1917年のロシア革命、他
ロイ・メドヴェージェフ
(注)、以下には、ロイ・メドヴェージェフの論文およびそれに関する7つの文がある。1は、『1917年のロシア革命』(現代思潮新社発行)抜粋で、これは監訳:石井規衛・沼野充義、訳:北川和美・横山陽子による。2は、『10月革命』(未来社、1998復刊)における「前書き、H.E.ソールズベリー」抜粋。3は、同書「訳者解説、石井規衛」抜粋にした。これら1から3の抜粋部分は、いずれも憲法制定議会武力解散の誤りと並んで、内戦の主要原因になったと、メドヴェージェフが分析する、レーニンによる食糧独裁(穀物調達令)の誤りに関する個所である。
4から7は、1998年10月に来日したロイ・メドヴェージェフの『来日記念講演・資料6』および『歓迎する会ニュースno.1,3』(代表石堂清倫)からの抜粋である。4、5は、“ロシアでの社会主義を志向する約10の政党、政治グループの活動”に関する個所を載せた。私(宮地)も、石堂氏の紹介で「歓迎する会・賛同人」の一人にさせていただいた。
〔目次〕
1、『1917年のロシア革命』1918年の困難な春 ロイ・メドヴェージェフ
2、前書き『10月革命』(未来社)、H・E・ソールズベリー
3、訳者解説、同書、石井規衛
4、『10月革命と現代の視点から見たその評価』(札幌での講演要旨、来日記念講演)
5、『石堂清倫氏の挨拶から』(歓迎する会ニュースno.3)
6、『ロイ・メドヴェージェフ氏の来日によせて、石堂清倫』(歓迎する会ニュースno.1)
7、『ロイ・メドヴェージェフ氏の邦訳文献』(歓迎する会ニュースno.1)
8、著者略歴
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1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実』
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命後の現実を通して
中野徹三 『社会主義像の転回』制憲議会解散論理
ダンコース 『奪われた権力』第1章
アファナーシェフ 『ソ連型社会主義への再検討』
1、1917年のロシア革命 1918年の困難な春
ロイ・メドヴェージェフ
(注)、これは、『1917年のロシア革命』(現代思潮新社、1998)のうち、「1918年の困難な春」(P.78〜95)抜粋です。監訳:石井規衛・沼野充義、訳:北川和美・横山陽子によるものです。私のHPに、この抜粋転載をすることについては、現代思潮新社の了解を頂いてあります。抜粋転載文の著作権・出版権は、著者・訳者と現代思潮新社にあります。「本書の全部または一部を無断で複写複製(コピー)することは、著作権法上の例外を除き、禁じられています。」
全体188ページの著書で、以下は、憲法制定議会武力解散の誤りと並んで、内戦の主要原因になったと、メドヴェージェフが分析する、レーニンによる食糧独裁(穀物調達令)の誤りに関する部分の抜粋です。ただし、本書では、1917年二月革命から、十月ボリシェビィキ単独武装蜂起・権力奪取を経て、1921年ネップに至るロシア革命過程が、一貫した流れとして分析されており、1918年食糧独裁(穀物調達令)の誤りはそこにおけるレーニンの決定的誤りの一つです。このHP抜粋転載文を契機として、著書全体が読まれるようになれば、幸いです。
憲法制定議会選挙経過とその武力解散の誤りについては、中野徹三教授『社会主義像の転回』に詳細な分析があります。
尚、前回まで載せていた石堂清倫訳『ロシア革命80年』抜粋は、以下のロイ・メドヴェージェフ論文と同一文の仮訳でしたが、著作権・出版権の関係で、現代思潮新社の了解を得て、同じ抜粋掲載範囲を『1917年のロシア革命』訳文に置き換えました。文中の青・黒・赤太字は、私(宮地)の判断で付けました。
〔小目次〕
1、資本への赤衛隊的攻撃 (P.78〜84)
2、食糧独裁 (P.84〜90)
3、貧農委員会と国および農村における分裂 (P.91〜95)
4、注 (抜粋範囲の注)
一九一八年二月末のソヴィエト・ロシアにおける状況は、困難ではあったが絶望的ではなかった。何百万人という農民やコサックたちが武器のみならず労働意欲とともに帰郷してきた。春の播種が始まり、地主地の再分割が終わろうとしていた。手工業者や労働者、商人たちが軍から引き揚げてきた。何百万もの捕虜が釈放されて戻ってきた。国家は軍に補給し武装させる必要がなくなり、輸送の負担も軽減された。工業中心地は困窮していたが、国内には一九一六年に収穫した穀物がまだ残っていた。国の穀物余剰は、公式データによっても約六億プード〔約九百八十三万トン〕に上っていた。当時としてはかなりの量である。秋から冬にかけてのペトログラード、モスクワ、さらには軍における状況は危機的であったが、春先には上向き始めた。
講和条約が調印されて戦争が終わり、早くも一九一七年十一月十日に始まっていた復員も終わりに近づいていた。ロシアは国民の八〇%が農民であり、都市部には二〜三百万人の大規模な工業企業労働者に対し一千万〜一千二百万人の手工業者と商人がいた。このような国の経済を蘇らせるには、一刻も早く戦争中に敷いていたあらゆる制限や禁止を、そして何よりもまず穀物専売制度を廃止する必要があった。この穀物専売制度は一九一七年三月二十五日、臨時政府の法令によってロシアに導入されたものである。
カデット党所属の閣僚たちは、まさにペトログラードヘの穀物その他の供給が滞ったために暴動や革命が起こったことをよく覚えていた。帝政政府でさえすでに一九一五年に、穀物専売制導入の問題を論議していた。というのは、国家による穀物買い上げ量は全収穫量の二〇%にもならず、一千万の兵員を抱える軍隊への食糧支給に困難をきたしていたからである。ところで一九一七年の穀物専売は、穀物を没収するのではなく市場価格に近い価格で買い上げることを想定していた。しかしながら一九一八年春の時点では、都市と農村間、県間、あるいは県内での自由な商品交換による方が、禁止や制限をそのままにしておくよりも早く経済状況を安定させることができたであろう。
国民の大半が、戦争と革命が終わって自らのおかれた状況や労働が楽になったと感じる必要があったのである。他の諸問題を「自由市場」に委ねれば、国家が以前の穀物買い付け量のレベルを回復することは十分に可能であった。そのことを理解していた一部ボリシェビィキの提案は、思慮に富んでいたばかりか、当時の状況下では唯一正しいものであった。
一九一八年一月二十五日、『ペトログラード・プラウダ』紙にミハイール・カリーニンの論文が掲載された。当時ペトログラード市ドゥーマ議長でのちに市経済人民委員部長となった人物である。彼は荒廃した市生活を短期間で大いに改善した。しかし、ボリシェビィキの犯した数々の過ちが頭から離れなかった。
論文は「小ブルジョアジーとプロレタリアート独裁」と題され、多くの冷静で適切な提案がなされていた。カリーニンは書いている。「私の考えでは、われわれは共産主義の基本原理を侵すことなく、資本主義体制が与えた以上のものを小ブルジョアジーに与えることができる。・・・・・・わがソヴィエト政府は小規模所有権を保証すべきである。国際情勢に鑑みれば、われわれは小ブルジョアジーと長期にわたり結束せざるをえず、長期にわたり結束を強化することができるのは、経済をおいてない。・・・・・・政府は農民、手工業者、小規模野菜農家、小規模商人、牛乳販売人らに労働組合の管理下で雇い人を抱えることを許可すべきである。小ブルジョアジーはかつて一度もそれ以上のものを有したことがなく、また望みもしていないのだ」。しかしレーニンは、カリーニンのこれらの提案を断固拒否したのだった。
一九一八年春、ロシアにはまだ本格的な荒廃はみられなかった。通信・交通・都市経済は比較的正常に機能していた。多くの企業が営業していたし、金融制度・商業制度は完全には破壊されていなかった。事態を改善することは可能だったにもかかわらず、ボリシェビィキは正しい問題解決策を見出せないでいた。急進主義が、というよりは、むしろ社会主義を理解する際の視野の狭さや教条主義が邪魔をしたのである。政権に就いたボリシェビィキは、大多数の国民の利益や要望に反する政策を実施しはじめた。
役割の交換がおこった。農民すべてに身近な自由商業のスローガンを擁護したのは左右両派のエスエルであり、ボリシェビィキは自由商業に反対し、穀物のみならず全商品の売買に対する国家独占の維持・強化を訴えた。ボリシェビィキ中最も過激な者たちは、貨幣廃止や、さらには都市と農村の間で直接おこなわれる物物交換の準備を始めた。これは投機的な計画であり、実施の試みは完全な失敗に終わった。というわけで、左派エスエルの指導者マリヤ・スピリドーノヴァが「レーニンはロシアにプロレタリアート独裁ではなく「理論独裁」を確立しようとしている」(七七)と語ったのには、十分な根拠があった。
ボリシェビィキは、早くも一九一八年一月以降、経済の多くのレベルで誤った政策を実施しはじめた。独占企業体や大銀行連合および一部大企業の国有化は、すでに「四月テーゼ」に謳われており、その他の企業に関しては労働者統制のみが課題とされていた。ところが、実情ははるかに複雑であった。銀行家ばかりかほとんどすべての大企業主がボリシェビィキ政府との協力を拒んだのである。そうした人々の多くは中立国であるスイスか、まだソヴィエト政権のないウクライナヘ去った。ロシアの企業の多くは外国資本のものであった。そうした工場はまったく生産を中止していた。そのため国有化は、余儀なくされた懲罰措置の性格をもった。
早くも一九一八年初頭には、ボリシェビィキにより創設されたばかりの経済運営機関は数百に上る大小の工場、銀行、鉄道、倉庫、鉱山をめぐる問題の解決を迫られることとなった。党にはまだそのような仕事のための経験も人員もなく、強制措置は効率が悪かった。周知のように、ロシア中央銀行は革命初日に国有化された。十月二十五日早朝、近衛陸上海兵団の水兵部隊により占領されたのである。一カ月後、あらゆる民間の商業銀行と株式銀行が政府の管理下に入り、その資本が没収された。国の金準備、通貨とその発行が政府管轄となつた。
しかし、この巨大な経済を処理する能力はボリシェビィキにはまだなかった。ロシア貴族たちの私有の金庫を没収した水兵たちは、その中に保管されていた金製品のみを国庫へと没収し、ダイヤのネックレスは持ち主に返した。庶民である水兵たちの目にはそれらの「石ころ」には一文の価値もないと映ったのである。それでも国有化は速度を増しながら続いた。一九一八年の工業調査資料に基づく計算によると、三月にはすでに八百三十六の工業部門の大企業が国有化されていた(七八)。同時に中小企業の国営化もおこなわれた。後にこれは「資本への赤衛隊的攻撃」と呼ばれるようになる。
全国民を強制的に協同組合に加入させる試みもなされた。製品の管理や集計、分配および生産の便をはかってのことであった。レーニンはメモにこう書いている。「・・・・・・はじめには「商業」を国家独占とする。つぎには、「商業」を、ソヴィエト権力の指導のもとに商工業職員組合がおこなう計画的=組織的な分配に、完全に、最後的に代える。――全住民を消費=生産コンミューンに強制的に組織すること」(七九)。このユートピア的計画を実現することは、もちろんかなわなかった。
工業および交通の状況は、一九一八年の最初の数カ月間どんどん悪化した。もはや軍需品は不要であったにもかかわらず、戦争中増大した軍需生産を民需に転換するための計画も資金もなかった。巨大な工場でライターが作られたりした。そんな中で労働者および勤務者の賃金は形だけのものとなり、あらゆる商品の価格が急騰した。V・ノギーンのデータによれば、一九一八年三月にはペトログラードの労働者の賃金は一九一四年同月比で十倍に増えた。ところが、彼らのわずかばかりの食糧の市場価格はほぼ八十倍になつた(八〇)。
一部労働者、なかんずく操業を中止した軍需工場で働いていた人々が、親類を頼って農村へ去りはじめたのも不思議ではなかった。農村では、農民の所有となつた地主地で春の播種の準備が進んでいたのだからなおさらである。しかし、多くの労働者がすでに農村との結びつきを失っていた。失業者数が増え始めた。一九一八年三月には、ペトログラードだけでほぼ十万人の失業者を数えた(八二)。操業中の企業でも、労働生産性が大幅に低下した。
一九一八年初頭、モスクワ労働組合ソヴィエトの議長であったミハイール・トムスキーは書いている。「現在労働生産性は、生産がすっかり崩壊し破綻する一歩手前まで下がった。つまり労働者は賃金以下、最低限の生活必需品以下の価値しか生んでいない状況なのだ。・・・・・・生産者は他人の稼ぎで暮らす国家年金生活者となりつつある。・・・・・・生産者が通常レベルを回復しなければ、現状では必ずや国全体が経済危機に見舞われるだろう」(八二)。企業では横領の件数が増えた。
工場経営者となつた労働者たちは、働くのは文字通り自分のためであり、倉庫にある在庫を仲間うちで分配しても構わないとさえ考えるようになった。このような状況では、労働者による統制ばかりか労働者自身に対する統制、さらには生産現場にレーニンの書いている「鉄の規律」を、強制手段によるものを含めて導入することを考えなければならなかった。
2、食糧独裁
十月革命勝利直後レーニンは、労働者に対しても農民に対しても何らの強制も考えていなかった。支持者たちに「土地に関する布告」について説明しながら、彼はこう述べた。ソヴィエト政権は、プロレタリアートと勤労農民という二つの階級の完全なる平等に基づき社会主義運動の発展方向を探求している。「農民自身が、どこに真理があるかを理解してくるだろう」。彼らは新生活を作り上げる上で労働者階級と対等なパートナーなのだ。「農民は一方の極からこの問題を解決するがいい。われわれは他方の極からそれを解決していくであろう。実生活は、革命的創造活動という共通の流れのなかで、新しい国家形態を仕上げていくなかで、われわれをいやおうなしに接近させるであろう。われわれは実生活にしたがっていかなければならない。われわれは人民大衆の創造力に完全な自由をゆるさなければならない」(八三)。
数日後、レーニンはさらに説明している。「たとえば、都市と農村のあいだの交換はどうあるべきかを、経験が農民にしめすときにはじめて、農民は自分で、自己の経験にもとづいて、そのつながりをつけるものだということをわれわれは知っている」(八四)。ところが自らの経験や自然な欲求、さらには都市との交換とはいかなるものかの理解の、そのどれによっても農民は、商業の自由と、理にかなった商品交換とを要求せざるをえなかった。それは大部分の労働者と都市小ブルジョアジーの利益にもかなうものであった。
というわけで、穀物独占が廃止されず、新政権は都市と農村間の自由な商品交換に反対であることが明らかになると、農民と都市住民は自ら自由取引をはじめたのである。すでに戦時中生まれていた個人による小規模商売、すなわち「闇取引」が広がりはじめた。この「大衆による革命的創造」は弾圧によって応じられた。
一九一八年三月、「担ぎ屋」「闇屋」「ペテン師」らに対する弾圧が強まりはじめ、農村へ穀物を買い出しに出かけた何百万という都市住民や「固定」価格で穀物を売るのがいやで自ら都市へ売りに行った何百万という農民が、当局や急ごしらえされた「阻止部隊」の攻撃に遭った。この自然発生的な交換をやめさせることは困難だった。「闇屋」たちが阻止部隊の数の何倍もの立派な武装団を作って自衛したからである。都市と農村間で直接の物物交換をおこなおうとする食糧人民委員部の試みも失敗に終わった。農村に必要な商品もなければ、経験もなかったのである。
首都その他の都市における食糧事情は悪化しつつあり、そのためレーニンは、「労働者・農民の規律と自己規律を高める断固たるきびしい措置」をとること、「工業と交換との国有化を徹底的に遂行すること」、「社会主義への漸進的移行」(八五)といったアピールをおこなった。レーニンの呼びかけで、国内に何千もの「食糧徴発隊」が作られ始めた。その任務は、農民から「余剰」穀物を強制的に没収することであった。ソヴィエト・ロシアに悪名高き食糧割当徴発制度、および食糧人民委員部による、いわゆる食糧独裁体制がしかれた。
一九一八年五月十三日付け全ロ中央執行委員会および人民委員会議の法令には、この点に関し以下のような記述があった。「農村の金持ち連中の頑固さに終止符を打たねばならない。・・・・・・解決策はただ一つ。飢えた貧民に対する穀物所有者の暴虐に、同様の暴虐で応えることだ。播種と次の収穫までの一家の食糧用に必要な分を除いては、農民の手元に一プードたりとも穀物を残してはならない」(八六)。大多数のボリシェビィキでさえ、この法令を極めてしぶしぶ実行した。五月末には食糧徴発隊全体でも五〜六千人の人員しかおらず、余剰穀物の徴発と都市への食糧供給の任務を果たすことはできなかった。
食糧独裁、および余剰穀物の強制徴発政策は、非常に重大な経済的結果をもたらした。しかし、政治的損失はさらに大きかった。ボリシェビィキは急速に農民大衆の支持を失った。多くの郡で暴動が始まった。食糧徴発隊には死傷者が出て、全滅する隊すらもあった。右派エスエル党は、武装蜂起も含めボリシェビィキとの闘争をおこなう旨の決議を採択した。全ロシア非常取締委員会(ヴェー・チェー・カー)や、形成されつつあった赤軍においてもなお有力な位置を占めていた左派エスエルは、ボリシェビィキ政府に対し断固たる闘争をおこなうと表明していた。ボリシェビィキと無政府主義者間に激しい対立が起こつた。メンシェヴィキは、新聞・雑誌やソヴィエトの会議の席上でボリシェビィキに反対を唱えた。
のちに作家K・パウストフスキーは、L・マールトフのそのような演説の一つを回想している。レーニンとともに「労働者階級闘争同盟」(一八九五年)を創立したこともある人物だ(八七)。「・・・・・・議場が身震いした。私には、すぐには何が起こったのかわからなかった。演壇から壁を震わせてマールトフの声が鳴り響いていた。激しい怒りのたぎる声だった。体の前で両の握りこぶしを振り回し、喘ぎ喘ぎ叫んでいる。「裏切りだ! 諸君は、モスクワとペトログラードから不満を抱いた労働者全員を追い出そうとしてこの法令を思い付いたのだ――プロレタリアートの精華たる彼らを! そうすることで労働者階級の健全な抗議をおさえ込もうとしているのだ!」。
しばしの沈黙の後、全員が席を蹴って立ち上がった。怒声の嵐が議場中に広まった。「そいつを演壇からひきずりおろせ!」「裏切り者!」「いいぞ、マールトフ!」「よくもそんなことが言えたものだ!」「真実は耳に痛し!」。スヴェルドローフはマールトフに静粛を求めて激しく鐘を鳴らしていたが、マールトフはさらに激しく叫び続けた。発言を禁じられても喋り続けた。三度の議会への出席を禁じられても相手にせず、ますます辛辣な非難を浴びせ続けた。スヴェルドローフが警備員を呼んでようやくマールトフは演壇から下り、口笛と足音と拍手の中議場を出て行った」(八八)。
ところが、ことは全ロシア中央執行委員会の会議上での舌戦ではすまなかった。一九一八年五月十九日、ロシア共産党中央委員会の会議において「一定の犯罪に対し死刑判決を実施する」決議が採択された。中央委員会の議事録には、その点について次のような記録がある。「現在、大量銃殺刑は理にかなわぬことだが、幾人かを銃殺することには反対はないものと定める・・・・・・。スヴェルドローフに、同志ストゥチカ(八九)と相談の上、まず中央委員会において、その後人民委員会議および中央執行委員会においてしかるべき法令案を準備するよう一任する。この問題に関する中央執行委員会の会議は大きな宣伝の役割を持つものとなるよう組織すべきである」(九〇)。
つまりロシア連邦における死刑廃止法令は、一九一八年春に廃止されたのである。ロシア各地で「怠業者」や「闇屋」の銃殺が始まった。食糧徴発隊は、富農を人質にとって穀物を駅まで運ぶよう要求するようになった。今や農民と労働者の平等や「人民大衆の自由な創造力」などすっかり忘れられてしまった。自らの財産を守ろうとする農民と、応戦する武装した労働者双方の放つ銃声が鳴り響いた。ところで都市部では、飢餓がひどくなる一方で、闇市が全国に猛威を振るっていた。
レーニンの知人でその客観性を評価されていたカデット党の時事評論家N・ウストリャーロフは数年後、次のように書いている。「徴発と没収の政策はあらゆる方面での本能的な抗議を、商業の禁止は万人の不服従を、それぞれ呼び起こした。共産党の法令に従うと決めた者は、その決意の二、三週間後には餓死してしまったことだろう。なぜなら「合法的には」、有名な、どうしてもパンには見えないもの一かけらと腐ったジャガイモ入りの薄くてまずいスープ一皿以外何も手に入らなかったからである。共産党員たち自身を含め国全体が共産党の法令に反して生活し、全ロシアが「闇取引をしていた」のだから、各人を「罰する」ための表向きの理由に事欠かなかったのは当然である」(九一)。
抜き取り調査によると、一九一八年半ばには大都市住民は消費食糧の七〇%を闇屋から買っていた。小都市では、住民は全食糧品のほぼ九〇%を自由市場で手に入れていた。ソヴィエトの統計資料によると、食糧人民委員部の全機関が一九一八年に調達することができたのは、農村にあった余剰穀物の約一一%であった。ヴオルガ川東岸諸県ではソヴィエト政府は、一九一六年に帝政下の農業省が調達した穀物の十分の一しか調達できなかった(九二)。
一部の歴史家は今日でもなお、一九一八年春にボリシェビィキがおこなった穀物独占と、食糧政策とを正当化しようとしている。食糧独裁をしかなければ混乱を招き、交通機関が正常に機能しなくなり、最貧層の都市住民は一日二百グラムの配給食糧さえ受け取れなかっただろう、というのである。しかし、これらの論拠には説得力がない。ヴォルガ川沿岸の諸県およびヴャトカ県では、当局は自ら固定価格と穀物独占を廃止した。闇取引の猛威と闘う手立てがなかったからである。
しかしそれらの地域では、一九二一年のネップ導入時と同じく、いかなる破局も起こらなかった。穀物独占の廃止は、国家が完全に穀物市場から手を引き最貧層の労働者および勤務者への食糧配給をやめなければならない、ということでは全くなかった。他ならぬ穀物独占こそが混乱を生み、国内における矛盾を増していたのである。クールスク県だけで二十万人以上の闇屋が公式に登録されていた。
全ロ中央執行委員会メンバーのA・フリストフは、闇屋たちが大規模で本格的な武装集団を組織し、様々な食糧徴発隊や阻止部隊を撃退している旨、クールスクからモスクワに大慌てで報告している。クールスク県にあった一千五百万プード〔約二十四万六千トン〕の余剰穀物中一千四百万プード〔約二十三万トン〕が闇屋によって持ち出され、食糧人民委員部が調達できたのはわずか百万プード〔約一万六千トン〕であった(九三)。ヴォルガ川では闇屋集団が、食糧徴発隊にもなかった機関銃を武器に汽船を乗っ取り、穀物を運び出していた。一九一八年五月末には、自らの食糧徴発隊から穀物を入手する望みを捨てた多くの工場が労働組合の指揮下、当時人々に「集団闇屋」グループと呼ばれた部隊を結成した。
それらの工場委員会や工場食糧委員会はソヴィエト政府の命令をものともせず、穀物や食用油他の食品を、固定価格を大幅に上回る価格で買い込んだ。そうした個別の物物交換には工場の製品や備蓄原料が使われた(九四)。食糧人民委員部に属しているはずの種々の阻止部隊や食糧徴発隊が大規模な闇取引をする、ということもよくあった。この点で皆が皆、軍用列車で穀物をモスクワヘ運び届けたあと、クレムリンで栄養失調から気を失ったロシア共和国食糧人民委員アレクサンドル・チュルーパのように厳格であるというわけではなかったのである。
3、貧農委員会と国および農村における分裂
一九一八年春のボリシェビィキの経済政策失敗の主要因の一つは、農民に対する影響力の弱さにあった。党の大部分は都市および工業企業で活動しており、農村で影響力を有していたのはエスエル党だけであった。党の統計によれば、一九一七年末の時点で全国に合計四千百二十二人の党員を抱える二百三の農村党細胞があった(九五)。一九一八年一年間でロシア連邦における農村党細胞の数は二千三百に、農民党員数は五万五千人に増えた(九六)。しかし、広大なロシアにはそれでも非常に少なかった。
ドン川沿岸やシベリアなどの主要穀物生産県ではボリシェビィキのことは噂で知られているだけで、相変わらず最も影響力を誇っていたのは右派エスエルであった。中部ロシア諸県では左派エスエルと人民社会主義者党が優勢であった。農村でのボリシェビィキの社会的基盤を拡大しようと、レーニンは六月初め極めて過激で危険な決定を下した。「貧農の組織および供給について」という地味な名称を持つ六月十一日付けの法令により、大部分が富農および中農からなる農村ソヴィエトの活動は事実上打ち切られた。農村における権力は、そこに設置された貧農委員会に移った。
この委員会は、国家と自らを利するための没収や徴発をおこなう権限を与えられた。この法令によって、わずか数カ月間で十万以上の貧農委員会が設置された農村は分裂した。わが国の歴史上初の「クラーク〔富農〕解体」が始まった。しかし、それによって富農が北方あるいはシベリアに強制移住させられたわけでも集団農場が作られたわけでもなかったが。だが財産の新たな再分割は、とてつもなく大きな規模で起こった。富農の所有していた農地八千万ヘクタール中、約五千万ヘクタールが取り上げられた。同じく富農のものだった役畜、雌牛、農具、製粉所の一部や家財道具が貧農の手に移ったり共同所有となつた。
レーニンは、国内に大々的に繰り広げられた穀物をめぐる争いを「社会主義的闘争」と呼んでいた。貧農委員会と土地の新たな再分割は、わが国の歴史学では長らく、農村における社会主義革命と呼ばれてきた。しかし実際には、そこには社会主義的なものなど何もなかった。ごく一部の農村で、もと小作人や貧農たちが協同組合やコミューンを設立したが、それとて全国の農業生産高の二%にも満たなかった。
同時に、農民の最富裕層の撲滅はロシアの農村の生産力に手痛い打撃を与えた。最も市場性のある農民経営が一掃され、それにかわってごくわずかしか商品穀物を生産しない新しい中農経営が何百万戸も生まれた。ボリシェビィキは、目の前の問題の解決を優先させたためにより大きく重要な問題の解決を難しくしてしまったわけである。農村では何百万人という復員兵が働いていたにもかかわらず、一九一八年のロシアの作柄が前年を下回ったのも驚くにはあたらない。
貧農委員会を設置したことで農村におけるボリシェビィキの政治基盤は拡大し、赤軍の編成も容易になった。しかし、それによってエスエルや人民社会主義者党、および無政府主義者の政治基盤もやはり拡大し、その結果、左派陣営における分裂が進んで、国内の政局は緊迫化した。ボリシェビィキの政策に対する不満が特に大きかったのは、ヴォルガ川およびドン川沿岸、シベリア、北コーカサス、中央ロシアの黒土地帯諸県、一部民族地区など、市場向け農産物の主要産地であった。ほんの少し火の粉が散れば内戦という大火が起こりうるような状況であった上、そうした「火の粉」には事欠かなかった。
局所的な農民蜂起の波が全国に広がり、モスクワやヤロスラヴリ、ヴォルガ川沿岸の諸都市やクバンでは左派エスエルの反乱が勃発した。国内の広大な地域が蜂起した「チェコスロヴァキア軍団」に占領された。ドン・コサックは、クラスノフ将軍を軍管区司令官に選んで新しいコサック軍政府を選出し、またもやソヴィエトに叛旗を翻した。北コーカサスでは、コルニーロフとデニーキン率いる将校からなる義勇軍が、自らの部隊を編成し最初の戦闘をおこなっていた。
まだ十月革命前にはレーニンは、政権に就いた後賢明な政策をおこなえば、誰もが恐れる内戦は回避できるだろうと、ボリシェビィキに説いていた。レーニン曰く、もちろんブルジョアジーはソヴィエトに抵抗するだろう。「しかし、この反抗が内乱にまでなるには、戦闘能力とソヴィエトを打ちやぶる能力とをもった、なんらかの大衆がいなければならない。しかし、ブルジョアジーは、このような大衆をもっていないし、またどこからもそれを手に入れることはできない」(九七)。したがって、革命の敵の抵抗をおさえるのは困難ではないだろう。レーニンの主張によれば、それには「五十人か百人の銀行王と銀行資本のお歴々〔・・・・・・〕を数週間拘留しておけば十分」(九八)なはずだった。この予測は当たらなかった。
一九一八年夏、ソヴィエト・ロシアにはすでにボリシェビィキ政権と闘おうという人々が大勢いた。のちにレーニンは、実はまさに農民(シベリア農民、コサック、中農および富農)こそが「共産党員に対抗する最良の人材」であったことを認めている。中でも、一九一八年末まで農民による抵抗で決定的役割を果たしていたのは中農であった。何千万人もの中農がボリシェビィキの政策に反対を唱え、レーニンによればそれが「反革命的な運動や、蜂起や、反革命勢力の組織がもっとも大きな成功をおさめ」(九九)る決め手となつた。全ロシア非常取締委員会(ヴェー・チェー・カー)のデータによると、一九一八年七月から八月にかけてヨーロッパ・ロシアの二十県だけで二百四十五件の「クラーク」蜂起が鎮圧されている(一〇〇)。
レーニンの著作に「戦時共産主義」という概念が登場するのは一九二一年になつてからである。この用語を最初に用いたのは、有名なボリシェビィキで哲学者、医者であり、レーニンの長年の論敵でもあったアレクサンドル・ボグダーノフであったと考えられている(一〇一)。ソヴィエトの文献では長いこと、内戦と干渉こそが「戦時共産主義」や「赤色テロル」の政策を生んだとの説が定着していた。しかし実際はその逆だった。当時誰も「戦時共産主義」政策とは呼ばなかったボリシェビィキの極めて厳格な経済政策こそが、テロルや内戦を引き起こしたのであり、食糧徴発やテロルの激化がその内戦を長引かせ、深刻化させたのである。
実質的には内戦は、貧農委員会と食糧徴発隊による富農一掃からすでに始まっていたのである。著名なロシアの経済学者で農村に詳しいN・コンドラーチエフが証言しているように、「武力による弾圧に対し、自然発生的な復員を終えて帰還した兵士たちで溢れていた農村は、武力による抵抗といくつもの蜂起で応じた。だからこそ一九一八年晩秋までが、農産地である村の畑で悪夢のごとき流血の戦いが繰り広げられた時期であるように見えるのである」(一〇二)。
4、注 (P.182〜184)
七三 『レーニン全集』第二七巻、一四七−一四八頁。
七四 同右、第二七巻、四二四−四二五頁。
七五 『P・ラヴロフ選集』第四巻、モスクワ、一九三五年、二五一頁。
七六 『イズヴェスチヤ』、一九一九年七月二十四日。
七七 『歴史の諸問題』、一九九〇年、一二号、三七頁。
七八 X・Z・ドロビージェフ『社会主義工業の産業本部。最高国民経済会議史概説。一九一七−一九二三年』、モスクワ、一九六六年、一〇〇頁。
七九 『レーニン全集』第二七巻、一五六頁。
八〇 『全ロシア国民経済会議第一回大会報告集』、モスクワ、一九一八年、三八一−三八二頁。
八一 K・サモイロワ『現代の失業とその対策』、ペトログラード、一九一八年、二一−二二頁。
八二 『労働組合通報』、一九一八年五月、七八号、七頁。
八三 『レーニン全集』第二六巻、二六二−二六三頁。
八四 同右、第二六巻、四六六頁。
八五 同右、第二七巻、三二二頁。
八六 『ソヴィエト政権法令集』第二巻、モスクワ、一九五九年、二六二頁。
八七 『近現代史』、一九九五年、四号、一三七頁。
八八 『K・パウストフスキー著作集』第三巻、モスクワ、一九五七年、六二九−六三〇頁。
八九 法務人民委員。
九〇 『ソ連共産党中央委員会通報』、一九八九年、四号、一四七−一四八頁。
九一 N・ウストリャーロフ『革命の旗の下に』、ハルピン、一九二五年、八〇頁。
九二 『歴史の諸問題』、一九九四年、二号、四三頁。
九三 『クールスタ県におけるソヴィエト政権確立と強化の闘争』、クールスク、一九五七年、二五九、二八六、三四四−三四五頁。
九四 参照『食糧人民委員部通報』。モスクワ、一九一八年、一号、八頁。
九五 『ソ連共産党史』第三巻、モスクワ、一九六七年、二四五頁。
九六 『一九二二年ロシア共産党員全国調査』、四号、モスクワ、一九二三年、三五−三七頁。
九七 『レーニン全集』第二六巻、二四頁。
九八 同右、第二五巻、五〇頁。
九九 同右、第三〇巻、二六八頁。
一〇〇 M・ラーツィス『国内戦線における二年間の闘争』、モスクワ、一九二〇年、八五頁。
一〇一 A・ボクダーノフ『社会主義の諸問題』より「戦時共産主義と国家資本主義」の章、モスクワ、一九一八年。
一〇二 N・コンドラーチエフ『穀物市場』、モスクワ、一九九二年、一二四頁。
H・E・ソールズベリー
(注)、これは、『10月革命』「前書き」のうち、P.16〜18の内戦の主要原因になったと、メドヴェーデフが分析する、レーニンによる食糧独裁(穀物調達令)の誤りに関する個所の抜粋です。
メドヴェージェフのレーニンに対する取扱い方よりもはるかに重要なのは、レーニンのボリシェビキの強力なフラクションも含めて多くの革命家達が一〇月蜂起を不必要で時機尚早ともみなしていたことを示す証言を、彼が綿密に整理していることである。彼は、ボリシェヴィキの蜂起についてのプレハーノフの発言を引用する。
「農民は、社会主義的生産様式を組織するさいに、労働者にとってきわめて頼りにならない同盟者であるかのように見えよう。・・・・・・ロシアのプロレタリアートが政治権力を時機尚早に掌握したとしても、社会革命を遂行できず、ただ内戦をひきおこすだけである。それは、究極のところ、本年の二月と三月に勝ちとられた陣地よりもはるか後方まで彼らが退却することを余儀なくさせよう」
メドヴェージェフは、この発言を「余りにも教条主義的で、著しく説得力を欠く」ものと呼んでいる。だが別の者は、それを、際立って先見の明のある正しい発言とみなすかもしれない。
メドヴェージェフが本書で行なったもっとも独創的な、実際の貢献といえるものは、革命後の情勢の分析、とりわけ、ボリシェヴィキが食糧危機と農業を処理するために採用した苛酷で挑発的な(刺激的な)方法に関する分析である。彼は、レーニンの土地政策を、その起源をなす(これはレーニン自身が認めている)社会革命党(エスエル党)の政綱までさかのぼって非常にはっきりと調べ出した。また彼は、農村内のぞっとするほどのボリシェヴィキの弱さも明らかにした。人口の八〇から九〇パーセントがまだ農村に集中している国で、四一二二人の党員からなる二〇三の農村党細胞しかなかったのである。ドン地方の大部分やシベリアの穀物生産県の農民は、それまでボリシェヴィキのことを一度も耳にしたことがなかった。ほかのロシアの多くの地域でも同様である。
飢える都市と崩壊した工業、脱走によっていとも簡単に溶解してゆく軍隊(出身は殆んどすべて農民である)とに直面したレーニンは、食糧や生活必需品を奪うために「食糧軍」を形成して、労働者から成る武装部隊を農村に送り込んだ。そうしたこととか、農村内に「貧農」委員会を形成したことの結果、内戦がひきおこされた。ロシア各地で農民反乱が起こった。エスエル党やメンシェヴィキ党、チェコ軍団兵士、白系将軍といったボリシエヴィキの敵の教唆による事例が時としてあったが、それよりも多くの場合、農民は、もっぱら自分の意志によって行動を起こしたのである。この点で、メドヴェージェフがレーニンやボリシェヴィキを非難するのは正しい。
彼は結論として、「ボリシェヴィキは余りにも遠くに進みすぎ、客観的、主観的な条件が存在していないような任務の解決を企てた。その結果は、わが国にとって苦痛な事態であり、とくに、内戦の再開、すなわち、『平和な息つぎの時期』の終りであった」と述べている。
メドヴェージェフは、一〇月におけるレーニンの成功は、エスエルの土地政綱を吸収し、自分たちのものとしようとした彼の意思に多くを負うていると結論づける。一九一八年の春の彼の失敗は、農民が都市に食糧を供給すべきであるならば売買する自由を、すなわち、取引きする自由を農民にどうしても与えなければならないということを理解できなかったことによる、と。
彼は、ボリシェビキが一九一八年以降につきあたった重大な問題を、一九一八年春のレーニンの失敗のせいにした。例えば一九二一年の恐ろしい危機やクロンシュタットの反乱やその他すべても党の農村の理解の欠如に由来するもの、と認めた。
ボリシェヴィキの政策には悪意にもとづくものはなにもない、そうメドヴェージェフは確信している。階級としての農民層への反感ではなく、単に理解を欠いていたことが、ボリシェヴィキが「革命後の時期の経済問題に対するもっと適正な解決法」に到達するのを妨げたというわけだ。
石井規衛
(注)、これは、訳者・石井規衛東京大学文学部教授の「訳者解説」(P.309〜318)のうちP.312〜314、憲法制定議会武力解散の誤りと並んで、内戦の主要原因になったと、メドヴェーデフが分析する、レーニンによる食糧独裁(穀物調達令)の誤りに関する部分の抜粋です。
では「一〇月革命」、すなわちボリシェヴィキが一〇月に採った選択肢は、本書においては一体どのように評価されているのだろうか。著者は、「狭義の社会革命」としての一〇月のボリシェヴィキの行為や、諸施策を、時機適切であり、現実的であると評価する。その理由は、新政府の諸施策は社会主義を直接導入するのではなく、相対的後進国というロシア社会の実情に即した、最も基本的なブルジョア民主主義革命の性格を持った施策であったからであること。
しかし、以上の社会革命の概念規定と、「選択肢的方法」とがもっとも効力を発揮していると思われるのは、本書で中心的に取り扱われる一九一八年の春と夏の時期の分析においてであろう.ボリシェヴィキは、その時期に二つの決定的な過ちを犯したという。一つが、憲法制定議会への態度である.すなわち、憲法制定議会を延期すべきであったのを、「過度のまっ正直さ」を現わして、臨時政府の指定した期日に選挙を行なったことである。これによって、ボリシェヴィキの影響が民衆の間に浸透して、ボリシェヴィキや左翼エスエル系の議員が支配する憲法制定議会を手にする機会が失われた。それのみか、議会を強引に解散するはめに陥った。そして、後に、憲法制定議会の擁護の大義名分を反革命勢力に対して与えることとなったのである、と。
いま一つの、そして本書が最も重視するものが、一九一八年の春に、一九二一年春の「ネップ」のような妥協的な経済政策をとらずに、例えば、「直接的生産物交換」といった現実に照応していない、性急で、空想的な政策を採用したことであった。一九一八年春の政府の、この「間違った」政策は、農村政策をめぐって左翼エスエルとの対立を決定的なものにして、新政府の政治的基盤を著しく弱めた。その一方で、「間違った」経済政策は、広範な農民の不満ばかりか、労働者の間にも不満を引き起こし、「大衆がボリシェヴィキから顔をそむける」という事態を引き起こした。
まさに「反革命」勢力がそれを利用して、内戦が本格化し、ボリシェヴィキ政権を滅亡の寸前まで追いやることになった、と。すなわち、一九一八年の春と夏に、社会主義に直接移行する政策ではなく、「妥協の政策」であるネップを採用してさえいれば、大衆のボリシェヴィキに対する不満もなく、したがって、たとえ反革命勢力が行動を起こしたとしても、それは辺境での個別分散的な武装蜂起で終わり、そもそも大規模な内戦は起こりえなかったのである、と。
周知のように、内戦は、後のソ連史の展開に大きな意味を持った事件である。一般には、内戦は、ソヴィエト政権の意思に反して外から押し付けられたものと理解されている。それに対して、本書は、内戦の勃発と本格化の責任の多くは、ボリシェヴィキ政権が自ら採った「間違った」政策にある、と主張しているのである。このように、「選択肢的方法」を採用することよって、ソ連史上重要な問題について、かくも斬新な見解に到達しえたのである。そればかりか、えぐりだされた一九一八年の春のボリシェヴィキの経済政策の問題性は、その後のソ連史上の様々な困難という広い文脈に置き直されているのである。
すなわち、過ちへの反省が、後のソ連の指導者の間になかった(一九二一年のレーニンにはあった、とされる)からこそ、一九三〇年代の危機、一九五〇年代の危機、そして、一九八○年代前半の「危機寸前」の停滞の原因となった、というわけである。「一九一八年の春と夏」の持つ意味が、それほどまでに重いがゆえに、本書では一九一八年春と夏の事態について詳細に書き込まれているのである。実際、この部分は、最も生彩ある叙述となっている。そして、著者の見解の当否は別として、この時期の、かくも批判的にして総合的な叙述は、欧米ではもちろんのこと、ソ連においても今にいたるまで存在していない。
こうした政治的指導部の動向を中心とした「選択肢的方法」の有効性は、「狭義の社会革命」的な時代に限定されるわけではない。その方法が内包する単線的な「発展史観」や「建設史観」への批判という点で、広く「相対的後進国」の「近代化」の過程を批判的に理解する上での有効な視座を提供しているといえる。なぜならば、その過程には、政治的指導部の動向が相対的に大きな役割を果たしていたこと、政治体制や社会構造の急激な変化が生じたこと、だがなによりも、いかなる単線的な史観にもおさまりきれない規模の病理現象が伴ったこと、などからである。
ロイ・メドヴェージェフ 10月7日札幌での講演の要旨
(注)、ロイ・メドヴェージェフ来日記念講演『資料集6、札幌での講演要旨・1から7』の内、3から6の“ロシアでの社会主義を志向する約10の政党、政治グループの活動”に関する部分の抜粋です。この要旨は、氏が来日にあたって、各地での講演要旨を作成して事前に送ってくれたものです。
3 ロシアの十月革命、或いは1917年10月21日から31日(これはロシアの旧暦での期間であり、新暦では11月3日から13日)に起こり、ジョン・リードがその有名な著書のなかで世界をゆるがした10日間と名付けたペテルブルグでの出来事は間違いなくロシア革命の結び目となる最も重要な出来事である。しかし、同時に我々の10月革命は1917年の春にロシアで始まり、ソヴィエト連邦の創設と1922年のネップの始まりで終わる革命の発展の全体的な過程の段階のひとつであった。
歴史家のうち、ある者達は、ロシア革命はそれよりも前の1905年、つまり1904〜1905年の日露戦争でのロシアの敗戦後に始まったと考えている。内戦の終わりと考えられているのが1922年の終わりまでに日本軍が撤退した極東の解放である。我々は今になって初めて1917年の2月革命の意味を理解し始めており、ある歴史家や作家達(ソルジェニーツィン等)は10月革命より重要な転換期であるとさえ見なしている。
4 ソヴィェト史学の概念のなかでは他のより穏健な、或いは逆に急進的な革命政党またはグループの1917年の革命時の立場、活動、役割が全く研究されなかったか、または完全に歪められていた。まさに立憲民主党員と一部の10月党員による帝室、ラスプーチン、軍司令部に対する批判と彼等の“責任感のある政府”を求める声が1915年から1917年に最も大きく響きわたっていたのであるが、帝政ロシアの国会における野党であるブルジョワ政党の活動と役割がソヴィエト史学には反映されていなかった。
1917年の2月から6月の民主主義的改革は、当時、社会革命党員、メンシェヴィキ、ナロードニキ、アナーキストが主導的役割を果たしていた議会の圧力により実施された。1917年の7、8月に社会革命党とメンシェヴィキは臨時政府において大部分のポストを占めた。ボリシェビィキが最も積極的になったのは1917年の秋である。彼等は左派社会革命党員と結束して10月革命に踏み切っていった。ソ連共産党崩壊後の1991年から1997年の出来事、新しいロシアにおける政党、政治グループの闘い、急進左派、左派、左派中道の間の論争は1917年にロシアで起こっていたこととある点で似ている。
5 今世紀の初め、ロシアでは社会主義を志向する約10の政党、政治グループが積極的な活動を展開していた。政党としては1917年の秋に結成されたばかりのロシア左派社会革命党は平均的農民及び豊かな農民に支持を求めていた。彼等はマルクス主義者ではなかったが、多くの案においてボリシェヴィキよりも急進的であった。ロシア社会革命党は農民と学生に支持を求めていた。ロシア社会革命党の急進的な諸グループは帝室、皇帝、県知事に対するテロ活動を支持していた。メンシェヴィキはロシア社会民主労働党の一部であった。彼等はロシアはまだ社会主義革命への準備が出来ていないと考えていた。メンシェヴィキの左派を率いていたのはY.マールトフ、右派を率いていたのはG.プレハーノフであった。ナロードニキと労働党(労働人民社会党)は中道左派政党で、より急進的だったのは共産主義のナロードニキである。ロシア革命で著しい跡を残したのが共産主義のアナーキスト達で、それより小さな跡を残したのがサンディカリズムのアナーキスト達だ。
これらの政党のそれぞれが1917年から1922年にロシアのいずれかの地域で政権につき、自分達の実力を見せることが出来た。ロシア社会革命党はヴォルガ川沿岸地域で、メンシェヴィキはグルジアで、アナーキストはウクライナの南東部で、ナロードニキは北部で政権についていた。
まだ革命前、皇帝の特別警備隊はボリシェヴィキのことを最も急進的な革命政党とは評価していなかった。ボリシェヴィキは大企業の労働者、工業分野のプロレタリアートに支持を求め、農村や都市の手工業者層、商人層には殆ど影響力を持っていなかった。ボリシェヴィキの主だった優位な点はその急進主義ではなく、規律であった。彼等は左派のなかで最も規律正しく、きちんと組織されていた。レーニンは既に1903年に秩序、規律の崇拝を党内に植え付けていたのだ。
6 1917年10月のボリシェヴィキの勝利はロシアにおける状況、大部分の労働者と兵士の過激化により可能なものとなった。ロシアのボリシェヴィキは1903年から1918年の間、世界のマルクス主義運動、社会民主主義運動のなかで最も急進的であった。1919年に彼等は極めて急進的な自分達の第3インターナショナルを創設したが、そこでも組織化、中央集権化、規律に対する崇拝が支配的であった。この組織立った急進主義と厳しい政治的、思想的規律のおかげでボリシェヴィキは内戦に勝ち、それから工業化、集団化を実施することが出来たのであるが、その後、この急進主義と教条主義が同党の力ではなく、弱点となり、彼等に敗北をもたらしたのである。
(注)、『メドヴェージェフ氏歓迎する会ニュース第3号』(1998.11.10)掲載全文
私たちは、ロイ・メドヴェージェフ氏の著書『共産主義とは何か』によって、スターリン主義がいかなるものであるかということに気がついたのであり、その恩恵は絶大でした。
札幌での講演で、ロシア社会民主党が成立したときの「組織偏重主義」、つまり「組織性と規律の崇拝」を指摘しています。ボルシェヴィズムの特徴はラディカリズムではなくて、むしろその組織偏重にあるというお話でした。19世紀のドイツ社会民主党の運動の中にあった組織重視論がロシア社会民主党に受け継がれ、それが日本に輸入されたのです。当時の党理論の原点になったのはスターリンの『レーニン主義の基礎』ですが、そこには「組織性と規律の崇拝」という言葉がそのままありました。
ここで改めて、氏の今後の研究に期待し、20年遅れたお礼を申し上げたいと思います。 (10月10日)
石堂清倫
(注)、『メドヴェージェフ氏歓迎する会ニュース第1号』(1998.7.25)掲載文からの抜粋
『メドヴエージェフ氏歓迎する会』の呼びかけ人代表である石堂清倫氏にうかがった。
今秋刊行されるメドヴェージェフ氏の新著の中身はどんなものですか?
書名は『1917年ロシア革命・ボリシェビキの勝利と敗北』で、彼の真意を私の言葉で訳すると大体こんなことになる。1917年の革命は思いがけず成功したが、その方式は18世紀に始まるジャコバン的形態をとった。グラムシによればこれは「運動戦」系に属する。ところが、世界革命は1870年を転機として、新しいヘゲモニー闘争(「陣地戦」)たるべきであって、そのアナクロニズムにより、クロンシュタット暴動に表現されるように、農民はボリシェビィキに反抗した。
革命運動の指導者レーニンは、試行錯誤をかさねて、かつては排撃したメンシェヴィキや社会革命党の農民政策を採用するに至った。「新経済政策」がそれである。離反した農民は再びプロレタリアートと協力することになり、革命は勝利の道を進むかと期待されたのに、不幸にして病魔におかされたレーニンは指導部から引き(1922年)、再起することができなかった。その後ボリシェビィキは、「新経済政策」を放棄し、「運動戦」戦術に復帰したから、1922年をもって10月革命は中断されてしまった。――これがメドヴェージェフの考えのようである。
メドヴェージェフ氏に聞きたいことを一つあげて下さい。
1922年でロシア革命が「受動革命」のサイクルに組み込まれ、イタリアやドイツの「ファシズム」=受動革命と併存してきたが、どうすれば21世紀の社会主義運動を活性化できるかという点です。
どうもありがとうございました。
(いしどう きよとも・著述業) 聞き手・村岡到(歓迎する会事務局) このインタビューは、『フォーラム90s』第4号(1998.7刊)掲載のものを、石堂清倫氏と同誌の了解を得て再録したものです。転載許可に感謝します。
(注)、『メドヴェージェフ氏歓迎する会ニュース第1号』(1998.7.25)掲載
・共産主義とは何か 石堂清倫訳、三一書房、1973年
・社会主義的民主主義
石堂清倫訳、三一書房、1974年
・ソヴェト反体制(一部ジョレスと共著) 石堂・菊地編、三一書房、1976年
・告発する!狂人は誰か(ジョレスと共著)
石堂清倫訳、三一書房、1977年
・ソ連における少数意見 佐藤紘毅訳、岩波書店、1978年
・失脚から銃殺まで=ブハーリン 石堂清倫訳、三一書房、1979年
・フルシチョフ権力の時代 下斗米伸夫訳、御茶の水書房、1980年
・スターリンとスターリン主義 石堂清倫訳、三一書房、1980年
・20世紀末のソ連(異端派の社会主義論)
坂井信義訳、大月書店、1984年
・10月革命 石井規衛訳、未来社、1989年
・証言(内側から見たペレストロイカ)
毎日新聞社、1990年
・フルシチョフを語る 新読書社、1991年
・1917年のロシア革命 石井・沼野監修、現代思潮社、1998年
8、著者略歴
(著者略歴)、在野の歴史家・評論家。父はスターリン時代に粛清された軍政大学の教師であり、生物学者ジョレスZhores A.Medvedevは双子の兄。トビリシ生れ。レニングラード大学卒。1960年代の非スターリン化運動の参加者であり、《歴史の審判に寄せて》を執筆し(1971年に国外で出版、邦訳《共産主義とは何か》)。フルシチョフ失脚後は64年から《政治日誌》を編集して党内改革運動にたずさわるが、69年に党を除名され、70年代はマルクス主義的立場からの異論派運動のリーダーであった。
《社会主義的民主主義》(1972年に国外出版)や《20世紀》誌(1975年創刊)といった改革派のサミズダート(地下出版物)を執筆。ブハーリン復権運動にも関係した。またフルシチョフなどソ連の政治家論や政治評論を執筆した。ゴルバチョフ改革とともに88年には名誉回復され、公式出版物や歴史の学術雑誌にも寄稿するなど、改革を支持する立場に立ち、89年春には新設の人民代議員大会の代議員に選挙で当選した。ジョレスは70年代にロンドンに亡命し、《ルイセンコ学説の興亡》などの著書のほか、ロイとの共著も多い。 下斗米伸夫 (ロシア・ソ連を知る事典、平凡社)
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(関連ファイル)
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実』
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命後の現実を通して
中野徹三 『社会主義像の転回』 制憲議会解散論理
ダンコース 『奪われた権力』第1章
アファナーシェフ 『ソ連型社会主義への再検討』