「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害と
レーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(1)
(宮地作成)
〔目次〕
2、存否論(1)、ソ連人口におけるプロレタリア比率とボリシェヴィキ支持率(表1〜5)
3、存否論(2)、「プロレタリア独裁国家」下での労働者ストライキ激発と流血の鎮圧
1917年12月〜1920年(表6、7) (別ファイル・虚構2)
4、存否論(3)、ペトログラード労働者の大ストライキと大量逮捕・弾圧・殺害手口
1921年2月22日〜3月3日 (別ファイル・虚構3)
5、「プロレタリア独裁」を虚構看板とした「党独裁」
(注)、このファイルは、レーニン・政治局による「ストライキ」労働者の大量殺害問題と「プロレタリア独裁国家」の存否論というテーマを扱うだけに、その論証データが膨大になりました。よって、ファイルを(虚構1、2、3)と3分割しました。印刷すると、〔目次1、2〕13ページ、〔目次3〕19ページ、〔目次4、5〕23ページで、全部は55ページになります。
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計(宮地作成)
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実(1)
聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理 (宮地作成)
「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』とレーニンの党派性 (宮地作成)
レーニン「分派禁止規定」の見直し逆説・1921年の危機 (宮地作成)
ザミャーチン『われら』と1920、21年のレーニン (宮地作成)
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』 1918年
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 戦時共産主義
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
中野徹三『社会主義像の転回』 制憲議会解散論理、1918年
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
ソルジェニーツィン『収容所群島』 第2章、わが下水道の歴史
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』 クロンシュタット綱領、他
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』 クロンシュタット綱領、他
ダンコース『奪われた権力』第1章
大藪龍介『国家と民主主義』 1921年ネップ導入と政治の逆改革
1、「1917年〜21年のレーニンと労働者」のデータと文献
このファイルは、レーニンの「プロレタリア独裁」理論が、実は虚構(フィクション)であり、その実態、本質は「党独裁」であったことを分析します。その期間は、3年4カ月間です。1917年11月7日ボリシェヴィキ単独武装蜂起・権力奪取から、1921年2月下旬のペトログラード労働者による反ボリシェヴィキ・大ストライキとレーニン、ジノヴィエフ、ペトログラード・チェーカーによる「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害までです。21年2月までとしたのは、それ以後の労働者ストライキのデータが、ソ連崩壊後まだ未公開、不明だからです。
以下の「労働者」ファイル内容は、「逆説のロシア革命史(3)」になります。「聖職者」ファイルの文末に「逆説(1)、レーニンによるソヴィエト権力の簒奪」を書きました。「農民」ファイルが「逆説のロシア革命史(2)、労農同盟論の虚実」です。これは、「赤色テロル」「知識人」問題ファイルと合わせて、5つ目の「レーニンの粛清シリーズ」です。
「農民」ファイルでは、白衛軍との内戦における一定地域の一定の占領期間を除いて、「労働者と農民の政治的軍事的同盟」が存在していなかったことを分析しました。また、ソ連が崩壊するまで、世界中の共産党員、支持者、左翼勢力が、ソ連を「プロレタリア独裁が成立した国家」であると、“信じて”きました。このファイル内容は、レーニンが何十回となく演説し、書いてきた「プロレタリア独裁理論、国家の成立」「労農同盟論、その成立」という“神話化”されてきた体制イメージとまるで異なる“逆説”としての「プロレタリア独裁体制の存否論」です。
よって、このテーマに関しても、ここで使用している、主な6文献、データの信憑性が問題になります。本文に入る前に、それらの文献と私(宮地)の判断をのべます。
ただ、このファイル全体において、ソ連崩壊後に判明・発掘された労働者ストライキのデータは、下記(1)の『共産主義黒書』にある分だけです。他の5つの文献は、ソ連崩壊以前のデータです。また、6文献のいずれにも、「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害についての「レーニンの直接的指令」がありません。「反乱」農民の大量殺人に関するレーニンの「殺人思想用語や殺人指令用語」は、「農民」「赤色テロル」ファイルで載せたように、多数“発掘”されています。「ストライキ」労働者の「大量殺人指令用語」は、まだ、「レーニン秘密資料」6000点の中に、“隠蔽・埋蔵”されているのでしょう。
(1)、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−〈ソ連篇〉』(恵雅堂出版、2001年)。これは、1997年にフランスで出版され、大反響を起しました。全体は、6人の共著で、5部構成になっています。第1部ソ連、第2部コミンテルン、第3部東・中欧、第4部アジア、第5部第三世界です。本書は、その内、ステファヌ・クルトワの「序」と、ニコラ・ヴェルトの「ソ連篇」の全訳で、334ページあります。
このファイルでは、ソ連崩壊後に発掘された膨大な資料の中から、1917年12月から1920年までの労働者ストライキとレーニンによる流血の鎮圧データだけを使いました。そのデータのすべてに正確な「原典注」が添付されています。ただ、(注)の原典はロシア語で、それをフランス語に直してあり、それらは邦訳出版されていません。よって、このファイルでは、「出典」を『共産主義黒書』(以下『黒書』とします)のページ数にします。
ニコラ・ヴェルトは、フランスの歴史学教授資格者、現代史研究所所員で、ソ連史を専攻しています。彼の論文の一つ『ソ連における弾圧体制の犠牲者』を、このHPに載せてあります。また、中野徹三『「共産主義黒書」を読む』は、5部全体の紹介をしています。
(2)、長尾久『ロシア十月革命の研究』(社会思想社、1973年)。これは、「二月革命」から「十月革命」までのロシア全土における各党派、階級の動向を描き、なかでも「労兵ソヴィエト」の約10カ月間の状況を驚くべき詳細な数字データを含めて、分析した画期的な研究書です。その間の変動をリアルに捉え、データに基づく説得力を持っています。
このファイルでは、その内、「ペトログラード・ソヴィエト」部分のデータを使いました。以下『研究』とします。著書には、多数の「ロシア語(注)」がありますが、「出典」としては、著書ページ数だけにします。長尾氏は、執筆当時、日本女子大、中央大学、法政大学等の講師で、ロシア革命に関する多くの論文、著書を出版しています。
(3)、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命1、2、3』(みすず書房、1999年新装版)。これは、1950年執筆ですので、ソ連崩壊後の資料を含んでいません。しかし、彼は、それまでのデータに基づいて、「十月革命」から1921年にかけての、レーニン・ボリシェヴィキによる産業政策、労働者政策、労働組合・工場委員会にたいする対応、その変化について、綿密な分析をしています。このファイルでは、『ボリシェヴィキ革命2』「第4篇、経済秩序」の「(b)工業、(c)労働と労働組合」(P.44〜88、P.131〜171)の資料を使いました。以下、引用個所を『ボ革命2』とします。
(4)、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』(現代思潮社、1977年)。これは、1921年の危機=農民・労働者・兵士の総反乱とボリシェヴィキ一党独裁政権崩壊の危機に関する最高の研究書です。中心テーマは、クロンシュタット反乱です。ただ、その前段をなし、その反乱と一体のペトログラード労働者の大ストライキについても、具体的な経過資料を載せています。このファイルでは、「第2章、ペトログラードとクロンシュタット」(P.39〜100)のデータを使いました。著書の詳細な「原典(注)」は、すべてロシア語ですので、引用個所は、著書ページ数だけにしました。
著書の一部をHPに『クロンシュタット1921』として転載してあります。
(5)、ヴォーリン『知られざる革命−クロンシュタット反乱とマフノ運動』(現代思潮社、1966年)。ヴォーリンは、ウクライナにおける「マフノ農民運動」の中心的指導者の一人です。彼は、この著書で、「知られざる革命」として、「公認ロシア革命史」で完全に抹殺・隠蔽されてきた、2つの反乱・運動の背景・経過を当事者として、具体的な記録で残しました。このファイルでは、クロンシュタット反乱と一体のものである「6、ペトログラード労働者の決起」(P.34〜60)の経過資料を引用しました。
(6)、イダ・メット『クロンシュタット叛乱』(鹿砦社、1991年新装版)。これもクロンシュタット反乱のすぐれた研究書です。著者は、「労働者民主主義」の立場から、ペトログラード労働者ストライキとクロンシュタット反乱にたいして行使された弾圧を、克明な経過分析で告発しています。このHPに『クロンシュタット前夜のペトログラード』を転載してあります。
(注)、このファイルでは、引用文献も含めて、(1)ボリシェビキを「ボリシェヴィキ」に、(2)ソヴェトを「ソヴィエト」に用語統一しました。
2、存否論(1)、ソ連人口におけるプロレタリア比率とボリシェヴィキ支持率(表1〜5)
〔小目次〕
1、ソ連人口統計(表1)
2、工業労働者数とその減少経過の統計(表2、3)
3、労働者、ソヴィエトにおけるボリシェヴィキ支持率の急上昇と急落(表4)
4、存否論(1)の結論(表5)
1、ソ連人口統計
1917年11月「十月革命」から1922年12月レーニン第2回発作までの間のソ連人口を、約1億4000万人と推定します。その根拠は下記(表1)です。
(表1) ソ連人口の推移
年 |
人口 |
内容 |
出典 |
1913 1917.11 1917.11 |
1億5900万人 1億4500万人 1億4000万人 |
都市人口17.9% ソ連領土2117ku 『ロシア・ソ連を知る事典』 E・H・カー『ロシア革命の考察』 |
帝政期人口センサス 『事典』P.282 『考察』P.103 |
1914〜17 1918〜20 1918〜22 |
−400万人 −300万人 −1650万人 −1500万人 −1400万人 −512.7万人 |
第一次世界大戦中の戦死者 第一次世界大戦中の戦死者 内戦戦死、伝染病、飢饉1500万、亡命150万人 内戦の結果1300万人、国外追放200万人 内戦死者700万人、飢饉500万人、亡命200万人 赤軍100万人、白衛軍12.7万人、伝染病200万人、亡命150〜200万人 |
『ソ連邦の歴史1』 川端『ロシア』P.239 『ソヴィエトの悲劇』 『7人の首領』P.157 川端『ロシア』P.239 『ロシア革命史』P.280 |
1926 |
1億4703万人 |
(1920・11内戦終了、1921・3〜ネップ) |
ソ連人口センサス |
1917〜22 |
1億4000万人 |
私(宮地)の推計 |
『ソヴィエトの悲劇』はマーティン・メイリア著(草思社、1997年)、『7人の首領』はヴォルコゴーノフ著(朝日新聞社、1997年)、『ロシア革命史』はリチャード・パイプス著(成文社、2000年)で、いずれもソ連崩壊後の資料に基づいた研究書です。『ソ連邦の歴史1』は、ダンコース著(新評論、1985年)です。
1917年前後におけるソ連人口の正確な統計は、1913年と1926年の2つの「人口センサス」だけです。1918年から22年の間におけるマイナス人口を組み込めば、その間は、1億3000万人以下となっています。しかし、一応1億4000万人として、以下の%計算をします。
農民の人口比率が80%ということは、すべての文献で一致しています。となると、1億4000万人×80%=1億1200万農民になります。エスエルは、9000万農民としています。私(宮地)は、『農民』ファイルで、80%・9000万農民としてきました。ソ連崩壊後も、当時の農民人口数がはっきりしていません。よって、数値的には合わないのですが、統計として明確になるまで、このファイルでも、「80%・9000万農民」とします。
2、工業労働者数とその減少経過の統計
プロレタリアートとは、工業・産業・工場労働者のことです。その労働者数を、1917年11月「十月革命」時点で、約300万人と推定します。それは、内戦と飢饉により、1920年から22年に約220万人に減少しました。その根拠は、下記(表2)(表3)です。
(表2) 1917年のプロレタリアート数
年 |
労働者数 |
内容 |
出典 |
1905 1913 |
169万人 260万人 |
金属25.2万人、繊維70.8万人、印刷・木材・皮革・化学27.7万人、鉱石・食料品45.4万人 工業労働者 |
ロシア商工省『ロシアにおけるストライキ統計』 『ボ革命2』P.147 |
1917 |
271.5万人 300万人 300万人 |
建設労働者から赤十字職員まで含む 労働組合員150万人 労働者 |
『1917年のロシア革命』P.28 『ボ革命2』P.147 『ソ連邦の歴史1』P.157 |
1917 |
300万人 |
私(宮地)の推計 |
ロシア商工省『ロシアにおけるストライキ統計』とは、帝政ロシア商工省が、1895年〜1904年の10年間、および、1905年〜1908年の4年間の『工場・製作所における労働者ストライキ統計』のことです。この有名な出版物について、レーニンは、1910・11年、雑誌「ムイスリ」に、論文『第一革命時代におけるロシアの労働者運動−ロシアにおけるストライキ統計について』を発表しました。彼は、そこで、1905年革命から4年間の労働者の状態とストライキを、「19の商工省(表)」を引用し、分析しています。そして帝政ロシア権力・工場主にたいするストライキの革命的・前衛的役割を高く評価し、ストライキ労働者を激励しています。レーニンは、当時のプロレタリアート数が169万人であったことを認めています。
(表3) プロレタリアート数の減少 1918年〜1922年
年 |
労働者数 |
内容 |
出典 |
1918 1918 |
250万人 (?) |
→1920年220万人→1922年124万人 31県の労働者125.4万人→1920年6月1日86.7万人に減少→その後も減り続けた |
『ボ革命2』P.147 『ソ連邦の歴史1』P.157 |
1920 1922 |
220万人 200万人 |
国有化企業労働者141万人 20年11月国有化工業3.7万で雇用労働者161.5万人 工業労働者 |
『社会主義像の転回』P.34 『ボ革命2』P.133 『ソ連の階級闘争』P.134 |
1920 |
220万人 |
私(宮地)の推計。1917年から80万人減少 |
『社会主義像の転回』は、中野徹三著(三一書房、1995年)、『ソ連の階級闘争1917〜1923』は、シャルル・ベトレーム著(第三書館、1987年)です。
プロレタリアート数減少、都市人口流出の原因
ソ連崩壊前・後の多くの文献が、共通して指摘している原因は、次の5点です。これらの詳しい内容は、『農民』ファイルに書いてあります。
(1)、大多数は、都市の飢餓による農村への脱出です。1921・22年の飢饉により、500万人が死亡しました。それは、『農民』ファイルのように、レーニンの根本的に誤った「食糧独裁令」=マルクスの誤った「市場経済廃絶」路線を強行した結果でした。なかでも、都市の住民・労働者・兵士は、悲惨でした。
(2)、農村の「土地革命」による総割替え=地主から没収した土地分割を求めての帰村です。工業プロレタリアートは、農村、農民階級といまだ密接な関係を保っていました。「世襲的な」プロレタリアート=都市に生まれ、彼らにとって、他の道がありえないという労働者階級の存在は、多くありませんでした。1917年5月以降、80%・9000万農民は、左派エスエルの暗黙の支持以外、ボリシェヴィキを含むすべての政党と臨時政府の反対に逆らって、「土地革命」を自力で成し遂げました。その農民革命成果としての土地分割の分け前をもらいに、プロレタリアートの多くが都市を離れて、村に帰ったのは、当然でした。
(3)、工業の混乱と、燃料・衣料の欠乏です。「共産党員にたいしてだけ、靴の秘密配給がされた」という噂で、プロレタリアートが激昂するような欠乏状況でした。レーニン・スヴェルドロフは、権力奪取の7カ月後、80%・9000万農民にたいする内戦を自ら仕掛けました。1918年5月、『「食糧独裁令」の貧農委員会方式によって、ボリシェヴィキ側から、農村に内戦の火をつける』作戦を発動しました。レーニン・政治局は、都市に続いて、農村でも、「貧農委員会」を組織して、「富農」にたいする階級闘争という内戦を勃発させ、「農村の社会主義革命」をやろうという“空想的な暴挙”を実行に移しました。レーニンは、結果として、1)、激発した農民「反乱」との戦闘と、2)、白衛軍との内戦という“二正面作戦”に追いこまれました。さらに、3)、「世界革命戦争、まず対ポーランド戦争・侵攻」のために、レーニン・トロツキーは、赤軍の正規軍化と徴兵による500万人拡大路線を採りました。レーニンらは、その非生産者500万人を養う「兵糧確保」政策にまったくの無知でした。とどのつまり貧農委員会方式が、わずか7カ月間で行き詰まり、転換した政策は、農民の生産意欲を無視し、踏みにじった「軍事=割当徴発」制という「食糧収奪」路線でした。この“三正面作戦”という無謀な戦闘・戦争遂行のために、ボリシェヴィキの産業政策が武器・軍需生産強化に集中し、国民・農民向けの消費財・生活用品生産を後回しにしたのです。レーニンの政策は、食糧だけでなく、燃料・衣料・靴などを極度に欠乏させたのです。
メドヴェージェフは、従来の1)、外国干渉軍、2)、白衛軍という内戦の主要原因説を否定し、この「食糧独裁令」こそが、内戦の地域・期間の拡大とその大惨禍の主要原因の一つと規定しました。
なぜ、レーニン・トロツキーは、そのような無謀な作戦を採ったのでしょうか。その背景には、『ドイツ革命の勃発と成功近し』という、彼らの国際情勢認識と、それへの“熱烈な願望”がありました。それは、ドイツにおける労働者ストライキなどの高揚を『革命成功の可能性が確実』と“判断”したことによるものでした。そこから、先進資本主義国ドイツにおける「プロレタリア革命」の勃発を“絶対的前提”とし、かつ、それが成功するものと“仮定”し、そのためには、後進国ロシアの“ボリシェヴィキだけによる抜け駆け的な単独権力奪取クーデター”を「世界革命」の導火線とするという、20世紀革命史上最大の“カケ”作戦に打って出たのです。
レーニンの単独武装蜂起・権力奪取クーデターに反対したボリシェヴィキ指導者のジノヴィエフ、カーメネフや、ソヴィエト内社会主義政党のメンシェビキ、エスエルは、『ドイツ革命の成功』というレーニンの情勢判断は、まったくの誤りだとしていたのです。ドイツ革命は失敗し、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグは、惨殺されました。ハンガリー革命も鎮圧されました。ポーランドにたいする「プロレタリア革命の“輸出”戦争」も、ポーランド軍によって撃退され、赤軍は惨敗しました。
(4)、白衛軍との戦争、農民「反乱」との戦闘による赤軍兵士、その中のプロレタリアート出身兵士の死亡です。赤軍500万人中、農民出身の80%・400万人を除いて、「徴兵された」プロレタリアート出身兵士は、数十万人いました。メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』において、農民「反乱」との戦闘で、1)、赤軍兵士171185人が死亡、2)、「食糧人民委員部」10万人が死亡とのソ連崩壊後のデータを明らかにしました。リチャード・パイプスは、『ロシア革命史』(P.280)で、ソ連崩壊後のデータに基づいて、赤軍の死者を100万人とし、それは『農民との戦いのなかで主に蒙った』と推定しています。
(5)、国家・党機関へのプロレタリアートの吸収です。レーニン『国家と革命』によれば、成立した「プロレタリア独裁国家」とは、まず、プロレタリアートが、国家暴力装置を完全に掌握することでした。それは、国家行政機構、食糧人民委員部、革命裁判所裁判官、赤軍全部隊のコミッサール(政治委員)、秘密政治警察チェーカーなどです。「赤色テロル」オルガンであるチェーカーの指令体系実態は、レーニン・ジェルジンスキーの直系でした。ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』(P.77)において、チェーカー・メンバー数が、1918年末約4万人、1921年初め28万人以上になった、とのデータを示しています。チェーカーは、レーニンと政治局に“絶対忠誠を誓い”、かつ、その「赤色テロル」指令を“無条件で執行する”プロレタリアート出身の党員で主に構成されていました。
これら5つの原因によって、プロレタリアートは、1917年300万人から1920年220万人に減少しました。
3、労働者、ソヴィエトにおけるボリシェヴィキ支持率の急上昇と急落
プロレタリアート数が、300万人(1917年)から220万人(1920年)に減った中での、ボリシェヴィキ支持率とその激変経過を見ます。政党支持率の急上昇・下落の現象は、世界や日本でも何度も見受けます。政党、もしくは政権党が、国民・有権者の期待を裏切ったとき、その支持率は急落します。
ボリシェヴィキ支持率の激変には、3段階があります。それを3つの(表)で検討します。ただ、初めに、明らかにしておくことがあります。それは、ボリシェヴィキ支持内容は、「プロレタリア独裁」理論、その体制実現への賛否ではない、ということです。その理論を理解し、支持したのは、ボリシェヴィキ党員だけでした。
ボリシェヴィキ支持労働者・兵士の権力・政治要求は、『すべての権力を、(臨時政府ではなく)、労働者兵士ソヴィエトへ』でした。その内容は、「プロレタリア独裁」でもなく、ましてや「(各労兵ソヴィエトから権力を簒奪していく)中央集権型権力」や「ボリシェヴィキ一党独裁権力」でもありませんでした。1億4000万国民共通の経済要求は、『平和・土地・パン』でした。労働者・兵士・農民は、彼らの政治・経済要求をボリシェヴィキが実行すると約束したかぎりにおいてのみ、ボリシェヴィキ支持に回ったにすぎません。レーニンは、それらの政治・経済要求の全面実施の公約を掲げて、単独権力奪取に全力をあげました。しかし、それにたいするレーニンの本心は、「ボリシェヴィキ一党独裁権力」「市場経済廃絶の経済路線とその具体化としての食糧独裁令」「世界革命」でした。この食い違いが、支持率の急上昇・急下落の原因を説明するキーポイントになります。
(表4−1) 第1段階、まだ低いボリシェヴィキ支持率
1917年2月「二月革命」〜6月
年月 |
支持率 |
内容 |
出典 |
1917.2 |
ボリシェヴィキ党員全国で24000人、ペトログラード2000人、モスクワ600人 |
『10月革命』P.79 |
|
1917.5 |
1.3% |
5月4日〜28日第1回農民大会、代議員1115人中、エスエル537人、ボリシェヴィキ14人 |
『階級闘争』P.64 |
1917.6 |
9.6% |
第1回全ロシア・ソヴィエト大会、代議員1090人中、エスエル285人、メンシェビキ245人、ボリシェヴィキ105人 |
『階級闘争』P.63、『ロシア史』P.442 |
ボリシェヴィキは、「二月革命」において、なんら積極的役割を果していません。それどころか、労働者グループが呼びかけた「国会請願行進」に反対し、それを失敗に終らせました。
(表4−2) 第2段階、ボリシェヴィキ支持率の急上昇
1917年7月〜1918年3月
年月 |
支持率 |
内容 |
出典 |
1917.10 |
57.5% |
全ロシア工場委員会評議会代議員167人中、ボリシェヴィキ96人、エスエル24人、アナキスト13人、メンシェビキ7人 |
『階級闘争』P.63 |
1917.11 |
(2万人) |
11月7日武装蜂起当日、ペトログラードのプロレタリアートと市守備隊の大半は「中立」を守った。冬宮襲撃参加者は、(1)ペトログラード゙守備軍兵士7〜8千人、(2)クロンシュタット水兵6〜7千人、(3)労働者「赤衛隊」5千人の計2万人によるボリシェヴィキ単独権力奪取 |
『悲劇』P.69、長尾『研究』P.376 |
1917.11 |
44.8% |
第2回全国労兵ソヴィエト大会の大会アンケート委員会集計、代議員670人中、ボリシェヴィキ300人、エスエル193人、メンシェビキ63人。エスエル(右派)とメンシェビキは、「ボリシェヴィキによる単独権力奪取」に抗議して退場 |
『研究』P.377 |
1917.11 |
24% 40.7% 36.5% |
11月12日から憲法制定議会選挙施行。エスエル40.7%・410議席(うち左派エスエル40議席)、ボリシェヴィキ24%・175議席、カデット4.7%・17議席、メンシェビキ2.7%・16議席 兵士・水兵のボリシェヴィキ支持率 都市のボリシェヴィキ支持率 |
『ロシア史』P.461 |
1917.11 |
45.3% 79.2% 48.7% 57.7% 50.1% 79.5% 55.8% |
憲法制定議会選挙の地域別得票率 ペトログラード市 エスエル16.7、メンシェビキ3.1 ペトログラード守備軍 エスエル12.0、メンシェビキ1.1 ペトログラード県 エスエル25.4、メンシェビキ1.3 バルト海艦隊 エスエル38.8、メンシェビキ/ モスクワ市 エスエル 8.5、メンシェビキ2.9 モスクワ守備隊 エスエル 6.2、メンシェビキ0.9 モスクワ県 エスエル26.2、メンシェビキ4.2 |
『研究』P.403 |
1918.1 |
46.0% |
クロンシュタットのソヴィエト選挙 |
|
1918.3 |
66.0% |
3月14日、100の郡ソヴィエト選挙結果、左翼エスエル18.9%、右翼エスエル1.2%、メンシェビキ3.3%、無党派9.3% |
『10月革命』P.212 |
ペトログラードの労働者38万人・兵士47万人は、「二月革命」で、ツアーリ帝政を倒しました。彼らの要求は「平和・パン・土地」でした。ところが、臨時政府は、それらを何一つ解決できません。「平和」要求を、ケレンスキーは拒否し、ドイツとの戦争を継続しました。「パン」要求では、飢餓が進行するばかりでした。「土地」要求では、臨時政府は、9000万農民による5月以降の「土地革命」の激発に反対し、鎮圧部隊を派遣しました。途中から閣僚に参加したメンシェビキ、エスエルも同じ政策でした。12月に分裂・結党する前の左派エスエルだけが、「土地革命」を支持していました。
よって、ソヴィエト内の3大社会主義政党とアナキストの中で、メンシェビキ、エスエルの支持率は急落しました。1917年4月ドイツ軍部が仕立てた「封印列車」で、フィンランド駅に着いたレーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」と公約しました。7月以降、レーニンは、臨時政府やメンシェビキ、エスエル閣僚が解決できない「平和・パン・土地」要求の全面解決・実施の公約を高く掲げ、国民に約束しました。労働者・兵士・農民の政党支持は、一挙にボリシェヴィキに向かいました。ボリシェヴィキ支持率は、その政権構想要求・経済要求への公約項目によってのみ、急上昇しました。国民がボリシェヴィキ支持にまわった政治要求内容は、「プロレタリア独裁」体制ではなく、ましてや、「ボリシェヴィキ一党独裁による中央集権制国家」でもありませんでした。国民の政権構想要求は、ボリシェヴィキの指導とは関係なく、労働者・兵士・農民が自力で、“自然発生的”に創り出した「すべての権力を労兵農ソヴィエトに移す地方分権型ソヴィエト国家」「ソヴィエト内3大社会主義政党による連立政権の樹立」でした。
(表4−3) 第3段階、ボリシェヴィキ支持率の急落
『大衆がボリシェヴィキから顔をそむける』
1918年4月〜、とくに5月「食糧独裁令」以降
年月 |
支持率 |
内容 |
出典 |
1918.4〜8 |
44.8% |
100の郡ソヴィエト選挙結果、左翼エスエル23.1%、右翼エスエル2.7%、メンシェビキ1.3%、無党派27.1% |
『10月革命』P.212 |
1918.4 |
28.9% |
クロンシュタットのソヴィエト選挙、エスエル最左翼のマクシマリスト22.4%、左翼エスエル21.3%、メンシェビキ国際派7.6%、アナキスト5.4%、無党派13.1% |
I・ゲッツラー『クロンシュタット1917〜21』 |
『大衆がボリシェヴィキから顔をそむける』という見出しは、メドヴェージェフ『10月革命』(未来社、1989年)の「第4部、1918年の困難な春、第12章」(P.208)のものです。彼は、そこで支持率激落データとその原因を分析しています。国民が目にしたものは、上記の政治・経済要求を全面実施するという公約にたいするボリシェヴィキ政権の不実行でした。それどころか、判明したのは、要求とは正反対の「赤色テロル」「食糧独裁令」型社会主義政策転換という“レーニンの公約違反の裏切り”でした。それを、国民が悟ったことによって、権力奪取クーデターのわずか6カ月後から、国民のボリシェヴィキ支持率が、急落したのは当然でした。
ボリシェヴィキ支持率急落原因としての“レーニンの公約違反の裏切り”
レーニンは、権力奪取後の6カ月間における政策実践で、それらの公約を守りませんでした。それどころか、むしろ、公約したこととは逆の路線・政策を選択しました。
(公約1)『すべての権力を、(臨時政府ではなく)、労働者兵士ソヴィエトへ』という政権構想要求への裏切りです。
なかでも、クロンシュタット・ソヴィエトや、それを含むバルト艦隊ソヴィエトでは、1905年革命や「二月革命」における中心的ソヴィエトであった伝統に基づき、その政治要求がもっとも強烈でした。それを実行すると公約した政党としてのみ、メンシェビキ、エスエルという社会主義政党よりも、ボリシェヴィキを支持し、「十月革命」の“栄光拠点ソヴィエト”となったのです。それだけに、彼らは、“レーニンの公約違反の裏切り”をもっとも早く悟りました。上記(表)のように、ボリシェヴィキ支持率は、1917年11月バルト海艦隊の憲法制定議会選挙57.7%→1918年1月クロンシュタット・ソヴィエト選挙46.0%→1918年4月クロンシュタット・ソヴィエト選挙28.9%と激減しました。
なぜなら、その6カ月間で『レーニンのしたこと』は、「労働者兵士ソヴィエトが自分たちで勝ち取った権力を、法令と暴力・赤色テロルで簒奪(さんだつ)し、ボリシェヴィキ一党独裁政権への国家権力の絶対的中央集権化を強化していったこと」だったからです。
労働者のボリシェヴィキ支持率は、単独では不明です。ただ、クロンシュタット・ソヴィエトのボリシェヴィキ支持率が、38.8%も下落して、28.9%になったと同じ程度に、ペトログラード労働者の支持率も、20%以上の下落をしたと推定できます。次にのべる労働者ストライキのデータから見ると、1920年における220万人労働者のボリシェヴィキ支持率は、30%をはるかに割って、10%台になった推定します。
(公約2)『パン=飢餓の解決』という生活・経済要求への裏切りです。
飢餓は、ツアーリ帝政、臨時政府時点から受け継いだ「負の遺産」です。第一次世界大戦が継続した1914年から1918年3月ブレスト講和条約によるロシアだけの戦争単独離脱までの期間は、戦争中という理由での「国家権力による食糧専売・配給制」でした。1917年5月以降、9000万農民は、ボリシェヴィキを含むすべての政党の反対に逆らって、自力で第1要求の「土地革命」を成し遂げました。戦争離脱後の農民、国民、ボリシェヴィキ以外のすべての政党が求めた『パン=飢餓の解決』政策は、農民の第2要求「穀物・家畜の自由商処分権=自由商業の回復」でした。1921年「ネップ」で証明されたように、1918年3月以降の政策は、「食糧専売・配給制」という戦時統制経済を廃止して、「資本主義的自由商業=市場経済の承認・奨励」しかありませんでした。
ところが、レーニンらボリシェヴィキにとって、その政策は、クーデター的に奪い取ったボリシェヴィキ一党独裁社会主義政権が、マルクス「社会主義青写真」の「市場経済廃絶、貨幣経済も廃絶」路線に背き、資本主義経済に逆戻りすることになる“社会主義経済への裏切り”政策でした。レーニンは、国民の飢餓解決よりも、マルクス主義理論の教条的施行を選択したのです。それにより、飢餓は、さらに激化しました。このマルクス理論が、根本的な誤りであったことは、1989年から1991年における10の前衛党一党独裁型「市場経済廃絶」路線の実験国がいっせい崩壊したことによって証明されました。
(公約3)『土地』という80%農民の要求にたいする実質的な裏切りです。
「土地革命」を自力で成し遂げた農民は、「穀物・家畜の自由処分権=自由商業」を求めました。レーニンは、1921年3月の「ネップ」まで、その要求を一貫して拒絶し続けました。それどころか、彼は、飢餓が激化するのにたいして、1918年5月、「食糧独裁令」を発令し、農民からの食糧収奪路線の泥沼に踏み込みました。これは、9000万農民の労働・生産意欲にまったくの無知な政策であり、ロシア農業を破壊する「マルクスの市場経済廃絶」理論の具体化でした。
権力奪取時点に、レーニンは、それに先行していた9000万農民の「土地革命」を否定するわけにもいかず、やむなく、土地の「共同体(ミール)所有」を認めていました。そのかぎりにおいてのみ、農民は、「土地革命」を否定し、鎮圧しようとした臨時政府よりも、ボリシェヴィキ支持に回っていたのです。しかし、この「食糧独裁令」は、農民が生産した穀物・家畜を「軍事=割当徴発」制の暴力で一方的に収奪するものでした。それは、まさに「土地」要求にたいするレーニンの実質的な裏切りでした。むしろ、それ以上に、農民にとって、レーニンとボリシェヴィキは「土地革命」にたいする“反革命指導者と反革命政権”となったのです。自力「土地革命」に成功した農民たちが、その“反革命政策”にたいして、ソ連全土での農民「反乱」に決起したのは、必然でした。
(公約4)『平和=戦争終結』という全国民的要求にたいする犯罪的な裏切りです。
レーニンは、権力奪取前、『平和=戦争離脱・終結』を力説しました。それにより、ドイツとの戦争をまだ続けている臨時政府を批判するボリシェヴィキ支持率が急上昇しました。1918年3月3日ブレスト講和条約によって、第一次世界大戦からロシアだけが単独離脱しました。それは、ロシア国民に「平和」と息継ぎをもたらしました。
ところが、レーニンは、その2カ月後の5月13日に、「食糧独裁令」を発令しました。レーニン・政治局の目的は、2つありました。第1は、食糧人民委員部を中央集権化し、食糧の「武装徴発隊」を十数万人も農村に派遣し、チェーカーと赤軍の暴力手段で、穀物・家畜を収奪して、それによって飢餓状態を克服することでした。第2は、農村において、「貧農委員会」を組織し、「富農」にたいする階級闘争を起すことでした。それは、『ボリシェヴィキ側が、農村に内戦の火をつけることによって、80%・9000万農民を社会主義化する』という、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な“戦争再開”政策でした。
レーニン・政治局にとって、「プロレタリア独裁国家」の権力基盤である軍隊と都市に食糧の供給を確保することが死活問題となっていました。彼らには2つの選択肢がありました。1)、崩壊した経済の中で疑似・資本主義市場を再建するか、あるいは、2)、強制を用いるかです。彼らは「ツアーリ体制」打倒の闘争の中で、さらに前進する必要があるとの論拠から第2の方策を選びました。この驚くべき幼稚、かつ犯罪的な思惑が、レーニン・政治局全員の社会主義構想であったことについては、「ロシア革命史」のほとんどの文献が一致しています。その証拠をいくつか挙げます。
(1)、スヴェルドロフの発言。『一九一八年五月にはすでに、スヴェルドロフが、中央執行委員会において、次のように述べている。「われわれは、村の問題にとり組まなければならない。農村に、敵対する二つの陣営を作り出し、貧農をクラークに向けて蜂起させる必要がある。もし村を二つの陣営に割り、都市におけると同様に、村に内戦の火をつけることができるならば、その時にはわれわれは、都市と同じ革命に、村において成功することになるであろう」』(ダンコース『ソ連邦の歴史1』、新評論、1985年、P.154)。彼の発言趣旨は、個人的なものでなく、レーニンを含め政治局全員が一致していた“共同意思”でした。
(2)、レーニンの発言。『一九一八年四月二十九日、全露中央執行委員会の演説でレーニンは単刀直入に言った。「我々プロレタリアが地主と資本家を打倒することが問題になった時、小地主と小有産階級はたしかに我々の側にいた。しかしいまや我々の道は違う。小地主は組織を恐れ、規律を恐れている。これら小地主、小有産階級に対する容赦のない、断固たる戦いの時がきたのだ。」』(『黒書』(P.74))。レーニンのいう「小地主」とは、「土地革命」をした80%・9000万農民のことです。それは、権力奪取6カ月後に、レーニンが農民に仕掛けた“宣戦布告”でした。
(3)、食糧人民委員が同じ集会で言明。『わたしは断言する。ここで問題になっているのは戦争なのだ。我々が穀物を入手できるのは銃によるのみだ』(全露中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』(P.74))
(4)、トロツキーの発言。『我々の党は内戦のためにある。内戦とはパンのための戦いなのだ……内戦万歳!』(全露中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』(P.74))。
(5)、カール・ラデックが1921年に書いた文。『彼は一九一八年春のボリシェヴィキの政策、すなわちその後二年間にわたって行なわれた赤軍と白軍の戦いへとつながる軍事的対決の発展の数カ月前の政策について、次のように解明している。「一九一八年初めの我々の義務は単純だった。我々に必要なことは農民に次の二つの基本的なことを理解させることだった。国家は自らの必要のために穀物の一部に対して権利があるということ、そしてその権利を行使するための武力を持っているということである!」』(ラデック『ロシア革命の道』)(『黒書』(P.74))
レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、政治局全員が、『村に内戦の火をつける』ための「食糧独裁令」を仕掛けたのは、どういう性質を持つのでしょうか。それは、5月時点のボリシェヴィキ党員40万人という「市場経済廃絶」軍と、9000万農民・全他党派の「市場経済回復・実現」軍との内戦でした。「市場経済廃絶」軍は、党員だけでなく、チェーカー28万人、赤軍550万(1920年)という国家暴力装置、300万プロレタリアートを擁し、「赤色テロル」を行いつつ、余剰穀物収奪の戦争を先に展開しました。「市場経済回復・実現」軍は、「土地革命」を自力で成し遂げた農民とともに、エスエル・左派エスエル・メンシェビキ・アナキストという全他党派が参加しました。それは、労働者と農民との内戦、都市と農村との内戦の性格も帯びました。それは、他党派にとって、レーニンの『第4回目クーデター』でした。
しかも、ここには、内戦発生時期と原因に関する重大な問題があります。メドヴェージェフは、ソ連崩壊後の資料に基づいて、『内戦の基本原因』を、ボリシェヴィキの「食糧独裁令」にあったとの新説を発表しました。いわゆる「内戦」の勃発期日は、5月25日の「チェコ軍団の反乱」開始日です。それを導火線として、「コルチャークなど白衛軍との内戦」「外国干渉軍との戦争」が広がりました。
ところが、上記5人の『農民との内戦開始』演説・発言時期は、4月29日から数日間の「第4回全露中央執行委員会」です。それは、内戦勃発の26日も前でした。ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』において、4月29日「議事録」を発掘し、メドヴェージェフの新説を追認・証明しました。内戦を誰が先に仕掛けたのかは、明白な歴史的事実となりました。それこそ、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な“戦争再開”政策でした。レーニン・スヴェルドロフ、トロツキーこそが、5月13日、「食糧独裁令」発令によって、80%・9000万農民にたいする“穀物・家畜収奪の内戦”を開始したのです。「食糧独裁令」内容とその後の詳細は、『農民』ファイルで書きました。
こうして、レーニンは、(公約1〜4)を実行せず、それどころか、公約とは逆の路線・政策を選択したことによって、労兵農ソヴィエトや全国民の期待を裏切ったのです。ボリシェヴィキ支持率が急落したのは、国民の期待が、政権発足後半年間で、幻滅と怒りに転化したからです。
なぜ、レーニンは、このような公約違反をしたのでしょうか。
「同床異夢」という言葉があります。要求を一つも解決できないケレンスキー臨時政府を倒して、ソヴィエト革命を成功させるという点では「同床」であっても、政権構想要求・経済要求をどう実現するかという手法・方向では「異夢」であったと、解釈することができます。「十月革命」は、最初から、レーニンと労兵ソヴィエト・国民の要求内容・方向に、根本的な“食い違い”を含んでいたとする私(宮地)の見解です。これも、「逆説のロシア革命史(2)」の内容の一つです。
第1、労兵ソヴィエト・農民の要求内容・方向=「十月・ソヴィエトによる連立・地方分権型政府樹立革命」「市場経済回復型の民主主義革命」
彼らが、臨時政府を倒す「十月革命」に参加して、望んだのは、「プロレタリア独裁国家」ではなく、ましてや、「ボリシェヴィキ一党独裁・中央集権型政府樹立」でもありませんでした。それは、要求どおりの「自主的に形成された労働者・兵士・農民ソヴィエトが権力を掌握する、地方分権型政府樹立」でした。飢餓の解決のために、農民の第2要求「穀物・家畜の自由処分権=市場経済の回復」を実現することでした。レーニンが仕掛けた「市場経済廃絶」路線と、それに基づく「食糧独裁令」による“9000万農民との内戦”を望んだ国民は、ボリシェヴィキ党員以外一人もいませんでした。
第2、レーニンの基本目標と手段=「十月・ボリシェヴィキ一党独裁・中央集権型政府樹立革命」「市場経済廃絶型の社会主義革命」
レーニンの目的は、最初から死ぬまで『権力、また権力』であった、とするものです。『絶対的真理としてのマルクス主義「青写真」を実行するには、連立権力では不可能である。そのためには、単独で権力奪取をし、すべての他党派を排除・殲滅しなければならない。一党独裁権力の維持と「赤色テロル」オルガンの不断の強化こそすべてである』とするレーニンの心理・思想評価です。『その目的実現のためには、いかなる手段の使用も、マルクス主義真理の認識者・体現者たる私(レーニン)には許されている』『権力奪取のためには、国民の政治・経済要求を全面的に実施するとウソをついて、それを“戦術的に利用”してもよい』という“ごうまんなエリート思想”です。追放された哲学者ベルジャーエフを初め、多くのレーニン批判者や、ソ連崩壊後の「ロシア革命史」研究者が、このような見解を持ってきています。ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」や大量のアルヒーフ(公文書)が明らかになるにつれて、レーニンという人物の評価が、180度逆転しつつあります。この見解については、ファイルの最後でも、考察します。
「プロレタリア独裁」体制は、「十月革命」の最初から存在していませんでした。当時のソ連人口が、1億4000万人だったとして、この結論をのべます。
(表5) ボリシェヴィキ支持労働者数とその人口比率
年月 |
労働者数 |
ボリシェヴィキ支持率 |
支持労働者数 |
支持労働者の人口比率 |
1917.11.7 |
300万人 |
50〜60% |
150〜180万人 |
1.1〜1.3% |
1918.4〜8 |
250万人 |
40% |
120万人 |
0.9% |
1920 |
220万人 |
(30%以下) |
66万人 |
0.5% |
この「労働者」ファイルの検討期間は、1917年11月7日から1921年2月末「ペトログラード労働者の大ストライキ」までです。その3年4カ月間において、存在した体制は、「プロレタリア独裁」の虚構(フィクション)看板を掲げた「党独裁」でした。これについては、ファイル末でのべます。
「プロレタリア独裁」概念の理論的内容については、大藪龍介氏が『マルクスカテゴリー事典』(青木書店、1998)において、担当執筆した「プロレタリアート独裁」項目があります。正確な解説は、そちらをご覧下さい。または「google検索・『プロレタリアート独裁』関連HP」があります。
そもそも、この概念に基づく国家体制は、人口の多数を占めるようになった、発達した資本主義国のプロレタリアートが、小ブルジョアとしての農民と同盟し、圧倒的な多数者となり、人口の絶対的少数者であるブルジョアジーにたいして「独裁」を執行するものです。「独裁」の具体的形態は、絶対的少数者ブルジョアジーから、言論出版の自由権を奪い、場合によってはその生存権も否定することです。レーニンが実際に行った「独裁」は、資本家・白衛軍だけでなく、ボリシェヴィキ一党独裁体制に反対・抵抗・反乱・批判する農民・労働者・兵士・聖職者・知識人など数十万人を殺すことが「プロレタリアート」には許されている、という「赤色テロル」でした。
ところが、これら(表1〜5)のデータが、ソ連崩壊後に明らかになりました。そこでは、ソ連プロレタリアートの60%から30%以下だけが、ボリシェヴィキ支持労働者であり、その人口比率が1%前後しかなかったことも判明してきたのです。しかも、その人口の1%前後は、ボリシェヴィキを支持していたとしても、その全員がレーニンの「プロレタリア独裁」理論の支持者とはかぎりません。その理論と体制を支持したのは、約40万人・人口の0.3%であるボリシェヴィキ党員だけでした。しかも、『農民』ファイルで分析したように、レーニンの『「労農同盟」が存在している』という何度もの発言・論文は、虚構(フィクション)看板でした。『プロレタリアートと80%農民との政治的軍事的同盟』は、一定地域・一定期間以外、基本的に存在していませんでした。
となると、人口の1%前後のボリシェヴィキ支持プロレタリアートが、国家暴力装置を独占しただけの国家体制を、はたして「プロレタリア独裁国家」だったと規定できるのかという、根本的疑惑が浮上します。
私(宮地)は、ソ連崩壊後のこれらデータから、この3年4カ月間の国家を「プロレタリア独裁国家」と規定することを、本質的な誤りであると考えます。ソ連崩壊後11年経って、「レーニン秘密資料」や大量のアルヒーフ(公文書)に基づいて、様々な「ロシア革命史」研究が出版されてきました。ただ、その中で、私のように、ソ連人口・労働者数・ボリシェヴィキ支持率、ボリシェヴィキ支持労働者の人口比率などを確定し、その数字的データによって、『「プロレタリア独裁」体制の存否論』を検討する研究は、まだ出ていません。
1%前後のボリシェヴィキ支持プロレタリアートが国家権力を独占し、「労農同盟」も存在しなかった国家体制でも、彼らが国家暴力装置を完璧に握っていれば、その国家を「プロレタリア独裁国家」と規定できるのでしょうか。そのような歴史認識が成立し得る歴史学があるのでしょうか。それが、マルクス主義国家論なのでしょうか。
以上が、人口・労働者数・ボリシェヴィキ支持率から見た「存否論(1)」です。次は、1917年から1920年末までに発生した、「プロレタリア独裁」と名乗る体制にたいするプロレタリアートのストライキ頻発状況と、それにたいする「プロレタリア独裁国家」側からの弾圧の具体例から、「存否論(2)」を検討します。
(関連ファイル)
「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計(宮地作成)
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実(1)
聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理 (宮地作成)
「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』とレーニンの党派性 (宮地作成)
レーニン「分派禁止規定」の見直し逆説・1921年の危機 (宮地作成)
ザミャーチン『われら』と1920、21年のレーニン (宮地作成)
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』 1918年
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 戦時共産主義
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
中野徹三『社会主義像の転回』 制憲議会解散論理、1918年
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
ソルジェニーツィン『収容所群島』 第2章、わが下水道の歴史
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』 クロンシュタット綱領、他
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』 クロンシュタット綱領、他
ダンコース『奪われた権力』第1章
大藪龍介『国家と民主主義』 1921年ネップ導入と政治の逆改革