきたみたいでした。でもその時でさえ、私はまだ、あなたとつきあうことになろうとは思っていなかったのです。あなたに何も言われなくても、あなたへの憧れは私の中だけにしまって卒業したでしょうけど、あの時もやはり、このまま卒業するものと思い込んでいたのです。それが、一緒に登下校することが一度、二度と重なるにつれ、うれしくはあったのですが、反面すでに途惑いを感じていました。そして、このおつきあいは卒業までの限られた時間の中だけで許されたものだということを漠然と感じていました。
私の中で理想化されたあなたは、実際のあなたを飛び越えて大きく夢を描いていたのです。まさに私の独断的な価値観で着色され、形作られていたのです。そんなイメージの出来上がってしまっているあなたと、現実のおつきあいをすることは、当然ながら無理がありました。その無理を感じながら、卒業まで、と、無意識のうちに条件をつけて夢の幸福感に浸っていたのです。そしてその中で少しでも現実のあなたを理解しようとしていました。卒業と同時に終止符を打つつもりでいたのですが、あなたは浪人することになってしまい、そんなことはとても言えません。新たに今までと違う角度からあなたを見つめ直して、夢物語でない現実のあなたを知ろうとして来たのです。
夢の中から始まった私たちのおつきあいが、この地上にしっかり足をおろすまでに長い時間がかかるのも無理はないと思います。今までにも何度かその努力を放棄しようとしたことがありました。それができなかったのは、やはりあなたを失うことの寂しさが恐かったからでしょう。
私はあなたが好きです。好きだから夢から現実へ出ようとしました。でもそれがこんなにも困難なものだったとは…。私は愛するということがどういうことなのか、まだよくわかりません。ただあるのは、私の気持ちだけ―あなたを、今の私にできる程度において、あなたを好き―それだけです。でも、あなたの感情と私の感情と、そこから出てくるあなたの行為と私の行為とに、そんなにもあなたを苦しめるほど、相容れないものがあるのならば……
なんだか、もう別れるしかないような書き方になってしまったのでやめます。ただ、事実として、この間奈良へ行った時は、ほんとに今までにないほど、あなたに親しみを感じ、何のわだかまりも無く言いたいことが言えて、心から楽しい思いをさせていただきました。だから、これからもこんな調子で話せるかしら、なんて思う一方、それでも時折、あなたの表情に陰りがさすのがとても気になったりもしていたのです……。
私たちのことはあなたに任せます。
あなたの名前にこの三年間どんなに苦しんだことでしょう。楽しかったことよりも、うれしかったことよりも、苦しんだり悩んだりしたことの方がはるかに多かったような気がします。でも、それだけにいろいろな経験をしました。この人とのこれからがどうなるか、それは過ぎてみればわかることです。心配することはないのです。恐れることもないのです。
今夜はとても静かです。 」
この文を受け取りし時、若き男の頭の中に、バッハのホ短調のトリオ・ソナタ(BWV五二八)鳴り響きけり。メランコリックな諦念に満ちたるフルートとチェンバロの演奏を以って……。
その若き男、返しに言う―
「きょう下宿へ帰ると、あなたからの手紙が届いていました。友人と遊んで浮かれて楽しい気分のところへあなたからの手紙!
こんな幸福な時はないはずなのに、こんな悲しい手紙だとは…。山嵐の比喩を知っていますか?
二匹の山嵐が寒さに震えています。二匹は抱き合って暖め合おうとします。しかし、近づきすぎるとお互いの針で体を傷つけてしまいます。けれども離れていると寒さで死んでしまいます。二匹は悩み苦しみながらも、最後に適切な距離を見つけたのでした――。僕はショーペンハウエルのこの話が好きです。人間関係というのは、こういうものではないでしょうか。つき合いが深くなるにつれて、自分でも気づかないうちに相手を傷つけてしまう。あなたと僕だってそうでした。僕はこのごろやっと、僕らにとっての『適切な距離』がわかってきたように思います。
でも、僕にも、人を愛するとはどういうことなのか、本当はよくわかりません。あなたを傷つけない距離を保つことが本当にあなたを愛していることになるのでしょうか?
愛するとは、そんな計算づくの処世なのでしょうか?ここで永久に別れる?
一体なぜ僕らは別れなければならないのでしょう? 考え出すと気が遠くなりそうです、もう永久に話もできないなんて…。こんな切実な思いさえ、あなたにぶつけてはいけないのですか? 何もかも振り捨てて、あなたを抱きしめていたいのに……。何と男らしくないことを書き連ねたことでしょう、僕は。もっと広い心であなたを受け止めてあげなくてはいけないのに…。これではますますあなたの『憧れ』のイメージを壊してしまいますね。
僕らのこれからのことについては、もう少し考えさせて下さい。今はあまりに疲れているので…。
夜も更けてきたのでこれでペンを措きます。いつもあなたの膝の上で丸くなっている猫君に、僕の嫉妬を伝えて下さい。
」
後年、若き男回想す。
煙草をくわえたら あなたのことを 突然思い出したから
涙の落ちる前に 故郷へ帰ろう
町の居酒屋のヴァイオリン弾きや 似顔絵描きの友達も
今はもういない 古い町へ
今でもそこに あなたがいたら 僕は何て言うだろう
あなたに逢うには 使い残した時間があまりに軽すぎて
悔やんではいないよ 想いはつのっても
そうさ 昔は昔
(さだまさし作詞「交響楽」)
(一九七八年三月)