「備中眞鍋島の史料 第一巻」(宇野脩平著)
日本常民文化研究所発行 より



[真鍋島古文書の要点まとめ]

<年代>
享徳年間に真鍋氏が住みつくまでは、真鍋島は「寄嶋」と呼ばれていた。
1453(享徳2年)真鍋貞友が継図作成
????真鍋五郎右衛門が安芸の森様に仕え、その後紀伊様に仕えた。
   五郎右衛門は右衛門大夫より1〜2代前、真鍋の聟?
   (真鍋の兄弟・一門かも?)
1605頃 藤大納言信成の末孫真鍋右衛門大夫(没?)
1615頃 右衛門大夫の子息真鍋藤兵衛岩坪に住居
1625頃 藤兵衛 肥後へ(真鍋島に真鍋氏消滅)
1635頃 村上八郎左衛門の三男肥後より来る。
1685 真鍋嶋庄屋傳右衛門文書作成。真鍋島の真鍋氏屋敷跡は山林になった。
1830頃 真鍋島庄屋三宅氏が真鍋に改姓


<系図関連>
四郎左衛門の舎弟=右門太夫
右門太夫に6女1男あり。1男は藤兵衛、6女は次のとおり。
 1.善衛門妻(真鍋島)
 2.与左衛門妻(備中大嶋中村)
 3.伊右衛門妻(讃州仁尾)
 4.五郎右衛門妻(讃州仁尾)
 5.早逝
 6.村上八郎左衛門妻(小倉?肥後?)
 
藤兵衛に娘1〜2人?

(右衛門大夫系図は庄屋傳右衛門方で所持)

<知行所>
真鍋嶋・北木嶋・干嶋・六嶋、備中にては五ヵ茂平、讃岐にて加茂・吉原。
真鍋五郎右衛門の知行所は高ち(=高知? 土佐はいつから高知と呼ばれていたのか?)



真鍋島の真鍋=真鍋海賊とか真鍋水軍であるというような先入観でみてしまうが、よくよく考えると、真鍋島古文書には真鍋水軍があったとか真鍋海賊(山賊に対する海賊とか、陸地の領主の関所に対する海の領有を主張する関所)という記述は一切出てこないことに気付く。

「信長公記」によれば和泉の真鍋は真鍋水軍として織田信長について戦っているし、関ヶ原の戦い後は紀州徳川家に仕え、「南紀徳川史」には和泉の真鍋の出身地は真鍋島であると書かれている。

そこでつい、和泉の真鍋水軍は真鍋島水軍から出たものと思ってしまうが、和泉の真鍋が水軍を有していたとしても、漁村の真鍋島から出たので操船が得意ではあっただろうけど、真鍋島に水軍があったとは書かれていない。

源平合戦で唯一平氏が勝った水島合戦は、真鍋島からも近いので真鍋水軍が参加していたのではないかと思いがちだが、「平家物語」の水島合戦の項には真鍋島出身者は出てこない。

「平家物語」に真鍋島出身者らしい者が出てくるのは「一の谷の合戦」であり、真鍋四郎・五郎兄弟は陸上の木戸の守備に配置されている。
真鍋島の真鍋が水軍を率いて参戦していたのなら、こんな配置にはなるまい。どうみても少なくとも源平合戦時代(1180年頃)には真鍋水軍はなかったのではなかろうか。

讃岐多和に真部姓が集中しているが、一部の伝承によれば、源義経が予想外に阿波から上陸して屋島の陸地側から攻撃してきて、平氏側に属していた真鍋五郎は屋島の陸上側で防戦している間に、平氏本隊は船で海に逃れてしまったため、真鍋氏は陸地に取り残されてしまった。そこでやむなく阿讃山脈の奥深くへ逃げ込み、多和に定住した、という。これが事実なら、ますますもって真鍋氏は水軍を率いていない。真鍋が水軍の長なら平氏を逃がすため、あるいは海からの攻撃に対処するため、船上で待機していなければならなかったであろう。

戦国時代(1500年頃)まで時代が下ると、真鍋島にも水軍が組織されていた可能性もあるが、東は塩飽水軍、西は村上水軍に挟まれて、あまり活動は出来ない小規模なものではなかろうか。


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