クロンシュタット水兵とペトログラード労働者(1)
クロンシュタット水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応
1921年2月22日〜3月18日の25日間
(宮地作成・編集)
〔目次〕
1、ペトログラード・ソヴィエトとクロンシュタット・ソヴィエトの歴史
3、レーニンによるソヴィエト民主主義破壊、ソヴィエト権力簒奪過程
4、ペトログラード労働者の要請と全市的な山猫ストライキ、2月22日〜3月3日(別ファイル2)
5、クロンシュタット水兵の15項目綱領と平和的合法的要請、2月28日〜3月18日
6、クロンシュタット事件の名称と性格
7、クロンシュタット反乱参加者の名誉回復
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『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との関係
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版
P・アヴリッチ
『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット 『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
ヴォーリン 『クロンシュタット1921年』反乱の全経過
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
大藪龍介
『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱
中野徹三
『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散
梶川伸一
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
Google検索 『kronstadt』
このファイルを、(宮地作成・編集)とした。(編集)を付けた理由は2つある。
第一、全体の構想・細部の骨組みは、ロシア革命に関して、ソ連崩壊後、私(宮地)が研究したこととそこから抱いた考えに基づいている。その中身は、HPに載せてきた逆説のロシア革命史の総集編である。今までに、『農民』『労働者』『赤色テロル』『分派禁止規定』『聖職者』『知識人』『ザミャーチン』ファイルを書いた。階層で見れば、『兵士・水兵』テーマが残っていた。このテーマは、ロシア革命史における結節点とも言える。他ファイルの参考文献は、5、6冊だった。このファイルの文献は、30冊以上になる。細部の骨組みを論証する方法として、資料の要約・説明と合わせて、できるだけ、文献をそのまま直接引用するというスタイルにした。言ってみれば、細部をノリとハサミで埋めた方式になった。(宮地作成)と同時に、文献数十冊の(編集)にもなる。
第二、クロンシュタット事件が中心テーマであるが、逆説のロシア革命史総集編として、7つの他ファイルで書いた分析や、(表)を一部変更しつつ、かなり転載した。よって、7ファイルの(編集)という面もある。
このファイルを作成する私(宮地)の政治的立場をのべる。私は、1960年安保入党世代で、3年間の民間経営勤務・全損保労働組合役員体験後、民青専従1年半を含め、15年間民青・共産党愛知県委員会の専従だった。当然、熱烈なレーニン信奉者で、レーニン全集の基本著作や公式レーニン伝・公式ロシア革命史をむさぼり読んだ。しかし、不当な専従解任、日本共産党との裁判を直接体験する中で、日本共産党批判のみでなく、その根源であるレーニン批判を強めた。
1989年から91年の東欧革命・ソ連崩壊に出会って、ソ連崩壊後に発掘された「レーニン秘密資料」やアルヒーフ(公文書)を数十冊研究した。そこから、スターリン批判のみでなく、レーニンの最高権力者期間5年2カ月間において、レーニンがしたことを具体的データで検証することが必要であると痛感した。だからといって、他党派の左翼エスエルやアナキストの政治的立場に移ったわけではない。日本に根強く残っているレーニン神話とその真実を解明したいというのが、私の真意である。このファイルを含めて、一連のレーニン批判HPファイルは、なぜ無批判的なレーニン信奉者になっていたかという私自身の自己総括・自己批判の書でもある。
1、ペトログラード・ソヴィエトとクロンシュタット・ソヴィエトの歴史
〔小目次〕
1、1905年革命、1917年二月革命、十月革命とソヴィエトの性格
1、1905年革命、1917年二月革命、十月革命とソヴィエトの性格
このファイルは、ロシア革命におけるソヴィエト制度、ソヴィエト民主主義、ソヴィエト選挙をテーマとする。その矛盾の劇的現れとして、1921年2月22日から3月18日までのペトログラード労働者全市的山猫ストライキ、クロンシュタット反乱とレーニンの皆殺し対応という25日間を分析する。
まず、ソヴィエトという言葉の意味を、『新版ロシアを知る事典』(平凡社、2004年)の塩川伸明執筆内容の抜粋で確認する。
「ソヴィエトsovet 元来はロシア語で会議、評議会、助言などを意味するごく一般的な言葉だが、歴史的文脈の中で独自の性格をもつ政治機構、さらにはより広く政治体制を象徴する言葉として使われるようになった。
この語が労働者の代表者機関という意味で使われた最初の例は、1905年、第1次ロシア革命の中でストライキ委員会の連合体的性格をもつ機関としてのことである。イワノヴォ・ヴォズネセンスクをはじめ各地でソヴィエトが誕生したが、中でもペテルブルグ・ソヴィエトは全国のソヴィエト運動の中心となった。このときのソヴィエト運動はまもなく鎮圧されたが、それまで自らの声を政治的に代表させる機関をもたなかったロシア労働者にとって重大な歴史的経験としての意味をもった。」
「こうした第1革命の経験が1917年二月革命時に思い起こされ、ペトログラード・ソヴィエトが結成されて,労働者・兵士を中核とする革命運動の担い手となった。新たなソヴィエト運動はまもなく全国各地に広まったが、その役割・実態は一様でなく、その意味で分散的で自然発生的な運動体としての性格が濃厚だった。〈全ての権力をソヴィエトへ〉というスローガンにおける〈ソヴィエト〉は複数形であり、各地のソヴィエトはそれぞれに独自の権力体になることを志向した。」
「十月革命によりソヴィエト権力が宣言されたが、それはこうした分散的運動体の連合体としての性格と、中央集権的なボリシェヴィキ党による国家権力奪取という性格との二重性を帯びていた。」
「十月革命後、次第にソヴィエトの斉一化・体系化が進められ、当初の自然発生的・分散的運動体としての性格は失われていった。権力機関としてのソヴィエトは、執行と立法の分離を否定し、両者を兼ねるコミューン型の機関とされ、この点で、三権分立に立脚した議会制度とは理念的に区別された。また、人民から直接生まれ、人民に担われる機関という直接民主主義的発想のため、人民と権力の間の乖離の可能性が想定されず、権力抑制のメカニズムは彫琢されなかった。現実には,ソヴィエト制の理念と実態とは乖離し、権力の実質は共産党および国家官僚制に移行していったが、擬制としての人民権力を象徴するソヴィエトは、形式上は国家の中核としての役割を付与され続けた。そのため、この語はソヴィエト制という独自の政治体制を象徴し、またソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の略称として、国名や社会休制を示す言葉としても使われるようになった。」
2、クロンシュタット・ソヴィエト、協調派から革命派への転換
クロンシュタットは、フィンランド湾内のコトリン島にあり、ペテルブルグ防衛のための海上要塞として建設され、バルト艦隊の主力基地だった。人口は45000人である。1905年革命では、要塞兵士1500人・艦隊水兵3000人が反乱した。1917年革命で、クロンシュタット・ソヴィエトは、革命軍最大の拠点となり、十月革命時に、クロンシュタット労兵ソヴィエトは、武装部隊を首都ペトログラードに派遣し、革命の栄光拠点とたたえられた。
ペトログラード・ソヴィエトとクロンシュタット・ソヴィエトは、革命の二大拠点だが、1917年3月以降、すべての都市で、労兵ソヴィエトが組織された。少し遅れて、農民ソヴィエトもできた。5月400、8月600、10月900のソヴィエトが存在したと算定されている(シャルル・ベトレーム『ソ連の階級闘争』第三書館、P.61)。
クロンシュタット・ソヴィエトの形成と変化、ペトログラード・ソヴィエトとの密接な関係については、長尾久『ロシア十月革命の研究』(社会思想社、1973年、絶版)が、詳細なデータと分析を載せている。そこから、経過を見てみる。以下は、4年後に、なぜ自由で平等なソヴィエト新選挙を要請して、クロンシュタット反乱が発生したのかを解明する上で、重要な背景となる。
1917年3月5日、2万人の基地労働者が労働者ソヴィエトを設立した。3月7日、クロンシュタット軍人ソヴィエトも成立した。それは、水兵18・兵士18人の執行委員会を選出した。2つが合同し、単一のクロンシュタット労兵ソヴィエトが成立した。労兵ソヴィエト執行委員会の党派構成は、エスエル108、メンシェヴィキ72、ボリシェヴィキ11、無所属77だった。この時点では、エスエルが指導的地位にあったのが特徴である。
その後、臨時連立政府支持かどうかが、ソヴィエト内の重大争点となっていった。ペトログラード・ソヴィエトは臨時連立政府支持になった。5月2日、クロンシュタット・ソヴィエトも、95対71対8で、連立政府支持を決議した。これは、協調派95と革命派71との対立である。クロンシュタットも、まだ、協調派路線をとっていた。
ところが、5月13日、クロンシュタット・ソヴィエト執行委員会は、「クロンシュタット市における唯一の権力は、労兵ソヴィエトである。ソヴィエトは、国家秩序の問題については、全て臨時政府と直接接触する」と決議した。従来も、クロンシュタット市の権力は、事実上ソヴィエトの手中にあったが、この決議は、これを正式に宣言し、臨時政府の地方統治権に挑戦した。
さらに、5月16日、ソヴィエト総会は、執行委員会決議を、革命派側に修正した。総会は、211対41対1で、「クロンシュタット市における唯一の権力は、労兵ソヴィエトである。ソヴィエトは、国家秩序の問題については、全てペトログラード労兵ソヴィエトと直接関係を持つ」と修正決議をした。これは、エスエルが提案し、ボリシェヴィキが支持した。反対41は、メンシェヴィキと無所属である。首都を守るべき要塞が、臨時政府の地方権力否認の立場に移ったことは、政府にもペトログラード・ソヴィエトにも大きなショックを与えた。
その後、政府とペトログラード・ソヴィエトの圧力を受けて、臨時政府にたいする態度が二転三転した。しかし、クロンシュタット人民の批判が高まり、5月27日、総会は、クロンシュタットを訪れたトロツキーの提案もあって、「わが労兵ソヴィエトは、クロンシュタット現地の全問題における権力を掌握した」「勤労大衆の統一した力で、わが国の全権力が労兵ソヴィエトに移る時は近い」という宣言を採択した。こうして革命派になったクロンシュタット・ソヴィエトは、6月6日、代表団をバルト海艦隊の全主要基地に送り、自己の立場を説明することを決議した。そして、ソヴィエトは、エスエル4、ボリシェヴィキ3、メンシェヴィキ2という比例代表制に基づく代表団を選出した。クロンシュタット・ソヴィエトは、新たな革命への積極的な説得活動に乗り出したのである。
10月ボリシェヴィキ単独武装蜂起・単独権力奪取におけるクロンシュタット・ソヴィエト水兵の活躍については、ジョン・リード『世界をゆるがした十日間』、トロツキー『ロシア革命史』(岩波書店、藤井一行訳、2000年)に詳しいので、ここでは触れない。
プロレタリアート数が、全人口の2%・300万人(1917年)から220万人(1920年)に減った中での、ボリシェヴィキ支持率とその激変経過を見る。政党支持率の急上昇・下落の現象は、世界や日本でも何度も見受ける。政党、もしくは政権党が、国民・有権者の期待を裏切ったとき、その支持率は急落する。
ボリシェヴィキ支持率の激変には、3段階があった。それを3つの(表)で検討する。ただ、初めに、明らかにしておくことがある。それは、ボリシェヴィキ支持内容は、「プロレタリア独裁」理論、「市場経済廃絶・貨幣経済廃絶」理論、その体制実現への賛否ではない、ということである。その理論を理解し、支持したのは、ボリシェヴィキ党員だけだった。
ボリシェヴィキ支持労働者・兵士の権力・政治要求は、「すべての権力を、(臨時政府ではなく)、労働者兵士ソヴィエトへ」だった。その内容は、「プロレタリア独裁」でもなく、ましてや「(各労兵ソヴィエトから権力を簒奪していく)中央集権型権力」や「ボリシェヴィキ一党独裁権力」でもなかった。1億4000万国民共通の経済要求は、「平和・土地・パン」だった。労働者・兵士・農民は、彼らの政治・経済要求をボリシェヴィキが実行すると約束したかぎりにおいてのみ、ボリシェヴィキ支持に回ったにすぎない。レーニンは、それらの政治・経済要求の全面実施の公約を掲げて、単独権力奪取に全力をあげた。しかし、それにたいするレーニンが内側に秘めた本心は、「ボリシェヴィキ一党独裁の中央集権権力」「市場経済廃絶の経済路線とその具体化としての食糧独裁令」「世界革命」だった。この食い違いが、支持率の急上昇・急下落の原因を説明するキーポイントになる。
(表1) 第1段階、まだ低いボリシェヴィキ支持率
1917年2月二月革命〜6月
年月 |
支持率 |
内容 |
出典 |
1917.2 |
ボリシェヴィキ党員全国で24000人、ペトログラード2000人、モスクワ600人 |
『10月革命』P.79 |
|
1917.5 |
1.3% |
5月4日〜28日第1回農民大会、代議員1115人中、エスエル537人、ボリシェヴィキ14人 |
ベトレーム『ソ連の階級闘争』P.64 |
1917.6 |
9.6% |
第1回全ロシア・ソヴィエト大会、代議員1090人中、エスエル285人、メンシェヴィキ245人、ボリシェヴィキ105人 |
『階級闘争』P.63、『ロシア史』P.442 |
ボリシェヴィキは、二月革命において、なんら積極的役割を果していない。それどころか、労働者グループが呼びかけた国会請願行進に反対し、それを失敗に終らせた。
(表2) 第2段階、ボリシェヴィキ支持率の急上昇
1917年8月〜1918年3月
年月 |
支持率 |
内容 |
出典 |
1917.10 |
57.5% |
全ロシア工場委員会評議会代議員167人中、ボリシェヴィキ96人、エスエル24人、アナキスト13人、メンシェヴィキ7人 |
『階級闘争』P.63 |
1917.11 |
(2万人) |
11月7日武装蜂起当日、ペトログラードのプロレタリアートと市守備隊の大半は「中立」を守った。冬宮襲撃参加者は、(1)ペトログラード゙守備軍兵士7〜8千人、(2)クロンシュタット水兵6〜7千人、(3)労働者「赤衛隊」5千人の計2万人によるボリシェヴィキ単独権力奪取 |
メイリア『ソヴィエトの悲劇』P.69、長尾『研究』P.376 |
1917.11 |
44.8% |
第2回全国労兵ソヴィエト大会の大会アンケート委員会集計、代議員670人中、ボリシェヴィキ300人、エスエル193人、メンシェヴィキ63人。エスエル(右派)とメンシェヴィキは、「ボリシェヴィキによる単独権力奪取」に抗議して退場 |
『研究』P.377 |
1917.11 |
24% 40.7% 36.5% |
11月12日から憲法制定議会選挙施行。エスエル40.7%・410議席(うち左派エスエル40議席)、ボリシェヴィキ24%・175議席、カデット4.7%・17議席、メンシェヴィキ2.7%・16議席 兵士・水兵のボリシェヴィキ支持率 都市のボリシェヴィキ支持率 |
『ロシア史』P.461 |
1917.11 |
45.3% 79.2% 48.7% 57.7% 50.1% 79.5% 55.8% |
憲法制定議会選挙の地域別得票率 ペトログラード市 エスエル16.7、メンシェヴィキ3.1 ペトログラード守備軍 エスエル12.0、メンシェヴィキ1.1 ペトログラード県 エスエル25.4、メンシェヴィキ1.3 バルト海艦隊 エスエル38.8、メンシェヴィキ/ モスクワ市 エスエル 8.5、メンシェヴィキ2.9 モスクワ守備隊 エスエル 6.2、メンシェヴィキ0.9 モスクワ県 エスエル26.2、メンシェヴィキ4.2 |
『研究』P.403 |
1918.1 |
46.0% |
クロンシュタットのソヴィエト選挙 |
|
1918.3 |
66.0% |
3月14日、100の郡ソヴィエト選挙結果、左翼エスエル18.9%、右翼エスエル1.2%、メンシェヴィキ3.3%、無党派9.3% |
メドヴェージェフ『10月革命』P.212 |
ペトログラードの労働者38万人・兵士47万人は、二月革命で、ツアーリ帝政を倒した。彼らの要求は「平和・パン・土地」だった。ところが、臨時政府は、それらを何一つ解決できなかった。「平和」要求を、ケレンスキーは拒否し、ドイツとの戦争を継続した。「パン」要求では、飢餓が進行するばかりだった。「土地」要求では、臨時政府が、9000万農民による5月以降の土地革命の激発に反対し、鎮圧部隊を派遣した。途中の5月5日から閣僚に参加したメンシェヴィキ、エスエルも同じ政策だった。12月に分裂・結党する前の左翼エスエルだけが、土地革命を支持していた。
よって、ソヴィエト内の3大社会主義政党とアナキストの中で、メンシェヴィキ、エスエルの支持率は急落した。1917年4月ドイツ軍部が仕立てた封印列車で、フィンランド駅に着いたレーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」と公約した。8月以降、レーニンは、臨時政府やメンシェヴィキ、エスエル閣僚が解決できない「平和・パン・土地」要求の全面解決・実施の公約を高く掲げ、国民に約束した。労働者・兵士・農民の政党支持は、一挙にボリシェヴィキに向かった。ボリシェヴィキ支持率は、その政権構想要求・経済要求への公約4項目によってのみ、急上昇した。
国民がボリシェヴィキ支持にまわった政治要求内容は、「プロレタリア独裁」体制ではなく、ましてや、「ボリシェヴィキ一党独裁による中央集権制国家」でもない。国民の政権構想要求は、ボリシェヴィキの指導とは関係なく、労働者・兵士・農民が自力で、自然発生的に創り出した「すべての権力を労兵農ソヴィエトに移す地方分権型ソヴィエト国家」「ソヴィエト内3大社会主義政党による連立政権の樹立」だった。レーニンの政権構想と、国民のそれとは、8月以来、一貫して、同床異夢を秘めてまま、その亀裂が表面化していった。その同床異夢は、1920年夏から1921年3月にかけて、労働者・農民・兵士の総反乱とレーニンの皆殺し対応となって、爆発した。
(表3)第3段階は、下に載せる。
〔小目次〕
1、ソヴィエト協調派か、ソヴィエト革命派か―臨時連立政府にたいする対応
3、自由で平等な新選挙ソヴィエトか、共産党独裁型ソヴィエトか
二月革命以降、政治システムの段階はいろいろあり、それをめぐる闘争も複雑である。それらの名称や規定とともに、どれに価値を置くのかによって、ロシア革命の評価が異なる。いわゆる社会主義者といっても、(1)ボリシェヴィキ、(2)エスエル、(3)左翼エスエル、(4)メンシェヴィキ、(5)アナキストがいる。その政治的立場によって、自他の路線・政策にたいする評価が、革命か反革命かに峻別される。
1991年ソ連崩壊前、ロシア革命史は、ボリシェヴィキ史観が圧倒的な優位を占めていた。むしろ、それにより、ロシア革命史の真実やレーニン評価が恣意的に歪曲されてきたといえる。しかし、崩壊後、レーニン讃美史観も崩壊し、ロシア革命評価も他党派の立場に基づく研究、膨大なアルヒーフ(公文書)による基礎研究が発表されるようになった。1917年10月の評価も、(1)プロレタリア社会主義大革命、(2)レーニン・ボリシェヴィキの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター、(3)赤色テロル型政治体制のスタートなど、多様な見解が表明されるようになった。とりわけ、レーニンによる数十万人の大量殺人犯罪データが、次々と発掘されるにおよんで、ロシア革命評価の根本的見直しが求められた。
なかでも、ソヴィエト・システムの発生、発展、変質の経過は、ロシア革命検証の根源となるものであり、さらに研究が必要となる分野である。それは、ロシア革命の栄光拠点であるクロンシュタット水兵が反乱した謎を解く上でも、決定的なテーマとなる。それを3つの段階として検討する。
1、ソヴィエト協調派か、ソヴィエト革命派か―臨時連立政府にたいする対応
二月革命により、ツアーリ帝政が倒れ、臨時政府が成立した。10月までに、4つの政府形態がある。(1)単独政府。(2)第1次臨時連立政府5月5日―閣僚15人中エスエル1・メンシェヴィキ2人。(3)第2次臨時連立政府―閣僚15人中エスエル1・メンシェヴィキ1人。(4)第3次臨時連立政府―閣僚17人中エスエル1・メンシェヴィキ2人という構成であった。ボリシェヴィキは、連立政府参加を要請されたが、それを拒否した。この人名詳細は、トロツキー『ロシア革命史一』(岩波書店、藤井一行訳、2004年、P.29)にある。
ペトログラード、クロンシュタット、モスクワや各地の労兵ソヴィエトが、臨時連立政府を全国権力として認め、その命令に従うのか、それとも、独自の自律的地方権力として、政府と対等平等、あるいは、命令に従う必要がないとするのかという問題によって、鋭い対立が生れた。それが、ソヴィエト協調派とソヴィエト革命派との対立となった。これは、長尾久の分類名称である。トロツキーは、協調主義者と命名しているが、同じである。ペトログラードとクロンシュタット・ソヴィエトは、当初、協調派が多数を占めていた。しかし、上記のように、クロンシュタット・ソヴィエトは、クロンシュタット市民の圧力と批判によって、革命派に転換した。
レーニンとソヴィエトとの関係をどう見るのかという根本テーマがある。ソヴィエトは、1905年革命で発生し、二月革命で爆発的に広がった。それは、自然発生的な政治組織であり、地方分権的な直接民主主義形態だった。その発生そのものに、ボリシェヴィキは直接関与していない。ソ連崩壊後の研究の多くが、レーニンは、出来合いのソヴィエトを権力奪取のためのきわめて有効な組織として、利用しようとしたとしている。レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取までのソヴィエト利用方針は4段階がある。
レーニンは、ドイツ軍の封印列車に乗り、二月革命の2カ月後、フィンランド駅に着いた。ドイツ政府・軍部は、レーニンら革命家をロシアに送り込んで、戦争を背後からかく乱するという政治的軍事的思惑があった。スイス長期亡命家らの帰国は、ドイツの対ロシア戦争作戦と合致したから可能になった。
第1段階、彼は、「すべての権力をソヴィエトへ」とのアピールを出した。これは、新鮮な訴えで、一気に労兵ソヴィエト・農民ソヴィエトの心を掴んだ。5月頃から、80%・9000万農民の土地要求が高まり、ロシア全土で、貴族・地主・富農の土地を暴力的に没収して、農村共同体の中で、平等に分配するという土地革命が勃発した。これは、都市部の二月革命に続く、農民の自力による壮大な土地革命の総決起だった。これにより、9000万農民のほとんどが、土地持ち中農になった。富農(クラーク)や貧農は、ほぼなくなった。
第2段階、ところが、ケレンスキーの必死の工作によって、ソヴィエト協調派の力が強まり、ソヴィエト権力の平和的な樹立が困難な情勢になった。そこで、レーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンを取り下げ、武装蜂起路線に転換した。それが、7月クーデターとその失敗である。
第3段階、しかし、臨時連立政府は、国民の要求をまったく解決できなかった。政府は、(1)土地没収の農民運動を弾圧した。(2)ドイツ軍との第一次世界大戦をやめようとしなかった。(3)戦争継続による飢餓をさらに悪化させた。国民は、臨時連立政府と政府閣僚参加エスエル・メンシェヴィキへの批判と不満を激増させた。
この状況変化を捉えて、レーニンは、2種類4つのスローガンを提起した。政権公約スローガンは、「土地・平和・パン」である。(1)土地没収・分配の農民運動を支持し、支援する。(2)ドイツと単独で講和条約を結んで、ロシアだけが第一次世界大戦から離脱し、平和を取り戻す。(3)戦時統制・食糧専売配給制を再検討し、飢餓をなくす。(4)政治体制スローガンとして、再び、「すべての権力をソヴィエトへ」を唱えた。
これらの公約スローガンにより、8月以降11月にかけて、ソヴィエト内のエスエル・メンシェヴィキの支持率が激減し、ボリシェヴィキへの支持が一気に高まった。ペトログラード、クロンシュタット、モスクワをはじめ、都市の労兵ソヴィエトは、続々と革命派ソヴィエトに転換していった。
第4段階、その革命情勢高揚において、臨時連立政府との対立も先鋭化した。臨時政府権力からソヴィエト権力への移行において、ソヴィエト内社会主義党派と労兵ソヴィエト間で、2つの問題めぐる思惑が対立した。
第一、11月8日開催予定の第2回ソヴィエト大会を目前とする、ソヴィエト権力への移行形態と月日である。レーニンは、ソヴィエト大会前の11月7日ボリシェヴィキ単独武装蜂起・単独権力奪取を強硬に主張した。ペトログラード・ソヴィエト議長トロツキーは、ソヴィエト大会の場で、大会決定としてソヴィエトによる権力奪取宣言をするという立場をとった。ジノヴィエフ、カーメネフは、ボリシェヴィキの単独武装蜂起そのものに反対した。結局、レーニンの強引な主張に負けて、ボリシェヴィキ指導部は、大会前日のボリシェヴィキ単独武装蜂起・単独権力奪取方針を採った。レーニンは、翌8日のソヴィエト大会にボリシェヴィキ単独権力奪取の事後承認を押し付けた。エスエルとメンシェヴィキがそれにたいして、強烈な批判をして、退場した。その経過は、詳しく語られている。分裂・結党前の左翼エスエルは、会場に残った。
R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か
従来のレーニン賛美史観は、レーニンの情勢判断が正しく、トロツキーが誤りとされてきた。本当にそうなのか。ケレンスキー臨時政府によるペトログラード・ソヴィエトへの攻撃・弾圧の兆候は確かに存在した。しかし、ソヴィエト側は、基本的にペトログラードの兵士や守備隊兵士を掌握していた。その軍事的力関係から見て、ソヴィエト大会前に単独武装蜂起・単独権力奪取をしなければ、革命が挫折するという情勢ではなかった、というのがソ連崩壊後における諸研究の情勢判断になってきた。となると、なぜレーニンは、ソヴィエト大会前の単独武装蜂起・権力奪取にこだわったのか。それは、ペトログラード・ソヴィエト議長トロツキーが主張したように11月8日ソヴィエト大会の決定として、権力のソヴィエトへの移行を宣言し、臨時政府閣僚を逮捕し、解散する方針を採れば、そのソヴィエト権力は、ボリシェヴィキ単独権力になりえず、ソヴィエト内社会主義政党・アナキストの革命連立政府にならざるをえないからである。もちろん、レーニンは、以前から度々、連立政府構想を発言している。しかし、ボリシェヴィキ支持率が最高になったこの瞬間に、レーニンは、大会前のボリシェヴィキ単独武装蜂起によるボリシェヴィキの単独権力奪取を狙ったのである。
それは、国家権力が、臨時連立政府から、実質的にソヴィエトとソヴィエト内3党に移りつつあった時点において、レーニンが企んだソヴィエト社会主義勢力内部での単独権力奪取クーデターだった。11月7日がプロレタリア社会主義大革命などではなく、レーニンのクーデターだったとする説は、当時からもあった。ソ連崩壊後の現ロシアと資本主義ヨーロッパでは、むしろクーデター説の方が主流になっている。その根拠は、7日と8日の情勢判断、軍事的力関係判断において、レーニンの説明がボリシェヴィキ単独権力奪取を目的とした詭弁だったのかどうかという歴史判定と関わる。
クーデター説について
私(宮地)は、ソ連崩壊後、数十冊の「レーニン秘密資料」やアルヒーフ(公文書)を研究した。そこからの見解は、クーデター説である。よって、「十月革命」という用語を使わない。11月7日をレーニン・ボリシェヴィキによる単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターと規定する。ロシア革命と言う場合は、(1)二月革命以降の、労働者・兵士ソヴィエトによる革命運動、(2)80%・9000万農民の土地革命、(3)権力奪取前までのボリシェヴィキの革命運動を指す。そして、ロシア革命の終焉を、1921年2、3月のペトログラード労働者の山猫ストライキ、クロンシュタット水兵反乱、「ネップ」後も6月まで続いた農民反乱と、それらにたいするレーニンの数十万人皆殺し作戦・赤色テロルによる大量殺人鎮圧の成功時期とする。
11月7日の直前までに、労兵ソヴィエト・社会主義諸勢力が、ペトログラード・クロンシュタット・モスクワなど大都市における実質的な力関係として、国家権力を掌握しつつあった。ここでいうクーデターとは、支配階級となったソヴィエト・社会主義諸勢力内部において、レーニンが武力で、多くの社会主義党派ならなるソヴィエト権力を、ボリシェヴィキ党独裁政権に強行移動させたことを指す。現在のロシア歴史学会では、クーデター説が基本になっている。資本主義ヨーロッパでも、その見解が主流になってきつつある。日本においてだけは、この説がまだ市民権を得ていない。
クーデターについて、広辞苑は「急激な非合法手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する」としている。十月にケレンスキー臨時政府を倒したのは、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエル等のソヴィエト内社会主義3政党とアナキストが中心勢力で、その性格は革命である。しかし、単独武装蜂起を敢行したボリシェヴィキによる一党政権が成立した。このレーニンの行為は、革命ではなく、事実上の権力を掌握しつつあった革命諸勢力の中でのクーデターそのものである。
日本では、加藤哲郎一橋大学教授が「クー」としている。coup(クー)は coup D'etat(クーデター)と同じ意味である。中野徹三札幌学院大学教授は、『社会主義像の転回』で、レーニンのこの行為の詳細な研究をしているが、中野氏はクーデターという用語は使っていない。その問題に関して、中野徹三教授から次の内容の手紙を頂いた。「宮地さんは、制憲議会解散をクーデターと規定するということであるが、私は、十月革命自身を一つの(独自の)クーデターとしてまずとらえております。私は、クーデターの語は用いていないが、十月武装蜂起と呼んで、十月革命の伝統的概念の変更を試みている。そして、十月武装蜂起そのもののうちに、制憲議会の受容そのものを不可能にする論理が内包されていたこと、そしてそれは内戦を不可避的によびおこし、他党派への弾圧、および、一党独裁とスターリン主義への道を大きく開いたことを論証したつもりである。」
マルクス、レーニンの国家論、国家権力の暴力的奪取論の落とし穴は、このクーデターが成功した瞬間から、蟻地獄のように抜け出せないものとなった。
2、ソヴィエト権力か、憲法制定議会か―政治システムめぐる闘争
第二の問題は、憲法制定議会選挙の11月25日からの施行とその選挙結果にたいする対応問題である。レーニンは、5月の全ロシア農民大会に出席して、農民の土地革命を支持し、憲法制定議会でそれを法制化することを公約していた。ペトログラード・ソヴィエトも、憲法制定議会の尊重を公約スローガンにしていた。しかし、レーニンは、本心として、憲法制定議会をブルジョア議会システムとして軽蔑してもいた。選挙結果は、エスエルが第1党となり、ボリシェヴィキは、25%・175議席で、議席占有率1/4政党に留まった。1918年1月18日、憲法制定議会開会第1日目で、レーニンは、他党派が受け入れられないような要求を意図的に突き付けて、その日だけで、憲法制定議会を武力解散させた。
中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散論理、1918年
これら2つの問題とレーニンの対応は、何を示しているのか。彼は、ソヴィエト・システムをボリシェヴィキ単独権力奪取の道具として利用したにすぎず、第2回ソヴィエト大会の権威を否定した。一応、憲法制定議会についても、公約としてその尊重を掲げていた。しかし、そこでの第2党・議席占有率1/4の地位になると、ブルジョア議会として否定した。彼の真意は、ソヴィエトや憲法制定議会は、あくまで権力奪取の利用対象道具なのであり、マルクス主義世界観政党として絶対的真理を体現しているボリシェヴィキの単独権力奪取・樹立こそがすべてであった。単独の絶対的権力獲得とその維持強化こそ、レーニンが最高権力者としての5年2カ月間に追及したことである。
『ロシアを知る事典』で、藤本和貴夫が、このテーマを執筆している。
「十月革命で成立したソヴィエト政府は選挙の実施を決め、11月12日(ロシア暦)以降、20歳以上の男女による投票が全国で行われた。投票率は50%弱で、第一党はエスエル党(得票率40.4%),続いてボリシェヴィキ(24%)、カデット(4.7%)、メンシェヴィキ(2.6%)となり、全国規模での選挙結果は進行しつつある各地のソヴィエト権力樹立闘争と対立するものとなった。こうして、〈全権力を憲法制定会議へ〉が反ソヴィエト権力派のスローガンとなる。
しかし、十月革命の中心となった主要都市や前線部隊ではボリシェヴィキが圧倒的多数を獲得しており、レーニンは〈ブルジョア共和国よりいっそう高度な民主主義制度としてのソヴィエト共和国が生れている以上、革命の利益が憲法制定会議の形式的な権利より優先する〉として、憲法制定会議がソヴィエト権力とその諸政策を承認することを要求した。1918年年1月に召集された憲法制定会議はレーニンの要求を拒否、ソヴィエト側は会議の解散を決定した。これに対してエスエル、メンシェヴィキは、首都でこの決定に抵抗する大衆的な力はもたなかった。憲法制定会議派は、5月のチェコスロヴァキア軍団の反乱に呼応してシベリアで反ソヴィエト派権力を樹立したが、この政権も11月のコルチャークのクーデターによって崩壊し、憲法制定会議のスローガンは消滅した」(P.246)。
ただ、このテーマは、その4カ月後、(1)1918年5月13日レーニンの食糧独裁令施行、(2)6月11日貧農委員会組織の法令と農村におけるボリシェヴィキ主導の農村の社会主義化という階級闘争開始とその失敗、(3)1919年1月11日食糧割当徴発制による農民からの暴力的穀物・家畜収奪政策執行にたいする80%・9000万農民の総反乱とともに、再浮上した。食糧独裁令を初めとする一連の対農民路線は、二つの問題を含んでいる。
第一、これは、レーニンのプロレタリア独裁理論に基づく、小ブルジョア農民の社会主義化・農村における貧農委員会による階級闘争の恣意的激発政策である。
第二、これら一連の政策の暴力的強行は、マルクスの机上の空論・根本的誤りとしての市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論を絶対的真理と信仰したレーニンが、食糧独裁令としてロシアに具体化した政策を、80%・9000万農民に仕掛けた内戦だった。
ロイ・メドヴェージェフは、ソ連崩壊後のデータを発掘、分析し、『1917年のロシア革命』(現代思潮社、1998年)において、内戦の原因として、従来から公認されてきた外国軍事干渉説・白衛軍説を否定した。そして、内戦の主要原因が、憲法制定議会の武力解散問題と、食糧独裁令の2つであると規定した。その内戦の死者は700万人にのぼる。メドヴェージェフ説が正しいとなれば、レーニンは、内戦を自ら引き起こし、700万人を死なせた戦争犯罪指導者となり、レーニン評価は、その面からも180度逆転する。
3、自由で平等な新選挙ソヴィエトか、共産党独裁型ソヴィエトか―ソヴィエトの変質
ソヴィエトは、ロシアの労働者兵士が、1905年革命と1917年二月革命運動の中から自律的に創作した組織形態である。その特徴は、自然発生的で、地方分権・地方権力指向的だった。さらに、その運営は、直接民主主義の方式によって、自由で平等な選挙で、執行委員を選んだ。選挙権・被選挙権は、旧帝政側勢力を除いて、誰も、どの社会主義党派・無所属も排除されなかった。代表団を派遣するときも、社会主義各党派・無所属からの比例代表制で選んだ。
クロンシュタット・ソヴィエトは、1917年5月、ソヴィエト協調派からソヴィエト革命派に転換した。以後、一貫して、ソヴィエト革命派であり、憲法制定議会も否定していた。憲法制定議会の武力解散にあたって、議場閉鎖をした部隊は、クロンシュタット・ソヴィエト水兵たちだった。彼らのボリシェヴィキ支持率は、上記(表)のように圧倒的な高さだった。
自由で平等な選挙をし、革命の栄光拠点ソヴィエトであったクロンシュタット水兵・基地労働者たちが、1917年11月7日から3年4カ月後の1921年2月末から3月にかけて、一体なぜ、「自由で平等な新選挙」「すべての権力をソヴィエトへ、政党にではなく」というスローガンを掲げ、レーニン政権にたいして、15項目の綱領に基づく平和的要請行動に総決起しなければならなかったのか。
その要請内容と合法的な要請行動は、ソヴィエト権力樹立の3年4カ月間において、ソヴィエト権力が、ペトログラード・ソヴィエトやクロンシュタット・ソヴィエトという拠点ソヴィエトの意向から離れ、根本的に変質したことを示している。
彼らが告発するソヴィエトの変質実態はどうなっていたのか。クロンシュタット事件の諸資料が明記しているように、自由で平等な選挙システムが歪曲され、ソヴィエト執行委員会は、共産党員だけに占有されていた。社会主義他党派幹部は、チェーカーに大量逮捕され、監獄にいた。ボリシェヴィキ以外の言論・出版の自由権は剥奪されていた。国家権力機構となったソヴィエトは、共産党独裁の中央集権的ソヴィエトとなり、スタート時点のソヴィエトの特徴と正反対のレーニン利用型権力機構に変質させられていたのである。
3年4カ月間とは、レーニンによるソヴィエト民主主義破壊、ソヴィエト権力簒奪過程だったといえる。次にその経過を検証する。
3、レーニンによるソヴィエト民主主義破壊、ソヴィエト権力簒奪過程
〔小目次〕
第1期、初期のソヴィエト選挙のやり方、1917年2月〜1918年5月
第2期、県庁所在地のソヴィエト選挙19/30でボリシェヴィキ惨敗
第3期、ソヴィエトから他党派排斥決定、惨敗ソヴィエトの武力解散、6月14日
第4期、平和的被選挙権の暴力的剥奪にたいする他党派の武力抵抗路線
第5期、チェーカーを使ったレーニンの他党派絶滅作戦
第6期、食糧独裁令・ソヴィエト権力簒奪への全階層総反乱
第7期、1921年2月ソヴィエト選挙の変質と共産党独裁のソヴィエト権力機構
第1期、初期のソヴィエト選挙のやり方、1917年2月〜1918年5月
二月革命におけるペトログラード・ソヴィエトの選挙の実態について、長尾久『ロシア十月革命』(亜紀書房、絶版)が詳述している。その抜粋を載せる。この時点、ボリシェヴィキはまだ少数派で、二月革命のデモ行進を妨害し、失敗させたほどだった。
「ペトログラード・ソヴィエト労働者の代表選出は、二月二八日と三月一日を中心としておこなわれた。ここで注目すべきは、ソヴィエトに代表を選出した労働者の広範さである。工場労働者だけではなくて、鉄道、郵便局、電信局、電話局、市電、病院などの職員、さまざまな仕事の職人、教師から、学生の一部までもが、労働者ソヴィエトに代表を送った。労働者数が千人よりずっと少ない中小工場は、何工場か合同で集会をおこない、そこから千人に一人の割で代表を選出した。また、職人や一部の職員の場合は、職種ごとに組合をつくって、そこから代表を選出した。
兵士代表が初めて本格的にソヴィエト総会に登場するのは、三月一日のことである。この総会で、兵士代表から一〇人が執行委員として選出され、ペトログラード・ソヴィエトは、労働者ソヴィエトから労兵ソヴィエトになった。兵士選出執行委員には、有名な人物、有名になる人物はほとんどいない。三月一日のソヴィエト総会は、労兵ソヴィエトを成立させたが、さらにその決定がペトログラード労兵ソヴィエト命令第一号として出されることによって、画期的な総会となった」(P.60)。
「この命令第一号によって、首都兵士のソヴェートへの忠誠は確保された。当時の兵士の欲求にこの命令が応えるものだったからである。そして、将校は兵士の厳重な統制下におかれ、国会臨時委員会は、ソヴィエトの意志に反しないかぎりでのみ、兵士の支持を受けうることになった。命令で言われている兵士委員会は、三月初めに首都の各部隊で急速に選出されていったようである。その際、各部隊選出のソヴィエト代表は兵士委員会のメンバーともなった。兵士委員会の選出は、将校選挙をも伴った。こうして、兵士大衆による指揮官選挙が始まったが、選出された者は将校だった。しかし、首都兵士が将校を統制しつつソヴェートに結集したことは、権力掌握を決意した国会臨時委員会にとって重大な問題だった」(P.63)。
全国労兵ソヴィエト大会における党派構成の変遷を、長尾久『ロシア十月革命の研究』(社会思想社、1973年、絶版)が分析している。また、塩川伸明HPが、第3回大会まで、すべての政党リストを挙げて(表)にしている。以下の(表)は、それらから、主要4政党のみを抜粋し、私(宮地)なりに編集し直したものである。第4、6回大会データの出典は、加藤一郎『ナロードの革命党史』(鹿砦社、1975年、絶版)である。
塩川伸明『塩川HP』ロシア・旧ソ連関係資料、ソヴィエト大会党派構成の変遷
第4回臨時ソヴィエト大会は、ブレスト講和条約の批准を議題とする大会だった。左翼エスエルは、講和条約に猛反対した。大会は、ボリシェヴィキの講和条約批准承認案を、賛成784、反対261、保留115で採択した。この採択結果は、ボリシェヴィキ30人が賛成しなかったことを示している。左翼エスエルは、人民委員会議を脱退した。ボリシェヴィキと左翼エスエルとの連立政権は、1917年12月から1918年3月までの3カ月間で終わった。以後、1991年ソ連崩壊まで、73年間、共産党一党独裁政権が続いた。ただし、左翼エスエルは、全ロシア中央執行委員会とソヴィエトには残った。
(表3) 全国労兵ソヴィエト大会における党派構成の変遷
政党・党派 |
第1回大会 1917・6 |
第2回大会 1917・10 |
第3回大会 1918・1 |
第4回大会 1918・3 |
第6回大会 1918・11 |
||
党員+同調者 |
大会アンケート委 |
諸党派事務局 |
労兵ソヴィエト |
農民ソヴィエト |
臨時大会 |
臨時大会 |
|
ボリシェヴィキ 左翼エスエル エスエル メンシェヴィキ |
105 285+20 248+8 |
300 193 68 |
390 160 72 |
441 112 35 22 |
309 278 |
814 238 ? ? |
933 反乱で4 追放で0 追放で0 |
計 |
822 |
670 |
649 |
942 |
705 |
1712 |
1160 |
第2期、県庁所在地のソヴィエト選挙19/30でボリシェヴィキ惨敗
1918年5月、6月
1917年8月から11月にかけて、ソヴィエト内のボリシェヴィキ支持率が急上昇した原因は、臨時連立政府と政府閣僚参加のエスエル、メンシェヴィキにたいする国民の批判・不満の激発にたいして、それ解決する「土地・平和・パン」という対案公約を、レーニンが掲げたことにある。
(1)、土地公約について、レーニンは、第2回ソヴィエト大会で、まず、エスエルの土地政策をそのまま採り込んで、農民が没収・分配した土地社会化を認めた。農民は、土地革命でほとんどが土地持ち中農となり、レーニンがエスエル政策拝借によって、それを事後承認した。農民は、その限りにおいてのみ、ボリシェヴィキを支持した。
(2)、平和公約については、1918年3月3日ブレスト講和条約で、ソ連が第一次世界大戦から単独離脱したことによって、ロシアに平和が戻った。左翼エスエルはそれに猛反対したが、国民は平和を歓迎した。兵士たちは、続々と都市、農村に帰った。
(3)、パン公約=飢餓の即時解決も緊急課題だった。労働者・農民・兵士たちは、戦争中から続いていた飢餓の解決として、レーニンが次のパン公約を即座に全面実施するものと期待した。80%・9000万農民の第2要求は、戦時統制経済=食糧専売配給制をやめ、穀物・家畜の自由商業に移ることだった。その方策こそ、数年間続いた飢餓を解決する唯一の道だった。それは、後に、一党独裁政権崩壊の危機に直面したレーニンが、政権維持の戦術的一時的後退策として採った1921年3月「ネップ」がもたらした飢餓解決という経済的効果が証明している。
ロイ・メドヴェージェフは、ソ連崩壊後、この時期の情勢分析を行い、1918年春に、「ネップ」=農民への現物税・自由商業という選択肢が十分可能であったし、その経済政策を採っていれば、悲惨な内戦を避けえたと結論付けている。
ところが、レーニンは、ツアーリ帝政による第一次世界大戦以来の穀物・家畜専売・配給制を続け、3月平和後もそれを廃止しようとしなかった。そのため、飢餓がますます深刻化した。さらには、1918年5月13日食糧独裁令を施行した。これは、一党独裁政権が、穀物・家畜に関して、自由商業要求を全面否定して、ボリシェヴィキが農民の生産物の価格・徴収・配給を独裁的に管理するという国家命令だった。これにたいして、ボリシェヴィキ党員以外の労働者・農民・兵士が強烈に反対した。左翼エスエルを含めて、ボリシェヴィキ以外の全政党が、食糧独裁令は重大な誤りとして批判した。これへの反発から、ボリシェヴィキ支持率は一気に激減した。
(表4) 第3段階、ボリシェヴィキ支持率の急落
「大衆がボリシェヴィキから顔をそむける」
1918年4月〜、とくに5月「食糧独裁令」以降
年月 |
支持率 |
内容 |
出典 |
1918.4〜8 |
44.8% |
100の郡ソヴィエト選挙結果、左翼エスエル23.1%、右翼エスエル2.7%、メンシェヴィキ1.3%、無党派27.1% |
『10月革命』P.212 |
1918.4 |
28.9% |
クロンシュタットのソヴィエト選挙、エスエル最左翼のマクシマリスト22.4%、左翼エスエル21.3%、メンシェヴィキ国際派7.6%、アナキスト5.4%、無党派13.1% |
I・ゲッツラー『クロンシュタット1917〜21』 |
1918.5〜6 |
19/30でボリシェヴィキ惨敗 |
県庁所在地19/30のソヴィエト選挙でボリシェヴィキ惨敗。メンシェヴィキ、エスエルや左翼エスエルが多数派となったソヴィエトは、カルーガ、トヴェーリ、ヤロスラーヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラトフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダなど |
『黒書』P.76 |
1918.7 |
代議員40人減 |
第5回ソヴィエト大会代表、ボリシェヴィキ773(40減)、左翼エスエル353(115増)。代議員計1164人 |
『10月革命』P.212 |
1918.7〜8 |
農民反乱 |
チェーカー・データによると、ヨーロッパ・ロシアの20県だけで、245件の「クラーク」蜂起を鎮圧した。100郡ソヴィエト以外でも、ボリシェヴィキ支持率はさらに低下 |
『1917年のロシア革命』P.94 |
「大衆がボリシェヴィキから顔をそむける」という見出しは、メドヴェージェフ『10月革命』(未来社、1989年)の「第4部、1918年の困難な春、第12章」(P.208)のものである。彼は、そこで支持率激落データとその原因を分析している。国民が目にしたものは、上記の政治・経済要求を全面実施するという公約にたいするボリシェヴィキ政権の不実行だった。それどころか、判明したのは、要求とは正反対の「赤色テロル」「食糧独裁令」型社会主義政策転換というレーニンの公約違反の裏切りだった。それを、国民が悟ったことによって、権力奪取クーデターのわずか6カ月後から、国民のボリシェヴィキ支持率が、急落したのは当然だった。
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−〈ソ連篇〉』第2章抜粋
ボリシェヴィキ支持率急落原因ととなったレーニンの公約違反の裏切り
レーニンは、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター後の6カ月間における政策実践で、それらの公約を守らなかった。それどころか、むしろ、公約したこととは逆の路線・政策を選択した。その路線を、共産党秘密政治警察28万人チェーカー体制という国家暴力装置を駆使して暴力的に強行した。
(公約1)「すべての権力を、(臨時政府ではなく)、労働者兵士ソヴィエトへ」という政権構想要求への裏切り
なかでも、クロンシュタット・ソヴィエトや、それを含むバルト艦隊ソヴィエトでは、1905年革命や二月革命における中心的ソヴィエトであった伝統に基づき、その政治要求がもっとも強烈だった。それを実行すると公約した政党としてのみ、メンシェヴィキ、エスエルという社会主義政党よりも、ボリシェヴィキを支持し、「十月革命」の栄光拠点ソヴィエトとなったのである。それだけに、彼らは、レーニンの公約違反の裏切りをもっとも早く悟った。上記(表)のように、ボリシェヴィキ支持率は、1917年11月バルト海艦隊の憲法制定議会選挙57.7%→1918年1月クロンシュタット・ソヴィエト選挙46.0%→1918年4月クロンシュタット・ソヴィエト選挙28.9%と激減した。
なぜなら、その6カ月間でレーニンのしたことは、労働者兵士ソヴィエトが自分たちで勝ち取った権力を、法令と暴力・赤色テロルで簒奪(さんだつ)し、ボリシェヴィキ一党独裁政権への国家権力の絶対的中央集権化を強化していったことだったからである。
労働者のボリシェヴィキ支持率は、単独では不明である。ただ、クロンシュタット・ソヴィエトのボリシェヴィキ支持率が、38.8%も下落して、28.9%になったと同じ程度に、ペトログラード労働者の支持率も、20%以上の下落をしたと推定できる。労働者ストライキ頻発のデータから見ると、1920年における220万人労働者のボリシェヴィキ支持率は、30%をはるかに割って、10%台になった推定する。
(公約2)「パン=飢餓の解決」という生活・経済要求への裏切り
飢餓は、ツアーリ帝政、臨時政府時点から受け継いだ負の遺産といえる。第一次世界大戦が継続したのは、1914年から、1918年3月3日ブレスト講和条約によるロシアだけの戦争単独離脱までだった。その期間は、戦争中という理由での国家権力による食糧専売・配給制だった。1917年5月以降、9000万農民は、左翼エスエルを除くすべての政党の反対に逆らって、自力で第1要求の土地革命を成し遂げた。戦争離脱後の農民、国民、ボリシェヴィキ以外のすべての政党が求めた「パン=飢餓の解決」政策は、農民の第2要求「穀物・家畜の自由処分権=自由商業の回復」だった。1921年「ネップ」で証明されたように、1918年3月以降の政策は、食糧専売・配給制という戦時統制経済を廃止して、資本主義的自由商業=市場経済の承認・奨励しかなかった。
ところが、レーニンらボリシェヴィキにとって、その政策は、クーデター手法で奪い取ったボリシェヴィキ一党独裁社会主義政権が、マルクス社会主義青写真の「市場経済廃絶、貨幣経済も廃絶」路線に背き、資本主義経済に逆戻りすることになるという社会主義経済への裏切り政策となった。レーニンは、国民の飢餓解決よりも、絶対的真理と信じたマルクス主義理論の教条的施行を選択した。それにより、飢餓は、さらに激化した。このマルクス理論が、根本的誤った机上の空論であったことは、1989年から1991年における10の前衛党一党独裁型市場経済廃絶路線の実験国がいっせい崩壊したことによって証明された。
(公約3)「土地」という80%農民の要求にたいする実質的な裏切り
土地革命を自力で成し遂げ、土地持ち中農となった農民は、次の段階として、穀物・家畜の自由処分権=自由商業を求めた。レーニンは、1921年3月の「ネップ」まで、その要求を一貫して拒絶し続けた。それどころか、彼は、飢餓が激化するのにたいして、1918年5月、「食糧独裁令」を発令し、農民からの食糧収奪路線の泥沼に踏み込んだ。これは、9000万農民の労働・生産意欲にまったくの無知な政策であり、ロシア農業を破壊するマルクスの市場経済廃絶理論の具体化だった。
権力奪取時点に、レーニンは、それに先行していた9000万農民の土地革命実績を否定するわけにもいかず、やむなく、土地の共同体(ミール)所有を、土地社会化法として認めた。その限りにおいてのみ、農民は、土地革命を否定し、鎮圧しようとした臨時政府やエスエル、メンシェヴィキよりも、ボリシェヴィキ支持に回っていた。しかし、この食糧独裁令は、農民が生産した穀物・家畜を軍事=割当徴発制の暴力で一方的に収奪するものだった。それは、まさに「土地」公約にたいするレーニンの実質的な裏切りである。むしろ、それ以上に、農民にとって、レーニンとボリシェヴィキは、土地革命にたいするクーデター指導者とクーデター政権となった。自力の土地革命に成功した農民たちが、その裏切り政策にたいして、ソ連全土での農民反乱に決起したのは、必然だった。
(公約4)「平和=戦争終結」という全国民的要求にたいする犯罪的な裏切り
レーニンは、権力奪取前、平和=戦争離脱・終結を力説した。それにより、ドイツとの戦争をまだ続けている臨時政府を批判するボリシェヴィキ支持率が急上昇した。1918年3月3日ブレスト講和条約によって、第一次世界大戦の東部戦線において、ロシアだけが単独離脱した。それは、ロシア国民に「平和」と息継ぎをもたらした。
ところが、レーニンは、その2カ月後の5月13日に、「食糧独裁令」を発令した。レーニン・政治局の目的は、2つあった。第1は、食糧人民委員部を中央集権化し、食糧の武装徴発隊を十数万人も農村に派遣し、チェーカーと赤軍の暴力手段で、穀物・家畜を収奪して、それによって飢餓状態を克服することだった。第2は、農村において、「貧農委員会」を組織し、「富農」にたいする階級闘争を起すことだった。それは、ボリシェヴィキ側が、農村に内戦の火をつけることによって、80%・9000万農民を社会主義化するという、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開政策だった。
レーニン・政治局にとって、プロレタリア独裁国家の権力基盤である軍隊と都市に食糧の供給を確保することが死活問題となっていた。彼らには2つの選択肢があった。1)、崩壊した経済の中で疑似・資本主義市場を再建するか、あるいは、2)、強制を用いるのかである。彼らはツアーリ体制打倒の闘争の中で、さらに前進する必要があるとの論拠から第2の方策を選んだ。この驚くべき無知、かつ犯罪的な思惑が、レーニン・政治局全員の社会主義構想であったことについては、ソ連崩壊後のロシア革命史研究のほとんどの文献が一致している。その証拠をいくつか挙げる。
(1)、スヴェルドロフの発言。「一九一八年五月にはすでに、スヴェルドロフが、中央執行委員会において、次のように述べている。われわれは、村の問題にとり組まなければならない。農村に、敵対する二つの陣営を作り出し、貧農をクラークに向けて蜂起させる必要がある。もし村を二つの陣営に割り、都市におけると同様に、村に内戦の火をつけることができるならば、その時にはわれわれは、都市と同じ革命に、村において成功することになるであろう」(ダンコース『ソ連邦の歴史1』、新評論、1985年、P.154)。彼の発言趣旨は、個人的なものでなく、レーニンを含め政治局全員が一致していた共同意思だった。
(2)、レーニンの発言。「一九一八年四月二十九日、全ロシア中央執行委員会の演説でレーニンは単刀直入に言った。我々プロレタリアが地主と資本家を打倒することが問題になった時、小地主と小有産階級はたしかに我々の側にいた。しかしいまや我々の道は違う。小地主は組織を恐れ、規律を恐れている。これら小地主、小有産階級に対する容赦のない、断固たる戦いの時がきたのだ。」(『共産主義黒書』(P.74))。レーニンのいう「小地主」とは、土地革命をした80%・9000万土地持ち中農のことである。それは、権力奪取6カ月後に、レーニンが土地持ち中農9000万人に仕掛けた宣戦布告だった。
(3)、食糧人民委員が同じ集会で言明。「わたしは断言する。ここで問題になっているのは戦争なのだ。我々が穀物を入手できるのは銃によるのみだ」(全露中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』(P.74))
(4)、トロツキーの発言。「我々の党は内戦のためにある。内戦とはパンのための戦いなのだ……内戦万歳!」(全ロシア中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』(P.74))。
(5)、カール・ラデックが1921年に書いた文。「彼は一九一八年春のボリシェヴィキの政策、すなわちその後二年間にわたって行なわれた赤軍と白軍の戦いへとつながる軍事的対決の発展の数カ月前の政策について、次のように解明している。一九一八年初めの我々の義務は単純だった。我々に必要なことは農民に次の二つの基本的なことを理解させることだった。国家は自らの必要のために穀物の一部に対して権利があるということ、そしてその権利を行使するための武力を持っているということである!」(ラデック『ロシア革命の道』)(『黒書』(P.74))
レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、政治局全員が、「村に内戦の火をつける」ための食糧独裁令を仕掛けたのは、どういう性質を持つのか。それは、5月時点のボリシェヴィキ党員35万人という「市場経済廃絶・貨幣経済廃絶」軍と、9000万農民・全他党派の「市場経済回復・実現」軍との内戦だった。市場経済廃絶軍は、党員だけでなく、チェーカー28万人、赤軍550万(1920年)という国家暴力装置、300万プロレタリアートを擁し、赤色テロルを行いつつ、余剰穀物収奪の戦争を先に展開した。市場経済回復・実現軍は、土地革命を自力で成し遂げた80%・9000万農民とともに、エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキ・アナキストという全他党派が参加した。それは、労働者と農民との内戦、都市と農村との内戦の性格も帯びた。それは、他党派にとって、レーニンの第4回目クーデターとなった。
ちなみに、第2回クーデターは、カデット機関紙、ブルジョア新聞の閉鎖命令、第3回は、ボリシェヴィキが敗北した憲法制定議会の武力解散をしたクーデターである。第5回クーデターは、下記にのべる6月14日全ロシア中央執行委員会と全ソヴィエトからのエスエル、メンシェヴィキ追放決定である。レーニンによるソヴィエト権力簒奪・党独裁の連続クーデターにたいして、労働者・農民・兵士と全他党派が猛反対し、総決起した。
しかも、ここには、内戦発生時期と原因に関する重大な問題がある。メドヴェージェフは、ソ連崩壊後の資料に基づいて、内戦の基本原因の一つを、ボリシェヴィキの食糧独裁令にあったとの新説を発表した。いわゆる内戦の勃発期日は、5月25日のチェコ軍団の反乱開始日である。それを導火線として、コルチャークなど白衛軍との内戦、外国干渉軍との戦争が広がった。
ところが、上記5人の農民との内戦開始演説・発言時期は、4月29日から数日間の第4回全ロシア中央執行委員会である。それは、チェコ軍団・白衛軍との内戦勃発の26日も前だった。ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』において、4月29日議事録を発掘し、メドヴェージェフの新説を追認・証明した。内戦を誰が先に仕掛けたのかは、明白な歴史的事実となった。それこそ、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開政策となった。レーニン・スヴェルドロフ、トロツキーこそが、5月13日、食糧独裁令発令によって、80%・9000万農民にたいする穀物・家畜収奪の内戦を開始したのである。食糧独裁令内容とその後の詳細は、農民ファイルで書いた。
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
こうして、レーニンは、(公約1〜4)を実行せず、それどころか、公約とは逆の路線・政策を選択したことによって、労兵農ソヴィエトや全国民の期待を裏切った。ボリシェヴィキ支持率が急落したのは、国民の期待が、政権発足後半年間で、幻滅と怒りに転化したからである。
なぜ、レーニンは、このような全面的公約違反をしたのか
「同床異夢」という言葉がある。要求を一つも解決できないケレンスキー臨時政府を倒して、ソヴィエト革命を成功させるという点では「同床」であっても、政権構想要求・経済要求をどう実現するかという手法・方向では「異夢」であったと、解釈することができる。十月クーデターは、最初から、レーニンと労兵ソヴィエト・国民の要求内容・方向に、根本的な食い違いを含んでいたとするのが、私(宮地)の見解である。これも、逆説のロシア革命史内容の一つである。
第1、労兵ソヴィエト・農民の要求内容・方向は何だったのか。十月とは、ソヴィエトによる地方分権型の連立政府樹立革命、市場経済回復型の民主主義革命になるべきである。
彼らが、レーニンの十月クーデターに参加して、望んだのは、プロレタリア独裁国家ではなく、ましてや、ボリシェヴィキ一党独裁・中央集権型政府樹立でもなかった。それは、要求どおり、自主的に形成された労働者・兵士・農民ソヴィエトが権力を掌握する、地方分権型政府樹立だった。飢餓の解決のために、農民の第2要求「穀物・家畜の自由処分権=市場経済の回復」を実現することだった。レーニンが仕掛けた市場経済廃絶路線と、それに基づく食糧独裁令による9000万農民との内戦を望んだ国民は、ボリシェヴィキ党員以外一人もいなかった。
第2、レーニンの基本目標と手段は何だったのか。十月とは、ボリシェヴィキ一党独裁・中央集権型政府樹立革命、市場経済廃絶型の社会主義革命の第一歩にすべきである。
レーニンの目的は、十月の最初から死ぬまで、権力、また権力であった。絶対的真理としてのマルクス主義社会主義青写真を実行するには、連立権力では不可能である。なぜなら、エスエルとは、小ブルジョア農民に依拠した空想的な社会主義政党である。メンシェヴィキは、社会主義といっても、ヨーロッパ改良主義型の社会民主主義政党だからである。よって、マルクスの絶対的真理を実現するためには、単独で権力奪取をし、社会主義を名乗るすべての他党派を排除・殲滅しなければならない。一党独裁権力の維持と赤色テロルを遂行する共産党秘密政治警察チェーカーの不断の強化こそすべてである。それが、レーニンの心理・思想の真髄だった。
その目的実現のためには、いかなる手段の使用も、マルクス主義真理の認識者・体現者たる私(レーニン)には許されている。権力奪取のためには、国民の政治・経済要求を全面的に実施するとウソをついて、それを戦術的に利用してもよい、というごうまんなエリート思想だった。追放された哲学者ベルジャーエフを初め、多くのレーニン批判者や、ソ連崩壊後のロシア革命史研究者が、このようなレーニン評価を持ってきている。ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」や大量のアルヒーフ(公文書)が明らかになるにつれて、レーニンという人物の評価が、180度逆転しつつある。
第3期、ソヴィエトから他党派排斥決定、惨敗ソヴィエトの武力解散
1918年6月14日、レーニンは、全ロシア中央執行委員会から、エスエル、メンシェヴィキを追放することを決定した。左翼エスエルは、追放対象にならなかったが、レーニンの犯罪に猛反対した。人民委員会議と全ロシア中央執行委員会との関係は、分かりやすく言えば、閣僚会議と政府機関のような関係にある。レーニンは、ボリシェヴィキ支持率激減、各地ソヴィエト選挙におけるボリシェヴィキ惨敗結果によって、一党独裁政権崩壊の危機に怯えた。
この時点、他党派は、犯罪的な食糧独裁令と貧農委員会法令を強烈に批判していただけで、ボリシェヴィキにたいする武力抵抗路線など打ち出していなかった。この排斥決定は、ボリシェヴィキ一党独裁の人民委員会議にたいする批判・反対が、反革命行動になるというでっち上げ口実に基づく暴力的追放作戦だった。
第3期のテーマについては、ソ連崩壊後の秘密資料を発掘したニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』が詳しい。それを抜粋する。
多発する農民反乱
初めこそいくらか成功したものの、貧農委員会の組織は一向に成果があがらなかった。農民の最貧農層を前面に押し出そうという考え自体、ボリシェヴィキが農民社会についてどれほど認識不足だったかを反映していた。マルクス主義の単純な図式から彼らは農民層が相対立する階級に分裂していると思っていたが、実際には農民は外の世界、町からやって来たよそ者に対して団結していた。余剰農産物を引き渡すという問題が起こるや、ただちに村の集会の共同体的・平等主義的反応が完全に働いた。
裕福な農民にだけ出させる代わりに、徴発の重荷は各自の負担能力に応じて割り当てられた。多くの中農に被害が及び、いたるところに不満が見られた。あちこちの地域で騒乱が起こった。チェーカーや軍隊に支援された食糧徴発隊の暴虐行為を前にして、一九一八年の六月から本物のゲリラが発生した。七〜八月になると当局によって「クラークの反乱」と規定された……このボリシェヴィキ的用語はすべての社会的カテゴリーを混同して全村が参加した暴動を意味するものに使われたが……一一〇の農民反乱が新政府の支配する地域で起こった。一九一七年に農民の土地収奪に反対しなかったところから一時ボリシェヴィキが獲得した信頼が、数週間で消え失せてしまった。食糧徴発政策は三年間に何千という反乱と暴動を生み、それは真の農民のゲリラとなったが、この上ない残虐なやり方で鎮圧された(P.75)。
反対派掌握のソヴィエトを武力で解散
政治面では一九一八年春の独裁の強化はすべての非ボリシェヴィキ系新聞の最終的発禁、非ボリシェヴィキ系ソヴィエトの解散、反対派の逮捕、多くのストライキの粗暴な抑圧となって表れた。一九一八年の五〜六月には、二〇五の社会主義的反対派の新聞が完全に発行禁止になった。メンシェヴィキや社会革命党が多数派だったカルーガ、トヴェーリ、ヤロスラーヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラトフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダのソヴィエトは、武力で解散させられた。弾圧はどこでもほとんど同じやり方で行なわれた。反対派が選挙で勝って、新しいソヴィエトがつくられると、その数日後に土地のボリシェヴィキは軍隊の応援を頼むが、それはたいていチェーカーの分遣隊だった。ついで戒厳令を出して、反対派を逮捕したのである。
反対派が勝利した町に自分の信頼する協力者を送ったジェルジンスキーは、一九一八年五月三十一日、トヴェーリヘ派遣した全権のエイドゥークに、自分の命令を実行するにあたってなにより有効な武力行使について、次のように単純率直に書いている。「メンシェヴィキやエスエルやその他反革命の畜生どもに影響された労働者たちは、ストライキを行い、「社会主義」めいた政府の創設に賛成を表明した。君はすべての市にポスターを張って、ソヴィエト権力に対して陰謀を企てるあらゆる匪賊、盗賊、投機家、反革命家はチェーカーによってただちに銃殺されると声明すべきだ。市のブルジョワに対しては特別の支援を頼むがいい。彼らを調べ上げよ。もし彼らが動きだしたら、このリストが役立つだろう。我々の地方チェーカーがどんな構成員からなっているか、わたしに聞いてくれ。人を黙らせるには一発ぶっぱなすのがいちばん有効だとよく知っている連中を使うことだ。わたしは経験から、少数の断固とした人間で情況を変えることができるということを学んだ。」
ソヴィエト解散・他党派追放への抗議デモ、ストライキと武力鎮圧・銃殺
反対派の掌握したソヴィエトを解散し、一九一八年六月十四日にソヴィエトの全ロシア執行委員会からメンシェヴィキと社会革命党員を排除したことで、多くの工業都市において抗議、デモ、ストライキが起こった。一方、そこでの食料事情はますます悪化していった。ベトログラード近くのコルピノにおいて、あるチェーカーの分遣隊長は労働者の食料要求デモに発砲を命じたが、彼らの配給食糧は一カ月小麦粉二フント〔〇・八キロ〕まで落ち込んでいた! その結果、十人の死者がでた。
同日、エカチェリンブルク近郊のべレゾフスキー工場では赤衛軍によって十五人が殺されたが、彼らは「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんよい家々を占拠した上に、土地のブルジョワジーから取り立てた一五〇ルーブルを横領したことに抗議の集会を開いたからだった。翌日には地区当局はこの工業都市に戒厳令を宣言し、モスクワの判断も仰ぐことなしに土地のチェーカーによって十四人が即座に銃殺された! 一九一八年の五月後半と六月にはソルモヴォ、ヤロスラーヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市のニジニ・タギール、ベロレツク、ズラトウスト、エカチェリンブルクなどで多くの労働者のデモが流血の中で鎮圧された。運動の抑圧において土地のチェーカーの役割がますます強くなった(P.76)。
第4期、平和的被選挙権の暴力的剥奪にたいする他党派の武力抵抗路線
食糧独裁令、貧農委員会路線にたいする批判・反発から、ボリシェヴィキ支持率は、40%台から30%台と著しい退潮に陥った。各地のソヴィエト選挙で、ボリシェヴィキが続々と惨敗し始めた。それにたいして、左翼エスエル支持率は、全国的に24%に伸張した。レーニンとチェーカーは、全ロシア中央執行委員会からのエスエル、メンシェヴィキ追放、ボリシェヴィキ惨敗ソヴィエトの武力解散というクーデターを強行した。そして、それにたいする労働者・農民のデモ・ストライキを武力鎮圧・銃殺で応えた。
社会主義他党派の平和的被選挙権は、レーニン指令によるチェーカーの暴力によって剥奪された。ソヴィエト選挙で勝っても、ジェルジンスキーとチェーカーによって、解散させられ、それらは次々とボリシェヴィキ党員独裁のソヴィエトに変質させられた。そのソヴィエト執行委員会は、チェーカーの暴力をバックにして、共産党員が独占した。二月革命以来のロシア革命とは何だったのか。
メンシェヴィキは、ソヴィエトの再選挙を要求するとともに、首都ペトログラードをはじめ、トゥーラ、ニージニイ・ノヴゴロド、サマラ、ヴォロネジなど武力解散させられた各地方都市で、各工場・施設から全権委員を選び、労働者全権委員会議を組織した。それにより、ボリシェヴィキの平和的被選挙権剥奪の暴挙に対抗した。
左翼エスエルは、全ロシア中央執行委員会内と各級ソヴィエトに留まっていた。その中で、食糧独裁令、貧農委員会路線や他党派にたいする被選挙権剥奪と武力鎮圧・銃殺方針に敵対するようになった。なぜなら、全ロシア中央執行委員会において、左翼エスエルが強烈な批判・反対意見を、何度も発言しているのにもかかわらず、ボリシェヴィキは、農民反乱の弾圧・大量殺人、他党派や抗議デモ・ストライキへの鎮圧・銃殺を一段と強化していっていたからである。
6月24日、左翼エスエル中央委員会は、その状況において、ボリシェヴィキやチェーカーの暴力と衝突した場合は、武装自衛することを決議した。
7月4日、第5回ソヴィエト大会が開かれた。代議員1164人のうち、ボリシェヴィキ773(40減)、左翼エスエル353人(115増)だった。左翼エスエルのスピリドーノヴァは、そこで、ボリシェヴィキ党の反革命的裏切りを語気するどく弾劾した。
7月6日、午後三時、モスクワのドイツ大使館から爆発音が全市に響きわたった。左翼エスエル7月モスクワ反乱の開始である。7月反乱は、権力奪取をめざした計画された戦術としての蜂起ではなく、ドイツ大使暗殺→ドイツとの戦争再開→対ドイツ・パルチザソ的革命戦争→左翼エスエルのイニシアティヴの増大を目指す過程としての戦術といった性格を持っていた。そのために党内の意志一致もなされておらず、反乱は一両日中に鎮圧されてしまった。
第5期、チェーカーを使ったレーニンの他党派絶滅作戦
レーニンは、社会主義他党派によるボリシェヴィキ路線・政策批判に「反革命」というレッテルを貼ってきた。今度は、ソヴィエトからの他党派追放、惨敗ソヴィエトの武力解散への抗議行動、ストライキ、武力抵抗すべてに「武装反革命」というレッテルを付けた。そして、ジェルジンスキーとチェーカーに、他党派とボリシェヴィキ批判勢力の絶滅作戦を指令した。
はたして、レーニンと他党派とのどちらが「武装反革命」だったのか。この問題に関するソ連崩壊後の評価は180度逆転している。中野徹三『社会主義像の転回』(三一書房)が、プロヴキンの研究を紹介している。多数のボリシェヴィキ惨敗ソヴィエトが武力解散させられ、ストライキ参加者が日常的に逮捕され、戒厳令が押し付けられた後、こうして選挙による政治が消滅した後にはじめて、メンシェヴィキ、エスエル、農民、多くの都市労働者たちが、ボリシェヴィキ独裁にたいする武装闘争に転じた。
プロヴキンは、6月14日、全ロシア革命中央執行委員会が決定したエスエル、メンシェヴィキの全ソヴィエトからの追放を、ロシアにおける一党独裁確立の転換点と呼んでいる。この暴挙が、コムチの成立を契機に危機に瀕したソヴィエト内のボリシェヴィキのヘゲモニーを反対党の完全な排除によって、立て直そうとする政治的意図に支えられていたことは、ほぼ確実といってよい。無党派の労働者代表機関としてのソヴィエトは、名実ともにここに死んだ(P.218)。
1918年5〜6月、ペトログラード・チェーカーは、ストライキ、反ボリシェヴィキ集会、デモなど70の事件について報告した。彼らの主力は1917年とそれ以前において、最も熱烈にボリシェヴィキを支持していた労働運動の砦たる金属労働者だった。彼らのストライキに対して当局は国営化された大工場をロックアウトすることで応えたが、このやり方はその後何カ月かの間労働者の抵抗を打ち破る常套手段となった。労働者ストライキにたいして、社会主義権力と共産党が行う、工場ロックアウトとは、一体何なのか。
6月20日、ペトログラードのボリシェヴィキ指導者ヴオロダルスキーが、エスエル活動家によって暗殺された。そのあと、ペトログラードの労働界はかつてない連続逮捕に見舞われた。すでに、ペトログラード・ソヴィエトは、チェーカーの暴力をバックにしてボリシェヴィキ党員に独占されていた。それに対抗する労働者の反権力組織としてペトログラードにできた「労働者全権会議」は解散させられた。2日間で、大部分がメンシェヴィキからなる800人以上の「首謀者」が逮捕された。この大量逮捕に対して労働者側は1918年7月2日、ゼネストの呼び掛けで応えた。
1919年2月、ジェルジンスキーとチェーカーは、レーニンの指令を受けて、スピリドーノヴァを含む左翼エスエル500人以上を逮捕した。
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
第6期、食糧独裁令・ソヴィエト権力簒奪への全階層総反乱
1918年4月29日、レーニン、スヴェルドルフ、トロツキーと全ロシア中央執行委員会は、80%・9000万農民にたいする内戦開始を決定した。その時点の共産党員は35万人だった。それは、一党独裁権力による農民の社会主義化路線であり、都市の農村にたいする内戦、300万労働者の9000万農民にたいするプロレタリア独裁の内戦開始宣言だった。
5月13日食糧独裁令と6月11日貧農委員会の組織化法令は、レーニンが先に仕掛けたロシア農村を社会主義化する内戦の戦略・戦術だった。6月14日、レーニンは、全ロシア中央執行委員会と全ソヴィエトから、エスエル、メンシェヴィキを追放する決定をした。これらは、レーニンが、4つの政権公約「すべての権力をソヴィエトへ」「土地・平和・パン」を裏切る一党独裁型最高権力者となったことを、全階層の前に、公然と剥き出しにしたことであった。それは、11月7日単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターからわずか6カ月後のことだった。
レーニンの心境は、国家権力を武装蜂起で奪取してしまえば、あとは、国家暴力装置としてのチェーカー・赤軍を使って、絶対的真理としてのマルクス主義社会主義青写真を全面遂行するだけということであった。レーニンにとって、その科学的真理を批判し、それに抵抗・敵対する国民・政党は、反革命分子・人民の敵だった。それら自国民を赤色テロル手段で、追放し、逮捕・銃殺・強制収容所送りすることは、スイス長期亡命中に、パリコミューンの教訓として、レーニンが胸に刻み込んだことだった。
5月25日、ウラジオストックまで行ってからチェコに帰還する途中の完全武装チェコ軍団5万人が、レーニンの武装蜂解除命令を受けた。彼らは、それに抵抗し、反乱を起した。チェコ軍団は、第一次世界大戦中のツアーリ正規軍で、白衛軍とは異なる。彼らは、シベリア鉄道移動・帰還中の武装蜂解除命令をボリシェヴィキによる殲滅政策と受け取った。武装帰還中の5万人を反乱させたのは、レーニンの誤りだった。ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』が、レーニンの誤りを詳しく分析している。これは、白衛軍との本格的な内戦を誘発し、その拡大の引き金になった。
したがって、内戦といっても、(1)レーニンが先に仕掛けた80%・9000万農民の社会主義化内戦、ソヴィエト権力簒奪内戦と、(2)レーニンの誤りが引き起こしたチェコ軍団反乱、それに誘発された白衛軍との内戦という2種類がある。ソ連崩壊前の公式レーニン伝や公式ロシア革命史は、(1)を歴史から抹殺し、(2)の内戦だけを一面的に誇張している。
(1)の内戦期間は、1918年4月29日、5月13日、6月14日の一連の決定によって、レーニン側から開始され、1921年2月22日から3月18日のペトログラード労働者全市的ストライキ、クロンシュタット平和的要請行動・反乱、および、7月タンボフ県一帯の数万人規模のアントーノフ農民反乱鎮圧・農民大虐殺までの約3年2カ月間である。
(2)の内戦期間は、1918年5月25日チェコ軍団5万人反乱、白衛軍との戦闘から、1920年11月17日ウランゲリ軍壊滅までの2年6カ月間であった。
(1)の内戦経過は、別ファイル転載文献で分析した。ここでは、そこで集計した(表)のみをいくつか転載する。
(表5) 1918年5月から20年までの農民反乱
これらは内戦期間中のデータである。その期間には、「白衛軍と赤軍との戦争」と「農民反乱とチェーカー・赤軍との戦闘」とが混在していた。その区別が難しいが、下記データは、白衛軍との内戦から区別して、農民反乱だけを取り出したものである。
期間 |
項目 |
地域と規模 |
出典 |
1918〜20 1918 1918・6 |
「ソヴィエト政権転覆の陰謀」 農民射殺 有名な暴動 農民銃殺 |
各県で続々と発覚したソヴィエト政権転覆の陰謀、リャザンで2件、コストロマ、ヴイシニイ・ヴォロチョク、ヴェリジで各1件、キエフ、モスクワで各数件、サラトフ、チェルニゴフ、アストラハン、セリゲル、スモレンスク、ボブルイスク、タンボフ、カヴァレリイスク、チェムバルスク、ヴェリーキエ・ルーキ、ムスチスラーヴリで各1件など 貧農委員会が村ソビエトの入口階段の陰や裏庭で片づけた人びとはどの欄に入れたらよいのか? ヤロスラフ、ムーロム、ルイビンスク、アルザマスの暴動 コルピノでの銃殺だが、これはどんな事件なのか? どんな人びとが殺されたのか? |
『収容所群島』 (P.41) |
1918 |
農民蜂起 |
17年の農民運動の先頭に立っていたトゥーラ、ヤロスラーヴリ、タムボフ、オリョール、ニジェゴロド、リャザニ、クルスク、ペンザ、ヴィヤトカ諸県をはじめとする18年の大規模な農民蜂起 それらの県で54件の農民反乱 |
長尾久『ロシア十月革命の研究』、『飢餓の革命』所収 |
1919・3 |
コサック反乱 |
「コサック絶滅赤色テロル」指令への反乱。メドヴェージェフ『この指令は、極めてひどい誤りであるばかりではなく、ロシアと革命にたいする犯罪行為であった』 ドン・コサック15000人、クバンとテレク・コサック35000人が決起。「赤いコサック(革命派)」も、全員が「反赤軍」に転化、白衛軍と連携。 |
『1917年のロシア革命』(P.121) 植田樹『コサックのロシア』(P.188) |
1919前半 |
農民反乱 |
クルスク県で106件、ヴォロネジ県で101件、オリョール県で31件の農民反乱を確認。報告では、反革命的原因が72件、動員が51件、兵役忌避が35件、徴発が34件 |
『飢餓の革命』 (P.31) |
(表6) 1920、21年の農民反乱と規模
この時期の農民反乱は、すべて、白衛軍との関係を持たない。1920年夏の白衛軍との内戦の基本的終結を待って、食糧独裁令の軍事=割当徴発制への不満、反対が爆発したものである。かつ、その撤回と穀物の自由処分=自由商業を求め、チェーカー・赤軍の穀物徴発暴力にたいする武装要求行動だった。過酷な軍事・割当徴発により、餓死寸前に追いこまれた段階での、死に物狂いの決起だった。21・22年における500万人の飢饉死亡者がその極限状況を証明している。
期間 |
名称 |
地域 |
規模と内容 |
出典 |
1920〜21.8 |
マフノ農民軍 |
ウクライナからドン川流域 |
5万人。ドイツ占領軍や白衛軍と戦闘。デニーキン軍の後方部隊を殲滅。赤軍と「政治・軍事協定」を結び、赤軍を助けてウランゲリ将軍を壊滅させた。 その後、「食糧独裁令」撤廃を要求。レーニン指令により司令官フルンゼは、農民軍を「ソヴィエト共和国と革命の敵」と宣言し、武装解除を命令。農民軍はそれを拒否して赤軍と戦闘。対マフノ鎮圧部隊の歩兵・騎兵数万人を派遣。双方に数万人ずつの死者を出す激戦で武力鎮圧 |
『1917年のロシア革命』(P.126) 『ロシア・ソ連を知る事典』 『ロシア史(新版)』 |
1920〜21・2 |
西シベリアの反乱 |
西シベリアの5地方、8県、14郡 |
4万人〜6万人、数百の組織。20.10、ウファー県ウイスコエ地区1000人集結、うち800人が武装し、執行委議長、民警隊長、地区食糧全権を殺害。オレンブルグ県24000人の反乱で「コムニスト打倒」「憲法議会万歳」のスローガン。21.2の反乱、シベリア鉄道の主要な駅すべてを占拠、3週間にわたり鉄道交通麻痺、8県14郡でボリシェヴィキ権力麻痺 |
『クロンシュタット1921』 『1917年のロシア革命』(P.121) |
1920・8〜21・6 |
アントーノフの反乱(タンボフの反乱) |
タンボフ県と他4県 |
5万人。300の「反乱」農民組織。8月決起、10月「反乱」農民3000人、21年2月5万人。20.9、「反乱」農民は、戦闘で赤軍2個中隊を武装解除し、ライフル銃400丁、機関銃4丁を奪う。21.1、タンボフ連隊は、赤軍から武器を奪い、各連隊がそれぞれ機関銃12丁を持つ。100人から150人からなる6個の騎兵中隊。パルチザンは、ライフル銃で武装し、各人45発の実弾を携行。21.2までに、キルサノフ郡では、党員の約半分がアントーノフ側に寝返り |
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 |
1920・2 |
人民農民軍 |
ウファー、カザン、サマラ県の6郡 |
「軍事=割当徴発」への不満による反乱。当初4000人。参加者40万人。西部方面軍を派遣し、戒厳令をひき、武力鎮圧。3.30、ウファー県での戒厳令解除 |
『同上』 |
1920・10 |
凶作下での徴発への反乱 |
ヴォロネジ県 |
凶作に直面し、それでも「軍事=割当徴発」強行への不満が爆発。騎兵5000人からなる農民部隊の決起 |
『同上』 |
1920・11〜21・3 1920秋〜21春 |
総計 総計 |
全土 全土 |
チェーカーは、118件の農民一揆を報告 反乱数は数百件。鉄道にたいする攻撃と事故数千件 |
『クロンシュタット1921』(P.14) 『1917年のロシア革命』(P.126) |
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
(表7) 労働者ストライキと参加者の大量逮捕・処刑数
これは、労働者ファイルのデータを(表)にしたものである。出典は、すべてニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』のページ数である。ただ、未判明分、未記載分が多くあり、数字に含めていない。レーニンが、どれだけのストライキ労働者を逮捕し、殺したのかを検証する。1991年ソ連崩壊がなければ、これらのデータは、完璧に隠蔽され、レーニン讃美が続いていた。
年 |
地方・都市 |
月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
1917 |
ペトログラード |
12、公務員ストライキ |
「リーダー」逮捕 |
70 |
1918 |
モスクワ ソ連全土 コルピノ エカチェリンブルグ 7都市 ペトログラード (ボ)支配地域 ヤロスロヴリ ペルミ県 |
4.11、アナキスト襲撃 5、6、社会主義的反対派新聞 反対派勝利のソヴィエト解散 5、6、労働者の食糧要求デモ 5、6、ベレゾフスキー工場の抗議集会 5、6、抗議集会、デモ、ストライキ 5、6、ストライキ、集会、デモ70件 6.20、暗殺への「赤色テロル」 7.2、抗議のゼネスト呼び掛け 夏、大規模な「農民反乱」140件 7.24、イジェフスク兵器労働者蜂起 11、モトヴィリハ武器工場ストライキ |
逮捕520人、処刑25人 新聞205を発行禁止 19/30で敗北、12を解散 射殺10人 殺害15人、銃殺14人 流血の鎮圧 ロックアウト、指導者逮捕 逮捕800人 弾圧、スピリドーノヴァ逮捕 処刑428人 ロックアウト、全員解雇、逮捕、処刑100人以上 |
73 75 76 78 80 81 87 |
年 |
地方・都市 |
月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
1919 |
ペトログラード 9都市 4都市 アストラハン トゥーラ |
3.10、全市の抵抗運動とストライキ プチーロフ工場も党独裁批判の宣言 春、ストライキ 春、労働者街にある兵営の軍隊反乱 3.10、食糧配給量と社会主義活動家逮捕への抗議ストライキ、デモ。それへの発砲拒否の第45連隊の合流。クロンシュタット虐殺前のボリシェヴィキ権力による最大の労働者虐殺 冬、多くの武器製造工場でストライキ 3月初め 3.27、何千という労働者と鉄道員の「自由を求め飢えと闘う行進」 |
全員解雇、逮捕900人、処刑200人、密告者網 ロックアウト、処刑、配給停止 何百とまとめて処刑 スト参加者と反乱兵士の銃殺・溺死処刑2000人から4000人。ブルジョア銃殺600人から1000人共産党側犠牲47人 社会主義活動家逮捕数百人 「リーダー」逮捕、全労働者解雇、ロックアウト、配給券差押え、「リーダー」死刑20人 |
94 95 96 96 |
年 |
地方・都市 |
月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
1920 |
レーニン プラウダ 労働人民委員部の公式統計 シンビルスク エカチェリンブルグ リャザン・ウラル線 モスクワ・クルスク線 ブリヤンスク ソ連全土 |
2.1、『何千もの人間が死んでもかまわないが、国家は救われなければならない』 2.12、『これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は、強制収容所である』 20年前半、ロシアの大・中規模の工業経営の77%でストライキ。「労働の軍事規律化」が最も進んだ金属工業、鉱山、鉄道が中心 4、武器工場で「イタリア・ストライキ型サボタージュ」=許可なし休憩、日曜強制労働に抗議、共産主義者の特権批判、低給与告発 「労働の軍事規律化」への抗議ストライキ 4、鉄道員 5、鉄道員 6、金属工場 「労働の軍事規律化」によるストライキ例は、さらに何倍もある |
収容所送り12人 逮捕・収容所送り80人 有罪100人 有罪160人 有罪152人 それへの弾圧も何倍もある |
98 99 |
ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−〈ソ連篇〉』第2章抜粋
(表8) 兵士反乱・兵役忌避と大量逮捕・処刑数
期間 |
項目 |
地域と規模 |
出典 |
1918夏 |
徴兵制 |
18年夏に徴兵制。赤軍は4月15万人、9月55万人、20年末550万人。21年3月ブレスト条約後の動員解除で250万人が帰村 |
『事典』 |
1919 1919春 |
兵役忌避 アストラハン |
兵役忌避とは、徴兵逃れと脱走兵とを含む。19年中の兵役忌避者は、徴兵逃れ91.7万人と脱走兵176.1万人。合計267.8万人。20年も同じとして計算すると、2年間で535万人。脱走兵には、捕獲作戦と処罰通告・家族人質政策による脱走後の帰還兵も含む 春、労働者ストライキと労働者街にある兵営の軍隊反乱 3.10、食糧配給量と社会主義活動家逮捕への抗議ストライキ、デモ。それへの発砲拒否の第45連隊の合流。クロンシュタット虐殺前のボリシェヴィキ権力による最大の労働者・兵士虐殺 スト参加者と反乱兵士の銃殺・溺死処刑2000人から4000人。ブルジョア銃殺600人から1000人共産党側犠牲47人 |
『飢餓の革命』 (P.14)、『レーニンの秘密』 『黒書』(P.96) |
1920 |
兵役忌避 |
20年3月、クルスク県チェーカーは、兵役忌避は増加している、現在まで約6000人を捕獲したが、県にはまだ約1万から15000人が捕獲されずにいる、それとの闘争はまったく不可能であると報告 チェリャビンスク県の20年末までの活動総括。19年11〜12月で2242人、20年4月に4230人、9月に1692人が捕獲された。この闘争で次第に抑圧的措置が頻繁に適用されるようになり、20年8月までは財産没収は60件。それ以後の3カ月間で404件の没収が行われた。 |
『飢餓の革命』 (P.14) 『飢餓の革命』 (P.16) |
これらの具体的事件内容とデータは、農民ファイル・労働者ファイルにある。
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
第7期、1921年2月ソヴィエト選挙の変質と共産党独裁のソヴィエト権力機構
レーニンは、ソヴィエト選挙の実態を、1918年6月14日全ロシア中央執行委員会決定で、完全に変質させた。そして、7月6日反乱で、左翼エスエルも全ソヴィエトから追放した。ソヴィエトからの追放だけでなく、レーニンは、共産党以外の全他党派幹部を大量逮捕し、ロシア政治からの他党派完全排除を図った。
クロンシュタット水兵・基地労働者が要請した「自由で平等な新選挙」とは何なのか。逆の言い方をすれば、「自由がなく、平等でなくなった、昨今のクロンシュタット・ソヴィエト選挙」「共産党員だけのクロンシュタット・ソヴィエト執行委員会」の実態はどうなっているのか。クロンシュタット15項目綱領のうち、この第1項目こそ、クロンシュタット水兵が平和的要請行動をした中心テーマであり、かつ、レーニンが一党独裁政権崩壊の恐怖におののいて、皆殺し対応をした謎を解くかぎとなる。
1917年11月25日、憲法制定議会選挙は、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターの18日後に始まった。これは、誰もどの党派も排除しないヨーロッパ型の普通選挙だった。投票率は、約50%だった。得票率25%少数派ボリシェヴィキは、憲法制定議会を武力解散し、75%の他党派支持国民・党派を敵に廻した。この時点、クロンシュタット・ソヴィエトは、ボリシェヴィキ支持、武力解散賛成の立場だった。
ソヴィエト選挙は、全国いっせい普通選挙と異なる。各ソヴィエトは、直接民主主義・地方分権的であり、その総会で執行委員や代表団を選ぶ。ただし、旧帝政関係の勢力、カデット党員、商人、「クラーク」など有害分子の選挙権をあらかじめ剥奪している。それ以外のソヴィエト構成員の被選挙権は、誰にもどの党派にも与えられた。県ソヴィエトやソヴィエト大会への代議員は、各党派の比例代表制で決められた。それは、1918年6月14日以前における第3回ソヴィエト大会までの党派構成の発表数字からも証明できる。
1918年6月14日以後、1921年3月1日クロンシュタット16000人集会までの2年7カ月間のソヴィエト選挙の実態はどうなったのか。ソヴィエト式選挙なので、従来からの有害分子の選挙権を剥奪するシステムが続いていた。しかし、レーニンは、6月14日決定の全面執行によって、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエルなどの全他党派党員から、代議員やソヴィエト執行委員に選ばれる被選挙権を剥奪し続けた。たまたま、社会主義他党派党員が選ばれたとしても、チェーカーが直ちに他党派所属の代議員を逮捕し、監獄にぶち込んだ。全国の監獄は、他党派党員で溢れた。ジェルジンスキーとチェーカーは、当然のように、逮捕者の後釜に、共産党員を据えた。かくして、ソヴィエト機構は、レーニンの強烈な意志によって、共産党の、共産党員だけによる、共産党のための絶対的中央集権国家機構に変質させられた。
二月革命スタート時点のソヴィエトは、労働者・兵士が独創的に作りだし、自然発生性・地方分権性・分散性の性格を持った労働者・兵士代表機関だった。ソヴィエト選挙は、自由で平等なやり方でなされた。その指向方向は、絶対的中央集権国家機構を否定していた。ボリシェヴィキはその結成・発展にほとんど関与していない。
スイス長期亡命者レーニンは、ドイツ政府・軍部の政治的軍事的思惑によって、ドイツ軍封印列車で帰国できた。彼は、暴力革命・権力奪取・革命政権樹立において、ソヴィエトの利用価値が高いことに目を付けた。1917年4月、「すべての権力をソヴィエトへ」スローガンは、瞬時に、労兵ソヴィエトメンバーの心を掴んだ。ただし、レーニンの国家権力構想は、(1)労働者が2%・300万人しかいないロシアにおけるプロレタリア独裁であった。2%が98%国民にたいして独裁政治をするシステムである。そして、(2)マルクス主義世界観政党として絶対的真理を唯一体現している前衛党・ボリシェヴィキが中核となる政権であり、かつ、(3)ツアーリ絶対主義的帝政にたいしての地方分権型国家ではなく、中央集権国家機構を目指していた。
レーニンがソヴィエト機構を利用できると狙った4月時点、および、11月7日単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター時点以来、下部の労働者・農民・兵士ソヴィエトと、レーニンの思惑とは、深刻な二重性を孕みつつ、1918年6月14日までは、同床異夢の状況のままで、深部で亀裂が広がっていった。ついに、6月14日、レーニンは、ソヴィエトの二重性を暴力で破壊し、ソヴィエトをボリシェヴィキの党独裁機関に変質させた。彼は、それによって、ソヴィエト民主主義を全面的に破壊し、共産党によるソヴィエト権力簒奪を図ったのである。
ソ連崩壊後の研究は、ほとんどが、6月14日から数カ月間を、レーニンによるソヴィエト国家破壊から共産党独裁国家への転換点と規定している。マーチン・メイリア『ソヴィエトの悲劇・上』(草思社、1997年)も、次のように書いている。「七月から八月にかけて、ボリシェヴィキ政権にとっての危機が増大するにつれて、各地のソヴィエトは完全に党の支配下におかれ、このとき以来、ソヴィエトはたんなる形式的な組織になった。こうして夏の終わりまでに、一九一七年にはいくらか姿を現わしかけたコミューン国家は、完全に党国家にとって代わられた。チェーカーは、人民の敵、反革命、反党活動者を片つ端から摘発した。こうしてプロレタリア独裁は、レーニンの好んだ解釈どおり、すべての法を超えた無限の権力という徹底した、革命以後の意味をもつようになる」(P.212)。
その結果、ソヴィエト選挙はどうなったのか。1918年末から19年における農民ソヴィエト選挙の変質について、梶川伸一『飢餓の革命』が、ソ連崩壊後、膨大なアルヒーフ(公文書)を発掘して検証している。
「共産党指導官のべレゾフスカヤ郷への到着後、彼により郷特別委と郷執行委の会議が設けられ、そこで村の貧農委組織から提出された候補者の審議が行われ、調書を検討し、権利を持たない者が排除された。この後、ソヴィエト大会が開かれ、郷ソヴィエトが選出された。クルスク県ノヴォオスコル郡の一九年一月の郷貧農委大会で行われたように、選挙特別委員には共産党により指名された人物が承認され、次いで共産党により提起された候補者名簿が読み上げられ、承認された。
ペンザ県チェムバル郡郷ソヴエト改選の際に市から共産党代表が到着し、彼は集会で、まずコムニストからなる候補者を指名するよう集会に通告した。このほか、様々な権力組織が改選カムパニアに介入した。一二月末に行われたオロネツ県ロデイノポレ郡の村ソヴィエト改選では、郷ソヴィエト執行委から三人の共産党代表が全体集会に臨席し、こうしてコムニストとシンパからなる村ソヴィエトが選出された」(P.561)。
レーニンは、共産党以外の他党派をチェーカーの暴力で完全排除・逮捕し、政党間のソヴィエト選挙競争を廃絶した。ソヴィエトは、社会団体や地域からなる。そこのソヴィエト選挙は、該当共産党機関が、事前調整という指令をし、小選挙区なら、候補者は共産党員一人だけとなる。中選挙区なら定員と同数の共産党員かシンパの候補者が立ち、投票は信任投票となった。ソヴィエトだけでなく、労働組合や他の社会団体の役員選挙も、同じとなり、他党派党員は完全に事前排除され、共産党員とシンパだけの組織に変質した。
一体、これは、労働者・農民・兵士ソヴィエトが目指した理想の社会主義システムだったのか。ソヴィエト、労働組合、社会団体すべてが、共産党独裁国家権力機構の歯車の一つになってしまったことにたいし、35万共産党員以外の労働者・農民・兵士は、もはや、我慢できなくなった。彼ら全階層は、総反乱で応えた。レーニンは、彼らに反革命・人民の敵レッテルを貼って、ジェルジンスキーと28万人チェーカーに皆殺し対応を指令した。はたして、どちらが反革命・人民の敵だったのか。
全国の労働者・農民・兵士ソヴィエトが創りだしたソヴィエト大会は、当初3カ月間に1回開くとされていた。それは、なし崩し的に、1年に1回となった。その執行機関としての全ロシア中央執行委員会の権限は、レーニンを議長とする共産党員独占の人民委員会議に奪われた。さらには、重要決定は、人民委員会議か共産党中央委員会の名で下された。もちろん、形式的に、全ロシア中央執行委員会の連名になることもあった。これらの変質過程を、ベトレーム『ソ連の階級闘争』(第三書館、1987年、絶版)が分析している。
それにたいして、二月革命以来、革命運動に参加してきた労働者・農民・兵士が、そして、社会主義他党派が、レーニン・ボリシェヴィキ批判の総反乱に決起したのは必然だった。一方、レーニンは、スイス亡命時にパリコミューンの教訓を必死に研究し、それを一面的に歪曲して受け止め、プロレタリア独裁権力維持には、赤色テロル・反革命者の大量殺人が絶対に必要だと胸に刻んで帰国した。彼が、反対者にたいして、チェーカー、赤軍の暴力を使って、反革命・人民の敵レッテルを貼りつけ、自国民の大量殺人を指令したのも、彼の赤色テロル是認思想が生み出した当然の行為だったといえる。
1917年11月7日、ペトログラード・ソヴィエトとクロンシュタット・ソヴィエトは、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを支持した。そこでのソヴィエト選挙は、自由で平等であり、有害分子以外、誰もどの他党派党員も排除されなかった。彼らは、社会主義革命の夢に燃えていた。
それから3年4カ月経った1921年2月時点、2つの革命拠点ソヴィエトの実態はどうなっていたのか。ソヴィエトの形式名とシステムは残っていた。しかし、2つとも、ソヴィエト執行委員会は、共産党員で独占されていた。ペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフは、ペトログラード内の全労働組合執行委員会も共産党に占拠させていた。労働者ストライキは、当然、共産党員占拠労働組合に対抗して、山猫ストライキにならざるをえなかった。ペトログラード・チェーカーは、彼の指令の下に、山猫スト参加労働者を大量逮捕していた。クロンシュタット・ソヴィエト執行委員会も、共産党員しかいなかった。兵士委員会は、共産党により解散させられ、兵士による将校選挙も途絶した。軍隊内のコミッサール、共産党政治部が絶対的権限を持ち、水兵たちを支配した。
自分たちが創りだしたソヴィエトが、レーニンによって、労働者・水兵支配の弾圧機関に変質させられたと悟ったとき、誇り高いペトログラード労働者とクロンシュタット水兵・基地労働者は、どうすればいいのか。どうしたのか。それが、1921年2月22日から3月18日までのペトログラードとクロンシュタットの25日間である。
(関連ファイル)
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との関係
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版
P・アヴリッチ
『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット 『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
ヴォーリン 『クロンシュタット1921年』反乱の全経過
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
大藪龍介
『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱
中野徹三
『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散
梶川伸一
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
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