レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか
―― 十月革命後の現実を通して ――
梶川伸一
(注)、2004年、「レーニン没後八十年記念・十一月シンポジウム」が開催された。このファイルは、梶川伸一金沢大学文学部教授が行ったメイン講演の全文である。それは、他報告者の論考9編も合わせて、上島武・村岡到編『レーニン、革命ロシアの光と影』(社会評論社、2005年6月)として出版された。このHPに全文(P.14〜32)を転載することについては、梶川氏の了解をいただいてある。なお、私(宮地)の判断で、著者が「十月革命はボリシェヴィキの軍事クーデター」と規定した箇所のみを赤太字にした。
編著者上島武は「はしがき」で次のように書いた。――まず本書の構成について述べる。十一月シンポジウムにメイン講演者として立った梶川伸一の「レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか」を冒頭に置き、同じく大なり小なりロシア革命に果たしたレーニン・レーニン主義の功罪を論じたものを三点くわえ、あわせて第一部「ロシア革命とレーニン主義」とした。いま、功罪と言ったが、多少ニュアンスを異にするものの、いずれも圧倒的にレーニン(主義)の消極的側面を照射する結果となっている。特に梶川論文はレーニンにおける農民軽視ならぬ「蔑視・敵視」を問題とし、「史上最大の農民革命」(トロツキー)が、その実、最大の農民収奪と膨大な餓死をもたらしたと説く。またそれは従来強調されたような内戦・干渉戦の産物というよりも、それに先だって実現し、戦時共産主義終了・ネップ移行後も継承されたことを強調する。
〔目次〕
3、ロシア革命の現実−「労農同盟」神話について 十月革命は軍事クーデター
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梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実』
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
社会評論社『レーニン 革命ロシアの光と影』書籍内容紹介・注文
ダン・ブラウンがベストセラー・ミステリー『ダ・ヴィンチ・コード』で触れているように、書き残された歴史とは「勝者の歴史」であることをまず想起しなければならない。まさに、ロシア十月革命史とはボリシェヴィキ史観に基づく歴史であった。ソ連時代には、われわれのような国外研究者はおもにソ連研究者の文献に一定依存しなければならない研究環境の中で、「勝者の歴史」をそのまま踏襲してきた苦い経験があるとしても、ソ連が崩壊した現在でも、これに関わる多くの神話が生き長らえている。偽造された歴史はスターリンの専売特許ではないのだ。レーニンについての評価も決してそれから免れているわけではない。以前封切られて話題をさらったM・ナイト・シャマラン監督・脚本の映画『シックス・センス』は、最後のどんでん返しで観客を驚かせ、改めて「逆さ世界」から眺めてみると、今まで見えなかったものが見えてくる仕掛けになっているのだが、ここでも従来のボリシェヴィキ神話を解体し、「プロクルテスのベッド」のようにボリシェヴィキ理論を現実に合わすのではなく、「逆さ世界」として十月革命後の現実そのものを提示することで、レーニンまたは十月革命そのものを再評価するための一助を提供しようと思う。
ボリシェヴィキ神話の中でもっとも流布しているものとして、「労農同盟」神話がある。周知のように、「労農同盟」の概念は住民の80%以上が農民である特殊ロシアにおいて民衆革命を遂行するための担保であったが、そこでは二つの条件が含意されていることを見逃してはならない。第一に、農民よりも労働者の卓越性であり(プロレタリアートの範疇に入らない農民は労働者によって指導されるべき存在)、第二は、プロレタリアートの絶対的優越性である。したがって、第一に、当時の共同体農民の固有の条件は殆ど考慮されず(総じて、ボリシェヴィキ理論は教条的で空疎な観念論に終始し、民衆の実状にきわめて疎く、民族問題はその典型である)、第二に、必然的にプロレタリアートを創出するための階級分化論に依拠し、そのため十月革命の際に階級闘争が基本的に存在しなかった農村での「社会主義革命」の必要性が特に強調された。こうして18年夏以後、都市プロレタリアートから構成される貧農委員会が農村での政治活動を指導し農村での階級分化を促進するために各地で設置され、それとともに中央権力に抵抗する農民蜂起の徹底的鎮圧は「農村での十月」を深化させるとして積極的に推進されることになった。
何度か引用したその典型的な実例をもう一度ここでも引かなければならない。
18年夏に中央農業県ペンザ県を席巻した中央の食糧政策に反対する農民蜂起に関する電報を受け取ったレーニンは、現地ソヴェト議長宛に次のように回答した。「同志諸君! クラークの5郷の蜂起を容赦なく鎮圧しなければならない。革命全体の利害がこのことを要求している。というのは、今や至る所でクラークとの「最後の決定的戦闘」が行われているので、手本を示さなければならない。1、100人以上の名うてのクラーク、富農、吸血鬼を縛り首にせよ(必ず民衆が見えるように縛り首にせよ)、2、彼らの名前を公表せよ、3、彼らからすべての穀物を没収せよ、4、昨日の電報にしたがって人質を指名せよ。周囲数百ヴェルスタ[数百キロメートル]の民衆がそれを見て、身震いし、悟り、悲鳴を挙げるようにせよ」。幸いなことに、この蜂起はレーニンの指令が実行されることなく平定されたが、富農やクラークが何者であるかの規定は一切なされないままに、人質や公開処刑は戦時共産主義期に頻繁に見られる現象となり、スターリン時代に繰り返された。
内戦は勝利し、それとともに赤軍の輝かしい戦歴が昂揚されたとしても、赤軍への民衆の共感も神話でしかない。農民はもっとも必要とされる働き手が兵士として奪われることへの恐怖心を抱き、働き手を奪われた多くの赤軍兵士留守家族の経営は崩壊していた。そのため、徴兵忌避者や脱走兵は膨大な数になり、19年後半には150万人の脱走兵を数えた。このように広汎に展開される兵役忌避者に対して、死刑を含む厳罰が適用され大規模な兵役忌避者との闘争が行われ各地でそのための委員会が設置されたとしても、地方当局は彼らとの闘争は殆ど不可能であると感じていた。なぜなら、彼らの隠匿者も厳罰に処すとの指令にもかかわらず、兵役忌避者は多くの住民の共鳴を得て容易に捕獲を免れることができたからである。また、当時の環境の中では赤軍兵士の物理的条件はまったく劣悪であった。まともな装備を持つのはまったく稀であった。食糧供給も乏しく、水のような粥をすすりながら、ロシアの厳冬の中を襤褸を纏い草鞋履きで行軍していた。裸足で行軍する部隊さえあった。そのため、赤軍による住民からの最後の家財道具に至る様々な徴発は日常的な現象となり、彼らは民衆の憎悪の的にさえなった。トロツキーの『革命はいかに武装されたか』を読んでも、赤軍の実態は決して見えないのだ。「赤軍兵士によって恐ろしい掠奪が行われた。すべての農民から根こそぎ強奪した。食糧と播種の穀物さえ残さなかった。要するにすっかり奪い取った。穀物の有無を尋ねることなく、登録された穀物がなければ、馬や牛を、それに農民自身を監獄に連れ去った」と19年秋に彼らの狼藉を訴えるような地方からの文書を、われわれは公文書資料館で多数見ることができる(梶川伸一『幻想の革命』、京都大学学術出版会、2004年、15〜16頁)。重要なのは、ここで掲げた方針はレーニンにより起案されたか支持されていた事実である。
これらの事実に基づいて、ボリシェヴィキ権力の本質とは何かを改めて問い直す必要があるだろう。われわれがレーニンまたは十月革命を評価する際には、どのように革命理論が具現化されたかではなく、いかなる社会変化が生じたかを具体的に検証することが重要であろう。民衆との関係性の中で、革命理論の具現化を検証しなければならないということなのだ。
拙著『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』(ミネルヴァ書房、1998年)で「労農同盟」論の虚偽性を明らかにしたが、上記の実例が示すような戦時共産主義期の否定的解釈は、ソ連時代の文献でも指摘されなかったわけでもない。なぜなら、内戦期の環境が、ボリシェヴィキ権力をして一時的に「労農同盟」の解体を余儀なくさせたとの免責事項があるのだから。つまり、内戦と干渉戦争によって本来のボリシェヴィキ政策は変更を余儀なくされたが、内戦の終結によって本来の適正な政策であるネップに立ち戻ったと、説明されてきた。
そもそもこのような解釈は、当時の政治的言質に由来することを、まず確認しなければならない。ネップの導入後に開かれた1921年末の第9回全ロシア・ソヴェト大会でカーメネフは、戦時共産主義は内戦と反革命によって余儀なくされた結果であるとして、次のように報告した。「確かにこれ[ネップまたは新経済政策]は戦時共産主義に替わる新しい政策だが、もしこの「新」という言葉を拡大解釈し、ソヴェト権力にとって、労農国家にとって、われわれが現在既にこの数ヶ月間実施しているこの経済政策に何か突然なもの、何か原理的に新しいものがあるだろうかと自問するなら、われわれはこの質問に次のように答えなければならない。突然なものはない、原理的に新しいものはない」として、この方針の起源を18年春の政策に遡らせて次のようにいう。「もし諸君が18年春の労農政府の政策に注意を払うなら、現在いわゆるわが新経済政策によってわれわれが吹き込んでいるすべて同じ内容が当時既に示されていたことが分かるであろう」と、彼はいう。見事なレトリックである。こうしてボリシェヴィキ指導部は、内戦期の農民への過激行為を免責しただけでなく、革命政権は一貫して「労農同盟」路線を堅持してきたことを表明したのであった。
しかしながら、われわれは彼のこの発言内容がまったくの虚偽であることを知っている。通説に従い、農民への抑圧をシステムとして取り入れた戦時共産主義の開始を、食糧独裁令と捉えるなら、この政策はすでに18年5月に始まり、それは西シベリアでのチェコ軍団の反乱を契機とする、欧米諸国、日本の軍事力による干渉戦争と、白衛軍を中心とする反革命運動の展開に先んじていた(このことについては、拙著『飢餓の革命』、名古屋大学出版会、1997年で詳論)。すなわち、外的条件が農民との戦争を強いたのではなく、農民への抑圧システムはボリシェヴィキの内在的論理の帰結であった。それだからこそ、当時の中央政府内でボリシェヴィキと左翼エスエルとの間で、プロレタリアート独裁か農民同盟路線かの革命路線を巡る熾烈な闘争が繰り広げられたのである。このような歴史過程は完全に無視され、この政治的な報告を源流とするネップ導入の理由付けがその後も歴史文献の中で繰り返された。
スターリン体制とレーニン体制との差異を強調するために、「革命直後の内戦体制は、既成事実化した内乱と外国の反革命への支援とにより崩壊の危機に瀕した革命権力が自己防衛のためにとった窮余の策であった」(溪内譲『上からの革命』、岩波書店、2004年、49頁)と解釈するなら、われわれはボリシェヴィキ権力の本質を看過することにはならないだろうか。
2、レーニンの農民・農業問題をどのように捉えるべきか
レーニン理論の基本的欠陥として、マルクス主義者一般に共通することでもあるが、資本主義の問題を、分業、商品、市場といった純経済的カテゴリーで評定するために、西欧諸国ではその前提となっている市民社会形成の問題が等閑視される傾向がある。初期マルクスの基本的立場は殆ど完全に無視されている。後進資本主義国の理論家としてのカウツキーやレーニンではその傾向が顕著であり、農民・農業問題は「資本主義」一般から考察されるにすぎない。レーニンも具体的なロシア農民の内実に立ち入ることは殆どなかった。そもそも彼はゼムストヴォ統計資料などの文献以外に、彼らの現状を知っていたのだろうか。彼の農民に関する言及をいくら深読みしても、無機質で生身の人間の息吹が伝わらないのは、個人的感性に過ぎないのだろうか。これは後年または晩年のマルクスが、ロシアのナロードニキ系経済学者(ザスーリッチやダニエリソーンなど)を通して、ロシアの共同体の特殊性に強い関心を抱いたのとは、好対照をなしている。
そもそもレーニンは、ロシア農民社会の現状を分析するのではなく、プロレタリア革命を引き起こす「歴史的=資本主義的法則性」がロシアで存在することを論理的に証明するために農民・農業理論を構築したと、考えるべきであろう。19世紀末にかけてナロードニキ系経済学者が、ロシアにおける資本主義衰退論を展開させる中で、国内規模で(国際的には西欧帝国主義諸国に完全に後れを取ったので)資本主義を充分に発展させる論拠を求めなければならず、その鍵が国内市場の形成であり、その前提条件が階級分化論であったことは、繰り返すまでもない。そして、ここでは次のことを指摘しなければならない。このレーニンの市場理論、すなわちロシアにおける資本主義の発展論は、一義的にはナロードニキ的革命論への批判でありながらも、そこで展開される議論は検証なしにロシア革命そのものを正当化する論拠としてボリシェヴィキ指導者によって採用され、十月革命後も階級分化論は勝者によって導かれる道標として無批判に受け継がれた。このような観念は、レーニン主義の後継者を自認するスターリンにも受け継がれ、「農業集団化の一動因となったのは、実はレーニンになお残存していた公式主義的両極分解論の継承にほかならなかったのである」(渡辺寛『レーニンの農業理論』、御茶の水書房、1963年、5頁)との主張は、現在でも概ね適切である。
このように見るなら、ロシアの現状分析の優れた作品と称されるレーニンの主著『ロシアにおける資本主義の発展』すら、農民・農業論として評価すべきか、怪しくなってしまう(いうまでもなく同書の基調はナロードニキ批判である)。つまり、『レーニン全集』を通観し彼の農民・農業理論を検証することに、彼の革命運動論の軌跡を辿る以上の意味があるとは思えない。『レーニン全集』の殆どは革命論として読むべきなのだ。むしろ、革命以前の観念的な立場が、十月革命以後のロシア社会の厳しい現状が顧慮されることなく、引き継がれたその事実こそが問題なのである。例えば、1902年に執筆された『社会民主党の農業綱領』に見られるような、農業の進化も工業と同様に「ブルジョワジーに対するプロレタリアートの階級闘争を生み出す」、プロレタリア階級は小農民の利益を擁護しない、との基本的テーゼが教条主義的にそのまま継承されていることが問題なのだ。
そうであるなら、レーニンの構想がトップダウンで実現された革命後のボリシェヴィキの農民政策に彼の農民・農業論がもっとも反映されているはずであり、それらの検討はレーニン構想を白日に晒すはずである。第一に、革命後の様々な政策立案過程でレーニンはほかのボリシェヴィキ指導者に対してきわめて大きな影響力を持ったからであり(彼の提案が覆されることはなかった)、第二に、彼はロシアの現実を完全に知悉できる立場にあり、その上で彼は具体的な指示を与えたのであった。農民の父と呼ばれた全ロシア・ソヴェト中央執行委議長カリーニンはこのことについて適切にも、「ソヴェトの農民政策の10分の9はレーニンに負っている」と回顧しているように、これらの政策の殆どにレーニンの主張が反映されているのだから。
さらに、次のことも付言する必要がある。多くの革命理論家がそうであるように、彼らの理論の主眼は革命成就への過程に集約され、プロレタリア革命の後に訪れるはずの新しい社会の(「社会主義社会」と呼ぼうが「共産主義社会」と名付けようが)、その具体的構想にはきわめて疎かった。いったいその社会はいかなるものか、どのようにして実現されるかについて、マルクス本人すら殆ど言及していないのは、周知の通りである。まさにそれは、諸矛盾が凝縮された資本主義社会を映す逆さ鏡のようであるが、その像が虚像であって実体が伴わないように、どのような社会を目指そうとするのかの具体的議論は、十月革命後もなされないままであった。20年11月にレーニンがモスクワ県党協議会で「共産主義とはソヴェト権力プラス全国の電化である」と語ったことを、われわれはどのように評価すべきであろうか。
このような前提で以下、ボリシェヴィキ権力の農民・農業政策を具体的に論じたい。
3、ロシア革命の現実−「労農同盟」神話について
ペトログラードの飢餓で始まった1917年の二月革命は、臨時政府の下でさらに進行する飢餓を背景に十月革命を成立させた。ここでは、改めて次のことを指摘しなければならない。
第一に、十月革命とは労働者を中心とする民衆革命ではなく、ボリシェヴィキ戦闘集団の軍事クーデターであった。翌年春までにほぼ全ロシアで出現する地方都市でのボリシェヴィキ権力の確立も同様に、その多くが外部からの軍事力の導入によって行われた。ソヴェト文献ではこのような過程が、全国的規模でのソヴェト権力の確立期と見なされた。
第二に、ペトログラードでの十月蜂起以前に、すでに農村革命が進行し、それは農民大衆がその原動力であった点で、まさに民衆革命であった。しかしながら、このような農村革命はボリシェヴィキの統制外で行われたために、十月革命前史としてソヴェト文献では充分な評価を得ないまま現在に至っている。こうして「敗者の歴史」は歴史から抹殺された。つまり、十月革命とはわれわれが通常イメージするような民衆蜂起ではなく、ペトログラードでの軍事クーデター以上を殆ど意味しなかった。
首都での革命に民衆が参加したとするなら、それは食料品店や酒蔵でのフーリガン行為であった。公式には「大十月社会主義革命」と呼称された内実はこのようであった。民衆革命のイメージ作りには、革命10周年記念映画であるエイゼンシュテイン監督『十月』の、有名なモブシーンが寄与したのかもしれない(これらの歴史の偽造はスターリン時代には常套手段となる)。
ボリシェヴィキの主導する「社会主義革命」が農民の支持を得て全国的に広まるはずもなく、18年春までに全国的規模で出現したソヴェト体制とは、実質的にボリシェヴィキ権力の支配下にある中央政府と農民大衆を基盤とする地方ソヴェト(または農村自治)との連立でしかなかった。
このような現実を前に、十月革命を一元的なプロレタリア革命として正当化するために持ち出されたのが、「労農同盟」の概念である(ただし、同盟者としての農民が、農村プロレタリアートか、貧農か、中農かは状況によって変動する)。しかし、この概念が上述したものであるなら、それは必然的に次のことに帰着する。第一に、農民革命が非ボリシェヴィキ的な革命である限り、それをプロレタリアート革命に昇華する、すなわち「農村の十月」が必要である。第二に、その際に、基本的農民大衆である中農(または勤労農民)は不安定な動揺する階級であり、反革命の影響を受けやすい。第三に、したがって、「農村の十月」を遂行するには、都市プロレタリアの指導の下に農村における階級闘争を遂行しなければならない。農村における階級闘争の実行、すなわち、勤労農民への抑圧は、ここで掲げる「労農同盟」の必然的結果である。これは18年夏以後に貧農委員会の設置によって現実化されたものの、農民の強い抵抗運動によって僅か半年足らずでこれら委員会は解散を余儀なくされた。だが、それはロシア共産党が「農村の十月」を放棄したことをまったく意味しなかった。
理念的に小ブル農民との共闘が困難であっただけでなく、都市労働者を農民大衆に対立させる状況も存在していた。二月革命以来のパンの問題は、十月革命を過ぎても解決されるどころか、ますます深刻になっていた。ロシア全土で認められる飢餓である。都市労働者は工場の在庫を盗み出し担ぎ屋となって、それらを穀物と交換し糊口を凌いでいたが、そのような国有資産の消尽を回避するために執られた措置が、労働者食糧部隊の組織化であった。この時期、様々な理由で農村の穀物貯蔵も乏しく、同様に飢えていた農民大衆はこのような部隊に激しく抵抗した。当然にも、地方権力は現地住民の利益を擁護し、穀物を巡る闘争は中央ボリシェヴィキ権力と地方権力との対立として現出することになった。それを清算するための措置が食糧独裁体制の確立であった。
これは従来の暴力的な農民からの食糧収奪を合法化しただけでなく、地方ソヴェトの自立的活動を剥奪した点で、強権的国家体制の確立を意味した。戦時共産主義の始まりである。革命政権を担ってきた左翼エスエルが中央政府から排除され、ボリシェヴィキ独裁体制が出現し、農民への軍事的抑圧はいっそう強まった。何が余剰かも示されないままに全余剰の供出が農民に義務づけられた。播種分や家畜飼料さえも、時には農民が食べるべき最後の穀物さえも奪い取られた。老人からも赤軍兵士家族からも最後の家畜に至るまで、都市労働者による徴発は容赦がなかった。これら生産物の返却を求める農民からの訴えは多数レーニンに届けられたが、このような強制的徴発制度は継続された。19年春に地方を訪れた全ロシア・ソヴェト執行委幹部会員は、「農民は完全に零落した。馬は17世帯に1頭だけが残され、四輪荷馬車はほとんどない。軍隊がそれら全部を取り上げ、勝手に供給している。個々の師団、個々の連隊がその隊員に資格証明書を与え、彼らは村々を訪れ、革命委も軍事委も考慮せず、種子に至るまで全部を取り上げている。赤軍が種子を没収したために、多くの地方で畑は播種されていない。ツァーリ体制の最悪の時でさえ、共産主義的ソヴェト=ロシアで行われているような狼藉はなかった。われわれはテロルによってのみ維持されている」と、厳しい農村の現状について共産党中央委員会で報告したが、この声が顧みられることはなく、むしろこの傾向はさらに強まった。20年9月にレーニンは「生産諸県は最大限にまで消費を縮小し、生産者から余剰を収用し、最短期間で飢えた者に穀物を確保しなければならない」との電報を発し、生産者農民を飢餓状態にしてもボリシェヴィキの政治的基盤である都市労働者への食糧の確保を命じた。レーニンは農民の実状を完全に知悉していたにもかかわらず、彼らの窮状は完全に無視された。これは、「郷に与えられた割当が、それ自体で余剰の規定である」とのロシア共産党中央委員会決議に対応していた(拙著『幻想の革命』、23、281、68頁)。要は、農民の生存のための最低条件さえも顧慮されることなく、食糧徴発が断行されたのである。このような苛酷な農民への対応が奈辺に由来するのかは、われわれ研究者の及ぶところではないが、彼らの中に農民への蔑視または敵意が存在したことは想像に難くない。
余剰の収用の問題は土地所有の問題にも絡んでいる。ペトログラード蜂起の際に『土地について』の布告を採択し、ボリシェヴィキは農民の要望に応えた。これは長年の農民の希求であった土地の社会化の実現に思われた。すなわち、土地とそこからの生産物を自由にする権利が村団に与えられたのである。自然発生的な土地革命を追認したこの方針は、一般には農民との連帯または労農同盟の表明と解釈されている。しかし、これは決してボリシェヴィキが従来の土地政策の基本である土地の国有化を放棄したことを意味しなかった。彼らの論理は次のようであった。ちょうど工場労働者が生活保障の賃金を得るだけで、生産物は国家所有になるように、農民の生産物は彼らに必要な分を控除して、全余剰は国家所有である。このようにして、農産物の全余剰の強制徴収が正当化されたのであった。土地の社会化はすでにこの体制の下では実質的にその意味を失っていた。
このようなボリシェヴィキの観念は農業政策でもっとも顕著に顕れた。
4.ロシア革命の現実−農業政策=穀物工場幻想
ボリシェヴィキの農民政策=食糧政策に反対して、18年春から大規模な農民一揆がロシア全土で勃発していたが、レーニンの想定では革命政府に反対して農民大衆が決起することはありえなかった。すなわち、農民蜂起とは、クラークとエスエルにより唆された動揺する農民階級が引き起こした反革命運動と解釈され、その原因となった農民大衆の飢えと困窮が斟酌されることは決してなく、それは次の結果を招いた。第一は、先に引用したペンザ県への指令に見られるような、農民蜂起の徹底的弾圧である。弾圧が徹底化されるほど、農村での社会主義革命は深化するはずであった。第二は、依然として農村で抑圧されている(と思われる)農村プロレタリアートを組織することである(このような方針について、例えば18年3月開催の第7回党大会でのレーニンの発言(大月版『レーニン全集』、第27巻、153、154頁)など)。「農村の十月」を謳って設置された貧農委員会の試みは失敗に終わったとはいえ、この方針は別の形で継続された。
『党綱領草案』(19年3月)で述べられている、「ソフホーズ[国営農場]、すなわち、大規模な社会主義農場の設営」がそれである。同年2月に出された布告によれば、これらソフホーズは、農民経営のための家畜や種子の繁殖場となり、社会主義的土地整理の卓越性を農民に誇示するモデルとなるはずであった。このような構想の基本にあるのは、「穀物工場」としてのソフホーズの位置づけであり、当時のボリシェヴィキ指導者はこぞって「穀物工場」としてのソフホーズを高く評価した。小農業経営の統合を金属工場の統合になぞらえ、ソフホーズには工場労働者が採用されることが原則とされ、そこでの労働時間は八時間を超えないものとして、工場管理的方法が取り入れられた。こうして、大規模農業経営の中でも特にソフホーズに最優先順位が付けられた。
この方針はそのまま19年3月の第8回党大会に持ち込まれた(レーニンは党綱領の策定作業に忙殺され、この会議に出席できなかったが)。この問題に関する報告者は、農業生産性の向上を農業革命の主要な任務とし、その解決策をソフホーズの創出に求めて次のようにいう。「真の社会主義的形態は穀物工場としてのソフホーズである。[・・・・]われわれは、繊維工場や機械などの工場を組織するように、わが酪農、穀物、その他の工場を組織しなければならない」。そこでは、「農業的工業」を組織する担い手は、農業プロレタリアートは文化水準が低いので、工場制工業と同様に都市プロレタリアートでなければならない。この報告に対して、一人の地方代議員は、コムニストが理解している穀物工場や文化の普及は共産党が引き受けるべきものであり、そうでなければソフホーズは党細胞になってしまう、農業は専門家でなければ営むことができないのだと、農業についての報告者の無知を酷評した。ボリシェヴィキ理論の弱点を喝破した正論である。
ここでも工業プロレタリアートの偏重と勤労農民の蔑視を容易に読み取ることができる。そもそも、工場労働者の経験さえないような、まさに「小ブル」ボリシェヴィキ指導者に、労働現場での現実感は極めて乏しく、彼らにとって農民の現実生活など想像の域を超えていたに違いない。ボリシェヴィキ革命でもっとも悲劇的であったのは、現実の窮乏に喘ぐ勤労者大衆が、プロレタリア的体験もなく、その現実感覚もないエリート党活動家によって支配されたことである。彼らが残した文書を読んだとしても、革命の現実を見るのは難しい。レーニンは紛れもなくエリート活動家であった。十月革命の現実を、決して勝者の歴史で糊塗してはならないのだ。
農業部門でも、工場と同じく大規模生産が奨励されたとしても、実際にはこれらの経営は非常に悲惨な状態にあった。これらの多くは生産手段を持たない非農民住民か貧農によって構成され、国家的支援がないことも相まって、物質的条件は劣悪であった。穀倉地帯であったヴォルガ流域のある勤労組合型経営では、そのメンバー8472人のうち、農民は1887人にすぎず、残りは僅かの教師と大部分は都市から逃げ出した労働者と村職人であった。当然にも、彼らは殆どまったく農具も家畜も持っていなかった。ここでは、土地革命で農民は土地を受け取ったものの、生産手段を得ることができなかったために、彼らはこれら国営農場に逃げ出した、と報告された。このような「プロレタリアート」がそこでのおもな労働力であった。集団経営のこのような危機的現実は、既に第8回党大会で地方代議員によって、このような経営には中農もクラークもおらず、何の持ち合わせもない貧農だけが加入し、彼らは穀物も農具も馬もなく、餓死を運命づけられている、と報告されていた。経済基盤の脆弱なこれら経営は各地で崩壊していたが、ボリシェヴィキはこれら農業のプロレタリアート的形態に拘り続けた。
5、ロシア革命の現実−ネップは宥和政策か
戦時共産主義期に認められる農民抑圧政策は内戦によって余儀なくされた一時的措置であるとの、レーニンやカーメネフなどの主張にもかかわらず、十月革命直後からいっそう深まる都市での飢餓を背景に、それはその当初から認められる現象であった。明らかにこの方針は、ボリシェヴィキ権力の政治的基盤である都市プロレタリアートの飢餓からの救済と教条的で歪んだ農民観から生じた、ボリシェヴィキの内在的論理の帰着であり、このもっとも顕著な実例が、農民から消費分を考慮せず(つまり、農民が餓死する可能性があったにもかかわらず)、飼料や播種分までをも根こそぎ農村から奪い取った(つまり、農民経営が崩壊する可能性があったにもかかわらず)、食糧割当徴発であった。
ネップが実施されると、戦時共産主義政策、特にその根幹をなす割当徴発は否定的側面がことさら強調されるようになったとしても、少なくとも21年春までは割当徴発に「社会主義革命」にとっての積極的要素を認めるのが、ボリシェヴィキ指導部の共通認識であり、それは次のような論拠に基づいていた。その第一は、すでに触れたように、生産物余剰は都市労働者がそうであるように国家に帰属すべきとの土地国有化論であり、第二は、余剰持ち農民は基本的に反革命的クラークであり、彼らからの暴力的収奪は農村における階級闘争の深化として正当化される素朴な階級闘争論であり、第三は、殆どの研究者はこのことについて触れていないが、割当徴発を都市と農村との無貨幣交換に向けての過渡的制度と見なす共産主義幻想であった。
通常の解釈では、内戦が基本的に終了した20年秋以後に、ボリシェヴィキ指導部は徐々に戦時共産主義政策からの転換を図り、それがネップとして実現されたといわれている。繰り返せば、この解釈は先に述べた第9回ソヴェト大会でのカーメネフ報告と対概念をなしている。しかし、この解釈は完全に誤っている。戦時共産主義政策の基本原理がボリシェヴィズムに内在する論理で導き出された以上、内戦の停止はそれを変更させる要因とならなかった。むしろ、内戦情況はボリシェヴィキ本来の政策実現にとっての阻碍要因として理解され、実際にこの時期以降、戦時共産主義期に特徴的な政治的には農民への抑圧が強化され、理念的には共産主義への傾斜が深まった。この時期の割当徴発キャンペーンでは、先に触れた「郷に与えられた割当が、それ自体で余剰の規定である」との方針が実行され、すでに穀物生産地方で顕在化していた飢饉などまったく斟酌されなかった。割当徴発は、この制度を通して無貨幣交換、すなわち社会主義的生産物交換への移行を模索する共産主義幻想にも支えられ、いっそう暴力的形で遂行されていた(この問題については、拙著『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』、「商品交換制度と市場」、『幻想の革命』、「現物税布告の策定」を参照)。
そもそも、21年3月の第10回党大会で採択された割当徴発から現物税への交替は、全国的に猖獗する農民蜂起や革命の保塁であったクロンシュタットでの叛乱に配慮し、勤労大衆への宥和政策として立案されたのではなかった(このことについては立ち入った説明が必要なので、拙著『幻想の革命』を読んで頂きたい)。現物税の徴収も割当徴発と同様に暴力的であった。したがって、苛酷な戦時共産主義と適正なネップとの二項対立的解釈は完全に誤っている。実例を引いてみよう。
飢餓封じ込め政策
何度も触れたように、十月革命以後ロシア全土で飢餓状態はさらに深刻化し、19年初めの第1回全ロシア食糧会議で飢餓民が「蠅のように死んでいる」との北部諸県からの代表に応えて、ボリシェヴィキ幹部は次のように言い放った。農村住民の25パーセントだけが供給計画に含まれ、食糧フォンドの形成は飢餓によって生ずる反革命的運動に対する政治的性格を持ち、北部諸県は穀物に困窮しているとしても、ほかを犠牲にすることなしにそれらに供給することはできず、栄養失調のままにせざるをえない、と。こうして、彼らの救済を求める声は完全に黙殺された。
このように飢餓を強いられた犠牲者の数は拡大の一方を辿った。各地ですでに飢饉が顕在化していた20年9月に、生産諸県で農民は最大限にまで消費を縮小し、彼らから余剰を収用し、最短期間で飢えた者に穀物を確保しなければならない、とのレーニン署名の指令が出されたことを再度指摘しよう。生産農民に飢餓を命ずる、驚くべき内容であることを、ここでも再確認しなければならない。こうして、ロシアの殆どすべての実り豊かな穀物地帯は、21年の収穫を持たずして農業生産の完全な崩壊に見舞われた。この意味で、21年から22年にかけて500万以上の餓死者を出した大飢饉はボリシェヴィキの農業・農民政策の必然的結果であり、構造的であり人為的である。
この時期の大飢饉は32-33年の大飢饉に比べて、なぜか研究蓄積が少なく、特にソ連時代にはその被害程度はまったく過小評価されてきた。30年代の飢饉はスターリンの集団化の強行とクラーク撲滅運動と関連づけられ、スターリンの行き過ぎの結果として容易に説明することができた。しかしながら、この時期の飢饉の原因を解明するには、必然的にレーニンの政策上の過ちを問わなければならないのが、その理由として挙げることができる。さらに、この飢饉を克服する物理的力は当時の疲弊したソヴェト=ロシアにはなく、アメリカ援助局を筆頭に諸外国の膨大な援助によってのみこの解決が可能であった事実も、その理由の一端をなすかもしれない。
この難局を乗り切るために、外国援助に依拠する一方で、中央ロシア政府はきわめて厳しい措置を適用した。
中央ロシアに劣らず周辺地域も厳しい飢饉に晒され、21年夏のキルギス共和国も例外ではなかった。現地チェー・カーの情報によれば、そこでは湖の水苔を粉末にしてパンに混ぜて食し、そのための疫病と餓死が蔓延していた。このような食糧危機を回避するために、キルギス食糧人民委員部[食糧関係官庁]は領内で飢餓民のために穀物調達を試みた。しかし、8月のレーニンの電報は、「もっとも困難な政治的時期に、中央の供給に予定されている穀物をそのように利用するのは許し難い」として、同共和国向けの穀物調達を禁止し、中央にその穀物を確保するよう同食糧人民委員部に命じた。続くレーニンの電報は直裁にこのことを指示した。キルギス共和国の「すべての穀物は中央への搬出のために確保された。[・・・・]現地での資源を再配分する権限はキル共和国の組織に与えられていない」として、そこからの「穀物の搬出はもっぱら中央の任務命令によって行われ、その際に当該地方の県内消費を縮小することで、調達した[食糧]資源のしかるべき搬出が求められる」。これら電報の意味を改めて説明する必要もないであろう。こうして、文字通りの飢餓輸出を強いられたキルギス共和国での罹災者は甚大な規模に達した。
このように、戦時共産主義期にあってはロシア共和国生産県の農民に飢餓を封じ込めたとするなら、ネップ期にあっては周辺民族地域にそれを行った。22年5月現在で、全住民に対する飢餓民の比率が90パーセント以上(括弧内は百分率)の地域は、カルムィク州(90%)、サマラ県(95%)、タタール共和国(96%)、チュヴァシ州(92%)、マリ州(90%)であった事実を見れば、サマラ県を除き周辺民族地域が最大の被害を蒙ったのは明白である。さらに付言すれば、上記の州と共和国は正確には、民族自治共和国と自治州であり、そこにボリシェヴィキ指導部が想定する民族自治の本質を窺うこともできる。
ネップ期における新たな緊張関係
飢餓民援助のための資力はソヴェト=ロシアにはすでに存在せず、22年2月の布告は飢餓住民の救済と播種に供する資金用に教会貴金属の没収を定めた。同年秋までに大量のダイヤモンドを含む宝石や金銀などの貴金属が徴収されたが、この活動は農民の不満を招き至る所で停滞した。この措置はソヴェト権力によるロシア正教会弾圧の嚆矢であった。
これは「共産主義」を放棄しネップへと後退する中で、党内引締めのために採られた政策と見なす通常の解釈には疑問が残る。22年3月半ばに地方で発生した民衆の反対運動に対し、レーニンは、これを総主教チーホンを頂点とする一連の反ソヴェト計画の一環として弾劾する極秘書簡の中で、「まさに現在、飢饉地域で人々が食べられ、通りで何千ではないとしても何百の屍体が横たわっている現在だからこそ、犯罪的抵抗を弾圧するのをためらうことなく、もっとも苛烈で容赦のないエネルギーでわれわれは教会貴金属の収用を行うことができる(だから、そうしなければならない)」と指示したように、飢饉援助は教会弾圧の絶好の口実にすぎなかった。20年から続く旱魃などの異常気象に直面し、国家支援を期待できない農民は各地で雨乞いなどの宗教活動を繰り広げていたことも、教会への危機感を募らせたのかもしれない。実際にはここでの出来事はレーニンが想定したような大事件には至らなかった。しかしながら、レーニンは、この事件に直接に間接に関与した嫌疑でできるだけ多くの聖職者を逮捕し、地方だけでなくモスクワでも危険人物を銃殺にするような審理を行わせるよう、司法当局に口頭で指示することを政治局に命じた。その際、数十年に渡りいかなる抵抗も考えつかないように、「反動的聖職者と反動的ブルジョワジー」を多く銃殺するほどよいとの指示を与えた。まさにこの時期、国内では多くの宗教組織が飢餓民支援に奔走し、国外からもクエーカー教徒など多数の宗教団体が救済に訪れていたにもかかわらず、である。予断と偏見に基づいて反革命と認定したグループへの弾圧には機を見て容赦がないのは、民衆を「身震い」させるために、多数のクラークの公開絞首刑をともなう農民蜂起の徹底的鎮圧を命じたペンザ県執行委宛ての18年8月の指令と同様である(これら事実に関しては、拙著『幻想の革命』を参照)。
戦時共産主義期に実施されていた割当徴発とネップ期の現物税との間に、その徴収方法に相違を認めるのもきわめて困難である。特に21〜22年度は大飢饉の中で遂行されたために、いっそう悲劇的であった。そこでの徴税は戦時共産主義期に展開していたのとほぼ同数の軍事部隊の下で実行された事実は、現物税徴収が以前と同じくきわめて過酷な条件で行われたことを雄弁に物語っている。前年度までに割当徴発を忠実に執行した農民経営にはすでに税として拠出すべき農産物はもう残されていなかった。彼らは今ではもっとも貧しい農民になっていたが、それでも権力は彼らからの徴税にも容赦はなかった。そのため、この徴税キャンペーンでは特に多くの減税や免税を訴える嘆願書が提出された。ある村は、住民はこれまで誠実に国家賦課を遂行してきたが、そのために穀物はなくなり、雑草や苔などの代用食をもっぱら食しているが、それでもこの村には高い税が課せられるとして、減税を訴えた。しかし、このような嘆願が認められるのはきわめて稀であった。21年11月にはシベリアの情勢について次のように報告された。「県の住民の気分は思わしくない。農民は、彼らが持つ穀物よりはるかに多くの量が課せられた力の及ばない食糧税に不満を抱き、憤っている。そのような事実に至るところで出会い、農民に食糧税への敵意を抱かせている。割当徴発よりもはるかに容易に食糧税を遂行できるであろうと確信していた農民は、今やまったく逆の事態に遭遇している。彼らは税を遂行するために自分の穀物全部を引き渡さなければならないだけでなく、さらに[それを支払うために]買い足さなければならない。というのは、オムスク県を襲った凶作が食糧組織に考慮されていないので」。
一般にネップへの転換に関する文献では、この意義を過大評価するためにモスクワなどの大都市での経済の復興と繁栄がことさら強調されてきた。だがそれは当時のロシアで繰り広げられる光景のごく一部でしかなく、その背後に飢饉の中でも厳しい徴税に喘ぐ無数の農民の犠牲が隠されている。このようなネップへ転換の際の現実に、われわれは戦時共産主義政策との本質的変質を認めるのはきわめて難しいといわなければならない。
ことさら特異な実例を挙げたのではなく、このような事実を物語る文書はロシアの公文書資料館に多数存在し、それらのいくつかはすでに資料集として公刊されている。レーニンについてはレーニン全集未収録文書集『レーニン:知られざる文書』、農村の現実については『秘密警察から見たソヴェト農村』などで、このような実例にいくつも遭遇することができる。
もちろん、レーニンの思想と行動を弾劾するのが本稿の目的ではない。ヴォルコゴーノフのように、非人道的文書を連ねてレーニンを非難したとしても、それは従来のレーニン賛歌の裏返しでしかないことは明白であろう(彼の主張については、白須英子訳『レーニンの秘密』、NHK出版、1995年を参照)。本稿の目的は、『レーニン全集』それ自体を解釈してレーニンを評価するのではなく、彼の欠点と誤謬を歴史的情況の中で客観的に評価するために、十月革命以後の実状を描くことにある。換言すれば、ボリシェヴィキによって描かれた「勝者の歴史」を解体することである。たとえ、それがレーニンを頂点とするボリシェヴィキ権力によってもたらされたとしても、十月革命によって生じた悲劇性を直視することを恐れてはならない。それを直視することでレーニンを客観的に評価できる担保となるのではなかろうか。悲劇は常に民衆の中に集約され、ソヴェト=ロシアの歴史の中にわれわれは無数の悲劇を認めることができるが、そのような無垢の犠牲者を無駄にしないためにも、このような作業が求められているのである。
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〔関連ファイル〕
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実』
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
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