ロシア共産党党内闘争史
『革命の良心―ソヴィエト・ロシアにおける共産主義的反対派』
蜂起の問題、連立か独裁か
R・ダニエルズ
(注)、これは、『ロシア共産党党内闘争史』(国際社会主義運動研究会訳、現代思潮新社、1982)の第二章「一九一七年の革命におけるボリシェヴィキ諸分派」における「第五節、蜂起の問題」「第六節、連立か独裁か」(P.44〜57)の抜粋である。私のHPに、この抜粋転載をすることについては、現代思潮新社の了解を頂いた。抜粋転載文の著作権・出版権は、著者・訳者と現代思潮新社にある。「本書の全部または一部を無断で複写複製(コピー)することは、著作権法上の例外を除き、禁じられている」。
全体424ページの大著で、以下は、ボリシェヴィキ単独武装蜂起の是非、権力奪取後のボリシェヴィキ一党独裁政権かソヴィエト内社会主義政党の連立政権かの是非をめぐる『ロシア共産党党内闘争』の実証的研究である。レーニンらの「引用文」中、その他の傍点個所は太字にした。抜粋範囲の(註)は、(83)から(145)まであり、すべて出典が明記されているが、ほとんどがロシア語か英語なので省略した。
1989年東欧革命、1991年ソ連邦解体によって、レーニン型社会主義体制と前衛党システムは10カ国で一挙に崩壊した。その一党独裁型政治体制の原点は、レーニンによる強烈、執拗なボリシェヴィキ単独武装蜂起主張と実行など、1917年10月にレーニンのしたこととその性質にある。
(訳者あとがき)抜粋
本書は、一九六〇年にハーバード大学出版部から刊行されたロバート・X・ダニエルズ著『革命の良心――ソヴィエト・ロシアにおける共産主義的反対派』を全訳したものである。この書は、著者の、左翼反対派をとりあつかった学位論文が元となり、それが拡大再生産されて、この大著になったとのことであるが、『革命の良心・・・・・・』という原題はまことに結構な題とは思ったが、内容はソヴィエト・ロシア共産党の党内闘争史から成るものだから、出版者と協議の上、一般に解り易いように邦訳題を『ロシア共産党党内闘争史』とした。この点、原著者におわびしておきたい。
ロシア共産党の党内闘争史をとりあつかって、これ位、広汎な資料を利用し、詳細かつまとまったものは、今まで出ていないだろう。従来のは、スターリン主義の悪影響もあって、あまりにも「神話」が多すぎる。特にスターリン党史は、神話の歴史であろう。ハーバード大学のロシア研究所、同大学ホートン図書館所蔵の「トロッキー文庫」等等にある、ちょっと入手しがたい尨大な関係資料を、思うままに利用したことが本書の強みである。
〔目次〕
蜂起の問題 (P.44〜51)
連立か独裁か (P.52〜57)
付録1、共産党史における重要事件年表(1917、18年のみ転載)
付録2、主要党機関の構成(1917年、第六回党大会のみ転載)
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ロイ・メドヴェージェフ 『1917年のロシア革命』
梶川伸一 『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』
中野徹三 『社会主義像の転回』制憲議会解散論理
ダンコース『奪われた権力』第1章
『1917年のレーニン』クーデター説を含めファイル多数
一九一七年の革命におけるボリシェヴィキ諸分派
現実の世界においては――形而上学的網の目はさて措き――歴史は、行動を起すことを決意する人々によって作られる、たとえ彼らがその意図するところを達成するかどうかは別問題であるとしても。このような決意を、ボリシェヴィキ党は、一九一七年秋に行なわなければならなかったのだ。行動に移るべきか否か、革命的沸騰をクーデターに転ずべきか、あるいは自然をしてその経路をとらせるべきか。決定は、レーニンの執拗な煽動によって行なわれたが、それはボリシェヴィキがその政権の初期にとったあらゆる重大な措置と同様、不安げな逡巡の雰囲気の中で、激烈な分派的反抗に直面する中でなされたのであった。レーニンが鍛接しようと骨折ってきた党内対立の裂け目は、ふたたび大きく口を開け、ボリシェヴィズムの慎重な翼は、引き返しがたい遠方に去ったも同様となった。
レーニンが、彼のボリシェヴィキ一党による権力掌握と独裁をまじめに考慮するようになった、最初の確実な兆候は、七月事件ののち、この暴動を導いた党を臨時政府が非合法化しようと企てたときに現われた。レーニンは、「全権力をソヴィエトヘ」というスロ−ガンはもはや役に立たなくなってしまった、と断じた。彼は、革命の未来はソヴィエトとともにあるとは、もはや考えなかった。ボリシェヴィキは、ソヴィエトを他の社会主義諸党の平和的協力者としての活動に駆り立てるであろう。革命は、ボリシェヴィキの権力奪取を通じて、はじめて前進することができよう。「革命的プロレタリアート自らが、独自に政権をその手中に握らなければならない。」
暫くの間レーニンは、慎重な配慮と注意ぶかい準備を要求した。こうした抑制は、性急な人々の強い反対に出会った。M・M・ヴォロダルスキー(ボリシェヴィキに加入したばかりのメジュライオンツィの一員)は、ペトログラード市組織にこれよりずっと忍耐を要しない方針を認めさせることに成功した。第六回党大会は、大衆による直接行動を支持する断固たる立場を採用した。「これら革命的諸階級の任務は・・・・・・その全力量を発揮して国家権力をその手中に納め、こうして先進諸国の革命的プロレタリア−トとの同盟の中で、その権力を平和と社会の社会主義的再建との方向に導くことである」。ボリシェヴィキ極端派は、大喜びでソヴィエトと決別し、直接に大衆に訴えた。モロトフの三月の過激主義が擁護された。「権力は力によってのみ獲得せられる」と彼は宣言し、「現在の状況からの唯一の出口――プロレタリアートと貧農の独裁」を強調した。
予見された革命の進展が、ボリシェヴィキと他の社会主義諸党との関係にとってどういう意味をもたらすかは、まだ明らかでなかった。マルクス主義者たちは、あらゆる真にプロレタリア的な政治勢力は単一の党に結合されるものと常に考えてきたし、またこのことは、二つ以上の革命党の間の関係という問題を考察することの妨げとなってきた。第六回大会の演説の中で、ソコリニコフは、ボリシェヴィキには無二の革命的徳性があると主張した。「社会革命党からボリシェヴィキに至る統一戦線をつくりたいという点に関しては、わたしは同志スターリンに賛成できない。ソヴィエトの手中への権力移行に伴って、権力は、革命的前衛としてのボリシェヴィキに、不可避的に帰するだろう。そしてカデットとの妥協の道を辿るメンシェヴィキや社会革命党は、大衆の眼の中にすべての信頼を失ってしまうだろうから、彼らはソヴィエトから絞り出されるだろう。」
八月の後半に、ケレンスキー自身の参謀長L・G・コルニロフ将軍は、軍事攻撃によって臨時政府を転覆しようと試みた。この右からの脅威に対抗するため、政府は、集められるかぎりの左の支持を受け入れねばならなかった。そこでボリシェヴィキ非合法化は強められなくなった。九月四日、七月事件以来投獄されていたボリシェヴィキ指導者たちが、トロッキーとカーメネフも含めて釈放された。同時に、ボリシェヴィキと社会革命党の比較的左翼的な部分とに対する民衆的支持が、雪のように降り注ぎはじめた。パンと土地と平和というボリシェヴィキの単純な綱領は、この危機と革命的激情の時を迎えて、殆ど抵抗しがたいものがあった。八月三十一日、ちょうどコルニロフ運動が崩壊し去ったのち、ソヴィエト代表のリコールと再選挙が無制限に行なわれて、その結果、首都の労働者および守備軍の間に、感情の変化の不吉な兆侯がつくり出された。ボリシェヴィキ決議案が、ペトログラード・ソヴィエトで、はじめて多数派を獲得したのである。
ボリシェヴィキに幸いしたこの決定的な転換を見たレーニンは、ソヴィエトにおける多数党の革命的指導権という彼の以前の期待に飛ぶように復帰した。「今やロシア革命において、非常に急激な、また非常に独自な方向転換があらわれてきたため、われわれは党として、自ら進んで妥協を提起することができる・・・・・・――妥協はわれわれの側からすれば、『すべての権力をソヴィエトヘ』という七月以前の要求、ソヴィエトに対して責任をもつ社会革命党とメンシェヴィキの政府をつくれ、という要求に帰ることである。・・・・・・この政府が全ロシア革命の平和的な前進と、平和と社会主義の勝利のための国際的な運動の前進に対する、きわめて大きなチャンスを保証することは、きわめて確実だといってよい。ただ、革命のこの平和的な発展のためにだけ・・・・・・ボリシェヴィキは革命的な方法をもって闘うのをやめる・・・・・・われわれは実際の民主主義のもとでは、なにも恐れるものがない。」
それにもかかわらず、レーニンの調停的気分は、一貫したものでもなければ、永続的なものでもなかった。論文「妥協について」を公表する前に、レーニンはあとがきを付け加えて、この考えはもはや「時期を失した」と断じた。そして彼はふたたび、平和的進展という幻想に対してボリシェヴィキに警告しはじめた。協力してゆくという考えは、レーニンの頭に浮ぶや否や、たちまち打ち棄てられてしまったが、それにもかかわらず彼は「全権力をソヴィエトヘ」というスロ−ガンを再度擁護することを止めはしなかった。ソヴィエトは、今やボリシェヴィキ・ソヴィエトであった。あるいはやがてそうなるはずであった。ボリシェヴィキは、九月五日に、モスクワ・ソヴィエトで勝利をかちとり、また九月九日にはぺトログラード・ソヴィエトが、ボリシェヴィキを多数派とする新しい幹部会を就任させた。
この成功に応えてレーニンは、遅滞することなく重大決定を行なった。彼は九月十二日から十四日の間に、フィンランドの隠れ家からペトログラードのボリシェヴィキ中央委員会にあててかいた二通の手紙の中で、ボリシェヴィキが革命の運命をそれ自身の手中に握り、武装権力奪取のために準備すべき時が来た、と告げた。「ボリシェヴィキがこの二つの首都の労働者−兵士代表ソヴィエトで多数を獲得した以上、彼らは国家権力をその手中に握ることができるし、またおさめねばならぬ。・・・・・・もし、われわれが、いま権力を握らなかったならば、歴史はわれわれを決して許さぬであろう。・・・・・・モスクワでもペトログラードでも、すぐさま権力を握らねばならぬ。・・・・・・われわれは無条件にかつ疑いなく勝利するであろう。」
レーニンの党は、彼の武装の呼びかけに対して一人の人間のごとく応えて立つ用意が、全くできていなかった。行動を呼びかけるレーニンのアピールが九月十五日に受け取られたとき、ボリシェヴィキ党は、いわゆる民主主義会議に参加していた。この会議は、憲法制定会議の選挙が開催される前に支持を集めようとする政府諸党によって招集された諮問機関である。ボリシェヴィキにとって焦眉の問題は、政府がこの協議会に提出した、憲法制定会議が選挙されるまで置かれる擬似代議憲法機関たる共和国会議の設置承認を求める提案によって提起された。果してボリシェヴィキは、臨時政府の代表制的組織に参加をつづけるべきか、またはそれをボイコットして、ソヴィエトの名において革命的行動のため準備すべきか?
蜂起を要求するレーニンの提案は、党中央委員会の慎重なあるいは大胆な諸分派のいずれもが即座に実行に移す用意のあるところを越えていた。ジノヴィエフはすでに、「何をなさざるべきか」と題する、一論文(八月三十日にスターリンによって公表された)を書きあげていたが、その中で彼は、力によって権力を握ろうと試みる者にはパリ・コミューンの運命が待っている、と警告していた。マルクス主義によって客観的な革命の潮に従うようにと教育されていた党は、「蜂起の技術」を政治的成功への鍵とみなすよう、まだ教えられてはいなかったのだ。カーメネフは中央委員会に対して、党による故意の権力奪取を唱えるレーニンの呼びかけを断然拒否するように提案した。この指導者の公然たる反抗は、委員会の多数によって排撃されたが、地方におけるボリシェヴィキの弱体を考慮して蜂起の危険を冒すことを肯じない一般的な消極性は、レーニンの提案を完全に無視してこれらの手紙を破棄しようとする動きを生ぜしめた。ある者は、この措置を修正してレーニンの提案を党記録にのここすべきだ、とほのめかした。党内の右翼的慎重派の力が、この害もない修正意見が中央委員会内に惹起した対立によって、露に示された――原文保存を問う投票はただの六対四で、棄権六名という結果になったのである。レーニンは何の返事も受けとらなかった。
レーニンの最初の反乱の呼びかけをお預けにしたのち、ペトログラードのボリシェヴィキ指導部は、民主主義会議と共和国会議、もしくは(通常呼ばれた形では)予備議会に関する彼らの見解の相違を解消する努力に立ち戻った。民主主義会議は九月十四日から九月二十二日まで存続したのち、予備議会(実際には十月七日に招集された)の設立にひきつがれることになった。民主主義会議におけるボリシェヴィキ代表団すなわちフラクションは、いかなる態度をとるべきかについて中央委員会の指令を求めた。トロッキーは予備議会のボイコットを唱えた。委員会は、九対八で賛成に割れたが、のち、問題を民主主義会議のボリシェヴィキ・フラクションに送り返した。トロッキーとスターリンは――珍しくも協力して――フラクションに報告するにあたって中央委員会の左翼ブロックに味方したが、ルイコフとカーメネフは、右翼を代弁してボイコットに反対した。討論の末にフラクションによる投票が行なわれ、代議員たちは七七票対五〇票でボイコットを否決した。トロッキーは彼の敗北を、地方ボリシェヴィキの代表のせいにしたが、革命的情勢に関する彼らの評価は、首都で行なわれている評価よりも多少保守的なものだったのである。
その間レーニンは、急進的な戦術を推進しつつあった。「われわれは、民主主義会議をボイコットすべきであったのだ。・・・・・・われわれは予備議会をボイコットせねばならぬ」。予備議会への参加決定の報に接したとき、彼はそれを党における重大な弱点のしるしと考えた。「民主的中央集権主義」についての彼自身のあらゆる説教を無視しさって、レーニンはこうかいた。「どのような場合でも、われわれは参加の戦術と和解することはできないし、また和解すべきではない。・・・・・・わが党の『上層部』に動揺がみられることには、疑問の余地がない。この動揺は致命的なものとなるかもしれない」。彼は特にトロッキーの名をあげて、革命的コースを防衛したことを讃えた。「トロッキーはボイコットに賛成した。でかした、同志トロッキー!・・・・・・ボイコット万才!」
そこでレーニンは、権力奪取は達成されうるし、またされなければならないと同僚に説得するために、猛烈な手紙キャンペーンを開始した。彼の攻撃に対する貧弱な反応に彼は激怒した。
「わが中央委員会および党上層部に、ソヴィエト大会を待つことに賛成し、今すぐ権力をにぎること、今すぐ蜂起することに反対する思潮ないし見解があるという真実は、これを認めねばならない。このような思潮ないし見解は、粉砕されねばならない。
さもなければ、ボリシェヴィキは永久に自らを汚辱し、政党としての生命を失うであろう。
なぜならば、このような機会をみのがしてソヴィエト大会を『待つ』ことは、完全なたわけであり、完全な裏切りだからである」。
ここでレーニンは、ロシアの革命家の国際的義務を訴えた。引き延ばすことの意味、それは、「ドイツ労働者への全き裏切りである。断じてわれわれは、彼らの革命の開始を待ってはならない」」と彼は宣言した。
この一撃に加えて、レーニンは敢えて威嚇した――彼は中央委員会を辞職し、また(彼自身の組織原則を無視して)直接党に訴えるつもりだと。
「・・・・・・私の要請に対して、中央委員会が返事さえもよこさずにほったらかしていること、ボリシェヴィキの犯したきわめて重大な誤謬、たとえば予備議会に参加するという恥ずべき決議や・・・・・・誤謬を、私が論文中に指摘したところを中央機関紙〔スターリン編集〕が抹殺していること――これらをみるとき、私は、中央委員会がこの問題を討議したくないと『微妙に』ほのめかしているのだ、口をとざして私から遠ざかろうとものやわらかにほのめかしでいるのだ、と認めざるを得ないのである。
私は中央委員会から脱退して、党の下部および党大会で煽動する自由を留保するために、中央委員会脱退願を提出せざるをえない。
なぜならば、もしわれわれがソヴィエト大会を『待ち』、今の時機を逸するならば、われわれは革命を破滅させるであろうということは、私の最も根本的な確信だからである」。
レーニンの脅かしは効果があった。中央委員会のより大胆なグループが、レーニンの刺激と公然たる弾薬供給とを同時にうけて、勝利を収めた。十月三日、中央委員会は、モスクワ組織の急進派を代表するG・I・ロモフが即時蜂起を主張するのを聞いた。大胆な行動を提唱する者たちに同意する準備がまだなかった委員会は、ペトログラードに潜入して、権力奪取に関する最後的決定を行なうために委員会と会合するよう、レーニンに要請することを決議した。この措置につづいて、予備議会問題が再検討された。トロッキーは、予備議会のために集合したボリシェヴィキ代表団を前に演説して、会議の第一日目に退場を演出すべきだと主張した。カーメネフとリヤザノフがこれに反対して、ボリシェヴィキ・フラクションは会議を去る前に筋の通った弁明の機会を待つべきだ、と示唆した。この度は、投票はトロッキーの勝利に帰した。カーメネフは、中央委員会への宣言の中で、退場決定に空しく抗議した。その中で彼は、彼が公けに党を代表していたあらゆる地位から除かれることを要求した。
予備議会が十月七日に開かれたとき、ボリシェヴィキは、計画どおりに、公然たる反抗の挙に出た。トロッキーが起ちあがって、政府に対する事実上の宣戦布告を行なった。「この人民を裏切っている政府とは、そしてまた、この反革命を黙認している会議とは、われわれはいかなる共通点ももたない。・・・・・・われわれはこの余命いくばくもない会議を脱退して、全ロシアの労働者、兵士、農民に向って勇気と警戒心を持てと呼びかける。ペトログラードは危機に瀕している! 革命は危機に瀕している! 人民は危機に瀕している! われわれは人民に訴える! 全権力をソヴィエトへ!」 ボリシェヴィキは退場した、そして蜂起の仕事に取りかかった。
今や事態は急速に変化していったので、レーニンは彼の党と足並みを揃えてはいられなかった。十月三日から七日の間には、彼は今なおこう書いていた。「ボリシェヴィキはソヴィエト大会を待つ権利をもたない。即座に権力を握らねばならぬ。・・・・・・ソヴィエト大会を待つことは、児戯に等しい形式主義・・・・・・革命に対する裏切りである」。だがその間ボリシェヴィキは、蜂起の準備に大童わであった。十月九日、ボリシェヴィキの支配するべトログラード・ソヴィエトは、トロッキーを長とする軍事革命委員会を設置した。当初はペトログラード守備隊の軍事的支配権を臨時政府の手から奪い取ることを目的にしたこの機関が、蜂起の実際的指導部となった。
十月十日、賽は投げられた。レーニンが変装してペトログラードに現われ、七月事件以来、はじめて中央委員会と顔をつき合わせた。彼は熱をこめて蜂起のために論じ、決議を提案した。「ロシア革命の国際的情勢ならびに軍事的情勢、農民蜂起とならんでプロレタリア諸党がソヴィエトにおいて多数派を占めたという事実、人民の信頼のわが党への移行(モスクワにおける選挙)、そして最後に、第二のコルニロフ事件の公然たる準備は蜂起を日程にのぼせているということを、中央委員会は認める」。動議は一〇票対二票で採択された。ジノヴィエフとカーメネフが反対であった。
ジノヴィエフとカーメネフは、かつてのレーニンと同様に、自分たちがおろかなことを考えた中央委員会多数派の決定の前に頭をさげる用意など、ありはしなかった。十月十一日、彼らは一通の手紙をかいて、主なボリシェヴィキ組織に配布した。その中で彼らは、蜂起の計画に反対する理由を述べた――
「われわれが深く確信しているところでは、現在武装蜂起を主張することは、わが党の運命のみならず、ロシアおよび国際革命の運命を、一枚のカードに賭けることを意味する。
被抑圧階級が、戦わずして諦めるよりも、前進して敗れる方がよいと判断せねばならない歴史的情勢があることは疑いもない。労働者階級は、現在こうした状況にあるか? 否、千度も否!
平和的な政策が、未来の大衆的支持を獲得するであろうし、また党は、社会革命党左翼との同盟の中で、憲法制定会議における支配的地位を勝ちとることができるであろう。蜂起と革命戦争の道は、軍事約破滅の前兆となるにすぎない――
兵士大衆がわれわれを支持するのは、戦争のスローガンのおかげではなくて、平和のスローガンのおかげである。・・・・・・もしわれわれが革命戦争を遂行するならば、兵士大衆はわれわれの許から走り去るであろう。・・・・・・
権力を握るや、労働者の党は、そのことによってヴィルヘルムに一撃を加えること疑いない。・・・・・・しかしこの打撃は、すでにリガその他が陥落した現在の条件下にあっても、ドイツ帝国主義の手をロシアから払いのけるのに十分強力であろうか?」
ジノヴィエフとカーメネフは、こうした希望は殆ど根拠がないと考えた。同様にまた彼らは、他の人々の仮定を真に受けなかった。「国際プロレタリアートの多数派がすでにわれわれと共にある、といわれる。不孝なことに、そうではないのだ」。他方で彼らは、時きたれば行動に出ることを恐れるものではない、と告白した――
「ヨーロッパにおける革命の発展は、躊躇することなく、即座に権力をわれわれ自身の手に握ることを、われわれに義務づけるであろう。これはまた、ロシアにおけるプロレタリアートの蜂起を勝利に導く唯一の保証である。その時はくるであろう、しかしまだきていない」
これらの拭いさられぬ疑問に終止符を打ち、はっきりした叛乱の準備を進めるために、レーニンは、十月十六日再度ペトログラードに潜入して、中央委員会および選ばれた地方党指導者たちと会合した。議論は、以前よりも一層激烈を極めた。ジノヴィエフとカーメネフは、憲法制定会議の選挙を待つという慎重策を擁護し、また、カーメネフは、歴史の非個人的諸力に対する、マルクス主義的訴えを行なった。「問題は、今でなければ駄目だ、というようなものではない。わたしはロシア革命にもっと信頼をもっている。・・・・・・二つの戦術が闘争しつつある――陰謀の戦術と、ロシア革命の推進力を信頼する戦術とが」。
中央委員会における十月十六日の論争の終りに、叛乱の準備を続行するというレーニンの決議案に対する投票が行なわれた。十月十日と同様に、効果のあがらない反対を乗り越えて、決定がなされた――投票の結果は、賛成一九、反対二(ふたたびジノヴィエフとカーメネフ)、棄権四であった。しかしながら、委員会の若干のメンバーは、レーニンに敢えて反対はしないものの、反対動議にも同時に賛成投票する用意があった。ジノヴィエフが、ソヴィエト大会が開かれる段になってそのボリシェヴィキ代議員団にも諮ることが可能となる時まで、蜂起の準備を延期するよう要求する反対決議を提出したところ、彼は反対一五票、棄権三票に対して、六票の賛成票を集めたのである。カーメネフは――九月二十八日のレーニンの前例にならって――抗議のため中央委員会から辞職した。
党中央委員会とトロッキーのペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会との連絡にあたるべきいわゆる軍事センターを中央委員会が創設したのは、この会議においてであった。この新しい機関に任命されたのは、スターリン、スヴェルドロフ、ブブノフ、ウリツキー、およびジェルジンスキーであった。このセンターは独立のグループとして活動したことはなかったのであるが、その設置を決定したことは、その後公認の歴史において主張された、スターリンこそ叛乱の衝にあたった人物であるという伝説を支える典拠となったのであった。(第一〇章をみよ。)
レーニンは隠れ家に戻って、反対派への長文の返事を書き綴った。自身の以前の留保条件を放棄した彼は、問題の論議さえ許さずと断ずることによって、党に対する多数者の支持に関するあらゆる躊躇を一掃してしまった。「人民の大多数がボリシェヴィキに従っており、これからも従うであろうということを疑うのは、恥しらずに動揺することを意味し、実際に、プロレタリア革命の事業のすべての原則をなげすて、ボリシェヴィズムを全く放棄することを意味する」。延引は、彼がたえず主張してきたように、許しがたいものであった。「大衆の気分について論じながら、自分個人の無性格を大衆のせいにする人々の立場は、何とも救いようのないものである」。誰々と名指してはいないが明らかにジノヴィエフとカーメネフに狙いをつけたレーニンの手紙は、党機関紙『ラボーチィ・プーチ』(労働者の道)に、十月十九、二十、二十一日とつづけて公表された。十月二十日号にのせた反論の中で、ジノヴィエフは、自分の見解はレーニンがきめつけたほど悲観論的なものでは決してない、と抗弁した。これらの声明には、編集者スターリンによって、びっくりするほど調停的な註釈がつけ加えられた。「われわれは・・・・・・同志ジノヴィエフの声明をもって問題は決着がついたと考えることができるという希望を表明する。同志レーニンの論文の激しい調子は、われわれが根本的には意見を同じくしているという事実を変化させるものではない」。
この間、十月十一日のジノヴィエフ――カーメネフ声明が、党外に漏洩していた。十月十七日、ゴーリキーの『ノーヴァヤ・ジーズニ』が、「二名の指導的ボリシェヴィキの名において行動に反対する内容の、手でかかれたビラが市内で配布された」というメンシェヴィキ国際主義者(以前には右翼ボルシェヴィキ)バザロフの報告を発表した。カーメネフは、ジノヴィエフと彼自身の名において、蜂起は絶望的な賭けとなろうという彼らの見解を反覆した論評を、『ノーヴァヤ・ジーズニ』に送って、これに応じた。彼らは、ボリシェヴィキが蜂起の期日をすでに設定したことを否定して、中央委員会が彼らの反対を押し切って実際に叛乱に関する決定を下したという事実を隠蔽しようとした。
これで、瞞されたり、宥められたりした者はいなかったに相違ない。レーニンにとっては、ジノヴィエフとカーメネフによって公表されたこの声明は、彼らが犯した最も悪質な犯罪であった。彼は激怒して、直ちに答えた。
「十月二十日という決定的な日の前夜に、最も重要な闘争問題について、二人の『重要な地位にあるボリシェヴィキ』が、党外の出版物で・・・・・・党中央の公表されていない決定に対して攻撃をくわえたのである・・・・・・私は・・・・・・彼ら二人をもう同志とはみなさず、全力をあげて、・・・・・・彼ら二人を党から除名するために闘うであろう」。翌る十月十九日、彼は二人の反対派を中央委員会に告発した。そして彼らを追放する際の気まずさを見越して、こうかいた。「ストライキ破りどもが『重要』人物であればあるだけ、ますます除名によって彼らをすぐさま罰しなければならないのである。こうやってのみはじめて労働者党は健康となり、一ダースほどの無性格なインテリから清められ、革命家の隊列をかため、ありとあらゆる困難に向って革命的労働者とともにすすむことができるのである」。これは、正真正銘、レーニンの言葉である。
十月二十日、レーニンとジノヴィエフを除く中央委員が、規律違犯の処理のため集合した。カーメネフとジノヴィエフを処罰すべしと要求するレーニンの手紙を、スヴェルドロフが読みあげた。トロッキーは、彼の親友アドルフ・ヨッフェ(メジュライオンツィ出身、当時は中央委員候補)の支持をうけつつ、最も活発な弾劾を行なったが、カーメネフの中央委員辞任を受理することで満足して、犯罪者たちを党から追放せよという、レーニンの要求に賛成するには至らなかった。スヴェルドロフとジェルジンスキーの意見も同じ調子であつた。反対の立場を擁護したのはスターリン、ミリューチン、およびウリツキーで、彼らは問題を弥縫しようとして、中央委員全員の会合が可能となるまで、棚上げとするよう提案した。「党からの除名は得策でない――われわれは統一を保持せねばならない」、とスターリンは言った。彼はやがてこの立場から遠く離れるはずである。トロッキーは、怒りの鉾先をスターリンに転じた。スターリンには、カーメネフとジノヴィエフを編集上で擁護したという弱味があった。スターリンと共に『ラボーチィ・プーチ』の編集局にいたソコリニコフは、ジノヴィエフ擁護の論評を批判する側に与した。スターリンは編集局からの辞任を申し出た――彼がその後も一度ならず用いて成功した戦術である――そして辞任の申し出が却下されたことによって暗黙の信任投票を受けた。カーメネフの辞任を受理した投票は、党指導部内の重大な対立をふたたび暴露した。討論中にあらわれた対立どおり、賛成五票、反対三票となったのである。
ボリシェヴィキ指導者たちは、その後、権力奪取に全力をあげた。レーニンは、成功は蜂起の技術にかかっているという(マルクス主義者に余りふさわしくない)主張を繰り返した。結局のところは軍事行動が決定するであろう。「ロシア革命と世界革命の成功は、二、三日の闘争にかかっている」。トロッキーと軍事革命委員会は十月二十三日までには計画を完成していた。そして十月二十四日には、党は行動の準備ができていた。カーメネフは、叛乱に参加し、第二回ソヴィエト大会に出席するために、恥ずかしそうに立ち戻った。その翌日、十月革命が、武装した労働者と叛乱した農民兵士によって、歴史の年代記に刻みこまれ、ボリシェヴィキが権力の座についた。彼らの急速な勝利は、ボリシェヴィキ右派のマルクス的躊躇がいかに根拠のないものであったかを証明した。
十月革命そのものが、カーメネフ――ジノヴィエフ派の悲観論の一つの理由を吹きとばしてしまった。ボリシェヴィキは、成功裡に権力を掌握して、レーニンを人民委員会議議長として戴くソヴィエトの名において新しい政府を組織した。大方のボリシェヴィキは、国外の諸事件が、西欧における成功的プロレタリア革命の勃発に伴って、右派の悲観論の他の根拠をたちまち覆えしてしまうだろう、と期待した。
その間、蜂起の危機的数日間には一時的に緩和されていた、ボリシェヴィキ多数派と右翼との間の対立が、ソヴィエト内の他の諸政党をどう扱うかという問題を機に再発した。ソヴィエト内のすべての非ボリシェヴィキ諸党派のうち社会革命党の左翼だけが、十月革命に全面的支持を与え、また、ボリシェヴィキ政変を承認した第二回ソヴィエト大会の多数派に加わっていた。それにもかかわらず、ソヴィエトやいくつかの労働組合、また右翼ボリシェヴィキの間では、全社会主義政党を代表する内閣をつくれという煽動が行なわれた。ボリシェヴィキと他の諸政党との間で、この目的のための交渉が、数日間にわたって続けられた。ボリシェヴィキは、まだ一党政府の枠に収まってはいなかった。他のソヴィエト諸政党に対する、かつての反対論というのは、革命推進の積極性に不十分なところがあるということであったのである。実際の叛乱がはじまる一カ月たらず前に、レーニンは、メンシェヴィキや社会革命党との妥協という彼の考えを取り消して、彼らにこの計画の崩壊の責を帰した。第二回ソヴィエト大会が、十月二十五日にボリシェヴィキの権力奪取を承認したとき、新政府はすべてのソヴィエト諸党の代表を含むであろうと、ボリシェヴィキの間でさえ広く考えられていた。大会はかかる体制の樹立を即時に考慮すべし、というマルトフの提案が、ルナチャルスキーの支持につづいて、満場一致で代議員の承認をえた。
つづく数日間、広汎な連立政府を最も精力的に唱えたのは、この非常時に輸送ストップの威力に訴えて、容易に発言権を確保しえたところの鉄道労働組合(ロシア語の頭文字をとってVikzhel)全国委員会であった。十月二十九日、ボリシェヴィキ中央委員会は――レーニン、トロッキー、およびスターリンの欠席のまま――鉄道労働組合の要望に応えて、連立問題で協議する用意のあることを明らかにした。カーメネフは、自らボリシェヴィキのスポークスマンを買って出て、ソヴィエト中央執行委員会(三分の二はボリシェヴィキ、他の大部分は左翼社会革命党)に対して協議会の設置を認可するよう説得した。元メンシェヴィキのリヤザノフを団長とし、カーメネフを最重要メンバーとするボリシェヴィキ代表団の出席のもとに、協議会は滞りなく開かれた。十月三十日、再度レーニンとトロッキーの欠席のまま(トロッキーはケレンスキーの無益な反攻を破るべく戦線にあった)、ボリシェヴィキ中央委員会は新体制のもとで立法権力の法的地位を獲得していた中央委員会に全ソヴィエト政党代表を参加させることに満場一致、賛成投票した。ボリシェヴィキ右派が、ふたたび自己を主張しつつあった。それにもかかわらず、メンシェヴィキと社会革命党右翼が固執した条件――新内閣からのレーニンとトロッキーの排除、および十月二十五日の蜂起の事実上の不承認――によって、連立政府の実現は極めておぼつかなくなった。
その間に、レーニンは、人民委員会議の手に布告による暫定的統治権を握らせることによって、立法機関への参加問題を理論上(アカデミック)の問題に変えてしまった。ケレンスキー勢力を蹴散らして舞い戻ったトロッキーは、直ちにレーニンと結んで連立構想に攻撃を加えた。彼らが攻撃を開始したのは、十一月一日の中央委員会とボリシェヴィキ地方組合代表者との協議会においてであった。連立交渉に関するカーメネフとリヤザノフの報告は、冷やかに迎えられた。ボリシェヴィキが多数派を維持するのでなければ蜂起は意味がない、とトロッキーは断じた。彼とジェルジンスキーは、交渉委員たちがレーニンとトロッキーを政府から排除せよとするメンシェヴィキと右翼社会革命党の要求を考慮しようとしたことさえ、これを激しく非難した。ルナチャルスキーは、交渉はボリシェヴィキ多数派を当然の前提としている点を理由にこれを擁護した。レーニンは、交渉を体制がその権威を確立するまで時を稼ぐ手段としてしか見なかった。ルイコフは、自分は交渉を極く真面目に考えていたと、驚きをもって答えた。レーニンは、最後に交渉決裂を提議したが、四対一〇で敗れた。中央委員会は、賛成九、反対四、棄権一の投票によって、「いわゆる同質的権力を創造せんとする『左翼』社会革命党の最後の試みに、この試みの破産をもう一度明らかにし、連立政府に関するこれ以上の交渉を最後的に終結するという目的をもって、今日参加することを・・・・・・わが党のメンバーに許す」というトロッキーの対案を採択した。
それでもまだ満足しなかったレーニンは、党ペトログラード市委員会の集会に現われて、ボリシェヴィキ右派に挑戦した。「連立に関しては、わたしはこれについて真面目に話すこともできない。・・・・・・分裂したければ――やるがよい。諸君が多数派ならば、中央執行委員会の権力を握って、続けたまえ。だがわれわれは、水兵の許に行くつもりだ」――これは、事を力で決しようとする露骨な脅迫であった。「われわれの現在のスローガンは」、とレーニンは叫んだ、「一切の妥協反対、すなわち、同質的ボリシェヴィキ政府を、である」。ルナチャルスキーが、モスクワにおける戦闘中に起ったクレムリン砲撃に抗議して、教育人民委員の辞職を申し出たとき、レーニンは、彼を党から除名せよと要求した(これは不成功であった)。また彼は、再度カーメネフとジノヴィエフを裏切り者呼ばわりした。こういうのが、一〇年半このかたのレーニンの気分であった。彼に反対する見解は、革命に対する裏切りとみなされるのが落ちであった。そう遠くない将来に、この気分は警察的活動に姿を変えることになろう。
ボリシェヴィキ中級指導部は、連立を強く支持していた。レーニンは、ペトログラードで剣もほろろの扱いを受けた。モスクワ市組織は、ルイコフとノーギンの指導下に、ジノヴィエフとカーメネフを公然と支持した。その左翼的色合いにおいて顕著であったモスクワ地方ビューロ−でさえ、ボリシェヴィキが閣内で多数派を占めるならば連立を受け入れると決議した。十一月二日、いかなる内閣といえどもレーニンとトロッキーをこれに含め、閣僚の椅子のうち少なくとも半分はこれをボリシェヴィキにあてる、という決議が中央執行委員会によって採択されたとき、連立問題は危機に瀕するに至った。この最低条件に反対して、ボリシェヴィキ右派の全部――カーメネフ(中央執行委員会議長)、ジノヴィエフ、人民委員会議のほぼ半数(ルイコフ、ルナチャルスキー、ノーギン、ミリューチン、テオドロヴィッチ)、およびロゾフスキーほか、元メンシェヴィキのリヤザノフとユレネフを含む他の者たち――が党に反対して投票した。レーニンは激怒して、反対派を非マルクス主義的、非ボリシェヴィキ的で、混乱し、逡巡し、裏切る者であり、なかんずく多数派を少数派の威嚇に屈服せしめるが故に非民主的である、と非難する決議を中央委員会で押し通した。彼は、連立を考慮するつもりがないわけではないとする一方で、「あらゆる懐疑派および逡巡派」に対して彼への無条件的忠誠を要求したのである。
レーニンは、最後通牒を発した――反対派は、党規律を守って、連立問題をめぐる多数派の方針を批判することを中止するか、さもなければボリシェヴィキ党を去って、メンシェヴィキや社会革命党と運命を共にするか、どちらかを選べと。彼は中央委員会の有力メンバーを集めて最後通牒への署名を求め、九名の支持者――トロッキー、スターリン、スヴェルドロフ、ウリツキー、ジェルジンスキー、ヨッフェ、ブブノフ、ソコリニコフ、およびムラノフを獲得した。五名の委員――ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、ミリューチン、およびノーギンが署名を拒否した。こうして対立は、蜂起の問題をめぐって生じた対立と、同じ様相を呈した。
反対派がすべての威嚇を無視した結果、十一月四日、ついに危機が炸裂した。中央執行委員会は、非社会主義新聞を禁止するという政府の措置を検討していた。独裁的な支配の可能性を懸念したボリシェヴィキ反対派の代表者たちは、実際に叛乱を呼びかけているわけではない諸新聞に対する束縛を一致して非難した。メンシェヴィキ出身で、左翼的綱領の主だった唱道者であったラーリンが、この趣旨の決議案を提出した。二二対三一、棄権多数で、それは敗れた。これに対抗してレーニン派から、正面きって新聞統制を是認する決議案が出され、三四対二四で通過した。最右翼のボリシェヴィキ、ロゾフスキーとリヤザノフだけが、左翼社会革命党と共に、反対投票した。
新聞問題を機に、矛盾が爆発した。ボリシェヴィキ内反対派は、主義・主張をわめき散らしながら、党と政府の役職から集団辞職した。中央委員会右派のうちレーニンを批判した者つまり、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、ミリューチン、およびノーギン――の五名全員がである。彼らは共同声明を発した。「われわれは、大多数のプロレタリアートと兵士の意志に反して実施された、中央委員会のこの破滅的政策に責任をとることはできない」。・・・・・・したがって、われわれは、ここに中央委員の地位を辞し、よって、労働者・兵士大衆に公然とわれわれの考えを語り、われわれのスローガンを支持するよう彼らに訴える権利を行使するであろう――ソヴィエト諸党の政府万才! この条件による即時協定!」
これらの中央委員のうち、人民委員会議に席を持っていた三名の者たち――ルイコフ(内務)、ミリューチン(農業)、およびノーギン(商業および工業)――は、一党政府に抗議して、閣僚の地位をも放棄した。テオドロヴィッチ(食糧)や、リヤザノフとラーリンを含む多数の閣外人民委員がこれにならった。労働人民委員シュリヤプニコフは、中央執行委員会への宣言の中で、このグループに与することを明らかにした。「われわれは、ソヴィエト内部のあらゆる党派による社会主義的政府を結成することが必要であるとの立場をとるものである。・・・・・・われわれは、これ以外にはたった一つの道」――政治的テロルによる純粋ボリシェヴィキ政府の維持という道しかない」と主張する。われわれは、これを認めることはできないし、認めるつもりもない。われわれは、この道は・・・・・・無責任な体制の確立と、革命と国の破滅に通ずるであろう、と考える。われわれは、この政策に責任をとることができないが故に、中央執行委員会の前にわれわれの人民委員としての資格を放棄するものである」。
全ロシア労働組合中央会議の書記となっていたロゾフスキーは、これとは別にもっと感動的でさえある声明を発表した。「良識と大衆の自然力にも似た運動とを前にしながら、マルクス主義者たちが、全社会主義政党との協調を破局の威嚇のもとにわれわれに厳命する客観的諸条件を、考慮に入れることを拒んでいる際、党規律の名において沈黙を守ることは、わたしにはできない」。彼は、レーニンの権力を条件にすることを拒否した。「わたしには、党規律の名において、個人崇拝に屈従し、われわれの基本的要求に同意している全社会主義政党との政治的協調を、あれこれの人物を内閣に入れるか否かに賭けることはできない・・・・・・」。
レーニンの痛烈な攻撃は、彼が中央委員会の名において準備した右派への回答の中で、新たな極点に達した。「これまで責任ある地位を占めていたわが党の若干のメンバーは、ブルジョアジーの突撃にひるんで、われわれの隊列から逃亡してしまった。ブルジョアジーとそのすべての助力者どもは、この事実に歓喜して、意地悪く嬉しがっている・・・・・・辞職した同志たちは、脱走兵のように振舞ったのだ」。しかしこの脱走は、二名の脱走兵ジノヴィエフとカーメネフが蜂起を前にしてやらかした「ストライキ破り」と同様、党をその針路から逸らせはしないであろう、とレーニンは保証した――「大衆の間には逡巡のいささかの影もない」。レーニンはなお、ソヴィエトとボリシェヴィキ多数派が受け入れられる連立政府ならば、それに加わる用意があると断言していた。事実彼は、十月二十五日の新政府への参加を呼びかけるボリシェヴィキの招請に応じなかったことに関して、左翼社会革命党を批判した。しかしながら一党支配反対運動は、いかなる効果的指導も強固な組織もないままに、急速に崩壊した。
十一月七月、反対派はその主な指導者の一人を失った。ジノヴィエフが、歴史は彼が期待した方向に転じなかったと、認めるに至ったのである。彼は低頭して、前説を取り消した――
「こうした事態のもとでは、われわれは、われわれの古くからの戦友たちと再統一せねばならない。現在は困難な時期であり、極めて責任おもい時期である。党に錯誤を警告することは、われわれの権利であり、義務である。だがわれわれは党に留まる。われわれは、この決定的、歴史的瞬間に脇道にそれるよりもむしろ、何百万の労働者・兵士と過ちを共にし、死を共にする方を選ぶ。紛争はわれわれにつきまとうかもしれない。・・・・・・しかし現在の事態にあっては、われわれは・・・・・・党規律に服従し、かつて予備議会参加問題をめぐって少数派であるにもかかわらず、多数派の政策の遂行に自らも従った左派ボリシェヴィキのように、行動しなければならない。
わが党には、いかなる対立もないであろうし、またあってはならない」。
安定した民主的体制というジノヴィエフの内心の声も、革命的信徒の共同体から排除されるかもしれないという恐怖の前に、屈服してしまっていた。こうした心配は、ロシア共産党の反対派の歴史を奇妙に一貫して――マルクス主義者の比喩を用いれば――「赤い糸のように走っている」。
ジノヴィエフは、中央委員会に急ぎ復職した。他の一党政府反対者の場合には、主義・主張に対する考慮がもっと強かったので、彼らは十一月末に至るまで反抗の構えを捨てなかった。その間、連立政府に関するボリシェヴィキと左翼社会革命党間の協定が最後的に仕上げられたので、彼らの抗議は大方基盤を見失ってしまったのである。
一九一七年の右翼反対派が解散する前に、もう一つの危機が経験されねばならなかった。これは、臆面もない党独裁への途上に横たわる最後の障害であった――すなわち憲法制定会議の問題である。権力掌握以前には、ボリシェヴィキは一貫してこの会議の招集に賛同していた。他になすべきことを知らなかった彼らは、十一月に予定どおり選挙の実施を許した。結果はいささか衝撃的であった――社会革命党の圧倒的多数に対して、ボリシェヴィキは投票の四分の一近くを獲得したにすぎなかった。慎重かつ合法的深慮か、大胆かつ強力な行動か、という問題に、再度ボリシェヴィキ党は襲われた。
ジノヴィエフ、リヤザノフ、およびロゾフスキーを含むボリシェヴィキ右派は、この問題では、ブハーリンの協力を得て、ある種の擬似合法的な解決を望んだ。トロッキーと共にボリシェヴィキに加わった左翼のウリツキーは、「若干の同志たちは、現在、憲法制定会議が革命の仕上げであるという見解を抱いている」と、不満を述べた。なんらかの種類の力による解決のみがボリシェヴィキ政府を存続させ得ることが、ますます明らかになりつつあったにもかかわらず(ブハーリンは、カデットを追放するとともに、会議の左翼をして職務を続行させよと提案した)、ボリシェヴィキ右派が会議への党の代表に対する支配権をかちとった。ボリシェヴィキ代議員団によって十二月二日に選出されたビューローの最も有力なメンバーはカーメネフ、スターリン、ルイコフ、ノーギン、ミリューチン、ラーリン、およびリヤザノフであった。中央委員会は、ビューローは右翼的見解に支配されている、と十分な正当性をもって断定し、ついに、遅滞なく、ビューローを解散せねばならなくなったと感ずるにいたった。ブハーリンとソコリニコフが、ボリシェヴィキ・フラクションを指導するよう任命されたのは、のちに決定的な意義をもつようになる常套手段の初期の実例である。憲法制定会議を実力で解散させる意図を正面きって押し出したレーニンのテーゼを、フラクションが承認したとき、ようやく問題は決着した。
一九一七年の反対派の最後の反響は、頑固派右翼のロゾフスキーとリヤザノフによって発せられた。民主主義的合法性の諸原則にかたくなに固執した彼らは、中央執行委員会が憲法制定会議の解散を承認した際、反対票を投じた。両名とも労働組合役員であるところから、彼らは、一九一八年一月に開かれた第一回全ロシア労働組合大会の席上でも、ひき続き政府批判を展開することができた。問題は政府からの労働組合の独立性ということであった――この主題はその後数年たってから多くの摩擦を生み出すことになる。この最初の試験においては、中央集権化に対する反対派が敗北して、大会は、「労働組合は国家権力の道具となるであろう」と決議した。ロゾフスキーは、ボリシェヴィキ党を追放され、厳罰を受けて一九一九年末まで復帰しなかつた。彼の反対活動は永久に終りを告げ、一九三〇年代半ばの粛清をも免れた――そのあげく一九五二年のスターリンのユダヤ人粛清の犠牲者となったが。
一九一七年のボリシェヴィキ内右翼反対派は、それがメンシェヴィキと分ちもったいくつかの性質――文字どおりのマルクス主義、政治的慎重さ、および民主主義的配慮の結合から生まれたものである。それは、組織的というよりむしろ自然発生的な事件であった。その結果、危機の瞬間に勝利することこそできなかったが、他方、度重なる敗北もそれを破壊し得なかつたのである。レーニンは特定の問題に関して右派を打ち負したかもしれないが、ある種の人人を右派支持に回らせた心理的諸特徴が、繰り返し表に出たのである。
一九一七年の反対派は、四月に党を去ったボリシェヴィキ内祖国防衛主義者を別にして、これに寄与した三つのグループを区別することができる。ボリシェヴィキ右派の主体は、カーメネフとルイコフによって指導され、またこの年の中頃以後はジノヴィエフによっても指導されたグループであった。これらの人々は、古参レーニン主義者であって、厳格な組織原則に服していたが、それに惹かれたのも明らかに保守主義と慎重さの故にであった。他の者たちにとっては、権力の機関に参与することは、美徳そのものであった。そしてこれこそ、かの指導者がロシアに帰国するや即刻彼に追随したスターリンやスヴェルドロフのようなレーニン主義者たちを、よく説明する所以なのである。
もう一つのグループは、右翼的傾向をもったメンシェヴィキ出身者、特にルナチャルスキー、リヤザノフ、およびロゾフスキーによって構成された。彼らの議論においては、合法的深慮や民主的原則が、最高の位置を占めていた。しかしながら彼らは、彼らの孤立した個人的抗議を別にすれば、いかなる影響力ももつことができなかった。
一九一七年の反対派の最後のグループは、党の左に立っていた。それは当時は小グループであった――シュリヤプニコフがその唯一の傑出したスポークスマンであった――が、次の数年間に一つの強力な分派に成長することになる。彼らは、党の綱領的諸宣言に盛られた急進的理想主義に、極度に忠実な人々であった。慎重さよりもむしろ革命的な信条が、彼らをして独裁の便宜主義を回避せしめたのであった。
附録1 ソヴィエト連邦共産党史における重要事件年表
特に新暦と指示しない限り、一九一八年二月一日までは旧暦
一九一七年
二月二十七日 二月革命――ニコライ二世の打倒。臨時政府の樹立。
(三月二日)――ルヴォフ公首相。
三月十二日 スターリン、カーメネフ、シベリアよりペトログラードに戻る。
三月二十八日 第一回ソヴィエト大会へのボリシェヴィキ代表団協議会。
四月三日 レーニンのペトログラードへの帰還。「四月テーゼ」。
四月二十四〜二十九日 第七回(四月)党協議会。
五月四日 トロッキー、ペトログラードに帰還。
七月三〜五日 「七月事件」。
七月八日 ケレンスキー、臨時政府首相となる。
七月二十六日〜八月三日 第六回党大会。トロッキーその他ボリシェヴィキ党に入党。
九月十二〜十四日 レーニン、蜂起を要求。
十月十日 ボリシェヴィキ中央委、蜂起を決定。
十月二十五日 十月革命――ボリシェヴィキによる臨時政府の打倒。ソヴィエト政府の樹立、レーニン、人民委員会議議長となる。
十一月四日 出版の自由、連立賛成のボリシェヴィキ指導者の辞任。
十二月二日 ドイツとの休戦。ブレスト・リトフスク講和交渉始る。
一九一八年
一月五〜六日 憲法制定議会の開催と解散。
一月七日 レーニン和平を要求――ブレスト・リトフスク論争始る。
二月一日(旧暦) 〔二月十四日(新暦)〕 グレゴリア暦の効力始る。
二月二十三日 中央委、ドイツの和平条件受諾。
三月三日 ブレスト・リトフスク条約調印。
三月六〜八日 第七回党大会。
三月十〜十四日 首都、ペトログラードからモスクワヘ。
三月十三日 トロッキー、軍事人民委員に指名。
五月二十五日 チェコスロヴァキア人の叛乱。大規模な内戦の開始。
六月二十八日 一般的国有化の布告。戦時共産主義の開始。
七月六日 左翼社会革命党の叛乱。
八月 白軍のヴォルガ攻撃の頂点。
付録2 主要党機関の構成
一九一七年八月――第六回党大会
中央委員 |
中央委員候補 |
|
Y・A・ベルジン |
A・T・ルイコフ |
P・A・ジャパリーゼ |
A・S・ブブノフ |
F・A・セルゲーエフ |
A・A・ヨッフェ |
N・l・ブハーリン |
S・G・シャウミャン |
A・S・キセリョフ |
F・E・ジェルジンスキー |
l・T・スミルガ |
G・l・ロモフ |
L・B・カーメネフ |
G・Y・ソコリニコフ |
Y・A・プレオブラジェンスキー |
A・M・コロンタイ |
J・X・スターリン |
N・A・スクリプニーク |
N・N・クレスチンスキー |
Y・M・スヴェルドロフ |
Y・D・スタソヴァ |
V・l・レーニン |
L・D・トロッキー |
X・N・ヤコヴレヴァ |
V・P・ミリューチン |
M・S・ウリツキー |
(二名記録不明) |
M・E・ムラノフ |
G・Y・ジノヴィエフ |
|
X・P・ノーギン |
中央委員は、The
Great Soviet Encyclopedia.1st ed.,LX(Moscow.1934).555〜556
以上 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
ロイ・メドヴェージェフ 『1917年のロシア革命』
梶川伸一 『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』
中野徹三 『社会主義像の転回』制憲議会解散論理
ダンコース『奪われた権力』第1章
『1917年のレーニン』クーデター説を含めファイル多数