その他大勢?―友Yとの対話―
Y氏曰く―
「卒業を間近に控えて自分の頭の悪さに失望しつつ(人並みの出来でしかないということ)、こういう『その他大勢組』の一人として、これからの人生の意義をどこに見出すかということで僕は近頃悩んでいる。『この世に生を受けて死ぬまでに何か<残る>仕事をしたい』と思う。日常生活の忙しさに押し流され、物質的な必要に迫られてあたら人生を過ごしたならば、年をとってからきっと後悔すると思うのだ。といって、このままじっとしていては流されてしまいそうだ。
『もともと凡人というのは平凡にしか生きられないのか』と思うと、とてもつまらなく思う気持ちと『それならそれでいいじゃないか』という何かほっとした気持ちが交じって結論が出ない。世の中の多くの人はどんぐりの背比べで、一体彼らは何をを考えて生活しているのか。きっと日常の惰性に流されているのだろう。僕もその一人になりそうだし、そうなるしか仕方ないと思うと、まったく自分が生きていることの意味はどこにあるのだろうと考えてしまう。
僕固有の空間、時間をどこに求めるのか。今後社会に出た時よほどしっかり足を着いていないと、あっという間に時間だけが過ぎてしまいそうで心配だ。君はどう思うか、いつか聞かせてほしい。」
我曰く―
「どんな人も皆、小世界の中でドラマを演じている。サラリーマンの世界でさえそうだ。特に人事異動にはそれが劇的に現れる。年功序列の人事は『感情の生物たる人間』という観察から生まれた制度だと思う。組織が人の能力をそれほど適切に見抜けるとは大方の日本人は考えていない。昇進には常に「運」の善し悪しがつきまとう。それなら、自分のドラマを大切にしたい最大公約数の感情が一番納得しやすい(つまり或る年数までは同期であまり処遇の差をつけない)年功序列人事がいい、ということになっているのだろう。
ただ、処遇に差は無いとしても、通勤電車の中で、灰色の瞳でスポーツ紙を読んでいる人と、『中小企業診断士』のテキストを読んで自らの業務に深さを与えようとしたり、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んで、日常業務に埋没させることのできない鋭敏な感性を磨いている人とでは、ドラマの面白さが全く違うのも確かだ。」
(一九八二年一月二六日)