青年とは何か
小林秀雄「四季」の次の一節は、青年とは何かを最も端的に言い表わしている。いつ読んでも滋養が心に沁みてくるような気がする。
「青年時代は、私にとって、十分に不安時代であったという事だけだ。どいつもこいつも、呑気に構えているなら、おれは不安になってやる、きっとそんな気だったのだろうと思う。…(中略)…
堀江青年がこの本(堀江謙一「太平洋ひとりぼっち」)で不馴れな言語表現を用いて、恐らく期せずして現わし得たのは、永遠の青年の姿である。なるほど青年は皆面白い。だが、自分の力で自分の若さをしっかりつかんでいる青年はもっと面白いはずではないか。
堀江青年の文章の発想には、だれにも見誤る事の出来ぬ一つの性質がある。それは、自分には功名心も無論あったが、それより自分はヨットが好きだったという事の方が根底的な事であった、という主張である。彼には、どうしても、それが主張したかったところが、まことに面白い。ヨット好きなら何とかしてセーリングの足を延ばしたい。延ばせば太平洋横断になるのはヨット好きにはわかりきった事であり、そのための準備なら、忍耐なら、こんな楽しい事はない。要するに何一つ突飛な事をした覚えはない。だが世間は、何百回、いや何千回となく、太平洋横断の動機は、理由は、目的は、と聞いた。この青年はあたかもこう言っているようだ。世間は新事件と新理論を探していて、青年なぞ必要としていないのではなかろうか、と。」
さるアンケートでは、男子大学生が結婚を望む理由の第一は「精神的安定」がほしいからだと言う。確かに青年時代は精神が不安定である。これは古今東西変わらぬ若者の姿だろう。しかし、その不安定さの苦しみを、即、結婚によって安定させようとする時代、またそれが許される時代というのは何とつまらない時代だろう。時代の創造的エネルギーとは、若者の精神的不安定さから発せられるエネルギーのことではないのか。悩み、模索し、闘う中からこそ、時代のエネルギーが生まれるのではないか。
このままでは、日本は化石化してしまう。幕末以来、良きにつけ悪しきにつけ吹き出し続けた日本のエネルギーもついに尽き果てる時が来るのだろうか。日本のエジプト化、ギリシア化を予測する人がいる。古代にあれほどの文明を築いたエジプトやギリシアの人々が、いつの間にか、何の創造性も発揮しない「ただの一地方民族」になってしまった。これと同じ運命を日本も辿るのではないか、と。そんな日本の姿は想像したくない。
大きく構えよう。まず、自分の長所を見極め、それを鍛えよう。短所にくよくよし、それを矯める努力よりも。長所の反面が短所だ。長所が伸びないと個性ある人間にならない。社会に適応できるかなど、こせこせした事は考えず、大きな志を持って悠々と生きよう。
会田雄次氏のエッセイに次の言葉があった。
「自分がそれによって社会のドアを開こうとするもの、例えば、語学力で世の中を切り開こうと思っている人間もいるだろうし、文筆でこじ開けてやろうと思っている人間もいるだろう。そういうものであっても、能力であっても、精神であってもいいが、そういうものを磨き続ける意志を持たない人間はだめである。」
僕も自分自身を鍛え直そう。そして本当に自分のやりたいこと、特に、歴史や古典の探求を続けよう。
(一九七七年二月一六日)
〈参考にした書籍〉
小林秀雄「四季」より「青年と老年」(文春文庫「考えるヒント」所収)