盤珪永琢 と 仙厓義梵 |
丸三角四角図 (出光美術館) 紙本墨書墨画 |
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-wiki / (出光美術館) |
仙厓 義梵(せんがい ぎぼん) (1750年4月 - 1837年11月4日) |
栄西禅師が開いた 扶桑最初禅窟 (日本で最初の禅寺) 博多・聖福寺の復興をなし遂げた。 |
39歳より博多の聖福寺の盤谷紹適の法嗣となる。住持を23年務めた。 |
88歳の遷化までに、多く禅画を残した。江戸時代の臨済宗の僧。 |
丸三角四角図 (出光美術館) 紙本墨画 |
これをどう見るか、これは理屈を捏ねて、解釈しようとするのではなく、またできるものでもない。 |
ここに示された仙厓禅師の境地に感嘆し、礼拝すべきものである。 |
公案の一つに「拈華微笑」がある。霊鷲山での説法において釈尊が言葉ではなく華を見せた。 |
大勢の会衆の中で、摩訶迦葉だけが微笑した。 解釈理解ではなく共感し、ともにその境地を楽しんだのである。 |
解釈しよう、意味を見つけようとした者は、当然理解できない。 禅宗の起源とされる説話である。 |
何か深い意味があるに違いない、それは何だ。ああだこうだと 意味づけをしては迷いを深めていくだけである。 |
もう一点、一円相画賛 これ食ふて茶のめ |
これも円を描き始めると、禅僧お得意の円相かと思わせておいて、 画讃で「これ食ふて茶のめ」と書く。 |
一円相画賛 これ食ふて茶のめ (出光美術館) 紙本墨書墨画 |
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一円相画賛 これ食うて茶のめ
-出光美術館 / |
博多聖福寺 福岡県福岡市博多区御供所町6-1 |
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禅門には、他にもスーパースターが大勢いるが、もう一人挙げておきたいのが 盤珪 永琢(ばんけい えいたく)である。 |
盤珪 永琢(ばんけい えいたく / ようたく) (1622年4月18日 - 1693年10月2日) |
江戸時代前期の臨済宗の僧。第218世妙心寺住侍。 播磨国揖西郡網干郷浜田村(現在の兵庫県姫路市網干区浜田)出身。 |
1672年(寛文12年)勅命で京都妙心寺の住持に就任。 龍門寺を拠点として播州にとどまらず、江戸から四国・九州にわたり説法、 |
臨済宗でありながら、公案禅を排し当時の日常語で法を説いた。禅問答を挑んだ禅僧には、馬方、船頭のことなど知らぬと返した。 |
※「禅門逸話選」には、修行をしても悟りに至らず、還俗して馬方、船頭などをしている時、突如、大悟したというような話が |
多数載っている。 僧俗の弟子五万人に及び、説法には、一般庶民から他宗の僧までもが詰めかけた。 |
1693年(元禄6年)71歳で死去。没後の1740年(元文5年)大法正眼国師の号を賜られた。 |
後に門人たちにより「盤珪禅師語録」がまとめられた。 岩波文庫から出ており、平易な文章で古語辞典なしで読める。 |
盤珪国師墨跡 愛媛県大洲市中村618の1(大洲市立博物館内) |
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龍門寺 兵庫県姫路市網干区浜田812 |
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「不生の仏心」 |
「烏(からす)の声、雀の声、それぞれの声が、聞かうとも思ふ念を生ぜずに居るに、烏の声、雀の声が通じ別れて、 |
聞き違わず聞かるるは、不生で聞くといふものでござるわいの」 |
「鏡は前にある物を映そうという思いはござらねど何でも映しまする。その前の物が取り除かれる時は、映しますまいと |
思いませねども映りませぬ。不生の仏心と申すは、このようなものでござる。この不生の仏心のままで暮らさっしゃい」 |
Fudaraku Voice |