近況メモ(平成21[2009]年1月〜2月)
平成21(2009)年〜「富士映える新年」から「梅花と干し鮟鱇」へ
1月10日(土)晴れ
さすがに東京地方も「小寒」に入ってからはようやく北風の吹く冬らしい寒さになりました。さて、お正月はいかがお過ごしでしたか。小生は、家族で小生と妻の実家に帰省し、まずは穏やかなお正月でした。写真は帰省の際に下り新幹線の車内から撮った冬晴れに映える富士山です。今週は、正月らしく「新春花形歌舞伎」を見に新橋演舞場へ出かけました。市川海老蔵が、復元された歌舞伎十八番のひとつ「七つ面」を舞ったり、「白波五人男」の弁天小僧と青砥左右衛門の二役を演じたりと大活躍でした。小生、東大寺の薪歌舞伎「勧進帳」で富樫を演じた時の海老蔵の声色や語り方のいかにも歌舞伎らしい味わいがとても好きだったので、以来海老蔵を応援しています。ただし、この日の演目で一番印象に残ったのは近松門左衛門作の人形浄瑠璃「冥途の飛脚」を歌舞伎に仕立てた「恋飛脚大和往来」から「封印切」の場でした。小生、これを拝見するのは初めてでしたが、涙無しにはおれませんでした。近松門左衛門の芝居の作りの素晴らしさに驚愕し、彼はやはり天才劇作家だと感じ入った次第です。
1月25日(日)晴れ
旧暦では今日が大晦日、明日は正月です。日本以外のアジア諸国では明日の旧正月の方が賑やかになるようですね。今日は好天に誘われて我が家から北へ小平方面へ軽くサイクリングしました。左写真は、国分寺の恋ヶ窪にある熊野神社です。恋ヶ窪という地名は、平安時代末期の源氏の武将・畠山重忠とこの地の宿場の遊女・夙妻(あさづま)大夫との悲恋の伝承に因んでいるようです。夙妻大夫と熱い恋仲だった重忠は、源頼朝の命により平家追討のために西下しますが、その間に、彼女に思いを寄せていた男が「重忠は西国で討ち死にした」との風聞を流し、それを聞いた夙妻大夫は嘆き悲しんで近くの泉に身を投げたという伝承です。
さて、自転車をさらに北へ走らせると、彫刻家の平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)が晩年を過ごした小平の屋敷に辿り着きます。現在は田中の記念館として作品などが展示されています。右写真はその屋敷の中庭ですが、清潔な日本家屋の佇まいに心洗われます。平櫛田中の代表作は、六代目尾上菊五郎の演じる「鏡獅子」像です。国立劇場に展示してあるあの巨大な彫像は、歌舞伎好きの方なら「ああ、あれか!」と思い出されることでしょう。田中が小平の地で昭和五四(一九七九)年に一〇八歳で亡くなるまでに残した作品は、精緻な造形感覚を宿しながらも、おおらかで屈託のない作風が魅力です。
2月1日(日)快晴・風強し
あさっては節分、その翌日は立春です。月の巡りを基準にした旧暦(太陰太陽暦)では、この立春から八十八夜などの季節の節目が起算されます。いよいよ春の到来です。今日は快晴に誘われて妻と近所を散歩すると、すっかり梅の花がここかしこに咲いていました(下の写真をご覧下さい)。ほのかな梅の香りは
人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける 【 紀貫之(古今集より)】
(住む人はさあどうか、心が変ってしまったか知らないけれども、古里では、梅花は昔のままの香に匂っている。
人の心はうつろいやすいとしても、花は以前と変らぬ様で私を迎えてくれるのだ。)
の歌を思い出させてくれます。
さて、若手歌舞伎役者の中村勘太郎さんが初めて映画に主演した「禅」を見に行きました。鎌倉時代初期に曹洞宗を開いた道元禅師の半生を描いた物語です。小生、以前から道元という人に関心があり、和辻哲郎の「日本精神史研究」(岩波文庫)の「沙門道元」を読んだり、弟子の懐奘(えじょう)が道元の言葉を書き残した「正法眼蔵隨聞記」を買ったり(読めずに積んであります(^^;。本来は「隨聞記」ではなく道元その人が記した「正法眼蔵」を読むべきなのですが、とても手が着きません )しましたが、知的怠慢ゆえ、なかなかその像を結べていませんでした。映画になるというので、安易な接近法であることを承知した上で拝見することにしました。小生がこの映画から感じたのは、道元といえども、ひとりで宗祖たり得たのではなく、彼を教えた宋の如浄禅師や宋から道元を慕って来日した寂円や旧来の教派の迫害から道元を守り支援した鎌倉幕府の六波羅探題・波多野義重といった人々の道元を慕う気持ちが彼を支えたのだということでした。中村勘太郎さんは、目元涼しく座禅の時や歩くときの姿勢も凛としており、奇をてらわず真っ直ぐに道元を造形しようとしていて好感が持てました。なお、道元、如浄、寂円については、拙文宝慶寺参拝記もご参照下さい。
2月11日(水・建国記念日)曇り
今日は肌寒い一日でしたが、陽差しが日に日に春らしくなってきたのを感じるこの頃です。しかしこれからしばらくは苦手な花粉や黄砂の舞う季節でもあります(^^;。さて、小生は、妻と一緒に府中宝生会の謡の稽古に月二回通っています。先週土曜日は、初級本の最後の方に当たる「胡蝶」の稽古が始まりました。「胡蝶」は、梅の花を慕う胡蝶の精が可憐に舞うお話ですので、この季節にぴったりです。この曲については、拙文 「胡蝶の舞」もご参照下さい。その日の午後は、諸先輩に交じって「鞍馬天狗」の子方(牛若丸)のお役をやらせていただきましたが、一カ所音程を間違えましたし、全体的に謡い方が早すぎるとのご注意を先輩から受けました。まあなかなか上達しないものですが、こうしてお役をいただいたりしながら同好の皆さんと謡うのは実に晴れやかで楽しいものです。
さて、今年はハイドン没後二百年ということで、ハイドンの曲が演奏される機会が例年より多いようです(右はトーマス・ハーディという人が描いたハイドンの肖像画)。先月も、所沢にある松明堂音楽ホールという収容人員百名にも満たない小さなホールで、古典四重奏団のハイドンの弦楽四重奏曲全曲演奏会の第二回目の演奏会に出かけました。作品Tだの作品Uだのというハイドン初期の四重奏曲が演奏されることは滅多に無く、たぶん小生の人生でもこれが最初で最後のナマ演奏を聴く機会だと思います。小さなホールで膝詰めのようにして聴く親密な演奏会はなかなか新鮮でした。この全曲演奏会は年二、三回のペースで開かれ、完結するのに八年(!)かかるそうです。
今日は、妻と、すみだトリフォニーホールで催されたフランス・ブリュッヘン指揮の新日本フィルの演奏によるハイドンの最後の十二曲の交響曲の演奏会の第一回目に出かけました。古楽界の大先達であるブリュッヘンも高齢になり、足元も覚束ない様子でしたが、新日本フィルの奏者たちがこの老匠を敬愛し、彼の意図を体して演奏していることがよくわかりました。ロビーで、著名なチェロ奏者でオーケストラ・リベラ・クラシカの指揮者でもある鈴木秀美さんと音楽評論家の安田和信さんがお話ししているのを見かけました。彼らにとっても、ブリュッヘンは古楽の開拓者であり敬愛すべき大先達なのですね。
2月21日(土)快晴
暦の上では「雨水」(凍りついていた土が陽気で湿り気を帯び柔らかになる頃)を過ぎ、春は盛りに向かっています。近所を歩いていると、ここかしこで梅の花が咲き誇っています(下左写真をご覧下さい)。しかしまだまだ空気が冷たい日もありますね。街の店先に鮟鱇(あんこう)が吊してあるのを見かけると(下右写真をご覧下さい)、まだ鮟鱇鍋で暖まりたい冬を感じます。
さて、フランス・ブリュッヘン指揮による新日本フィルのハイドン交響曲シリーズも昨日第三回が催され、余すところあと一回になりました。昨日は、第99番変ホ長調、第100番「軍隊」、第101番「時計」が演奏されました。ソロあり、掛け合いあり、フーガあり、民謡風メロディありと、曲作りに様々な工夫が凝らされ、また、当時ようやく普及し始めたクラリネットがオーケストラに加わって音色も豊かになったこれら円熟期の交響曲は、ハイドンの音楽家としてのサービス精神がいかんなく発揮された楽しいものばかりです。この日の演奏では特に「軍隊」交響曲が出色の出来でした。この曲では、第二楽章と第四楽章に大太鼓、シンバル、トライアングルといった賑やかな軍隊風の楽器が出てきますが、この日の新日本フィルの演奏では、第二楽章を演奏し終えたこれら三つの楽器の「軍楽隊」は舞台からそっと抜け出したかと思うと、第四楽章の最後で、舞台右手から現れて賑やかに演奏しながら行進し舞台を横切って行ったのです。この「特殊演出」に、観客席からはやんやの大拍手が沸き起こりました。もしハイドンがこの「特殊演出」を眼にしたら、きっと大喜びするのではないでしょうか。新日本フィルの「軍楽隊」は、ハイドンがこの交響曲で意図した面白さ、華やかさを見事に捉えた演出だったからです。
たまたま2月15日の日本経済新聞に、今回のブリュッヘン指揮による新日本フィルのハイドン演奏会のことが紹介されていました。インタビューの中でブリュッヘンは、「あの時代のルール」を知って演奏することが重要だと述べています。18世紀後半から19世紀前半の古典派時代の演奏は、現代の演奏方法と隨分異なる点が多いのです。例えば、音階の上下と音の大きさを比例させること、ビブラート(音を震わせること)は掛けないこと、最後の音は小さめにすること等々。こうしたルールは人間の会話の仕方に準じて作られました。ブリュッヘン曰く「ハイドンの時代の音楽は音楽家たちの会話のようなもの。ジャズのセッションとも似ている」と。このことはブリュッヘンと同じく古楽の発掘者であるアノンクールやクイケン兄弟も述べています。フランス革命後の音楽は18世紀の音楽の教則から遠く離れていきました。ブリュッヘンたちは、膨大な文献を読み解いたり、18世紀の作曲家の手書き譜面を発掘したり、当時の楽器を再現したりしながら、古典派音楽のルールを再発見し、演奏で実践しました。すると「典雅」なばかりではなく、「生気あふれる」音楽が立ち現れたのです。古楽は、今や、古い様式を取り戻したという「歴史的意義」に留まらず、芸術的価値の再創造として現代の人々に感動を与えているのが素晴らしいと思います。