「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用
指令とレーニン「労農同盟」論の虚実(1)
(宮地作成)
〔目次〕
2、レーニン・政治局による「反乱」農民射殺・人質指令の『極秘』資料
3、農民「反乱」規模と射殺・人質数データ(表1、2、3、4)
4、「労農同盟」論の虚実 逆説のロシア革命史(2) (以下、別ファイル)
ボリシェヴィキ権力と農民との関係史の根本的見直し
1)、公認「ロシア革命史」における農民「土地革命」の評価と位置づけ
2)、4つの「革命」「反革命」潮流と相互抗争
3)、農民の第2要求「穀物・家畜自由処分権」とレーニンの拒絶
4)、余剰穀物とレーニン・スヴェルドロフが仕掛けた「内戦」
5)、「食糧独裁令」第1過程と「富農・中農・貧農」というレーニン型分類法
6)、「食糧独裁令」第2過程と「クラーク反乱」レッテルによる大量殺人
7)、戦時共産主義期における4潮流抗争の類別
8)、誤りの遅すぎた撤回としての「ネップ」と500万人飢饉死亡者
9)、梶川伸一による新しいネップ規定の重要性 (追加)
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『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実(2)』
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命後の現実を通して
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
ダンコース『奪われた権力』第1章
中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散論理、1918年
大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入と政治の逆改革
1、「1918年〜21年のレーニンと農民」のデータと文献
このファイルは、「反乱農民大量射殺型社会主義者レーニン」を分析します。その期間は、約3年間です。1918年5月「食糧独裁令」発令から、1921年6月タンボフ「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令による農民大量殺戮までです。以下の内容は、1922年の「聖職者全員銃殺指令」「知識人大量追放指令」ファイルとの姉妹編になります。「レーニンの粛清」シリーズの一つとして、全体の〔目次〕構成のしかたもほぼ同じにしました。従来の「労農同盟」論とはまるで異なる「農民大量殺人者レーニン」の分析です。よって、このテーマに関しても、ここで使用している7つの文献・データの信憑性が問題になります。本文に入る前に、それらの文献と私(宮地)の判断をのべます。
(1)(2)、梶川伸一名城大学助教授『飢餓の革命』(名古屋大学出版会、1997年)、『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』(ミネルヴァ書房、1998年)。この2冊は、連作形式になっています。いずれも、ソ連崩壊後に公開された膨大な量のアルヒーフ(公文書)に基づく実証的な研究です。1冊目は、「ロシア十月革命と農民」のテーマで、十月革命、1918年5月の食糧独裁令強行、農村における階級闘争を引起すための貧農委員会とその失敗、解散までを分析しています。579ページの大著です。
2冊目は、その続編となる631ページの大著です。これは、食糧独裁令の第2過程「軍事=割当徴発」制を、1918年11月から1920、21年の大規模な農民「反乱」までの研究です。溪内謙『スターリン政治体制の成立』(岩波書店、1970年)は、スターリン時代における農村危機を研究したもので、レーニン時代には触れていません。よって、この2冊は、ソ連崩壊後に初めて発表された、レーニン・ボリシェヴィキ権力と農民・農村問題にかんする本格的な文献です。
(3)(4)、ロイ・メドヴェージェフ『10月革命』(未来社、1989年)、『1917年のロシア革命』(現代思潮社、1998年)。これらは、ロシア革命全体の分析で、農民問題が中心ではありません。しかし、ボリシェヴィキ権力と80%、9000万人農民との関係は、ロシア革命史において決定的な意味を持ちました。よって、農民・農村問題は、著書で大きな位置を占めています。1冊目は、1917年「二月革命」から、1918年の「困難な春」までにおける選択肢を研究しています。2冊目は、ソ連崩壊後の新資料も取り入れて、1921年「ネップ」までの期間を分析しました。そして、ソ連崩壊を、「急進主義的誤りの歴史的敗北」と規定し、かなり突っ込んだレーニン批判をしています。研究のしかたとして、それぞれの時期に、いくつかの他の選択肢が存在した、かつ、そちらを選択できたという立場と論証に基づく「選択肢的歴史研究方法」を駆使しています。私(宮地)も彼から学んで、このファイルも同じ方法で書いています。
(5)、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』(NHK出版、1995年)。このファイルで使用しているのは、『下』第6章の一節「農民を食いものにする連中」(P.150〜175)と、『上』第4章の一節「テロルという名のギロチン」(P.373〜391)です。このデータも、「レーニン文書保管所」にある「レーニン秘密資料」約6000点の内容で、レーニン第一次資料です。彼は、陸軍大将、歴史家で、ソ連国防省歴史研究所所長でした。その立場から「秘密資料」の自由な閲覧を許された最初の研究者でした。「極秘文書」を駆使して書いた『勝利と悲劇、スターリンの政治的肖像・上下』(朝日新聞社、1992年)が、当時の保守派からの批判にさらされ、所長を辞任させられました。『トロツキー、その政治的肖像・上下』(朝日新聞社、1994年)と合わせて、「指導者3部作」を執筆しました。スターリン、トロツキーの2冊については、ロシア語原本からの翻訳で、「文書保管所名、フォンドno、目録no、資料no、ファイルno」の膨大な(注)も訳されています。『レーニンの秘密』は、それらの「ファイルno」などを省略した英訳本からの日本語訳です。残念ながら、本来の(注)がカットされています。しかし、このファイルで引用する「レーニン秘密資料」の典拠は、ロシア語原本にあります。
(6)、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』(現代思潮社、1977年)。これは、1921年3月に起きたクロンシュタット・ソヴェト水兵反乱の本格的研究書です。この兵士反乱は、1920・21年の大規模な農民反乱、1921年2月のペトログラード労働者ストライキと密接な相互関連を持っています。それらは、「食糧独裁令」撤廃を要求し、かつ、ボリシェヴィキ一党独裁に反対する農民・労働者・兵士ソヴェトによる同時多発蜂起でした。アヴリッチは、その視点で、農民「反乱」、労働者ストライキの分析も正確にしています。
(7)、ソルジェニーツィン『収容所群島』(新潮社、1974年)。彼は、6部構成中、第1部において、「レーニンの粛清」を具体的に描いています。私は、『収容所群島』第1部2カ所の抜粋を、私のHPに転載しました。彼がなぜ西側に追放されたのか。それは、彼が「レーニンの前衛党犯罪」をこれによって、ソ連で初めて克明に暴露したからである、というのが、私(宮地)の見解です。
2、レーニン・政治局による「反乱」農民射殺・人質指令の『極秘』資料
以下、10の指令・命令、布告を載せます。期間は、1918年8月から、1922年5月、「銃殺刑の範囲拡大とテロル」指令までです。
〔小目次〕
(1)、1918年8月11日、「暴動」農民の絞首刑指令
(2)、1918年8月20日、「富農の人質」指令
(3)、1918年夏、「テロル」指令
(4)、1918年9月5日、「赤色テロルについての布告」
(5)、1919年1月21日、「コサックへの赤色テロル」指令
(6)、1919年2月15日、「鉄道除雪作業農民の人質」指令
(7)、1920年10月19日、「タンボフ県の農民反乱への鎮圧」指令
(8)、1921年6月11日、「タンボフ農民への『裁判なし射殺』」指令
(9)、1921年6月12日、「『毒ガス使用』によるタンボフ農民の絶滅」命令
(10)、1922年5月15日、17日、「銃殺刑の範囲拡大とテロル」指令
(1)、1918年8月11日、「暴動」農民の絞首刑指令
これは、岩上安見『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年、P.307)のデータです。彼の直接取材にたいして、ヴォルコゴーノフが見せた「レーニン秘密資料」です。それは、レーニンの手書きの手紙でした。同一指令内容が、梶川『飢餓の革命』(P.547)にもあります。岩上著の日付は「8月18日」になっていますが、梶川著の日付にしました。梶川氏から「この日付は、モスクワで1999年に発行された『レーニン・知られざる文書』でも確認できます」というメールをいただきました。
『ロシア連邦ソビエト共和国 人民委員評議会議長 モスクワ・クレムリン
一九一八年八月十一日
ペンザ市ヘ クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン同志他のペンザ市の共産党員達へ
同志諸君!
五つの郷での富農(クラーク)の暴動に対し仮借なき鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の決定的戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなっている。あなた方は模範を示さなければならない。
一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように、是非とも絞首刑にしなくてはならない)。
二、彼らの名前をすべて発表すること。
三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。
昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民すべてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにしなければならない。(私の)電報の受取とその内容の実行について、電報を打ちなさい。 あなたのレーニンより
追伸 できるだけ、不撓不屈の精神の人を探しなさい。』
1918年8月29日、「クラーク鎮圧・没収措置の報告」督促電報
梶川『飢餓の革命』(P.547)に、この「電報」が載っています。
『「手本」を示さないペンザ県執行委にレーニンは八月二九日に繰り返し打電した。「五郷のクラークの容赦のない鎮圧と穀物の没収の、どのような、深刻な措置がようやく貴殿によって採られたかについて貴殿から何もはっきりしないことにわたしはきわめて怒っている。貴殿の職務怠慢は犯罪的である。一つの郷に全力を注ぎ、そこですべての穀物余剰を一掃する必要がある」(Ленинский сборник.xviii.c.209.)』
(2)、1918年8月20日、「富農の人質」指令
2つのデータを載せます。まず、梶川『飢餓の革命』(P.548)の資料です。
『戦時共産主義期に穀物や革命税の不履行に対して頻繁に人質(заложник)が利用された。八月にレーニンはツュルーパに、サラトフには穀物があるのに、搬送することができないのは最低の不面目であるとし、各郷ですべての穀物余剰の集荷に命を張る、富農から二五〜三〇人の人質を提案した(ГАР.Ф.1235, оп.93.170, л.48об.−49)。それに続く覚え書きで、「「人質」を取ることではなく、郷毎に指名するよう提案している。指名の目的は、彼らがコントリビューツィアに責任を持つように、富農は穀物余剰の速やかな収集と集荷に命を張ることである。そのような指令(「人質」を指名すること)は、a、貧農委、б、すべての食糧部隊に出されている」(Ленинский сборник.xviii.c.145−146.)と述べている。』
『レーニンの秘密・上』(P.376)に詳しく書かれています。
『テロルは反体制的行為で有罪となった者にたいしてのみ適用されたという反論があるかもしれない。だが、そうではなかった。赤色テロルについての命令が立法化される一カ月前、レーニンは食糧生産人民委員のA・D・ツュルーパに、「すべての穀物生産地城で、余剰物資の徴集と積み出しに生命賭けで抵抗する富農から二五〜三〇人の人質をとるべきである」という命令を出すように勧告している。ツュルーパはこの措置のきびしさに仰天し、人質問題については返事をしなかった。すると、次の人民委員会議でレーニンは、彼がなぜ人質問題について返事をしなかったのか答えよと詰め寄った。ツュルーパは、人質をとるという発想そのものがあまりにも奇想天外だったため、どういう段取りでそれを行ったらいいかわからなかったのだと弁明した。これはなかなか抜け目のない答えだった。レーニンはさらにもう一通の覚え書を送って、自分の意図を明確にした。「私は人質を実際にとれといっているのではない。各地区で人質に相当する人間を指名してはどうかと提案しているのである。そうした人たちを指名する目的は、彼らが豊かであるなら、政府に貢献する義務があるのだから、余剰物資の即時徴集と積み出しに協力しなければ生命はないものと思わせるためである」。
そのような措置は差しせまった状況があったからで、特殊なケースにのみ適用されたのだと考えるのはまちがっている。これは内戦中のレーニンの典型的な作戦で、大々的な規模で実施された。一九一八年八月二十日、彼は保健人民委員で、リヴヌイの内戦のリーダーでもあったニコライ・セマシュコにこう書いている。「この地域での富農(クラーク)と自衛軍の積極的弾圧はよくやった。鉄は熱いうちに打たねばならない。一分もむだにするな。この地区の貧乏人を組織し、反抗的な富農たちのすべての穀物、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせよ。わが部隊の信頼できるリーダーのもとに貧乏人を動員して武装させ、金持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ」。』
(3)、1918年夏、「テロル」指令
これは、『レーニンの秘密・上』(P.326)の内容です。そのまま引用します。
『レーニンの口調は、だんだん尋問官、検事、死刑執行人に近くなっていった。一九一八年夏、彼はペンザの指揮官に、「富農、聖職者、自衛軍には容赦なくテロルを実行せよ。信用できない人間は町の外の強制収容所に入れよ」と命じた。八月にはトロツキーヘ、「今後、われわれはフランス革命をモデルとし、[陸軍司令官および]上級指揮官が軍事行動をためらったり、失敗したりした場合は、裁判にかけ、処刑することさえあると[司令官たちに]伝えるべきではないか?」と打電した。翌月、彼は再度トロツキーへ電報を打ち、「カザンへの作戦の遅れに驚きあわてている。この町を惜しいとは思うな。これ以上の遅延は許すな。必要なのは容赦なき破壊だからだ」。一九一八年六月三日付けの宛名不明の電報はこうだ。「もし攻撃があれば、バクーの町を徹底的に焼き尽くすあらゆる準備を整えておくように、テル[ザック・テル−ガブリエリャーン、バクーのカスピ海石油センターのコミッサールで地元のチェーカーのボス]に命令できるはずだ。バクーではこれを文書で通達せよ」。
内戦期間中にレーニンは、陰謀加担者、逮捕に抵抗した者、武器の隠匿、不服従、尻込み、不注意、偽報告などの広範囲にわたる違反行為を行った異端者を、射殺するよう指揮官たちに命じている。自らは、戦争の恐ろしさを目の当たりにすることのないクレムリンや、モスクワ郊外の快適な別荘にとどまっていることを望んでおきながら、レーニンの発する命令や指示はますます残酷さをつのらせていった。そうした殺戮を自分の眼で見ていたなら、彼がどう対処したかは想像することができない。たしかに、この時期に彼が発表したたくさんの論文や公的な場での演説では、反革命派や裏切者を射殺せよとはほとんどいっていない。冷酷な指示は暗号化された電報や秘密文書、人民委員会議の名で出した無記名の布告によって行うようにしていた。彼は自分の評判を気にしていた。死刑執行人の汚名を着せられたくなかったのだ。この点ではまずは成功だった。歴史はこの点について彼を、全般的に悪人として裁いてはいないからである』。
(4)、1918年9月5日、「赤色テロルについての布告」
「赤色テロル」は、「白色テロル」にたいする『報復テロル』である、というのが、従来の「レーニン神話」です。しかし、ソ連崩壊後の研究では、現ロシア内外で、それと異なる見解が増えています。テロルはソヴェト体制の本質をなしている。1918年8月までは事実上、9月5日からは公式に実施された、とする内容です。
「布告」内容は、『レーニンの秘密・上』(P.375)にあります。レーニンが、エスエル党員カプランによって、モスクワのミヘリソン工場で狙撃されたのは、8月30日でした。
『ミヘリソン工場での暗殺未遂事件以前に、チェーカーによるテロルはすでに心に寒気をもよおさせる現象になっていた。射撃の時のボルト・アクションの二音に似た「チェー・カー」と聞いただけで、会話はぴたりと止んだ。反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会を指す「チェーカー」が、フェリックス・ジェルジンスキーを議長として設立されたのは一九一七年十二月だった。彼は異端分子のきびしい取り調べ、冷酷無情、執念深さで“鉄のフェリックス”の異名があった。レーニンの暗殺未遂事件は、ちょうどいい時に起こった。体制側は兵士を戦わせたり、確実に穀物を供出させるには、テロルを使うしかなかった。暗殺未遂事件から一週間後の一九一八年九月五日、レーニンの欠席でスヴェルドロフが議長を務めた人民委員会議(ソヴナルコム)の会合で、ジェルジンスキーとスヴェルドロフが大規模テロルの問題を提起し、ジェルジンスキーが短い報告書を読み上げた。いつもの「煮え切らない態度」とは打って変わった「赤色テロルについて」彼らが承認した布告を見て、レーニンはたいへん満足した。ここにその全文を引用する価値があると思われる。
「全ロシア[チェーカー]の議長の報告を聞いた人民委員会議は、現状においてはテロルを使った銃後の保安は絶対に必要であることがわかった。[チェーカーの]活動を強化し、これにいっそう徹底した性格を導入するために、できるだけ多くの党の同志にそこで働いてもらうようにすることが何よりも大事である。ソヴィエト共和国を階級の敵から守るには、敵の強制収容所への隔離、白衛軍の組織・陰謀・反乱に関与した者の射殺は当然である。これらの処刑された者の名前、およびこうした措置を適用した根拠についても、当然公表することとする。」
レーニンは欠席したので、司法人民委員クルスキー、内務人民委員ペトロフスキー、総務部長のポンチ・ブルーエヴィチがこの布告に署名した。亡命した歴史家のセルゲイ・メルグノフは、「テロルの精神的恐怖、それが人間の心理に与える衝撃的な影響は、個々の殺人や、その数でさえなくて、そうした制度そのものにある」といっている。フランス革命の間はギロチンの刃が革命の悲しい産物を絶え間なく刈り取ったが、今やチェーカーが住民の間を、銃を撃ちまくりながら突進していた。』
(5)、1919年1月21日、「コサックへの赤色テロル」指令
この日付は、中野徹三『共産主義黒書を読む』のものです。そこでは、「赤色テロル」司令官オルジョニキッゼは、ドンとクバンのコサック30万人から50万人を殺戮、粛清したとしています。コサックは、農民で、440万人いました。ただ、帝政時代から兵役義務と引き換えに、入植地の土地利用で一般農民より優遇されていました。レーニンは、農民「土地革命」と同じように、土地優遇措置を追認していました。内戦中は、「赤いコサック」と「白いコサック」に分かれ、それも流動的に入れ替わりました。内戦に翻弄されるありさまは、ショーロホフが『静かなドン』で、農民兵士クリゴリー・メレホフの流転の生涯を通じて、生々しく描いています。レーニン・政治局は、当時のコサック側に何の原因もないのに、コサック優遇措置を一方的に破棄した上で、下記の「赤色テロル」を先制的に仕掛けました。メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』は、「2月」となっています。メドヴェージェフの文(P.121)をそのまま引用します。
『一九一九年春までに赤軍も著しく力をつけ、その兵員数は二百万に近づきつつあった。中農の気分が急変し、三百万人にまで増員することが決定されていた赤軍の補充が容易になった。一九一九年秋までに内戦を成功裡に終結させることができるだろうとの確信が生まれた。しかしちょうどこの頃から、赤軍にとっては失敗と敗北続きの時期が始まるのである。一九一九年三月十二日ヴェンシェンスカヤ村を先頭とするドン北部のコサック村で新しい反乱の火の手が上がった。それはすでに反赤軍の反乱であった。反乱の原因はドン上流地域のコサック村でおこなわれた最も無慈悲な赤色テロルであった。このテロルの直接の実行者は軍後方部隊あるいは前線司令官たちであったが、イニシアチブを取ったのは彼らではなかった。赤軍の側につき、戦闘をつい最近開始したばかりのコサック自身もテロルへの口実を全く与えてはいない。テロルの指令はモスクワから入ってきたのである。それは、ロシア共産党中央委員会組織局指導者にして全ロシア中央執行委員会議長であったヤコフ・スヴェルドローフ署名の同党組織局決定であった。指令は次のようなものであった。
「各地の戦線やコサック地区での最近の諸事件、コサック入植地奥地へのわれわれの前進とコサック部隊に囲まれての崩壊によりわれわれは党活動家に対し、上記地区での仕事の性格について指示を与えねばならない。コサックとの内戦の経験にかんがみ、コサック上層部全員に対する最も仮借なき闘争、彼ら全員を根絶やしにする闘争を唯一正しいものであると認めねばならない。
一、裕福なコサックに対して大量テロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにすること。ソヴイエト政権との闘いに直接あるいは間接に、何らかの参加をしたコサック全員に対し仮借なき大量テロルをおこなうこと。中間コサックに対してはソヴイエト政権に反対する新たな行動をとろうとするいかなる試みをも予防するためあらゆる措置を講ずること。
二、穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運び、引き渡させること。これは穀物だけでなく、あらゆる農産物に適用される。
三、よそから来た貧民移住者を援助するあらゆる措置を講じ、移住可能なところへ移住させること。
四、土地関係やその他すべての関係において、他都市から来た人々とコサックとを平等に遇すること。
五、完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること。
六、他都市から来た人々のうち信頼のおける人々にのみ武器を渡すこと。
七、今後完全な秩序が確立されるまでコサック村には武装した部隊を駐留させること。
八、いずれかのコサック入植地へ任命されたコミッサールは最大限に毅然たる態度を示し、一貫して本命令を遂行すること。農業人民委員部は貧民がコサックの土地へ大量に移住できるように実際的措置を早急に準備すること。
ロシア共産党中央委員会」(党中央アルヒーフ、ЦПА,Ф.17, оп.4,д.21, л.216)
二月にドン上流地域のコサック村で実施され始めた恐ろしい、身震いさせるこの指令について私はコメントするつもりはない。これは極めてひどい誤りであるばかりでなく、ロシアと革命に対する犯罪行為であった。政治的あるいは倫理的判断やその結果については言うまでもない。二月のスヴエルドローフ指令が実施されたのはコサックの州なのである。この地域では男性住民はみな武装し、武器の扱いにたけており、大、小の村落で動員を短時間におこない、何十もの歩兵および騎馬連隊を編成することができるのである。この状況で「非コサック化」と大量テロルをおこなえば必然的にコサックの蜂起を招き、南部戦線の安定だけでなく、革命の運命をも脅威にさらすことになるのである。現にドン上流地域で始まった反乱を鎮圧することは出来なかった。ドン上流地域のコサックは連隊と師団を巧みに活用し、対コサックのために投入され、たいていは大急ぎで編成された兵団をことごとく打ち破った。このおかげでデニーキン軍は十分に態勢を整え、一九一九年五月、強力な攻撃を開始することができたのである。六月末までにデニーキン軍はウクライナのほぼ全域と、中央黒土地帯と、ヴオルガ地域のかなりの部分を占領した。六月二十四日、赤軍はハリコフを、六月三十日にはツァーリンを放棄した。』
(6)、1919年2月15日、「鉄道除雪作業農民の人質」指令
これは、ソルジェニーツィン『収容所群島』(P.42)にあり、この指令は『ソヴェト政権の法令』(第4巻、モスクワ、1968年、P.627)に載っています。
『一九年二月十五日付の国防会議(おそらくレーニンを議長として行われたにちがいない)の決定で、鉄道の除雪作業が「あまり十分に行われていない」地方の農民を人質にとることが、「もし除雪が行われない場合には農民たちは射殺される」という付帯事項付きで非常委員会と内務人氏委員部に命ぜられている』
(7)、1920年10月19日、「タンボフ県の農民反乱への鎮圧」指令
1920年8月、内戦が基本的に終結すると同時に、タンボフ県の農民「反乱」始まりました。「反乱」農民は、最大時5万人になり、300組織に広がりました。梶川氏は、『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』において、ソ連崩壊後に公開された膨大なアルヒーフ(公文書)を使って、「反乱」原因・経過を詳細に分析しています。そこでのレーニンの指令(P.604)を引用します。
『九月二四日にレーニン宛てに、県執行委議長代理から次の文書が送られた。「わが状態は悪化している(わが二個中隊が武装解除され、そのようにして四〇〇丁のライフル銃と四丁の機関銃が奪われ、全体として敵対者は強固)。[……]貴殿に[穀物を]何も出せなかった。集荷は一日必要な二〇〜二二万プードでなく二万〜二万二〇〇〇〜二万五〇〇〇しかない」。この恐ろしい現実を知悉したレーニンは、直ちにチェー・カー議長ジェルジーンスキィに「超精力的措置」を至急採るよう命じたが、事態はいっこうに改善されなかった。レーニンの関心事は、まず労働者への穀物の確保であった。タムボフの事件もこのことに集約された。二七日にブリュハーノフ宛てに次のように書き送った。「タムボフ県について。注意を払うように。一一〇〇万プードの割当徴発は確実だろうか」。これとの関連でさらに一〇月一九日に、国内保安部隊司令とジェルジーンスキィに、反乱は強まり、わが軍は弱いとの県執行委議長シリーフチェルの報告を伝え、反乱撲滅のための必要な措置を採るよう指示した。これとほぼ同時にレーニンはジェルジーンスキィには、叛徒の猖獗を「醜悪の極み」として、タムボフ県のぼんくらなチェー・カー員と執行委員を裁判にかけ、国内保安部隊司令を厳しく叱責し、厳格な反乱の鎮圧を命じたのは、依然として根絶されない反革命的行為への彼の焦燥感の表現であったろう。二月になると抑圧的措置が強化され、「匪賊的村」が焼き討ちされた。』
(8)、1921年6月11日、「タンボフ農民への『裁判なし射殺』」指令
「指令」内容を書く前に、なぜ、レーニンは、このような指令を出したのかについての背景説明をする必要があります。1921年2、3月とは、どういう時期だったのでしょう。それは、(1)内戦終結の20年秋以降に勃発し、続いている3大農民「反乱」、(2)モスクワ・ペトログラードの全市的労働者ストライキ、(3)クロンシュタット・ソヴェト水兵反乱という、同時多発「反乱」が激発した時期でした。即ち、レーニン・ボリシェヴィキ政権の3年余の誤り・武力支配にたいする武力要求行動が、全分野で集約的に表面化した最大の危機の時期でした。。各階級・兵士の個別要求とともに、そこに共通してあるのは、「食糧独裁令」撤廃・「穀物自由商業」承認の要求とボリシェヴィキ一党独裁反対の要求でした。政権崩壊の危機に直面して、レーニンは、あくまで一党独裁システムに固執するための二面作戦を採りました。一方は、「食糧独裁令」を“やむなく”撤回して、「一時的戦術的後退」としての「自由商業=資本主義」を承認する「ネップ」を、3月のロシア共産党(ボ)第10回大会で発令しました。他方は、すべての「反乱」を『反革命』『武装反革命』とすりかえる詭弁を使って、「反乱」農民・労働者・兵士を“皆殺しにする報復作戦”でした。
3つの同時多発「反乱」分子への“皆殺し・報復「赤色テロル=国家権力テロル」”として、レーニンは、3方面体制を採りました。ペトログラード・ストライキ参加労働者・メンシェビキ党員にたいしては、ペトログラード・ソヴェト議長ジノヴィエフとペトログラード・チェーカーによって、5000人を逮捕し、そのうち、500人を即座に、拷問死、銃殺しました。その数日後に、クロンシュタット・ソヴェト水兵反乱が勃発しました。赤軍内にも動揺が広がりました。農民「反乱」と兵士反乱を同時に“皆殺し「赤色テロル」”で鎮圧をするには、その自国民大量殺戮行為、しかも同じ赤軍仲間の殺戮を忠実に執行する赤軍兵力が足りませんでした。やむなく、レーニンは、二段階作戦を採らざるをえませんでした。
第1段階、クロンシュタット水兵反乱を、まず先に殲滅する。なぜなら、クロンシュタット・ソヴェト水兵は、国家暴力装置の根幹であり、ソ連海軍バルチック艦隊の中心であり、「革命の栄光拠点」だったからです。その鎮圧が遅れれば、チェーカーと赤軍に依存した「暴力革命・支配体制」の一方である赤軍自体が内部崩壊してしまうからです。というのも、1919年の赤軍兵役忌避者が、徴兵逃れ91.7万人と脱走兵176.1万人を合わせて、合計267.8万人も出ました。20年も同じと計算すると、2年間で535万人が、徴兵逃れ・脱走をしていることになるからです。
レーニンは、トハチェフスキーを鎮圧司令官とし、赤軍5万人を急派しました。水兵・住民55000人を、戦闘による殺戮、鎮圧後の銃殺、拷問死、強制収容所送り、その途中での殺害、強制収容所における銃殺などで“皆殺し”にしました。それは、赤軍同士がたたかうという「ロシア革命史」上、もっとも凄惨な殺し合いになりました。レーニン、軍事人民委員トロツキーと司令官トハチェフスキーは、鎮圧部隊5万人に、クロンシュタット側の「15項目の綱領」要求を秘匿したままで、突撃を命令しました。氷結したフィンランド湾上を、コトリン島要塞目指して進む鎮圧側赤軍部隊のいくつかは、クロンシュタット側に、寝返えろうと行動しました。トロツキーとトハチェフスキーは、その寝返り赤軍部隊を、背後から機関銃で射殺させました。鎮圧後、レーニンとトロツキーは、赤軍内部崩壊を食い止めるために、赤軍内粛清とともに、ソ連全土での赤軍部隊編成変えを実施しました。
第2段階、水兵“皆殺し”後の4月、レーニンは、ただちに、タンボフ県に、トハチェフスキーを農民「反乱」鎮圧司令官とし、赤軍5万人を、クロンシュタットから転進・急派しました。
以下は、『レーニンの秘密・下』(P.160)にある「アントーノフの反乱」鎮圧経過です。
『一九二一年五月、赤軍司令官トゥハチェフスキー元帥には、すぐに出動可能な常備軍五万人、装甲列車三両、装甲部隊三個、機関銃をもった機動隊数隊、野戦砲約七〇門、機関銃数百丁、航空部隊一個があった。抵抗があった場合には、軍隊は村を丸ごと焼き払い、農民の小屋に容赦なく発砲し、捕虜はとらないことになっていた。反乱の指導者アントーノフは、一度は敗北したにもかかわらず、もう一度抵抗を試みようとしており、ボリシエヴィキを数カ月にわたって忙しくさせた。だが、一九二二年五月、彼はチェーカーに密告され、一カ月後、彼の兄弟とともに一軒の小屋に閉じ込められた。彼らは一時間あまりそこにこもっていたが、軍隊が小屋に火を放ったため、森へ脱出し、走っている最中に射殺された。引きつづいて軍隊が、アントーノフを助けたと見られる大勢の人たちを、報復措置として処刑した。』
その鎮圧前に、レーニンは、この農民「反乱」にたいして、大量の「人質」政策をとり、モスクワに送らせました。そのデータも、『レーニンの秘密・下』(P.158)にあります。
『一九二一年九月、モスクワ赤十字委員会会長のヴェーラ・フィグネルは、共和国革命法廷宛てにこう書いている。「現在、モスクワの拘置所には、タンボフ県からの大勢の農民が入れられています。アントーノフの一団が一掃される前に、身内のために人質になっていた人たちです。ノヴォ・ペスコフ収容所には五六人、セミョーノフには一三人、コジュホフには二九五人、この中には六十歳以上の男性が二九人、十七歳以下の若い人が一五八人、十歳以下が四七人、一歳未満が五人います。彼らは全員、ぼろをまとい、身体の半分は裸という惨めな状態でモスクワに到着しました。よほど空腹なのか、幼い子供たちはごみの山をあさって食物を探しています……政治犯救済赤十字は、こうした人質の救済と、彼らの故郷の村への送還を請願いたします。」
政権側はそのような嘆願にたいしてほとんど耳を貸さなかった。』
6月11日、レーニンは次のような命令を、政治局の承認をえて、発令しました。これは、『レーニンの秘密・下』(P.158)の「レーニン秘密・未公開資料」によるものです。その文をそのまま引用します。
『「反乱の指導者アントーノフの率いる[タンボフ県の]一団は、わが軍の果断な戦闘行為によって撃破され、ちりぢりばらばらにされた上、あちこちで少しずつ逮捕されたりしている。エスエル・ゲリラのみなもとを徹底的に根絶するために……全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令する。(1)自分の名前をいうのを拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺すること。(2)人質をとった場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなかった場合は射殺すること。(3)武器を隠しもっていることが発見された時、一家の最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(4)ゲリラをかくまった家族は逮捕して他県へ追放し、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺すること。(5)ゲリラの家族や財産をかくまった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(6)ゲリラの家族が逃亡している場合には、その所有物はソヴィエト政権に忠実な農民たちに分配し、放棄された家屋は焼き払うか取り壊すこと。(7)この命令は厳重に、容赦なく実行すること。この命令は村の集会で読み上げること」。政治局は、あちこちの県で大虐殺が行なわれるのを認めていた。』
(9)、1921年6月12日、「『毒ガス使用』によるタンボフ農民の絶滅」命令
メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』(P.125)で、次のように認めています。
『ボリシェヴィキが再びロシアを奪還した一九二一年春は、どことなく一九一八年春と似ている。だが今度は国が「土台まで」破壊されていた。工場は操業を停止していた。工業労働者の大部分が村へ去っていった。農業生産は半減した。だが農民は、ただぶつぶつ不平を言っていただけではなかった。再び武器を取って立ち上がり始めた。ロシア中央部ではエスエル党員アレクサンドル・アントーノフに率いられたタンボフの反乱、すなわち「アントーノフの」反乱が荒れ狂った。この時、内戦期において初めて軍は兵器庫から化学兵器を取り出し、使用した。』
ヴォルコゴーノフは、この詳細を『レーニンの秘密・下』(P.135)で公表しました。
『一九二一年四月二十七日、レーニンの率いる政治局は、トゥハチェフスキーをタンボフ地方の司令官に任命した。彼は一カ月以内に農民の反乱を鎮圧すること、およびその進捗状況を毎週文書で報告するように命じられた。トゥハチェフスキーはその期限を守ることはできなかったが、要求の達成には全力を尽くした。
六月十二日に、トゥハチェフスキーは次のような命令を出した。
敗北集団や単独行動の盗賊の生き残り……などが森に集まり、平和に暮らしている住民を襲っている。(1)盗賊が隠れている森に毒ガスを撒き、彼らを一掃すること。窒息ガスを森中全体にたちこめさせ、そこに隠れているすべてのものを確実に絶滅させるように綿密な計画を立てること。
(2)小火器監察官は必要数の毒ガス入り気球と、その取り扱いに必要な専門技術者をただちに現場に派遣すること。
体制から見て、どういう種類の農民が“本物の階級の敵”とみなされたのかは想像しにくい。だが、似たような措置は他のところでもとられ、政治局はそれを承知し、認めていた。』
(10)、1922年5月15日、17日、「銃殺刑の範囲拡大とテロル」指令
これは、ソルジェニーツィン『収容所群島』(P.342)にあり、15日の指令は『レーニン全集』(第42巻、P.586)に載っています。5月17日「手紙」は、『レーニン全集』(第33巻、P.371)にあります。
『五月十二日、所定のとおり全露中央執行委員会会議が開かれた。だが、法典草案はまだできあがっていなかった。草案は目を通してもらうためゴルキにいるウラジーミル・イリイッチのもとへ提出されたばかりだった。法典の六カ条がその上限に銃殺刑を規定していた。これは満足すべきものではなかった。五月十五日、イリイッチはその草案の余白に、同じく銃殺を必要とする六力条をさらにつけ加えた(その中には、第六九条による宣伝および煽動…特に、政府に対する消極的反抗、兵役および納税の義務の不履行の呼びかけが含まれる)。イリイッチは主要な結論を司法人民委員にこう説明した。
「同志クルスキー! 私の考えでは銃殺刑(国外追放でそれに代える場合もあるが)の適用範囲をメンシェビキ、社会革命党員等々のあらゆる種類の活動に対してひろげねばならないと思う。これらの活動と国際ブルジョアジーとを結びつける定式を見つけねばならないと思う」(傍点はレーニン)
銃殺刑適用範囲を拡大する!簡明直截(ちょくせつ)これにすぎるものはない!(国外に追放された者は多かったろうか?) テロとは説得の手段である。このことも明白だろう!
だが、クルスキーはそれでもなお十分には理解することができなかった。彼にはおそらく、この定式をどう作りあげたらいいか、この結びつきをどのようにとらえたらいいかわからなかったにちがいない。そこで翌日、彼は説明を求めるために人民委員会議議長を訪れた。この会談の内容は私たちには知る由もない。しかし五月十七日、レーニンは追いかけるようにしてゴルキから二通目の手紙を送った。
「同志クルスキー! われわれの会談を補うものとして、刑法典の補足条項の草案をお手もとへおくる……原案には多々欠陥があるにもかかわらず、基本的な考え方ははっきりわかっていただけるとおもう。すなわち、テロの本質と正当性、その必要性、その限界を理由づける、原則的な、政治的に正しい(狭い法律上の見地からみて正しいだけでなく)命題を公然とかかげるということがそれである。
法廷はテロを排除してはならない。そういうことを約束するのは自己欺瞞(ぎまん)ないしは欺瞞であろう。これを原則的に、はっきりと、偽りなしに、粉飾なしに基礎づけ、法律化しなければならない。できるだけ広く定式化しなければならない。なぜならば革命的な正義の観念と革命的良心だけがそれを実際により広くあるいはより狭く適用する諸条件を与えるだろうからである。
共産主義者のあいさつをおくる レーニン」
私たちはこの重要文書をあえて注釈しないことにする。この文書に対しては静寂と思索とが似つかわしい。
この文書はまだ病にとりつかれてないレーニンのこの世での最後の指令の一つであり、彼の政治的遺言の重要部分であるという点で特に貴重である。この手紙を書いてから九日目にレーニンは最初の脳卒中に見舞われ、一九二二年の秋に彼はようやくこの病から一時的に回復するのである。クルスキー宛の手紙は二通とも、二階の隅の明るい白大理石の小さな書斎で書かれたらしいが、そこは間もなく彼の臨終の床となった場所であった。』
(1922年5月26日、レーニン第1回脳卒中発作。5月30日、「12×7」の計算ができない症状になる。この分析は、『「反ソヴェト」知識人の大量追放作戦とレーニンの党派性』にあります。)
(レーニンは、5月「銃殺刑の範囲拡大とテロル」指令の2カ月前の3月に『聖職者全員銃殺』を指令し、聖職者数万人の銃殺、信徒数万人の殺害をしました。脳卒中病み上がりの6月に『「反ソヴェト」知識人の大量追放作戦』を指令し、知識人数万人を3方針で“肉体的排除”しました。)
(レーニンは、3回の発作を経て、死去しました。第2回、1922年12月16日。12月23日〜26日、『党大会への手紙』口述。第3回、1923年3月10日、以後、口述も不可能。死去、1924年1月21日。)
3、農民「反乱」規模と射殺・人質数データ(表1、2、3、4)
〔小目次〕
(表1) 1918年5月から20年までの農民「反乱」、兵役忌避
(表2) 1920、21年の農民「反乱」と規模
(表3) 1920、21年の「反乱」農民の射殺・人質数
(表4) 「反乱」農民、その他の銃殺・死者の総計
(表1) 1918年5月から20年までの農民「反乱」、兵役忌避
期間 |
項目 |
地域と規模 |
出典 |
1918〜20 1918 1918・6 |
「ソヴェト政権転覆の陰謀」 農民射殺 有名な暴動 農民銃殺 |
各県で続々と発覚したソビエト政権転覆の陰謀、リャザンで2件、コストロマー、ヴイシニイ・ヴォロチョク、ヴェリジで各1件、キエフ、モスクワで各数件、サラトフ、チェルニゴフ、アストラハン、セリゲル、スモレンスク、ボブルイスク、タンボフ、カヴァレリイスク、チェムバルスク、ヴェリーキエ・ルーキ、ムスチスラーヴリで各1件など 貧農委員会が村ソビエトの入口階段の陰や裏庭で片づけた人びとはどの欄に入れたらよいのか? ヤロスラフ、ムーロム、ルイビンスク、アルザマスの暴動 コルピノでの銃殺だが、これはどんな事件なのか? どんな人びとが殺されたのか? |
『収容所群島』 (P.41) |
1918 |
農民蜂起 |
17年の農民運動の先頭に立っていたトゥーラ、ヤロスラヴリ、タムボフ、オリョール、ニジェゴロド、リャザニ、クルスク、ペンザ、ヴィヤトカ諸県をはじめとする18年の大規模な農民蜂起 それらの県で54件の農民反乱 |
長尾久『ロシア十月革命の研究』、『飢餓の革命』所収 |
1918夏 1921・3〜 |
徴兵制 動員解除 |
18年夏に徴兵制。赤軍は4月15万人、9月55万人、20年末550万人。21年3月ブレスト条約後の動員解除で250万人が帰村 |
『ロシア・ソ連を知る事典』 |
1919・3 |
コサック反乱 |
「コサック絶滅赤色テロル」指令への反乱。メドヴェージェフ『この指令は、極めてひどい誤りであるばかりではなく、ロシアと革命にたいする犯罪行為であった』 ドン・コサック15000人、クバンとテレク・コサック35000人が決起。「赤いコサック(革命派)」も、全員が「反赤軍」に転化、白衛軍と連携。 |
『1917年のロシア革命』(P.121) 植田樹『コサックのロシア』(P.188) |
1919前半 |
農民反乱 |
クルスク県で106件、ヴォロネジ県で101件、オリョール県で31件の農民反乱を確認。報告では、反革命的原因が72件、動員が51件、兵役忌避が35件、徴発が34件 |
『飢餓の革命』 (P.31) |
1919 |
兵役忌避 |
兵役忌避とは、徴兵逃れと脱走兵とを含む。19年中の兵役忌避者は、徴兵逃れ91.7万人と脱走兵176.1万人。合計267.8万人。20年も同じとして計算すると、2年間で535万人。脱走兵には、捕獲作戦と処罰通告・家族人質政策による脱走後の帰還兵も含む |
『飢餓の革命』 (P.14)、『レーニンの秘密』 |
1920 |
兵役忌避 |
20年3月、クルスク県チェー・カーは、兵役忌避は増加している、現在まで約6000人を捕獲したが、県にはまだ約1万から15000人が捕獲されずにいる、それとの闘争はまったく不可能であると報告 チェリャビンスク県の20年末までの活動総括。19年11〜12月で2242人、20年4月に4230人、9月に1692人が捕獲された。この闘争で次第に抑圧的措置が頻繁に適用されるようになり、20年8月までは財産没収は60件。それ以後の3カ月間で404件の没収が行われた。 |
『飢餓の革命』 (P.14) 『飢餓の革命』 (P.16) |
(注)、これらは内戦期間中のデータです。その期間には、「白衛軍と赤軍との戦争」と「農民反乱とチェーカー・赤軍との戦闘」とが混在しています。その分別が難しいのですが、上記データは、内戦から区別して、農民「反乱」だけを取り出したものです。
(表2) 1920、21年の農民「反乱」と規模
期間 |
名称 |
地域 |
規模と内容 |
出典 |
1920〜21.8 |
マフノー農民軍 |
ウクライナからドン川流域 |
5万人。ドイツ占領軍や白衛軍と戦闘。デニーキン軍の後方部隊を殲滅。赤軍と「政治・軍事協定」を結び、赤軍を助けてウランゲリ将軍を壊滅させた。 その後、「食糧独裁令」撤廃を要求。レーニン指令により司令官フルンゼは、農民軍を「ソヴェト共和国と革命の敵」と宣言し、武装解除を命令。農民軍はそれを拒否して赤軍と戦闘。対マフノー鎮圧部隊の歩兵・騎兵数万人を派遣。双方に数万人ずつの死者を出す激戦で武力鎮圧 |
『1917年のロシア革命』(P.126) 『ロシア・ソ連を知る事典』 『ロシア史(新版)』 |
1920〜21・2 |
西シベリアの反乱 |
西シベリアの5地方、8県、14郡 |
4万人〜6万人、数百の組織。20.10、ウファー県ウイスコエ地区1000人集結、うち800人が武装し、執行委議長、民警隊長、地区食糧全権を殺害。オレンブルグ県24000人の反乱で「コムニスト打倒」「憲法議会万歳」のスローガン。21.2の反乱、シベリア鉄道の主要な駅すべてを占拠、3週間にわたり鉄道交通麻痺、8県14郡でボリシェヴィキ権力麻痺 |
『クロンシュタット1921』 『1917年のロシア革命』(P.121) |
1920・8〜21・6 |
アントーノフの反乱(タンボフの反乱) |
タンボフ県と他4県 |
5万人。300の「反乱」農民組織。8月決起、10月「反乱」農民3000人、21年2月5万人。20.9、「反乱」農民は、戦闘で赤軍2個中隊を武装解除し、ライフル銃400丁、機関銃4丁を奪う。21.1、タンボフ連隊は、赤軍から武器を奪い、各連隊がそれぞれ機関銃12丁を持つ。100人から150人からなる6個の騎兵中隊。パルチザンは、ライフル銃で武装し、各人45発の実弾を携行。21.2までに、キルサノフ郡では、党員の約半分がアントーノフ側に寝返り |
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 |
1920・2 |
人民農民軍 |
ウファー、カザン、サマラ県の6郡 |
「軍事=割当徴発」への不満による反乱。当初4000人。参加者40万人。西部方面軍を派遣し、戒厳令をひき、武力鎮圧。3.30、ウファー県での戒厳令解除 |
『同上』 |
1920・10 |
凶作下での徴発への反乱 |
ヴォロネジ県 |
凶作に直面し、それでも「軍事=割当徴発」強行への不満が爆発。騎兵5000人からなる農民部隊の決起 |
『同上』 |
1920・11〜21・3 1920秋〜21春 |
総計 総計 |
全土 全土 |
チェーカーは、118件の農民一揆を報告 反乱数は数百件。鉄道にたいする攻撃と事故数千件 |
『クロンシュタット1921』(P.14) 『1917年のロシア革命』(P.126) |
(注)、この時期の農民「反乱」は、すべて、白衛軍との関係を持ちません。内戦の基本的終結を待って、「軍事=割当徴発」制への不満、反対が爆発したものです。かつ、その撤回と「穀物の自由処分=自由商業」を求めた、チェーカー・赤軍の穀物徴発暴力にたいする“武装要求行動”でした。過酷な「軍事=割当徴発」により、餓死寸前に追いこまれた段階での、死に物狂いの決起でした。21・22年における500万人の飢饉死亡者がその極限状況を証明しています。
(表3) 1920、21年の「反乱」農民の射殺・人質数
期間 |
地域 |
内容と規模 |
赤軍 |
出典 |
1920、21 |
ウクライナからドン川流域 |
マフノー農民軍5万人中、ドイツ占領軍、デニーキン、ウランゲリ白衛軍との戦争における死傷以外で、赤軍との戦闘で数万人死傷。1921・22年飢饉死亡者はウクライナだけで100万人(コサック絶滅指令のように、報復的穀物没収が原因かは不明。1919年コサックへの「赤色テロル」指令による殺戮、穀物完全没収でコサック身分農民440万人中、30万人から50万人が戦闘、殺戮、餓死により死亡) |
対マフノー鎮圧部隊の歩兵・騎兵中、数万人死傷 |
『ロシア・ソ連を知る事典』 中野徹三『共産主義黒書を読む』 |
1920〜21・2 |
西シベリア5地方、8県、14郡 |
20・5、「反乱」農民5000人殺害、42人銃殺 20・7、「反乱」農民42人銃殺 21・1、アルタイ県で郷・村執行部1494人逮捕、市民5494人逮捕、家畜14000頭以上没収。 4万人の「反乱」農民中で、射殺・人質総計は不明 |
コムニスト80人殺害 |
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 |
1920・8 |
チェリャビンスク県 |
兵役忌避者7340人のうち106人が監獄、194人が矯正収容所、134人が強制労働、1165人が執行猶予、5067人が罰金、18人が銃殺、656人がそのほかの判決。もちろん、捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲。 |
『飢餓の革命』 (P.16) |
|
1920・11 |
各地 |
反ユダヤ主義ポグロム(虐殺)、4村で58人。他地域でも多数 |
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 |
|
1920・8〜21・6 |
タンボフ県と他4県 |
20・9、戦闘で600人犠牲者 21・3、20・10の党員・候補11521人が、6158人に半減 21・6、タンボフ「反乱」農民5万人中、『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令による殺害数は不明 21・9、モスクワの3収容所のタンボフ農民人質364人 |
チフス、戦闘で毎週300人死亡。 |
『同上』 『レーニンの秘密・下』(P.158) |
1920〜21・6 |
全土 |
36県が「反乱」農民と赤軍・チェーカー・食糧人民委員部との戦争状態になった |
食糧人民委員部10万人以上死亡 |
『1917年のロシア革命』 |
1921年だけ |
全土 |
1921年兵役忌避・脱走兵の銃殺刑。1月360、2月375、3月794、4月740、5月419、6月365、7月393、8月295、9月176、10月122、11月111、12月187、1921年計4337人銃殺。ヴォルコゴーノフ『国内戦の初期(18、19年)には銃殺者がはるかに多かった』『革命裁判で控訴権なし、判決は24時間以内に執行』 |
赤軍兵士171185人が、農民「反乱」との戦闘で死亡 |
ヴォルコゴーノフ 『トロツキー・上』(P.409) (赤軍死亡)『1917年のロシア革命』 |
(表4) 「反乱」農民、その他の銃殺・死者の総計
期間 |
地域 |
内容と規模 |
出典 |
1917〜22 |
ソ連全土 |
R・J・ランメルによる『民衆殺害推計』の「1、内戦期1917〜22」。原因別、テロル75万人、収容所3.4万人、飢え250万人、死者数計328万人。中野徹三『意図的な政策の結果でない餓死死などは除外されている』 |
『社会主義像の転回』(P.234) |
1918〜22 |
ソ連全土 |
人質または裁判なしの獄囚数万人の銃殺。反乱を起した労働者と農民数十万人の虐殺。『アステイオン51』(1999、TBSブリタニカ)に掲載 |
『共産主義黒書序文』(P.18) |
1917〜22 |
ソ連全土 |
飢饉死亡500万人、亡命200万人、内戦犠牲者700万人の計1400万人 一方、レーニン・政治局は、飢饉中にもかかわらず、100万トン近い穀物の輸出を決定。「飢饉救済」名目の没収教会財産も、一部しか救済に使わず。 |
川端『ロシア』 『レーニンの秘密』 |
1921・22 |
ソ連全土 (農民以外) |
21・2、ペトログラードのストライキ参加労働者、メンシェビキ党員5000人逮捕。うち大部分を拷問死、銃殺、強制収容所送り 21・3、クロンシュタット・ソヴェト水兵と住民55000人を戦闘による殺戮、死刑、強制収容所送り、強制移住、収容所での拷問死・銃殺などで殲滅 22・2、聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害 22・6、「反ソヴェト」知識人数万人を3方針で“肉体的排除” |
『クロンシュタット1921』 『クロンシュタット・コミューン』、他 『レーニンの秘密』 『同上』 |
1918〜19前半 |
20県のみの部分計 |
チェーカーによる逮捕87000人、うち『裁判なし銃殺』8339人。チェーカー、M・I・ラツィスによる「チェーカー活動の概況」『国内戦線における闘争の2年間』(1920年) |
『収容所群島』 (P.290) |
1918・6〜19・10 |
ロシア中央部20県のみの部分計 |
革命裁判所による「新しい時代の死刑」としての銃殺。16カ月間で16000人以上銃殺。1カ月間にすれば、1000人以上の銃殺刑執行。「ソ連刑法」は、資料(10)の1922年6月1日から施行。それ以前は、「明文化された刑法」なしで「革命裁判所」が死刑判決を出し、24時間以内に銃殺刑執行 |
『収容所群島』 (P.418) |
1920 |
ソ連全土 |
強制収容所が、すでに84カ所に存在。内戦による捕虜24000人以外に、「収容者」25000人という統計 |
『ロシア・ソ連を知る事典』 |
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『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実(2)』
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
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『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命後の現実を通して
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
ダンコース『奪われた権力』第1章
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大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入と政治の逆改革