レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作
(宮地作成・編集)
〔目次〕
2、レーニンの大量殺人総合データ (表1〜9)
3、大量殺人数推計の根拠と殺人指令文書27通 (表10)
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱
『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』
ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−〈ソ連篇〉』
スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』
ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』レーニンの赤色テロル
R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』レーニンがしたことへの根源的批判
ダンコース『奪われた権力』レーニンによる権力簒奪過程
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年食糧独裁令
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』農民反乱分析、労農同盟成立を否定
中野徹三『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散
大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱
山内昌之『革命家と政治家との間』−レーニンの死によせて−
1、武力行使によるレーニンの二段階クーデター説
〔小目次〕
4、クーデター政権の根本的に誤った路線への全階層総決起・反乱
内戦の基本原因は、ソ連共産党公式の従来説=外国軍事干渉と白衛軍ではなく、1918年1月18日憲法制定議会武力解散と、5月13日食糧独裁令の2つである。ロイ・メドヴェージェフとニコラ・ヴェルトは、ソ連崩壊後の秘密資料やアルヒーフ(公文書)を発掘・研究して、それを論証した。ソ連崩壊後のデータによって、公認ロシア革命史観も大逆転し、崩壊した。それとともに、レーニンの大量殺人データも次々と発掘され、レーニン評価も、180度転換しつつある。その一つがクーデター説である。
第1段階クーデター説。1917年11月7日は、プロレタリア社会主義大革命などではなく、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだった。11月7日の直前までに、労兵ソヴィエト・社会主義諸勢力が、ペトログラード・クロンシュタット・モスクワなど大都市における実質的な力関係として、国家権力を掌握しつつあった。
クーデターについて、広辞苑は「急激な非合法手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する」としている。十月にケレンスキー臨時政府を倒したのは、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエル、左翼エスエル等のソヴィエト内社会主義4政党とアナキストが中心勢力で、その性格は革命である。しかし、単独武装蜂起を敢行したボリシェヴィキによる一党政権が成立した。このレーニンの行為は、革命ではなく、事実上の権力を掌握しつつあった革命諸勢力の中でのクーデターそのものである。ただ、クーデター1カ月後の1917年12月から3カ月間だけ、左翼エスエルとの連立政権が続いた。
第2段階クーデター説。1918年6月14日全ロシア中央執行委員会からのエスエル、メンシェヴィキ追放と、各級の全ソヴィエトからも追放する決定は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪と党独裁権力樹立クーデターだった。6月14日だけでなく、このクーデターは、4月29日全ロシア中央執行委員会における、穀物徴発による農民への内戦宣言、5月13日食糧独裁令と労働者食糧徴発隊組織と一体のものになっている。レーニンによる内戦仕掛け宣言とソヴィエト権力簒奪という第2段階クーデターこそ、その暴挙にたいして、1920夏から21年の全階層総反乱を引き起こした決定的な原因となった。レーニンによるソヴィエト民主主義破壊・ソヴィエト権力簒奪のクーデター過程については、下記ファイルで、7期に分けて検討した。
『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』ソヴィエト権力簒奪の第2段階クーデター
ここでいう二段階クーデターとは、11月7日実質的に、あるいは、6月14日完全に国家権力を掌握し、支配階級となったソヴィエト・社会主義諸勢力・政党内部において、レーニンが武力で、多くの社会主義党派ならなるソヴィエト権力を、ボリシェヴィキ党独裁政権に強行移動させたことを指す。現在のロシア歴史学会では、クーデター説が基本になっている。資本主義ヨーロッパでも、その見解が主流になってきつつある。日本においてだけは、この説がまだ市民権を得ていない。
日本では、加藤哲郎一橋大学教授が「クー」としている。coup(クー)は coup D'etat(クーデター)と同じ意味である。中野徹三札幌学院大学教授は、『社会主義像の転回』で、レーニンのこの行為の詳細な研究をしているが、そこではクーデターという用語は使っていない。その問題に関して、中野教授から次の内容の手紙を頂いた。「宮地さんは、制憲議会解散をクーデターと規定するということであるが、私は、十月革命自身を一つの(独自の)クーデターとしてまずとらえております。私は、クーデターの語は用いていないが、十月武装蜂起と呼んで、十月革命の伝統的概念の変更を試みている。そして、十月武装蜂起そのもののうちに、制憲議会の受容そのものを不可能にする論理が内包されていたこと、そしてそれは内戦を不可避的によびおこし、他党派への弾圧、および、一党独裁とスターリン主義への道を大きく開いたことを論証したつもりである。」
レーニンは、権力奪取前、平和=戦争離脱・終結を力説した。それにより、ドイツとの戦争をまだ続けている臨時政府を批判するボリシェヴィキ支持率が急上昇した。1918年3月3日ブレスト講和条約によって、第一次世界大戦の東部戦線において、ロシアだけが単独離脱した。それは、ロシア国民に「平和」と息継ぎをもたらした。
ところが、レーニンは、その2カ月後の5月13日に、布告「食糧人民委員部の非常大権について」、いわゆる「食糧独裁令」を発令した。レーニン・政治局の目的は、2つあった。第1は、食糧人民委員部を中央集権化し、食糧の武装徴発隊を十数万人も農村に派遣し、チェーカーと赤軍の暴力手段で、穀物・家畜を収奪して、それによって飢餓状態を克服することだった。第2は、農村において、「貧農委員会」を組織し、「富農」にたいする階級闘争を起すことだった。それは、ボリシェヴィキ側が、農村に内戦の火をつけることによって、80%・9000万農民を社会主義化するという、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開クーデター政策だった。
レーニン・政治局にとって、プロレタリア独裁国家の権力基盤である軍隊と都市に食糧の供給を確保することが死活問題となっていた。彼らには2つの選択肢があった。1)、崩壊した経済の中で疑似・資本主義市場を再建するか、あるいは、2)、強制を用いるのかである。彼らはツアーリ体制打倒の闘争の中で、さらに前進する必要があるとの論拠から第2の方策を選んだ。この驚くべき無知、かつ犯罪的な思惑が、レーニン・政治局全員の社会主義構想であったことについては、ソ連崩壊後のロシア革命史研究のほとんどの文献が一致している。その証拠をいくつか挙げる。
(1)、スヴェルドロフの発言。「一九一八年五月にはすでに、スヴェルドロフが、中央執行委員会において、次のように述べている。われわれは、村の問題にとり組まなければならない。農村に、敵対する二つの陣営を作り出し、貧農をクラークに向けて蜂起させる必要がある。もし村を二つの陣営に割り、都市におけると同様に、村に内戦の火をつけることができるならば、その時にはわれわれは、都市と同じ革命に、村において成功することになるであろう」(ダンコース『ソ連邦の歴史1』、新評論、1985年、P.154)。彼の発言趣旨は、個人的なものでなく、レーニンを含め政治局全員が一致していた共同意思だった。
(2)、レーニンの発言。「一九一八年四月二十九日、全ロシア中央執行委員会の演説でレーニンは単刀直入に言った。我々プロレタリアが地主と資本家を打倒することが問題になった時、小地主と小有産階級はたしかに我々の側にいた。しかしいまや我々の道は違う。小地主は組織を恐れ、規律を恐れている。これら小地主、小有産階級に対する容赦のない、断固たる戦いの時がきたのだ。」(『共産主義黒書』P.74)。レーニンのいう「小地主」とは、土地革命をした80%・9000万土地持ち中農のことである。それは、権力奪取6カ月後に、レーニンが土地持ち中農9000万人に仕掛けた宣戦布告だった。
(3)、食糧人民委員が同じ集会で言明。「わたしは断言する。ここで問題になっているのは戦争なのだ。我々が穀物を入手できるのは銃によるのみだ」(全ロシア中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』P.74)
(4)、トロツキーの発言。「我々の党は内戦のためにある。内戦とはパンのための戦いなのだ……内戦万歳!」(全ロシア中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』P.74)。
(5)、カール・ラデックが1921年に書いた文。「彼は一九一八年春のボリシェヴィキの政策、すなわちその後二年間にわたって行なわれた赤軍と白軍の戦いへとつながる軍事的対決の発展の数カ月前の政策について、次のように解明している。一九一八年初めの我々の義務は単純だった。我々に必要なことは農民に次の二つの基本的なことを理解させることだった。国家は自らの必要のために穀物の一部に対して権利があるということ、そしてその権利を行使するための武力を持っているということである!」(ラデック『ロシア革命の道』)(『黒書』P.74)
(6)、食糧人民委員ツュルーパの5月9日の会議言明。「即座に武器を手にしてだけ穀物を受け取ることができる…。われわれは農村ブルジョアジーにたいする戦争を考えている」(梶川伸一『飢餓の革命』P.279)。ツュルーパの5月12日の官報談話。「われわれは農村に武装部隊を派遣するだろうし、それらは武器で富農に穀物を販売させるだろうし、これは、犠牲者と死にもの狂いの抵抗が出る戦争である」(梶川伸一『飢餓の革命』P.277)。
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年食糧独裁令
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』農民反乱の分析
レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、食糧人民委員ツュルーパら政治局全員が、「村に内戦の火をつける」ための食糧独裁令を仕掛けたのは、どういう性質を持つのか。それは、5月時点のボリシェヴィキ党員35万人という「市場経済廃絶・貨幣経済廃絶」軍と、9000万農民・全他党派の「市場経済回復・実現」軍との内戦だった。市場経済廃絶軍は、党員だけでなく、チェーカー28万人、赤軍550万(1920年)という国家暴力装置、300万プロレタリアートを擁し、赤色テロルを行いつつ、余剰穀物収奪の戦争を先に展開した。市場経済回復・実現軍は、土地革命を自力で成し遂げた80%・9000万農民とともに、エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキ・アナキストという全他党派が参加した。それは、労働者と農民との内戦、都市と農村との内戦の性格も帯びた。それは、他党派にとって、レーニンの第4回目クーデターとなった。
これは、5連続クーデター説に基づく歴史解釈である。第2回クーデターは、カデット機関紙、ブルジョア新聞の閉鎖命令、第3回は、ボリシェヴィキが敗北した憲法制定議会の武力解散をしたクーデターである。第5回クーデターは、下記にのべる6月14日全ロシア中央執行委員会と全ソヴィエトからのエスエル、メンシェヴィキ追放決定である。レーニンによるソヴィエト権力簒奪・党独裁の5連続クーデターにたいして、労働者・農民・兵士と全他党派が猛反対し、総決起した。
しかも、ここには、内戦発生時期と原因に関する重大な問題がある。メドヴェージェフは、ソ連崩壊後の資料に基づいて、内戦の基本原因の一つを、ボリシェヴィキの食糧独裁令にあったとの新説を発表した。いわゆる内戦の勃発期日は、5月25日のチェコ軍団の反乱開始日である。それを導火線として、コルチャークなど白衛軍との内戦、外国干渉軍との戦争が広がった。
ところが、上記6人の農民との内戦開始演説・発言時期は、4月29日から数日間の第4回全ロシア中央執行委員会、および、5月13日「食糧独裁令」発令前である。それは、チェコ軍団・白衛軍との内戦勃発の26日も前だった。ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』において、4月29日議事録を発掘し、メドヴェージェフの新説を追認・証明した。梶川伸一は、膨大なアルヒーフ(公文書)によって論証した。内戦を誰が先に仕掛けたのかは、明白な歴史的事実となった。それこそ、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開政策となった。レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、食糧人民委員ツュルーパこそが、5月13日、食糧独裁令発令によって、80%・9000万農民にたいする穀物・家畜収奪の内戦を開始したのである。食糧独裁令内容とその後の詳細は、農民ファイルで書いた。
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
こうして、レーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」「土地・平和・パン」という4つの公約を実行せず、それどころか、公約とは逆の路線・政策を選択したことによって、労兵農ソヴィエトや全国民の期待を裏切った。ボリシェヴィキ支持率が急落したのは、国民の期待が、政権発足後半年間で、幻滅と怒りに転化したからである。
食糧独裁令とソヴィエト権力簒奪・党独裁権力樹立クーデターは、ボリシェヴィキ支持率を一気に下落させた。しかし、白衛軍がいた。白衛軍とは、外国軍事援助に全面依存した旧帝政復活目標の反革命勢力である。彼らは、農民の土地革命も全面否定していた。土地を手に入れた農民や、社会主義を望んだ労働者・兵士たちは、文字通りの反革命軍に敵対し、たたかった。1918年5月25日チェコ軍団反乱から1920年夏までの白衛軍との戦闘中は、複雑な二重の内戦となった。(1)レーニンが4月29日全ロシア中央執行委員会で宣言し、白衛軍との内戦よりも26日間も前に仕掛けた80%・9000万農民にたいする食糧独裁令強行の内戦と、(2)チェコ軍団、白衛軍との内戦である。
4、クーデター政権の根本的に誤った路線への全階層総決起・反乱
白衛軍が鎮圧され、それとの内戦が基本的に終結した1920年夏以後、労働者・農民・兵士と全他党派は、共産党独裁・ソヴィエト権力簒奪クーデター政権にたいして、経済的要求とともに、自由で平等な新選挙を求める要請行動に総決起した。
食糧独裁令とは、マルクスの根本的に誤った机上の空論である市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論をロシアに具体化した路線だった。1917年5月以降の土地革命の嵐によって、農村共同体内部で土地分配を平等にした農村は、地主・富農(クラーク)・貧農はなくなり、ソ連全農村の構成がほとんど中農に変化していた。1918年6月11日貧農委員会の組織法令は、80%・9000万農民の心理と、土地革命後の農村実態にまったく無知なレーニンらの認識からの空論で、その方針は、半年ももたず、瓦解した。今度は、さらなる無知から、農民が生産した穀物・家畜を「軍事・割当徴発」した。それは、チェーカー、赤軍、共産党員労働者を使った、暴力による穀物・家畜収奪路線だった。それは、全土で土地革命農民の死に物狂いの抵抗・反乱を引き起こしただけでなく、ロシアの農業生産をも破壊した。
その誤った農民の生産物収奪作戦にたいして、80%・9000万農民全員が抵抗し、そのため、都市部における飢餓がますます深刻化した。全土で、労働者が飢餓解決の経済要求で立ち上がった。その要求は、直ちに、自由で平等なソヴィエト新選挙要求やレーニンによって破壊されたソヴィエト民主主義復活などの政治的要求にエスカレートし、経済要求と結合した。
この歴史的経過は、梶川伸一『飢餓の革命』『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』の2著書・1210頁が、ソ連崩壊後の膨大なアルヒーフ(公文書)を発掘して、証明した。その結論として、彼は、「労農同盟が成立している」というのは、レーニンのウソであるとし、公認ロシア革命史の根本的見直しを提起している。ただ、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターから食糧独裁令発令までの6カ月間、80%・9000万農民は、土地革命を事後承認したレーニンの政策を支持していた。その間は、労働者と農民との政治的軍事的同盟としての労農同盟レベルではないが、農民によるボリシェヴィキ政権支持の平和的関係があった。それを意図的に公然と破壊し、農民にたいする食糧独裁令の内戦を仕掛けたのは、レーニンの側だった。
レーニンは、それらの経済・政治要求と平和的要請行動にたいして、平和的交渉や妥協を全面拒絶した。党独裁政権とその路線に抵抗、批判、反乱する階層にたいし、彼らを白衛軍と同列において、一律に、反革命・人民の敵・富農(クラーク)レッテルを貼りつけた。白衛軍は、まさに反革命勢力である。しかし、労働者・農民・兵士たちや社会主義他党派は、ソヴィエト内の革命勢力であり、ソヴィエトにおける飢餓解決と民主主義復活を要求している国民で、反革命などではない。レーニンは、反革命レッテルを恣意的に拡大し、大量殺人をするという犯罪的誤りを強行した。
ただ、このファイル・テーマとの関係で、レーニンの最高権力者期間の算定問題がある。彼の脳卒中発作は3回ある。
第1回発作は、1922年5月26日である。回復すると、彼は、下記の「反ソヴィエト」知識人数万人の追放・強制収容所送りを「作戦」と名付け、直接指揮した。
第2回発作は、1922年12月16日である。その発作によって、最高権力者としての活動という面では、再起不能となった。そして、党大会への手紙といくつかの短文を口述筆記で残した。その内容レベルの評価はいろいろある。しかし、それらは、はっきりいって、党大会や共産党運営にたいして、何の効果も挙げ得なかった。よって、私(宮地)は、彼の最高権力者期間を、第2回発作までの5年2カ月間と算定する。
1917年11月7日は、レーニンの第1段階クーデターだった。労働者・農民・兵士ソヴィエトは、レーニンが4つの公約を全面的に実行するものと信じ、6カ月間、クーデター政権を支持し、平和的関係を続けた。しかし、(1)1918年4月29日全ロシア中央執行委員会による農民への内戦開始宣言、(2)5月13日「食糧独裁令」発令と労働者穀物徴発隊・貧農委員会による内戦の具体的戦術開始、(3)6月14日全ロシア中央執行委員会、および、すべての各級ソヴィエトからの社会主義他党派エスエル、メンシェヴィキ追放決定という一連の暴挙は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターだった。それ以降、労働者・農民・兵士とクーデター政権は、決定的な対立関係に突入した。レーニンが自国民大量殺人をした最高権力者期間は、1918年5月13日から、1922年12月16日第2回発作までの4年7カ月間となる。
その間、彼は、下記9つの(表)にあるように、ソヴィエト民主主義を破壊し、ソヴィエト権力簒奪をし、党独裁クーデター権力に執着し、一貫して、ロシア革命勢力内部におけるボリシェヴィキ批判・抵抗・反乱者にたいして、「反革命」という詭弁レッテルを貼りつけ、大量殺人を続けた。クーデターによる権力奪取の6カ月後、ボリシェヴィキは、県庁所在地ソヴィエト19/30で惨敗した。政権崩壊危機に直面したレーニンは、一挙に変質し、絶対的権力者としての絶対的腐敗が始まった。彼は、権力のための権力者に転落した。最高権力者として生き残るには、あらゆる詭弁とウソを使い、共産党秘密政治警察チェーカー28万人によって、大量逮捕・大量殺人を続けるしかなかった。
1918年4、5月から22年にかけて、レーニンという人物がしたことと、その人間性をどう考えたらいいのか。ボリシェヴィキ党員作家ザミャーチンは、ゴーリキーとともに、ソ連文壇の中心で活動していた。その中で、彼は、モスクワ・ペトログラード労働者の山猫ストライキ、クロンシュタット総決起とレーニンによる皆殺し対応、共産党秘密政治警察チェーカーの手口を全体験した。同時期・同現場で、その直接体験をSF小説化した作家は、ザミャーチンしかいない。ソ連崩壊後、彼のレーニン認識を再確認するとどうなるのか。
レーニンは、自ら、「鉄の手で社会主義を建設しよう」というスローガンを創って、キャンペーンを展開した。上記全体の誤りと、全分野における民主主義抑圧者に変質した、最高権力者レーニンの一側面は、歴史上でひた隠しにされ、偉大なマルクス主義者レーニンの虚像が作られていった。レーニンは、巨大な鉄の手をセットした絶対的権力者として、反民主主義・赤色テロル型一党独裁システム維持・強化に固執する中で、絶対的に腐敗した。ザミャーチンは、「自分自身を押しつぶし、膝を折って」という言葉で、レーニンの腐敗状態を文学的に表現した。彼は、「その方の巨大な鉄の手」と書いて、レーニンのスローガンを否定しただけでなく、レーニンを殺人者と規定した。
『われら』 「恩人は、ソクラテスのように禿げた頭をもった男で、その
禿げた所に小さな汗のしずくがあった」「その方の巨大な鉄の手は、
自分自身を押しつぶし、膝を折ってしまっていた」「明日、彼ら(反逆
者)は、みな恩人の処刑機械に至る階段を昇るであろう」(299頁)
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
彼は、一度も、自分の労働で収入を得たことがなかった。スイス長期亡命者だった。行政経験は皆無だった。ドイツ政府・軍部の政治的軍事的思惑と合致したお陰で、ドイツ軍封印列車に乗って、1917年4月フィンランド駅に到着した。亡命からの帰国後、わずか7カ月間で、ボリシェヴィキの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを強硬に主張し、ロシアの絶対的一党独裁権力を手に入れた。ボリシェヴィキ批判・抵抗・反乱者にたいする詭弁、ウソ、殺人指令文書執筆、殺人督促電報などの行政業務は、その経歴のレーニンの精神を蝕んだ。ヴォルコゴーノフは、『レーニンの秘密』で、彼の精神的そううつ病症状を詳述している。山内昌之は、その解説において、革命家と政治家との矛盾に病んだレーニンの人間性をさらに分析している。
山内昌之『革命家と政治家との間』−レーニンの死によせて−
第3回発作は、1923年3月10日だった。以後、口述筆記も不可能になった。死去は1924年1月21日、54歳だった。
2、レーニンの大量殺人総合データ (表1〜9)
〔小目次〕
(表1) 1920、21年の反乱農民の射殺・人質数
(表2) 山猫ストライキ労働者と逮捕・処刑数
(表3) クロンシュタット事件の死傷者・処刑数の判明分
(表4) 労働者・農民・兵士の銃殺・虐殺の総計
(表5) コサック解体・殲滅の大量予防殺人数
(表6) 聖職者・信徒の銃殺・殺害数
(表7) 「反ソヴィエト」知識人の肉体的排除数
(表8) 自国民を「殺した」テロルの手口
(表9) レーニンが「殺した」自国民の推計
主として、1920、21年におけるレーニンの大量殺人データをいくつか確認する。それ以前の1918、19年における反乱農民、ストライキ労働者の逮捕・大量殺人数は、『農民』『労働者』ファイルにあるので、ここに載せない。ただ、ここでは、階層別の大量殺人資料とともに、出典別・総計資料など、重複する数字になっている。(表1)から(表9)まで9つを連続して載せる。ソ連崩壊後に、レーニンの再評価をする場合、これらの大量殺人データを抜きにして、論議することはできないと考えるからである。
(表1) 1920、21年の反乱農民の射殺・人質数
出典は様々である。これ以前の反乱農民殺害・銃殺データは、『農民』ファイルに載せた。
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
期間 |
地域 |
戦闘による死傷・殺害・逮捕・銃殺 |
赤軍 |
出典 |
1920、21 |
ウクライナからドン川流域 |
マフノ農民軍5万人中、ドイツ占領軍、デニーキン、ウランゲリ白衛軍との戦争における死傷以外で、赤軍との戦闘で数万人死傷。1921・22年飢饉死亡者はウクライナだけで100万人(コサック絶滅指令のように、報復的穀物没収が原因かは不明。1919年コサックへの赤色テロル指令による殺戮、穀物完全没収でコサック身分農民440万人中、30万人から50万人が戦闘、殺戮、餓死により死亡) |
対マフノ鎮圧部隊の歩兵・騎兵中、数万人死傷 |
『ロシア・ソ連を知る事典』 中野徹三『共産主義黒書を読む』 |
1920〜21・2 |
西シベリア5地方、8県、14郡 |
20・5、反乱農民5000人殺害、42人銃殺 20・7、反乱農民42人銃殺 21・1、アルタイ県で郷・村執行部1494人逮捕、市民5494人逮捕、家畜14000頭以上没収。 4万人の反乱農民中で、射殺・人質総計は不明 |
コムニスト80人殺害 |
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 |
1920・8 |
チェリャビンスク県 |
兵役忌避者7340人のうち106人が監獄、194人が矯正収容所、134人が強制労働、1165人が執行猶予、5067人が罰金、18人が銃殺、656人がそのほかの判決。捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲。 |
『飢餓の革命』 (P.16) |
|
1920・11 |
各地 |
反ユダヤ主義ポグロム(虐殺)、4村で58人。他地域でも多数 |
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 |
|
1920・8〜21・6 |
タンボフ県と他4県 |
20・9、戦闘で600人犠牲者 21・3、20・10の党員・候補11521人が、6158人に半減 21・6、タンボフ反乱農民5万人中、裁判なし射殺・毒ガス使用指令による殺害数は不明 21・9、モスクワ3収容所のタンボフ農民人質364人 |
チフス、戦闘で毎週300人死亡。 |
『同上』 『レーニンの秘密・下』(P.158) |
1920〜21・6 |
全土 |
36県が反乱農民と赤軍・チェーカー・食糧人民委員部との戦争状態になった |
食糧人民委員部10万人以上死亡 |
『1917年のロシア革命』 |
1921年だけ |
全土 |
1921年兵役忌避・脱走兵の銃殺刑。1月360、2月375、3月794、4月740、5月419、6月365、7月393、8月295、9月176、10月122、11月111、12月187、1921年計4337人銃殺。ヴォルコゴーノフ「国内戦の初期(18、19年)には銃殺者がはるかに多かった。革命裁判で控訴権なし、判決は24時間以内に執行」 |
赤軍兵士171185人が、農民反乱との戦闘で死亡 |
ヴォルコゴーノフ 『トロツキー・上』(P.409) (赤軍死亡)『1917年のロシア革命』 |
(表2) 山猫ストライキ労働者と逮捕・処刑数
山猫ストライキとは、労働組合が行う正規のストライキではない。共産党独裁政権下の労働組合は、ソヴィエト執行委員会が共産党員で占拠されたのと同じく、組合執行委員も他党派党員がチェーカーに逮捕・排除され、全員が共産党員になっていた。レーニン、トロツキーは、ソ連の労働組合を、共産党独裁国家の下部機関に変質させていた。彼らによる「労働の軍事規律化」路線にたいする労働者の批判と怒りは強烈だった。それは、共産党独裁労働組合にたいする山猫ストライキとなって、激発した。これは、『労働者』ファイルのデータを(表)にしたもので、出典の数字はすべて『共産主義黒書』のページ数である。ただ、未判明分、未記載分が多くあり、数字に含めていない。レーニンが、1920、21年どれだけのストライキ労働者を逮捕し、殺したのかを検証する。
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』
年 |
地方・都市 |
月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
1920 |
レーニン プラウダ 労働人民委員部の公式統計 シンビルスク エカチェリンブルグ リャザン・ウラル線 モスクワ・クルスク線 ブリヤンスク ソ連全土 |
2.1、「何千もの人間が死んでもかまわないが、国家は救われなければならない」 2.12、「これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は、強制収容所である」 20年前半、ロシアの大・中規模の工業経営の77%でストライキ。「労働の軍事規律化」が最も進んだ金属工業、鉱山、鉄道が中心 4、武器工場で「イタリア・ストライキ型サボタージュ」=許可なし休憩、日曜強制労働に抗議、共産主義者の特権批判、低給与告発 「労働の軍事規律化」への抗議ストライキ 4、鉄道員 5、鉄道員 6、金属工場 「労働の軍事規律化」によるストライキの例は、さらに何倍もある |
収容所送り12人 逮捕・収容所送り80人 有罪100人 有罪160人 有罪152人 それへの弾圧も何倍もある |
98 99 |
1921 |
ソ連全土 モスクワ ペトログラード |
1〜3、ストライキ、抗議デモ、飢餓行進、工場占拠 1.22〜24、兵士への連帯の兵営への労働者デモ 2.22〜3.3、経済政治要求の全市的山猫ストライキ、何千もの兵士が労働者ストに参加で脱走 |
数人殺害、数百人逮捕 24、12人殺害、1000人逮捕 スト指導者500人即時銃殺 10000人逮捕 メンシェヴィキ中央委員全員逮捕、メンシェヴィキ全土で5000人逮捕 |
122 セルジュ アヴリッチ |
(表3) クロンシュタット事件の死傷者・処刑数の判明分
これには、未判明が多い。レーニンは、水兵10000人・基地労働者4000人を皆殺しにした。ソ連崩壊後のデータは、ニコラ・ヴェルト『黒書』だけである。政権崩壊危機に直面したレーニンは、反乱兵士を、一人残らず殺害・虐殺する必要があった。
『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応
項目 |
クロンシュタット水兵・労働者 |
政府軍 |
||||
分類 |
人数 |
出典 |
分類 |
人数 |
出典 |
|
勢力 |
水兵 基地労働者 コトリン島他住民 |
10000 4000 31000 |
全文献 |
鎮圧司令官 攻撃軍、クルサントゥイ、共産党員軍など |
トハチェフスキー 50000 |
全文献 |
死傷 |
死者 負傷者 フィンランドに脱出 内帰国者 |
600〜数千 1000以上 8000 不明 |
アヴリッチと 『黒書』 |
死者 内代議員 負傷者 入院 内死亡 |
700 15 2500 4000 527以上 |
アヴリッチ |
鎮圧後の処刑 |
銃殺 内3月20日 3月21日 3月24日 銃殺刑 強制収容所送り ホモゴールイ収容所 内溺殺・虐殺 ソロフキ収容所 内虐殺 シベリア収容所 |
数百人 167 32 27 2103 6459 5000 3500 2000 全員 2514 |
アヴリッチと 『黒書』、ヴォルコゴーノフ 『聖地ソロフキの悲劇』 『黒書』 |
追放、バルト水兵と全海軍部隊 クロンシュタット・ソヴィエト |
15000 ソヴィエト閉鎖、復活させず |
アヴリッチ イダ・メットとアヴリッチ |
逮捕 |
社会主義活動家 メンシェヴィキ中央委員 内国外追放 |
2000 全員 12 |
『黒書』 |
|||
スターリン |
生残り流刑者銃殺・虐殺 |
全員 |
全文献、ヴォルコゴーノフ |
(表4) 労働者・農民・兵士の銃殺・虐殺の総計
この(表)は、出典別のデータである。数字的には、他(表)と重複する。
期間 |
地域 |
内容と規模 |
出典 |
1917〜22 |
ソ連全土 |
R・J・ランメルによる『民衆殺害推計』の「1、内戦期1917〜22」。原因別、テロル75万人、収容所3.4万人、飢え250万人、死者数計328万人。中野徹三『意図的な政策の結果でない餓死死などは除外されている』 |
『社会主義像の転回』(P.234) |
1918〜22 |
ソ連全土 |
人質または裁判なしの獄囚数万人の銃殺。反乱を起した労働者と農民数十万人の虐殺。『アステイオン51』(1999、TBSブリタニカ)に掲載 |
『共産主義黒書序文』(P.18) |
1917〜22 |
ソ連全土 |
飢饉死亡500万人、亡命200万人、内戦犠牲者700万人の計1400万人 一方、レーニン・政治局は、飢饉中にもかかわらず、100万トン近い穀物の輸出を決定。「飢饉救済」名目の没収教会財産も、一部しか救済に使わず。 |
川端『ロシア』 『レーニンの秘密』 |
1921・22 |
ソ連全土 (農民以外) |
21・2、ペトログラードのストライキ参加労働者、ボリシェヴィキ党員5000人逮捕。うち大部分を拷問死、銃殺、強制収容所送り 21・3、クロンシュタット・ソヴェト水兵と住民45000人を戦闘による殺戮、死刑、強制収容所送り、強制移住、収容所での拷問死・銃殺などで殲滅 22・2、聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害 22・6、「反ソヴェト」知識人数万人を3方針で肉体的排除 |
『クロンシュタット1921』 『クロンシュタット・コミューン』、他 『レーニンの秘密』 |
1918〜19前半 |
20県のみの部分計 |
チェーカーによる逮捕87000人、うち『裁判なし銃殺』8339人。チェーカー、M・I・ラツィスによる「チェーカー活動の概況」『国内戦線における闘争の2年間』(1920年) |
『収容所群島』 (P.290) |
1918・6〜19・10 |
ロシア中央部20県のみの部分計 |
革命裁判所による「新しい時代の死刑」としての銃殺。16カ月間で16000人以上銃殺。1カ月間にすれば、1000人以上の銃殺刑執行。「ソ連刑法」は、資料(10)の1922年6月1日から施行。それ以前は、「明文化された刑法」なしで「革命裁判所」が死刑判決を出し、24時間以内に銃殺刑執行 |
『収容所群島』 (P.418) |
1920 |
ソ連全土 |
強制収容所が、すでに84カ所に存在。内戦による捕虜24000人以外に、「収容者」25000人という統計 |
『ロシア・ソ連を知る事典』 |
(表5) コサック解体・殲滅の大量予防殺人数
これは、レーニン、オルジョニキッゼ、スヴェルドロフが直接かかわったコサック階層440万人殲滅の予防殺人政策だった。反乱にたいする軍事的報復措置ではない。コサック反乱は、レーニンの根絶やし命令と大量処刑を受け、それに抵抗して発生した。1917年12月、レーニンは、コサックから旧帝政時に与えられていた特別身分を剥奪した。そして、コサック全体に「クラーク」「階級の敵」というレッテルを貼りつけた。レーニンらは、コサックが、軍事的に強力な特殊集団であり、彼らが白衛軍と結びつくことを恐れて、反乱も起していないのに、階層を丸ごと殲滅する政策を採った。
時期 |
殲滅指令者 |
内容と規模 |
出典 |
|
勢力 |
約10地域、440万人。ドンとクバンで300万人 |
『ロシアのコサック』 |
||
命令 |
1919・2 1919・2〜3 |
レーニン、スヴェルドロフ |
共産党組織局決定、コサック全員の根絶やし命令 ボリシェヴィキ分遣隊、コサック8000人処刑 |
『1917年のロシア革命』 |
殺害 移住 |
1919〜20 |
反乱鎮圧司令官オルジョニキッゼ |
ドンとクバンでコサック30〜50万人を戦闘、虐殺、強制移住による餓死殺人、あるいは強制収容所送りにした |
『黒書』(P.111) |
1920 |
トロツキー |
反乱したコサック村の家族をシベリアに徒歩で強制移住させ、その穀物没収した上での死の行進手法により、数千人を餓死させた |
ヴォルコゴーノフ『トロツキー』 |
|
1920・10 |
ランデル |
北カフカスとドン、10月1カ月間で6000人死刑判決・即時執行 |
『黒書』(P.109) |
|
1920・10〜11 |
オルジョニキッゼへの殲滅作戦結果報告 |
カリノフスカヤ村、全村焼却、全住民強制移住4220人 エルモロフスカヤ村、全住民排除3218人 ロマノフスカヤ村、強制移住1600人、移住待ち1661人 サマシンスカヤ村、強制移住1018人、移住待ち1900人 ミハイロフスカヤ村、強制移住600人、移住待ち2200人 徒歩の強制移住とは、トロツキーのやり方と同じ。コサックの穀物を没収した上での死の行進手法により、ほとんどを意図的に餓死させた |
『同』(P.110) |
|
結果 |
スターリン |
レーニンのコサック殲滅方針を続け、70%・308万人を戦死・処刑・強制移住の餓死殺人で抹殺 |
『ロシアのコサック』 |
(表6) 聖職者・信徒の銃殺・殺害数
この具体例は、『聖職者』ファイルにある。全体で、聖職者数万人銃殺、信徒数万人を殺害・射殺した。
時期 |
規模 |
出典 |
1917〜18 |
キエフ府主教1人、主教20人、聖職者数百人暗殺。殺害前に手足を切り刻み、生きながら火で焼いた。市民の宗教行進に銃撃。尼僧を暴行 |
W・ストローイェン『共産主義ロシアとロシア正教会』 |
1918・6〜19・1 (ソ連一部地域) |
処刑‥府主教1人、主教18人、司祭102人、輔祭154人、修道士と修道女94人 投獄‥主教4人、司祭(妻帯司祭および修道司祭)211人 不動産の没収‥教区718、修道院18 閉鎖‥聖堂94、修道院26、ほかに非宗教的目的に使用された教会14、礼拝堂9 |
レフ・レゲリソン『ロシア正教会の悲劇』(教会公式資料) (『ロシア正教の千年』に引用) |
1918〜20 |
主教28人銃殺。聖職者数千人の殺害あるいは投獄。信徒ほぼ12000人が宗教活動名目で処刑、数千人が労働キャンプか流刑 |
『ロシア正教の千年』 |
1921〜23 |
司祭2691人、修道士1962人、尼僧3447人の計8100人銃殺。その他多数の信徒殺害。1414件の死傷事件発生 |
『ロシア正教の千年』 |
1922・4〜5 |
有力聖職者「54人裁判」。モスクワ最高裁判所は、11人に死刑宣告。処刑5人 |
『ソヴィエト政治と宗教』 |
1922・6 |
ペトログラードのヴェニアミン府主教の裁判。教会財産没収の妨害名目による逮捕。10人に死刑宣告。処刑4人、他に禁固刑22人 |
『ロシア正教の千年』 |
1922 |
聖職者、熱心な信徒14000人から2万人射殺 |
『レーニンの秘密』 |
1921〜23 |
特別法廷における反革命罪死刑宣告(ソ連全体の公的公表数字) 1921年、有罪者総数35829人、うち死刑9701人、1922年、6003人と1962人。1923年、4794人と414人。(注)、特別法廷裁判によらない銃殺・殺害は上記データ |
塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』 |
(表7) 「反ソヴィエト」知識人の肉体的排除数
1922年前半、レーニンは、聖職者数万人銃殺・信徒数万人殺害と教会財産没収を、トロツキーに遂行させた。彼は、5月26日に第1回目の脳卒中発作を起した。その前に、知識人排除指令を出していた。1922年後半、共産党政権に協力しない知識人すべてに、「反ソヴィエト」レッテルを貼りつけ、逮捕・国外追放・辺地強制移住手法によって、彼らの肉体的排除を強行した。この具体例は、『知識人』ファイルにある。
『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』
方針 |
規模 |
出典 |
逮捕・国外追放 |
1922年9月22日、第一次追放120人 1922年秋、160人 1922年末、300人の人道主義者が、汽船に詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送り出された。全体の人数は不明 |
『レーニンの秘密』 『われら』解説 『収容所群島』 |
逮捕・出国不許可、辺地強制移住 |
ウクライナの知識人 『われら』作者ザミャーチンは逮捕・出国不許可 |
『レーニンの秘密』 『われら』解説 |
出国許可 |
コサック約3万人、ドンコサック合唱団亡命。亡命者200万人+内戦犠牲者700万人、飢饉死亡者500万人 |
川端『ロシア』 |
総計 |
知識人肉体的排除3方針の総計数万人 具体的数字は不明。しかし、レーニンは「排除人数」報告を要求しているので、そのデータは「レーニン秘密資料」6000点の中にある筈 |
『レーニンの秘密』 |
(表8) 自国民を「殺した」テロルの手口
レーニン・政治局が、抵抗・反乱・異端の自国民を「殺した」テロルの手口は、3種類あり、それぞれはさらに細分化されている。レーニンが「殺した」自国民の推計と合わせて、2つの(表)にした。
性質 |
細目 |
肉体的殺人 |
絞首刑、裁判なしの射殺、逮捕時点の拷問死、革命裁判所による48時間以内の銃殺刑、反乱の武力鎮圧時の殺戮、毒ガスによる殺戮、 強制収容所移送中の殺害。強制収容所内での拷問死、銃殺、溺殺、強制労働死 「緑の銃殺」(伐採作業の疲労による意図的殺人)、「乾いた銃殺」(殺人的作業による殺人) |
政治的殺人 |
抵抗農民の大量人質、反乱農民・労働者・兵士の強制収容所送り、コサック農民の強制移住、左派エスエル・エスエル・ボリシェヴィキ党員のほぼ全員の逮捕・投獄 「反ソヴェト」知識人の国外追放または辺地流刑 |
飢餓の殺人 |
「軍事=割当徴発」結果としての飢饉死亡者500万人。3大農民反乱地方や、戦争状態になった36県の、または118件、数百件の反乱郷・村にたいする報復的な穀物・家畜の完全没収による意図的な「飢餓発生殺人」。マフノ農民軍反乱で、赤軍側が数万人の死者を出したことへの報復措置とウクライナ100万人餓死との直接的関係(?) コサック殲滅政策による徒歩の強制移住をさせ、穀物没収をした死の行進で意図的な餓死殺人 |
(表9) レーニンが「殺した」自国民の推計
これは、レーニンが殺した自国民の階層別(表)である。上記数字と重複する。この人数は、肉体的殺人と政治的殺人とを合計したものである。( )数字は、他と重複するか、別の性格の死者である。ソ連崩壊後、レーニンが付けたレッテルは、すべてウソであったことが判明した。レーニンは、食糧独裁令とソヴィエト権力簒奪クーデターに反対する自国民の大量殺人を、チェーカー・クルサントゥイ・共産党員軍・赤軍に遂行させるために、ありとあらゆるウソをついた。
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』
階級階層 |
時期 |
レッテル(すべてウソ) |
人数 |
(1)反乱農民 (2)脱走兵・徴兵逃れ (3)コサック身分農民 (4)ストライキ労働者 (5)ペトログラード労働者 (6)クロンシュタット水兵と住民 (7)聖職者・信徒 (8)「反ソヴェト」知識人 (9)カデット、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエル、アナキスト |
1918.5〜21.6 1918夏〜21末 1919.1〜 1918〜20 1921.2 1921.3 1922.2〜 1922.6〜 1918〜22 |
クラーク反乱 犯罪、腰抜け 白衛軍加担 黄色い害虫 反革命ストライキ 白衛軍、反革命の豚 黒百人組 反ソヴェト 反革命、武装反革命 |
数十万人 数十万人 30〜50万人 15379人 500人 55000人 各々数万人 数万人 (数十万人) |
(10)亡命者 (11)白衛軍との内戦犠牲者 (12)飢饉死亡者 |
1917〜22 1918夏〜20.11 1921〜22 |
/ / / |
(200万人) (700万人) (500万人) |
(13)総計(最低で見た数字) (反乱農民の政策的餓死殺人) |
/ 1920〜21 |
クラーク反乱 |
数十万人 (+250万人) |
3、大量殺人数推計の根拠と殺人指令文書27通
これは、(表9)の推計に関する根拠である。殺人数については、白衛軍との内戦犠牲者700万人と、レーニンによる大量殺人最低数の数十万人とを区別することが難しい。これらの数字は、諸データや文献を検討し、白衛軍との内戦犠牲者を除いた数字である。殺人根拠の決定的データとして、各階層にたいするレーニンらの大量殺人・追放指令文書27通を載せる。それによって、ファイル全体が長くなる。しかし、その文書を読まなければ、なかなかレーニンの数十万人殺人犯罪事実を理解し、納得することができない。ただ、ソ連崩壊後に発掘され公表された文書だけである。証拠隠滅・焼却文書や現在も隠蔽中の文書は、かなりあると推定される。殺人・追放指令文書は、通し番号を付ける。もちろん、レーニンは、最高権力者・人民委員会議議長として、これらの文書すべてに直接関与している。
当初の文書は19通だった。その後、8通を加えた。追加した〔殺人指令文書〕No.は、農民7、コサック10、労働者11・12、チェコ軍団14、知識人18・19、他党派24である。
〔小目次〕
1、反乱農民の数十万人殺害 〔殺人指令文書1〜7〕
2、脱走兵・兵役忌避逃亡者十数万人から数十万人を銃殺・殺害・人質 〔殺人指令文書8〕
3、コサック身分農民30〜50万人殺戮、強制移住による餓死殺人 〔殺人指令文書9、10〕
4、山猫ストライキ労働者の逮捕10000人、即時殺害500人 〔殺人指令文書11、12〕
5、クロンシュタット水兵・労働者・住民を殺戮、銃殺、収容所送りで殲滅 〔殺人指令文書13〕
6、チェコ軍団帰国途中の武装解除と銃殺命令、軍団の抵抗と反乱 〔殺人指令文書14〕
7、聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害と教会財産没収 〔殺人指令文書15〕
8、「反ソヴェト」知識人の国外追放・強制収容所送り数万人 〔追放指令文書16〜19〕
9、カデット、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエルの絶滅 〔殺人指令文書20〜26〕
10、飢饉死亡者500万人
11、総計 最低数十万人を肉体的・政治的殺人 〔殺人指令文書27〕
(表10) 殺人指令文書27通
〔殺人指令文書〕27通は、それぞれ〔小目次〕の文中に載せた。一方で、その通し番号を(表)にしておく。これらの指令を発したレーニンという大量殺人革命家の人間性をどう考えたらいいのか。未発掘の殺人指令文書や殺人指令電報などが、まだ数百通あると言われている。それらを含めれば、『レーニン全集』の裏側として、『レーニン殺人指令選集』が編纂できるほどである。
対象 |
年月日 |
殺人指令文書 |
レッテル |
発令者 |
殺害数 |
農民 |
18・8・11 18・8・20 18・8・29 20・10・19 21・6・11 21・6・12 21・7・10 |
1、暴動農民の絞首刑指令 2、富農の人質指令 3、クラーク鎮圧・没収措置の報告督促 4、タンボフ県の農民反乱への鎮圧指令 5、タンボフ農民への裁判なし射殺指令 6、毒ガス使用とタンボフ農民絶滅命令 7、タンボフ県匪賊の人質・公開処刑報告 |
暴動農民 富農 富農 クラーク反乱 クラーク反乱 クラーク反乱 クラーク反乱 |
レーニン レーニン レーニン レーニン レーニン 政治局 政治局 |
数十万 |
兵士 |
18・8・30 |
8、脱走兵銃殺命令 |
犯罪、腰抜け |
トロツキー |
数十万 |
コサック |
19・1・21 20・10・23 |
9、コサックへの赤色テロル指令 10、コサック解体・絶滅命令と絶滅報告書 |
白衛軍加担 白衛軍加担 |
スヴェルドロフ オルジョニキッゼ |
数十万 |
労働者 |
18・5・31 20・1・29 |
11、ストライキ労働者銃殺指令 12、ストライキ労働者の大衆処刑電報 |
黄色い害虫 黄色い害虫 |
ジェルジンスキー レーニン |
数万 |
水兵 |
21・2・28 |
13、最後通牒、雉子のように撃ち殺す |
白衛軍の豚 |
トロツキー |
14000 |
チェコ |
18・5・25 |
14、チェコ軍団への武装解除・銃殺命令 |
独断的行動 |
トロツキー |
45000 |
聖職者 |
22・3・19 |
15、教会財産没収、聖職者銃殺指令 |
黒百人組 |
レーニン |
数万 |
知識人 |
22・5・29 22・6 22・9・5 22・9 |
16、知識人追放指令の秘密手紙 17、反ソヴィエト知識人追放指令 18、知識人追放督促指令 19、知識人掃討・浄化指令メモ |
反ソヴィエト 反ソヴィエト 反ソヴィエト 浄化 |
レーニン レーニン ジェルジンスキー レーニン |
数万 |
他党派 |
17・11・28 18・6 18・8・9 18・9・3 21・4 21・6 22・5・15 |
20、カデット党員逮捕の布告 21、チェキスト党集会法令とレーニン指示 22、銃殺とメンシェヴィキ追放指令 23、社会革命党員の即時逮捕電報命令 24、メンシェヴィキ、エスエル逮捕銃殺命令 25、社会革命党とメンシェヴィキ壊滅作戦 26、銃殺刑の範囲拡大とテロル指令 |
反革命 武装反革命 動揺分子 白色テロル 反革命 反革命 反革命 |
レーニン他 チェキスト レーニン ペトロフスキー レーニン ウンシュリフト レーニン |
百数十万 |
総計 |
17・12・20 |
27、チェーカー創設と組織、チェキスト |
人民の敵 |
レーニン |
数十万 |
知識人の数万人は、追放と強制収容所送りである。他党派の百数十万人は、労働者・農民と重複する人数を含む。ここには、1921・22年の餓死500万人、内ウクライナの餓死100万人を入れていない。それが、レーニンによる政策的餓死殺人をどれだけ含むのかについては、関係資料がまだ未発掘である。ランメルは政策的餓死殺人を250万人としている。レーニン、トロツキー、スヴェルドロフ、トハチェフスキーらが、コサックやタンボフ反乱農民にたいして、すべての穀物・家畜を没収して、大規模な餓死殺人政策を行ったことは、ソ連崩壊後のデータによって、証明されている。
単純総計をすれば、レーニンの大量殺人数は、百数十万人になる。ただ、発掘されたデータから見て、最低数十万人を殺害したことは間違いない。しかも、殺人指令レッテルのすべては、レーニンが意図的にでっち上げた詭弁とウソだったことが、ソ連崩壊後に判明した。レーニンという人間が、マルクス主義革命家であったことは事実である。しかし、27通の〔殺人指令文書〕を克明に検証すれば、レーニンという人物は、「反民主主義者、反人道主義者」という大量殺人型革命家だったことが、浮き彫りになる。この規定は、「反ソヴィエト」知識人として追放された哲学者ベルジャーエフがしたものである。
タンボフ、西シベリア、マフノの3大反乱だけでも、反乱農民の部隊は14万人いる。とくに内戦が基本的に終了した1920年夏から1921年春にかけて、「軍事=割当徴発」制の穀物・家畜の収奪による餓死の恐怖とも合わさって、反乱が激化し、36県が戦争状態になった。118件または数百件を合計すれば、反乱参加者は、百数十万人から数百万人になる。レーニンは、その内、数十万人を裁判なし射殺、革命裁判所による48時間以内の死刑、毒ガス使用による殺戮、人質、強制収容所送りなどの手法によって、農民を殺した。
反乱農民数十万人殺害の別の根拠を挙げる。メドヴェージェフが公表したデータによるボリシェヴィキ側の死者からの逆算である。農民反乱の武力鎮圧過程において、食糧人民委員部10万人以上が死亡し、赤軍兵士171185人が死亡した。合わせて27万人以上が死んだ。正規の武装をした共産党独裁権力側がそれだけ死んだのである。反乱農民側の殺害・人質・強制収容所送りの人数がそれより少ないことはありえない。この逆算式から見ても、レーニンが、9000万農民のうちで、政権側の死者27万人をはるかに超える数十万人を殺害したことは明白である。これらの細目データは『農民』ファイルで書いた。
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
〔殺人指令文書1〕、1918年8月11日、「暴動」農民の絞首刑指令
これは、岩上安見『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年)のデータである。彼の直接取材にたいして、ヴォルコゴーノフが見せた「レーニン秘密資料」である。それは、レーニンの手書きの手紙だった。同一指令内容が、梶川『飢餓の革命』(P.547)にもある。ただ、岩上著の日付は「8月18日」になっているが、梶川著の日付にした。梶川氏から「この日付は、モスクワで1999年に発行された『レーニン・知られざる文書』でも確認できます」というメールをいただいた。
「ロシア連邦ソヴィエト共和国 人民委員評議会議長 モスクワ・クレムリン
一九一八年八月十一日
ペンザ市ヘ クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン同志他のペンザ市の共産党員達へ
同志諸君!
五つの郷での富農(クラーク)の暴動に対し仮借なき鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の決定的戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなっている。あなた方は模範を示さなければならない。
一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように、是非とも絞首刑にしなくてはならない)。
二、彼らの名前をすべて発表すること。
三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。
昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民すべてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにしなければならない。(私の)電報の受取とその内容の実行について、電報を打ちなさい。
あなたのレーニンより
追伸 できるだけ、不撓不屈の精神の人を探しなさい。」(P.307)
〔殺人指令文書2〕、1918年8月20日、「富農の人質」指令
2つのデータを載せる。まず、梶川『飢餓の革命』の資料である。
「戦時共産主義期に穀物や革命税の不履行に対して頻繁に人質(заложник)が利用された。八月にレーニンはツュルーパに、サラトフには穀物があるのに、搬送することができないのは最低の不面目であるとし、各郷ですべての穀物余剰の集荷に命を張る、富農から二五〜三〇人の人質を提案した(ГАР.Ф.1235, оп.93.170, л.48об.−49)。それに続く覚え書きで、「「人質」を取ることではなく、郷毎に指名するよう提案している。指名の目的は、彼らがコントリビューツィアに責任を持つように、富農は穀物余剰の速やかな収集と集荷に命を張ることである。そのような指令(「人質」を指名すること)は、a、貧農委、б、すべての食糧部隊に出されている」(Ленинский сборник.xviii.c.145−146.)と述べている。」(P.548)
この経過について、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上』が、さらに詳しく書いている。
「テロルは反体制的行為で有罪となった者にたいしてのみ適用されたという反論があるかもしれない。だが、そうではなかった。赤色テロルについての命令が立法化される一カ月前、レーニンは食糧生産人民委員のA・D・ツュルーパに、『すべての穀物生産地城で、余剰物資の徴集と積み出しに生命賭けで抵抗する富農から二五〜三〇人の人質をとるべきである』という命令を出すように勧告している。ツュルーパはこの措置のきびしさに仰天し、人質問題については返事をしなかった。
すると、次の人民委員会議でレーニンは、彼がなぜ人質問題について返事をしなかったのか答えよと詰め寄った。ツュルーパは、人質をとるという発想そのものがあまりにも奇想天外だったため、どういう段取りでそれを行ったらいいかわからなかったのだと弁明した。これはなかなか抜け目のない答えだった。レーニンはさらにもう一通の覚え書を送って、自分の意図を明確にした。『私は人質を実際にとれといっているのではない。各地区で人質に相当する人間を指名してはどうかと提案しているのである。そうした人たちを指名する目的は、彼らが豊かであるなら、政府に貢献する義務があるのだから、余剰物資の即時徴集と積み出しに協力しなければ生命はないものと思わせるためである』。
そのような措置は差しせまった状況があったからで、特殊なケースにのみ適用されたのだと考えるのはまちがっている。これは内戦中のレーニンの典型的な作戦で、大々的な規模で実施された。一九一八年八月二十日、彼は保健人民委員で、リヴヌイの内戦のリーダーでもあったニコライ・セマシュコにこう書いている。『この地域での富農(クラーク)と自衛軍の積極的弾圧はよくやった。鉄は熱いうちに打たねばならない。一分もむだにするな。この地区の貧乏人を組織し、反抗的な富農たちのすべての穀物、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせよ。わが部隊の信頼できるリーダーのもとに貧乏人を動員して武装させ、金持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ』。」(P.376)
〔殺人指令文書3〕、1918年8月29日、「クラーク鎮圧・没収措置の報告」督促電報
梶川『飢餓の革命』に、この「電報」が載っている。
「手本を示さないペンザ県執行委にレーニンは八月二九日に繰り返し打電した。五郷のクラークの容赦のない鎮圧と穀物の没収の、どのような、深刻な措置がようやく貴殿によって採られたかについて貴殿から何もはっきりしないことにわたしはきわめて怒っている。貴殿の職務怠慢は犯罪的である。一つの郷に全力を注ぎ、そこですべての穀物余剰を一掃する必要がある(Ленинский сборник.xviii.c.209.)」(P.547)
〔殺人指令文書4〕、1920年10月19日、「タンボフ県の農民反乱への鎮圧」指令
1920年8月、内戦が基本的に終結すると同時に、タンボフ県の農民反乱始まった。反乱農民は、最大時5万人になり、300組織に広がった。梶川伸一は、『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』において、ソ連崩壊後に公開された膨大なアルヒーフ(公文書)を使って、反乱原因・経過を詳細に分析している。そこでのレーニンの指令を引用する。
「九月二四日にレーニン宛てに、県執行委議長代理から次の文書が送られた。わが状態は悪化している(わが二個中隊が武装解除され、そのようにして四〇〇丁のライフル銃と四丁の機関銃が奪われ、全体として敵対者は強固)。[……]貴殿に[穀物を]何も出せなかった。集荷は一日必要な二〇〜二二万プードでなく二万〜二万二〇〇〇〜二万五〇〇〇しかない。この恐ろしい現実を知悉したレーニンは、直ちにチェーカー議長ジェルジーンスキィに「超精力的措置」を至急採るよう命じたが、事態はいっこうに改善されなかった。レーニンの関心事は、まず労働者への穀物の確保であった。タムボフの事件もこのことに集約された。
二七日にブリュハーノフ宛てに次のように書き送った。『タムボフ県について。注意を払うように。一一〇〇万プードの割当徴発は確実だろうか』。これとの関連でさらに一〇月一九日に、国内保安部隊司令とジェルジーンスキィに、反乱は強まり、わが軍は弱いとの県執行委議長シリーフチェルの報告を伝え、反乱撲滅のための必要な措置を採るよう指示した。これとほぼ同時にレーニンはジェルジーンスキィには、叛徒の猖獗を醜悪の極みとして、タムボフ県のぼんくらなチェーカー員と執行委員を裁判にかけ、国内保安部隊司令を厳しく叱責し、厳格な反乱の鎮圧を命じたのは、依然として根絶されない反革命的行為への彼の焦燥感の表現であった。二月になると抑圧的措置が強化され、匪賊的村が焼き討ちされた。」(P.604)
〔殺人指令文書5〕、1921年6月11日、タンボフ農民への「裁判なし射殺」指令
以下は、『レーニンの秘密・下』にある「アントーノフの反乱」鎮圧経過である。
「一九二一年五月、赤軍司令官トゥハチェフスキー元帥には、すぐに出動可能な常備軍五万人、装甲列車三両、装甲部隊三個、機関銃をもった機動隊数隊、野戦砲約七〇門、機関銃数百丁、航空部隊一個があった。抵抗があった場合には、軍隊は村を丸ごと焼き払い、農民の小屋に容赦なく発砲し、捕虜はとらないことになっていた。反乱の指導者アントーノフは、一度は敗北したにもかかわらず、もう一度抵抗を試みようとしており、ボリシェヴィキを数カ月にわたって忙しくさせた。だが、一九二二年五月、彼はチェーカーに密告され、一カ月後、彼の兄弟とともに一軒の小屋に閉じ込められた。彼らは一時間あまりそこにこもっていたが、軍隊が小屋に火を放ったため、森へ脱出し、走っている最中に射殺された。引きつづいて軍隊が、アントーノフを助けたと見られる大勢の人たちを、報復措置として処刑した。」(P.160)
その鎮圧前に、レーニンは、この農民反乱にたいして、大量の人質政策をとり、モスクワに送らせた。そのデータも、『レーニンの秘密・下』にある。
「一九二一年九月、モスクワ赤十字委員会会長のヴェーラ・フィグネルは、共和国革命法廷宛てにこう書いている。「現在、モスクワの拘置所には、タンボフ県からの大勢の農民が入れられています。アントーノフの一団が一掃される前に、身内のために人質になっていた人たちです。ノヴォ・ペスコフ収容所には五六人、セミョーノフには一三人、コジュホフには二九五人、この中には六十歳以上の男性が二九人、十七歳以下の若い人が一五八人、十歳以下が四七人、一歳未満が五人います。彼らは全員、ぼろをまとい、身体の半分は裸という惨めな状態でモスクワに到着しました。よほど空腹なのか、幼い子供たちはごみの山をあさって食物を探しています……政治犯救済赤十字は、こうした人質の救済と、彼らの故郷の村への送還を請願いたします。」
政権側はそのような嘆願にたいしてほとんど耳を貸さなかった。」(P.158)
6月11日、レーニンは次のような命令を、政治局の承認をえて、発令した。これは、『レーニンの秘密・下』の「レーニン秘密・未公開資料」によるものである。その文をそのまま引用する。
「反乱の指導者アントーノフの率いる[タンボフ県の]一団は、わが軍の果断な戦闘行為によって撃破され、ちりぢりばらばらにされた上、あちこちで少しずつ逮捕されたりしている。エスエル・ゲリラのみなもとを徹底的に根絶するために……全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令する。(1)自分の名前をいうのを拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺すること。(2)人質をとった場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなかった場合は射殺すること。(3)武器を隠しもっていることが発見された時、一家の最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(4)ゲリラをかくまった家族は逮捕して他県へ追放し、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺すること。(5)ゲリラの家族や財産をかくまった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(6)ゲリラの家族が逃亡している場合には、その所有物はソヴィエト政権に忠実な農民たちに分配し、放棄された家屋は焼き払うか取り壊すこと。(7)この命令は厳重に、容赦なく実行すること。この命令は村の集会で読み上げること。
政治局は、あちこちの県で大虐殺が行なわれるのを認めていた。」(P.158)
〔殺人指令文書6〕、1921年6月12日、毒ガス使用によるタンボフ農民の絶滅命令
ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、次のように認めている。
「ボリシェヴィキが再びロシアを奪還した一九二一年春は、どことなく一九一八年春と似ている。だが今度は国が土台まで破壊されていた。工場は操業を停止していた。工業労働者の大部分が村へ去っていった。農業生産は半減した。だが農民は、ただぶつぶつ不平を言っていただけではなかった。再び武器を取って立ち上がり始めた。ロシア中央部ではエスエル党員アレクサンドル・アントーノフに率いられたタンボフの反乱、すなわちアントーノフの反乱が荒れ狂った。この時、内戦期において初めて軍は兵器庫から化学兵器を取り出し、使用した。」(P.125)
ヴォルコゴーノフは、この詳細を『レーニンの秘密・下』で公表した。
「一九二一年四月二十七日、レーニンの率いる政治局は、トゥハチェフスキーをタンボフ地方の司令官に任命した。彼は一カ月以内に農民の反乱を鎮圧すること、およびその進捗状況を毎週文書で報告するように命じられた。トゥハチェフスキーはその期限を守ることはできなかったが、要求の達成には全力を尽くした。
六月十二日に、トゥハチェフスキーは次のような命令を出した。
敗北集団や単独行動の盗賊の生き残り……などが森に集まり、平和に暮らしている住民を襲っている。(1)盗賊が隠れている森に毒ガスを撒き、彼らを一掃すること。窒息ガスを森中全体にたちこめさせ、そこに隠れているすべてのものを確実に絶滅させるように綿密な計画を立てること。
(2)小火器監察官は必要数の毒ガス入り気球と、その取り扱いに必要な専門技術者をただちに現場に派遣すること。
体制から見て、どういう種類の農民が“本物の階級の敵”とみなされたのかは想像しにくい。だが、似たような措置は他のところでもとられ、政治局はそれを承知し、認めていた。」(P.135)
〔殺人指令遂行報告7〕、1921年7月10日、タンボフ県匪賊抑圧政策の人質・公開処刑報告
これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せた。
「タンボフ県匪賊抑圧政策に関する全権五人委員会議長報告 1921年7月10日
クドリュコフスク郡の掃討作戦は、以前匪賊の一味をかくまったオシノフカ村から、6月27日に開始された。わが抑圧部隊にたいする農民の態度は、ある種の不信感をもって特徴づけられる。農民は森の匪賊どもを通報することなく、質問にたいしては何も知らないと答えた。われわれは40人の人質をとらえ、村に戒厳令をしき、村の住民に匪賊と隠匿武器を引き渡すために2時間の猶予を与えた。村人は集まって相談し、いかになすべきか躊躇していたが、しかし積極的に追い出し作戦に協力するとは決しなかった。
きっと彼らは、人質を処刑するというわれわれのおどしをまじめにとらなかったのだろう。猶予時間が過ぎたので、われわれは21人の人質を村人の集まる前で処刑した。全権委員、共産主義者の目の前で、慣例にしたがって形式にのっとり、一人ひとりを銃殺によって公開処刑にしたことは、農民に衝撃的な印象を与えた……
カレーフカ村に関しては、その地理的情況から、匪賊の一味にとって恵まれた場所になっていた……委員会はこれを地図から抹消することに決定した。全住民は赤軍勤務者の家族を除き、移動させられ、その財産は没収された。赤軍勤務者の家族はクルドウーク村に移され、匪賊一味の家族の、没収された家に住まわせた。いくつかの価値ある品−窓枠、ガラス製品、木製品等々−を回収したあと、村の家々に火が付けられた……
7月3日、われわれはボゴスロフカ村の作戦を開始した。ここの農民ほど頑固で、組織化された者は、前に出会ったことがまずない。これらの農民と言い争っていると、若い者も年取った者も、異口同音に驚いたふうでこう言うのだった。
「わしらのところに匪賊だって? まさか、そんなことを考えなさるなんて、とんでもない! 一度くらい近くを通るのを見たことはあったかもしれねえが、匪賊だなんて思ってもみませんでした。わたしどもはだれにも悪いことはせず、静かに暮らしとりますだ。なんにも知りません。」
われわれはオシノフカでも同じ処置をした。人質を58人とった。7月4日にわれわれは第1グループの21人を公開処刑し、翌日には15人処刑した。しかし匪賊ども60家族、約200人を退治することはできない。最終的にわれわれは目的を達し、農民は強制されて匪賊狩りと隠匿武器の探索に出発した……
上記諸村の掃討は7月6日に終了した。作戦は見事成功し、その影響は近くの2郡を越えて響いている。匪賊どもの降伏が相次いでいる。
全権五人委員会議長 ウスコーニン。(注)」(P.128)
(注)、ダニ一ロフ、シヤーニン『タンボフ県における農民反乱1919〜1921年』218頁
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』食糧独裁令の誤りと農民反乱
2、脱走兵・兵役忌避逃亡者十数万人から数十万人を銃殺・殺害・人質
1919年の公式統計だけで、脱走兵1761000人と徴兵逃れ917000人がいた。その合計は2668000人である。他年度の統計は出ていない。1918年5月の食糧独裁令以後に、徴兵制と内戦が始まった。1920年11月に内戦は完全に終結した。その3年間を単純計算すれば、266.8×3年=800.4万人になる。赤軍の正規軍化による最大規模は500万人だった。80%農民国家において、徴兵者の80%も農民兵だった。
レーニン、トロツキーは、赤軍を、(1)内戦地方では白衛軍との戦争に当て、(2)内戦になっていない他地方では、軍事=割当徴発制の穀物・家畜収奪政策と反乱農民鎮圧作戦に使った。1920年夏以降のタンボフ県、西シベリア、ウクライナにおける3大農民反乱や36県での農民との戦争状態にたいする武力鎮圧に、全面的に赤軍を使い、裁判なし射殺や毒ガス使用による反乱農民の殲滅、殺戮作戦に使った。
徴兵後、働き手を奪われた家族も穀物・家畜を、等しく軍事・割当徴発によって収奪され、餓死の危険が迫った。レーニン・トロツキーは、農民出身の兵士にたいして、反乱農民を殺す任務を負わせた。白衛軍とたたかうのならともかく、同じ農民を殺す軍隊は、彼ら80%を占める農民出身兵士にとって、犯罪的存在でしかない。脱走兵と徴兵逃れが大量に出るのは当然だった。トロツキーは、彼らにたいして、犯罪・腰抜けというレッテルを貼りつけた。1921年の公式統計での赤軍兵士銃殺は4337人である。4337×3年=銃殺した兵士13011人になる。
レーニンは、徴兵逃れの農民狩りを指令し、チェーカーと赤軍に大々的に行わせた。彼は、それを「捕獲」と名付けて、捕獲数を報告させていた。その捕獲作戦に抵抗する農民を大量に殺し、また、脱走兵と徴兵逃れの家族を人質に捕えた。彼らが出頭しなければ、見せしめに人質を殺害した。その殺人と人質、人質殺害だけでも、800.4万人の脱走兵・徴兵逃れのうちで、最低でも十数万人になる。
別の算出根拠もある。『飢餓の革命』(P.16)にある1920年8月のチェリャビンスク県だけの報告である。兵役忌避者7340人のうち106人が監獄、194人が矯正収容所、134人が強制労働、1165人が執行猶予、5067人が罰金、18人が銃殺、656人がそのほかの判決。もちろん、捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲という公式統計である。
4項目452人÷7340人=6.15%となる。脱走兵・徴兵逃れ800.4万人×6.15%=約49万人になる。機械的な計算式だが、約49万人を監獄、矯正収容所、強制労働、銃殺にしたことになる。
〔殺人指令文書8〕、1918年8月30日、トロツキーの脱走兵銃殺命令
これは、ヴォルコゴーノフ『トロツキー・上』(朝日新聞社、1994年)の文書である。
「プロレタリアート独裁にたいする確信は、トロツキーをして国内戦時代における軍事テロの主要な推進者のひとりとした。手元に、一九一八年八月三十日にトロツキーが署名した命令がある。
命令第三一号 赤軍および海軍へ 反逆者および裏切り者が労農赤軍にもぐり込み、人民の敵に勝利をもたらそうとしている。その次が、略奪兵と脱走兵である……。昨日、東部戦線第五軍野戦軍法会議の判決により二〇人の脱走兵が銃殺された。真っ先に銃殺に処せられたのは、その任せられた部署を放棄した指揮官やコミッサールであった。ついで負傷兵のふりをした臆病な嘘つきが銃殺された。最後にこれからの戦闘で自分の犯罪的行為を償うことを拒否した脱走兵が何人か銃殺された。労農赤軍の勇敢なる兵士諸君万歳! 略奪兵に破滅を。裏切り者の脱走兵に死を。 軍事人民委員 トロツキー。(注162)」(P.402)
(注162)、マルクス・レーニン主義研究所党中央文書保管所、フォンド325、目録1、資料40、ファイル27
3、コサック身分農民30〜50万人殺戮、強制移住による餓死殺人
コサック身分農民は、440万人いた。彼らは、帝政時代から軍事的義務とひきかえに、土地利用で一般農民より優遇されていた。内戦中は、「白いコサック(白衛軍側)」と「赤いコサック(赤軍側)」とに分かれ、それぞれが流動的に入れ替わった。コサックたちが内戦にほんろうされる有り様は、ショーロホフが『静かなドン』において、農民兵士グリゴリー・メレホフの流転する生涯を通して、リアルに描いている。
9000万農民の土地革命後、レーニンは、コサック優遇措置を廃止し、一般農民と同じにした。コサック騎兵集団は、たしかに「白」と「赤」の両面性を持っていた。それにたいして、レーニンと政治局は、コサックにたいしてだけ土地革命農民なみの権利・権限をも剥奪し、『農民』ファイルの極秘指令「赤色テロル」を先制的に仕掛けた。これは、メドヴェージェフの言うように、極めてひどい誤りであるだけでなく、ロシア革命にたいする犯罪行為だった。レーニンとスヴェルドロフは、未来の反革命因子を排除するための一つの階層まるごとを抹殺する大量予防殺人をしたのである。
レーニンの一方的なコサック抹殺の先制テロルにたいして、コサック騎兵集団が総反発して、対赤軍の反乱を起したのは当然だった。レーニンとコサック反乱鎮圧司令官オルジョニキッゼは、30〜50万人のコサックを戦闘、虐殺、餓死で殺し、あるいは強制収容所送りにした。トロツキーは、反乱したコサック村の家族をシベリアに徒歩で強制移住させ、その穀物没収した上での死の行進手法により、数千人を餓死させた。
1920年10月、生き残ったコサック騎兵3万人は亡命した。政治局は、自分の馬と別れ難いので亡命を断ったコサックを、すべて銃殺するか、強制収容所送りにした。これにより、ソ連各地のコサック領地に住むコサック身分440万農民は離散した。亡命者たちの一部は、有名なコサック合唱団を作り、コサックの歌と踊りを世界に広めた。
スターリンも、レーニンのコサック根絶政策を忠実に継承した。それにより、440万人の70%、308万人が、戦死、処刑、流刑死で抹殺された。これらの詳細を、植村樹・元NHKモスクワ特派員が『ロシアのコサック』(中央公論社、2000年)で書いている。
〔殺人指令文書9〕、1919年1月21日、コサックへの赤色テロル指令
この日付は、『共産主義黒書』のものである。メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』は、2月となっている。メドヴェージェフの文をそのまま引用する。
「一九一九年春までに赤軍も著しく力をつけ、その兵員数は二百万に近づきつつあった。中農の気分が急変し、三百万人にまで増員することが決定されていた赤軍の補充が容易になった。一九一九年秋までに内戦を成功裡に終結させることができるだろうとの確信が生まれた。しかしちょうどこの頃から、赤軍にとっては失敗と敗北続きの時期が始まるのである。一九一九年三月十二日ヴェンシェンスカヤ村を先頭とするドン北部のコサック村で新しい反乱の火の手が上がった。それはすでに反赤軍の反乱であった。
反乱の原因はドン上流地域のコサック村でおこなわれた最も無慈悲な赤色テロルであった。このテロルの直接の実行者は軍後方部隊あるいは前線司令官たちであったが、イニシアチブを取ったのは彼らではなかった。赤軍の側につき、戦闘をつい最近開始したばかりのコサック自身もテロルへの口実を全く与えてはいない。テロルの指令はモスクワから入ってきたのである。それは、ロシア共産党中央委員会組織局指導者にして全ロシア中央執行委員会議長であったヤコフ・スヴェルドローフ署名の同党組織局決定であった。指令は次のようなものであった。
各地の戦線やコサック地区での最近の諸事件、コサック入植地奥地へのわれわれの前進とコサック部隊に囲まれての崩壊によりわれわれは党活動家に対し、上記地区での仕事の性格について指示を与えねばならない。コサックとの内戦の経験にかんがみ、コサック上層部全員に対する最も仮借なき闘争、彼ら全員を根絶やしにする闘争を唯一正しいものであると認めねばならない。
一、裕福なコサックに対して大量テロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにすること。ソヴィエト政権との闘いに直接あるいは間接に、何らかの参加をしたコサック全員に対し仮借なき大量テロルをおこなうこと。中間コサックに対してはソヴィエト政権に反対する新たな行動をとろうとするいかなる試みをも予防するためあらゆる措置を講ずること。
二、穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運び、引き渡させること。これは穀物だけでなく、あらゆる農産物に適用される。
三、よそから来た貧民移住者を援助するあらゆる措置を講じ、移住可能なところへ移住させること。
四、土地関係やその他すべての関係において、他都市から来た人々とコサックとを平等に遇すること。
五、完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること。
六、他都市から来た人々のうち信頼のおける人々にのみ武器を渡すこと。
七、今後完全な秩序が確立されるまでコサック村には武装した部隊を駐留させること。
八、いずれかのコサック入植地へ任命されたコミッサールは最大限に毅然たる態度を示し、一貫して本命令を遂行すること。農業人民委員部は貧民がコサックの土地へ大量に移住できるように実際的措置を早急に準備すること。
ロシア共産党中央委員会。(党中央アルヒーフ、ЦПА,Ф.17, оп.4,д.21, л.216)
二月にドン上流地域のコサック村で実施され始めた恐ろしい、身震いさせるこの指令について私はコメントするつもりはない。これは極めてひどい誤りであるばかりでなく、ロシアと革命に対する犯罪行為であった。政治的あるいは倫理的判断やその結果については言うまでもない。二月のスヴエルドローフ指令が実施されたのはコサックの州なのである。この地域では男性住民はみな武装し、武器の扱いにたけており、大、小の村落で動員を短時間におこない、何十もの歩兵および騎馬連隊を編成することができるのである。この状況で「非コサック化」と大量テロルをおこなえば必然的にコサックの蜂起を招き、南部戦線の安定だけでなく、革命の運命をも脅威にさらすことになるのである。現にドン上流地域で始まった反乱を鎮圧することは出来なかった。ドン上流地域のコサックは連隊と師団を巧みに活用し、対コサックのために投入され、たいていは大急ぎで編成された兵団をことごとく打ち破った。このおかげでデニーキン軍は十分に態勢を整え、一九一九年五月、強力な攻撃を開始することができたのである。六月末までにデニーキン軍はウクライナのほぼ全域と、中央黒土地帯と、ヴオルガ地域のかなりの部分を占領した。六月二十四日、赤軍はハリコフを、六月三十日にはツァーリンを放棄した。」(P.121)
〔殺人指令文書10〕、1920年10月23日、オルジョニキッゼのコサック解体命令
これは、ニコラ・ヴェルトの『共産主義黒書』にある。
もっとも手っ取りばやいコサック解体の方法は、コサックの村を破壊して、すべての生存者を収容所送りにすることだった。ボリシェヴィキ指導者の一人で、当時北カフカス革命委員会の議長だったセルゴ・オルジョニキッゼの文書の中には、一九二〇年十月末から十一月初めにかけて展開された作戦の一つの資料が含まれている。
十月二十三日、セルゴ・オルジョニキッゼは以下のような命令を下した。
「一、カリノフスカヤ村を完全焼却すること。
二、エルモロフスカヤ村、ロマノフスカヤ村、サマシンスカヤ村、およびミハイロフスカヤ村の全住民を立ち退かせ、住民の家と土地は、ソヴィエト権力に常に愛着を示してきた貧農とチェチェン人に分配すること。
三、上記諸村の十八歳から五〇歳までの全男子を列車に乗せ、見張りを付けて、重度の強制労働を行なわすべく、北方へ強制移住させること。
四、女・子ども、老人を退去させること。ただし、もっと北の他の村に居住する許可を与えること。
五、上記諸村の住民の全家畜と全財産を徴発すること。(注1)」
三週間後、オルジョニキッゼあての報告は、以下のように作戦の展開を述べている。
「カリノフスカヤ村−全村焼却。全住民(四二二〇人)は強制移住または退去。
エルモロフスカヤ村−全住民排除(三一二八人)
ロマノフスカヤ村−一六〇〇人強制移住。一六六一人移住待ち。
サマシンスカヤ村−一〇一八人強制移住。一九〇〇人移住待ち。
ミハイロフスカヤ村−六〇〇人強制移住。二二〇〇人移住待ち。
このほか、一五四両の食糧輸送車がグローズヌイに向けて出発しました。強制移住がまだ完了していない村では、まず初めに白軍と緑軍の家族と、最後に反乱参加者の家族が移住させられました。移住させられなかった者の中には、ソヴィエト体制のシンパ、赤軍兵士・役人・コミュニストの家族がいます。強制移住作戦の遅れは、もっぱら車両の不足からきています。作戦のために送られてくる列車は、一日平均たった1編成でした。強制移住作戦を完了するために、さらに三〇六車両の追加が緊急に要請されます。(注2)」
(注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、85/11/131/11
(注2)、ロシア現代史文書保存研究センター、85/11/123/15
これらの「作戦」は、どのように行なわれたのだろうか? 残念ながらこの点については、我々にはいかなる正確な資料もない。わかっているのは、「作戦」は長引き、最終的に移住者はしばしば極北地方ではなく、その後も相次いだように、近くのドネッ炭田の方へ送られたということである。一九二〇年末の列車の状況からして、数量的に把握するのは難しい……それでも、諸方面から見て、一九二〇年のコサック解体の「作戦」は、十年後のクラーク撲滅の大「作戦」の前ぶれであった。連帯責任といい、列車による強制移住のやり方といい、経理の問題といい、移住者を受け入れる場所が準備されていなかったことといい、移住者を強制労働に使うという考えにおいて、このように言えよう。
ドンとクバンのコサック地域は、ボリシェヴィキに反抗したために、多大の犠牲を払わされた。最も信頼できる評価によると、三〇〇万足らずの全人口中、一九一九〜一九二〇年に殺されたり、強制移住させられたりしたものは、三〇万から五〇万の間であった。(P.109〜111)
4、山猫ストライキ労働者の逮捕10000人、即時殺害500人
ペトログラード・ソヴェト議長ジノヴィエフとペトログラード・チェーカーが、1921年2月、全市を赤軍・共産党員軍・クルサントゥイ軍で包囲し、ストライキ工場をロックアウトした上で、10000人のストライキ労働者とボリシェヴィキ党員を逮捕した。そのうち、ストライキ指導者500人を拷問死、銃殺で即座に殺した。これは、V・セルジュとボリシェヴィキ指導者ダンの証言である。残りの9500人にたいする措置のデータはない。チェーカーは、残りの全員も銃殺する方針だったが、ゴーリキーとセルジュが、銃殺だけは止めた。
この直前に、モスクワで全市的山猫ストライキがあり、それも鎮圧された。しかし、モスクワ・チェーカーによる12人銃殺、1000人逮捕という『黒書』データ以外は、現時点で分からない。
モスクワとペトログラードの山猫ストライキ労働者にたいする〔殺人指令文書〕は、あるはずだが、まだ発掘されていない。
ニコラ・ヴェルトは、『黒書』(P.94)で、その理由を次のようにのべている。『ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力だった』。
〔殺人指令文書11〕、1918年5月31日、ジェルジンスキーのストライキ労働者銃殺指令
これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せた。
政治面では一九一八年春の独裁の強化はすべての非ボリシェヴィキ系新聞の最終的発禁、非ボリシェヴィキ系ソヴィエトの解散、反対派の逮捕、多くのストライキの粗暴な抑圧となって表れた。一九一八年の五〜六月には、二〇五の社会主義的反対派の新聞が完全に発行禁止になった。メンシェヴィキや社会革命党が多数派だったカルーガ、トヴェーリ、ヤロスラーヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラトフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダのソヴィエトは、武力で解散させられた。弾圧はどこでもほとんど同じやり方で行なわれた。反対派が選挙で勝って、新しいソヴィエトがつくられると、その数日後に土地のボリシェヴィキは軍隊の応援を頼むが、それはたいていチェーカーの分遣隊だった。ついで戒厳令を出して、反対派を逮捕したのである。(注1)」
反対派が勝利した町に自分の信頼する協力者を送ったジェルジンスキーは、一九一八年五月三十一目、トヴェーリへ派遣した全権のエイドゥークに、自分の命令を実行するにあたってなにより有効な武力行使について、次のように単純率直に書いている。
「メンシェヴィキやエスエルやその他反革命の畜生どもに影響された労働者たちは、ストライキを行い、『社会主義』めいた政府の創設に賛成を表明した。君はすべての市にポスターを張って、ソヴィエト権力に対して陰謀を企てるあらゆる匪賊、盗賊、投機家、反革命家はチェーカーによってただちに銃殺されると声明すべきだ。市のブルジョワに対しては特別の支援を頼むがいい。彼らを調べ上げよ。もし彼らが動きだしたら、このリストが役立つだろう。我々の地方チェーカーがどんな構成員からなっているか、わたしに聞いてくれ。人を黙らせるには一発ぶっぱなすのがいちばん有効だとよく知っている連中を使うことだ。わたしは経験から、少数の断固とした人間で情況を変えることができるということを学んだ。(注2)」
反対派の掌握したソヴィエトを解散し、一九一八年六月十四日にソヴィエトの全露執行委員会からメンシェヴィキと社会革命党員を排除したことで、多くの工業都市において抗議、デモ、ストライキが起こった。一方、そこでの食料事情はますます悪化していった。ペトログラード近くのコルピノにおいて、あるチェーカーの分遣隊長は労働者の食料要求デモに発砲を命じたが、彼らの配給食糧は一カ月小麦粉二フント〔〇・八キロ〕まで落ち込んでいた! その結果、十人の死者がでた。同日、エカチェリンブルク近郊のべレゾフスキー工場では赤衛軍によって十五人が殺されたが、彼らは「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんよい家々を占拠した上に、土地のブルジョワジーから取り立てた一五〇ルーブルを横領したことに抗議の集会を開いたからだった。翌日には地区当局はこの工業都市に戒厳令を宣言し、モスクワの判断も仰ぐことなしに土地のチェーカーによって十四人が即座に銃殺された!(注3)
一九一八年の五月後半と六月にはソルモヴォ、ヤロスラーヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市のニジニ‐タギール、ベロレツク、ズラトウスト、エカチェリンブルクなどで多くの労働者のデモが流血の中で鎮圧された。運動の抑圧において土地のチェーカーの役割がますます強くなったことは「コミッサロクラシー〔委員官僚制〕」に奉仕する「新オフラナ(帝政時代の政治警察)」という言葉やスローガンが労働者間で使われる頻度が多くなったことでも証明される。(P.76)
(注1)、V.Brovkin,op.cit,p220-225(ブロフキン『十月後のメンシェヴィキ』)
(注2)、RTsKhIDNI(ロシア現代史文書保存研究センター)、17/6/384/97-98
(注3)、Novaia Jizn,1er juin 1918,p4(『新生活1918年6月1日』)
〔殺人指令文書12〕、1920年1月29日、レーニンの第5軍軍事革命委員会議長スミルノフへの電報
レーニンや共産党最高指導部は、ストライキにたいする見せしめの弾圧を呼び掛けた。ウラルの労働運動が高まっていた。それが不安になったレーニンは、スミルノフへの電報を送った。
「Pの報告によれば、鉄道労働者が大規模なサボタージュをしているという…伝え聞くところでは、イジェフスクの労働者も関係しているとのことだ。わたしは君がそれを放置し、サボタージュを大衆処刑で処置しないことに驚いている」。『黒書』(P.99)
『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
5、クロンシュタット水兵・労働者・住民を殺戮、銃殺、収容所送りで殲滅
クロンシュタット・ソヴェトは、1905年革命、1917年二月革命、10月レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターにおいて、もっとも先進的役割を果した。トロツキーが称賛したように「革命の栄光拠点」だった。そこが、なぜボリシェヴィキ一党独裁政権にたいして、自由で平等な新選挙要求を突きつけ、平和的要請に決起したのか。15項目綱領の要求内容と鎮圧経過については、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』と、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』、および私(宮地)の『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』が分析している。
コトリン島住民45000人中、水兵10000人と労働者4000人のほとんどが殺された。判明しているのは、『共産主義黒書』にある「四〜六月の間に二一〇三名が死刑の判決を受け、六四五九名が投獄された」ことである。8000人が氷結したフィンランド湾を渡って、フィンランドに逃げた。レーニンは、恩赦すると騙して、彼らを帰国させた。そして、全員を逮捕し、強制収容所送りにした。しかし、彼らは、すでに出来ていた北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送られ、その大多数は手を縛られ、首に石を付けてドビナ河に投ぜられた。
生き残ってソロフキ収容所に送られた者も、収容所内の処刑システムで殺された。内田義雄・元NHK特派員は『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版、2001年、P.55)で次の事実を記している。一九二一年春の「クロンシュタットの反乱」の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。その他コルチャーク将軍指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがいた。連日のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、そのまま沈めて溺死させた。そのなかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで岸に向かってくる者は、機関銃で容赦なく、撃たれた。それが何回も繰り返された。
レーニンは、クロンシュタットの平和的要請にたいして、「白衛軍の将軍の役割」と、真っ赤なウソをついた。農民・労働者・兵士の総反乱による一党独裁政権崩壊の恐怖におののいたレーニン・政治局は、それだけでなく、反革命の豚というレッテルを貼りつけ、鎮圧司令官トゥハチェフスキーに皆殺しを指令した。反革命の豚の殺し方が上記(表)のようになるのは必然だった。
〔殺人指令文書13〕、1921年3月5日、トロツキーの最後通牒、雉子のように撃ち殺す
この最後通牒は、クロンシュタット反乱関係の全文献に載っている。ヴォーリン『クロンシュタット1921年』から載せる。
「次の日の三月五日に、トロツキーはクロンシュタットへの最後通牒を発した。それはクロンシュタットヘラジオを通じて伝えられたし、また代表を送ることに関するふたつの電報と同じ号の「イズヴェスチヤ」にも発表された。当然、代表を送る件についての交渉もすぐぶちこわしになった。ここにトロツキーの最後通牒の全文がある。
労農政府は、クロンシュタットおよび反逆している戦艦に対して、ただちにソヴィエト共和国の権力に服従すべき命令を出した。それに従って私は、社会主義の祖国に対して反旗をひるがえすものすべてに、即刻、武器を放棄するよう命ずる。強情に抵抗しつづける者は武装を解除されて、ソヴィエト当局へひきわたされるであろう。逮捕された執行委員とその政府代表をただちに釈放せよ。無条件に降服するものだけが、ソヴィエト共和国の慈悲にあずかり得るであろう。
同時に私は武力をもって暴動を鎮圧し、反徒を平定すべき命令を発する。平和な民衆がうけるかもしれない損害の全責任は、反革命反徒にあるであろう。これが最後の警告である。
共和国革命軍事委員会議長 トロツキー
最高司令官 カーメネフ」
この最後通牒につづいて『お前たちを雉子のように撃ち殺すつもりだ』というトロツキーの指令が出された。」(P.91)
『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応
6、チェコ軍団帰国途中の武装解除と銃殺命令、軍団の抵抗と反乱
レーニンは、1917年11月7日、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターに成功した。政府は、1918年3月3日、ドイツとブレスト講和条約を結び、ロシアだけが、第一次世界大戦から単独離脱した。ロシア国内にチェコ人の捕虜・投降兵士からなるチェコ軍団が4.5万人残っていた。政府は、彼らを武装させたままで、シベリア鉄道でウラジオストックから帰国させることにした。その帰国途中で、1918年5月25日、レーニン・トロツキーは、突如方針転換をした。彼らは、白衛軍ではない。武装したチェコ軍団4.5万人の反乱は、白衛軍との内戦勃発・拡大の引金になった。ただ、その26日前の4月29日、レーニンらは、全ロシア中央執行委員会において、自らが80%・9000万農民にたいする内戦を仕掛ける戦争開始宣言をしていた。これ以後、内戦は、(1)レーニンが仕掛けた農民との内戦、(2)チェコ軍団、白衛軍との内戦という2種類の内戦期間に突入した。
ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、この命令文書を載せた。この詳細な経過は、彼が分析している。
〔殺人指令文書14〕、1918年5月25日、トロツキーによる武装解除・銃殺命令
残念なことに、こうした状況の中でソヴィエト政権は、正当化できないほど残酷な行動をとり始めた。モスクワから軍団の移動路線へ、次のような恐るべき電報が送られた。
「軍事人民委員命令
モスクワより五月二十五日二十三時。サマーラ、ペンザからオムスクまでの鉄道沿線のすべてのソヴィエトヘ。
全ソヴィエトは責任をもって速やかにチェコスロヴァキア人の武装解除をおこなうこと。鉄道路線内で武装が発覚したチェコスロヴアキア人はその場で銃殺すること。一人でも武装している者がいた場合、その輸送列車編隊は下車させ、軍事捕虜ラーゲリへ収容すること。地方軍事コミッサールは本命令を速やかに遂行する義務を負う。いかなる遅滞も恥ずべき裏切り行為と同義であり、違反した者は厳罰に処する。武器を引渡しソヴィエト政権に従う誠実なチェコスロヴァキア人に対しては、兄弟として過し、あらゆる援助を与えること。本命令を全チェコスロヴアキア輸送列車編隊に読み聞かせ、チェコスロヴアキア人と接する全鉄道員に通知すること。……
軍事人民委員L・トロツキー。(注108)」
(注108)、B・マクサコフ、A・トルクノフ『シベリアにおける内戦の記録』、国立出版所、1926年、57頁
この命令の内容は、単に残酷であっただけではない。遂行不可能なものでもあった。ソヴィエト政権には、チェコスロヴアキア人を武装解除する力はまったくなかったからである。軍団の兵士たちが自発的に武器を手渡すと考えることなど、ばかげたことであった。異国にいて、そこで起こっている事件についてあまりよく判らず、様々な「徒党部隊」からの攻撃を懸念していた兵士たちは、武器を、安全を確保しつつ帰国を実現するための保証と見なしていたからである。軍団の一般兵士の気分は一変し、五月二十六日から軍団部隊とソヴィエト部隊との個々の衝突は、反乱へと拡大していった。チェコスロヴアキア軍はほとんど抵抗にあわず、シベリアとウラルの主要都市とヴォルガ地方のかなりの部分を占拠した。この地域全部のソヴィエト権力は打倒され、軍事コミッサールとボリシェヴィキ党の指導者は銃殺された。(P.106)
7、聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害と教会財産没収
これは、岩上安身『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年)に載った。この経過、内容とデータは、『聖職者』ファイルで分析した。聖職者・信徒らは、精神的にはともかく、具体的な反革命運動に加担していなかった。この大量殺人指令と殺戮は、コサック農民への赤色テロルに次いで、レーニンが、第2回目の未来の反革命因子を排除するための一つの階層まるごとを抹殺する大量予防殺人をしたものだった。
〔殺人指令文書15〕、レーニンの教会財産没収、聖職者銃殺指令極秘手紙
1922年3月19日付手紙全文 1990年4月「ソ連共産党中央委員会会報」で公表
「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員政治局員のためのX・M・モロトフヘの手紙
一九二二年三月十九日
極秘 写しは絶対にとらないこと。政治局員各自(カリーニンも同様)意見は直接、文書に書きこむこと。 レーニン
シューヤ(訳者注=イワノヴォ州にある市)で起こった事件は、すでに政治局の審議に附されてはいますが、事件が全国的な闘争計画に沿ったものである以上、断固たる処置をとる必要があると思われます。三月二十日の政治局会議に自ら出席できるかどうかわかりませんので、手紙で自分の考えを述べます。シューヤの事件は、最近ロスト通信が各新聞社宛に掲載を目的とせずに流した、例のペトログラードにおいて、極右が教会財宝没収令に対し抵抗の構えをみせているとするニュースと関連づけてとらえるべきです。
今度の件と、新聞が書いている宗教界の教会財産没収令に対する態度や我々が知っているチーホン総主教の非合法なアピールを比べると、極右聖職者達がこの時期を狙って我々に戦いを挑むことが、きわめてよく練られた計画であることが判明します。極右聖職者の主要メンバーで構成する秘密会議で、この計画が練られ、決定されたに違いありません。シューヤの事件は、この全体計画の単なる一片にすぎません。
思うに、我々に対し、勝ち目のない徹底抗戦で向かってくるとは、敵の大きな戦略的誤りです。むしろ我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人を喰い、道路には数千でなければ数百もの屍体がころがっているこの時こそ、教会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならない)のです。今こそ、農民のほとんどは我々に味方するか、そうでないとしても、ソヴィエトの法令に力ずくの抵抗を試みるひと握りの極右聖職者と反動小市民を支持できる状況にはないでしょう。
我々はいかなることがあっても、教会財産を断固、早急に没収しなければなりません。それによって数億ルーブル金貨の資金が確保できるのです(修道院や大寺院の莫大な財産を思い出して下さい)。この資金がなくては経済建設をはじめとする、いかなる国家的事業も、またジェノアで自己の見解を貫き通すこともありえません。ルーブル金貨数億(もしくは数十億)の資金を手に入れることは是が非でも必要なのです。それが首尾よくできるのは今だけです。状況を見てみると、後からでは成功しません。絶望的な飢餓のときを除いては、農民大衆が、たとえ教会財産没収闘争で当方の完全勝利が自明だとしても、我々に好意的態度を示したり、せめて中立でいてくれるという保証はないのです。
ある賢明な作家が国家的問題に関して、『一定の政治目的を達成するために残酷な手段を必要とする場合は、思いきった方法で、きわめて短時間に行なわなければならない。残酷な手段を長期にわたって用いれば大衆が耐えられないだろう』と述べていますが、まったくそのとおりです。さらにこの考えは、反動宗教界に残酷な手段でのぞむとなると、ロシアの国際的立場が、とりわけジェノア以後、政治的に不合理かつ危険の多いものとなるだろうということで裏づけされます。今、反動宗教界に対する我々の勝利は完全に約束されています。また国外のエスエルやミリュコフ派など主要な敵も、我々が今この時期、飢餓に際して迅速かつ容赦なく反動宗教界を弾圧するなら、もはや我々に抗することはできないでしょう。
それゆえ、私は、今こそ極右聖職者達に徹底的かつ容赦ない戦闘を挑み、彼らが今後、数十年にわたって忘れることのできないような残忍な手段で抵抗を鎮圧すべきだという、疑う余地のない結論に達しました。この計画を実施に移すための作戦を私は次のように考えています。
いかなる措置を採るときも公的には同志カリーニンのみが登場し、同志トロツキーは印刷物にしろ公衆の前にしろいかなる形であれ姿を現わしてはならない。政治局の名ですでに出された没収の一時停止に関する電報は変更しない。この電報は、敵にあたかもわれわれが逡巡しており、威嚇に成功したと思わせるので好都合である。
シューヤには全ロシア中央執行委員会、もしくは他の中央政府機関から最も精力的で、分別のある敏腕な者を一人(数人より一人がよい)、政治局員の一人が口頭で指示を与えて派遣する。そして、この指示は、それによって彼がシューヤで、現地の聖職者、小市民、ブルジョアを全ロシア中央執行委員会の教会財産没収令に反対する実力抵抗に直接または間接にかかわったかどで、できるだけ多く、少なくとも数十人以上逮捕するものとする。
任務終了後、彼はただちにモスクワに来て、自ら、政治局全体会議か、それを代表する二名の政治局員に報告を行なう。この報告にもとづいて政治局は司法当局に細かい、これも口頭の指令を出す。それは飢餓救援に抵抗するシューヤの暴徒に対する裁判が迅速に行なわれ、シューヤと、できればそれ以外にもモスクワや他の教会都市の最も影響力ある危険な極右を非常に多数、必ず銃殺刑にして終わるようにするためである。
チーホン総主教自身には、明らかに、この奴隷所有者どもの暴動の頭目ではあるが、手を出さないほうが、賢明だと思う。彼に関してはGPU(ゲーペーウー)に秘密指令を出して、この時の対外関係をすべて、できるだけ正確かつ詳細に洗い出させること。そして、それをジェルジンスキーとウンシュリフト自らが毎週、政治局に報告するようにすること。
党大会において、この問題にかかわるすべてないしは、ほとんどすべての代議員とGPU、司法人民委員部の主要職員からなる秘密会議を設けること。富豪の大寺院、修道院、教会の財宝没収がどんなことがあっても容赦なく、徹底的かつ最短期間で行なわれるべしとする大会秘密決議はこの会議で行なう。これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョアは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない。
この措置が迅速かつ滞りなく実行されることを監視するため、当の大会すなわち秘密会議で特別委員会を指名し、そこに同志トロツキーとカリーニンを必ず加えること、そしてこの委員会の存在は絶対公表せず、委員会指導下の作戦はすべて委員会の名によらず、全ソヴィエトと全党の名において行なわれること。富豪の大寺院、修道院、教会でこの措置を実行するときは特に責任感の強い優秀な職員を配すること。
一九二二年三月十九日 レーニン
同志モロトフヘの依頼、この手紙を各政治局員から今日中に回覧し(写しはとらず)、読了後、手紙の主旨に同意か反対かを書き込んで、ただちに秘書に戻すよう、とりはからって下さい。
一九二二年三月十九日 レーニン」(P.289)
8、「反ソヴェト」知識人の国外追放・強制収容所送り数万人
これも『知識人』ファイルで書いた。これは、レーニン第1回発作による「12×7」の計算ができなかった直後からの、レーニン直接指令によるボリシェヴィキとその同盟者以外の知識人解体措置だった。それまでのロシア文化の破壊行為だった。これは、レーニンの第3回目の「大量予防殺人=肉体的排除」である。この大量予防殺人を細かく、個々の知識人名までリストアップし、肉体的排除遂行をしている最中の1922年12月に第2回発作が起き、彼の政治活動が終った。
〔追放指令文書16〕、1922年5月19日、知識人追放指令の秘密手紙
ソルジェニーツィンは、『収容所群島』第1部・第10章「法は成熟する」(新潮社)の冒頭で、次のレーニン全集に掲載されている「知識人追放に関する準備指令の手紙」を載せた。よって、これは「レーニン秘密資料」ではない。その個所をそのまま引用する。
「銃殺に代えて国外追放が大量かつ緊急に試みられた。刑法典が編集されていた、あの熱狂の時代、ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)は閃(ひらめ)いた思いつきを、ただちに五月十九日付の手紙の中に結実させた。
『同志ジェルジンスキー! 反革命を援助している作家や教授たちを国外へ追放する問題について。このことはもっと綿密に準備する必要がある。準備がなければ、われわれは馬鹿をみることになるだろう……これらの《軍事スパイたち》をつかまえ、絶えず一貫してつかまえ、国外へ追放するように処置しなければならない。これのコピーをとらずに、政治局員にこっそり見せてくださるようにお願いする』(「レーニン全集」第45巻、P.721)
この場合、その秘密性は手段の重要さと教訓的なことから当然である。ソヴィエト・ロシアにおける切り裂いたようにはっきりした階級勢力の布陣は、旧ロシアのブルジョア・インテリゲンチャの輪郭の判然としない、ぼんやりした汚点によってはじめて破られてしまった。これらインテリゲンチャはイデオロギーの面で本当の軍事スパイの役割を演じていたのであり――彼らに対する最善の処置はその腐った思想の滓(かす)を削りとり、彼らを国外へ放り出すこと以外にはなかった。
同志レーニンその人はもう病床にあったが、政治局員たちが明らかに賛同し、同志ジェルジンスキーが八方手を尽して逮捕を行い、一九二二年末に約三百人の人道主義者が伝馬船に?……いいや、汽船に詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送りだされた。」(P.360)
〔追放指令文書17〕、1922年6月、レーニンの「反ソヴィエト」知識人追放指令
ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、次の「レーニン秘密資料」を公開した。これは、L・コーガン「精神的エリートの追放についての新情報」『哲学の諸問題』(8号、1993年)で最初に掲載された。
「一九二二年レーニンは多数の人文系学者をソヴィエト・ロシアから追放することを承認した。大勢の傑出した哲学者の一団がペトログラードやモスクワから、汽船(「哲学船」)で送り出された。ペトログラードからは経済学者や歴史家が西側諸国へ向かった。法律家、文学者、協同組合活動家、農学者、医者、財政学者も追放された。これはきわめて大規模な措置であり、モスクワやペトログラードだけでなく、キエフ、カザン、カルーガ、ノヴゴロド、オデッサ、トヴェーリ、ハリコフ、ヤルタ、サラトフ、ゴメリにまで及んだ。ゲー・ペー・ウーの文書ではこの措置は「作戦」というコード名で呼ばれ、その実施指導のために、L・カーメネフを議長とするロシア共産党中央委員会政治局特別委員会が設置された。委員会にはその他ジェルジンスキーの代理ヨシフ・ウンシリフトとゲー・ペー・ウー秘密工作部部長I・レシェトフが加わった。同委員会メンバーとゲー・ペー・ウーの地方機関に対するF・ジェルジンスキーの指令メモの一つにはこう書かれていた。
ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘。
積極的な反ソヴィエト・インテリゲンツィア(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する。入念にリストを作成し、それらをチェックしわれわれの文芸学者たちに批評させる。文献は全部彼らに割り当てる。われわれに敵対的な協同組合活動家のリストを作成する。「思想」と「家族共同体」の論集参加者のチェックをする。草々。
F・ジェルジンスキー」(P.134)
この指令の月日をメドヴェージェフは、著書で書いていない。しかし、期日を推測させる文言がある。それは。「(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する」である。この文言は、5月26日第1回目発作以後の追放の督促・継続指令である。
〔追放指令文書18〕、1922年9月5日、ジェルジンスキーの知識人追放督促指令
これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せている。
一九二二年九月五日、ジェルジンスキーは自分の補佐のウンシュリヒトに次のように書いた。
「同志ウンシュリヒト! インテリゲンツィア追い出しの件に関しては、事態はまだ手工業的だ! アグラーノフが出立してから、もはやこの分野で有能な人間はいない。ザライスキーは少し若すぎる。早く仕事するためには、同志メンジンスキーがこの件を担当しなければならないだろうと思われる……ちゃんと計画をたて、それを定期的に訂正・補足することが不可欠だ。すべてのインテリゲンツィアをグループとサブ・グループに分類すべきだ。
一、作家。
二、ジャーナリストと政治家。
三、経済学者(これはサブ・グループ分けが必要だ)。(a)財政専門家、(b)エネルギーの専門家、(C)運輸の専門家、(d)小売業、(2)協同組合の専門家、等
四、技術専門家(これもサブ・グループ分けが必要だ)。(a)技師、(b)農学者、(C)医者、その他
五、大学教授、およびその助手等々。
これらの紳士方に関する情報はすべて我々の部局の中『インテリゲンツィア』部によって総合されなければならない。知識人一人ひとりの書類が我々のところにあるべきだ……我々の部の目的は単に個人を追放したり逮捕することでなく、専門家に対する全般的政策を念入りに作ることだということをいつも心に止めておかねばならない。すなわち、彼らを身近に監視し、対立させ、彼らを単に言葉のうえだけでなく、行動においてソヴィエト権力を支持するよう仕向けるのである。(注1)」(P.139)
(注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、76/3/303
〔追放指令文書19〕、1922年9月5日の数日後、レーニンの知識人掃討・浄化指令メモ
これも、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』にある。
数日後レーニンはスターリンにあてて長いメモを書き、その中でマニアックな詳しさで、すべての社会主義者、知識人、自由主義者その他の「紳士方」をロシアから「決定的に掃討」することを再び論じた。
「メンシェヴィキ、人民主義的社会主義者、カデット等の追放の問題について。わたしが出立する前に始まっていたこのやり方がまだ必ずしも完了していないので、いくつかの問題を提起したいと思う。すべての人民主義的社会主義者を根こそぎにするよう決定したか? ぺシェホーノフ、ミャコーチン、ゴルンフェリトその他はどうだ? わたしは彼らが皆追放されるべきだと思う。彼らはエスエルより危険だ。なぜならもっとずる賢いからだ。
それからボトレーソフ、イズゴーエフ、そして『エコノミスト』の連中(オーゼロフその他多くの輩)も。メンシェヴィキのローザノフ(狡猾な医者)、ヴィグドルチク(〔別名〕ミクロまたはその類いの名)、リユボーフィ・ニコラエヴナ・ラドチェンコと、その娘(二人はボリシェヴィズムの最も危険な敵だと言われている)、N・A・ロシコープ(彼は追放されるべきだ。度し難い。)……マンツェフ=メッシング委員会がリストを作成し、これら何百人かの紳士どもは容赦なく追放されるべきだろう。
我々はロシアを徹底的に浄化しよう……『作家の家』の全作家と、(ペトログラードの)『思想の家』の思想家も。ハリコフはくまなく捜査しなければならない。あそこは外国だから、そこでなにが起こっているのか、我々はなにも知らない。市はエスエルの裁判が終わる前に、素早く徹底的に浄化されなければならない。ベトログラードの著述家と作家を処理してくれたまえ(彼らのアドレスは『新ロシア思想』一九二二年第四号三七ページと個人編集者リストの二九ページに載っている)。これは超重要だ!(注1)」(P.139)
(注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、2/2/1338
『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』
9、カデット、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエルの絶滅
1917年7月時点で、エスエル党員100万人、メンシェヴィキ党員20万人がいた。(表)において、この粛清人数を(カッコ)つきにしたのは、他の階級、階層の殺人数と重複しており、独自の数値を推計できないからである。ただ、スターリンの粛清により、これら百数十万人の全党員が、亡命した者以外、一人残らず殺された。
〔殺人指令文書20〕、1917年11月8日、カデット機関紙「レーチ」閉鎖措置
1917年11月28日、カデット党員逮捕の布告
革命政府(人民委員会議)が樹立された翌日、軍事革命委員会は、レーニンの強い主張を受け入れて、カデット機関紙「レーチ」、その他のブルジョア新聞を反革命活動の理由で閉鎖した。さらにその翌日、「出版にかんする布告」を発し、敵対的な新聞の封鎖を命じた。
布告発令前の全ロシア中央執行委員会では、左派エスエルだけでなく、ボリシェヴィキの一部も、それに猛反対した。武装蜂起による死者は、双方合わせて10数人だけだった。レーニンも「テロルなど問題にならなかった」と認めていた。たしかに、臨時政府内のカデット閣僚5人が、コルニーロフの反乱を契機に辞任したのは事実である。しかし、ソ連崩壊後の資料によっても、レーニンのレッテル「コルニーロフの反乱にカデット党が加担したから」という事実はない。それは、レーニンのウソである。それは、レーニンによる権力奪取と同時の先制攻撃としてのブルジョア階級からの言論出版の権利剥奪政策だった。すべての他党派、知識人が、それを言論・出版の自由への弾圧として、強烈に反対、批判した。この問題については、大藪龍介が、詳しい分析をしている。
大藪龍介『国家と民主主義』カデット機関紙「レーチ」、他新聞閉鎖措置の誤り
レーニンは、カデットを「ブルジョア自由主義」として、法律の保護外とした。反革命行為がなくても、ブルジョア階級とブルジョア政党のあらゆる人権剥奪を当然とした。その全文をスタインベルグが『左翼社会主義革命党』に載せている。
「我々左翼社会革命党は、その布告の中に、一般情勢によっては正当化されえない政治的ヒステリー症状の現れを見てとった。略式の大量逮捕令は、革命の日常的な煽動と混乱の中では、特に罪を犯さずともカデットであるという単にそれだけの理由で、国中の誰もがカデット党員を迫害し逮捕し危害を加えることができる、ということを意味していた。次に、この命令の全文を掲げよう。
革命に対する内乱の指導者たちの逮捕に関する布告
カデット党の執行機関のメンバーたちは、人民の敵として逮捕され、革命法廷で裁判に付されることになる。カデット党が革命に敵対する内乱と繋りを有していることに鑑み、彼らを特別監視の下に置くべき義務を、地方の各ソヴェトは負う。この布告は、即刻実施に移されるものとする。ペトログラード、一九一七年一一月二八日、午後一〇時三〇分。この布告は、レーニン、トロツキー、アヴィロフ、メンジンスキー、ジュガシヴィリ・スターリン、ドゥイベンコその他により署名された。」(P.54)
〔殺人指令文書21〕、1918年6月、チェキスト党集会での法令可決とレーニン指示
これは、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上』にある。これは、9000万農民と全他党派の強烈な反対を押切って、レーニンが1918年5月食糧独裁令による穀物・家畜収奪路線に転換した時期だった。「農村に内戦の火をつける」というレーニン、スヴェルドロフ、トロツキーらの貧農委員会方式にたいして、ロシア全土で農民反乱が勃発し始めた。それがいかに誤った政策だったかの詳細は、『農民反乱』ファイルで書いた。
「チェーカーのテロルは党の決議と密接に連動していた。一九一八年六月、赤色テロル命令が採択される三カ月前、チェキストたちの党集会でいくつかの法令が可決された。『君主主義者−カデット、右派エスエル、メンシェヴィキの著名で積極的な指導者たちの活躍を阻止すること。将軍、将校たちの名簿をつくり、絶えず監視すること。赤軍、その指揮官……から目を離さないこと。目立った、明らかに有罪の反革命派、山師、略奪者、収賄者を銃殺すること』などである。たとえば、バスマチ運動指導者は決して見逃すことなく、ただちに革命裁判にかけ、死刑の適用を考えることと中央アジア局に命令している。
チェーカーの問題についてレーニンの肩入れは、『監禁、監視などは徹底的に行なうこと(特設仕切り壁、木の仕切り壁、戸棚、着替えのための仕切り壁にまで)、不意の捜査、犯罪捜査のあらゆる技術を駆使した、二重、三重のチェック・システムなど』、ごく基本的な技術面にまで及んでいる。こうした言葉は、政府の最高責任者というより保安機関の専門家のものである。彼はジェルジンスキーに、『逮捕するなら夜が好都合』とまで書いている。」(P.381)
〔殺人・追放指令文書22〕、1918年8月9日、レーニンによる銃殺と追放指令
ヴォルコゴーノフ『トロツキー・上』のデータである。
「「ニージニ=ノヴゴロド・ソヴィエトヘ ニージニでは明らかに白衛派が反乱を準備中である。全力をあげて、独裁権を持つ三人委員会をつくり、ただちに大衆的テロを加え、兵士を泥酔させる数百人もの売春婦や、旧帝政将官などを銃殺するか、町から追い出すべきである……。一刻も猶予してはならない……。全力をあげて行動し、大がかりな家宅捜索をせよ。武器保有の罪は銃殺にすべし。メンシェヴィキや動揺分子はどしどし追放せよ……。 一八年八月九日 あなたのレーニン」
恐ろしい言葉である。民主主義、ヒューマニズム、正義を守るとした革命前の約束はどこへいってしまったのか? こうした電報は沢山ある。」(P.516)
〔殺人指令文書23〕、1918年9月3日、内務人民委員ペトロフスキーの電報命令
これは、スタインベルグ『左翼社会主義革命党』にある。
「九月三日の朝、内務人民委員ペトロフスキーは、次のような電報による命令をすべての地方ソヴェトに発した――。『感傷と逡巡には直ちに終止符が打たれねばならぬ。地方ソヴェトに判明している限りの反革命的社会革命党員は即刻逮捕すること。資本家と将校団から多数の人質を確保せよ。白衛集団に於いて僅かな抵抗もしくは動きが見受けられた際には略式大量銃殺刑で直ちに鎮圧せよ。地方執行委員会は率先して事に当るべし……大衆的テロルの発動に際しては躊躇、懐疑は無用である』。政府の最高機関がこのような言葉で語っているとすれば、その執行機関、その地方機関の行動は推して知るべしであろう。そして事実、中央執行委員会の布告が未だ警告にとどまっているのに、地方では既に復讐が開始されつつあったのである。」(P.133)
〔殺人指令文書24〕、1921年2月28日、ジェルジンスキーのメンシェヴィキ、エスエル逮捕命令。21年4月、レーニンのメンシェヴィキ、エスエル逮捕・銃殺命令
これは、ニコラ・ヴェルトが、『共産主義黒書』に載せた。
すでに一九二一年二月二十八日に、ジェルジンスキーはすべての地方チェーカーに以下のように命じていた。
「(一)、すべての無政府主義的、メンシェヴィキ的、エスエル的インテリゲンツィア、とりわけ農業と食糧調達部門の人民委員部で働いている役人をただちに逮捕すること。(二)、この活動開始後、工場で働いていて、ストライキやデモを呼び掛ける可能性のあるすべてのメンシェヴィキ、エスエルおよびアナキストを逮捕すること。(注4)」(P.124)
(注4)、V.Brovkin,op.cit,p400(ブロフキン『十月後のメンシェヴィキ』)
一九二一年三月からのネップの導入は、抑圧政策の緩和どころか、穏健な社会主義の活動家の一層の抑圧を招いた。この弾圧は彼らが経済的「新政策」に反対する危険からではなく、むしろ長いこと彼らがこの政策を唱えてきて、その分析の正しさと洞察力を示したからであった。「自称であれ、僧称であれ、メンシェヴィキとエスエルの唯一の居場所は――とレーニンは一九二一年四月に書いている――それは牢獄である。」
数カ月後になっても社会主義者がまだあまりにも「活動的」なのを見たレーニンは、「もしメンシェヴィキとエスエルが、まだちらっとでも顔を見せるようだったら、容赦なく彼らを銃殺してしまえ!」と書いた。一九二一年の三月から六月の問に二〇〇〇人以上の穏健な社会主義の活動家やシンパが逮捕された。メンシェヴィキ党の中央委員会の全委員が投獄された。シベリア流刑で脅迫された彼らは、一九二二年一月にハンストを始めた。ダンとエコラエフスキーを含む十二人の指導者が国外追放になり、一九二二年二月ベルリンに到着した。(P.124)
〔殺人指令文書25〕、1921年6月、社会革命党とメンシェヴィキ組織を壊滅させる国家的作戦
ヴォルコゴーノフが『七人の首領』(朝日新聞社、1997年)で、ロシア中央文書保管所から発掘した文書を載せた。
「同盟者として十分可能性のあったメンシェヴィキと社会革命党(エスエル)は、たちまちのうちに、容赦なく一掃された。それも政治的にだけでなく、肉体的にも抹殺された。
昨日の友、同盟者、ほぼ同じ信念の持ち主だった人たちが、僻地へ追いやられたり、強制収容所(ラーゲリ)に放り込まれたり、刑務所に閉じ込められたり、国外に追放されたしりした。レーニンは、こうした迫害や弾圧で中心的な役割を果たした。彼の文書やメモ、決裁、報告書は、ひとの目的だけを追い求めている。すなわち、ボリシェヴィキと異なった世界観をもつロシアの社会主義者たちを、いかに絶滅するか、ということであった。
一九二一年六月、レーニンの指示にもとづき、ウンシュリフトは政治局にこう報告している。
『全ロシア非常委員会(ヴェー・チェーカー)は、まず第一に、社会革命党・メンシェヴィキの組織を、個々の非合法活動家たちと同様に、組織の指導者もすべて見つけだし、壊滅させるために徹底的な作業を続行するよう提案する。党の指示にもとづき、国家的規模の大々的な作戦を展開しなければならない……』(225)
レーニンは同意した。まもなく政治局は、このウンシュリフトの報告にもとづいて、メンシェヴィキを「僻地」に追放する措置を強化することを決めるとともに、国外追放とすることにも反対しなかった(226)。」(P.155)
(注225)、最新史料研究ロシア中央文書保管所、フォンド二、目録一、資料二四四七二、ファイル一
(注226)、同文書保管所、フォンド二、目録二、資料六四一、ファイル一
〔殺人指令文書26〕、1922年5月15日、17日、レーニンによる銃殺刑の範囲拡大とテロル指令
これは、ソルジェニーツィン『収容所群島1』にあり、15日の指令は『レーニン全集』(第42巻、P.586)に載っている。5月17日手紙は、『レーニン全集』(第33巻、P.371)にある。
「五月十二日、所定のとおり全露中央執行委員会会議が開かれた。だが、法典草案はまだできあがっていなかった。草案は目を通してもらうためゴルキにいるウラジーミル・イリイッチのもとへ提出されたばかりだった。法典の六カ条がその上限に銃殺刑を規定していた。これは満足すべきものではなかった。五月十五日、イリイッチはその草案の余白に、同じく銃殺を必要とする六力条をさらにつけ加えた(その中には、第六九条による宣伝および煽動…特に、政府に対する消極的反抗、兵役および納税の義務の不履行の呼びかけが含まれる)。イリイッチは主要な結論を司法人民委員にこう説明した。
『同志クルスキー! 私の考えでは銃殺刑(国外追放でそれに代える場合もあるが)の適用範囲をメンシェヴィキ、社会革命党員等々のあらゆる種類の活動に対してひろげねばならないと思う。これらの活動と国際ブルジョアジーとを結びつける定式を見つけねばならないと思う』(傍点はレーニン)
銃殺刑適用範囲を拡大する!簡明直截(ちょくせつ)これにすぎるものはない!(国外に追放された者は多かったろうか?) テロとは説得の手段である。このことも明白だろう!
だが、クルスキーはそれでもなお十分には理解することができなかった。彼にはおそらく、この定式をどう作りあげたらいいか、この結びつきをどのようにとらえたらいいかわからなかったにちがいない。そこで翌日、彼は説明を求めるために人民委員会議議長を訪れた。この会談の内容は私たちには知る由もない。しかし五月十七日、レーニンは追いかけるようにしてゴルキから二通目の手紙を送った。
『同志クルスキー! われわれの会談を補うものとして、刑法典の補足条項の草案をお手もとへおくる……原案には多々欠陥があるにもかかわらず、基本的な考え方ははっきりわかっていただけるとおもう。すなわち、テロの本質と正当性、その必要性、その限界を理由づける、原則的な、政治的に正しい(狭い法律上の見地からみて正しいだけでなく)命題を公然とかかげるということがそれである。
法廷はテロを排除してはならない。そういうことを約束するのは自己欺瞞(ぎまん)ないしは欺瞞であろう。これを原則的に、はっきりと、偽りなしに、粉飾なしに基礎づけ、法律化しなければならない。できるだけ広く定式化しなければならない。なぜならば革命的な正義の観念と革命的良心だけがそれを実際により広くあるいはより狭く適用する諸条件を与えるだろうからである。
共産主義者のあいさつをおくる レーニン』
私たちはこの重要文書をあえて注釈しないことにする。この文書に対しては静寂と思索とが似つかわしい。
この文書はまだ病にとりつかれてないレーニンのこの世での最後の指令の一つであり、彼の政治的遺言の重要部分であるという点で特に貴重である。この手紙を書いてから九日目にレーニンは最初の脳卒中に見舞われ、一九二二年の秋に彼はようやくこの病から一時的に回復するのである。クルスキー宛の手紙は二通とも、二階の隅の明るい白大理石の小さな書斎で書かれたらしいが、そこは間もなく彼の臨終の床となった場所であった。」(P.342)
これを(カッコ)つきにしたのは、レーニン・政治局の(1)意図的政策による餓死者数と、(2)天災要因が基本の飢饉死亡者数との区別が、現時点での研究では不明確だからである。飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人は、ほぼ定説になっている。ランメルは、そのうち、(1)意図的政策による餓死者数を250万人としている。
これらには、天災の要因が当然ある。しかし、レーニンは、1918年5月から1921年3月までの2年10カ月間にわたる過酷な食糧独裁令を強行した。とくに1918年11月からの「軍事=割当徴発」制による一方的な穀物・家畜収奪路線は、全農民と国民を餓死寸前に追い込んだ。一方、それは、ソ連全土で、9000万農民の農業経営意欲を喪失させ、農業経営を縮小・崩壊させた。これは、まさに、レーニンのマルクス社会主義青写真に基づく、根本的に誤った市場経済廃絶路線だった。その誤りを主要な原因とし、餓死寸前の状況に、天災が重なって、500万人が飢え死にした。
レーニンが、コサックや「存在しない富農=余剰穀物のある農民」にたいして、穀物をのこらず没収せよ! と指令したように、3大農民反乱地方、36県の農民との戦争状態地方、数百件の反乱地域にたいして、その武力鎮圧・殺戮、毒ガス使用だけでなく、それらの鎮圧後、報復として穀物の完全没収をさせて、意図的に餓死させるという飢餓の殺人政策を採ったことが考えられる。しかし、それは、「レーニン秘密資料」6000点の完全公開と飢饉史の研究が進まないと分からない。
11、総計 最低数十万人を肉体的・政治的殺人
レーニンが殺した自国民数は、これらのデータを単純合計すれば、百数十万人になる。これは、白衛軍との戦争における死者700万人を除く数である。意図的な飢餓殺人を合わせれば、数百万人を殺した。しかし、最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない。「レーニン秘密資料」6000点が全面公開されれば、この推計もさらに正確になる。以上のデータは、現時点における公表資料範囲内での近似値である。
その大量殺人を遂行した社会主義国家暴力装置の中心部隊は、レーニン直属下のチェーカー委員長ジェルジンスキーとチェキスト28万人だった。チェーカー創設目的と実質的な共産党秘密政治警察28万人への異様な拡張目的の一つが、ソ連崩壊後に判明してきた。それは、〔殺人指令文書13〜18〕と〔殺人指令文書19〕にあるように、レーニンが、自由主義政党カデット絶滅だけでなく、ソヴィエト内の社会主義政党エスエル、メンシェヴィキをも殲滅し、ソヴィエト権力簒奪をし、共産党独裁政権を樹立することを、最初から企んでいたということである。何人かの研究者が、それを指摘している。
〔殺人指令文書27〕、チェーカー創設とその組織、チェキスト
チェーカーとは、十月革命後の1917年12月20日に設立された(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)のことである。それは、最初のソヴィエト政治警察で、1923年にGPUになり、1954年からKGBになった。のち投機取締が加えられるなど、名称には異同がある。革命直後の反革命派の動きや革命に反対する公務員のサボタージュを取締、革命法廷へ引き渡すことなどを任務とし、人民委員会議(内閣)に直属する機関として発足した。議長はジェルジンスキーで、委員会メンバーは8人だった。中央機関の設立に引き続き、18年には地方、運輸部門、軍隊内などにもチェーカーが創設された。当初この委員会は直接懲罰行動をとらず調査活動を主とするものとされたが、内戦と干渉戦争が本格化する中で、裁判所の決定なしに逮捕・投獄・処刑などを行いうるようになった。
この設立決定の内容は、一度も公表されなかった。ただ、メンバーの一人ラツィスが、1922年2月10日「イズヴェスチヤ紙」で引用し、判明した。その内容は、ジャック・ロッシ『ラーゲリ・強制収容所注解事典』(恵雅堂出版、1996年)にある。
「同委員会を反革命運動・怠業取締人民委員会議付属全露非常委員会と命名し、ここにそれを承認する。委員会の任務は:
(1)、誰が引き起こそうとも、全ロシアのすべての反革命運動と怠業の企てと行動を監視し、これを撲滅すること。
(2)、全ての怠業者と反革命分子を革命裁判にかけ、またその撲滅対策を作成すること。
(3)、委員会は犯罪阻止に必要な限りの予備審理のみを行う。委員会は以下の三部に分かれる:1)情報部、2)組織部(全ロシアの反革命分子撲滅闘争の組織のため)と支局部、3)取締部。委員会は明日正式に発足する。それまでは軍事革命委員会清算委員会が活動する。委員会は印刷物、怠業(サボタージュ)その他、右翼エスエル、怠業者(サボタージュ参加者)、ストライキ参加者に注意する。必要措置として、押収、強制立ち退き、食糧配給券の支給停止、人民の敵のリスト公表などが講じられる。
全露非常委員会参与会の議長とメンバーは、人民委員会議により任命される。」(P.41)
人民委員会議は、議長にジェルジンスキーを任命した。「人民の敵」というレッテルは、スターリンからではなく、レーニンが権力奪取の1カ月半後から、正式に使い始めたのである。
左翼エスエルの司法人民委員スタインベルグによるジェルジンスキー報告メモ抜粋
「本委員会は新聞・雑誌、サボタージュ、立憲民主党員、右派社会革命党員、破壊工作者およびストライキ参加者に対しとくに注意を払う。
本委員会に属する抑圧的措置は以下のごとくである。財産没収、住居からの強制退去、配給券の取り上げ、人民の敵のリストの公表等。
決議 本案を承認する。本委員会を、反革命、投機およびサボタージュと闘う全ロシア非常委員会と称する。公布」
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』
4、ソ連崩壊後の発掘データによるレーニン像の大逆転
〔小目次〕
私(宮地)の判断では、ソ連崩壊後に公開された「レーニン秘密資料」、アルヒーフ(公文書)を見るかぎり、『農民』『労働者』『クロンシュタット水兵』『聖職者』『知識人』『赤色テロル』ファイルで分析したように、大量の赤色テロルにおいて、レーニンの側に正当性がまったくない。
大量殺人指令において、レーニンが貼りつけたレッテルは、すべてレーニンの詭弁・ウソであったことが、ソ連崩壊後に判明した。とりわけ、「反革命」「富農(クラーク)」「反ソヴィエト」というレッテルの意図的な拡大解釈と、それをソヴィエト革命勢力である労働者・農民・兵士や社会主義他党派に貼りつけた手口は、まさにレーニンの思想犯罪といえる。革命勢力内部における大量殺人犯罪を、共産党秘密政治警察チェーカーとチェキスト28万人に遂行させる前提として、レーニンはその詭弁によって、チェーカーを殺人集団に変質させる思想教育犯罪を行った。レーニンは、権力奪取・権力簒奪クーデターの天才であるが、同時に、詭弁とウソの天才でもあったことが、ソ連崩壊後のデータによって証明されてきた。
白衛軍と旧帝政勢力は、たしかに「反革命」である。しかし、労働者・農民・兵士によるレーニン路線への抵抗・反乱・異論は、レーニンの食糧独裁令による収奪と、その根底にあるマルクスの根本的に誤った社会主義青写真の市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論にたいする正当なものだった。レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターと食糧独裁令に反対・反乱した勢力は、二月革命以来のソヴィエト革命勢力であり、「反革命」などではない。レーニンは、意図的にその2つの勢力にたいする規定を混同させた。そして、恣意的に、「反革命」という概念を拡大解釈し、革命勢力内部の批判・反対者や他党派を「反革命」勢力とでっち上げるという詭弁を使って、大量殺人犯罪を続けた。
個々の具体的な指令・命令・布告を見ても、それらがいかに誤りであったのかは、上記や他ファイルで論証した。ましてや、上記3件の予防的大量殺人にいたっては、完全な犯罪である。よって、(表)の数字の性格は、「レーニンの大量殺人」「レーニンが殺した」という日本語以外に適切な言葉がない。
2、社会主義他党派絶滅を最初から意図していた「革命」家
レーニンの思想・理論とレーニン像にたいして、さらに鋭い痛烈な、突っ込んだ見方も成り立つ。以下のレーニン評価は、ヴォルコゴーノフ、ニコラ・ヴェルト、マーティン・メイリアや、ソ連崩壊後の多くの研究者たちが、共有しつつある。ロシア国内では、モスクワ国立歴史古文書大学学長アファナーシェフを初め、これが基本的になってきた。もっとも、ザミャーチンは『われら』において、先駆的で、もっとも痛烈な「レーニン=恩人=殺人者」規定を、1921年当時に行った。日本では、ここまで辛口のレーニン評価をする研究者はまだ出ていない。
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』レーニンがしたことへの根源的批判
レーニンは、ボリシェヴィキ一党独裁政権樹立とその路線・政策を、マルクス主義社会主義青写真に基づく絶対的真理と信じていた。むしろ、それを絶対的真理として狂信するレベルの人間になって、1917年4月にドイツ軍封印列車に乗って帰国した。彼が創作した前衛党=共産党こそ、マルクス主義型社会主義の真理を体現し、実現できる唯一の政党である。それだけでなく、共産党とは、暴力革命・武装蜂起による権力奪取をなしうる軍事的政治的な鉄の規律によって鍛えられた軍事組織でもある。党中央決定の無条件実践を遂行する軍事的中央集権制の前衛党でなければ、真の「革命」を成し遂げ、科学的社会主義国家を確立することは不可能である。さらに、スイス亡命中、パリ・コミューンの敗北経験を徹底的に研究し、胸に刻み込んだ。それは、暴力革命で権力奪取をしたら、反革命勢力にたいするプロレタリア独裁=その生存権も奪う赤色テロルなしには、プロレタリア革命は挫折するという一面的な歪曲した狂信だった。
ロシアにおいて社会主義を名乗る政党は多い。しかし、それらの政党との連立政権によっては、マルクス主義型社会主義を実現することは絶対にできない。なぜなら、メンシェヴィキは、ヨーロッパ型の改良主義政党であり、エスエル・左翼エスエルは、ロシア農民を土台とした社会主義構想の政党だからである。アナキストも、社会主義を名乗るが、中央集権国家を否定するので問題外である。いずれも、マルクス主義政党ではない。一国には一前衛党しか存在できない。いくら、社会主義を名乗っていても、それらの政党は、マルクス主義の真理を認識し、体現することができない。もちろん、ボリシェヴィキ支持率が低い時期には、臨時連立政府を倒すために、一時的に連立政権構想も語った。しかし、その秘めた本心は、最初から、共産党一党独裁権力だった。
11月7日、ついに、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターのチャンスが到来した。そして、一党独裁権力奪取に成功した。真の社会主義国家・経済体制を確立するために、共産党以外の社会主義他党派を、全ロシア中央執行委員会や各級の全ソヴィエトから追放するだけでなく、その政党組織と全党員を逮捕・銃殺・強制収容所送り・国外追放という手段によって、ロシアの政治社会から絶滅しなければならない。すべての社会主義他党派・党員の絶滅と、党独裁型社会主義実現とは、完全に一体の「革命」事業である。
ダンコース『奪われた権力』レーニンによる社会主義他党派絶滅思想
絶対的真理を体現している世界観政党・共産党だけが、唯一の「革命」勢力である。よって、共産党とその路線にたいして、批判・抵抗・反乱をする労働者・農民・兵士は、「反革命」勢力に転落した人民の敵となる。なぜなら、彼ら反対者は、異論・批判というレベルではなく、科学的真理にたいして、非科学的思想を社会に撒き散らすという駆除すべき害虫だからである。害虫や反革命者を肉体的政治的に抹殺するのは、全共産党員の正当な任務である。他党派と同じく、11月7日レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターに参加・協力した者といえども、共産党に背を向けて、批判・抵抗・反乱を始めた者たちにたいして、皆殺し対応をするのは、当然の「革命」防衛という崇高・神聖な義務である。レーニンは、このような狂気の信念に基づいて、上記27通の〔殺人指令文書〕を発令した。未発掘指令文書や電報を合わせれば、百数十通になるはずである。
これらが、ソ連崩壊後に発掘されたデータに基づくレーニン評価となってきている。
このレーニン像が事実となると、別の疑問が生まれる。
数十万人を殺したレーニンとは、一体何者であったのか。彼の人間性をどう考えたらいいのか。このような大量殺人を指令した人間は、はたして社会主義者を自称できるのかという根源的な疑問である。それとも、20世紀ロシアという特殊環境が、レーニンという大量殺人犯罪型社会主義者を産み出しえたのか。もちろん、レーニンだけでなく、共産党政治局全員が同一の思想・理論で武装していた。日本共産党を含めコミンテルン型共産党は、そのマルクス・レーニン主義思想で、世界中に生まれ、社会主義世界体制を作った。
19世紀資本主義の実態は、マルクス・エンゲルスら多数の社会主義者を育んだ。しかし、それらは、思想・理論の段階で、実験段階に至らなかった。レーニンらボリシェヴィキだけが、マルクス主義社会主義青写真を世界で最初に実験する革命家になった。74年間に及ぶ実験の惨憺たる結果は、ユートピア思想の逆変種として、マルクス主義が、大量殺人犯罪型社会主義者という逆ユートピア革命家を生産したことを証明した。
実験の結果、マルクス・エンゲルスも、『空想から科学へ』ではなく、空想的社会主義者だったことが判明した。レーニンは、その空想的社会主義理論を、2段階クーデターとチェーカー28万人という国家暴力装置を駆使して、数十万人の自国民を殺害しつつ、実験をするチャンスを手にした。彼にとって社会主義一党独裁権力こそすべてとなった。
マルクスは、史的唯物論によって、資本主義から社会主義への発展が歴史的法則と断言した。その社会主義経済体制は、市場経済廃絶・貨幣経済廃絶になるとした。その政治体制は、プロレタリア独裁となるべきとした。それは、旧支配階級の権利を生存権を含めて剥奪するとし、大量逮捕・大量殺人システムを示唆・是認した。世界中の「マルクス主義革命」家たちが、それが、真理であり、法則であると信じて、熱狂した。
レーニンは、ソヴィエト民主主義を破壊し、ソヴィエト権力簒奪クーデターを成功させた。彼とボリシェヴィキにとって、2段階クーデター政権が、絶対的真理の実験であるからには、支持率がいかに低下し、総反乱が勃発しようとも、政権交代という選択肢はありえなかった。根本的に誤った経済・政治路線にたいする総反乱の中で、党独裁権力を維持するには、社会主義他党派や批判・反対の労働者・農民・兵士の大量殺人を続けるしかなかった。そして、最初からの秘めた計画通り、ロシアにおける社会主義他党派殲滅の「革命」事業を、共産党秘密政治警察チェーカー体制によって遂行した。4年7カ月間の過程で、彼は、権力のための権力者に変質していった。絶対的権力者としてのレーニンは、歴史の法則どおり、絶対的に腐敗した。
5、おわりに―レーニン批判の理由と視点
一体、なぜ、私(宮地)は、このような人間を、無批判的に信奉したのか。その上、25歳から40歳まで、15年間も、彼の神話の伝導に専従しえたのか。その間、私は、彼の論文や公式の業績、多数のロシア革命史、ほとんどのソ連文学作品をむさぼり読むだけでなかった。民青地区委員長をやり、愛知県党の半分の党勢力を占める名古屋中北地区常任委員・5つの全ブロック責任者=現在の5つの地区委員長を歴任し、組織内の民青同盟員や共産党員に、彼の神話の伝導を行った。その面で、著作・論文によって、レーニン讃美を行ってきた学者・研究者のしたこととは、やや性質が異なる。
それは、社会主義革命の理想に燃えた世界的時流に乗っただけなのか。1960年安保の入党世代なので、スターリンの犯罪は知っていた。しかし、レーニンの大量殺人犯罪をまるで知らなかった、あるいは、彼とスターリンの犯罪封印の策謀によって知らされなかった、ということですませられるのか。レーニン批判のHP他8ファイルと同じく、このファイルも、私自身の自己総括、自己批判の書でもある。今回で、レーニン批判ファイルは、(関連ファイル)にあるように、9つになった。
なぜ、そんなにレーニン批判にこだわるのかと、友人知人からもよく聞かれる。もはや、『Good Bye Lenin』の時代になったから、そんな作業は無意味ではないかとも言われる。また、メールなどでも、何通も、すごい執念ですねと感心される。執念と見なされると、やや抵抗も感じるが、その通りかもしれない。そこで、長々と、いくつものレーニン批判を書く「執念」の根拠をのべる。
ドイツ映画紹介HP『Good Bye Lenin』
9つのレーニン批判ファイルを書いた理由は、2つある。
第一、私の日本共産党体験とそこからくるレーニン批判である。
私は、専従時代に、「21日間の監禁査問」を受けた。これは、1961年綱領が決まって以来、公表された中で、最長の不法監禁・共産党による精神的拷問事件だった。さらに、党中央批判にたいする不当な専従解任をされた。「日本共産党との裁判」という国際共産主義運動史上で前代未聞の民事本人訴訟によって、共産党一専従が共産党中央委員会を訴えた。共産党は、私が憲法の裁判請求権を正規に行使したことを理由として除名した。さらに、反党分子であるとして、さまざまな政治的社会的排除活動を仕掛けた。
これらについて、私は、それが、日本共産党の党内犯罪であり、かつ、驚くべき反憲法犯罪であると規定している。それは、私にたいする共産党の政治的社会的殺人だった。その殺人犯罪者は、宮本顕治・不破哲三・上田耕一郎・戎谷春松の4人である。そこから、私は、共産党という組織は、なにか根本的におかしいという疑惑を深めた。党中央批判をしたことを本質的理由として、将棋の駒のように使い棄てられた共産党専従は、様々な証言による推定で数百人いる。彼らは、ほぼ全員が泣き寝入りした。1989年から91年の東欧・ソ連10カ国崩壊が、その疑惑の真相を、レーニンにまで遡って、とことん追究する必要があるという執念を成長させた。私は60年安保入党なので、スターリン崇拝時期を経ていない。日本共産党批判は、そのままストレートに、その根源であるレーニンへの批判と直結した。私への宮本・不破・上田らによる政治的殺人体験は、レーニンらによるロシア革命勢力数十万人への肉体的政治的殺人データと直接つながった。
『日本共産党との裁判第1部〜8部』共産党の党内犯罪と反憲法犯罪
第二、レーニンの大量殺人犯罪事例にたいする強烈な怒りである。
9つのファイルに書いたレーニンの大量殺人犯罪データは、真実だと確信している。それにたいする怒りは、同時に、大量殺人事実とその〔殺人指令文書〕を、ソ連が崩壊するまで、完璧なまでに隠蔽してきたレーニンへの怒りと二重になっている。その犯罪を隠蔽・封印してきた者は誰なのか。スターリンは、『レーニン全集』を編纂したとき、都合の悪い文書を「レーニン秘密資料」6000点として、分離・封印した。しかし、〔殺人指令文書〕にあるように、レーニン自身が、「極秘」「複写をとるな」「(聖職者全員銃殺はトロツキーの任務だが)トロツキーの名前を出すな」などと、隠蔽を指令している。
ただし、ソ連崩壊後、日本において、レーニンにたいする対応は、3種類ある。
(1)、私のレーニンにたいする怒りの度合いは、彼の思想・理論を絶対的真理と信仰し、専従として15年間も、その宗教的伝導をしたという彼とロシア革命史に私がのめり込んだレベルに反比例しているともいえる。ただ、ここまで、レーニンの大量殺人犯罪を告発しているのは、現在のロシアとヨーロッパに比べて、日本においてまだ少数派である。なぜなのか。
(2)、『Good Bye Lenin』と悟りきって、彼と絶縁した方が、あんたの精神衛生上いいのではないか、という人もいる。しかし、それを言う人は、ロシア革命史やレーニンと、ほどほどに付き合ったレベルではないかとも思う。
(3)、一方、私のレーニン批判を聞くと、レーニン崇拝の立場から、逆の強烈な拒否反応を露骨に示す人もいる。日本には、日本共産党批判・スターリン批判では一致しても、レーニン批判となると、感覚的にまるで受け付けないレベルのレーニン信奉者はかなりいる。その人たちは、ソ連崩壊後に発掘されたレーニンの大量殺人犯罪データを知らないのか、それとも、それらを反共宣伝として一蹴する姿勢を堅持する「革命」家なのか。
レーニン批判の視点は、逆説のロシア革命史である。
ただ、その時期を、レーニンの最高権力者期間5年2カ月間に限定している。その内容は、公式のソ連共産党史、公認のレーニン讃美伝の否定だけではない。ソ連崩壊後に出版されたロシア革命史・レーニン評価において、発掘されたレーニンの大量殺人犯罪データをほとんど無視する著作・論文への否定でもある。
また、逆説のロシア革命史といっても、その視点は特殊である。今回を含め、9つのファイルは、多くの歴史書にあるような客観性・総合性を目的としていない。それは、二月革命以来のロシア革命勢力でありながら、レーニンに「反革命」とでっち上げられ、無実の罪で殺害・銃殺・強制収容所送りをされた数十万人の労働者・農民・兵士と社会主義他党派党員の側に立って、ロシア革命史を逆説的に分析するという視点である。殺された数十万人のロシア革命勢力の立場から、ソヴィエト民主主義破壊・ソヴィエト権力簒奪クーデターによって、ソヴィエト権力を共産党独裁権力に変質させたレーニンの犯罪を検証するものである。
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(関連ファイル)
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱
『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』
ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−〈ソ連篇〉』
スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』
ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』レーニンの赤色テロル
R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』レーニンがしたことへの根源的批判
ダンコース『奪われた権力』レーニンによる権力簒奪過程
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年食糧独裁令
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』農民反乱分析、労農同盟成立を否定
中野徹三『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散
大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱
山内昌之『革命家と政治家との間』−レーニンの死によせて−