多度津「真鍋由郎」



「多度津町誌―資料編―」(H3.3.31, 多度津町誌編集委員会 編集、多度津町 発行)より



真鍋由郎著の「先賢群像」の後書に著者の履歴が書かれている。















真鍋由郎氏の系図は次のようである。


系図冒頭の真鍋氏出自の上半分が欠落しているのが誠に残念であるが、非常に興味深い由来が書かれている。
分かる範囲を読み取ると次のような内容であろう。

      讃岐國多度津藩
・・・・・・・・・・・・・・・・備中國真鍋嶋
・・・・・・・・・・・・・・・・國黒渕村に引越し六
・・・・・・・・・・・・・・・・浪を業とす然る處領
・・・・・・・・・・・・・・・・矩公領分住居の者
・・・・・・・・・・・・・・・・役所より通知に因り差
・・・・・・・・・・・・・・・・癸酉年二月拝謁被
・・・・・・・・・・・・・・・・先祖住居地を形
取り真鍋六兵衛と相改む是則當家の
始祖也


この文章から、「備中国真鍋島」の出身者が「・・・國黒渕村」に引っ越したと読み取れるが、黒渕村とはどこであろうか。
Wikipediaによれば、
 1874年(明治7年)9月28日 名東県布告として、
  o観音寺村、上市浦、下市浦、中洲浦、仮屋浦、坂本村が合併して観音寺村が誕生。
  o黒渕村、北岡村、山田尻村、大畑村が合併して柞田村が誕生。
となっており、「・・・國黒渕村」とは讃岐國豊田郡黒渕村、即ち現在の観音寺市柞田町のうち柞田川の下流域沿いと思われる。

また、「・・矩公領分」とは「京極高矩公御領内」と思われるから、「癸酉年二月拝謁」は、京極高矩公が丸亀藩主であった1724〜1763年の間となり、宝暦3年癸酉(1753)と推定される。

六兵衛氏は真鍋島のどの家から来たのだろうか。当時は真鍋島にも五人組制度があり、自由に移動することは出来なかったはずだから、讃岐國へ移住するためには、二男・三男のため僧籍に入るとか、縁組が成立して嫁入り・婿入りするかしないと、道中手形が発行されないから移動できない。「備中眞鍋島の史料」によれば、詫間や丸亀への転籍はときどきあったようだから、同じ沿岸部の観音寺へ婿入りしたことは考えられる。
そして、「先祖住居地を形取り真鍋六兵衛と相改む」とあるから、自分の出身地である真鍋島を苗字に取って、真鍋六兵衛と改めた、ということであろう。
戦国時代に真鍋島を領有していた真鍋氏は江戸時代には仕官もせず衰退して1630年頃までには真鍋氏は真鍋島からいなくなっている。六兵衛氏はそれから更に70年ぐらい経ってから生まれたと推定されるから、物心付いた頃には真鍋島に真鍋氏がいたことは知らないであろう。その後真鍋島の庄屋三宅(壽助)氏が真鍋姓を名乗るのは1830年頃、天保年間になってからであるから、六兵衛氏は真鍋島の島名を取って自分の姓とするのに何の遠慮もなかったはずである。


ところで、この系図に出てくる真鍋良蔵および丸亀藩の真鍋益右衛門はそれぞれ京極家の分限帳に載っている。
真鍋益右衛門は「天霧城主香川信景末孫」となっているが、どういうつながりであろうか。三野町大見にも子孫がいるようだし、吉原町にも香川信景氏に関わるという井戸がある。

系図や過去帳に出てくる人物の推定生存年代を表にしてみると次のようになる。(京極藩主は在任期間) 中央が由郎家である。右半分は丸亀藩の益右衛門家の一族であろうか。





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