クロンシュタット・コミューン

 

クロンシュタット事件

 

イダ・メット

 

 ()これは『クロンシュタット叛乱』(1971年、鹿砦社。1991年新装版、絶版)中の、イダ・メット『第1部、クロンシュタット事件』(蒼野和人訳)の全文(P.7〜67)である。本書は、第1部・クロンシュタット事件、第2部・各政治党派の見解と動向、第3部・クロンシュタット―ソヴェト最後の高揚という構成になっている。当初は、第1部・14章中、6章のみの抜粋だった。しかし、(関連ファイル)のように、反乱の全経過について、他論文をいくつか全文転載した。よって、2004年5月、フランス語版への序文も含め、14章とも全文転載することにした。

 1994年、クロンシュタットの反乱者は、大統領令によって、名誉回復された。

 なお各章の番号はこちらで付け、第3章の綱領項目は、赤太字にした。文中の傍点は、黒太字にした。ペトログラードの全市的な労働者ストライキとクロンシュタットの反乱とは密接な関係を持っている。その関連を示すために、主な日付は、私(宮地)青太字にした。イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』の英語版全文は、(関連ファイル)リンクにある。

 

 

 〔目次〕

      フランス語版への序文

    1、背景

    2、クロンシュタット前夜のペトログラード

    3、クロンシュタット綱領の検討

    4、大衆集会

    5、臨時革命委員会

    6、ボリシェヴィキの中傷

    7、一般党員にたいする影響

    8、脅迫と買収

    9、ペトログラードの支持

   10、最初の前哨戦

   11、赤軍における士気阻喪

   12、赤軍の再編成

   13、総攻撃

   14、決算書

 

 (関連ファイル)            健一MENUに戻る

     『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』

       ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係

     『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版

     『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題

     P・アヴリッチ 『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他

     ヴォーリン  『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

     スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過

     A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過

     ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁政策の誤り

     大藪龍介   『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱

     梶川伸一   『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

       食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

       レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

     Ida Mett『The Kronstadt Communeクロンシュタット・コミューンの英語版全文

     Google検索『kronstadt

 

 フランス語版への序文

 

 一九二一年以降、新たな事実が明らかにされたということはないが、クロンシュタットにたいしてわれわれが一層深い分析をなすべき機が熟してきたように思われる。ロシア政府および赤軍にかんする諸記録は、いかなる種類の客観的分析にたいしてもその門戸を閉ざしたままである。にもかかわらず、いくつかの公式刊行物にみられる記述は、歪められた光によってではあれ、これらの諸事件の何ほどかを映し出しているように思われる。だが、当時明らかにされたことどもは、われわれがこのロシア革命の予兆的そして決定的なエピソードの政治的意味を把握することを可能ならしめるのに、すでに十分なものであった。

 

 西ヨーロッパ労働者階級の戦闘的部分は、ボリシェヴィキ政権に絶対的信頼を寄せていた。この政権は、封建的・ブルジョア的反動に抗する闘争における労働者階級の巨大な努力の先頭に立ってきたばかりであった。これらの労働者たちの眼には、この政権が「革命」そのものを体現しているように映っていたのである。

 

 この同じ政権が革命的蜂起を残虐に弾圧することができたなどとは、人民大衆には信じられるはずがなかった。そのゆえにこそ、ボリシェヴィキは、易々と(クロンシュタット)運動に反革命というレッテルを貼りつけ、ロシアおよびヨーロッパ・ブルジョアジーによって組織され、支援されたものとして非難することができたのである。

 

 「前将軍コズロフスキーを先頭とする、白衛軍の将軍どもの叛乱」と当時の新聞は述べたてた。だがそうしたあいだにも、クロンシュタットの水兵たちは以下のようなアピールを全世界に向け発しつつあったのである。

  「同志労働者、赤軍兵士ならびに水兵諸君。われわれは、党派の権力のためではなく、ソヴェトの権力のためにたたかっている。われわれは、すべての労苦している者による自由な代表制を支持しているのだ。同志諸君、諸君らは迷わされている。クロンシュタットでは、全権力が革命的水兵・赤軍兵士・労働者の手中に握られている。モスクワ放送が諸君らに語っているように、コズロフスキー将軍に率いられているといわれる白衛軍の手中にあるのではない。」

 

 クロンシュタット水兵とクレムリン政府との見解の衝突は、かくのごときものであった。われわれは、歴史的諸事件についての客観的な分析を通じて、労働者階級の重大な関心事に応えたいと望んでおり、これらの相矛盾する命題を、事実と資料それにクロンシュタット壊滅のほぼ直後に生起した諸事件の光にあてつつ検証することを試みようと考える。

 「全世界の労働者がわれわれを裁くであろう」とクロンシュタットの蜂起者たちは、その放送を通じて語っていた。「無事の人びとの血潮が権力に酔い痴れてしまった者どもの頭上に降りかかるであろう。」この言葉は予言的ではなかったろうか?

 

 ここに、この叛乱の鎮圧に主要な役割を演じた著名な共産主義者(コミュニスト)たちのリストがある。読者諸氏は、彼らの末路を知るであろう。

 ジノヴィエフ ペトログラードにおける全能の独裁者。ストライキ参加者・水兵双方にたいする無慈悲な闘争を指令。銃殺。

 トロツキー 陸海軍人民委員。メキシコにおいてスターリニストの手先きの手によって暗殺さる。

 ラシェヴィチ 革命軍事委員会委員。ペトログラードのストライキ参加者とたたかうため組織された防衛委員会委員。自殺。

 ドィベンコ 歴戦の水兵。一○月〔革命〕以前はバルチック艦隊中央委員会の組織者の一人。クロンシュタットの軍事的粉砕にさいして、とくに積極的役割を果す。一九三八年当時、なおペトログラード地区守備隊指揮官。銃殺。

 クズミン バルチック艦隊付政治委員。生死不明。消息不明。

 カリーニン 「国家元首」として名ばかりの権力の座に留まる。自然死?

 トゥハチェフスキー クロンシュタットへの突撃計画を細密に練り、その突撃を指揮。銃殺。

 プンタ クロンシュタットの軍事的鎮圧への参加によって叙勲され、のちにロンドン駐在武官。銃殺。

 

 第一〇回党大会代議員で、クロンシュタットに敵対してたたかった者―

 ピャタコフ 銃殺。

 ルヒモヴィチ 銃殺。

 ブブノフ 公職追放。行方不明。

 ザトンスキー 公職追放。行方不明。

 ヴォロシーロフ 一九四一〜四五年大戦期間中は、地位を保持。(のちにソヴェト中央執行委員会常任委員会議長。)

 

                        パリ 一九四八年一〇月

 

 

 1、背景

 

 「白衛軍の新たな陰謀…フランス反革命勢力によって疑いもなく準備され、その期待を担ったところの。」 『プラウダ』一九三年三月三日付

 「白衛軍将軍どもが―諸君はみなそれを御存知であるが―ここで大きな役割義じたことは疑いない。それは完全に立証されている。」レーニン、ロシア共産党(ボ)第一○回大会への報告。一九二一年三月八日、『選集』第九巻九八頁。

 「ボリシェヴィキはクロンシュタットの人びとを白色将軍に率いられた反革命謀反者として非難した。この非難が、根拠のないものであったことは、明らかになっている。」アイザック・ドイッチャー『武装せる予言者』(オックスフォード大学出版、一九五四年)五五一頁。

 

 クロンシュタット蜂起は、ヨーロッパ戦線における内戦終結の三カ月後に勃発した。

 内戦が勝利的結末へ近づくにつれて、ロシアの労働者大衆は慢性的飢餓状態に陥っていった。彼らは同時に、単一の党に支配される苛酷な体制の下に、ますます抑圧されていったのである。一〇月革命を成し遂げた人びとは、まだ、社会革命への約束と自分たちがかつて抱いた新たな社会を建設するのだという希望とを記憶にとどめていた。

 

 この世代の人びとは、労働者階級のきわめて重要な部分を構成していた。彼らは、平等と真の自由への自らの要求を、戦争と両立しさえすればと願いながらも、少なくとも戦時下の諸条件の下では達成することが困難であると信じて、いやいやながら放棄していた。だが、ひとたび勝利が確実となるや、都市労働者、水兵、赤軍兵士、それに農民、これら内戦のあいだに自らの血を流したすべての人びとは、自らの艱難辛苦と苛烈な規律への無条件の服従とにたいするいかなる正当化も、もはや認めることはできなかった。たとえ、これらのことが戦時下においては一定の存在理由を有していたとしても、そうした理由は、もはや用いられるべくもなかったのである。

 

 多くの者が前線でたたかっていたあいだに、他の者たち―国家装置の中での支配的な地位を享受している―は、自己の権力を強化し、また、自己をますます労働者から隔離していった。官僚主義はすでに、憂慮すべきほどの拡がりをみせていた。国家機構は、単一の党―その党自体も一層、職業的分子によって侵蝕されていったのであるが―の掌中にあった。日常生活においては、党に所属していない労働者は、遅ればせながら党の下に馳せ参じたかつてのブルジョアや貴族と較べれば、とるに足りない存在となった。自由な批判はもはや存在していなかった。党員であれば誰でも、ただ自己の階級的権利と労働者としての尊厳を守ろうとしているにすぎない労働者にたいして、《反革命》の非難を投げつけることができたのである。

 

 工業および農業生産は、急速に下降線をたどっていきつつあった。事実、工場用の原料は、皆無であった。機械類は磨滅し、放置されていた。プロレタリアートの主要な関心事は、飢饉との深刻な闘争であった。工場からものを盗むことが、あまりにも劣悪な賃金下の労働にたいする一種の埋め合わせとなっていた。こうした窃盗行為は、工場の門においてチェー・カーによってなされる、たび重なる身体検査にもかかわらず、続出したのである。

 

 農村に縁故関係をまだもっている労働者たちは、古着とかマッチとか塩とかいったものを食糧と交換するために、そこへ出かけて行くのだった。列車は、こうした人びと(メショーチニキと呼ばれた)で満員だった。無数の困難にもめげず、彼らは、飢えに瀕している都市へ食料を持ち込もうと努力していた。労働者階級の怒りは、彼らがその子供たちを餓死から護ろうとして背中にかついできた小麦粉や馬鈴薯のささやかな荷袋が民兵の検問で没収されるたびごとに、爆発した。

 

 農民は、強制的徴発に屈従させられていた。彼らは、凶作から現実に生じつつある飢饉の危険をも顧みず、作付けをさらに縮少していた。凶作は、恒常的なことであった。普通ならば、その程度の収穫で自動的にこうした大災難となってしまうようなことはありえなかった。耕作地域は広大であり、農民は、さらに苦しくなる時期に備えて、何ほどかを通常とっておくものだった。

 

 クロンシュタット叛乱に先行する状況は、約束されたものと獲得されたものとの奇妙な齟齬、というふうに要約されるであろう。厳しい経済的困難が存在していた。と同時に、いま問題となっている世代の人びとが、革命期にそのためにたたかった諸権利の意味していたことを忘れ去ってはいなかった、という事実も重要なことであった。このことが、叛乱の真の心理的背景をつくり出すこととなったのである。

 

 赤色海軍も自己の問題をかかえていた。ブレスト=リトフスク講和以来、政府は、兵士による将校の選出という以前の原則とはまったく相入れない厳格な軍規に基く、軍隊の完全な再編制に着手していた。完全な階級制が導入された。こうしたことは、これまで革命の軌跡において広くゆきわたっていた民主主義的傾向を徐々に窒息させていったのである。純粋に技術上の理由から、海軍―そこでは革命的伝統が強固に根をおろしていた―においては、こうした再編制が可能ではなかった。海軍将校のほとんど大部分は白衛軍側に移ってしまっていたし、水兵たちは一九一七年に彼らが勝ちとった民主的諸権利の多くを未だ保持していたのである。彼らの組織を完全に解体することは、不可能なことであった。

 

 こうした事態は、軍隊の残余の部分で起っていたこととは、きわだった対比をなしており、ながく続くわけがなかった。一般水兵と軍隊の上級指揮官との不和は、爆発寸前にまでなるにいたった。

 不満は、非党員水兵たちのあいだにだけ蔓延していたわけではない。それは、共産党員水兵たちにも影響を与えていたのである。《陸軍方式》の導入によって艦隊を《規律化》するという試みは、一九二〇年以来、激しい抵抗に遭遇していた。有力な党員であり、バルチック艦隊革命軍事委員であるツェフは、その《独裁者的な態度》のゆえに、共産党員水兵たちによって公けに弾劾された。一般水兵と指導者とのあいだに拡がりつつあった巨大な裂け目は、一九二〇年一二月に開催された第八回ソヴェト大会への選挙期間中に姿を現わした。ペトログラード海軍基地では、多数の水兵たちが、海軍政治部(ポリトオトジェル)および艦隊委員会(コムフロト)(すなわち、海軍における政治的統制権を独占している当該諸組織)の人間を正式の代議員として派遣することに公然と抗議して、選挙集会場から荒々しく退場した。

 

 一九二一年二月一五日、第二回バルチック艦隊共産党員水兵会議が開かれた。この会議は、三〇〇名の代議員を集めて以下のような決議を可決した―

 第二回共産党員水兵会議は、バルチック艦隊政治部(Poubalt)の所業を公然と非難するものである。

(1)、バルチック艦隊政治部は、自らを大衆からばかりか、活動家たちからも切り離している。それは、水兵のあいだになんらの権威を有さぬ、官僚機関へと変質してしまったのである。

(2)、バルチック艦隊政治部の仕事には、計画性もしくは順序だった方法が全面的に欠如している。同時にそこには、その行動と第九回党大会で採択された諸決議のあいだの一致が存在していない。

(3)、バルチック艦隊政治部は、自らを党員大衆からまったく切断してしまった結果、その局部的イニシアティブを全的に破壊してしまった。それは、すべての政治的活動を机上の仕事に変えてしまった。こうしたことは、艦隊における大衆組織に有害な影響を与えてきた。昨年六月から一一月のあいだに(水兵)党員の二〇パーセントが、離党してしまっている。これは、バルチック艦隊政治部の誤った指導方法により説明されうるのである。

(4)、この原因は、バルチック艦隊政治部の組織諸原則そのもののなかに見い出されるべきである。これらの諸原則は、民主主義をより一層拡大する方向に転換されねばならない。

 

 数名の代議員は、その発言のなかで、海軍における《政治部》の完全な廃止―われわれはこうした要求が、クロンシュタット叛乱時の水兵決議のなかで再び表明されるのを見出すだろう―を要求した。これが、第一○回党大会に先だって巻き起ったあの有名な労働組合問題にかんする論争時における全体的気分であった。当時の記録文書のなかに、労働者や、内戦期にたたかったすべての人びとをとらえていた大いなる不満を無視するだけでなく、日常生活の諸問題、とくに産業や労働組合にたいして軍事的方法を応用するという、ボリシェヴィキ指導者たち(とりわけトロツキー)の確かな意向をはっきりと認めることができる。

 

 この白熱した論争のなかで、バルチック艦隊の水兵たちは、トロツキーの見解とは非常に異なる立場を採った。第一○回党大会へ向けての選挙にさいして、バルチック艦隊は自らの指導者、すなわち軍事人民委員トロツキー(その権威の下に海軍が生れた)およびバルチック艦隊司令官ラスコリニコフに、一致団結して反対投票を行なった。トロツキーとラスコリニコフは、労働組合問題について、意見が一致していたのである。

 

 水兵たちは、事態の進展にたいして、集団で脱党することによって抗議しようと試みた。ペトログラード人民委員ソーリンによって明らかにされた情報によれば一九二一年一月だけで五〇〇〇人の水兵が党を離れたのである。

 

 この時期に党内に巻き起った論争が、大衆に深い影響を及ぼしたことは、疑いの余地がない。それは、党が押しつけようとしていた偏狭な限界を超えてあふれ出し、全労働者階級へ、そして、兵士や水兵たちへと拡がっていった。地方における激烈な批判が、触媒として作用した。プロレタリアートの思考は、きわめて論理的であった。もし、討論と批判とが党員に許可されているのなら、どうして内戦のあらゆる辛苦に耐えぬいた大衆自身にそれらが許可されてはならないのだ?

 

 レーニンは、第一〇回大会における演説―大会議事録に発表されている―で、そうした討論を「許可」してしまったことに遺憾の意を表明した。「われわれは、この討論を認可した点において間違いなく誤ちをおかしたのである。非常な困難が山積みしている春を目前にして、こうしたお喋べりは有害なものだった。」

 

 

 2、クロンシュタット前夜のペトログラード

 

 ペトログラードの人口が三分の二も減少したにもかかわらず、一九二〇〜二一年の冬はことに厳しいものとなるであろうことが明らかになった。

 市中の食糧は一九一七年二月以来、払底しており、事態は、毎月毎月悪化していった。都市は、他の諸地方から持ち込まれる食料品に、つねに依存してきた。革命期には、これらの地域の多くで、農村経済は危機に瀕しており、首都へは、きわめて少量の供給しか可能でなかった。鉄道の悲劇的な状態は、事態をさらに一段と悪化させていた。絶え間なく増大する都市と農村の反目は、到る所で新たな困難を現出させていた。

 

 こうした一面では不可避的な要因に加えて、食糧供給にあたる国家諸機関の行政上の官僚主義的堕落と強奪とが、あげられねばならない。住民に《食糧を供給する》という彼らの役割は、むしろ実際には否定的なものであったのだ。この時期にペトログラードの住民が餓死しなかったとすれば、それは結局のところ、住民自身の順応性と創意工夫によるものだった。彼らは、ありとあらゆる可能なところで、食糧を調達したのだ!

 

 物々交換は、大規模に行なわれていた。耕作面積の縮少にもかかわらず、農村には未だ若干の食糧の予備があった。農民は、この穀物を自分たちに欠如している品物――長靴、石油、塩、マッチといった――と交換するのだった。都市住民は、可能な限りあらゆる手段を用いてこうした品物を手に入れようと努めた。そうした品物だけが、真の価値を有していたのである。人びとは、それらの品物を携えて農村へ行き、交換に数ポンドの小麦粉や馬鈴薯を肩にかついでくるのだった。すでに述べたように、暖房のない、滅多にこない列車は、肩に袋を背負った人びとを満載していた。途中でこうした列車は、燃料の欠如のために、しばしば停らなけれはならなかった。すると、乗客は飛びおりて、蒸気釜用の丸太を切り出すのだった。

 

 市場は、公式には廃止となっていた。だが、ほとんどの都市にも、なかば黙認された闇市場があり、そこでは物品交換が行なわれていた。こうした市場は、ペトログラードにも存在していた。一九二〇年の夏、突然、ジノヴィエフが、いかなる種類の商取引をも禁じるという布告を発した。それまで開いていたわずかな数の小商店も閉鎖され、その扉は封印された。しかしながら、国家機構はこの都市を援助する立場にはなかった。この瞬間から、飢饉はもはや住民の創意工夫によっては緩和できないものとなってしまった。飢饉はその極点にまでたかまった。一九二一年一月には、ペトログラード市国家供給部(Petrokommouna)発行の報告によれば、金属精錬工場労働者は一日分の配給量として黒パン八〇〇グラム、その他の重工業の労働者は六〇〇グラム、A・Xカードを所有する労働者は四〇〇グラム、残余の労働者は二〇〇グラム、をそれぞれ割りあてられていた。黒パンは、当時のロシア人にとって主食であった。

 

 ところが、こうした公式の割当てですら、不規則にしか配給されず、しかも規定量よりも少ないというありさまであった。運輸労働者は、不定期に平均七〇〇〜一〇〇〇カロリーを摂取していたにすぎない。住居は、暖房なしだった。衣類と靴の欠如は酷いものだった。公式統計によれば、ペトログラードにおける一九二〇年の労働者階級の賃金は、一九一三年当時のそれのわずか九パーセントにすぎなかった。

 

 住民は首都から流出しつつあった。地方に親戚をもっている人びとは、そこへ帰っていった。正真正銘のプロレタリアートは、地方ときわめて細々とした関係を保ちながら、最後まで留まっていた。

 

 こうした事実は、やがて勃発することになるペトログラードのストライキを「プロレタリア的理念で不様に武装された」農民分子の責任に帰そう、と企てる官製の嘘に釘をさすために、強調されなければならない。真の状況は、その正反対であったのだ。なるほど何ほどかの労働者は、地方へと避難した。が、大部分は都市に留まっていたのだ。飢えに瀕している都市へ向けての農民の脱出など断じてなかった! 当時ペトログラードに駐留していた数千の「労働軍兵士」(Troudarmeitzys)も、事態を変更するものではなかった。最後にストライキという階級闘争の古典的武器に訴えたのは、先行する二つの革命で傑出した指導的役割を演じたプロレタリアート、かの名高いペトログラード・プロレタリアートそのものであったのだ。

 

 最初のストライキが、一九二一年二月二三日、トルボチニイ工場において勃発した。二四日には、ストライキ参加者は、街頭における大衆的示威行進(デモンストレーション)を組織した。ジノヴィエフは、「クルサントゥイ」(士官学校生徒)の分遣隊を彼らに対抗して繰り出した。ストライキ参加者たちは、フィンランド連隊の兵営と連絡をとろうと試みた。こうしたあいだにも、ストライキは拡大しつつあった。バルチスキイ工場が操業を停止した。ラファーマ工場や多くの工場――スコロホッド靴工場、アドミラルチスキイ工場、ボーマンおよびメタリスチェスキイ工場、そして二月二八日には、ついに大プチロフ工場自身が、これに続いたのである。

 

 ストライキ参加者は、食糧供給援助への処置を要求していた。地域的な市場の再設置、市から半径三〇マイル以内の旅行の自由、それに市周辺の道路を押えている民兵分遣隊の退去を要求していた工場もあった。だが、こうした経済的諸要求とならんで、いくつかの工場は、言論および出版の自由とか、労働者政治犯の釈放とかいった、一層政治的な要求を前面におしだしていた。大工場のいくつかでは、党の代表者たちが発言の機会を拒否された。

 

 自らの耐えがたい状態からの出口を模索しているロシア労働者階級の窮境に直面して、盲同然の党委員会とジノヴィエフ(無数の報告書によれば、彼はペトログラードにおいて、真の専制君主のごとく振舞っていた)は、暴力に訴える以外に説得するすべを知らなかった。

 

 クロンシュタット叛乱にかんする《官許》歴史家であるプーはフ(原註)は、「労働者階級とその前衛である共産党の手から権力を奪うために、プロレタリアートの没階級意識的部分を利用している革命の敵を打倒するために、断固たる階級的手段をとる必要があった」と記している。

  (原註) プーホフ、『一九二一年のクロンシュタット叛乱』国立出版所。「若き親衛隊」版、一九三一年。叢書「内戦期」所収。

 

 二月二四日、党指導者たちは、防衛委員会と呼ばれる特別参謀本部を設置した。これは、ラシェヴィチ、アンジェロヴィチ、それにアヴローフという三名の人間で構成されていた。彼らは、多くの専門家に補佐されることとなっていた。都市の各地区にも、地区党指導者、地区旅団の党員大隊指揮官それに将校訓練隊付政治委員からなる同様の三人委員会(「トロイカ」)が設置されることとなった。また同様な委員会が、遠隔地域にも組織された。これらの委員会は、地方党指導者、地方ソヴェト執行委員会議長、それにその他区の軍事人民委員より構成されていた。

 

 二月二四日、防衛委員会はペトログラードに包囲状態宣言を発した。夜間一一時以降の市街地の通行、および防衛委員会にまえもって特別に許可されなかった集会や会合は戸外たると屋内たるとを問わず、全面的に禁止された。「いかなる違反も軍隊法に従って処断されるであろう。」 この布告は、ペトログラード軍管区司令官アヴローフ(後にスターリニストの手で銃殺される)、軍事会議委員ラシェヴィチ(後年、自殺した)、それにペトログラード要塞地区司令官ボーリン(後にスターリニストの手で銃殺される)によって署名された。

 

 党員にたいする総動員令が発令された。特別部隊が編制され、これは《特別な目標》に向けて派遣されることとなっていた。同時に、この都市への入口と出口に通ずる道路とを警戒していた民兵分遣隊は、撤退させられた。そうした後で、ストライキの指導者たちが逮捕されたのである。

 

 二月二六日、当然にもペトログラードで進行しつつあった事態のすべてに関心を寄せていたクロンシュタットの水兵たちは、ストライキについての事実を知るために代表団を派遣した。この代表団は、数多くの工場を訪れて回り、二八日にクロンシュタットに帰着した。同日、戦艦「ペトロパヴロフスク」の乗組員は、事態を討議した後、以下のような決議を採択した(原註)

 

 艦隊乗組員総会によってペトログラードにおける状況を把握するために派遣された代表団の報告をきいた結果、水兵たちは以下のことを要求する――

(1) ソヴェト再選挙の即時実施。現在のソヴェトは、もはや労働者と農民の意志を表現していない。この再選挙は、自由な選挙運動ののちに、秘密投票によって行なわれるべきである。

(2) 労働者と農民、アナキストおよび左翼社会主義諸政党にたいする言論と出版の自由。

(3) 労働組合と農民組織にたいする集会結社の権利およびその自由。

(4) 遅くとも一九二一年三月一〇日までに、ペトログラード市、クロンシュタットそれにペトログラード地区の非党員労働者、兵士、水兵の協議会を組織すること。

() 社会主義諸政党の政治犯、および投獄されている労働者階級と農民組織に属する労働者、農民、兵士、水兵の釈放。

 

(6) 監獄および強制収容所に拘留されているすべての者にかんする調書を調べるための委員会の選出。

() 軍隊におけるすべての政治部の廃止。いかなる政党も自らの政治理念の宣伝にかんして特権を有するべきでなく、また、この目的のために国庫補助金を受けるべきではない。政治部の代りに、国家からの資金援助でさまざまな文化的グループが設置されるべきである。

() 都市と地方との境界に配備されている民兵分遣隊の即時廃止。

(9) 危険な職種および健康を害するに職種ついている者を除く、全労働者への食糧配給の平等化。

(10) すべての軍事的グループにおける、党員選抜突撃隊の廃止。工場や企業における、党員防衛隊の廃止。防衛隊が必要とされる場合には、その隊員は労働者の意見を考慮して任命されるべきである。

 

(11) 自ら働き、賃労働を使用しないという条件の下での、農民にたいする自己の土地での行動の自由および自己の家畜の所有権の承認。

(12) われわれは、全軍の部隊ならびに将校訓練部隊が、それぞれこの決議を支持するように願っている。

(13) われわれは、この決議が正当な扱いの下に印刷、公表されるよう要求する。

(14) われわれは、移動労働者管理委員会の設置を要求する。

(15) われわれは、賃労働を使用しないという条件の下での、手工芸生産の認可を要求する。

 (原註)この決議は、次いで全クロンシュタット水兵総会において、また赤衛軍の多数の部隊によって、賛成された。さらにこの決議は、クロンシュタットの全労働者大会によっても賛成された。そしてこれが、叛乱の政治的綱領となったのである。それゆえに、これは注意深く検討するに価する。

 

 

 3、クロンシュタット綱領の検討

 

 クロンシュタット水兵もペトログラードのストライキ参加者も、この政治的危機の根底にロシアの経済的状態が存在していることを熟知していた。彼らの不満は、飢饉および政治情勢の全的展開過程の双方によって引き起こされていた。ロシアの労働者大衆は、ますます彼らの最大の希望、すなわちソヴェトに幻滅させられていった。彼らは、一党派の権力そのものがソヴェトの権力の代りに入り込んでくるのを日々目撃していた。さらに、この党は、絶対的権力を行使することで急速に堕落しつつあり、すでに職業的人間によって孔だらけにされていた。労働者階級が反撃しようとしていたのは、まさにこの党による生活のあらゆる分野にわたる独裁にたいしてだったのである。

 

 クロンシュタット決議の第一項は、ロシア労働者階級の最良の部分に共有されていた思想を表明していた。完全に《ボリシェビキ化》したソヴェトは、もはや労働者農民の願望を反映してはいなかった。このゆえに、労働者階級の政治的傾向のすべてにたいして完全に公平であるという原則にしたがって行なわれる再選挙が要求されたのである。

 そうしたソヴェトの再生は、中傷誹謗や抹殺を恐れることなく自己を自由に表現する可能性を求めている、全労働者階級の希望を認めることを意味するであろう。したがって、きわめて当然にも、第二項に含まれている、表現、出版、集会結社の自由という思想が次に続いたのである。

 

 われわれは、農村においてたたかわれていた階級闘争が、一九二一年までには、事実上休止状態になっていたことを強調せねばならない。《クラーク》の大多数は、駆逐されてしまっていた。農民にたいして第三項で要求されているように基本的諸自由を認めることは、クラークの政治的権利を復活させることになると主張するのは、まったく誤まりである。農民が、当時、党の公式代弁者であったブハーリンによって「自分自身を富ませよ」と奨励されるようになったのは、このわずか数年後のことであった。

 

 クロンシュタット決議は、公然かつ明瞭に語られているという長所を有していた。とはいえ、それは、新たな地平を切り拓くものではなかった。その主要な諸理念は、いたるところで討論されているものであった。労働者や農民はすでに、そうした理念を、いかなるかたちにせよ、はっきり述べたことにたいして、監獄や新たに設置された強制収容所を満員にしつつあったのだ。クロンシュタットの人びとは、彼らの同志たちを見捨てはしなかった。彼らの決議の第六項は、彼らが裁判の全機構を調査するつもりでいたことを示している。彼らはすでに、自分たちの司法機関としてのその客観性にかんして、重大な疑いをいだいていたのである。そのことによってクロンシュタットの水兵は、労働者階級の最良の伝統にたいする連帯精神を発揮していたといえよう。一九一七年六月にケレンスキーは、ペトログラードを訪問したバルチック艦隊の代表団を逮捕したことがあった。クロンシュタットは、直ちに彼らの釈放を主張する、それ以上の代表団を派遣した。一九二一年、この伝統が自発的に復活されることとなったのである。

 

 決議の第七項および第一〇項は、支配政党により行使されている政治的独占権を攻撃していた。この党は、軍隊と警察の双方にその影響を拡大するための排他的かつ無制限な手段手口に、国家の資金を用いていたのだ。

 

 決議第九項は、すべての労働者にたいする平等な食糧配給を要求していた。このことは、一九三八年のトロツキーの非難(原註)――それによれば「クロンシュタットの人びとは、国中が飢えているというのに特権を求めていた」――を粉砕している。

 (原註)この非難は、モスクワ裁判にかんするニューヨーク調査委員会メンバー、ヴェンデリン・トマスによってトロツキーに向けられた質問への回答の中でなされている。(本書所収)

 

 第一四項は、明らかに労働者管理の問題を提出していた。この要求は、一〇月革命以前にも革命の最中にも、労働者階級のあいだに強力な反響を巻き起こしていた。クロンシュタットの水兵たちは、真の管理権が一般大衆の手から離れてしまったことをきわめて明確に理解していた。彼らは、それを取りもどそうとしたのである。一方ではボリシェヴィキが、全管理権をラブクリン(労農人民監督部)(原註)という特別人民委員部の手に与えようと努めていた。

 (原註)歴史は、この問題にかんして、一体誰を正しいと証明するだろうか? レーニンは、二度目の発作の直前に、こう書かねばならなかった(『プラウダ』、一九二三年一月二八日)。「正直にいおう。労農監督部は、まったく権威を有していない。誰もが、われわれの労農監督部より悪い制度はない、ということを知っているのだ。」これは、クロンシュタットの鎮圧後、わずか一八カ月後に語られたことである。(スターリンが、一九一九年から、党書記長に任命された一九二二年の春まで、ラブクリンの委員長であったことは指摘する価値があろう。彼は、公式にそこを離れたのちですらも、ラブクリンに強大な影響力を行使しつづけた。レーニンは、たまたま、スターリンのこのポストヘの任命やその活動に反対の声をあげなかった。後になってようやくそうしたのだった。事実、レーニンは、トロツキーのより先見の明のある批判のいくつかに抗してスターリンとラブクリンの双方を弁護したのである。――ドイッチャー『武力なき予言者』四七〜四八頁、および『ソリダリティ』第二巻第七号二七頁の評注参照)。

 

 第一一項は、クロンシュタットの水兵たちが未だ結びつけられていた――当然、ロシア・プロレタリアートの全体がそうであったのだが――農民の要求を反映させていた。こうした結びつきの基礎は、ロシアにおける産業発展の特殊性の中に見出しうる。封建的後進性のゆえにロシアの産業は、その基盤を小規模な手工業の中に求めることができなかったのだ。ロシアの労働者は、圧倒的部分が農民層の出身であった。このことは強調されねばならない。一九二一年のバルチック艦隊の水兵たちは、疑いもなく農民層と緊密に結びつけられていた。しかしながら、一九一七年の水兵たちも、まったく同様であったのだ。

 

 クロンシュタットの水兵たちは、その決議の中で一〇月〔革命〕における主要な要求の一つであったものを再びとりあげていた。彼らは、他人の労働を搾取していない農民については土地と家畜とを所有する権利を与えよ、との農民の主張を支持していたのである。そのうえ、一九二一年には、とくにこの要求は、もう一つの側面を与えられていた。それは、絶望的になりつつあった食糧問題を解決するための試みでもあったのだ。強制的徴発制度の下で、都市の住民は文字通り餓死しつつあった。何故、この要求を満たすことが、一九二一年三月にレーニンによって提唱された時には「戦術上正しく」て、それより数週間前に農民自身によって提出された時には「反革命的」だと見倣なされなければならなかったのか?

 

 クロンシュタット綱領について、何がいったい、反革命的だったのか? 何が、党によって開始されたクロンシュタットにたいする聖戦を正当化しえたのか? 自己を排他的なまでの虚偽とテロルのうえに立脚させたくない、と希求する《労働者と農民》の支配体制ならば、農民層を考慮に入れなければならなかったはずである。そのことのゆえに、その体制が革命的性格を喪失するといった懸念はいらなかったのだ。しかも、クロンシュタットの人びとは、そうした諸要求を提出した時に、孤立していたわけではなかった。一九二一年には、マフノ一党は未だウクライナで活動していた。この革命的農民運動は、独自の思想と闘争形態とを発展させつつあった。ウクライナの農民たちは、封建的領主を追払うのに、卓越した役割を果してきたのだ。彼らは当然、自己の社会的生活形態を自ら決定する権利を保持してきたのであった。

 

 トロツキーの断言的な実体のない主張にもかかわらず、マフノ運動は、いかなる意味においても断じて富農の運動ではなかった。マフノ運動にかんする公認のボリシェヴィキ歴史家クーバニンは、党歴史研究所編纂の本の中で、マフノ運動は当初農民人口の極端に稀薄な地域に限って出現し、急速に発展したということを統計的に示している。マフノ運動は、その創造能力を全的に発現する機会に恵まれる以前に、粉砕されたのである。マフノ運動が、内戦の最中に独自の闘争形態を創出しえたという事実から、われわれは、それがはるかに多くのもの生みだしえたであろう、と推察することができよう。

 

 当然のことながら、農業政策にかんしてボリシェヴィキのジグザグはど大災厄を招いたものはない、ということは明らかである。一九三一年、すなわちクロンシュタットから一〇年たったのち、スターリンは彼の有名な「クラークの一掃」を宣言することとなった。そしてこれが、恐るべき飢饉と数百万の人命の損失とをもたらしたのである。

 

 最後に、手工業生産の自由を要求した、クロンシュタット決議の第一五項を検討しよう。これは、原則の問題ではなかった。クロンシュタットの労働者にとって、手工業生産は、まったく零の状態におち込んでしまった工業生産を埋めあわせるべきものとしてあったのだ。この要求を通じて、彼らは自らの耐えがたい経済的苦境からの脱出路を模索していたのである。

 

 

 4、大衆集会

 

 クロンシュタット・ソヴェトは、三月二日に改選されることになっていた。

 第一、第二戦艦乗組員部隊の集会が、三月二日に予定されていた。告示は、クロンシュタット市公報に掲載された。演説者の中には、全露ソヴェト執行委員会議長カリーニンとバルチック艦隊政治委員クズミンとが含まれることになっていた。カリーニンが到着した時、彼は軍楽隊と旗の波に迎えられた。軍隊による栄誉礼のすべてが彼に与えられた。一万六〇〇〇人がその集会に出席した。地区ソヴェト議長・党員ヴァシーリエフが議長をつとめた。すでにこれに先立ってペトログラードを訪問してきた代表団が、その報告を行なった。戦艦「ペトロバヴロフスク」乗組員によって二月二八日に採択された決議が、配布された。カリーニンとクズミンは、その決議に反対し、「クロンシュタットがロシア全体を代表しているわけではない」と声明した。

 

 それにもかかわらず、この大衆集会は、ペトロパヴロフスク決議を採択したのである。事実、二人の人間がそれに反対投票をしただけであった―カリーニンとクズミンの!

 大衆集会は、現場の状況を調査するために三〇名の労働者から成る代表団を、ペトログラードに派遣することを決定した。集会は、また、水兵たちが真に何を考えているか知ってもらうために、ペトログラードからの代表団を、クロンシュタットへ招待することをも決議した。さらに、地区ソヴェトを新たに選出する手続きを決めるための大衆集会が、艦隊乗組員、赤軍グループ、国家諸機関、海軍工廠および工場それに労働組合からの代議員を結集して、次の日に計画された。集会のおわりに、カリーニンを、安全にペトログラードに帰還させることが承認された。

 

 翌三月二日、文化会館において、代議員大会が開催された。公式のクロンシュタット『イズヴェスチャ』によれは、代議員の任命は、公正に行なわれた。代議員たちのすべてが、選挙は誠実かつ正確な方法で実施されるべきであると主張した。クズミンとヴァシーリエフが最初に演説した。クズミンは、党がたたかうことなく権力を譲渡することは決してありえない、と述べた。彼らの演説が、あまりにも攻撃的かつ挑発的であったので、大会は彼らに会場からの退去を命令したうえで、彼らを逮捕した。しかしながら、他の党員については、討議のあいだ中、十分に演説することが認められていた。

 

 この代議員大会は、圧倒的大多数をもって、ペトロパヴロフスク決議を受け入れた。その後、大会は、新たなソヴェトの選出という問題を細部にわたって検討する作業にとりかかったのである。この選挙は、「ソヴェト体制の平和的な再建を準備する」はずのものであった。この作業は、集会場に拡まった、党が武力を用いて大会を解散させようとしているといった意味の時によって、絶えず中断させられた。状況は極度に緊張の度を加えていった。

 

 

 5、臨時革命委員会

 

 国家権力の代表者―クズミンおよびヴァシーリエフによる威嚇的な演説とそれに続く恐るべき報復に備えて、大会は臨時革命委員会の形成を決定し、これに市と要塞の行政権を委任した。この委員会はその最初の会合を戦艦「ペトロパヴロフスク」―そこにはクズミンとヴァシーリエフが拘留されていた―上で開いた。

 

 代議員大会の指導的人物のすべてが、臨時革命委員会委員となった。彼らは以下の人びとであった―

 ペトリチェンコ 戦艦「ペトロパヴロフスク」の操舵係将校。

 ヤコヴェンコ クロンシュタット局の電話連絡手。

 オッソソーフ 戦艦「セバストポリ」の機関兵。

 アルヒポフ 技師長。

 ペレペルキン 戦艦「セバストポリ」の電気投術兵。

 パトローチェフ 戦艦「ペトロパヴロフスク」の主任電気技術兵。

 クーポロフ 主任看護兵。

 ヴェルチーニン 戦艦「セバスストポリ」の水兵。

 トゥーキン 「電気工芸(エレクトロテクニカル)」工場労働者。

 ロマネンコ ドック修理維持工。

 オレーチン 第三労働学校校長。

 ヴァルク 製材工。

 パヴロフ 海軍機雷敷設工場労働者。

 ボイコフ クロンシュタット要塞の建設部長。

 キルガスト 港湾水先案内人。

 

 臨時革命委員会委員の大多数は、長いあいだ兵役についていた水兵たちであった。このことは、叛乱の指導を、つい最近海軍に入隊した一九一七〜一九一九年の英雄的水兵たちとは何らの共通性を有しない分子の手に帰そうと企てるクロンシュタット事件についての《公式》見解を否定するものである。臨時革命委員会の最初の宣言は、こう述べていた。

 

  「われわれは、流血の事態を避けたいと願っている。われわれの目ざすところは、市と要塞との協同の努力を通じて、正常かつ公正な、新たなソヴェトの選挙のための正しい諸条件を創り出すことである。」

 

 その日遅くなって、臨時革命委員会の指揮の下にクロンシュタットの住民は、市の戦略的要所をすべて占領し、国営施設、参謀本部それに電信電話局を接収した。すべての軍艦と連隊では、委員会が選出された。午後九時近くには、堡塁および赤軍諸部隊のほとんどが、合流した。オラニエンバウムから派遣されてきた代表団もまた、臨時革命委員会にたいするその支持を宣言した。その同じ日に、『イズヴェスチャ』の印刷所が占領された。

 

 翌三月三日朝、クロンシュタットは『臨時革命委員会イズヴェスチャ』(原註)の第一号を発行した。それにはこう記されていた。

  「国家の主人公である共産党は、自らを人民大衆から切り離してきた。党は、この混乱状態から国を救い出す能力がないことを明らかにしている。ペトログラードやモスクワにおいては、党が労働者大衆の信頼を喪失してしまったことを明白に示す無数の事件が、最近続発している。党は、労働者大衆の要求が反革命的活動の結果であると信じているがゆえに、これらの諸要求を無視し続けている。この点で党は、深刻な誤謬を犯しているのである。」

  (原註) この短命に終った新聞の全巻は、『クロンシュタットについての真実(プラウダ)(The Truth about Kronstadt)(プラハ、一九二一年刊)という本の付録としてリプリントされた。

 

   

『The Truth about Kronstadt           『Kronstadt Uprising

 

 

 6、ボリシェヴィキの中傷

 

 モスクワ放送は、その間に、以下のように放送しつづけていた。

 「白衛軍の陰謀にたいして闘争せよ。他の白衛軍の叛乱とまったく同様に、前将軍コズロフスキーおよび戦艦「ペトロパヴロフスク」乗組員の謀反は、協商国〔第一次大戦時の英仏露等〕スパイによって組織されてきたものである。このことは、コズロフスキー将軍の叛乱の二週間前に、ヘルシングフォルスから送られた『われわれは、最近のクロンシュタット叛乱の結果、ボリシェヴィキ軍当局が、クロンシュタットを孤立させ、クロンシュタットからの兵士、水兵がペトログラードへ入ってくるのを阻止するために、あらゆる措置を講じたという報告をペトログラードから受けとっている』というような記事をフランスの『ル・モンド』紙が発表したという事実からみて、明白である。

 

 それゆえ、クロンシュタット叛乱が、パリから指導されていることは明らかである。フランスの反革命スパイどもは、事件の全体にわたって関係しているのだ。歴史は繰り返される。パリに総司令部を設けている社会革命党は、ソヴェト権力にたいする叛乱の土台を準備しつつある。土台は完成され、彼らの真の主人、帝制派将軍(ツアーリスト)が姿を現わした。社会革命党に続いて権力の座に坐ったコルチャックの歴史が、繰り返されているのだ。」(スタンツィア・モスクヴァ放送、ヴェストニク・ロスタ・モスクヴァ放送、一九二一年三月一日

 

 敵対する両陣営は、事実を異なった風に観察していた。その観点は両極端であった。

 スタンツィア・モスクヴァ放送によって発せられた呼びかけは、明らかに政治局(ポリトビューロー)の最高指導者からのものであった。それはレーニンの許可を得ており、彼は、クロンシュタットで生起しつつあることを熟知していたはずであった。かりに、レーニンが情報をジノヴィエフ―レーニンはジノヴィエフが臆病で恐慌状態に陥りやすいことを知っていた―に依存せねばならなかったと仮定してさえも、彼が事態の真相を誤解したなどと信じることは困難である。三月二日、クロンシュタットは、彼に会見するために公式の代表団を送っていた。真の状況を確かめるためには、その代表団を喚問すれば、十分だったであろう。

 

 レーニン、トロツキーそれに党指導部のすべての者は、これがたんなる「将軍たちの叛乱」ではないことを知りぬいていた。それではなぜ、謀反の指導者コズロフスキー将軍なる伝説を作りあげたのであろうか? その答えは、時としてあまりに盲目的になり、嘘言が便利なものでありうると同時に邪悪なものとなりうるということを見わけることのできない、ボリシェヴィキの見通しの中に求められよう。コズロフスキー将軍の伝説は、新たな他の伝説…一九二八年〜二九年にトロツキーと共謀したといわれたウランゲリ軍将校といった類の―への途を開いた。事実、それは、スターリン時代を覆う巨大な虚偽の世界への途を開いたのであった。

 

 ところで、国営放送によって叛乱の指導者として非難されている、このコズロフスキー将軍とはいったい何者だったのか? 彼は砲兵出身の将軍であり、ボリシェヴィキに最初に帰順したものの一人であった。彼は、指揮官としてのいかなる能力をも欠いている、と思われていた。叛乱時、彼はたまたまクロンシュタットにおいて、砲兵隊の指揮をとっていたのである。要塞の共産党員司令官は、逃亡してしまっていた。要塞において慣例となっている規則に従えは、コズロフスキーは、その司令官にとって代らねばならなかった。ところが実際には彼は、要塞が臨時革命委員会の管轄下にある現在では、旧規則はもはや適用されないと主張して、これを拒否したのである。コズロフスキーは、間違いなくクロンシュタットに留まった、が、それはたんに砲術専門家としてであった。そのうえクロンシュタットの陥落後、フィンランドの新開にたいするインタビューの中で、コズロフスキーは、水兵たちが貴重な時間を要塞の防衛によりも討論に費してしまったことを非難した。彼はこのことを、水兵たちの流血に訴えることへの躊躇という点から説明していた。のちに、他の将校連もまた、水兵の軍事的無能力とその技術的助言者にたいする信頼のまったき欠如とを非難することになる。コズロフスキーは、クロンシュタットにいた、たった一人の将軍であり、政府が彼の名前を利用するのには、そのことだけで十分だったのである。

 

 クロンシュタットの人びとは、当時要塞にいた将校たちの軍事的知識をある点までは、たしかに利用しはした。こうした将校たちのうち、幾人かは、ボリシェヴィキにたいする純粋な憎悪心から助言を与えたのかもしれない。しかしながら、政府軍もまた、そのクロンシュタット攻撃に際して、旧帝政派将校たちを用いていたのである。一方の陣営には、コズロフスキー、サロミャーノフ、アルカニーコフがおり、他方には、トゥハチェフスキー、カーメネフ、それにアヴローフといった旧帝政派将校や旧体制の専門家がいたのである。どちらの陣営においても、こうした将校たちは独立した勢力とはなっていなかった。

 

 

 7、一般党員にたいする影響

 

 三月二日、その革命的経歴のゆえに自らに与えられた、権利、義務それに道義的権威を自覚しているクロンシュタットの水兵たちは、より良い方向へソヴェトを向けていく企てに着手した。彼らは、単一の党の独裁を通じて、自分たちがどれほど歪められた存在となってしまったかを理解していたのである。

 

 三月七日、中央政府はクロンシュタットにたいする猛烈な軍事的攻撃を開始した。

 この二つの日付のあいだに、いったい何が起こったのか?

 クロンシュタットでは、大衆集会における投票で新たに選出された五名の委員によって増強された臨時革命委員会が、市と要塞の双方において社会生活の再組織化にとりかかっていた。臨時革命委員会は、市内の防衛を確保するためにクロンシュタットの労働者の武装を決定し、また、三日以内に、主要な労組委員会および労組代表者会議―臨時革命委員会は、こうした機関に相当な権限を付与しようとしていた―の強制的再選挙を行なう旨、布告したのである。

 

 共産党の一般党員たちは、党からの集団脱党をもって彼らの臨時革命委員会にたいする信頼を明らかにしつつあった。彼らの多くは臨時党委員会を結成して、次のようなアピールを発した―

  「血に飢えた挑発者どもによってばらまかれている、主要な党の同志たちが銃殺されているといったような馬鹿げた噂や、あるいは、党がクロンシュタットへの攻撃を準備しているといった類の噂を信じないで欲しい。これは、ソヴェト権力を顛覆しようと狙っている協商国の手先どもが拡めた、まったくの嘘である。臨時党委員会は、クロンシュタット・ソヴェトの再選挙を絶対に不可欠なものであると考える。委員会は、そのすべての支持者にたいして、これらの選挙に参加するよう呼びかける。臨時党委員会は、そのすべての支持者にたいして、自らの部署に留まり、臨時革命委員会によって講じられる措置を妨害しないように要請する。

 ソヴェト権力万歳! 国際的労働者階級の団結万歳!

                 署名(クロンシュタット臨時党委員会を代表して)

                 イリン(前食糧供給委員・コミサール)

                 ペルヴォーチン(前地方執行委員会議長)

                 カバノフ(前地区労働組合委員部長)」

 

 スターリニスト公認歴史家プーホフは、このアピールにふれて、「それは、明らかに反革命的役割を果たしつつある叛乱の指導者どもとの協調をめざす、反逆行為であり、日和見主義的歩みよりとしか考えられない」と断言している(原註)。プーホフは、この文書が一般党員にたいして「一定の影響」を与えたことは認めている。彼によれば、この時に、クロンシュタットの党員のうち七八〇名が離党したのである!

   (原註) プーホフ『一九二一年のクロンシュタット叛乱』、叢書「内戦期」。九五頁、「若き親衛隊」版、一九三一年、国立出版所、モスクワ。

 

 そうした党を棄てた人びとの何人かは、自己のとった行動の動機を明らかにした手紙を、クロンシュタット『イズヴェスチャ』に寄せた。教師デニソフは、こう書いていた。

  「私は、砲火がクロンシュタットへ向けられた瞬間から、自分をもはや党員とはみなさないことを、臨時革命委員会に公然と表明するものである。私はクロンシュタットの労働者によって発せられた呼びかけを支持する。全権力を、党へではなく、ソヴェトヘ!」

 

 軍規取締り特別部隊に任命されていた兵士グループもまた、宣言を発した。

 「われわれ、以下に署名した者は、党が労働者大衆の願望を表現してくれるものと信じて入党した。しかるに党は、自らが労働者、農民の死刑執行人であることを示したのである。このことは、ペトログラードにおける最近の諸事件からまったく明らかに暴露されている。こうした諸事件は、党指導者たちの本性をあらわにしてくれた。最近のモスクワからの放送は、権力を保持するためにはいかなる手段にも訴える用意が、党指導者たちにできていることを明瞭に示している。

 われわれは、今後、われわれをもはや党員とみなさないでほしい、と要請する。われわれは、三月二日のクロンシュタット守備隊決議で発せられた呼びかけの下に馳せ参じる。われわれは、自らの誤りに気付いた他の同志諸君に、公然と真実を認めるようすすめる。

                 署名 グトマン、イェフィモフ、グドリアツェフ、アンドレーエフ」

                 (臨時革命委員会『イズヴェスチャ』、一九二一年三月七日付

 

 リフ堡塁の共産党員は、以下のような決議を発表した。

 「過去三年間に、多数の貪欲な出世主義者どもが、われわれの党内に群がり集まってしまった。このことが官僚主義を生み出し、また経済再建のためのたたかいを著しく妨害したのである。

 われわれの党は、プロレタリアートおよび労働者大衆の故にたいする闘争、という問題につねに立ち向ってきた。われわれは、労働者階級によって勝ちとられたわれわれの諸権利の防衛を、将来にわたっても継続する決意であることを公然と宣言する。われわれは、ソヴェト共和国が直面しているこの困難な状況を白衛軍が利用することを、断じて許さないであろう。ソヴェト共和国に反して向けられるその第一撃にたいしても、われわれは、いかに報復すればよいかを知っているのだ。

 われわれは、プロレタリア的労働者的大衆を真に代表するソヴェトの設立を目的としている臨時革命委員会の権威を、完全に受け入れる。

  労働者階級の諸権利の真の防衛者たるソヴェト権力万歳!

                 署名 リフ堡塁共産党員集会議長および書記」

                 (臨時革命委員会『イズヴェスチャ』、一九二一年三月七日付

 

 こうした声明は、当時クロンシュタットを支配していたといわれる、党員に向けられたテロル体制によって、党員たちから強制的に引き出されたものであったのか? こうしたことについては、わずかな証拠のかけらすらも提出されなかった。叛乱の全期間を通じて、投獄されていた共産党員のただの一人も銃殺されはしなかったのだ。しかも、囚人の中には、クズミンやバティスのように艦隊で責任ある地位にあった人びとがいたという事実にもかかわらず、そうだったのである。共産党員の大多数は、実際、完全に自由の身のままであった。

 

 三月七日付臨時革命委員会『イズヴェスチャ』の中で、「われわれは復讐をもとめてはいない」という見出しの、以下のような記事をわれわれは読むことができる。

  「党独裁が長いあいだにわたって労働者を屈服させてきた抑圧体制は、大衆のあいだに当然の憤激を巻き起こしてきた。ある所ではそれが、党員の身内にたいする排斥や掠奪にまでいたってしまった。こうしたことは、決して起ってはならない。われわれは、復讐をもとめているのではないのだ。われわれは、ただ、労働者としてのわれわれの利益を護っているだけである。注意深く行動せねばならない。われわれは、ただ、サボタージュする輩、虚偽に満ちた煽動を行なって、労働者階級の権力と権利についての主張を妨害しようとする輩にたいしてのみ、闘争せねばならないのだ。」

 

 しかしながら、ペトログラードでは、むしろ趣きを異にした、ヒューマニスティックな感情が、広く行きわたっていた。クズミンとヴァシーリエフの逮捕が報ぜられると直ちに、防衛委員会は、ペトログラードに居住していることが判明している全クロンシュタット水兵の家族の逮捕を命令した。政府の飛行機が、次のようなビラをクロンシュタットに撒いた。

  「防衛委員会は、クロンシュタットの叛乱者の手で逮捕された共産党員同志たちの安全にたいする人質として、水兵の家族が逮捕、投獄されたことを通告する。われわれは、とくに艦隊政治委員クズミンおよびクロンシュタット・ソヴェト議長ヴァシーリエフの安全を問題にしている。彼らに髪の毛一本でも触れるならば、これらの人質は、その生命で償うことになろう。」

                 (臨時革命委員会『イズヴェスチャ』、一九二一年三月五日付

 

 臨時革命委員会は、以下のような放送をもって回答した―

  「クロンシュタット守備隊の名においてクロンシュタット臨時革命委員会は、ペトログラード・ソヴェトの手で人質として拘留されている労働者、水兵、赤軍兵士の家族を、二四時間以内に釈放するよう断固として主張する。クロンシュタット守備隊は諸君に、クロンシュタット市においては党員は完全に自由の身であり、その家族も無条件に危難を免れている、ということを保証する。われわれは、ペトログラード・ソヴェトの例に倣うことを拒否する。われわれはそうしたやり口を、たとえ残忍な憎悪心から行なわれた場合ですらも、まったく恥ずべき、堕落しきったものとみなすのである。

                  署名 臨時革命委員会議長 水兵ペトリチェンコ

                      書記 キルガスト」

 

 党員が虐殺されているといった類の噂を論駁するために、臨時革命委員会は、投獄されている共産党員たちの事情を調査する特別委員会を設置した。三月四日付の臨時革命委員会『イズヴェスチャ』は、この委員会には共産党員も加えられるであろう、と報じていた。二日後に、クロンシュタットにたいする砲撃が開始されたので、この機関が活動を開始できたのかどうかすらも疑問のままである。だが、臨時革命委員会は、間違いなく党代表団を受け入れていた。委員会は、代表団が「ペトロパヴロフスク」上の囚人たちを訪問する許可を与えた。囚人たちは、自分たちの会合をもったり、壁新聞を編集したりすることすら、許可されていたのである。

 (サイコフスキー、『クロンシュタット、一九一七年〜一九二一年』)

 

 クロンシュタットでは、テロルは行なわれなかった。きわめて困難かつ悲劇的な状況の下にありながらも、《叛乱者》たちは、労働者民主主義の基本的諸原則を適用すべくその最善を尽したのであった。もし、多くの一般党員が臨時革命委員会を支持することを決心したとすれば、それは、この機関が労働者人民の願いと渇望とを表現していたからに他ならない。振り返って見ると、クロンシュタットのこうした民主主義的な自己主張は、驚異すべきものとうつるかもしれない。それは確かに、ペトログラードやモスクワの党指導者たちのあいだに行きわたっていた精神状態や行動と、きわだった対照をなしていた。彼らは、盲目のうえ聾であり、クロンシュタットそれに全ロシアの労働者大衆が真に何を求めているのか、皆目、理解することができなかったのである。

 

 悲惨な結末は、こうした悲劇的な日々においても、未だ回避することができたはずであった。それではなぜ、ペトログラード防衛委員会は、あのような罵詈雑言を用いたのであろうか? 客観的に観察する者が到達する唯一の結論は、それが流血の事態を挑発するという考えぬかれた意図によってなされたものであり、そのことによって、中央権力に絶対的に服従する必要性を「すべての者に教訓として教えこむ」ためのものであった、ということである。

 

 

 8、脅迫と買収

 

 三月五日、ペトログラード防衛委員会は叛乱者へ呼びかけた。

 「諸君は彼らが、ペトログラードは諸君とともにあり、またウクライナも諸君を支援していると語るとき、お伽噺を聞かされているのだ。こうしたことは、見当違いの嘘である。諸君がコズロフスキーなどという将軍連に指導されているのを知った時、ペトログラードでは、最後の水兵まで諸君を見捨てたのだ。シベリアとウクライナは、ソヴェト権力を支持している。赤きペトログラードは、ひと握りの白衛軍や社会革命党員のみじめな努力を、あざ笑っている。諸君は、完壁に包囲されているのだ。もう数時間たてば、その時諸君は、降服を余儀なくされるであろう。クロンシュタットには、パンも燃料もないのだ。諸君があくまで自己主張するなら、われわれは諸君を山うずらのように射ち殺すであろう。

 

 最後の瞬間には、コズロフスキー、ボークサー輩の将軍連、ペトリチェンコ、トゥーキン輩のすべての屑どもは、フィンランドへ、白衛軍へと逃亡するであろう。しからば、一般兵士・水兵諸君、諸君はその時になってどこへ行くつもりなのか? 彼らが諸君にフィンランドで面倒をみてやると約束するとき、それを信じてはいけない。ウランゲリの追随者たちに何が起こったかを、諸君は耳にしたことはないのか? 彼らは、コンスタンチノープルへ送られ、そこで何千人となく、飢えと疫病のためハエのように死亡しているのだ。これが、諸君が直ちに起ちあがらない限り諸君を待ちうけている運命なのである。直ちに降服せよ一寸刻をおしめ。諸君の武器を集めて、われわれの下へ来たまえ。諸君の犯罪的な指導者たち、ことに、帝政派将軍を武装解除し逮捕せよ。降服するものは誰でも、直ちに恩赦を受けるであろう。即刻、降服せよ。

                         署名 防衛委員会」

 

 こうしたペトログラードからの脅迫にたいする返答として、臨時革命委員会は、最後のアピールを発した。

 「すべての諸君、すべての諸君、すべての諸君。

 同志、労働者、赤軍兵士ならびに水兵諸君! ここクロンシュタットのわれわれは、諸君や諸君の妻子が、党の鉄の軛の下でどれほど苦しんでいるかをきわめて良く理解している。われわれは、党に支配されていたソヴェトを打倒した。臨時革命委員会は、本日、新たなソヴェトの選挙にとりかかっている。新たなソヴェトは、自由に選出された、ひと振りの党員の意志にすぎないものでなく全労働者人民ならびに守備隊の意志を反映させるものとなるであろう。

 

 われわれの運動は正しい。われわれは、党の権力のためにではなく、ソヴェト権力のためにたたかう。われわれは、自由に選出された、労苦する大衆の代表のためにたたかう。党に支配された、片輪のソヴェトは、われわれの嘆願に耳をふさぎつづけてきた。われわれの抗議は、弾丸をもって応えられてきたのだ。

 

 労働者の忍耐力は、その極点にまで達している。そこで今や彼らは、諸君を。パン屑でなだめようと企てているのだ。ジノヴィエフの命令によって、民兵による封鎖は撤廃された。モスクワは、食料品および緊急に必要とされる他の品物を外国から購入するために、一千万金貨ルーブリを割りあてた。だが、われわれは、ペトログラード・プロレタリアートが、こうしたやり方では、決して買収されはしないことを知っている。党の頭上をとび越えて、われわれは、革命的クロンシュタットの友情に満ちた手を諸君に差しのべる。

 同志たち、諸君は欺かれているのだ。しかも、真実は、もっとも卑劣な中傷誹謗によって歪曲されている。

 同志たち、惑わされるのを自ら認めてはいけない。

 クロンシュタットでは、権力は水兵、赤軍兵士、そして革命的労働者の手に握られている。それは、モスクワ放送が嘘八百をならべて言い張っているように、コズロフスキー将軍の率いる白衛軍の手にあるのではないのだ。

                        署名 臨時革命委員会」

 

 叛乱が勃発した時に、モスクワとペトログラードには外国の共産主義者たちが滞在していた。彼らは、党の指導的グループと緊密な接触を持っていた。彼らは、政府があわてて外国から物資を購入した(ロシアにおいては、つねにぜいたく品であったチョコレートすらも購入されていた)ということを確認している。モスクワとペトログラードは、突然、その戦術を転換したのだ。政府は、クロンシュタットの人びとよりも心理戦争にたけていた。政府は、飢えた人民にたいして白パンがもつ妖しげな魅力を熟知していたのである。クロンシュタットが、パン屑はペトログラード・プロレタリアートを買収できない、と主張したのは、むなしいことであった。こうした政府のやり口は、ことにストライキ参加者たちに向けられた苛酷な弾圧と結びつけられた時、疑いもなくその効果を発揮したのである。

 

 

 9、ペトログラードの支持

 

 ペトログラード・プロレタリアートの一部は、クロンシュタット事件の最中にもストライキを続行していた。党公認歴史家プーホフ自身もこのことを認めている。労働者は、囚人たちの釈放を要求していた。若干の工場では、臨時革命委員会の『イズヴェスチャ』の写しが壁に貼られているのが、散見された。一台のトラックが、クロンシュタットからのビラを撒きながら街頭を走ってさえいた。幾つかの企業(例えば第二六国営印刷工場)では、労働者が、クロンシュタット水兵を非難する決議の採択を拒否した。「兵器(アーシナル)」工場では、労働者が、三月七日…(クロンシュタットにたいする砲撃が開始された日)に、大衆集会を組織した。この集会は、叛乱水兵たちの決議を採択したのである! さらに同集会は、工場から工場へとゼネラル・ストライキを煽動してまわるための委員会を選出した。

 

 ストライキは、プチロフ、バルチスキー、オブホフ、ニェフスカイヤ・マヌファクチュラといった、ペトログラードにおける最大規模の工場で続行されつつあった。当局は、ストライキに参加している労働者たちを解雇し、工場を地区トロイカ(三人委員会)の権限下に移し、そしてそこでは、労働者の選抜再雇用が行なわれていたのである。ストライキ参加者にたいしては、その他の弾圧的諸手段もまたとられていた。

 

 ストライキは、モスクワ、ニジニ・ノヴゴロドその他の都市でもまた、開始されつつあった。だが、こうした諸都市においても、食料品の敏速な給付とくみ合わされた、帝政派将軍どもがクロンシュタットの指揮をとっているといった中傷誹謗が、労働者たちのあいだに疑惑の種をまくことに成功したのであった。ボリシェヴィキの目的は達成された。ペトログラードおよび他の工場都市のプロレタリアートは、混乱状態に陥っていた。全ロシア労働者階級の支援を希求してきたクロンシュタット水兵たちは、如何なる代償を支払っても彼らを殲滅するという政府の固い決意に直面して、孤立無援のままであった。

 

 

 10、最初の前哨戦

 

 三月六日、トロツキーは、クロンシュタット守備隊にたいして、ラジオを通じてアピールを発した。

  「労農政府は、クロンシュタットおよび叛乱戦艦の双方にたいする自らの権威を躊躇することなく再主張し、彼らをソヴェト共和国の支配下におくべく決意した。それゆえ、私は、社会主義の祖国へ向って拳をふりあげたすべての者が、直ちにその武器を捨てるよう命令する。抵抗する者は武装解除され、ソヴェト当局の裁量下に置かれるであろう。逮捕されている政治委員(コミサール)および他の政府代表は、直ちに釈放されねばならない。無条件に降服する者だけが、ソヴェト共和国の慈悲をあてにできるであろう。私は、他方、武力をもって叛乱および叛乱者を粉砕すべく全準備を整えよ、との命令を発している。地域一般住民へ降りかかるであろう惨事にたいしては、白衛軍叛徒が平等にその責任を負わねはならない。

                      署名 ソヴェト共和国革命軍事委員会

                          議長 トロツキー

                          司令官(ゴラウコム) カーメネフ(原註)」

   (原註) このカーメネフは、当時ソヴェト政府に協力していた、旧帝政軍将校である。彼は、一九三六年にスターリニストの手で銃殺されたカーメネフとは別人である。

 

 三月八日、飛行機が一機、クロンシュタットへ飛来して、爆弾を投下した。続く数日、政府軍砲兵隊は要塞および近隣の堡塁を砲撃し続けた、が、頑強な抵抗にあっていた。飛行機による爆弾投下は、一般住民のあいだに非常な憤激の念をまき起こしたので、彼らは、射返しはじめた。臨時革命委員会は、防衛者たちにその弾薬を浪費しないよう命令しなければならないほどであった。

 

 一九二一年までに、クロンシュタット守備隊は者しく縮小されていた。防衛軍参謀本部によって発表された数字では、三〇〇〇名とされていた。周辺を防御している歩兵と歩兵との散開間隔には、少なくとも三二フィートにわたる広がりがあった。弾薬と砲弾のたくわえも制限されていた。

 

 三月三日の午後、臨時革命委員会は、若干の軍事専門家たちとの合同会議を開いた。要塞の防衛計画を練りあげるための軍事防衛委員会が設置された。だが、軍事的助言者たちが、オラニエンバウム方面(そこのスパスサテリナイヤには食糧貯蔵庫があった)への攻撃を提案した時、臨時革命委員会はそれを拒否した。臨時革命委員会は、勝利への確信を、水兵たちの軍事的能力におくよりも、プロレタリア的ロシア全体の精神的支援においていたのである。第一弾が発射されるまで、クロンシュタットの人びとは、政府が自分たちを軍事的に攻撃するなどと信じることを拒んでいた。まぎれもなく、このゆえにこそ、臨時革命委員会は、要塞足下に拡がる氷を割って接近する赤軍にたいして、対抗策をとらなかったのである。ほぼ同様の理由から、攻撃の予測される方向に沿って、強化された阻止線を設けることもなされなかった。

 

 クロンシュタットは正しかった。軍事的には、彼らには勝ちめがなかったのである。せいぜいよくても、彼らは二週間持ちこたえることがやっとであったろう。このことは重要なことだったかも知れない、というのは、氷が一たん融けるや、クロンシュタットは自力防衛の可能な真の要塞へと変貌しえたからである。だが、われわれは彼らの人的資源が、赤軍が戦闘に投入できる人数に比べて、きわめて僅少であったことを忘れてはならない。

 

 

 11、赤軍における士気阻喪

 

 当時の赤軍内における士気は如何なる状態であったのか? 『クラースナヤ・ガゼータ』のインタビユーで、ドゥベンコ(原註)は、クロンシュタット攻撃に参加している全部隊が再編成され直されねばならなかった事情について述べている。このことは、絶対的に必要なことであったのだ。軍事作戦の当初、赤軍は、水兵たち――当時「ブラーチキイ」(小さな兄弟たち)として親しまれていた――とたたかいたくないという態度を示した。先進的労働者のあいだでは、クロンシュタット水兵は、革命にもっとも献身的な人びとであるとして知られていたのだ。それになんといっても、クロンシュタットを叛乱へと駆りたてた要因そのものが、赤軍の隊列の中にも存在していたのである。どちらも空腹と寒さに苦しめられ、みすぼらしい衣服と靴しか与えられていなかった。そしてこのことは、ロシアの厳冬の中では、ことに彼らに要求されていることが氷と雪の上での行軍と戦闘であった場合には、相当な苦痛だったのである。

 (原註) オールド・ボリシェヴィキ。一九一七年七月にツェントロバルト(バルチック艦隊中央水兵委員会)議長となる。一〇月革命後、第一次人民委員会議メンバー。アントノフ・オフセイエンコ、クルィレンコと共に陸海軍人民委員部付であった。

 

 赤軍のクロンシュタット攻撃が開始された三月八日の夜半には、猛烈な吹雪がバルチック海に吹き荒れていた。濃霧が道をもほとんど早えなくしていた。赤軍兵士たちは、雪の中にうまく身をかくせるように、白い長い上着をつけていた。次に掲げるのは、プーホフが、その公式コミュニケの中で歩兵第五六一連隊の士気にかんしてどう述べているかを示したものである(原註)。この連隊は、オラニエンバウム方面からクロンシュタットヘ接近しつつあった。(原註) 前掲書。

 

 「作戦開始時に、第二大隊が進撃を拒否した。大へんな苦労をかさねたあげく、共産党員の存在に助けられて、同大隊は氷上を出撃するよう説得された。最初の南部砲台へ到達するや否や、この第二大隊の一中隊は、降服してしまった。将校たちは自分たちだけで引き返さねばならなかったのである。連隊は停止した。夜は明けはじめていた。われわれは、第一南部砲台および第二南部砲台へ向けて進撃していた第三大隊について何のニュースも得ていなかった。この大隊は縦隊で行軍していて、堡塁からの砲撃を受けた。大隊はそこで展開し、赤旗が振られているミリユーチン堡塁の左側へ方向を転じた。さらに少し前進したところで大隊は、叛徒が堡塁上に機関銃をすえつけて、自分たちに降服か皆殺しかの選択をせまっていることに気付いたのである。大隊政治委員と、背を向けて逃げ出した三〜四名の兵士をのぞく全員が降服した。」

 

 

フィンランド湾氷上を突撃する赤軍        反乱者殺害・一掃の戦闘をする赤軍

『Kronstadt Uprisingimagesからの写真2枚

 

 三月八日、北部戦線付政治委員オグラノフは、ペトログラード党委員会宛に書いている。

 「私は貴方がたに、北部戦線における事態にかんしてはっきり説明することを、私の革命的義務と考えます。堡塁にたいする第二次攻撃に軍をさし向けることは、不可能です。私はすでに、同志ラシェヴィチ、同志アヴローフそれに同志トロツキーには、クルサントゥイ(戦闘にもっとも適していると考えられた士官学校生徒)の士気について話しました。私は、以下のような諸傾向を報告せねばなりません。兵士たちは、クロンシュタットの要求を知りたがっています。彼らは、クロンシュタットへ代表を送ることを希望しています。この戦線の多くの政治委員たちは、まったくその資格を有していません。」

 

 軍隊の士気は、第二七オムスク師団第七九旅団の事例でもまた、明らかに示されていた。この師団は三つの連隊から構成されており、コルチャックとの闘争でその戦闘能力を発揮したのであった。三月一二日、この師団はクロンシュタット戦線へ配備された。オルチェン連隊はクロンシュタットとたたかうことを拒否した。その翌日、同師団の他の二つの連隊では、兵士たちが即座に如何なる態度をとるべきかを討論するため集会を開いた。この二つの連隊は、強制的に武装解除され、《革命》法廷で重刑を言い渡されることとなった。

 

 数多くの同様な事例が存在した。兵士たちは、その階級的兄弟たちとたたかうことを嫌っていただけでなく、三月という月に氷上で戦闘する準備もしてなかったのである。部隊は、三月なかば迄にはすでに氷の融けてしまっているような、よその諸地方から配備されてきていた。彼らは、バルチック海の氷の竪さを、ほとんど信頼していなかった。第一次の突撃に参加した者は、クロンシュタットからの砲弾が氷の表面に無数の穴をあけ、その中に不運な政府軍部隊が呑み込まれていったのを眼のあたりにしていた。こうした光景は、なんとしても士気を鼓吹するようなものではなかった。こうしたすべての事柄が、クロンシュタットにたいする第一次突撃の失敗を助長したのである。

 

 

 12、赤軍の再編制

 

 クロンシュタットにたいする総攻撃に参加させられることになっていた諸連隊は、徹底的に再編成された。クロンシュタットにたいする共感をいささかでも示した兵士のグループは、武装解除され、他の部隊へ移された。幾人かは、革命法廷で厳罰に処せられた。党員たちが動員され、宣伝を行ない、信頼のおけない分子について報告を送るため各大隊へ配置された。砲弾がクロンシュタットの氷上を飛びかっている三月八日から一五日にかけて、第一〇回党大会がモスクワで開催された。党大会は、ヴォロシーロフ、ブブノフ、ザトウスキー、ルヒモヴィチ、ピャタコフを含む三〇〇人の代表団を前線へ派遣した。この《代表団》は《政治委員》に任命され、チエー・カーの軍事部もしくは《脱走取締特別委員会》へ所属することとなっていた。戦列に加わってたたかっただけの者もいた。

 

 革命法廷は、四六時中フルに活動していた。プーホフは、如何に「法廷がすべての不健全な傾向に鋭く反応し、もめごとの張本人や挑発者どもが、その罪状に従って罰せられた」かを述べている。判決は、直ちに兵士たちへ知らされ、ときとしては、新聞にすら掲載されたのであった。

 

 こうしたあらゆる宣伝、再編制、弾圧にもかかわらず、兵士たちは疑問を抱き続けていた。三月一四日になってもさらに不服従行動がみられた。三月八日に再編されたばかりの第五六一連隊が進撃するのを依然として拒否したのである。「われわれは同じ《スタニッツアス》(原註)出のわれわれの兄弟たちとはたたかわない」と彼らは宣言していた。

 (原註)コサックの村落。同じようにコサックとウクライナ人より編制されていた第五六〇連隊がクロンシュタット側についてたたかっていた。

 

 赤軍兵士の小グループは叛乱者側へ投降し、彼らの側に立ってたたかいはじめた。目撃者たちは、叛乱軍火線にたどりつきさえしない前に、何故いくつかの部隊がその兵士の半数を失うことになったか、を証言している。彼らは、「叛徒に降服せぬように」背後から機関銃で掃射されていたのである。

 

 公式の資料は、クロンシュタット『イズヴェスチャ』の各号が、如何に赤軍のあいだで大きな関心をもって読まれていたかを述べている。クロンシュタットの叛乱者によって散布されたビラも同様であった。そうしたものが兵舎に入りこむのを阻止するための特別政治委員会が設置された、が、これは期待とはまったく正反対の結果しかもたらさなかったのである。

 

 全国の党組織が動員された。後方の諸部隊における集中的宣伝活動が行なわれた。政府が利用できる人的・物的資源は、クロンシュタットのそれよりもはるかに巨大であった。列車は連日、新たな部隊をペトログラードヘ運びこんでいた。多くは、キルギスやバシキール・ランドから派遣された(ということは、「クロンシュタットの気分」からできるかぎりかけ離れた兵士によって構成されている)部隊であった。クロンシュタットの防衛者たちについていえば、彼らの戦力が(戦闘でこうむった損失を通じて)数的に減少しつつあったばかりではなく、彼ら自身も次第に疲労し消耗しつつあった。そまつな服に半ば飢えたまま、クロンシュタットの叛乱者たちは、ほとんど交代もなしにほぼ一週間以上も銃をとり続けていた。最後には多くの者が、立ちあがることさえもおぼつかなかったのである。

 

 

 13、総攻撃

 

 こうした事実を知りぬき、また、編制、補給、士気向上にかんしてすべての必要な措置をとった後で、第七軍司令官トゥハチェフスキーは、三月一五日、その有名な命令を発した。彼は、三月一六日夜から一七日にかけての一斉総攻撃によってクロンシュタットを占領すべし、と命令したのである。第七軍の全連隊が、手榴弾、白い上者、有刺鉄線切断用の剪断機、それに機関銃運搬用の小橇で装備された。

 

 トゥハチェフスキーの作戦は、南面より決定的な攻撃を開始し、そののち他の三面より、同時に大兵力を投入した突撃を貫行してクロンシュタットを占領する、というものであった。

 

 三月一六日一四時二〇分、南面を受けもつ部隊がその砲火をひらいた。一七時には、北部軍もまたクロンシュタットにたいする砲撃を開始した。クロンシュタットの砲も応えた。砲撃は四時間にわたって続けられた。それから一般住民のあいだに恐慌状態を引き起こすことを目論んで、飛行機が市街地を爆撃した。夕刻になって砲撃が止んだ。クロンシュタットの探照燈は、氷上に侵入者を求めてはいまわっていた。

 

 真夜中近くには、政府軍は足場を固めて前進を開始した。午前二時四五分、北部軍は、クロンシュタット防衛軍に遺棄された第七堡塁を占領した。午前四時三〇分、政府軍は第四および第六堡塁を攻撃したが、クロンシュタットからの砲撃で重大な損害をこうむった。同六時四〇分に、政府軍士官学校生徒が、ついに第六堡塁を占領した。

 

 南部軍は午前五時、前面の堡塁へ攻撃を開始した。防衛隊は応戦しきれずに市内へ退却した。やがて、激烈な、血まみれの戦闘が、街頭で起こった。至近距離で機関銃が使用された。水兵たちは、家屋、屋根裏部屋、物置の一つひとつに拠って抵抗した。市街地区では、彼らは労働者民兵によって増援されており、攻撃軍は、数時間のあいだ、堡塁や郊外へと押し戻されたのである。水兵たちは、さきに政府軍第八〇旅団によって占領されていた機械専門学校を奪い返した。

 

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地図の□印は、クロンシュタット側の海上堡塁。左図の赤矢印は、三月七、八日の

第一次攻撃だが、壊滅的な損害で退却。黄色基地と矢印は、三月一六〜一七日

の南北からの第二次総攻撃で、氷結した湾内の堡塁を占領し、市街戦で鎮圧した

 

 市街戦は恐るべきものであった。赤軍兵士はその将校を失い、赤軍兵士と防衛軍とは形容し難い混乱のうちに、まじり合ってしまった。敵味方の区別がまったくつかなくなってしまったのである。市内の一般住民は、銃撃にもかかわらず政府軍部隊と親しく交歓しようと試みた。臨時革命委員会のビラは、依然として撒かれていた。水兵たちは、最後にいたるまで、兄弟的な交歓を求め続けたのであった。

 

 三月一七日は、終日激しい戦闘が続行された。夕刻までには、北部軍がほとんどの堡塁を占領していた。市街戦は、その夜中続けられ、かなりの部分は翌朝へ引き継がれた。最後に残ったミリユーチン堡塁、コソスタンチン堡塁、オブローチェフ堡塁が、一つずつ次々に陥落していった。最後の一つが占領された後ですらも、孤立した防衛者たちのグループが、なお、絶望的に機関銃で抵抗していた。トリブヒン燈台の近くでは、一五〇名の水兵からなる最後のグループが、絶望的抵抗を示していた。

 

 

 14、決算書

 

 ペトログラード地区軍衛生当局が発表した、三月三日から二一日の期間についての統計では、四一二七名の負傷者と五二七名の死者があげられている。これらの数字には、溺死者および負傷したまま氷上に置き去りにされて死亡したおびただしい人びとは含まれていない(原註)。同時にまた、それには革命法廷の犠牲者たちも含まれてはいないのである。

 (原註)後者の数があまりにも多かったので、フィンランドの外務大臣は、ロシア大使ベルジンと、氷上の死体をかたづけるための国境警備隊合同パトロールにかんして、協議したほどであった。フィンランド人たちは、氷が融けたあとで、何百という死体がフィンランド沿岸に漂者するだろうと懸念していた。

 

 われわれは、クロンシュタット側の損失にかんしては、大よその数字すらも有してはいない。それは、のちに起こった報復虐殺の分を除外してさえも、厖大なものであった。おそらく、いつの日にか、チエー・カーや革命法廷の記録が、その完全にして恐るべき真実を明るみに出してくれるであろう。

 

 次にあるのは、この叛乱の《公認》スターリニスト歴史家プーホフが、その点について述べていることである。

 「正常な生活を再建するための諸措置がとられ叛乱の残党にたいする闘争が続けられているのと併行して、ペトログラード軍管区革命法廷は、多くの地域でその活動を遂行しつつあった。……厳しいプロレタリア的処罰が、われわれの旗にたいするすべての裏切り者どもへ加えられていたのだ……判決は多くの出版物に公表され、重大な教育的役割を果した。」

 公式出典よりのこれらの引用は、トロツキーストの「要塞は取るに足りない犠牲によって包囲され奪取された」という嘘を論駁している(原註)

 (原註)一九三七年九月一〇日に、トロツキーは『労働者の闘争(ラ・リュッテ・ウブリエール)』上で、「一九二一年のクロンシュタットは大殺戮であったと主張するような伝説」について書いている。

 

 三月一七日から一八日へかけての夜中に、臨時革命委員会の一部は、クロンシュタットを脱出した。およそ八〇〇〇名の人びと(水兵の若干数と一般市民のもっとも活動的部分)が、フィンランドへ向けて永久亡命の旅へと出立していった。

 

 赤軍――《ソヴェト》権力の守護者――が最終的にクロンシュタットヘ入城した時、彼らはクロンシュタット・ソヴェトを再建しはしなかった。その機能は、新たな要塞副司令官附属政治部によって引き継がれたのである。

 

 全赤色艦隊は、徹底的に再編制された。何千名というバルチック艦隊水兵たちが、黒海、カスピ海それにシベリアといった各海軍基地で軍務につくため送り出されていった。プーホフによれば、「信頼のあまりおけない分子、クロンシュタットの精神に感染されているような連中は、転属させられた。多くの者は、ただ不承不承従ったにすぎない。この措置は、不健全な雰囲気を一掃するのに役立ったのである。」

 

 四月になると、新たな海軍司令部は、個人別点検を開始した。「特別委員会は、政治的観点より信頼し難いと見なされた水兵たちとともに、《不必要な》(すなわち専門をもっていない)カテゴリーX、GDに分類された一万五〇〇〇名の水兵たちを放逐した。」

 クロンシュタットの物理的絶滅に続いて、その精神そのものも、艦隊から根絶やしにされなければならなかったのである。

 

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 (関連ファイル)

     『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』

       ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係

     『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版

     『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題

     P・アヴリッチ 『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他

     ヴォーリン  『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

     スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過

     A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過

     ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁政策の誤り

     大藪龍介   『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱

     梶川伸一   『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

       食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

       レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

     Ida Mett『The Kronstadt Communeクロンシュタット・コミューンの英語版全文

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