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おまえが大きくなったとき

 

 幼稚園に通い始めて一年近くなった娘とは、この頃だんだん「人間」としての対話ができるようになった。娘も結構、父親の様子を気にしており、日頃は仕事疲れの顔をしているのか、休日などでくつろいだ時には「パパはきょうはごきげんだね。」などと生意気なことを言う。

 親子三人の共通の趣味として、庭の餌台に来る「ひよどり」や「めじろ」や「おなが」を観察することと、モーツアルトのCDを聴くことも定着してきた。娘を、ただ生き物として育ててきた時代から、だんだん「人間」としてつきあえる時代になった喜びは親として何物にも代え難い。

 さて、この頃、この子や同世代の子供たちは、私たち夫婦や同世代の親たちよりも幸せになれるだろうか、と、ふと考えることがある。私たち夫婦は「もはや戦後ではない」と言われた年に生まれ、日本の幸せな経済成長の時代に生きてきた。私たちや私たちの親たちは、昨日よりも今日、今日よりも明日と、ますます豊かになってゆく社会の中で、今にして思えば桃源郷のようなのどかな生活をしていたような気がする。そこでは、「希望」とか「志」ということを素朴に信ずることができた。

 この子たちが育ってゆくのは、その時代よりもはるかに複雑で一筋縄ではゆかない社会になることは間違いない。この子たちの「夢」や「希望」は一体どんな形をとるのだろうか。

 南こうせつのこの歌は私の切実な実感でもある。

 

「おまえが大きくなったとき」

 

おまえが大きくなったとき あの青い空に白い紙飛行機が夢を運ぶだろうか

おまえが大きくなったとき あの枯れた大地に咲いた名もない花が命を語るだろうか

おまえが大きくなったとき このビルの谷間にやさしい歌が流れているだろうか

おまえが大きくなったとき この灰色の窓辺に沈む夕日がやすらぎをくれるだろうか

おまえが大きくなったとき この小さな胸に確かな喜びが育って行くだろうか

おまえが大きくなったとき この手のひらに愛する心が通い合うだろうか

 

(一九九一年一月一五日)