「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害と
レーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(2)
(宮地作成)
〔目次〕
1、「1917年〜21年のレーニンと労働者」のデータと文献 (別ファイル・虚構1)
2、存否論(1)、ソ連人口におけるプロレタリア比率とボリシェヴィキ支持率(表1〜5)
3、存否論(2)、「プロレタリア独裁国家」下での労働者ストライキ激発と流血の鎮圧
1917年12月〜1920年(表6、7)
4、存否論(3)、ペトログラード労働者の大ストライキと大量逮捕・弾圧・殺害手口
1921年2月22日〜3月3日 (別ファイル・虚構3)
5、「プロレタリア独裁」を虚構看板とした「党独裁」
(注)、このファイルは、レーニン・政治局による「ストライキ」労働者の大量殺害問題と「プロレタリア独裁国家」の存否論というテーマを扱うだけに、その論証データが膨大になりました。よって、ファイルを(虚構1、2、3)と3分割しました。印刷すると、〔目次1、2〕13ページ、〔目次3〕19ページ、〔目次4、5〕23ページで、全部は55ページになります。
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「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計(宮地作成)
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実(1)
聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理 (宮地作成)
「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』とレーニンの党派性 (宮地作成)
レーニン「分派禁止規定」の見直し逆説・1921年の危機 (宮地作成)
ザミャーチン『われら』と1920、21年のレーニン (宮地作成)
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』 1918年
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 戦時共産主義
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
中野徹三『社会主義像の転回』 制憲議会解散論理、1918年
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
ソルジェニーツィン『収容所群島』 第2章、わが下水道の歴史
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』 クロンシュタット綱領、他
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』 クロンシュタット綱領、他
ダンコース『奪われた権力』第1章
大藪龍介『国家と民主主義』 1921年ネップ導入と政治の逆改革
3、存否論(2)、「プロレタリア独裁国家」下での労働者ストライキ激発と流血の鎮圧 1917年12月〜1920年(表6、7)
〔小目次〕
2、レーニンの思惑、労働者・産業政策と労働者要求との食い違い
3、「プロレタリア独裁国家」でのプロレタリアート・ストライキと流血の鎮圧(表6)
4、存否論(2)の結論(表7)
1、革命拠点ペトログラード・ソヴィエトの歴史と労働者の要求
1、「1905年革命」とペテルブルグ・ソヴィエト
ソヴィエト(Sovet)とは、ひろく助言、会議、和合などを意味します。1905年革命で多くの地方にソヴィエトが出現しました。なかでも重要なのは、ペテルブルグ・ソヴィエトです。それは、プチーロフ工場を中心とする各工場のストライキ委員会として発足し、巨大な10月ストの引きがねとなり、一定の政治的・行政的機能をもつ恒常的組織となりました。
帝政ロシア商工省は、1905年〜1908年の4年間の『工場・製作所における労働者ストライキ統計』を公表しました。レーニンは、1910・11年、雑誌「ムイスリ」に、論文『第一革命時代におけるロシアの労働者運動−ロシアにおけるストライキ統計について』を発表しました。彼は、そこで、1905年革命から4年間の労働者の状態とストライキを、「19の商工省(表)」を引用し、分析しています。レーニンの引用からその一部を見ます。
1905年のペテルブルグ県労働者のストライキ参加率は、68.0%でした。ペテルブルグ地方の労働者は、29.8万人です。そのストライキ参加者数は、103.2万人で、労働者が4回づつストライキに参加したことになると、レーニンは、計算しています。そして、彼は『前衛労働者は、最大限のエネルギーをもって運動を開始し、他の大衆を“揺り動かした”』と、ストライキを絶賛しています。
レーニンは、1905年革命全体におけるストライキ結果の『商工省統計』も引用しています。それによれば、「労働者の勝利23.7%、妥協46.9%、工場主の勝利29.4%」です。これは、ストライキ委員会と工場主側との“正規の団体交渉”が、かなり持たれたことを示しています。商工省は、「経済ストライキと政治ストライキの参加者数を分別してデータ」も載せました。レーニンはその相互関係も分析しています。
1905年革命というと、オデッサ・ソヴィエトのゼネストと黒海艦隊の「戦艦ポチョムキン」の反乱が有名です。私(宮地)は、エイゼンシュタインのその映画を7回も観ましたが、これらのソヴィエトは、ツアーリ政府によってつぶされました。
2、1917年「二月革命」のペトログラード・ソヴィエト
1914年からの第一次世界大戦中、首都には、食糧難・燃料難がもっとも激しく現れました。そこには、労働者38万人と兵士47万人がいました。2月23日婦人労働者のストライキと「パンよこせ」デモ、25日全市ゼネスト、27日兵士反乱と兵士による政治犯釈放を経て、3月1日「ペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエト」が創設されました。ペトログラード・ソヴィエトは、7項目の「命令第1号」を出しました。その内容は、(1)労働者と兵士がソヴィエトに忠誠を示し、(2)官吏と将校が国会臨時委員会に忠誠を誓うという「二重権力」を示すものでした。
1905年革命、「二月革命」は、いずれも自然発生性の強いもので、それらにおいてボリシェヴィキはなんら積極的役割を果していません。ソヴィエトは、レーニンの路線・方針とは無関係なところで、労働者・兵士の自然発生的な革命運動の結果として誕生したロシア革命特有の組織でした。この歴史的事実は、「前衛党の指導」がなくても、革命が発生し、「二月革命」のように成功し、ソヴィエトが創設されることを証明しています。
3、1917年「十月革命」のペトログラード・ソヴィエトと経済・政治要求
4月、臨時政府とソヴィエトとの「二重権力」のなかで、臨時政府はソヴィエトとの連立政府を求めました。国民の側からも、連立の声が挙がりました。ペトログラード・ソヴィエト執行委員会は、一旦は連立を拒否しました。
5月1日、連立への圧力が強まるなかで、緊急執行委員会は「連立」を決議しました。当時のペトログラード・ソヴィエトには、委員約2800人がいましたが、革命派(ボリシェヴィキ派)委員は、約100人で、4%でした。プチーロフ工場を中心とした地区ソヴィエトにおける党派構成は、メンシェビキ11、ボリシェヴィキ10、エスエル5、メジライオンツィ4、無所属26であり、ボリシェヴィキは18%でした。メジライオンツィとは、左派エスエルの左翼グループです。
5月27日、ペトログラード市区会選挙が6月5日までありました。その806議席中、メンシェビキ・エスエルの社会共同派443議席・55%、カデットなどのリベラル派207議席・26%、ボリシェヴィキなど革命派156議席・19%でした。
この中で、ペトログラードの労働者とソヴィエトは、全国の先頭を切って、一連の工場で「工場委員会」を創設しました。「工場委員会」とは、それまで存在した産業別の「労働組合」とは異なり、ある工場の労働者全員から選出された工場単位の労働者代表機関でした。ペトログラード・ソヴィエトは、資本家の工場主協会と協定し、それを工場労働者の代表機関として、工場主協会にも承認させました。それは、軍隊における「兵士(軍隊)委員会」と並んで、革命運動に大きな役割を演じました。
工場委員会では、最大の労働者数26564人を持つプチーロフ工場を中心とする11の官営軍需工場が目立った動きを見せました。11工場の労働者数は、115768人で、1917年1月1日時点のペトログラード労働者数417000人の28%になります。1917年前半には、労働者が459000人に増員されています。
5月30日、第1回ペトログラード工場委員会協議会が、プチーロフ工場の提案で招集され、6月5日まで行われました。そこには、367工場・企業の代表が、その労働者337464人から選ばれて参加しました。この協議会決議は以下で、297対21対44で決定されました。
(1)、経済的要求・・労働者統制、全般的労働義務、労働者民兵制。労働者統制とは、「管理・経理・技術の各面で、工場管理部の活動を統制し、その機関を工場委員会とする」という内容です。
(2)、政治的要求・・「それら全分野の計画的な、成功裡の実施は、全国家権力を労兵ソヴィエトに移行するもとでのみ可能である。」
そして協議会は、ボリシェヴィキ19、メンシェビキ2、エスエル2、メジライオンツィ1、他1からなる工場委員会中央評議会を選出しました。これにより、ペトログラード労働者の主流は、『すべての権力を労働者兵士農民ソヴィエトへ』とする革命派となりました。
こうして、地域全体を包む「ソヴィエト」、産業別の「労働組合」、工場別の「工場委員会」、部隊別の「兵士(軍隊)委員会」が、「十月・ソヴィエト革命」側の体制として成立しました。私(宮地)は、いままで、他のファイルで、単に「十月革命」という用語を使ってきました。従来の「レーニン神話」「公認ロシア革命史」では、その性格を「十月・ボリシェヴィキ革命」と規定し、レーニン・ボリシェヴィキの指導性を極度に誇張しています。『すべての権力を労働者兵士農民ソヴィエトへ』というスローガンは、レーニンも唱えました。しかし、「神話」では、「二月革命」「十月革命」における労兵農ソヴィエトによる自然発生的な革命運動・決起の側面を恣意的に無視・軽視しています。その「十月・ソヴィエト革命」からの、とりわけ「労働者ソヴィエト、工場委員会」からの“レーニンによる権力簒奪(さんだつ)”過程を分析するのが、この「労働者ファイル」の中心テーマです。この意味から、「十月・ソヴィエト革命」という用語を使います。
ペトログラード労働者のボリシェヴィキ支持率が、1917年7月以降、11月にかけて、なぜ急上昇したのでしょうか。その原因を、1918年春からの支持率急落と、1921年2月の反ボリシェヴィキ大ストライキ発生との関係で、明確にしておく必要があります。
労働者・農民・兵士の共通要求は、「土地・平和・パン」でした。臨時政府と、途中から閣僚を出したメンシェビキ・エスエルは、それらのいずれも解決できませんでした。「二月革命」の成果が何一つ目に見えません。それへの不満が、2つのソヴィエト内社会主義政党にたいする幻滅となって、7月以降、その支持率が急落しました。一方、「土地・平和・パン」要求を取りあげ、その完全解決を公約したボリシェヴィキ支持率が急上昇したのです。
なかでも、労働者が求めたものは、『全国家権力を労兵ソヴィエトに移行すること』『工場委員会による労働者統制』でした。その要求スローガンは、労働者が革命運動の進展につれて、自然発生的に作り出したものです。レーニンは、それに賛同し、公約に取り込みました。そのボリシェヴィキへの支持率が高まったのは、当然です。しかし、労働者の要求内容は、『ボリシェヴィキの単独政権や一党独裁』を認めるものではありませんでした。片や、レーニンが隠蔽していた思惑は、『マルクス主義「青写真」を全面実施するための、連立拒否、一党独裁権力』でした。この食い違いとその現れが、下記にのべるように、単独武装蜂起・権力奪取のわずか半年後に、ペトログラード労働者におけるボリシェヴィキ路線・政策にたいする幻滅となり、かつ、支持率急落となりました。さらに、“レーニンの公約違反の裏切り”にたいする強烈な怒りとなって、反ボリシェヴィキ・大ストライキとなって爆発したのです。
それにたいして、「プロレタリア独裁国家」元首たるレーニンは、プロレタリアート・ストライキとの話し合いに一切応じず、ストライキ労働者の大量逮捕と流血の鎮圧で応えたのです。
2、レーニンの思惑、労働者・産業政策と労働者要求との食い違い
〔小目次〕
1、レーニンの思惑
1、レーニンの思惑
『レーニンが書き、演説したこと』(レーニン全集)には、内戦発生を防ぐために、レーニンが、社会主義3政党の「連立政権」を望んで、いかに努力したかが、何度も書いてあります。「レーニン神話」では、単独で、“抜け駆け”的権力奪取をしたレーニンが、その翌日、11月8日の第2回ロシア・ソヴィエト大会で、その事後承認要求とともに、「連立政権」を望んだのに、メンシェビキのマルトーノフが、それを拒絶して、一方的に退場したので、せっかくの連立構想が崩れたという歴史記述をしています。
『レーニンがしたこと』は、その公認「ロシア革命史」とは異なり、『マルクス主義「青写真」を全面実施するための、連立拒否、一党独裁権力』でした。ボリシェヴィキ単独の武装蜂起・権力奪取時点におけるレーニンの本心は、3つありました。
一つは、国際情勢評価です。ヨーロッパ革命、とくにドイツ革命が目前に迫った、という情勢認識です。よって、それに先駆け、ボリシェヴィキが単独で権力奪取をして、ロシアを世界革命勃発の導火線にさせる、とした目論みです。
二つは、政党評価です。社会主義政党といっても、エスエルは、ナロードニキの路線を受け継ぎ、ロシア特有の農村共同体(ミール)内の平等性を過大に評価し、それに依拠して、共産主義を実現できるとする農民革命政党である。メンシェビキは、ボリシェヴィキと同根のロシア社会民主労働党から分裂したマルクス主義政党であるが、ヨーロッパと同じ堕落した第2インター系社会民主主義政党である、と見なすものです。ボリシェヴィキだけが、正統な唯一のマルクス主義革命政党であり、真理を体現しているという独善的思想です。12月に分裂する左派エスエルだけが、ボリシェヴィキの路線・政策に賛成しているので、唯一の連立政権の相手になりうる、という評価でした。
三つ目は、憲法制定議会の評価です。その選挙で、社会主義3政党が圧倒的多数(得票率67%)をとり、連立政権を作ったとしても、それはヨーロッパ的なブルジョア議会制度である。その堕落したブルジョア・システムでは、マルクス主義「青写真」の全面実施型革命を遂行できない、という否定的評価です。表向きは『すべての権力をソヴィエトへ』というスローガンを掲げ、その裏側では『プロレタリア独裁権力システム、実態としてのボリシェヴィキ党独裁システム』こそ、最善の権力機構となるという思想です。憲法制定議会の他政党が、1918年1月18日の第1日目で、武装蜂起政権の正統性を認め、ボリシェヴィキが提案した路線・政策を無条件で承認するのであれば、その存続を許す。しかし、それを拒否したからには、武力解散してしまえ、という威圧的思考でした。これらレーニンの本心に関する論証は、他にいくらでもあります。R・ダニエルズが、『ロシア共産党党内闘争史』において、詳細なデータで、「蜂起か連立か」の情景の描写をしており、その論証をしています。
2、鉄道従業員組合にたいするレーニンの組合分裂策動と新労組からも権限剥奪
単独権力奪取後、単独政府を維持する上で、最初の障害となったのが、鉄道従業員組合でした。E・H・カーは『ボリシェヴィキ革命2』の「鉄道にたいする労働者統制」(P.293)で、次のように分析しています。鉄道は、革命前から国有でした。全ロシア鉄道従業員組合(ヴィグジェーリ)は、ロシア最大の労働組合です。その執行委員会40人中、ボリシェヴィキ2、メジライオンツィ2、ボリシェヴィキシンパ1で、他の35人はエスエル、メンシェビキ、独立派でした。その組合は、「十月革命」と同時に、鉄道の管理を自ら行い、「労働者統制」を実施するマンモス工場委員会の役割を果しました。
1917年11月8日の第2回全ロシア・ソヴィエト大会が予定されていたにもかかわらず、レーニン・トロツキーは、その大会決定・承認を待たずに、冬宮襲撃を“クーデター”的に強行しました。レーニンの「抜け駆け的単独権力掌握クーデター」にたいして、ソヴィエト内社会主義政党メンシェビキ・右派エスエルとともに、鉄道従業員組合は、強烈な怒りをもって反発しました。レーニンは、やむなく「連立政権」要求を受け入れつつも、組合分裂策動で応えました。その経過を抜粋します。
『挑戦は、十月革命の翌日、第二回全ロシア・ソヴィエト大会の席上で、もっともあからさまな、劇的な形でおこなわれた。ヴィグジェーリは、「一政党による権力の奪取にたいして否定的態度」をとり、「すべての革命的民主主義の全権機関に責任をおう革命的社会主義政府」が結成されるまでは、ヴィグジェーリが鉄道を引きうけ、その後もこの政府から発せられる命令だけに服従するであろう、と声明し、万一鉄道従業員にたいする弾圧的処置をとろうとする試みがなされた場合には、ペトログラードへの補給を絶つ、と脅迫した。この一斉射撃にたいして、カーメネフは全ロシア・ソヴィエト大会の最高権威を主張する形式的回答をなしえたのみであった』。
『ヴィグジェーリの態度は、普通に考えられていたような労働者統制をこえてしまった。それは、もっとも極端な形でのサンジカリムであった。にもかかわらず、人民委員会議は無力であった。鉄道はヴィグジェーリの手中にとどまっていた。二日後、鉄道ゼネストをもって脅かす最後通牒によって、ボリシェヴィキは連立政府をつくるため他の社会主義諸政党と交渉に入らざるをえなくなった。交渉はだらだらと長引き、レーニンとトロツキーがあまりに強い線をとっていると考えたボリシェヴィキの一グループの辞職にみちびいた。しかし、五日後、三人のエスエル左派を人民委員会議に入れるという合意が達せられた。それはヴィグジェーリによって承認され、委員会の旧委員が交通人民委員部の空席を満たした』。
『ヴィグジェーリとの妥協は不安定で、連立政府よりも永続的でないことさえあきらかになった。全ロシア鉄道従業員組合大会が、憲法制定議会の会議中に開かれていて、少数差で議会への信任投票を通過させた。これは、ボリシェヴィキと政府にたいする挑戦として意図され、かつ承認されたのであった。少数派は大会を脱退して、それ自身の対抗的鉄道従業員大会を組織した。この大会は、レーニンの長い政治演説をきいた後、二五人のボリシェヴィキ、一二人のエスエル左派、三人の独立派からなるそれ自身の執行委員会(区別するため、ヴィグジェドールと呼ばれた)を創設した。新しい大会とその執行委員会はただちに人民委員会議から公式に承認され、ヴィグジェドールの委員であるロゴフが交通人民委員となった。いまやソヴィエト政府は、鉄道職員にたいするヴィグジェーリの権威を失墜させるために、労働者統制の原則をひきつづき呼びかけた。おそらく、それまでのソヴィエト立法のなかでもっとも露骨なサンジカリスト的措置であったと思われる。この新組織は、有能ではあるが敵意あるヴィグジェーリを破壊するのに役立ち、未知数ではあるが友好的なヴィグジェドールにとってかわるのに役立った。しかし、それは、ロシアの鉄道運行のための効果的な道具にならなかったし、またなりえなかった』。
『全ロシア鉄道従業員大会の機能は、人民委員部参与会員の選挙にはっきりと限定された。これらの選挙は人民委員会議と全ロシア中央執行委員会の確認を得なければならず、参与会の権限は人民委員に反対して上記二機関に訴えることだけに限定された。この布告は、思い切ったもののようにみえるけれども、困難なく守られ、正当化された』。
レーニンは、一党独裁に反対・抵抗する組合を分裂させ、さらに、新分裂組合の権限をも極端に限定しました。これは、下記でのべる労働組合政策・工業政策全体の原型になりました。ボリシェヴィキ一党独裁政権と労働組合・工場委員会との矛盾が激化したとき、レーニンがより厳格な中央集権的労働者管理に転換することの先例でした。さらに、その労働者政策は、「労働の軍事規律化」政策に変質して行きました。
左派エスエルとの連立政府の期間は、1917年12月から始まり、1918年3月3日ブレスト講和条約で決裂するまでの3カ月間だけでした。連立成立の原因が、鉄道従業員組合の挑発・脅迫だけではないでしょう。しかし、それは明白な原因の一つです。
そして、ボリシェヴィキ路線・政策を批判する労働組合にたいするレーニンの対応は、その後の彼の労働者・産業政策の基本となりました。
以下、11のデータで、『レーニンがしたこと』としての、「労働者ソヴィエト、労働組合、工場委員会から権力を簒奪していく過程」を検証します。これらのデータは、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命2』全体にある資料、および、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』のデータに基づいています。
(1)、1918年1月、第1回全ロシア労働組合大会
1917年、プロレタリアート300万人中、労働組合員は、150万人でした。大会では、代議員416人中、ボリシェヴィキ273人、メンシェビキ66人でした。大会では、連立政府と労働組合との関係が、論争の中心となりました。大会は、大論争の末、次の事項を決定しました。
1)、「労働組合は、社会主義権力の機関となるべきである」として、事実上「労働組合の国家への従属」という原則を打ち立てました。
2)、「工場委員会は、対応する労働組合の地元機関たるべきである」とし、中央集権的な労働組合制度への工場委員会の合体・従属を決めました。
3)、「全ロシア労働組合評議会と政府・労働人民委員部との統合を実現する」としました。組合指導部と政府機関との一体化です。
4)、大会後に、「労働政策・労働組合の主目的は、生産を組織し、増大させることである」とし、「そのための労働の組織化と労働規律の実施が労働組合の目的である」との決定がなされました。
(2)、1918年2月1日、「差別的報酬形態」「出来高払い制」の布告
レーニンは、権力奪取直前に執筆した『国家と革命』(1917年8月)において、「階級をなくし、平等賃金にする」と公約していました。しかし、権力奪取の3カ月後に、はやくも、ペトログラードの冶金工業で「差別的報酬形態」布告をしました。その内容は、「生産ノルマ不履行の場合の賃金カット」「賃金の低等級への格下げ」「例外的な出来高払い制」です。数日後、郵便電信業への布告を出しました。それは、「熟練労働者の月215ルーブルから600ルーブルまでの賃金格差表」「管理者への800ルーブルの賃金表」でした。まもなく、方針を「基本的な出来高払い制」に移行させました。
労働者の反感は、この「出来高払い制」と「差別的報酬形態」の実施に向けられ、それを“レーニンの裏切り、公約違反”と見なしました。『国家と革命』で公約したことへの違反によって、プロレタリアート内におけるボリシェヴィキ支持率は急落しました。
(3)、1918年3月3日、最高国民経済会議による「上からの統制強化」法令
政府・中央管理部(グラフクまたはツェントル)は、「政府が、国有化企業にたいして、政府代表委員・技術管理者・経営管理者3人を任命する」法令を出しました。それによって、「従来からの労働者側の工場統制委員会を、経営評議会の下部組織とする」としました。これは、「二月革命」以来勝ち取った「下からの労働者統制権」を、レーニンが事実上簒奪し、上からの“国家権力による労働者統制”に逆転させるものでした。
レーニンは、すでに、1907年、『労働組合の中立性は、原則として擁護しえない』(「レーニン全集」第12巻、P.66)という見解に転換していました。E・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命2』(P.79)で、この全過程を次のように規定しています。『労働組合運動を党に従属するものとみなし、党の政策の道具とする傾向は、ボリシェヴィキの教義に内在的なものである。それは、組合にたいする党の積極的な関与を促進するようなあらゆる方策によって強められた』。
(4)、1918年4月3日、労働組合中央評議会の中央集権化と「出来高払い制」の準則公布
政府機関と合体した労働組合機関は、中央集権化を進め、全工場委員会を労働組合の「下部組織」としました。それだけでなく、ペトログラードで出した「布告」を全国に広げました。その内容は、「労働者にたいする生産性ノルマを定める委員会の設置」、「出来高払い制を準則とすること」でした。これは、政府と癒着した労働組合中央評議会が、プロレタリアート300万人にたいして、“「プロレタリア独裁国家」における「差別賃金か平等賃金か」”という選択肢を突きつけたものでした。かくして、レーニンは、『国家と革命』における「平等賃金」公約を、権力奪取の5カ月後に、公然と裏切ったのでした。
(5)、1918年4月28日、レーニン『ソヴィエト権力の当面の任務』を発表
この中で、レーニンは、「ブルジョア専門家の高給での雇用」「企業内での管理者の個人独裁権限」「鉄の労働規律」方針を発表・擁護し、「出来高払い制」「(アメリカ資本主義)テーラーシステムの中の科学的なものの採用」を主張しました。これは、彼自身も認めたように『「国家と革命」からの後退』でした。『国家と革命』公約を信じて、ボリシェヴィキを支持したプロレタリアートは、次々と“レーニンの公約違反”に直面していきました。
(6)、1918年5月13日、「食糧独裁令」発令。6月11日、「貧農委員会を組織する法令」公布
「レーニン型社会主義崩壊」の結果論になりますが、「市場経済廃絶、貨幣経済も廃絶」「その廃絶の上での社会主義的計画経済」というマルクスの「社会主義青写真」理論が、根本的な誤りであったことは、東欧革命・ソ連崩壊と、10の一党独裁国前衛党のいっせい崩壊によって証明されました。
1917年5月以降、9000万農民の「土地革命=地主からの土地没収と土地総割変え」がロシア全土で燃え上がりました。それによって、ロシア帝政下のストルイピン土地改革によって顕著になっていた「富農・中農・貧農」という区分は事実上なくなっていました。レーニンが強行実施した、この2つの法令も、マルクス主義理論を土台とした誤りでした。それだけでなく、80%農民国家における、この2つの「法令」は、農民の「土地革命」、農民の生産意欲にたいして、驚くべき無知なレーニン・政治局の“机上の空論システム”でした。その誤り内容とレーニンの暴挙にたいするロシア全土での「農民反乱」については、『農民』ファイルで詳述しました。レーニンが、「反乱農民」数十万人をどのような「殺人指令」用語で殺害したのかは、『赤色テロル』ファイルでも書きました。
さらに、この「法令」は、『(ボリシェヴィキ側の貧農委員会が)農村に内戦の火をつける、それによって農村を社会主義化する』というレーニン・スヴェルドロフが仕掛けた犯罪的政策でした。この“机上の空論システム”は、当然ながら、穀物調達になんの成果もあげえず、飢餓を一層進行させ、わずか7カ月間で失敗しました。その後、レーニンは、その誤りを正すどころか、「食糧独裁令」第2過程の「軍事=割当挑発」という、チェーカー・赤軍の暴力を使った農民からの穀物家畜収奪政策に踏み込みました。この政策は、9000万農民の「土地革命」にたいする“レーニン・政治局による「反革命」”と規定できるものです。それに抵抗する「農民反乱」が激化し、レーニンの誤りは、メドヴェージェフがいうように、『白衛軍との内戦拡大の第2主要原因』になりました。飢餓が深刻となり、それは都市プロレタリアートを直撃しました。300万プロレタリアートは、レーニンの「労働者ソヴィエト、労働組合、工場委員会からの権力簒奪」体験からだけでなく、飢餓深刻化という毎日の衣食住体験を通じても、『ボリシェヴィキに顔をそむけ』、労働者ストライキに決起して行ったのです。
(7)、1918年6月18日、「大工業国有化令」の発令
これにより、国有化のテンポが高まりました。それは、同時に、ボリシェヴィキ一党独裁政府による“上からの労働者管理・統制”の強化をもたらしました。1918年3月3日ブレスト講和条約の締結是非問題をめぐって、それに反対した左派エスエルは、連立を離脱し、「プロレタリア独裁国家」は、ボリシェヴィキ一党独裁体制になっていました。
政府任命の工場・企業3人管理システムと、管理・統制される側に転落した労働者との矛盾が激しくなりました。レーニンの『国家と革命』公約からの後退、公約違反にたいする労働者の怒りは、ボリシェヴィキ支持率の急落に比例して、抗議デモ、ストライキとなって頻発しました。
(8)、1919年1月、第2回全ロシア労働組合大会
白衛軍との「内戦」とともに、白衛軍占領地域以外では「農民反乱」が激化していました。「戦時共産主義」の下で、政府の労働者政策は、(1)「内戦」勝利と(2)「穀物の軍事=割当挑発」のための「労働者徴兵と、前線および農村への派遣」になりました。レーニン・政治局・労働組合中央評議会は、労働組合を、『このボリシェヴィキ政権の政策が、もっとも有効に実行されるための道具』と正式に位置づけました。
第2回大会では、再び、労働組合の「中央集権化」か、それとも「国家にたいする労働組合の独立性」か、のテーマが論争になりました。大会代議員600人中、ボリシェヴィキは450人で、メンシェビキ30人、「国際派社会民主主義者」37人でした。レーニンは、大会で長い演説をしました。大会は、その演説どおりに、「中央集権的工業統制」「純地方的な利害の放棄」などのボリシェヴィキ決議を採択しました。
大会後、全ロシア労働組合中央執行委員会と人民委員会議は、「賃金格差」の布告を出しました。その内容は、「出来高払い制」「ノルマ制」「ノルマ達成労働者への報奨金制」「12等級の賃金格差表」などです。
(9)、1919年12月6日、チェーカーの「飢餓と労働者の問題」についての報告
ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』(P.97)に、次のチェーカー「政府宛報告」を載せました。『最近では、食糧供給の危機は、ますます深刻化しています。飢餓が労働者大衆をさいなんでいます。労働者にはもはや働き続けるだけの体力がなく、寒さと飢えが重なって、日毎欠勤する者が増大しています。もし食糧供給の問題を可及的速やかに解決しない時は、多くのモスクワの冶金工場で絶望にかられた労働者大衆は、何でも――ストライキ、暴動、蜂起――やりかねない状態です』(ロシア現代史文書保存研究センター資料)。
(10)、1920年2月1日、レーニンのトロツキー宛の「メモ」
レーニンの誤った「穀物の軍事=割当挑発」「マルクス主義の市場経済廃絶」路線により、食糧危機がますます深刻になる一方でした。そこで、ボリシェヴィキ政府は、「食糧配給量」を5つ階級別に分類しました。その基準は、一党独裁体制存続のために不可欠な部門の特権的優先権による序列でした。特権者は、力仕事の労働者、赤軍兵士、チェーカーです。最下位は、「有閑」インテリ、「反ソヴィエト」知識人、聖職者全員、「元・・・」という帝政時代の役人・将校などです。ソ連崩壊後に明らかになったことは、レーニン・トロツキーをはじめ、政治局全員、政府機関メンバーが、特権の最上位にいたことです。特権内容についてのソ連崩壊前のデータでは、ダンコース『奪われた権力』があります。それとともに、ヴォスレンスキー『ノーメンクラツーラ−ソヴィエトの赤い貴族−』(中央公論社、1981)が、「ソヴィエト社会の支配・特権階級の実態」を克明に暴きました。ソ連崩壊後では、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』が、レーニンの特権内容とその利用実態を明らかにしました。
ニコラ・ヴェルトは、『黒書』(P.98)に、トロツキー宛のレーニンのメモを載せました。『パンの配給は、今日決定的に重要な輸送部門で働いていない者には減らし、そこで働いている者には増やすべきだ。何千もの人間が死んでもやむをえないが、国家は救わなければならない』(Trotsky
Papers, volU,p.22)。
1919年から20年のペトログラードにおいて、配給は、さらに細分化された32種類のカードとなり、その有効期限は1カ月間を越えませんでした。これは、レーニン・ボリシェヴィキが、食糧配給システムを、ある階層を元気づけたり、ストライキ労働者を罰したりする“武器”としたことを証明するものです。これらの政策によって、農村との関係をもつプロレタリアートの多くは、食糧を持ち帰るために農村に出かけたり、あるいは、食糧を求めて、都市を脱出しました。ところが、レーニン、ペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフは、ペトログラード市と農村との境界に「民兵分遣隊」を配備して、農村からの持ち込み食糧をすべて没収しました。それは、“袋を担いだ男(=闇商人)”を取り締まる名目でした。しかし、労働者の食糧持ち込みも無差別に禁止し、その食糧も没収したのです。
この「民兵分遣隊の即時廃止」は、1年後の1921年2月、ペトログラード労働者の大ストライキにおける主な要求項目の一つとなりました。レーニン、ジノヴィエフは、ペトログラード・ストライキ労働者5000人を逮捕し、指導者500人を即座に殺害しました。その直後、1921年3月からのクロンシュタット・ソヴィエト反乱は、その抹殺されたストライキ要求を受け継いで、「15項目の綱領」の第8要求として掲げました。レーニンは、“革命の栄光拠点”軍隊の反乱による一党独裁政権崩壊の恐怖におののきました。彼は、鎮圧司令官トゥハチェフスキーに命令し、水兵10000人、労働者4000人を含むコトリン島住民55000人の“皆殺し”をさせました。その内容は、『赤色テロル』ファイルで書きました。
(11)、1920年3月29日、第9回党大会でのトロツキーの『労働の軍事規律化』発言
このデータも『黒書』(P.97)のものです。1919年末から20年春にかけて、レーニン・政治局は、2000以上の企業を「軍隊組織化」しました。その結果、ボリシェヴィキ権力とプロレタリアートとの関係は、ますます悪化しました。
「労働の軍事規律化」の提唱者トロツキーは、第9回大会において、自分の考えを発言しました。その論旨は以下です。『人間は生まれつき怠惰の傾向をもっている。資本主義の下にあっては、労働者は生きるために仕事を探さなければならない。働く者を駆り立てるのは資本主義市場である。社会主義の下では「労働資源の利用が市場にとって代わる」。したがって、国家のつとめは、勤労者を導き、使い、統率することであり、勤労者はプロレタリア国家の兵士、プロレタリアの利益の擁護者として服従しなければならない』。
このトロツキーの提唱は、一部の労働組合活動家や、一部のボリシェヴィキ指導者によって、きびしく批判されました。それは、1921年2月に向けて、(1)党外で労働者の不満・怒りとして鬱積し、ペトログラード労働者大ストライキとなって爆発しました。その批判は、(2)ボリシェヴィキ党内で、組合自治を求める「労働者反対派」という3大分派の一つとなりました。レーニンは、1921年3月第10回党大会で「分派禁止規定」を緊急提案し、大会後、『党員の上から下までの粛清』を指令しました。その結果、彼は、1921年夏までに、3大分派党員を中心として、党員の24%・136836人を除名しました(ダンコース『ソ連邦の歴史1』P.223)。
しかし、実のところ、トロツキーの「労働の軍事規律化」提唱や、実態としてレーニン・政治局が強行した2000以上の企業の「軍隊組織化」とは、次のことを意味しました。それは、まず、(1)「戦時共産主義」にあっては、“敵前逃亡”と同じと政府が見なしたストライキの禁止です。それは、(2)工場・企業の政府任命3人管理システムの指令と権限の強化であり、それへの労働者ソヴィエト・労働組合および工場委員会の完全な従属でした。(3)プロレタリアートが「二月革命」から「十月・ソヴィエト革命」にかけて自力で勝ち取った「資本家経営全般にたいする労働者統制」権限を簒奪し、各労働者組織の役割を「プロレタリア独裁の国有化企業におけるボリシェヴィキ生産政策の遂行」に限定・矮小化してしまったたのです。さらには、(4)当時の飢餓状況下で、労働者が、食糧探しのために、職場を離れたり、欠勤や遅刻するのを禁止する措置でした。
レーニン・トロツキーは、この“軍事”的政策によって、すべての労働者組織を「ボリシェヴィキ一党独裁権力の道具」に変質させました。『レーニンがしたこと』は、「十月・ソヴィエト革命」によって『すべての権力を労兵ソヴィエトへ』とした労働者革命にたいして、“一党独裁政党が「赤色テロル」手段で、労働者権力を簒奪していく事実上の「反革命」”だったのです。
3、「プロレタリア独裁国家」でのプロレタリアート・ストライキと流血の鎮圧
1917年から1920年におけるストライキ
(表6)労働者ストライキと参加者の大量逮捕・処刑数
1917年から20年にかけての、労働者ストライキの状況、鎮圧実態については、1997年フランスで出版された『共産主義黒書』が、ソ連崩壊後に初めて明らかにしました。E・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命2』で、レーニンの労働者・産業政策を上記のように、綿密に分析しました。しかし、ソ連崩壊前では、ストライキの実態は「極秘」で、彼もそれを発掘できませんでした。ニコラ・ヴェルトは、『黒書』(P.94)で、その理由を次のようにのべています。『ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力だった』。
以下のデータは、すべてニコラ・ヴェルトが掘り出した資料に基づいています。原典がそれぞれ付いていますが、ロシア語原典をフランス語に直したもので、邦訳された資料はありません。よって、出典としては、『黒書』のページ数を書きます。これらは、『黒書』(P.70〜99)にあります。「第2章、プロレタリア独裁の武装せる腕(かいな)」と「第3章、赤色テロル」から、ストライキ関係データのみを、抜粋・要約し、月日・都市・事項を太字にしました。私(宮地)の見解も若干加えてあります。
12月、ペトログラード、公務員ストライキ
時期的には、鉄道従業員組合と同じような、ボリシェヴィキ単独権力奪取にたいする直後の批判ストとも推測されます。しかし、正確なストライキ原因は、書いてありません。レーニンが創設したばかりの秘密政治警察チェーカーが、最初にやったのは、この公務員ストライキの粉砕でした。そのやり方は迅速で、「リーダーの逮捕」でした。ジェルジンスキーが断言した逮捕の根拠は『人民とともに働くことを欲しないものは、人民とともにいる場所をもたない』です。“ストライキ労働者のいる所は監獄である”というのが、権力奪取1カ月後のレーニン、ジェルジンスキーの基本姿勢でした。1905年革命における労働者ストライキを称賛し、激励した「革命家レーニン」は、権力奪取の瞬間から、ストライキ労働者を逮捕する「一党独裁政治家レーニン」へと、見事に“変身”しました。(『黒書』P.70)
4月11、12日、モスクワ、チェーカーによるアナキスト襲撃
これは、チェーカーの最初の大規模作戦でした。1000人以上の特別部隊が、アナキストの20軒ほどの家を襲撃しました。アナキスト520人を逮捕し、25人を「匪賊」として“略式処刑”しました。「匪賊」(バンディト)というレッテルは、その後、ストライキ労働者、徴兵忌避者や「反乱」農民をも指すようになりました。(『黒書』P.73)
5、6月、ソ連全土、ボリシェヴィキの選挙敗北と社会主義他党派の全面弾圧・逮捕
権力奪取半年後で、上記路線・政策によって、ボリシェヴィキ支持率は、ソ連全土で急落しました。『大衆がボリシェヴィキに顔を背けた』結果、ソヴィエト改選選挙が行われた30の県庁所在地の内、19地区で社会革命党(左派エスエル)とメンシェビキが勝利しました。『すべての権力をソヴィエトに』とした革命権力機関・ソヴィエト内における一党独裁政党ボリシェヴィキの大敗北です。県庁所在地ソヴィエトとは、プロレタリアートが最も集中していた地区であり、そこでの敗北は、プロレタリアートが「プロレタリア独裁国家」を名乗るボリシェヴィキ一党独裁政権の不支持を明確に表明したことでした。
選挙敗北者レーニンの対応は、勝利政党にたいする全面弾圧でした。
(1)、社会主義的反対派の新聞205を完全な発行禁止にしました。
(2)、メンシェビキや社会革命党が多数派となった11のソヴィエトを、チェーカー分遣隊が武力解散させました。そのソヴィエトは、カルーガ、トヴェーリ、ヤロスラヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラートフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダでした。
(3)、他でも、反対派が選挙で勝って、新しいソヴィエトが作られると、その数日後に、土地のボリシェヴィキが軍隊の応援を頼みました。来たのは、チェーカーの分遣隊で、「戒厳令」を出し、反対派を逮捕しました。
(4)、6月14日、レーニンは、ソヴィエトの全露執行委員会から「メンシェビキと社会革命党の排除」を強行しました。(『黒書』P.75、76)
5月31日、トヴェーリ、ジェルジンスキーのチェーカー全権委員への指令
反対派が勝利した町トヴェーリに、ジェルジンスキーは、自分が信頼するチェーカーのエイドゥークを全権として派遣しました。そして次の指令を書きました。『メンシェビキやエスエルやその他反革命の畜生どもに影響された労働者たちは、ストライキを行い、「社会主義」めいた政府の創設に賛成を表明した。君はすべての市にポスターを貼って、ソヴィエト権力にたいして陰謀を企てるあらゆる匪賊、盗賊、投機家、反革命家はチェーカーによってただちに銃殺されると声明すべきだ。人を黙らせるには一発ぶっぱなすのがいちばん有効だとよく知っている連中を使うことだ』。(『黒書』P.76)
5月後半から6月、その弾圧・排除にたいする労働者の抗議・デモ・ストライキと流血の鎮圧
勝利政党への弾圧・排除に抗議して、多くの工業都市で、労働者のデモ・ストライキが発生しました。ソルモヴォ、ヤロスラヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市ニジニ−タギール、ベロレック、ズラトウスト、エカチェリンブルグなどです。それらは、土地のチェーカーによって、流血の中で鎮圧されました。
一方、そこでの食糧事情はますます悪化していました。それにたいする労働者の食糧要求デモ、集会にたいして、チェーカーは、発砲し、銃殺しました。ペトログラード近郊のコルピノにおけるデモにたいして、チェーカー分遣隊長が発砲を命じ、10人を射殺しました。エカチェリンブルグ近郊のベレゾフスキー工場では、労働者が「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんいい家の占拠をしていることと、150ルーブルを横領したことにたいして抗議集会を開きました。それにたいして、ボリシェヴィキ赤衛隊は、労働者15人を殺害しました。翌日、地区当局は、この工業都市に「戒厳令」を宣告し、土地のチェーカーは、即座に14人を銃殺しました。(『黒書』P.76)
6月8日、第1回全ロシア・チェーカー会議
ジェルジンスキーが招集し、11日まで開催しました。そこには、43地区、約12000人の代表100人が出席しました。チェーカーのメンバー数は、1918年末に4万人、1921年初めには28万人以上に増加しました。すでにチェーカーの権限は「ソヴィエト以上」「党以上」と、何人かのボリシェヴィキが言っていました。この会議は『ソヴィエト・ロシアの行政当局の最高機関として共和国全土に反革命にたいする闘いの重荷を引き受ける』ことを宣言しました。その「情報部・課」の“疑わしい者のリスト作成義務”対象には、「労働組合と労働者委員会」を含めていました。(『黒書』P.77)
5月〜6月20日前、ペトログラード、労働者ストライキ・集会・デモとロックアウト
ボリシェヴィキと労働者との関係は、悪化し続けていました。ペトログラード・チェーカーは、この期間に、ストライキ、反ボリシェヴィキ集会、デモなど「70の事件」を報告しました。彼らの主力は、1917年とそれ以前において、最も熱烈にボリシェヴィキを支持していた金属労働者でした。彼らのストライキにたいして当局は国営化された大工場をロックアウトすることで応えました。このやり方は、その後何ヶ月かの間、労働者の抵抗を打ち破る常套手段となりました。(『黒書』P.78)
6月20日〜7月2日、ペトログラード、ヴォロダルスキー暗殺、800人逮捕、ゼネスト呼び掛け
6月20日、このような労働者ストライキ弾圧状況の中で、ペトログラードのボリシェヴィキ指導者であるV・ヴォロダルスキーが、エスエル活動家によって暗殺されました。暗殺後の2日間で、当局は、「首謀者」800人以上を逮捕しました。
ペトログラード・ソヴィエトは、すでに、6月14日のレーニン指令により、ソヴィエト執行委員会から「メンシェビキと社会革命党の排除」を強行していました。レーニンは、これにより、政府機関だけでなく、「ソヴィエト内の一党独裁化」をも強引に完成させたのです。“他党派排除で権力を簒奪し、ボリシェヴィキが私有化した”ペトログラード・ソヴィエトに対抗して、メンシェビキが「労働者全権会議」を作りました。当局は、それも解散させました。(『黒書』P.78)
7月2日、この大量逮捕にたいして労働者側は、ゼネスト呼び掛けで応えました。社会革命党指導者マリア・スピリドーノヴァは、ペトログラードの主な工場をめぐって、大喝采をあびました。このゼネストは、弾圧で失敗しました。ボリシェヴィキは、その直後に、彼女を含む社会革命党指導者を逮捕しました。(『黒書』P.94)
夏、内戦中でのボリシェヴィキ支配地域、140の大規模な「農民反乱」勃発
この時期は、「食糧独裁令」第1過程「貧農委員会」路線でした。その政策は、レーニン・スヴェルドロフ側が仕掛けた『農村に内戦の火をつける。それによって農村を社会主義化する』という暴挙でした。この詳細は『農民』ファイルで書きました。
白衛軍との内戦は、ドン地域、ウクライナ地方、シベリア鉄道沿線の3方面で行われていました。それ以外のボリシェヴィキ支配地域で、1918年夏に、『ボリシェヴィキ・貧農委員会側が、わざわざ農村に内戦の火をつけ』たことによって、およそ140件の大規模な「農民反乱」が起きました。その主な原因は、(1)農民の第1要求である「土地革命」を自力で成し遂げた9000万農民と農村共同体が、穀物・家畜を食糧徴発隊によって乱暴に取り上げられることを拒絶したこと、(2) 農民の第2要求「穀物・家畜の自由処分権」に基づく個人的商取引・自由商業が制限されたこと、(3)赤軍500万体制に向けて、農民を大量に徴兵したこと、などでした。(『黒書』P.80)
『赤色テロル』ファイルで書いたように、レーニンは、「食糧独裁令」第2過程もふくめて、「反乱」農民を数十万人殺害しました。
7月24日、3都市とイジェフスク兵器工場労働者の蜂起
3都市のヤロスラヴリ、ルイビンスク、ムーロムで、社会革命党指導者ボリス・サヴィンコフの指揮下で、「祖国〔と自由〕防衛同盟」によって組織された反乱が起きました。また、イジェフスク兵器工場労働者の蜂起が、メンシェビキと社会革命党の地方組織の扇動で発生しました。ヤロスラヴリ市が、半月の抵抗後に陥落し、ジェルジンスキーは、「特別調査委員会」を派遣しました。「チェーカー委員会」は、7月24日から28日までの5日間で、428人を処刑しました。(『黒書』P.81)
8月8、9日、ソ連全土、蜂起防止の「予防措置」としての『人質』『強制収容所』政策
レーニン・ジェルジンスキーは、チェーカーや党地方機関に無数の電報を打って、蜂起のあらゆる試みを防ぐために「予防措置」を講ずるよう要求しました。
8月8日、レーニンは、食糧人民委員ツルーパに、次のような政令を起草するよう要求しました。『各穀物生産地区において、最も裕福な者25人を人質にとり、食糧徴発計画が実行されないときには、その命をもって責任をとらせる』。
8月9日、レーニンは、ペンザ県執行委員会に電報を打って、『クラーク、聖職者、白衛軍、その他の疑わしき者を強制収容所に閉じこめる』よう命じました。
その数日前、ジェルジンスキーとトロツキーは、同じように人質を「強制収容所」に収監するよう命じました。
8月15日、レーニンとジェルジンスキーは、メンシェビキ指導部の主だった者、マルトフ、ダン、ポトレーソフ、ゴールドマンらの逮捕命令に署名しました。(『黒書』P.82)
8月30日、2つの暗殺事件と「赤色テロル」の合法化と大波
8月30日、レーニンとペトログラード・チェーカー長官ウリツキーにたいする暗殺事件が起きました。事件の内容とそれにたいする「赤色テロル」については、『赤色テロル』ファイルで詳細に分析しました。この『黒書』でも、82ページから88ページにかけて、さらに詳しいデータが載っています。
9月、ジノヴィエフは、こう断言しました。『我々の敵を滅ぼすには、我々は自身の社会主義テロルを持たなければならない。我々はソヴィエト・ロシアの1億の住民中、そう9000万を我々の側に引き込まなければならない。その他の者については、何も言うことはない。彼ら(残りの1000万人)はすべて殲滅されるべきである』。(『黒書』P.84)
このジノヴィエフ発言は、国民の10%・1000万人を殺害するテロルを、公然と是認し、推進する「赤色テロル」思想でした。その思想に基づいて、レーニンは、最低でも数十万人を「殺し」、スターリンは、4000万人を粛清しました。
10月25日、ボリシェヴィキの党中央委員会、「新しいチェーカー法規」の審議
チェーカーの役割をめぐって、ボリシェヴィキ指導部内に論争がありました。ブハーリン、オルミンスキーや内務人民委員ペトロフスキーは『ソヴィエトと党自体を超えて行動することをのぞむ一機関に全権をゆだねる』ことを批判しました。カーメネフは、単純・率直に『チェーカーを廃止すること』まで提案しました。
しかし、無条件のチェーカー支持派が勝利を占めました。それは、ジェルジンスキーのほか、スヴェルドロフ、スターリン、トロツキー、そしてもちろんレーニンといった党のトップたちでした。彼らは、『テロの問題をより広い観点から考察することのできない・・・偏狭なインテリによって、多少の行きすぎを批判された機構』を断固擁護しました。
11月初め、ペルミ県、モトヴィリハ武器工場のストライキと弾圧・処刑
ストライキの理由は、(1)食糧配給が「社会的出身」に応じてなされるボリシェヴィキ的原則や、(2)チェーカーの職権乱用への抗議でした。当局は、ひとたび労働者がストライキに入れば、それを『全工場が蜂起の状態に入った』と宣言しました。当局は、ストライキ中の労働者との話し合いをまったく行いませんでした。そして、工場をロックアウトし、全労働者を解雇しました。「リーダー」を逮捕し、ストライキの元凶と疑いをかけたメンシェビキの「反革命家」を手配しました。地方チェーカーは、『赤色テロル』ファイルで書いたような「秋からの、中央からの殺人の呼び掛けに奮い立って」、ストライキ参加者100人以上を、正式な裁判もせずに、処刑しました。(『黒書』P.87)
1918年の夏以降、このようなやり方は、しばしば行われました。報道から察せられる限り、1918年秋の2カ月間で、チェーカーは、「赤色テロル」によって、約1万人から1万5000人という大量処刑をしました。(『黒書』P.87)
12月19日、中央委員会、『チェーカーにたいする中傷的記事の掲載禁止』決議を採択
レーニンの提案で、中央委員会は、ボリシェヴィキの報道が『諸機構、とりわけ困難な情況の下で任務を果たしているチェーカーにたいする中傷的記事を掲載することを禁止する』決議を採択しました。かくて、チェーカーをめぐる論争は終わりました。「プロレタリアの鉄の腕」は、絶対に誤りをおかさぬ証明を、レーニン・中央委員会によって受けました。レーニンが言うように、「よきコミュニストはよきチェキストでもある」となりました。(『黒書』P.88)
以下の4件は、重要なデータですので、『黒書』から、そのまま引用・抜粋します。ただ、私(宮地)の方で、字句の変更、番号の挿入をしてあります。
3月10日、ペトログラードの大騒動と鎮圧
『隠蔽された労働者への弾圧
ボリシェヴィキは労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力であった。一九一八年から始まったこの弾圧は、一九一九〜一九二〇年にかけて進行し、その絶頂は有名な一九二一年春のクロンシュタットのエピソードである。ペトログラードの労働者たちは一九一八年の初め以来、ボリシェヴィキに対する不信感を表明してきた。一九一八年七月二日のゼネスト失敗のあと、ボリシェヴィキは社会革命党の何人かの指導者を逮捕したが、これはその中のマリア・スピリドーノヴァが、ペトログラードの主立った工場をめぐって大喝采を博した直後だった。この逮捕のあとの一九一九年三月に、労働者の二度目の大きな騒動が古都〔ペトログラード、新都はモスクワ〕で起こった。すでに食糧供給の難しさから、情勢はかなり緊張していたが、この逮捕によって広範な抵抗運動とストライキが開始された。一九一九年三月十日、プチーロフ工場の労働者の総会は、一万の参加者の前で正式にボリシェヴィキを非難する宣言を採択した。「この政府は、チェーカーと革命裁判所の助けをかりて統治する共産党中央委員会の独裁でしかない。」
宣言は、『(1)全権力のソヴィエトへの移行、(2)ソヴィエトと工場委員会における自由な選挙、(3)労働者が田舎からペトログラードへ持ち込むことのできる食糧の制限(一・五プード、すなわち二四キロ)の廃止、(4)投獄されている「真に革命的諸党派」の政治家、とくにマリア・スピリドーノヴァの釈放』を要求した。
日毎増大する運動を抑えるために、レーニンは一九一九年三月十二〜十三日に、自らペトログラードにおもむいた。労働者に占拠されている工場で演説をしようとした時、彼はジノヴィエフとともに「ユダヤ人と人民委員を倒せ!」という叫びにやじり倒されてしまった。一九一七年十月の革命のあとボリシェヴィキが一時的に獲得していた信頼が失われるや、いつでも表面化せんとしていた民衆の底辺にあった昔からの反ユダヤ主義が、ただちにユダヤ人とボリシェヴィキを結びつけたのだった。有名なボリシェヴィキ指導者の中に占めるユダヤ人(トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、ラデックら)の割合が大きかったことが、大衆の目には、ボリシェヴィキとユダヤ人の融合を証明するようにみえた。
一九一九年三月十六日、チェーカーの分遣隊は、武器を手にして守っていたプチーロフ工場を襲撃した。およそ九〇〇人の労働者が逮捕された。その後数日間に、約二〇〇人のストライキ参加者が、ペトログラードから五〇キロほど離れたシュリッセリブルク要塞監獄で、裁判もなしに処刑された。新しい儀式によって、スト参加者は全員解雇されたあと、自分たちが反革命のリーダーによって騙され、「犯罪に引き込まれた」という声明に署名したあとでなければ、再雇用されることがなかった。このあと労働者は厳しい監視下に置かれた。一九一九年春以降、チェーカーの秘密部門は、いくつかの労働運動の中心に、あれこれの工場における「精神状態」を定期的に報告する任務を負った密告者網を設置した。労働者階級は危険な階級となった…』(『黒書』P.94)。
春、8都市、労働者ストライキと鎮圧
『危険な階級
一九一九年春は、トゥーラ、ソルモヴオ、オリョール、ブリヤンスク、トヴェーリ、イヴァノーヴオ・ヴオズネセンスク、アストラハンなど、労働者の町いくつかで多くのストライキが起こって、乱暴なやり方で鎮圧されたことで特記される。労働者の要求事項はほとんどどこでも同じだった。給料は飢餓のレベルの、一日半フント〔二〇〇グラム〕のパンが買えるだけの配給券と同じにまで下がってしまったところから、スト参加者はまず『(1)配給量を赤軍兵士と同じ水準まで引き上げること』を要求した。しかしそれにとどまらず、彼らの要求は、なによりも政治的なものでもあった。『(2)共産党員の特権の廃止、(3)すべての投獄されている政治犯の釈放、(4)工場委員会やソヴィエトへの自由な選挙、(5)赤軍への徴兵の廃止、(6)結社・言論・出版の自由』などである。
これらの運動がボリシェヴィキ政権にとって危険に見えたのは、それがしばしば労働者街の兵営に居住する軍隊を味方につけたからであった。オリョール、ブリヤンスク、ゴメル、アストラハンにおいて、反乱を起した兵士は「ユダヤ人に死を! ボリシェヴィキの人民委員を倒せ!」と叫んでストライキ参加者と合体した。彼らはチェーカーの分遣隊や、数日間の戦闘のあとでも依然として体制に忠実な部隊によって再占領されていない町の一部を占拠し、掠奪した。これらのストライキや兵士の反乱に対する弾圧の仕方は、様々であった。(1)工場全体をロックアウトし、(2)配給券を差し押さえてしまう――ボリシェヴィキ権力の最も強力な武器は、飢餓だった――というやり方から、(3)何百というスト参加者や反乱兵をまとめて処刑するのまで、いろいろだった』(『黒書』P.95)。
3月10日、アストラハン、労働者ストライキ・兵士反乱と大虐殺
『アストラハンの虐殺
ヴォルガ河口近くのアストラハンの町は、一九一九年春には戦略上とくに重要な意味を持つようになっていた。ボリシェヴィキにとってこの町は、北東からのコルチャーク提督の軍勢と、南西からのデニーキン将軍の軍勢とが合流することを阻止しなければならない重要地点だった。一九一九年三月にこの町のストライキがかつてない荒々しさで鎮圧された理由は、おそらくこれが理由だったろう。三月初めに、(1)経済的理由−きわめてわずかな配給量と、(2)政治的理由−社会主義者活動家の逮捕、から始まったストライキは、第四五連隊が、町の中心を行進していた労働者に発砲するのを拒否した三月十日に、質的に変化した。ストライキを行っていた労働者に合流した反乱軍兵士は、ボリシェヴィキの本拠を襲って、何人かの指導者を殺した。この時アストラハン県軍事革命委員会議長のセルゲイ・キーロフは、「あらゆる手段を使って白軍のシラミどもを一掃」するように命じた。町を再占領するべく徹底的に攻撃する前に、依然として体制に忠実だった部隊とチェーカーの分遣隊は、町へのすべての道を閉鎖した。はち切れんばかりにいっぱいの牢獄から出されたスト参加者と反乱兵は、平底船に乗せられたあと、首に石を付けられて何百人もがヴォルガ川に沈められた。三月十二日から十四日にかけて、二〇〇〇から四〇〇〇の間のスト参加者と反乱兵が、銃殺されたり溺死させられた。十五日から今度は「白軍」の陰謀を「教唆した」という口実で、町の「ブルジョワ」が襲われた。しかし労働者も兵士も、たとえ「白軍」だったとしても、ほんの下っ端でしかなかっただろう。二日間、アストラハンの富裕な商人の屋敷は掠奪され、主人は捕らえられて、銃殺された。アストラハンで虐殺された「ブルジョワ」の犠牲者は、おおよそ六〇〇から一〇〇〇の間と見積もられる。合計すると一週間で、三〇〇〇から五〇〇〇の間の人が処刑されたり、溺死させられた。一方、共産党の側で殺され、三月十八日――この日は当局が宣伝するパリ・コミューン記念日だった――に盛大な儀式をもって埋葬された者の数は四七人であった。赤軍と白軍の間の戦闘の単なるエピソードとして長いこと語られてきたアストラハンの虐殺は、今日入手し得る史料に照らしてみると、その本当の性格が明らかになる。それはクロンシュタットの虐殺前の、ボリシェヴィキ権力によって行なわれた最大の労働者虐殺であった』(『黒書』P.96)。
3月27日、トゥーラ、兵器製造工場の労働者ストライキと大量逮捕・死刑
『弾圧に関して最もその性格を示しているのは、一九一九年の三〜四月にトゥーラとアストラハンで起こった事件である。一九一九年四月三日、ジェルジンスキーは自らトゥーラに赴いたが、それはこのロシアでも武器製造で歴史的に有名な都市で起こった、兵器製造工場のストライキを粉砕するためだった。ロシアの小銃生産の八〇%を占め、赤軍の死命を制するこの町で、一九一八〜一九一九年の冬には、多くの工場が相次いでストライキに入っていた。質の高い労働者の中で活躍する政治的闘士の間では、メンシェビキと社会革命党員が多数を占めていた。一九一九年三月初めに数百人の社会主義者の活動家が逮捕され、それは大きな抗議の波を引き起こしたが、ついに三月二十七日には何千という労働者と鉄道員の巨大な「自由を求め飢えと闘う行進」に発展した。四月四日、ジェルジンスキーはさらに八〇〇人の「リーダー」を逮捕させ、数週間前からスト参加者によって占拠されていた工場から労働者を武力で排除した。全労働者が解雇された。労働者の抵抗は、飢えという武器で打ち破られた。もう数週間前から、配給券は配布されていなかった。日に二五〇グラムのパンをもらうための新しいカードを受領し、ロックアウト後の仕事を見つけるためには、労働者は雇用願に署名しなければならなかった。そしてそこには、今後仕事を中止した時は、兵士の逃亡と同様、死刑をもって罰せられると明記されてあった。四月十日、生産が再開された。その前日、二六人の「リーダー」が死刑に処された』(『黒書』P.95)。
1月29日、レーニンの第5軍軍事革命委員会議長スミルノフへの電報
レーニンや共産党最高指導部は、ストライキにたいする見せしめの弾圧を呼び掛けました。ウラルの労働運動が高まっていました。それが不安になったレーニンは、スミルノフへの電報を送りました。『Pの報告によれば、鉄道労働者が大規模なサボタージュをしているという・・・伝え聞くところでは、イジェフスクの労働者も関係しているとのことだ。わたしは君がそれを放置し、サボタージュを大衆処刑で処置しないことに驚いている』。『黒書』(P.99)
2月12日、『プラウダ』記事、ストライキ参加者
工場における「秩序回復」をめざした労働の軍事規律化の方策は、期待した効果とは反対に、多くの時限スト、作業中止、ストライキ、暴動を引き起こしました。当局は、それらを情け容赦なく鎮圧しました。1920年2月12日の『プラウダ』はこう書いています。『これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は強制収容所である』。労働人民委員部の公式統計によれば、1920年前半にロシアの大・中規模の工業経営の77%においてストライキが起こっています。中でも金属工業、鉱山、鉄道といった混乱の元になった部門が、労働の軍事規律化が最も進んだ分野でした。チェーカーの秘密部門がボリシェヴィキ指導部に送った報告は、軍事規律化に反対する労働者に加えられた弾圧がどんなものだったかを明らかにしています。逮捕された労働者は、たいてい「サボタージュ」または「脱走」という罪で革命裁判所に裁かれました。
3月から6月、「労働の軍事規律化」にたいする労働者ストライキの激発と弾圧
「労働の軍事規律化」を通じて、多くのストライキが起こりました。
3月、エカチェリンブルグ、当局は、ストライキ労働者80人を逮捕し、収容所送りにしました。
4月、リャザン−ウラル間の鉄道では、鉄道員100人を有罪にしました。
5月、モスクワ−クルスク線では、鉄道員160人を有罪にしました。
6月、ブリヤンスクの金属工場では、労働者152人を有罪にしました。
「労働の軍事規律化」にたいするストライキがきびしく弾圧された例はさらに何倍にもなります。『黒書』(P.99)
6月6日、トゥーラ、武器工場のストライキと「トゥーラ陰謀撲滅委員会」の鎮圧
これも、原文をそのまま抜粋・引用します。
『「トゥーラ陰謀撲滅委員会」
体制に反対する労働者の抗議で有名なのは、一九二〇年六月、トゥーラの武器工場の場合である。もっともここは、すでに一九一九年四月に、きびしい弾圧を経験したところであった。一九二〇年六月六日の日曜日に、何人かの金属労働者が上から要求された時間外労働を拒否した。女子の工員たちはこの日も、それ以前の日曜日も働くことを断っていた。それは近郊の農村に食糧の買い出しに行くことができるのは、日曜だけという理由からだった。管理部の要請でチェーカーの分遣隊がストライキ参加者を逮捕に来た。戒厳令が出され、「赤軍の戦闘力を弱める目的で、ポーランドのスパイと黒百人組〔反ユダヤ人主義をかかげス右翼の組織〕に扇動された反革命の陰謀」を告発するために、党とチェーカーを代表するトロイカがつくられた。
ストライキが広がり、「リーダー」の逮捕が増える一方で、事態の通常の展開を乱すような新たな事実が生じた。何百、何千という労働者や下級管理者がチェーカーに出頭して、自分らも逮捕してくれと言った。この動きは大きくなり、「ポーランドと黒百人組の陰謀」が馬鹿げたものであることを明らかにするために、労働者は大量逮捕を要求した。四日間で一万人以上が獄を満たした上、さらにチェーカーに監視された青天井の空間に押し込まれた。忙殺されて、もはや事態をなんとモスクワに報告してよいかわからなくなった党とチェーカーの地方組織は、ついに中央当局を、広範な陰謀が生じていると言いくるめた。「トゥーラ陰謀撲滅委員会」がつくられ、何千という男女の労働者が、犯人発見のために尋問された。逮捕された労働者は、釈放され、再雇用されて、新しい配給カードを受けるために、「下記に署名する、臭くて罪ある犬である私は、革命裁判所と赤軍の前に悔俊し、自分の罪を告白し、良心的に働くことを約束します」という声明書に署名しなければならなかった。
他の労働者の抗議運動とは反対に、一九二〇年夏のトゥーラの騒動は、かなり軽い判決で終わった。二八人が収容所送りとなり、二〇〇人が流刑となった。高度の技能を持った労働力が不足していた状況から、おそらくボリシェヴィキ権力は、国一番の兵器製造工なしではやっていけなかったからだろう。抑圧についても、食糧の供給と同じように、決定的に重要な部門や、体制の優先的利益を勘案しなければならなかった』(『黒書』P.99)。
(表6) 労働者ストライキと参加者の大量逮捕・処刑数
これは、上記データを(表)にしたものです。出典は、すべて『共産主義黒書』のページ数です。ただ、未判明分、未記載分が多くあり、数字に含めていません。レーニンが、どれだけの「ストライキ」労働者を逮捕し、“殺した”のかを検証します。
年 |
地方・都市 |
月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
1917 |
ペトログラード |
12、公務員ストライキ |
「リーダー」逮捕 |
70 |
1918 |
モスクワ ソ連全土 コルピノ エカチェリンブルグ 7都市 ペトログラード (ボ)支配地域 ヤロスロヴリ ペルミ県 |
4.11、アナキスト襲撃 5、6、社会主義的反対派新聞 反対派勝利のソヴィエト解散 5、6、労働者の食糧要求デモ 5、6、ベレゾフスキー工場の抗議集会 5、6、抗議集会、デモ、ストライキ 5、6、ストライキ、集会、デモ70件 6.20、暗殺への「赤色テロル」 7.2、抗議のゼネスト呼び掛け 夏、大規模な「農民反乱」140件 7.24、イジェフスク兵器労働者蜂起 11、モトヴィリハ武器工場ストライキ |
逮捕520人、処刑25人 新聞205を発行禁止 19/30で敗北、12を解散 射殺10人 殺害15人、銃殺14人 流血の鎮圧 ロックアウト、指導者逮捕 逮捕800人 弾圧、スピリドーノヴァ逮捕 処刑428人 ロックアウト、全員解雇、逮捕、処刑100人以上 |
73 75 76 78 80 81 87 |
年 |
地方・都市 |
月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
1919 |
ペトログラード 9都市 4都市 アストラハン トゥーラ |
3.10、全市の抵抗運動とストライキ プチーロフ工場も党独裁批判の宣言 春、ストライキ 春、労働者街にある兵営の軍隊反乱 3.10、食糧配給量と社会主義活動家逮捕への抗議ストライキ、デモ。それへの発砲拒否の第45連隊の合流。クロンシュタット虐殺前のボリシェヴィキ権力による最大の労働者虐殺 冬、多くの武器製造工場でストライキ 3月初め 3.27、何千という労働者と鉄道員の「自由を求め飢えと闘う行進」 |
全員解雇、逮捕900人、処刑200人、密告者網 ロックアウト、処刑、配給停止 何百とまとめて処刑 スト参加者と反乱兵士の銃殺・溺死処刑2000人から4000人。ブルジョア銃殺600人から1000人共産党側犠牲47人 社会主義活動家逮捕数百人 「リーダー」逮捕、全労働者解雇、ロックアウト、配給券差押え、「リーダー」死刑20人 |
94 95 96 96 |
年 |
地方・都市 |
月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
1920 |
レーニン プラウダ 労働人民委員部の公式統計 シンビルスク エカチェリンブルグ リャザン・ウラル線 モスクワ・クルスク線 ブリヤンスク ソ連全土 |
2.1、『何千もの人間が死んでもかまわないが、国家は救われなければならない』 2.12、『これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は、強制収容所である』 20年前半、ロシアの大・中規模の工業経営の77%でストライキ。「労働の軍事規律化」が最も進んだ金属工業、鉱山、鉄道が中心 4、武器工場で「イタリア・ストライキ型サボタージュ」=許可なし休憩、日曜強制労働に抗議、共産主義者の特権批判、低給与告発 「労働の軍事規律化」への抗議ストライキ 4、鉄道員 5、鉄道員 6、金属工場 「労働の軍事規律化」によるストライキの例は、さらに何倍もある |
収容所送り12人 逮捕・収容所送り80人 有罪100人 有罪160人 有罪152人 それへの弾圧も何倍もある |
98 99 |
1917年12月から1920年までの上記全経過、および(表6)のデータで見る限り、この3年1カ月間、「プロレタリア独裁国家」という政治体制は、存在していませんでした。
1917年のプロレタリアート300万人中、ボリシェヴィキを支持した者は、その60%・180万人であり、人口比率は1.3%でした。「プロレタリア独裁」理論を支持したボリシェヴィキ党員は、7月に24万人でした。ボリシェヴィキ支持率は、単独武装蜂起・権力奪取のわずか半年後、1918年5、6月には急落しました。
農民だけでなく、労働者も『ボリシェヴィキに顔を背けた』結果、ボリシェヴィキ路線・政策にたいする労働者ストライキ・デモ・抗議集会が一貫して増大し、激しくなりました。1920年の減少したプロレタリアート220万人中、それらの労働者行動とその頻度から見ると、ボリシェヴィキ支持率は、さらに下落して、20%前後か、それ以下になっていると思われますます。20%とすると、220万人×20%=44万人になります。ボリシェヴィキ支持労働者44万人とは、権力奪取後に増えたボリシェヴィキ党員40万人とそこに含まれる秘密政治警察「赤色テロル」オルガンであるチェキスト28万人が大部分を占める数字です。党員とチェキスト以外のプロレタリアートのほとんどが、ボリシェヴィキ不支持となった国家を、どうして「プロレタリア独裁体制が成立していた」と呼ぶことができるのでしょうか。
その面からだけでなく、権力奪取後3年2カ月間における、プロレタリアートのストライキ・デモ・抗議集会の件数や、それにたいするレーニン・ジェルジンスキーの大量逮捕・処刑数・強制収容所送りの弾圧手口からも、「プロレタリア独裁国家」は存在していませんでした。レーニン指令による「ストライキ」プロレタリアート大量殺人事実と、「プロレタリア独裁国家の成立」理論とは、並存できません。その理論は、レーニン・政治局が『党独裁』を覆い隠すための虚構(フィクション)看板だったのです。それは、『農民』ファイルで分析したように、レーニン指令による「反乱」農民数十万人殺害事実と、「労農同盟の成立」理論とが、完全に矛盾していたことと同じです。
レーニンは、1917年11月の憲法制定議会選挙で、24%得票率・議席という敗北をして以来、通常の普通選挙を拒否し、一度もやりませんでした。また、1918年6月14日、『ソヴィエトからのメンシェビキと社会革命党の排除』を強行してから、他政党が参加するソヴィエト内選挙をも、まったくしませんでした。レーニン・政治局は、3大社会主義政党とアナキストが加わって、「二月革命」、「十月・ソヴィエト革命」を成し遂げた『労働者・農民・兵士ソヴィエト』から、権力を簒奪し、『ボリシェヴィキ一党独裁のソヴィエト』に変質させたのです。
(表7) 1917年から20年の労働者ストライキと逮捕・処刑数
内容 |
地方・件数・人数 |
労働者のストライキ・デモ・集会と兵士反乱地方 その件数 ストライキ参加労働者数 ストライキ工場・企業、1920年前半の労働人民委員部の公式統計 |
36都市+未判明分 97件+未判明分 不明 大・中規模の工業経営の77%でストライキ発生。(仮に「労働の軍事規律化」強行の国有化企業を2000としても、その77%は、1540件のストライキとなる) |
逮捕 処刑、銃殺、溺死殺人 強制収容所送り、流刑 |
9280人+未記載分 5779人+未記載分 320人+未記載分 |
数字は、『共産主義黒書』に記載された数字のみの合計です。未判明・未記載分が明らかになれば、「公式統計」数字との格差のように、その15倍以上になるでしょう。しかも、「公式統計」は、20年前半だけですから、後半の統計が発掘されれば、1920年の1年間だけで、3000件以上の「飢餓の解決」と「労働の軍事規律化撤廃」要求の労働者ストライキが激発したことになります。「赤色テロル」ファイルで書いたように、レーニンは、「反乱」農民だけでも数十万人を“殺し”ました。レーニンは、「ストライキ」プロレタリアートに「匪賊」「黄色い害虫」「反革命」「敵前逃亡」などのレッテルを貼り付けました。彼は、その労働者数万人を「処刑、銃殺、溺死殺人、強制収容所送り、流刑」したと推計できます。ロックアウトし、逮捕し、解雇し、食糧配給券を差し止めた労働者は、十数万人をはるかに超えるでしょう。
1905年革命において、ツアーリ帝政商工省は、ストライキ件数、ストライキ参加労働者数、その業種別データを、前後10年間にわたって調査し、詳細な統計を公表しました。レーニンは、亡命地スイスで、そのデータを19の表にして使用し、プロレタリアートのストライキとその前衛的役割を鼓舞激励しました。
ところが、彼は、自分が「亡命革命家」から「一党独裁政権最高権力者」となると、その反ボリシェヴィキ・労働者ストライキのデータをひた隠しにしました。なぜなら、それは、「プロレタリア独裁国家の成立」そのものを全面否定し、その理論の欺瞞性を完全なまでに暴き出すデータだったからです。
「レーニン秘密資料」6000点や、「チェーカー秘密資料」が公表され、もっと正確なストライキ件数・参加労働者数と「ストライキ」労働者の逮捕・処刑数が明らかになれば、「プロレタリア独裁国家が成立していた」というレーニンの“ウソ”が、完全に証明されるでしょう。
それにしても、ボリシェヴィキ路線・政策に反対・抗議する、このようなプロレタリアートのストライキ・デモ・集会と、それにたいする流血の鎮圧データを、完璧なまでに隠蔽しておいて、1917年11月7日から1922年12月16日第2回発作までの5年2カ月間、「一党独裁政権最高権力者」として、『「プロレタリア独裁国家」が成立している』と唱え続けたレーニンの人間性をどう考えたらいいのでしょうか。
以上 『虚構3』に行く 『虚構1』に戻る 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計(宮地作成)
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実(1)
聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理 (宮地作成)
「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』とレーニンの党派性 (宮地作成)
レーニン「分派禁止規定」の見直し逆説・1921年の危機 (宮地作成)
ザミャーチン『われら』と1920、21年のレーニン (宮地作成)
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』 1918年
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 戦時共産主義
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
中野徹三『社会主義像の転回』 制憲議会解散論理、1918年
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