ソ連型社会主義への再検討
ユーリィ・アファナーシェフ
(注)、これは、『NHKスペシャル・社会主義の20世紀、第2巻』(日本放送出版協会、1990)の第二部「一党独裁の崩壊」におけるモスクワ国立歴史古文書大学学長ユーリィ・アファナーシェフへのインタビューです。全体はP.226〜250ですが、その冒頭P.226から236までの抜粋です。レーニン、スターリンの写真は、P.234に掲載されているものです。このHPへの転載における著作権問題については、この抜粋掲載文を送るという形で日本放送出版協会編集局出版部の了解を頂いてあります。
〔目次〕
一、レーニンの矛盾
二、スターリンの功罪
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R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』
ソルジェニーツィン『収容所群島』第二章、わが下水道の歴史
中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散論理
大藪龍介『国家と民主主義』個人独裁、党独裁の容認
一、レーニンの矛盾
1、社会主義の歴史をどう見直すか
十月革命の歴史的意義についてのあなたの見解をお話しください。
おそらく、こう言うべきでしょう。現在は、当然のことながら、十月革命の意義の新解釈が行なわれている、と。当然のことながら、と私が言ったのは、十月革命以後のこの七二年間の結果が莫大なものだからです。そのうえ、経済から道徳に至るまで、人の生活の全ての分野にかかわっているのですから、教科書や論文のなかに固定された評価で、まともに満足する人はいません。既成の評価は全て、本質的な見直しが必要です。
一九一七年にボリシェビキが約束したことは何一つとして実行されなかった、というのが客観的事実です。何一つとして、です――権力に関しても、所有に関しても、全てが違ってしまいました。ロシアの社会民主主義者たちの綱領に盛り込まれた目標も、何一つ実現されませんでした。それらが何と呼ばれ、どんな目的を追求したにせよ、です。ですから今になって、十月革命の偉大な意義、またその世界的・歴史的意義といった、今まで言われてきたことを繰り返すことは救いようのないことですし、必要のないことです。全てを改めて解釈し直さなければなりません。
十月革命は社会主義革命だった、とお考えですか?
十月革命は社会主義的性格を有していた、と立証するために、何百冊、いやおそらく何千冊という本が書かれました。どれもみな、あの革命は社会主義的性格を有していたと証明してみせています。また社会主義革命であったと立証するために挙げられた論拠を、私は全て知っています。
しかし、膨大な数の本、数多くの論拠が存在するにもかかわらず、社会主義革命の性格に関するこの問題は、一向に透明なものになっていません。
どういう意味で言っているかといいますと、一九一七年、そして一九一七年一〇月に解決がはかられた――革命の過程で解決が予定されていた――諸目標は、その大部分が民主主義の課題でした。土地に関する問題、所有に関する問題、権力に関する問題、社会の政治機構に関する問題など、これら全ては、その本質、内容において、民主主義の課題として伝統的に解決されてきたものでした。
数ある論拠の二つ目のグループは、原動力の問題です。革命に最も積極的に参加したのは誰か、ということです。
ここで完全にはっきりしているのは、十月革命は人民全体によって成し遂げられた、ということです。プロレタリアートだけによってではなく、人民全体によって、主として農民によって、です。農民というのはもちろん、民主的な力です。
この点について、いつも論争がなされてきました――革命時、ボリシェビキは「農民全体」とともに歩んだのだろうか、それとも「最も貧しい農民」と歩んだのだろうか、ということです。わが国の歴史学者たちは、最も貧しい農民たちとともに成し遂げたのだ、と伝統的に証明しようとしてきました。これは真実に反します。レーニンさえもが、幾度となく、こう言っています――十月革命は農民全体と一緒にやったものだ、最も貧しい農民たちとも一緒だったが、と。
このように革命の社会主義的性格を疑問視するならば、革命の性格というこの問題そのものが、その後の社会の現実によって疑問視されるのです。マルクスが書いた、発展の最高の段階としての、前向きの発展としての社会主義、これはわが国には全く存在しません。つまり、革命の性格に関するこの問題もまた、歴史的意義に関する問題同様、解釈をし直さねばなりません。
一党独裁は十月革命直後に樹立されたと思われますか?
純粋な形でのプロレタリアート独裁は、わが国には一度もなかったと思います。一九一七年からはじまって、つねに存在したのは党の独裁です。ただ、それはいくつかの段階を経ました。
はじめは純粋な形ではありませんでした。当初はいくつかの政党がありましたが、社会主義のもと、十月革命後はこれらの諸政党は短命で、一九一八年には諸政党の解体がはじまり、一九二〇年代のはじめには全て解体されてしまいました。そして権力に対する党の独占が確立され、それは今日まで続いています。
どうしてプロレタリアートの独裁が樹立されなかったのでしょうか?
プロレタリアート独裁が樹立されなかった理由は簡単です。プロレタリアートが存在しなかったからです。プロレタリアートは存在しましたが、不十分でしたし、力が弱かったからです。
当時、労働者階級は存在しました。工場労働者もいました。しかし、いわゆる意識の高い労働者となると、これは非常に少なかった。ロシアに関して言えば、それは非常に薄い層で、膜のごときもので、ロシアをまともにカバーすることもできませんでした。それは工業地域――モスクワ、ペトログラード、ウクライナ、ウラル、カフカースなど、ロシア経済の五つの丘に集中して存在した薄い層でした。もしこれをロシア全土に引きのばしたならば、あまりに薄い膜になってしまって、ひっきりなしに破れることになります。従ってプロレタリアートの独裁など問題外です。一方党の独裁は各地で樹立され、今日まで存在しています。
レーニンは十月革命の極めて初期の段階から、党による独裁を考えていたのでしょうか。それとも、全ては革命の過程で変化していったのでしょうか。
レーニンは十月革命の前夜にも、十月革命のずっと以前にも、党による独裁を考えていました。ロシア革命が党独裁へと変質することは避けられないことをよく理解していたのです。
そうなる理由は明らかです。社会主義理念の実現にロシアほど適していない国はなかった。ロシアは遅れた、極めて遅れた国でした。この国の大衆は、社会主義理念など、当然抱いていなかったわけです。だから「プロレタリアートの前衛的役割」というマルクスの理論を、レーニンは「前衛党」理論に置き換えたのです。前衛党というのは、全てが党独裁へと変質するための客観的前提条件です。
レーニンは、社会主義的民主主義はブルジョア民主主義よりずっと民主的だ、と語っています。一党独裁のもとでも、自由な発言や議論は尊重するというのが、レーニンの姿勢ではなかったのですか?
この場合のレーニン的民主主義というのも、かなり相対的な概念です。なぜなら、第一〇回党大会における、党の一致団結についての決議の首唱者は、レーニンだったのですから。この決議では、たしかに議論を行なうことも予想されていたし、異なった綱領が存在することまでも想定されていた。しかし、やはりこれは鉄筋コンクリートにも似た一致団結の前提であり、のちにこれは暴力によって維持されることになったのです。
スターリンは党内の異なった意見を破滅させ、上から一つの意見、一つのスタイルを植え付けました。党独裁は予定されていたことだったのです。レーニンもまた、この独裁を創り出した一人です。
このような展開からの治療薬は民主主義です、しかし、社会主義のこの理念と民主主義は相容れないものでした。わが国には党独裁はレーニンからの逸脱だととらえる人がいます。これは正しくもあり正しくなくもあります。レーニンには党機構による君臨の危険性が見えていた。もしかすると、他の誰よりもよく見ていた、という意味では正しい。しかし、党機構による支配を必然的なものにしたのはレーニンだったのです。
レーニンはあの時点で革命の方法を見直すべきだったとお考えですか?
見直す、とはどういうことでしょうか?
彼はそもそも、ロシアの革命は世界革命を促すと考えていた。だから、全ての計画、戦略、戦術を、この世界革命を予想したうえで構築したのです。のちに、ヨーロッパで革命が起こりそうもないと分かると、東方へと方向転換をはかりました。一九二〇年に第一回東方民族会議が招集されましたが、その後、これも現実的ではない。つまり、東方でもプロレタリア社会主義革命など起こりようがないと分かりました。そこで一国における社会主義という考え方にしだいに慣れ親しんでいくようになったのです。
ここに来てわが国の惨たんたる状況が白日にさらされました。さまざまな発展段階にあるいくつもの国家、そして未開の、教育のないロシア、労働者階級さえも存在しないロシア、産業は五つの丘――モスクワ、ウクライナのドネツク、ペトログラード、ウラル、カフカスにしか存在しなかったロシアです。この丘は中世の文明を持つ農民世界の大海に沈みそうになっていたのです。そういう現実でした。そして非常に多様な民族――惨たんたる状況だったのです。
歴史学者であるあなたは、レーニンには他のやり方はなかった、他の選択肢はなかったと思いますか?
そんなことはありません。ロシアには他にもとりうる方法はありました。十月革命は、避けることのできない宿命などではなかった。レーニンはこの革命を行なうにあたって、何の根拠もないまま、世界革命が起きると考えていたのです。しかし、世界革命が起きると目算してあの革命を行なうのは冒険主義だと言った人は、レーニンの隣にもいたし、レーニンに反対した人、レーニンと共に歩む人のなかにさえいました。
レーニンの活動には冒険主義の要素があったと認めることは、レーニンに対する口調を罵言に切り換えるということではなく、理解を試みることなのです。現在ではこのようなことが見えています。しかし、当時の見方は違いました。ドイツで革命がはじまるかもしれない、そしてヨーロッパでも・・・・・・という具合でした。そしてレーニンが言ったことは、われわれは権力を握って、社会主義建設のための大きな、より良き前提条件をつくろうではないか、ということだったのです。しかし、実際に問題だったのは権力だけではなく、幅広い大衆に、この社会主義理念を受け入れる準備がなかったことでした。現実はもっと複雑でした。
1、スターリン主義をどう評価するか
あなたの国は長い間、スターリン主義が支配していました。あのように厳しいスターリン体制は、どのように現れたのでしょうか?
突然現れたのではなく、発展していったのです。そしてついには、第二次世界大戦前のスターリンの時に、凶悪な全体主義の最終形態をとるに至りました。しかし、この体制の根源はやはり一九一七年にあります。一九一七年、一九一八年、一九一九年には、ソビエト政権を受け入れなかった約二〇〇万人の知識層が、ロシアから追い出されました。
大量のテロルと暴力は一九一八年にすでにありました。一九一九年には頂点に達するところでした。一九一八年〜一九年は大量強制集団化の第一段階でした。農民全員が反対行動に出ました。レーニン存命中に最初の強制収容所もつくられました。そして、これ以降の歴史全体は、全体主義体制強化の歴史です。他には発展しようがなかったのです。
人々が革命に参加したのは、特に農民に関しては、土地がもらえると期待していたからです。しかし、土地は約束されただけで、彼らが自由にできることはついになかった。なぜなら、彼らに土地が与えられたというのは見せかけだけで、すぐに食糧徴発が課せられた。つまり、作った食糧全てを供出する義務が課せられ、自分の労働の成果を自由にできなかったのです。まずはじめはこうでした。
のちに彼らはその見せかけだけの土地所有も奪われました。コルホーズに追い込まれたからです。コルホーズに追い込まれるようになったのは、レーニンの生前からです。一九二一年には、いわゆる手ごころが加えられるようになって、農民も土地を耕し、不完全ながらも労働の成果を好きなように処理することが許されました。しかし、じきに集団化がはじまりました。そして全てが終ったのです。
スターリンがいたから、とは思っていないのですね。
思っていません。スターリンが問題なのではありません。スターリンは、全体主義体制を極端な形にまで推し進めました。しかし、その源は一九一七年だったのです。全体主義体制の歴史にはいくつかの段階があり、いくつかの時期に分けることができます――レーニンの時代、スターリンの、ブレジネフの、と仮に名付けることができます。そして、ロシアの歴史、ソ連の歴史とは、この全体主義体制との闘いの歴史と呼ぶことができます。
ただ、その闘いのなかで、黙っていなかった者は滅ぼされました。何千人、何百万人、何千万人と、そしてついに人々は沈黙を余儀なくされたのです。一〇〇〇万人、二〇〇〇万人、三〇〇〇万人が滅ぼされる時、残りの人々には自分の将来が見えてくる、そしてそれに順応するようになるのです。
これは自発的な沈黙では決してありません。自己満足のための沈黙ではありません。これは強いられた沈黙です。大衆への暴力、大量テロルのもとでのみ可能なものです。抵抗、それも大衆的な抵抗の可能性を口にされますが、国全体が強制収容所で実際にくるまれ、被われていた時、いくつかの民族がまるごと移住させられ、罰せられた時、それがどうして可能でしょうか。
スターリン体制はあなたの国でのみ可能でしょうか、それとも他のどの国でも可能でしょうか?
社会主義を自称している国の全てで、わが国にあったもの、また同じ型の経済などが再現されました。
わが国でつくりあげられたものは社会主義という名前で呼ばれていたにすぎません。「社会主義」とは何か、は誰にも分かりません。さまざまな思想家が夢見た、良き社会主義のもとで生きた人はまだ一人もいません。私たちが知っているのはわが国であったこと、中国、朝鮮、東欧であったことです。
もし「社会主義」と呼ばれたこれらが何であったのか言い表そうとするならばこうなるでしょう――経済から道徳に至るあらゆる現象における、反国民的なもの、自然に反し非人間的なもの、です。いったいこれらのどこに社会主義があるのか、どこに社会主義が存在するのでしょうか? 社会主義というのはラベル、看板です。実際にはこれらの体制が有するのは全体主義的な、わが国では未だに続いているばかばかしいまでに全体主義的な統治形態です。
ということは、スターリン主義はあなたの国だけではないのですね? 他の国にも起こりうるのですね?
わが国で確立されたような体制には、一定の条件が必要です。何もないところには現れません。独裁的な、全体主義的な体制は、基本的にはさまざまな基盤の上に成立可能です。
わが国の場合、基盤となったのは全面的な国家化でした。つまり所有を国家のものにしたのです。われわれ自身は所有を社会化したと思い込んでいたのですが、実際には国家の所有物にしてしまいました。
以下省略(P.238〜250) 三、計画経済の虚実 四、ペレストロイカへの期待
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R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』
ソルジェニーツィン『収容所群島』第二章、わが下水道の歴史
中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散論理
大藪龍介『国家と民主主義』個人独裁、党独裁の容認