クロンシュタット1921年
ヴォーリン
(注)、これは、ヴォーリン『知られざる革命』(現代思潮社、1966年、絶版)における第1部『クロンシュタット1921年』第6章から第10章(P.34〜106)の全文である。彼は、この著書を、クロンシュタット臨時革命委員会の機関紙・手紙などの原資料を、意図的に中心に据えて構成している。それだけに、現地の息吹がきわめてリアルに反映されているが、印刷すると41ページになる。
第2部は『ウクライナの闘争・マフノ運動、1918〜21年』である。ヴォーリン(本名エイヘンバウム・B)(1882〜1945)は、1905年の革命に参加し政治犯として流刑されたがフランスに亡命。1917年ロシアに帰国。ナバト連盟に参加。マフノフシチナには1919年8月から12月まで参加。マフノ軍軍事革命評議会議長代理、文化教育部部長代理。1921年、ロシアを追放され、ベルリンに2年暮らした後、パリへ移り、第二次大戦後の1945年9月、結核で死亡した。
1994年、クロンシュタットの反乱者は、大統領令によって、名誉回復された。
文中の傍点は、黒太字にした。ペトログラードの全市的な労働者ストライキとクロンシュタットの反乱とは密接な関係を持っている。その関連を示すために、主な日付は、私(宮地)が青太字にした。文中の黒太字は、茶太字にした。
〔目次〕
1、序章 (省略)
2、革命前のクロンシュタット (省略)
3、革命の前衛としてのクロンシュタット (省略)
4、クロンシュタットにおける建設的活動 (省略)
5、クロンシュタットとボリシェヴィキの最初の衝突 (省略)
10、クロンシュタットの教訓
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題
P・アヴリッチ
『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット 『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
大藪龍介
『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱
梶川伸一
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
Google検索 『kronstadt』
ついにあらゆる抑圧にもかかわらず嵐は巻き起こった。それはクロンシュタットではなく、ペトログラードから始まった。一九二一年二月末から、都市の労働者大衆の生活は耐えがたい状態となった。正常な生活のすべてが崩壊してしまった。ほとんどの必需品が不足していた。パンでさえ配給制で、手に入れるのが難しかった。燃料不足のため、家を暖めることができなかった。鉄道はほとんど役に立たず、多くの工場は閉鎖され、そのために状態はいよいよ悪化した。
労働者のアピールや質問や抗議は、なんの効もなさなかった。ボリシェヴィキ政府は情勢の重大さをよく知っていたし、その状態の救いがたいことを認めてさえいた。しかし、その政策を変えることは頑強に拒んだ。不満をもった労働者たちと討論しようとさえしなかった。そして最初からどんな提案をも、どんな協力をも、どんな発議をもはねつけた。政府の唯一の救済策は、自己本位の暴力的なやり方で、さらに必要物資を徴発したり、さらに多くの軍隊を出動したり、さらに抑圧的な手段を講じたりすることであった。
ついにぬきさしならない混乱がペトログラードに勃発した。主要ないくつかの工場は労働者大会を開き、政府に反感をもった解決案を可決し、制度の変革を要求した。おなじ趣旨の決議文が工場に、街の壁にはりだされると、大衆はとまどい、動揺した。
当然、この広範な民衆の動きのなかには種々の要素があり、種々の見解があらわれた。思想・討論の自由が禁じられ、また多くの革命家が獄中にいたから、必然的にこの新しい醗酵は漠然として混乱したものだった。革命がすでに道に迷っていたから、運動全体がやむを得ず歪められていた。
このような条件のなかでは、前進するために邪魔物をとりのぞこうとするのとは逆に、反革命的な宣伝―特に穏和な社会主義者たちの宣伝―に影響された分子たちが、革命を逆行させようとする手段や政策を提案するようなことが当然生じた。このため自由貿易の復活や憲法制定会議の召集を要求する人びとがいた。
しかし次の三つの事実を忘れてはならない。
1、問題となっている分子は運動全体に広くはびこっているとは決していえない。彼らはもっとも強いものでもないし、もっとも勇気のあるものでもない。左翼の宣伝の自由と大衆の行動の自由があれば、まじめなボリシェヴィキたちの助けで、いまからでも状態を救うことができるだろう。それがありさえすれば、解決を見いだし、革命に正しい方向へむかう推進力を与えることができるだろう。
2、広い見地からみたとき、ボリシェヴィキ自身が反動制度を代表していることを忘れてはならない。だからそこにはふたつの反動勢力が存在した。ひとつは反ボリシェヴィキ分子から成り、すでに阻止されていた。もうひとつの勢力は、ボリシェヴィキ自身であって、革命をまひさせ、固定化した。ただひとつの真実の革命的勢力はほかにあった。
3、真実の革命的勢力を代表する分子のなかで、クロンシュタットはもっとも重要なものであった。クロンシュタットの人びとはボリシェヴィキに敵対しているにもかかわらず、憲法制定会議とか私的資本主義への復帰などの反動思想とは何の共通性もない解決を意図していた。運動のごく最初にクロンシュタットの行なった活動はそのことをよく示している。
憲法制定会議の召集を要求する声明や宣伝に応えて、クロンシュタットは労働者に対する次のようなメッセージをもった代表をひそかにペトログラードの工場や、作業所に送りこんだ。
「クロンシュタットの革命的エネルギーとクロンシュタットの大砲と機関銃のすべては決定的に憲法制定会議に対して、またすべての後退するものに対して、むけられるであろう。だが、しかし、もし労働者が『プロレタリア独裁』に幻滅を感じ、新しいいかさま師に反対して自由なソヴィエトや、すべての思想的潮流―アナキスト、左派社会革命党、その他―の労働者や農民の言論、出版、組織、行動の自由を支持するなら、もし労働者が十月の其のスローガンをかかげて、第三の純粋にプロレタリアのものである革命に立ち上がるなら、そのときこそクロンシュタットは大挙して、勝利かしからずんば死かの決意をもって全力をつくし、彼らを支持するであろう。」
二月二十二日に、すべての工場で自発的な集会が始まり、二十四日には、騒動はさらに深刻な進展をみせた。「パージ」に必死になっている当局は、その朝、ペトログラードでもっとも大きな工場のひとつであるトロボッチニイ工場で、労働者手帳を一人一人検査した。それは決定的な挑発であった。工場では仕事をとめた。数十人の労働者が他の工場へ出かけて、一人一人によびかけ、まもなく、バルチック工場、ラファーム工場、パトロニイ軍需工場労働者がストライキにはいった。
二、三千人の興奮した労働者の群が街頭デモを展開した。この種の運動と抗争するのに十分なだけの特別警察隊と兵士をもっている「労働者・農民政府」は、軍事アカデミーから学生部隊(幹部候補生はクルサンティとよばれた)をそこへ派遣した。これらの軍隊と非武装の群衆との間に衝突が起った。労働者はちりぢりばらばらにされ、ほかのところでは、警察と軍隊がいくつかの集会を阻止した。
二月二十五日には、その動きは依然として大きくなっており、町中に拡がっていた。ストライキにはいっている労働者たちは海軍兵器廠とギャレルネイアの港湾労働者に呼びかけた。労働者大衆がそちこちに群をなして集まるたびに特別編制隊が追い散らした。
混乱が拡大するのをみて、政府はペトログラード守備隊に警告を発した。しかし、守備隊も大きく動揺しており、いくつかの部隊は労働者に対して戦おうとしなかった。彼らは武装を解除され、政府はもはや守備隊に頼ることはできなかった。政府は守備隊なしでやっていかなければならなかったから、地方や国内の前線から多数の選り抜きの優秀な共産軍をまわしてきた。同じ日に、政府は運動に対するすべての行動を統合するために、ジノヴィエフの統率の下に防衛委員会をペトログラードにつくった。
二月二十六日、ペトログラード・ソヴィエトの席上で前記の委員会のメンバーであり共和国の革命軍事委員会のメンバーでもある悪名高い共産党員ラチェヴィチが、情勢報告を行なった。彼はトロボッチニイ工場の労働者を厄介者だと非難し、彼らを「自分たちだけの利益を考えている者ども」とか「反革命者」と呼んだ。こうして工場は閉鎖され、労働者は日常の糧を奪われた。同じ席でバルチック艦隊の人民委員であるクズミンはクロンシュタットに碇泊している戦艦の乗組員のなかに何か不穏な動きがあることに初めて言及した。
二月二十七日からさまざまな種類の無数の宣伝文が街街にまかれ、ペトログラードの壁にはられた。そのなかでもっとも代表的なビラのひとつは次のように言っている。
「政府の政策についての根本的な変草が要求されている。第一に労働者と農民は自由を必要としている。彼らはボリシェヴィキの規制の下に生活したいとは思っていない。彼らは彼ら自身の運命を自分たち自身で決めたのだ。」「同志諸君、革命の秩序を守れ! 組織的に断固として次のことを要求する。すべての投獄された社会主義者と無所属の労働者の釈放。戒厳令の撤廃。働く者すべてに対する言論・出版・集会の自由。工場委員会、労働組合、ソヴィエトの代表の自由な再選挙。」
政府はこれに応えて無数の人たちを逮捕し、いろいろな労働者の団体を弾圧した。
二月二十八日になると、あちこちから連れてこられた共産党軍がペトログラードへ侵入した。たちまち、容赦のない弾圧が労働者の上に加えられた。武装解除されているので彼らは抵抗できなかった。二日間のうちにストライキは力関係によって破られ、労働者の騒動はトロツキーの「鉄の腕」で粉砕された。だが正確にいえばクロンシュタットが行動にはいったのは二月二十八日であった。
7、クロンシュタットのペトログラード労働者への支持
〔小目次〕
2、三月三日、臨時革命委員会の『イズヴェスチヤ』(新聞)の最初の号
4、『イズヴェスチヤ』第4号に掲載されたモスクワ・ラジオ通信
5、『イズヴェスチヤ』第5号に掲載されたモスクワ・ラジオ通信
6、『イズヴェスチヤ』三月七日付第5号に掲載されたこれらの糾弾に対する論評
7、「彼らのウソ」と題する『イズヴェスチヤ』三月九日付第7号の記事より
二月二十八日、数日間、騒然とした状態にあった、戦艦「ペトロパヴロフスク」の乗組員たちは、戦艦「セバストポリ」の支持をただちに獲得しようとの決議を行なった。運動は非常な速さで拡がってゆき、赤軍守備隊を味方につけていった。ペトログラード労働者と密接な結合をもつために、また正確な情報を手に入れるために、数人の水兵代表がペトログラードへ送られた。この水兵たちの活動はまったく平和的で誠実であった。それは「プロレタリア政府」が目ざす「労働者国家」においても少しもおかしくないペトログラード労働者の要求のいくつかに、精神的支持を与えた。
三月一日、錨広場で人民大会が開かれた。それはバルチック艦隊の第一、第二戦隊によって招集され、クロンシュタット・ソヴィエトの機関紙に告知された。同じ日、全ロシア中央執行委員会議長カリーニンとバルチック艦隊の人民委員クズミンがクロンシュタットに着いた。カリーニンは軍礼と軍楽隊と、ひるがえる軍旗にむかえられた。
一万六千の水兵と赤軍兵士と労働者がこの集会に参加した。議長はクロンシュタット・ソヴィエトの執行委員長で共産党員のヴァシーリエフであった。カリーニンとクズミンも出席した。ペトログラードへ送られた代表たちは報告を行なった。
大会は、ペトログラード労働者の正当な熱望を押し殺す共産主義者のやり方を、怒りをこめて非難した。つづいて「ペトロパヴロフスク」がすでに可決している決議が上程された。討議の際、カリーニン議長とクズミン人民委員はその決議とペトログラードのストライキとクロンシュタットの水兵を非常にはげしく攻撃した。だが彼らの弁説は役に立たなかった。「ペトロパヴロフスク」の決議は、ペトリチェンコという名の乗組員によって採決され、満場一致で承認された。クズミン人民委員は次のような言葉でこのことを記している。
「決議はクロンシュタットと守備隊の圧倒的な多数で決定された。それは約一万六千の市民の出席した三月一日の市の総会に提出され、満場一致で可決された。クロンシュタットの執行委員長ヴァシーリエフと同志カリーニンはその決議に反対投票をした」。ここに歴史的文書の完全な記録がある。
1、一九二一年三月一日バルチック艦隊第一、第二戦隊総会決議
情勢を調査するために、水兵総会からペトログラードへ送られた代表の報告をきいたのち、現在のソヴィエトが労働者と農民の意志を表明していない事実を確認し、次のことを必要事であると決定した。
1、ただちに秘密投票によるソヴィエトの再選挙を行なうこと。労働者と農民の間での選挙運動は、完全な言論と行動の自由をもってなされること。
2、すべての労働者、農民とアナキストと左翼社会主義諸政党に対する言論と出版の自由を確立すること*。
3、労働者と農民の組織に集会の自由を与えること。
4、ペトログラード市とクロンシュタット市とペトログラード地方の労働者、赤軍兵士、水兵の協議会を遅くとも一九三年三月十日までに、政党とは無関係に招集すること。
5、労働運動と農民運動のために、投獄されたすべての社会主義者、労働者、農民、赤軍兵士、水兵を釈放すること。
6、牢獄あるいは強制収容所にいる人びとの状態を調査するために委員会を選出すること。
7、政党がその思想を宣伝する特権をもったり、あるいはこの目的のために国家から金を受けとったりすることのないように「政治局」を廃止し、それぞれの地方で選出され、政府の財政援助を受ける教育、文化委員会におきかえること。
8、すべての関門をただちに廃止すること**。
9、健康に危害のある職業に従事する者を除いて、すべての労働者の賃金を一律にすること。
10、陸軍全部隊の共産党選抜突撃隊と工場の共産党衛兵隊を廃止すること。必要とあれば、軍隊では仲間たちが、工場では労働者たちが衛兵隊を編制できるだろう。
11、人をやとわず自分自身で労働することを条件に、農民に、その土地での完全な行動の自由と家畜を所有する権利を与えること。
12、旅行統制委員会を設けること。
13、雇用労働を使用しない条件で、手工業の自由な経営を許可すること。
14、われわれは、軍隊のすべての部隊とクルサンティ(幹部候補生)にわれわれの決議に参加するようによびかける。
15、われわれは、われわれの決議の全文が印刷され、ひろく公表されることを要求する。
この決議は戦隊の乗組員の大会で満場一致で可決された。二名が棄権した。
大会議長 ペトリチェンコ
同書記 ペレペルキン
* この項のほんとうの意味を理解するためにクロンシュタットを知る必要がある。左翼左派に対してのみ言論と出版の自由を要求しているが、実際にそういう自由を制限しようとする風潮がみられた。この決議は、運動の真の性質を誤解されることのないよう、前もってことわっておくために、わざわざ「左翼左派」の言論と出版の自由というふうにしているのだ。
革命の初期のころから、すなわち、血気にはやった将校たちの血を流した革命の最初の日々がすぎたころから、クロンシュタットはもっとも広範な自由を確立した。市民たちは何の制限も受けずに彼らの意見をひれきした。ほんの二、三の頑固なツァーリストだけが獄中に残っていたが、ひとたび自然発生的な嵐がすぎさり、ひとたび理性が自己保存の本能にうちかつやいなや、全般的な特赦の問題が集会に上程された。クロンシュタットの人びとは牢獄を非常に憎んでいたからだ。獄中にいるすべての人びとを釈放する計画がたてられたが、これはクロンシュタットの近辺だけだった。というのはクロンシュタットでは反動計画が成功することはありえなかったが、水兵たちは反革命を他の地方へ与えることをのぞまなかったからである。ケレンスキーの行動は人びとの新たな怒りをかきたてた。しかし、この性急な逆戻りはこれが最後であった。このときからクロンシュタットはただの一度も思想に対する迫害を経験しなかった。すべての理論が自由にゆきわたることができた。錨広場の壇上はすべての人に公開されたのである。
**これは先にのべた都市のまわりにいる武装した部隊のことを言っている。彼らの職務は違法の商品をおさえたり、食料品その他の生産物を没収したりすることであった。これらの「関門」の無責任さと勝手のしほうだいは国中に知れわたっていた。クロンシュタット攻撃の前の日に政府がそれらを禁止したことは重要なことである。こうしてペトログラードのプロレタリアートをなだめ、だまそうとしたのである。
翻訳された記録が決議の大衆的な調子や、その「素朴」な文体や、卒直な雰囲気を反映していないのは残念である。これは運動が完全に労働者自身の手で行なわれていたこと、またそれは正確に彼らの思想や感情を表現しており、外部の影響や陰謀ではないことのよい証拠である。
クロンシュタット・ソヴィエトの任期が終わろうとしていたので、大会は戦艦や守備隊や工場や組合や各種のソヴィエト機関の代表者会議を三月二日に開き、新しい選挙法の問題を討議することを決定した。この決定はソヴィエトの規約とまったく一致していた。会議は定例どおり、公式にソヴィエトの機関紙『イズヴェスチヤ』*に告知された。
* 『イズヴェスチヤ』というのは、本書ではクロンシュタット・ソヴィエト機関紙のことを言っているのであって、同じ名前のソ連最高ソヴィエト幹部会発行の政府機関紙のことではない。―訳者
三月二日、三千人以上の代表が元技術学校だった教育会館に集まった。彼らの大多数はどの政党にも属しておらず、共産党員は少なかった。「代表者会議の義務と仕事」に関する報告は慣例によって共産党員のなかから選ばれた。
水兵ペトリチェンコによって大会は開かれた。五人の役員が選出された。役員の一人がこの会議のメンバーは水兵と赤軍兵士と労働者とソヴィエト員に限られると宣言した。当然のことだったが、代表者たちのなかには、「旧制度の将校」(後にペトログラードの共産主義者に告発された)はただの一人もいなかった。
大会の任務はソヴィエトの新選挙であった。それは、前日に採用された決議にかんがみて、より自由な、より平等な基盤の上に組織されることが望まれた。その基盤の上に立って決定された仕事を履行できるソヴィエトが望まれた。
会議の精神は、言葉の完全な意味における「ソヴィエト」であった。クロンシュタットは、ソヴィエトがすべての政治的影響からまったく自由であり、ほんとうに労働者の熱望を表現し、彼らの意志を表明するものであることを要求した。ソヴィエトの反対者ではなく官僚的人民委員の独断的な制度の反対者であるこれらの代表たちが、共産党に忠実だったり、そのシンパであったり、あるいは現在の緊急問題の平和的解決を望んだりすることを、クロンシュタットは妨害しなかった。
だが、われわれはクロンシュタットの人びとの言葉で物語をつづけよう。ここにクロンシュタット臨時革命委員会の『イズヴェスチヤ』一九二一年三月十一日付第9号の記事がある。
「……次の日(三月二日)執行委員会の承認と権限のもとに『イズヴェスチヤ』に掲載された指令に従って、戦艦、守備隊、工場および組合のそれぞれの組織から二人ずつの代議員が三百人以上教育会館(元技術学校)に集まった。
当局の役人たちは当惑し、その幾人かはクロンシュタットから逃亡した。このような状態のもとで戦艦『ペトロパヴロフスク』の乗組員たちは、建物を防衛し、どのような筋の暴力からも代議員を守ることを任務と感じた。
会議は同志ペトリチェンコによって開かれた。五人の役員を選出した後、彼はバルチック艦隊の人民委員、同志クズミンに発言権を与えた。守備隊や、労働者が共産主義権力の代行者に対して、非常にはっきりとした反対の立場をとっているにもかかわらず、同志クズミンはそれを認めるのを拒んだ。
会議の仕事は現在の情勢に平和的な解決を見いだすことであった。とくに、決議文が宣言しているように、もっと平等な基盤でソヴィエトの再選挙が行なわれるような組織をつくらねばならなかった。先のソヴィエトの権力は、ほとんどまったく共産党員から成り、非常に重要な問題を解決する能力のないことがはっきりしており任期も終わりにきていたから、この仕事はなおのこと、急を要していたのである。
だが、同志クズミンは代議員たちをはげますどころか反対に、彼らに敵対した。彼はクロンシュタットのあやふやな立場やポーランドの危険や、われわれをみつめている全ヨーロッパについて語った。彼はペトログラードにおいてはすべてが平和であると主張した。彼は、自分は代議員たちの手の内にあり、もし彼らが望むなら、自分を撃ち殺すことだってできるのだということを強調した。そして、終わりに次のように言った。『もし君たちが戦争をはじめようと望むなら、はじめるがいい。共産党は決して政権を譲りはしないから。最後の一人まで戦うのだ。』
クズミン同志のこのばかげた演説は代議員たちの感情を少しも静めるどころか逆に怒りをわきたたせた。これにつづいて立った執行委員長ヴァシーリエフのあいまいな、とらえどころのない演説は特に注意をひかずに終わった。代議員の圧倒的多数が明らかに共産党員に敵意を抱いていた。
それでも、代議員たちは、当局と何か共通の地盤をみつけようという望みをすてなかった。議事を進めて、その日の議事日程をつくろうという会議の議長の提案が満場一致で認められた……。
会議は共産党員に対する非難をかくしてはおかなかった。しかし党員である代議員が、会議にそのままのこって、政党に無所属の代議員といっしょに議事をつづけていくべきであると決議した。いくつかの抗議や、いく人かの代議員たちからの共産党員を逮捕せよ、という提案があったが、全体としては、ここに出席している共産党員と同じように、部隊や組織の代表であると考えて、この意見を認めなかった。
この事実は、クロンシュタットの赤軍兵士や水兵や、労働者と同様に政党に属していない労働者の代議員が、前日の大会で採用された決議が必然的にひとつの党としての共産主義者と決裂をまねくだろうとは考えなかったことを再び示している。彼らは依然として共通の言葉を見いだせることを望んでいたのだ。
ペトリチェンコ同志の提案についで、前日の決議文が読まれた。それは圧倒的多数の代議員によって承認された。ついで会議が具体的な議事にかかろうとしたまさにそのとき、戦艦『セバストポリ』の代議員が緊急に発言を求めた。彼は小銃と機関銃をもった十五個の武装部隊がこの会場に進軍してくると報告した。そのあとから調べた結果、この会議をあわてて解散させるように、共産党員がまきちらした誤報であることが判明した。しかし、それがつたえられたときは、周囲の状況から―特に会議に対する当局側の緊張や敵対的態度からみて―代議員たちはそれを信じても当然のことだった。
それにもかかわらず、採用された決議文を出発点として、当面の議事について討議をつづけようという議長の提案が認められた。会議は決議の条項を現実に具体化するのに必要な方法について討議を始めた。代表団をペトログラードへ送ろうという意見は、おそらく団員が逮捕されるであろうとのことから、否決された。そのあと、数人の代議員が、この会議の執行部を臨時革命委員会に編成すべきであるという提案と、執行部はソヴィエトの再選挙の準備にあたる管理委員となるべきだという提案がなされた。
このとき、議長が、二千人の部隊がこちらに向かっていると知らせた。動転し、興奮し、不安な気持で代議員たちは教育会館を出た。この最後の情報のために会議は終了し、秩序を維持する任務を持った臨時革命委員会が戦艦『ペトロパヴロフスク』に置かれ、水兵や兵士や労働者など骨を折って働いた人びとすべてにもっとも利益となるように都市の秩序が回復される日まで、臨時革命委員会はそこに置かれることになった。」
革命委員会のメンバーからあとで知らされたいくつかの詳しい報告をこの声明につけくわえておこう。この委員会を設置しようという決定は、閉会の寸前に、おどろくべきデマとクズミンやカリーニンやヴァシーリエフの脅迫のもとで、満場一致で通過した。この決定にはつぎのような但し書きがついている。「この委員会をもっと正式な形にするに必要な期間、この会議の執行部と議長ペトリチェンコが臨時に革命委員会の任務を遂行する責任をもつ。」
強調しておかねばならないもうひとつの事実は、三月一日の人民大会の直後に、クロンシュタットの共産党がその運動に対して軍事行動の準備を始めたということである。特に共産党地方委員会は、党員を厳重に武装させた。地方委員会はライフル銃や機関銃や弾薬を十分、配給して共産党細胞を武装させるよう、要塞の人民委員に命令した。もし予期しなかった状況が彼らの計画を邪魔していなかったとしたら、クロンシュタットの共産党指導者たちが、三月二日に戦闘を開始していたことは疑いもない。
クロンシュタットには二千人以上の共産党員がいたが、その大多数は、確信をもってはいったのではなく、個人的理由からはいった単なる党員証の保持者であるにすぎなかった。抵抗がはじまるや否や、大量の共産党員が彼らの指導者を見捨てて、人民の運動に加わった。クロンシュタットに駐屯し、盲目的に党に献身しているかなりの数のクルサンティ(幹部候補生)の支持を得ても、それでも党の上部だけでは戦艦や守備隊や全人民に抵抗することは望み難かった。そのために指導者たちはクロンシュタット内部で即刻武装蜂起をしようとの考えはあきらめた。彼らのうちには逃げ出した者もいた。他の者は周囲の堡塁へいって、運動に反対するようあおった。クルサンティはこれに従った。彼らは堡塁を次から次へとまわったが、求める支持は少しも得られなかった。ついに彼らは赤い地点(クラスナヤ・ゴルカ)にいった。このように、三月二日の夜にはクロンシュタットは臨時革命委員会の力以外に何も持っていなかった。
2、三月三日、臨時革命委員会の『イズヴェスチヤ』(新聞)の最初の号が発行された。第一面は次のような宣言であった。
クロンシュタットの要塞と市の諸君へ
同志および市民諸君、わが国は苦難の時代を切り抜けている。すでに三年にわたって、飢餓、寒さ、経済的窮乏がわれわれを恐しいいきおいでしめつけてきた。国を牛耳っている共産党は大衆の結合を忘れ、全般にわたる腐敗状態から彼らをひきあげるのに無力であることを暴露している。最近ペトログラードとモスクワに動乱が勃発し、それは党が労働者と農民の信頼を失ってしまったことをはっきりと示しているのに、党はなんの注意も払おうとしない。労働者から出されている要求にも注意を向けようとしない。党は彼らすべてを反革命の陰謀者であるとみている。党は深く自分自身をあざむいている。
この動乱と要求はすべての人びとの、全労働者の声である。労働者の側に立った一致した努力と一致した意志だけが、国民に、パンとたきぎと石炭を与えることができ、あたたかい着物を着せてやることができ、民衆の陥っている窮境を救うことができるのだということを、いまやすべての労働者、水兵、赤軍兵士ははっきりと知っている。
すべての労働者、兵士、水兵のこの意志は三月一日火曜日のわれわれの市の大会ではっきりと宣言された。その大会は第一、第二戦隊の乗組員の決議に満場一致で賛成した。
採用された決定のひとつは、ただちにソヴィエトの再選挙を行なうことであった。ソヴィエトにおける労働者の意志を効果的にあらわせるような、またソヴィエトを活動的でエネルギッシュな組織とするようなこの選挙の平等な基盤を確立するために、海軍、守備隊、労働者のすべての組織の代表が三月二日、教育会館に集まった。この集会は新しい選挙のための基盤を成文化し、それから建設的な平和的な仕事、すなわちソヴィエト制度の再組織化の活動をはじめようとした。
しかし、権力の代行者たちの脅迫的な演説のあと、弾圧のおそれがあるとみてとった代議員たちは、臨時革命委員会を設け、クロンシュタット要塞の行政に全権を委託した。臨時革命委員会は戦艦「ペトロパヴロフスク」におかれた。
同志および市民諸君! 臨時革命委員会はクロンシュタットや要塞や堡塁に革命的秩序を維持するよう最善の努力を払ってきた。
同志および市民諸君、仕事を中止するな! 労働者諸君は機械から離れるな。すべての従業員とすべての機関は仕事をつづけてくれ。
臨時革命委員会は、すべての労働者組織、すべての港湾その他の労働組合、すべての陸上、海上部隊、また市民ひとりひとりに支持してくれるようにと呼びかける。委員会の使命は、諸君と親密に協力して新ソヴィエトの公正な選挙に必要な条件を確立することである。同志諸君、そのためには、秩序と平穏と沈着の状態をつくろう。すべてを労働者の利益となる正しい社会主義的な仕事を遂行させるために。
一九二一年三月二日 クロンシュタット
臨時革命委員会議長 ペトリチェンコ
同書記 トーキン
この同じ号には有名な決議やいくつかの行政的覚え書きや次のようなことが載っていた。「三月二日午後九時、要塞の全赤軍部隊と堡塁の大多数が臨時革命委員会と一致協力することを声明した。すべての組織と情報機関は委員会の巡視隊によって守られる。」
* ボリシェヴィキは一瞬もためらわずにクロンシュタット攻撃の準備にとりかかった。はじめからボリシェヴィキはこの運動が彼らにとって破局となり得ることを知っていたから、どんなことをしてもそれが拡がらないうちにできるだけ早く撲滅してしまおうと決心したのである。
同時にボリシェヴィキはいくつかの戦術をとった。
1、クロンシュタットやペトログラードの周囲にある「赤い地点」(クラスナヤ・ゴルカ)、オラニエンバウム、リシイ・ノスなどの主要な軍事基地における彼らの統制力を堅固にすることを急いだ。
2、ペトログラードの包囲状態をつづけ、「秩序」を守るために、極端に抑圧的な戦術をとった。
3、労働者を平静にするためにいくつかの譲歩―首都の周囲の関門撤廃についてはすでに述べた―を行なった。
4、トロツキーの至上命令の下に、クロンシュタット攻撃のための特別部隊の編制に早急にとりかかった。
5、民衆を誤った考えに導き、ボリシェヴィキ自身の行為を正当化するために、クロンシュタットに対して嘘と中傷のはげしいキャンペーンを展開した。
この猛烈なプロパガンダは、三月二日にはじまった。(クロンシュタット)革命委員会の『イズヴェスチヤ』第2号には、モスクワから送信され、戦艦「ペトロパヴロフスク」が受信した次のような無線電報文が載っている。
すべての諸君! すべての諸君! すべての諸君!白色反革命の陰謀に対して武装せよ!
コズロフスキー元将軍と戦艦「ペトロパヴロフスク」の反乱は、現在にいたるまでの数えきれない陰謀と同様に、協商国のスパイが組織したものである。フランスのブルジョア新聞『ル・マタン』がコズロフスキー反乱の二週間前にヘルシングフォルスからの次のような通信を載せているが、これを読めば明瞭である。
「ペトログラードからの報道によれば、最近クロンシュタットに起こった謀叛につづいてボリシェヴィキ軍事当局はクロンシュタットを孤立させ、クロンシュタットの水兵や兵士をペトログラードへ近づけないよう、必要な手段をとっている。クロンシュタットへの食糧供給は指令のでるまで停止されている。」
クロンシュタットのソヴィエト・ロシアからの分離はパリから指導され、それにはフランスの反革命スパイがかかり合っていることは明らかだ。いつもおきまりの話だ! パリから指令を受けている社会革命党員はソヴィエト政府に対する謀叛をくわだて、準備がととのうや、其の主人―ツァー将軍―が顔を出すのだ。社会革命党員の助けをかりて再び勢力を得ようとしたコルチャックの話がまた繰り返されようとしている。ツァー将軍から社会革命党員にいたるすべての労働者の敵どもは飢えと寒さを見越して乗り出そうとしている。当然、将軍と社会革命党員によるこの謀叛は速かに圧殺され、コズロフスキー将軍と彼の仲間はコルチャックと同じ運命となるだろう。
だが連合国のスパイ網はクロンシュタットだけにかけられているのではない。労働者および赤軍兵士諸君、その大スパイ網を破り去れ! スパイと挑発者の仮面をはげ! 君たちは平静と自己統御と警戒心を怠ってはならない! 一時的ではあるがたしかに困難な食糧その他の問題にうち勝つ其の道はたゆみない労働と正しい判断によってもたらされるのであって、過激な行動は労働者の悲惨を増大させ、呪わしい敵をさらに喜ばせるだけであることを忘れるな!
クロンシュタットの運動に対処するのに、政府はあらゆる手段―軍事命令、宣言、パンフレット、掲示、新聞記事、ラジオニュース―を使って、無制限の嘘をまきちらした。宣伝や報道のすべての機関が政府の手に振られていたので、自由な声が真実を知らせられなかったことを忘れてはならない。
4、『イズヴェスチヤ』第4号に掲載されたモスクワ・ラジオ通信
だまされているクロンシュタットの人びとへ。
無頼漢が君たちをどこへつれていこうとしているのか君たちはわかっているのだろうか。君たちの立っているのは、ここだ。元ツァー将軍の貪欲な牙がすでに社会革命党員やメンシェヴィキの背後から姿を見せている場所なのだ。ペトリチェンコやトーキンのような人びとはみな、ツァーの将軍コズロフスキーやボークサー艦長やコストロミティノフやチルマノフスキーや、その他のあきらかな白色反革命主義者たちによってあやつり人形のように踊らされている。彼らは君たちをだましているのだ! 彼らは君たちが民主主義のためにたたかっていると言っていたが、二日もたたないうちに君たちは民主主義のためにたたかっていたのではなくて、実はツァーの将軍のためにたたかっていることに気づいた。君たちの首に縄をかけようとする新たなウィレン*を許そうというのか。
* アドミラル・ウィレンは革命時代のクロンシュタットの指揮官だった。もっとも残忍なツァーの将軍の一人として、一九一七年二月二十八日に水兵によって銃殺された。彼らはペトログラードが君たちについているとか、シベリアとウクライナが君たちを支持しているとか嘘をついている。これらはみな皮肉な嘘にすぎない。ペトログラードの水兵は、君たちのなかにコズロフスキーのようなツァー将軍がいると知って、一人残らず君たちに背を向けた。シベリアとウクライナはしっかりとソヴィエト権力を防衛している。赤い都市ペトログラードは、ひとにぎりの社会革命党員と白色反革命主義者のあわれな偽装を冷笑している。
君たちはすっかり包囲されている。もう二、三時間したら、君たちは降参しなければならないだろう。クロンシュタットにはパンも燃料もない。もしこれ以上、抵抗するなら、雉のように打ち殺すだろう。当然、これらの将軍―コズロフスキーやボークサー―やペトリチェンコやトーキンのようなあわれなやつらは、最後の瞬間になってフィンランドの白色反革命主義者のところへ逃げるのだ。だがそはかの君たち―たんにだまされているだけの水兵や赤軍兵士たち―はいったいどこへいこうというのか?
もし彼らがフィンランドに君たちをうけいれる用意があると約束しているなら、君たちはまた、彼らにばかにされていることになる。コソスタンチノープルへ逃げていったウランゲリ将軍の兵士たちが飢えと病いでハエのように死んでいったのを君たちは知っているのか、もしいますぐ正気に返らなければ、同じ運命が君たちを待っているだろう。一刻も猶予せずに、即時降参せよ! 武器をすてて、われわれのところへやってこい! 武装解除し、罪ある指導者、とくにツァーの将軍を逮捕せよ! 即刻、降参した者の罪は許すであろう。即刻、降参せよ!
ペトログラード防衛委員会
5、『イズヴェスチヤ』第5号に掲載されたモスクワ・ラジオ通信
……三月二日、労働者防衛会議は次のように命じた。1、コズロフスキー元将軍と彼のパルチザンは違法であること。2、ペトログラードとその近辺に戒厳令を施くこと。3、全地区の至上権はペトログラード委員会にあること……。
ペトログラードは完全に静まりかえっていた。ある労働者が政府にむかって最近非難をあびせたばかりの二、三の工場でさえも、クロンシュタットにおける反乱が反革命主義者の挑発であることをよく理解している。彼らは連合国と反革命の手先が彼らをどこへ連れていこうとしているのか、よく知っている……。
アメリカの新大統領に印象を与えて、彼がロシアに対するアメリカの政策を変更しようとするのを妨げるために誤った噂を拡げ、クロンシュタットの騒動を挑発しようとする試みは、アメリカ共和党が政権をとり、まさにソヴィエト・ロシアと通商関係を結ぼうという意向を示しているときになされた。
ちょうどそのときロンドンで会議が開かれていた。そのような噂が拡がったために、トルコ代表は影響されて、連合国の要求に協力した。「ペトロパヴロフスク」の水兵の反乱は疑いもなく、ソヴィエト・ロシア国内の困難を増大し、国際情勢を混乱におとしいれる策略の一段階である。この計画がメンシェヴィキと社会革命党員の支持を得た、ツァーの将軍と元将校によってロシアで、実行に移されている。
6、『イズヴェスチヤ』三月七日付第5号に掲載されたこれらの糾弾に対する論評
ロスタ・ラジオ通信によれば、すべての人びと―連合国、フランスのスパイ、白色反革命者、ツァーの将軍、メンシェヴィキ、社会革命党員、フィンランドの銀行家―が、われわれと同盟を結ぼうとしている。要するに、全世界が貧しい共産主義者におそいかかっているということである。そして、われわれクロンシュタットの人びとだけが、それについて何も知らないと言っている。
この共産主義者のばかげた文章は、まったく喜劇のようだ。われわれはこのことを知らせて、クロンシュタットの人びとをいっときだけでも楽しませてあげようと思う。
* ひとつの名前がたえまなくすべての文章にでてくる。―その運動のみせかけの指導者であり主人であるコズロフスキー将軍の名前である。たしかにクロンシュタットにはコズロフスキーという名のツァーの元将軍がいた。だが、コズロフスキーを砲撃の妙手としてそこに任命したのは、まさにツァーの元将軍たちを軍事専門家に復帰させた、当のトロツキーであった。ボリシェヴィキはこの人間をやとっている間は、彼の過去には目をつぶっていた。だが、いったんクロンシュタットが反乱を起こすと、他人の罪をになう身代りをつくるために「専門家」の存在を利用したのだ。
実際コズロフスキーはクロンシュタットでの事件に何の役割も果たさなかったし、ボリシェヴィキのあげた彼の「側近」たち―ボークサーとかコストロミティノフとかチルマノフスキー。このうちの一人はただの製図工だった―も同様だった。しかし、ボリシェヴィキは水兵たちを共和国の敵と非難し、水兵たちの運動が反革命であることを示すために、それらの名前を巧みに利用した。ペトログラードやモスクワの工場へ共産党のアジテーターが送られ、「コズロフスキー将軍にひきいられた白色陰謀の巣」であるクロンシュタットに反対し、「クロンシュタットにおける白軍防衛の謀叛に対して、労働者、農民政府を支持し防衛するために結束しよう」と呼びかけた。
コズロフスキーはこの出来事のなかでボリシェヴィキが彼に演じさせた役割を知ったとき、ただ肩をそびやかしただけだった。彼は臨時革命委員会ができるや、じきに要塞のボリシェヴィキ司令官は逃げてしまった、とあとで述べている。ボリシェヴィキの規則によれば、砲兵長―偶然にもコズロフスキー将軍だったが―が司令官に代わることになっていた。だが共産党の権威が革命委員会の権威に代わって、もはや、これらの規則は力がなくなっていたので、コズロフスキーはそのポストを引き受けるのを断わった。そこで革命委員会は、要塞の司令官としてもう一人の専門家であるソロヴィアノフといぅ男を指名した。コズロフスキーは砲撃の技術指導の仕事をわりあてられた。とるにたらない彼の「側近」たちはまったく運動の圏外にいた。
同時に、歴史の皮肉によって、トロツキーの指令の下に、クロンシュタット攻撃にそなえていた部隊の指揮権をもったのは、ツァーの重要な元将校である有名なトハチェフスキー(のちにスターリンの指令で銃殺された)であった。さらにそれまでボリシェヴィキにつくしてきた「専門家」やツァーの番人はみな、クロンシュタットの砲囲と攻撃の計画に参加していた。冷笑的な反対者からひどい中傷をうけたクロンシュタットのほうは、政治的にはどうということもできない、青白い顔をしたコズロフスキーや、その他の三、四人の人間を技術的、軍事的熟練者として、自由に役立てていた。
クロンシュタットの運動は自発的に起こったものだった。もしこの運動が、前もってたくらまれ、準備された陰謀の結果だとしたら、もっとも都合の悪い三月のはじめに起こるはずがなかった。二、三週間待てば、クロンシュタットの氷も解けてクロンシュタットはほとんど難攻不落の要塞となり、強力な戦艦を自由に駆使して、ペトログラードへ恐しい脅威を与えることができただろう。もし外国から援助を受けているとしたら、クロンシュタットはもっと長いこと持ちこたえることができたばかりでなく、勝利することさえできたかもしれなかった。運動が自然発生的に起こったものであり、水兵の行動があらかじめもくろんだり、予測したものではなかったことが、ボリシェヴィキにとってたしかにもっとも好都合なことであった。
クロンシュタットにはどんな「謀叛」もなかった。与えられた状況のなかで、正しく、自然に、そして急速に全市と守備隊と戦艦をおしつつんでいった一つの自発的平和的な運動があっただけである。彼らの勢力や形勢や特権におどろいたボリシェヴィキは、わざと挑発して武力闘争を認めざるを得ない羽目におちいらせた。
ボリシェヴィキのたくみなあてこすりや、中傷に対してクロンシュタットは当然最善の努力をつくした。機関紙や放送を通じて、臨時革命委員会は、全ロシア、全世界の労働者大衆にむかって、彼らの運動の正しい目的と熱望を知らせると同時に、共産党政府の虚偽を論破した。
三月六日の『イズヴェスチヤ』第4号は次のような革命委員会のラジオ・アピールを掲載した。
「すべての諸君! すべての諸君! すべての諸君!同志諸君、労働者諸君、赤軍兵士と水兵諸君!
ここ、クロンシュタットにおいて、われわれは、共産党独裁のくびきの下で、君たち―君たちと妻たちと飢えた子供たち―がどのようにして苦しみに耐えているのか、よく承知している。
われわれは共産党・ソヴィエトを打倒した。二、三日のうちに、臨時革命委員会は新しいソヴィエトの自由選挙を行ない、気狂いじみたひとにぎりの共産主義者の意志ではなく、すべての労働者と兵士の意志を正しく反映しようとしている。
われわれの主張は正しい。われわれはソヴィエトの権力の味方であって、党の権力の味方ではない。われわれは労働者大衆の代表の自由選挙に賛成する。共産党に独占され、操縦されていたニセのソヴィエトは、われわれの必需品や要求に、いつも耳をふさいでいた。われわれが受けとった返答は殺し屋の大砲だけだった。
いまや、君たちの苦しみ、労働者の苦しみを終わらせ、彼らは、パン切れで君たちの口をふさいでしまおうと考えている。ジノヴィエフの命令で、ペトログラード地方の関門が撤廃され、モスクワでは必要な食糧や品物を買わせるために一千万金ルーブルを広く割り当てた。しかし、われわれは、ペトログラードのプロレタリアートがパン切れで買収されはしないことをよく知っている。革命的クロンシュタットは共産党の頭上に手を伸ばし、君たちに友好的援助を申し出る。
同志諸君、彼らは君たちをだまそうとするだけではなく、あつかましくも真実をゆがめ、卑しいでっちあげさえ辞さない。同志諸君はだまされるままになってはならない。クロンシュタットは、権力は完全に革命的水兵、兵士、労働者の手にあり、嘘言をならべて諸君を信じさせようとしているモスクワ放送の言うように『コズロフスキーにあやつられた反革命』の手にありはしない。
ひるむな同志諸君! われわれはひとつになれ! われわれと団結を確立しよう! 政党に属さない君たちの代表がクロンシュタットへ来ることを許可するよう要求しよう。彼らだけが君たちに真実を語り、『フィンランドのパン』とか連合国の落とし穴だとかいう臆面もない中傷の仮面をはがすことができるからだ。
都市の、地方の、革命的プロレタリアートよ永遠(とわ)にあれ! 自由選挙のソヴィエト権力よ永遠にあれ!」
三月十二日の『イズヴェスチヤ』第10号に、委員会は次のようなツァー将軍に支配されているクロンシュタットの物語への特別な反論を載せた。
「共産党は白軍の将軍や将校や僧侶が臨時革命委員会のメンバーのなかにいるとほのめかしている。こうした嘘言に終止符を打つためにこれ以上は言わないが、今回かぎり委員会が次のような十五人からなっていることに彼らの注意を喚起しよう。1、ペトリチェンコ、戦艦ペトロパヴロフスクの一級士官。2、ヤコヴェンコ、クロンシュタット局の電話交換手。3、オスソソノフ、戦艦セバストポリの機関兵。4、アルヒポフ、機関操縦将校。5、ペレペルキン、戦艦セバストポリの機関兵。6、バトルチェフ、戦艦ペトロパヴロフスクの機関操縦将校。7、クーポロフ、一級看護兵。8、ヴェルヒーニン、戦艦セバストポリの水兵。9、トーキン、電気工。10、ロマネンコ、船体修理所守衛。11、オレーシン、第三技術学校職員。12、ヴァルク、大工。13、パブロフ、海軍水雷工場労働者。14、バイコフ、荷馬車夫。15、キルガスト、舵手。」
三月十四日付第12号に、同じリストをもう一度掲載し、「このような人びとがわれわれのブルシーロフやカーメネフ*である。トロツキー警官とジノヴィエフ警官は君たちに真実をかくしている」という皮肉な文で結んでいる。
* ボリシェヴィキの将軍であるブルシーロフとカーメネフたちはもとツァーの将軍だった。
中傷のキャンペーンのなかで、ボリシェヴィキは運動の精神や目的を歪曲しただけにとどまらず、クロンシュタットの人びとの行動までゆがめて報道した。クロンシュタットの共産党員は「暴徒」の手であらゆる暴行を受けているという噂をひろめた。クロンシュタットは、くりかえして、このことに関する真実のありさまを報じた。たとえば『イズヴェスチヤ』第2号には次のような記事がある。
「臨時革命委員会は、逮捕された共産党員が乱暴をうけているという噂は嘘であると断言する。逮捕された共産党員はみな安全である。
それどころか、逮捕された幾人かの共産党員のなかには釈放された者もいる。共産党からの代表が逮捕の理由を調査する委員会のメンバーとなるであろう。共産党員の同志、イリンとカバノフとベルヴーヒンが革命委員会に申し込んできたので『ペトロパヴロフスク』に監禁されている囚人を訪問する許可がおりている。これらの同志たちは右のことを確認し、サインしている。
イリン、カバノフ、ベルヴーヒン
清書人・革命委員会委員 N・アルヒポフ
書記 P・ボグダーノフ」
『イズヴェスチヤ』の同号は、右の共産党員のサインの前に「共産党クロンシュタット細胞臨時会議のアピール」を載せた。理由は了解できるが、この共産党員にあてた「アピール」の言葉使いは用心深く漠然としていた。しかし、それにもかかわらず、アピールは次のような重要な文を含んでいる。
「責任ある地位の共産党員が射撃されたとか、共産党員が武器をもって、クロンシュタットで謀坂をおこそうとしているとかいう誤った噂を絶対に信じてはならない。これらの噂は、流血の惨事をひきおこそうというもくろみから宣伝された嘘言である。共産党の臨時会議はソヴィエトの新選挙の必要を認め、もとのポストにとどまって、臨時革命委員会のとる方策に反対しないよう、党員に要請する。
共産党クロンシュタット細胞臨時会議
J・イリン、A・カバノフ、F・ベルヴーヒン」
7、「彼らのウソ」と題する『イズヴェスチヤ』三月九日付第7号の記事より
クロンシュタットに対して行動をとっている軍隊の指揮官は『赤い指揮官』の筆者に対し次のように報道してきた。
「われわれは、クロンシュタットの人びとがほとんどなんの食糧も受けていないと知った。クロンシュタット守備隊の狙撃連隊は反乱者に加わるのを拒否し、彼らを武装解除しようとする試みに抵抗した。反乱の主要な指導はすぐにフィンランドへ逃亡する用意をしている。クロンシュタットから逃れてきた政党に属さない水兵は、三月四日のクロンシュタットにおける大会の議長はコズロフスキー将軍だったと述べている。彼の話ではコズロフスキーは、ソヴィエトのパルチザンに反対する強力な権力と決定的行動を要求したという。
クロンシュタットでは士気は低下している。人びとは意気消沈している。人びとはひたすら反乱の終わるのを待っており、白色反革命指導者が、ソヴィエト政府と交代するよう祈っている。」
これは共産党員が事件について語っていることである。労働者の目でわれわれの運動を汚すために彼らはこのような手段に頼るのである。
8、『イズヴェスチヤ』三月十四日付第12号の記事より
三月十一日付のペトログラードの『プラウダ』の記事をそのまま掲載しょう。
「クロンシュタットでの武装闘争。現在オラニエンバウムにいる軍隊の指揮官、トハチェフスキー同志から次のような報告が昨日午後八時、防衛委員会へ送られてきた。クロンシュタットでははげしい砲撃の音がつづいている―ライフル銃と機関銃の音が。草原から、軍隊がコンスタンチ要塞の北東にある鉄鉱所の近くで戦列をみだして攻撃しているのが見えた。攻撃目標はコンスタンチ要塞と白色反革命主義者に対してたたかおうとしている分遣隊であり、目標は鉄鉱所の付近に定められていた。
クロンシュタットにおける火災。われわれがN要塞をとったちょうどそのとき、クロンシュタットに大きな火事が起こっているのが見えた。濃い煙が雲のようにクロンシュタット市をつつんでいた。
ふたたび煽動者と指導者について。三月七日の夜にクロンシュタットを去った一人の避難民は、白軍将校の精神と態度について次のように述べている。彼らはたいへん快活であった。彼らは自分たちが挑発して流した血に対して少しもかえりみようとしない。彼らはペトログラードをとったときに味わうであろう喜びにうつつをぬかしている。『ひとたびペトログラードが手にはいったら、一人に少くとも半プードの金(きん)はもらえるだろう。もし、敗れたとしても、腕を拡げて受け入れてくれるフィンランドに逃げれば助かることができる』。これがこの紳士たちの言っていることだ。彼らは自分たちが現情勢を左右できる主人公だと思っている。そして実際彼らはそうしているのである。水兵に対する彼らの態度は旧ツァーの時代の態度とすこしもかわりはない。『こうした人たちが、実際の指導者であって、決して共産主義者ではない』とその水兵たちは言っている。彼らはただ金の肩彰をつけていないだけである。
われわれは、白軍将校に、フィンランドへ逃げることをあまり期待しすぎてはいけないこと、金を受けとるかわりにすばらしい鉛の分け前を受けるだろうことをよく思い知らせてやろう。」
ここに述べたことにつけくわえて、『レッド・ジャーナル』紙は、「レヴァルからきた二人の水兵は、クロンシュタットで百五十人のボリシェヴィキが殺されたと語っている」と言っている。これは、いかに歴史がつくられたものであるかということをあらわしている。また、これはいかに共産党員が嘘と中傷によって、国民から真実を隠蔽しようとしているかということをあらわしている。
われわれは、『レッド・ジャーナル』からつぎのような文を載せておこう。
「三月十一日、オラニエンバウム発。クロンシュタットでは水兵たちが暴徒に対して反乱を起こしたことが確認された。」
「三月十二日、オラニエンバウム発。昨日クロンシュタットからフィンランド海岸へ氷を渡っていく人びとが長蛇の列をつくっていた。これは、クロンシュタットとフィンランドとの結合を如実に示すことである。」
「三月十二日、オラニエンバウム発。昨日クロンシュタットの上空を飛んだ赤軍パイロットの報告によれば、町にはほとんど人影はみえなかった。番兵も監視人もいなかった。もはやフィンランドとの接触も見られなかった。」
「三月十一日、オラニエンバウム発。クロンシュタットからの避難民は、水兵の士気が非常に低下していると報告している。暴動の指揮者は、水兵にまったく信用を失っている。そのために水兵たちは、もはや砲兵隊にはいることを許されていない。水兵は、砲兵隊からほとんど除隊されている。
クロンシュタットからの砲撃。今日はいった情報によれば、はげしい砲撃がクロンシュタットで展開されたという。ライフル銃と機関銃の音がきこえた。反乱は敗れた模様である。」
クロンシュタットの人びとを過激だとか、乱暴だとか平気で非難しながら、ボリシェヴィキ自身はまったく破廉恥なやり方でふるまった。
三月五日の『イズヴェスチヤ』第3号にこんな記事が載っている。
「三日前にクロンシュタットはかつて四年ほど前にツァーとその将軍たちの手からのがれたように、共産党の巨大な権力からのがれた。三日前にクロンシュタットの市民は党の独裁から解放されて、いまは自由に息づいている。
クロンシュタットの共産党指導者は、恥知らずにも盗みをはたらいた子供のように逃げ出した。彼らはすっかりおびえきってしまっていた。彼らは臨時革命委員会がチェカのやり方を踏襲して彼らを死刑にするのではないかと考えたのだ。ばかばかしい恐がり様だ! 臨時革命要員会は決して復讐しない。だれのこともおびやかしはしない。
クロンシュタットの共産党員は自由だ。彼らをおびやかすような危険はない。逃げようとしてわれわれの巡視隊につかまった者だけが逮捕されたのだ。だが、この人たちでさえも『赤色テロ』にかけようとするかもしれない人びとの復讐から安全に守られている。共産党員の家族はほかの全市民と同様に、どんな攻撃からも安全に守られている。この党について共産党の態度はどうだろうか。昨日、飛行機からまかれたビラによると、クロンシュタット事件に無関係の人びとがたくさんペトログラードで逮捕されているということである。さらに悪いことに彼らの家族まで投獄されているという。
ビラは言っている。『これらすべての囚人は、クロンシュタットの反徒に逮捕された同志たち、とくにバルチック艦隊の人民委員クズミンやクロンシュタット・ソヴィエト議長のヴァシーリエフなどの代わりに人質として捕えたのだと防衛委員会は述べている。逮捕された同志たちが、かすり傷ひとつでも負おうものなら、この人質の命はないだろう。』
こんなふうに彼らの声明は終わっている。それは不能者の狂乱だ。
罪のない家族を苦しめることは、共産党同志の名声に少しも栄誉とはならない。どのような場合であっても、そのようなやり方ではクロンシュタットの水兵や赤軍兵士や労働者に奪われた権力をとりかえすことはできないだろう。」
三月七日の『イズヴェスチヤ』第5号で、クロンシュタットは次のような電文で共産党の声明に答えた。
「クロンシュタット守備隊の名において、臨時革命委員会はペトログラード・ソヴィエトに人質として逮捕された労働者、水兵、赤軍兵士の家族を二十四時間以内に釈放するよう要求する。
クロンシュタット守備隊は、クロンシュタットにおける共産党員が安全に自由な状態でいること、またその家族は少しの危険もなく安全でいることを言明する。
ペトログラードのようなことはここでは起こらないだろう。なぜなら、絶望的な憤りに挑発されても、人質を捕えるようなやり方は、もっとも卑劣であると考えるからだ。歴史上、もっとも恥ずべきことだ。
臨時革命委員会議長 ペトリチェンコ
同書記 キルガスト」
ペトログラードでは防衛委員会が残虐をきわめた。ペトログラードは、地方から連れてこられた軍隊ではんらんしており、包囲状態の下に、恐怖が支配していた。委員会は都市を「掃討」するために組織的手段をとった。
クロンシュタットのシンパの疑いをもたれた多くの労働者、兵士、水兵が投獄されていた。「政治的に疑わしい」とみられたペトログラード水兵や陸軍の連隊は、遠い地方へ送られた。
ジノヴィエフ議長の命令で、委員会はペトログラードとその周辺の厳重な統制を主張していた。北部地方全体に戒厳令がしかれ、すべての集会が禁止された。政府の組織を守るために異常な警戒がなされ、ジノヴィエフその他の高級ボリシェヴィキ幹部が占領しているアストリア・ホテルには機関銃がすえられた。
市内中が神経をとがらせていた。新しいストライキが勃発し、モスクワの労働者の決起や東部とシベリアの農民反乱などについての噂が絶え間なく拡がった。印刷物に信頼を置くことができなくなった人びとは、それがまったく嘘であってもむさぼるようにでたらめな噂話に耳を傾けた。
しばらくすると、罷業者は仕事に戻り、仕事の停止と街頭集会とを禁じるむねのビラがはられた。「集会を開いた場合には、軍隊は武力に訴えるであろう。さらに抵抗する場合には、命令により、その場で発砲するであろう」と書かれてあった。
ペトログラードには行動する力がなかった。もっとも不名誉な恐怖に服従させられ、沈黙を余儀なくされた首都は、すべての希望をクロンシュタットにかけた。
〔小目次〕
3、『イズヴェスチヤ』三月三日付第1号から三月十四日付最後の第14号まで
4、『イズヴェスチヤ』三月四日付第2号、クロンシュタット市の人びとへ
8、『イズヴェスチヤ』三月十一日付第9号、労働者と農民へのアピール
9、『イズヴェスチヤ』三月十四日付第12号、狼どもといっしょに吠えねばならない!
10、『イズヴェスチヤ』三月十六日付最後の第14号、いわゆる社会主義について
運動の第一日日から、クロンシュタットは内部の組織化にとりかかった。それは広範な急を要する仕事であった。というのはたくさんの問題が一度に処理されなければならなかったからである。
はじめ、「ペトロパヴロフスク」に設けられていた臨時革命委員会は、まもなくクロンシュタット市の中央にある「人民の家」に移った。『イズヴェスチヤ』の言葉を借りれば「人民とより親しく結合するために」であった。さらに、はじめは五人だったメンバーが、すべての必要な仕事を処理するのに足りないと考えられたので、十五人にふやされた。
三月四日の会議で行なわれた、拡大された後の委員会の初の活動を『イズヴェスチヤ』は次のように報告している。
「会議はその日の議事をすすめた。都市と軍隊は適当な食糧と燃料の配給を受けたということが発表された。
次に労働者武装化の問題がとりあげられた。水兵と兵士は、戦闘部隊をつとめることを望んだので、特別な場合を除いて、全労働者が武装し、市内の守備につかねばならない、と決定した。この決定は熱狂的な賛成を得てきまった。
次には、三週間以内にすべての組合と組合会議の執行委員を再選挙することが、決定された。後者は労働者の主要な組織となって、臨時革命委員会と恒久的な接触をつづけていこうとしている。
このあと、ペトログラード、ペテルホフ、オラニエンバウムから非常な危険をおかしてのがれてくることのできた水兵が、そこの情勢を報告した。そのあたり一帯の人びとも労働者も、共産党によって、クロンシュタットで何が起こっているのか少しもわからない状態におかれている、と彼らは述べた。白軍と将軍がクロンシュタットで活動しているという噂がいたるところに拡がっていた。この話を聞いてみな笑った。」
しかし、この時期につくられた革命委員会とその他のいろいろの組織だけが活動のただひとつの方向ではなかった。すべての人びとが非常に活発になり、再建設の仕事に新たなエネルギーをもって参加したのである。革命への熱狂は「十月」のころと変わらなかった。共産党が革命をひきついで以来、クロンシュタットははじめて自由になった。共通の進路に向かって、共通の努力をすることによって、新たな連帯と友愛の精神が、水兵、守備隊の兵士、労働者その他の人びとすべてを再び結合させた。共産党員でさえ、都市全体の友愛に感染してクロンシュタット・ソヴィエト選挙に参加した。
大衆がいったん解放への真の道と真の革命を達成する希望を、自由なソヴィエトのなかで再び得たと感じるや否や、全般的な熱狂状態が再来した。『イズヴェスチヤ』はこの様子をたくさんの例をあげて描いている。新聞は市民やいろいろなグループや組織からのさまざまな通知や決定やアピールでいっぱいだった。その内容は、熱狂的な歓喜や連帯感や献身の気持や有効的に活動し、共同の仕事に参加する希望などで満ちあふれていた。「すべての者に平等な権利を。何者にも特権はない」という原則が確立され、少しも逸脱せずに行なわれた。食糧の配給は平等になった。ボリシェヴィキのもとでは、ほかの人より多くの配給をうけていた水兵が、労働者や市民より多くのものを受けとらないことに決定した。病人と子供だけが特別の配給を受けた。
全般的な興奮状態が共産党員にまで影響を与えたということは先に述べたが、実際それは多くの党員の意見を変えさせた。『イズヴェスチヤ』には、中央政府の態度を非難し、臨時革命委員会の行動方針と実施方法を支持するクロンシュタット共産党のグループや組織からのたくさんの声明が掲載されている。しかしそれよりもっと有力にそのことを示すものは、市内における共産党員の態度にみられる変化であった。クロンシュタット共産党員の非常に多くが脱党を発表した。『イズヴェスチヤ』のいくつかの号に死刑執行人トロツキーと同じ党にとどまることは良心が許さないという数百人の共産党員の名が発表された。党からの脱退はそのうちあまり多くなってしまい、スペースがないのでいちいち発表することはあきらめねばならなかった。しかしスペースのゆるすかぎり、グループごとにまとめて載せることにした。脱党はほとんど全般的風潮となった。
たくさんの手紙のなかから、手当たりしだいにとりだしたいくつかの手紙は、この急速な重大な変化をよくあらわしている。
〔手紙1〕、共産党の政策は、わが国を出口のない袋小路に追いやったことを私は知った。党は官僚的になった。党は何を学びもしなければ、学ぼうともしない。党は大衆の声に耳を傾けることを拒み、一方的に意志をおしつけようとする。(一億一千五百万の農民のことを考えろ!)言論の自由と改正された選挙法の助けを得て、大衆が国家再建に参加することだけが、人民を無気力から回復させる途だということを党は理解しないだろう。
それゆえに私は自分を共産党の一員とすることを拒否する。私は三月一日に行なわれた全人民の大会で決定された決議に全面的に賛成する。だから私は、私のすべての能力とエネルギーを臨時革命委員会の手にゆだねる。私はこの宣言が新聞に公表されることを要求する。
赤軍将校、第百九十三号公判の流刑人の息子
ヘルマン・カネイエフ
(『イズヴェスチヤ』三月五日付第3号)
〔手紙2〕、共産党隊伍の同志諸君! 周囲をみまわせば、われわれが早くもおそろしい沼沢地にはまり込んでいることに気づくであろう。共産主義の仮面をかぶってわれわれの共和国のもっともあたたかい巣を占領したひとにぎりの「共産党」官僚のためにそこへ導かれたのだ。
共産党員として、私は兄弟殺しへ君たちを追いやっている誤った「共産主義者」から離れるよう君たちにお願いする。彼らのおかげで何も責任のないわれわれその他の平(ひら)の共産党員が、党に属していない労働者や農民の同志たちの非難を甘んじて受けねばならない。
私はこの革命的高揚状態に驚いている。われわれ兄弟の血を「共産党」の官僚の利益のために流すことができるだろうか。同志諸君、正気を取り戻してくれ! 君たちをそそのかして屠殺場へ押し込もうとするこれらの官僚に使われるままになるな。彼らを追い出せ。真の共産党員は思想を強いるべきではなく、労働者大衆と同じ立場ですべての労働者とともに進むべきなのである。
ロシア共産党員(ボリシェヴィキ) ロカリ
(『イズヴェスチヤ』三月六日付第4号)
〔手紙3〕、ペトログラードへ代表を送るというクロンシュタット同志の提案に応えて、トロツキーと共産党幹部が砲弾を送って血を流したのをみて、私はもはや自分が共産党であるとは考えないようになった。共産党の演説は、かつて私の頭を変えたが、共産党官僚の行動はそれを再びもとに戻してしまった。
私は共産党官僚に彼らが真実の素顔をみせてくれたこと、このように私の誤りを私にわからせてくれたことに対して感謝する。私は彼らの手ににぎられた盲目の道具であった。
元共産党員、第五三七五七五番 アンドレ・プラタチェフ
(『イズヴェスチヤ』三月九日付第7号)
〔手紙4〕、現在のおそろしい情勢は、党の上部にがっちりと居すわっているひと握りの恥知らずな共産党員の行動の結果であることを考え、私が圧力によって一党員として入党したことを思うと、私は彼らの活動の結果がどうなるだろうと考えて恐しくなる。労働者と農民だけがこの荒廃した国を救うことができるのに、権力を握った共産党は完全に彼らをあざむいている。以上の理由によって私は党を去って自分の力を労働者大衆の防衛のために捧げようとする。
第五大隊第四師団指揮官 L・コロレフ
(『イズヴェスチヤ』三月九日付第7号)
〔手紙5〕、同志および工業、陸軍、海軍学校の愛する生徒たちよ! 私は三十年間もの間、この人たちに深い愛をもって生きてきた。私は学ぼうとする人に、自分の能力のかぎりをつくして光と知識を与えてきた。革命は私に新たな燃えるような感激を与えたのであった。私の活動は増加した。私はかつてよりもっといっしょうけんめいに私の理想に献身した。共産党の「あらゆるものを人民のために」というスローガンの高貴な美しさのために私はすっかり鼓舞された。そして一九二〇年二月に私は共産党の党員証を得た。だがクロンシュタットに七千人もいる平和な人びとや、私の可愛い子供たちに向かって最初の銃口が火をふいたとき、私はこれらの無実の血を流した共犯者であるかもしれないと考えておそろしさにふるえた。私はもはや犯罪行為によって汚された思想を信じたり宣伝したりすることはできないとさとった。そこで最初の銃口が火をふいたときから、私は自分を共産党員であると考えることをやめた。
教師 マリア・ニコラエヴナ・チャテル
(『イズヴェスチヤ』三月十日付第8号)
〔手紙6〕、ペトログラードへ代表を送ろうというクロンシュタット同志の提案に応えて、トロツキーが爆弾を積んだ飛行機を送って罪のない女や子供の上にそれを投下したとき以来、またさらにいたるところ正直な労働者を撃ち殺して以来、われわれ第三区の電気機関車乗務員の共産党の平党員は、トロツキーと彼の手先の行動と彼らの野蛮な動物のようなふるまいに深く憤りを感じながら、共産党を脱党し、労働者の解放のためにたたかうすべての正直な労働者に加担しようとするものである。われわれを脱党したものと考えていただきたい。
(このあとに十七人の署名)
(『イズヴェスチヤ』三月十日付第8号)
〔手紙7〕、三年間、私は小学校やまた陸海軍部隊の教師としてクロンシュタットで働いてきた。私は教育の分野における私の全力を労働者に与えながら、自由クロンシュタットの労働者といつもともに歩んできた。共産主義者の公言する文化に対する偉大な熱情とか、侵略者に対する労働者の階級闘争とか、ソヴィエト建設の見通しとかが私を共産党へと魅了した。一九二〇年二月一日に私は党員に志願した。志願して以来、私は党のヒエラルキーの内にたくさんの深刻な過ちをみてきた。これらの過ちは共産主義の美しい思想を汚しているという結論に達した。なかでも、大衆に非常に悪い印象を与えた深刻な過ちは、官僚制度、党と大衆の間の断絶、大衆に対する党の独裁的なやり方、多くの出世主義者……。すべてこれらの過ちは、大衆と党の間の底なしの深淵を拡げ、大衆を、国内の腐敗堕落に対する闘争にまったく無力な一機関に変えてしまうのである。
現在起こっていることは、現制度のもっとも恐るべき害悪を暴露している。数千人の住民をもつクロンシュタット市の人びとが、「労働者の利益を防衛する者」に対してまったく正しい要求を提出したとき、共産党の官僚化したヒエラルキーはこれをはねつけ、クロンシュタット労働者との自由な友好的な同意に達するかわりに、革命的都市の労働者と水兵と赤軍兵士に対して、兄弟殺しの砲撃を開始した。そして無防備の女や子供たちの上に飛行機から爆弾を落とすことによって―これは溺れるものの最後のワラであったが―共産党の冠に月桂樹をかざった。
共産党員の残虐行為に責任を分かちたいとは思わないし、流血と大衆の極端な苦難の原因である彼らのヒエラルキーの戦術に絶望して、私は自分がもはや共産党員であるとは考えないむね公けに声明する。そして「すべての権力を党ではなく、ソヴィエトヘ」というクロンシュタット労働者のスローガンを全面的に認める。
第二小学校教師 T・デニソフ
(『イズヴェスチヤ』三月十二日付第10号)
〔手紙8〕、大衆の信頼を失った共産党は、暴力と流血なしには、クロンシュタットを革命的労働者の手に渡すほかはない。それにもかかわらず中央政府は、クロンシュタットを包囲した。中央政府は偽りの声明やラジオのメッセージを宣伝し、クロンシュタット権力に飢えと寒さと大逆罪をおしつけた。
われわれはそのような戦術こそ、社会革命の根本原則である「すべての権力を労働者へ」に対する大逆罪であると考える。この大逆罪をおかすことによって、権力をとった共産党員は労働者の敵側へとまわった。われわれにとっては、あくまでわれわれの位置を動かずに、労働者大衆の権力に暴力と大逆と挑発をおしつけようとしているすべての人びとに対して容赦なしに戦う以外に道はない。それゆえ、われわれは党とすべての関係をたちきる。
元共産党員ミラドヴィチ
同 ベズソノフ
同 マルコフ
(『イズヴェスチヤ』三月十二日付第10号)
〔手紙9〕、彼の同志である労働者の血で手を汚すことに対して少しの躊躇もしなかった偉大な君主トロツキーの行動に反対して、私は脱党し、私の宣言を公表することを私の道徳的義務であると考える。
建設労働組合議長 党員候補 X・グラベデフ
(『イズヴェスチヤ』三月十二日付第10号)
〔手紙10〕、三月十四日、はじめ牢獄にいれられ、あとから馬術学校に拘留されたクルサンティ(幹部候補生)と将校と赤軍兵士二百四十人の総会は次のことを決定した。
「三月八日にわれわれモスクワとペトログラードのクルサンティと将校と赤軍兵士はクロンシュタットの都市を攻撃するよう命令をうけた。われわれは白色反革命者が反乱を起こしたときいていた。われわれが武器を使わずに、クロンシュタットの郊外に近づき、水兵と労働者の前衛部隊と接触したとき、われわれは、クロンシュタットには白軍の反乱などはなく、逆に、水兵と労働者が、人民委員の絶対権をくつがえしたのだということを知った。まもなくわれわれは自発的にクロンシュタットの側に移っていった。そして現在われわれは、われわれを戦闘部隊にしてくれるよう、革命委員会に要求する。なぜならわれわれは労働者と農民、クロンシュタットと全ロシアの真の防衛者の側に立っていたいと考えるからだ。
われわれは、臨時革命委員会が全労働者の解放のための正しい方針をとってきたと考え、また『すべての権力を党ではなく、ソヴィエトヘ』という思想だけが、すでに調子よくはじめられてきている仕事を完遂することができると考える。」
(『イズヴェスチヤ』三月十六日付第14号)
〔手紙11〕、クラスノアルメイツ要塞からきたわれわれ赤軍兵士は、革命委員会の肉体であり精神である。われわれは最後まで委員会と労働者と農民を防衛するであろう。飛行機からまかれた共産党の声明などだれも信じることはできない。われわれはここでは将軍も主人も持たない。クロンシュタットはいつも労働者と農民の都市であったし、今後もずっとそうであろう。
共産党員は、われわれがスパイによって誤った方向に導かれていると言っている。これはまったくの嘘だ。われわれはいつも革命によって勝ち取った自由を防衛してきたし今後も防衛しつづけるであろう。もしこのことを確認したいと思う者がいたら、われわれのところへ代表を送りたまえ。将軍たちは共産主義者のために貢献している。
国の運命があやぶまれている現時点において、権力をわれわれの手に入れ、至上命令権を革命委員会に与えたわれわれは、守備隊とすべての労働者に向かって、労働者の自由のために死ぬ覚悟でいることを宣言する。共産党のくびきと過去数年間のテロルから脱したわれわれは、たった一歩でも後退するくらいなら死んだほうがましだと考えている。
クラスノアルメイツ要塞分遣隊
(『イズヴェスチヤ』三月七日付第5号)
『The
Truth about Kronstadt』 『Kronstadt
Uprising』
3、『イズヴェスチヤ』三月三日付第1号から三月十四日付最後の第14号まで
自由なロシアへの情熱的な愛と「真のソヴィエト」への限りない信念はクロンシュタットをはげました。ここにいたってクロンシュタットの人びとは、まず最初にペトログラードから支持され、つぎには全ロシアから支持され、こうして国全体の解放をやりとげることができるだろうと望んでいた。次の宣言は彼らの態度をよくあらわしている。
「同志諸君、クロンシュタット全市の水兵、労働者そして赤軍兵士諸君!
われわれトルレペン要塞の守備隊は、にくむべき共産党の圧制に対するわれわれのかがやかしいたたかいの苦々しくも悲劇的なこの時点において、あなたがたに友情のあいさつを送る。暴力と欺瞞の憎むべき奴隷状態へ再びしばりつけられたわれわれの悩める兄弟たち、全ロシアの農民と労働者を解放するために、われわれは全員が一人の人間であるかのように団結して死ぬ覚悟でいる。われわれはまもなく要塞をとりまく敵の戦陣を粉々にうち砕き、国じゅうに真実と真の自由をゆきわたらせることができよう。」
クロンシュタット『イズヴェスチヤ』の最後の号である一九二一年三月十六日付第14号に、この記事は載ったものである。敵はクロンシュタットのすぐ近くにいた。軍隊と警察力の大量動員におびやかされているペトログラードとその他の地方は、あきらかにその悪徳行為をうちやぶるほどの力を持ってはいなかった。
政府に対し盲目的に献身するクルサンティの大軍に攻撃されている要塞を防衛するひとつかみはどの人びとにとって、望みはほとんどなかった。しかし、彼らの偉大な理想と、彼らの純粋な動機と、解放が切迫しているとの信念にささえられて、クロンシュタットの人びとはつりあいのとれない戦闘に期待して戦いつづけた。
彼らは武力闘争を望んではいなかった。彼らは平和的友好的な手段によって、ソヴィエトの自由選挙によって、共産党員と理解しあうことによって、労働者大衆の間での説得と自由な活動によって衝突を解決しようとしていた。それなのにやむなく、兄弟殺しの戦いをしなければならなくなったのだ。しかし事実が示しているように、彼らは正しい高貴な大目的のために戦う決意をさらに堅くした。
彼らの態度の重要な点は、彼らの行動に対するほかからの援助の問題について、彼らがどう考えたかということである。有名なものとしては右派社会革命党員からのものがあるが、その他いろいろな諸党派から援助の申し出をうけた。しかし彼らはそのような方面からの援助をすべて拒絶した。左派のグループについては、自由と真心をもって献身的に友好的に申し込まれたとき、またそれがなんの政治的関係も持っていないときにだけ、その援助を受け入れた。彼らは友人の協力は歓迎したが、どのような圧力も「指図」も認めなかった*。
* 臨時革命委員会からペトログラードに送られた代表の一人は当地で親しく知られている二人のアナキストをその目的でクロンシュタットへ連れてきた。その二人はヤルチュク(有名な作家)と私自身である。臨時革命委員会は私たちに彼らの仕事を手伝うよう望んだ。われわれ二人ともボリシェヴィキによって投獄されていたことをクロンシュタットでは知っていなかった。ささいなことではあるが、この事実はクロンシュタットの独立性と革命性を証明するもうひとつのものである。反革命運動であったら、決してアナキストと合作しようとするはずがない。さらに臨時革命委員会の委員長ペトリチェンコは彼自身アナキストのシンパであった。
臨時革命委員会の『イズヴェスチヤ』第1号から第14号までは三月三日から十六日までの反乱の間、発行された。クロンシュタットと全ロシアのために、新しい、ほんとうに自由な生活をもたらそうとする反徒たちの気高い炎のような熱望や、彼らのせざるを得なかった戦いにおいて「最後の一滴の血を」流して自分たち自身を守ろうという崇高な献身とかたい決意、これらすべてに流れる本質的な特徴は、それらの紙面に忠実に反映されている。第1号から第14号までの新聞は、彼らの立場を説明したり、彼らの目的をはっきりさせたり、目をふさがれ誤った方向へ導かれた人びとを目ざめさせたり、すでにみたように、共産党の中傷や敵対行動に応えたりした。
われわれは、現在ほとんど知られていないこれらの歴史的なページを通ってきた。一九一七年のロシア革命の行方を見失わせ、外国にきたるべき革命を前もっておびやかした根本的な誤り―すなわち、政党の庇護のもとでの活動、政治勢力の再建、新しい政府の就任、「プロレタリアの独裁」「プロレタリア政府」「労働者・農民国家」などのような真の内容のない新しいスローガンのもとでの中央集権国家の編成等々―から自分たちをしっかり守るために、全国の労働者がこの『イズヴェスチヤ』を何回もくりかえして読む必要がある。この一連の新聞はまるでクロンシュタット自身の叙事詩のように、ほんとうに労働者・農民に属するものは政府的なものでも国家的なものでもありえないこと、また政府的なものと国家的なものは決して労働者・農民に属するものとはなりえないことを明確に示している。
4、『イズヴェスチヤ』三月四日付第2号、クロンシュタット市の人びとへ
市民諸君、クロンシュタットは自由のためにはげしい戦いを始めている。クロンシュタットを奪回し、われわれに飢えと寒さと経済的破綻をもたらした彼らの権力を押しっけるための共産主義者の攻撃に対して、われわれはいつなんどきでも待機している。
われわれはすべて最後の一人まで力と決意をもって勝ち取った自由を防衛するであろう。われわれはクロンシュタットを服従させようとする計画に抵抗する。もし共産党が武力によって行なおうとするなら、われわれはそれにひきあうだけの抵抗で応えよう。
臨時委員会は、人びとに、発砲の音をきいても取り乱されないようにと呼びかけている。冷静と落ち着きがわれわれに勝利をもたらすであろう。
臨時革命委員会
『イズヴェスチヤ』三月五日付第3号
クロンシュタットでは完全な秩序が保たれている。すべての機関が平常どおり動いている。街には人があふれている。この三日間、一発の弾も撃たれていない。
クロンシュタットの水兵と労働者の鍛えて堅くなった手は、共産主義者の手から舵を奪い取った。ソヴィエトの船はペトログラードを目ざして安全に快調に航海して、労働者の手にあるこの権力をペトログラードから、不幸なロシアへと押し拡げるであろう。
しかし、同志諸君、用心したまえ! 十分警戒せよ! なぜならその航路には暗礁がいっぱいあるからだ、不注意に舵をとるならば、社会の再建の重大な使命をになった君たちの船が岩に乗り上げてしまうかもしれない。同志諸君、舵に気をつけろ―君たちの敵はすでにそれを奪い取ろうとしているのである。君たちがちょっとでも間違いをおかせば、彼らが成功し、ソヴィエトの船はツァーリストの従者やブルジョアジーの手先たちの勝ち誇った笑いの下に沈没するだろう。
同志諸君、君たちはまさにいま共産党独裁に対する偉大な平和的勝利にすっかり喜んでいる。だが、君たちの敵も喜んでいるのだ。君たちと敵とはまったく反対の理由で喜んでいる。君たちはソヴィエトの真の権力を再確立したいという燃えるような欲求と、労働者が自由に働き、農民が彼自身の土地から労働によって得た産物を処理する権利を持つという貴い希望にあふれている。一方、彼らはツァーリズムのむちと将軍の特権を再確立することを夢見ているのである。
君たちの利益は異っている。彼らは君たちの同志ではない。君たちは平和的な建設の創造的仕事を始めるために、共産党の権力からのがれねばならなかった。彼らは労働者と農民を再び奴隷とするために、その権力を維持していきたいのである。君たちは自由を求めている。やつらは君たちを奴隷にしたがっている。
「陸軍元帥」トロツキーは、共産党人民委員の絶対主義に対して謀叛を起こした、自由で革命的なクロンシュタットをおどした。共産党独裁の恥知らずなくびきをうちたおした労働者は、軍事的に勝利したこの新たなトレポフ*によっておどされている。彼はクロンシュタットの平和な人びとに爆弾を落とすぞと告げた。彼はトレポフの「爆弾を節約するな」という命令をくりかえしている。彼は革命的な水兵、労働者、赤軍兵士のために大量の爆弾をみつけてこなければならないだろう。
* トレポフはニコライ二世のもっとも陰険な将軍の一人であり、一九〇五年の動乱のとき、軍隊に「爆弾を節約するな」との有名な命令を出したことで記憶されている。
共産党によって汚されたソヴィエト・ロシアの独裁者であるトロツキーにとって、労働者大衆の運命はなんの意味ももたない。重要なことは権力を彼の手に握っておくということなのだ。
彼は不遜にもソヴィエト・ロシアの名で語っている。彼が赦免を約束している! 党の絶対制のために無慈悲に多大な血を流した共産党コサックの首領、殺伐なトロツキー、すべての自由精神を窒息させた彼、が勇敢にしっかりと赤旗をかかげているクロンシュタットの人びとに対してよくもぬけぬけと、そのようなことが言えたものだ!
共産党員は、労働者の血と投獄された家族の苦難の代価を払って、彼らの絶対制を再確立しようと望んでいる。彼らは反乱を起こした水兵と労働者と赤軍兵士の首を再び突きさそうと考えている。彼らは労働者の全ロシアを無秩序と飢えと貧乏の落とし穴へはうり込んできた悪しき政治形態を夢見ている。
こんなことはもうたくさんだ! 労働者はいつまでもばかにされたままではいない! 共産党員よ、君たちの希望は空しく、君たちのおどしはなんの効き目もない。労働者革命の最後の局面が展開しつつある。この革命は、ペテン師たちによって汚されたロシアから、ソヴィエトから、ペテン師と中傷者を一掃するだろう。そしてトロツキー氏よ、あなたのいう赦免については、われわれは断じてそのようなものを受けようとは思わない!
われわれは復讐を要求しない
共産主義独裁者による労働者大衆の抑圧は、人びととの間に当然はげしい憤りと立腹をひきおこした。この結果、いく人かの共産党員はボイコットされ、免職された。このようなことは二度とくりかえしてはならない。われわれは復讐しようとは思わない。われわれは労働者としての利益を守るのだ。われわれは沈着して行動しなければならないし、またサボタージュやあるいは中傷のキャンペーンによって、権力や労働者の権利の回復を妨げようとする人びとだけを追放しなければならない。
われわれと彼ら
彼らの手からのがれつつある権力をどのように維持したらよいのかわからずに、共産党員は、もっといやしい挑発の方法に訴えようとしている。彼らの不潔な新聞は、すべての力を総動員して、大衆を煽動し、クロンシュタットの運動を白色革命の陰謀であるとみせようとつとめている。このときにあたって不名誉な悪党どもは「クロンシュタットはフィンランドに売り渡した」というスローガンを叫んでいるのである。彼らの新聞は炎と毒を吐いている。クロンシュタットは反革命の手にあるということをプロレタリアートに確信させることに失敗して、彼らはいまや愛国心につけ込もうとしている。
全国民が、われわれのラジオ・メッセージで、守備隊とクロンシュタットの労働者がなぜ戦っているのかということをすでに知っている。しかし共産党員は、事件の意味をゆがめ、ペトログラードのわれわれの兄弟をこのようにしてだまそうと願っている。
ペトログラードは、クルサンティの銃剣と党の「番兵」によってがっちりと包囲されている。マリウタ・スコウラトフ*―トロツキーは、政党に無所属の労働者や赤軍兵士をクロンシュタットに来させなかった。彼らが真実を知ったら、すぐに共産主義者を掃討するであろうと恐れたのである。なぜなら労働者大衆の目がひとたび開かれたなら、労働で堅くなった彼らの手は権力をとるであろうから。
* マリウタ・スコウラトフは、十五世紀の恐しいイワン皇帝の守備隊の指揮官である。彼の名前は人間の残虐性のシンボルとして代々語りつがれてきた。
これは、クロンシュタットへほんとうに公平な同志を送るようにとラジオ・メッセージを通じて要望したことに対して、ペトログラード・ソヴィエトが応えなかった理由でもある。共産党員はすっかり恐怖にとらわれて、真実を圧し、嘘の上に嘘を重ねた。「白色反革命者がクロンシュタットで働いている」とか「フィンランド人がクロンシュタットの反徒の助けで、ペトログラードを占拠すべく軍隊を組織している」などと。
われわれはこれらすべての嘘言に対してただひとつの言葉で答えよう。「すべての権力をソヴィエトヘ」。白色反革命と地主とブルジョアジーに対してたたかう自由の殉教者の血で真赤にそまったお前たちの手をぬぐえ。
われわれの戦う目的
十月革命をたたかいながら、労働者階級は解放を勝ち取ることを望んでいた。しかしひとりひとりの個人にとってさらに悪しき奴隷状態をもたらした。警察の専制権力は、人びとに自由を与えるかわりに、ツァーの警察をもはるかにしのぐ恐しいやり方をするチェカの牢獄の恐怖を人びとに与えた略奪者―共産党―の手に握られた。
戦いと苦難の長い年月の後、ソヴィエト・ロシアの労働者は、チェカ・コサックの理不尽な命令や銃剣の一突きやヒューヒュー飛んでくる弾丸を手に入れたにすぎなかった。実際、共産党の権力は、労働者とハンマーと鎌の象徴をもうひとつのシンボル―銃剣と閂のかかった窓―に置き換えていた。というのは、党の権力は平穏無事に存在できるために新たな官僚制度と共産党役員と人民委員をつくったのである。
しかしなかでももっとも堕落した罪深いものは、共産党のつくりあげた精神的奴隷状態である。彼らは労働者の思想や精神の上に自分の手をおき、すべての人びとに彼らの公式どおりに考えるよう強制した。国家労働組合の助けを得て、彼らは労働者を機械の前に鎖でしばりつけ、労働を楽しいものにしないで、労働を新たな奴隷状態に変えた。自然発生的な反乱にまで発展してきている農民の抗議やひどい生活状態から、どうしてもストライキに訴えないわけにいかない労働者の要求に対して、彼らは大量射撃とツァーの将軍も羨むほどの残虐さで応えた。
最初、労働者の解放の赤旗をたてていた労働者のロシアは、共産主義制度の偉大なる栄光のための殉教者の血に溺れている。プロレタリア革命の偉大な美しい約束と可能性がすべての血の海のなかに溺れている。
共産党は、そのみせかけのように労働者の防衛者ではないことがしだいにはっきりしてきて、いまでは明白な事実となっている。労働者大衆の利益はそれとはまったく無関係である。権力をとったのち、共産主義者にはただひとつの関心事―権力を失わぬこと―しかなかった。その目的のためには、彼らはどのような手段も正当化できると考えている。名誉毀損、欺瞞、殺戮、反徒の家族への復讐など。
しかし、迫害されつづける労働者の忍耐も疲れてきている。国内の各所が反乱の炎と、抑圧と暴力に対する闘争の炎に明るく照らされている。ボリシェヴィキの「いぬ」は油断がない。彼らは避けられない第三革命を妨害し圧殺しようと手段を講じている。しかしどんなことをしても第三革命はもうやってきている。それは労働者大衆自身によって成し遂げられてきている。共産主義の将軍は、革命思想への共産党の大逆罪を確信して起ち上がったのが労働者大衆自身であることに、すぐに気づくであろう。労働者の憤怒の嵐からのがれることのできる場所はどこにもないことを知って、すっかりおびえきった共産党員は、コサックと牢獄と死刑とその他の獰猛な手段の助けをかりて、反乱を恐怖で支配しようとした。共産党独裁のくびきのもとで生きること自身が死よりも悪い状態となっている。
反乱を起こした労働者は、共産党と農奴制への復帰に対するたたかいの途上で立ちどまることはできないことをよく知っている。彼らは目的貫徹までやりとおさねばならない。共産党は譲歩するふりをしている。彼らはペトログラード地区の関門を撤廃した。彼らは外国から生産物を買い付けるために一千万金ルーブルを割り当てた。しかしだれもこれにだまされはしない。主人と独裁者の鉄腕はこのパン切れの下にかくされている。この主人の手は、ひとたび平静に戻るやいなや、これらの譲歩に高い金を払わせようというのだ。
いや、断じて中途で立ち止ることはありえない。われわれは勝利するか、しからずんば死ぬ以外にない。右翼からのと同じように左翼の反革命者(ボリシェヴィキ)にとっての恐怖である赤色クロンシュタットは、その模範である。革命の偉大な新しい推進力が働いているのは、まさにこのクロンシュタットである。どのようなかつての君主制のくびきをもしのぐ共産党独裁政治の抑圧に対して、ここ三年間の専制政治に対して、反旗がかかげられたのは、まさにここクロンシュタットにおいてである。労働者から最後の鎖をたちきって、社会主義建設の新しい公道をひらこうとする第三革命の基礎はまさにここクロンシュタットにある。
この新たな革命は、東西の労働者を援助するであろう。なぜならこれは、機械的な統治的な共産党のやり方に反対する新しい社会主義建設の模範を示すであろうからだ。われわれの前衛を超えた労働大衆は、結局、労働者と農民の名において、ここに現在行なわれていることは社会主義ではないのだということを確信するであろう。
この方向への第一歩は、一発も発砲されず、一滴の血も流されずに進められてきた。労働者は血を欲さない。理にかなった防衛の場合にのみ血を流すにすぎない。共産党員の労働者に対する背信的行動にもかかわらず、われわれは、彼らの嘘言と悪口でかたまったデマによって革命的な仕事に損害を与えさせないために、社会的任務から彼らを孤立させようとすることばかりに熱中するわれわれの傾向を十分に抑えている。
労働者と農民は抗しがたい力で前進している。彼らは憲法制定会議やブルジョア制度を背後に棄て去り、労働者の首のまわりにかけられた縄をしめつけ、殺そうとおどす国家資本主義やチェカをもつ共産党独裁を背後に残して前進してきた。
ここまでなされてきた変化によって、ついに労働者大衆は党による暴力的強制のないソヴィエト自由選挙を確保することができるようになった。この変化は、また国家労働組合を労働者と農民と知識人の自由な連合組織に再編成することも可能にした。共産党独裁の警察機構はついにうち壊された。
共産党のラジオ放送によると、共産主義者は、人民委員の強奪と暴政に対して真のソヴィエトを守ろうとする第三革命の煽動者にたくさんの汚物を投げつけた。
われわれはこの事実をクロンシュタットの人びとから、決しておおいかくしはしなかった。われわれはいつもこれらの中傷の攻撃を『イズヴェスチヤ』に掲載してきた。なぜならわれわれは少しの恐れるところもないからである。市民は反乱がいかにして起こり、だれによってなされたのか知っているからだ。労働者と赤軍兵士は、守備隊に将軍も反革命者もいないことを知っているのである。一方、臨時革命委員会は、共産主義者の手によって満員の牢獄に入れられている人質(労働者と水兵とその家族たち)の釈放と、政治活動による囚人の釈放を要求するラジオ・メッセージをペトログラードへ送った。
二度目の放送は、ここで何が起こっているのかをじかに見てペトログラードの労働者大衆に真実を語ることができるように無党派の代表をクロンシュタットへ送ることを提案した。それに対して共産主義者は何をしたであろうか。彼らはこのラジオ・メッセージを労働者と赤軍兵士から隠蔽した。「陸軍元帥」トロツキーの軍隊のいくつかの軍隊が寝返って味方についたとき、彼らはペトログラードから新聞をもってきた。これはわれわれのラジオ・メッセージについてはただの一言も書かれていなかった。
しかしながら、いくら印をつけたカードを使って遊び、国民への秘密、外交上の秘密さえないと叫んでも、これらのペテン師はそう長いこと、うまくやっていくことはできないだろう。
聞け、トロツキー、汝が人民の審判からうまく身をかわしているかぎり、無実な人びとをひとまとめにして銃殺することもできよう。だがしかし、汝は真理を銃殺することはできない。真理はついにいつか、真理の道をみつけるだろう。そのとき汝と汝のコサックは起訴状を受けねばならないであろう。
労働組合の再組織
共産党独裁のもとで労働組合とその執行委員の任務は極めて小さいものになった。「社会主義」ロシアにおける革命的サンジカリズム運動の四年間には、われわれの組合が階級機関となる機会はなかった。これは労働組合の過誤の結果ではない。実際それは、大衆を中央集権的「共産主義」の方針によって教育しようとしてきた支配的な党の政策によるものである。
最後に、労働組合の仕事は、記録をつけたりまったく役にも立たない通信をすることしかなくなり、その目的は各組合の組合員数を確定し、それぞれの人員と党との関係における立場、その他の特殊性を決めることであった。共同の経済活動について、また組合の労働者の文化教育については何もなされなかった。
これはまったくうなずけることである。なぜならもし組合にある程度独立した活動を行なう権利を与えたとしたら、共産党員によってつくりあげられた全中央集権制度は必然的にくずれてしまい、人民委員と「政治的分派」の存在が無意味となることが暴露されてしまうからであった。
これらの欠点が労働組合から労働者を離反させ、ついには組合を労働者階級によるほんとうの組合活動をすべて阻止する警察の巣とかえるにいたったのである。
いったん共産党独裁がくつがえされるや、組合の役割は急速に変わらねばならない。組合と改選された組合の執行部は、国を経済的・文化的に改革するために大衆を教育する偉大な急務を果たさねばならない。組合はこの活動に新しい純粋な精神を吹き込まねばならない。組合は人民の利益の真の代行者とならねばならない。
ソヴィエト社会主義共和国は、改革された労働組合と協力し、その行政が労働者によって行なわれなければ強固になることはできない。労働者同志よ、働くために! すべての強制から解放された新しい組合を建設しよう。そこにこそわれわれの力があるのだ。
8、『イズヴェスチヤ』三月十一日付第9号、労働者と農民へのアピール
クロンシュタットは、労働者と農民の解放のために、憎むべき共産主義権力に対する英雄的戦いをはじめた。現在起こっていることはすべて共産主義者が三年間つづけてきた血なまぐさい破壊工作によって準備されたものである。国中からわれわれが受け取った手紙は、共産党員についての苦情や呪いの言葉でいっぱいである。休暇から戻ったわれわれの同志は憤怒に燃えながら、ボリシェヴィキによって国中に行なわれている恐怖政治について、われわれに語った。さらに、われわれ自身も身のまわりで行なわれているすべてのことを見たり、聞いたり、感じたりしてきている。大きな、胸の張り裂けるような苦痛の叫びが強大なロシアの畑や都市からわれわれのところへとどいている。それはわれわれの心を憤りでいっぱいにし、腕をくんで考え込ませる。
われわれは過去へ帰りたくはない。われわれは連合国のブルジョアジーや金銭づくの商人の従僕ではない。われわれは全労働者の権力の味方であって、どのようなひとつの党の限度を知らぬ専制的権力の味方でもない。コルチャックもデニキンもユーデニッチも、クロンシュタットにはいない。クロンシュタットは労働者の手にある。クロンシュタットの素朴な水兵や兵士や労働者のすぐれた分別や意識だけがわれわれのはいり込んでいる袋小路から脱出させる約束と進路をついに見いだした……。
はじめのうちわれわれはすべてを平和的に解決しようと願った。しかし共産主義者は譲ろうとしなかった。ニコライ二世より彼らのほうが、よりしっかりと権力にかじりつき、独裁制を施くために国全体を血の海に溺れさせた。そしてこのことが、ロシアの悪霊であるトロツキーがいまやわれわれに対して兄弟をけしかけている理由である。彼らの何百という死体が要塞の周囲の氷をすでにおおっている。四日間、戦艦は荒れ狂い、大砲はうなり、兄弟の血が流された……。四日間、クロンシュタットの英雄たちは敵の全攻撃に抵抗し、勝利していた。鷹のようにトロツキーはわれわれの街の上を旋回している。しかしクロンシュタットは永久にもちこたえるであろう。われわれはすべて捕虜になるくらいなら死ぬ覚悟でいる。
労働者同志諸君、クロンシュタットは君たちのために、飢えのために、寒さに凍りついている人びとのために、ボロ布をまとい、雨をしのぐ所もない人びとのために戦っている。ボリシェヴィキが権力を握っている限り、よりよい生活はありえない。
君たちはこのことを全面的に支持している。何の名においてか。共産党員が安楽に暮らし、人民委員が肥えるためだけにか。君たちはいまだに彼らに信頼をおいているのか。政府は種々の生産物を買うために幾百万の金ルーブルを割当てたという話をペトログラード・ソヴィエトにしたとき、ジノヴィエフは、それぞれの労働者が五ルーブルだけのものを得るだろうと見積った。だが、労働者同志諸君、これは、ボリシェヴィキ一派が君たちを買おうと望んで頭割りにした一人の値段なのである……。
農民同志諸君、ボリシェヴィキ権力がもっともひどくだましあざむいてきたのは君たちである。数世紀の間、夢見つづけてきたあと、君たちが地主から取り上げた土地はどこにいったのか。それは共産党員の手にあるか、またはソフホーズによって搾取されている。そして君たちに関しては、君たちのできることはそれを見て、ただ唇をかみしめるだけである。彼らは持ち去ることのできるものすべてを奪っていった。君たちは略奪によって完全に荒廃させられた。君たちはボリシェヴィキの農奴制によって疲弊した。彼らは君たちが新しい主人の意志を従順に実行し、飢えに耐え、口を封じ、貧乏のどん底に甘んじているようにおしつけてきた。
同志諸君、クロンシュタットの人びとは数千万の労働者と農民がアピールに応えるであろうと望んで反旗をひるがえした。クロンシュタットに訪れた夜明けは、全ロシア中に輝く太陽にならねばならない。クロンシュタットに生じた爆笑は、全ロシアをよみがえらせねばならないが、まず最初はペトログラードだ。われわれの敵は牢獄を労働者でいっぱいにしたが、まだ誠実な勇敢な人びとがたくさん自由でいる。同志諸君! 共産党絶対主義打倒の戦いに起ち上がろう。
彼らの目は開かれている
臨時革命委員会と『イズヴェスチヤ』の編集部は、脱党しようとする共産党員の宣言のなだれで埋まってしまうのではないだろうか……。この熱狂的な躍動は何を意味しているのか。ボリシェヴィキから権力をとった労働者からの復讐を恐れてか。いや、断じてそうではない! 一人の婦人労働者がわれわれにそのような宣言をしにきたとき、ある者が「これらの脱走者たち」と話していた。すると彼女はおこって「私たちは決して脱走者ではありません」と反撥した。「私たちの目はしっかりと見開かれています。」
自分たちの権力を防衛しようとするばか者たちのために、フィンランド湾の氷上を真赤にそめた労働者の血、この血がひとびとの目を開かせたのだ。わずかな真面目さでもまだ持ち合わせている人びとはみな、デマゴギーの一団からこぞって離れようとしている。不正直者と犯罪人―あらゆる等級の人民委員とチェカ員と、飢えた労働者・農民の金でふとっている大立者たち。人びとの血で勝ち取った宮殿や博物館などを奪いとったあと、彼らのポケットは金でいっぱいになった―以外にだれもその一団にとどまろうとはしない。
これらすべての無頼漢はいまだに希望をもっている。空しくも! ツァーリズムとその警察のくびきに打ち勝った人びとは、共産党の奴隷制からも脱出するだろう。労働者の目は開かれている。
9、『イズヴェスチヤ』三月十四日付第12号、狼どもといっしょに吠えねばならない!
踏みにじられてきた権利を求める労働者の闘争のときにあたって、ある者は、レーニンが偽善者ではなく真実を語っているのだと期待するかもしれない。労働者や農民は心のなかで、レーニンをトロツキーやジノヴィエフと区別してきた。彼らはトロツキーやジノヴィエフの言葉は一言も信じなかった。しかしながら、レーニンについても彼らの信頼はもはや失われたのである。
だが、三月八日、ロシア共産党第十回大会が開かれたとき、レーニンはクロンシュタット反乱についてのあらゆる嘘言をくりかえした。彼は運動のスローガンは「貿易の自由化」であると宣言した。彼はその運動は「ソヴィエトに味方してボリシェヴィキ独裁に反対している」と確信をもってつけ加えたが、彼は「白色反革命者や、プチブルジョア・アナキスト分子」という言葉を持ち出すのに躊躇しなかった。
このように、けがらわしい言葉を吐くことによって、レーニンは自縄自縛することになった。彼は、その運動の根本は党の独裁に反対し、ソヴィエトの権力に味方する闘争であると認めた。レーニンの苦悩は、彼のクロンシュタットについての演説を通じて明瞭にあらわれている。「危険」という言葉が絶え間なく、使われている。たとえば彼は「われわれはわれわれにとって非常に危いプチブルジョアの危険に終止符を打たねばならない。なぜならプロレタリアートの統一をばらばらに解体してしまうからである。われわれは最大限の統一を必要としている」と言っている。そうだ、共産党員の頭目はふるえながら、「最大限の統一」を訴えねばならない。というのは共産党の独裁とまた党自身は深刻な分裂をうちに隠しているからである。
レーニンが真実を語るなどということが果たしてありえるだろうか。最近、労働組合における共産党の討議においてレーニンは「こうしたことはすべて私にとって死ぬほどたいくつだ。そんなことはいやになるほど経験してきた、私の病気は別にして、そんなことをみんな投げすてて逃げ出したら、何もうるさいことはなくなって、さぞ仕合わせなことだろう」と言った。しかし彼の相棒たちは彼を手離しはしないだろう。彼は彼らのとらわれ人である。彼は彼らがしたと同じように中傷的なことを口にしなければならない。
同時に、党の全政策がクロンシュタットの行動によって妨げられた。なぜならクロンシュタットは「貿易の自由化」ではなく、真のソヴィエト権力を要求していたからだ。
空しい希望
三月十一日付のペトログラード『プラウダ』紙上でわれわれは、ジノヴィエフから無党派の労働者への手紙を読んだ。このあつかましい非戦闘従軍者は、共産党労働者がペトログラードの工場にしだいに少なくなってきたのは残念なことだと言っている。そして彼は結びに「共産党員はどんな犠牲を払っても、党に属さない正直な労働者男女をソヴィエトの道へ導かねばならない」と言っている。
「それゆえに、われわれは秩序のある整然としたやり方で、党に属さない労働者を組織的にわれわれの仕事へ導きはじめている」とこの挑発者(ジノヴィエフ)は書いている。だが正直な労働者がこの盗賊団である人民委員とチェカ員に何を協力しようというのか。これらの警察官があとから労働者大衆を悪徳で押しつぶすためにいくらかの前進と譲歩で労働者大衆の苦情をおさえ、彼らの警戒心を眠らせようとしていることを労働者はよく承知している。労働者は無党派の同志がクロンシュタットで共産党からどのように扱われているかをじっと見ている。
「最近われわれはバルチック物語について大きな誤解をしていたことにさえ気づいた。しかしもしこの仕事が規定された計画を実現し、他の模範となるなら、その労働者の誤りの多くは許されるであろう」とジノヴィエフは泣き言を言っている。
このなかで挑発者は自分を堕落させている。というのはほんの二、三日前に共産党員は、クロンシュタット労働者にラジオを通じて、ペトログラードではすべてがうまくいっていること、またバルチックの仕事は平常通りに運んでいることを断言していた。そしていまやほんの数語のなかで、「大きな誤解」であると言ったり、他の工場への「模範」と言ったりしている。他の工場でも同じようなことがすすんでいるのだろうか。そのときジノヴィエフはわれわれをだましていたのだろうか。そしていまもだましているのだろうか。
バルチック労働者の好意を得るために、共産党員はこの世のよいことをすべて彼らに約束している。「われわれはそのときに労働者をもっと重要なポスト―食料、配給、燃料、統制機関など―につけよう。われわれは、ペトログラード労働者がこの生活難の時代を無事にすごすことができるように金で外国物資を買うことについて、無党派労働者の代表の仲介を通じて無党派の労働者にもっとも活動的な役目を与えるようなやり方をとるであろう。われわれはわれわれの機関のなかにある官僚主義に対するエネルギッシュなキャンペーンをはじめようとしている。われわれは相互に譴責し合い、批判し合うが、根本の論点ではいつも了解に到達するのである。」このような調子できょうジノヴィエフはやさしく甘くささやきかけた。彼は彼らを眠らせ、クロンシュタットの兄弟にむかって撃たれた大砲の射撃から注意をそらすために蜜のように甘い言葉で労働者に語りかけた。
なぜ共産党員は現在までこのように語らなかったのか。なぜ彼らは、彼らの支配していた約四年の間にこのようなことを一度もしなかったのか。それはまったく簡単なことである。彼らは「いま約束していること」を前には成し遂げることができなかったのである。そしていまも成し遂げることはできない。われわれは、彼らの約束の真価と、彼らが契約と呼んでいる新聞の切り抜きの真価をも知っている。
いや、労働者は世界中の金をもらおうとも、兄弟の自由と血を売ろうとはしない。それゆえ、ジノヴィエフに「了解」の空しいもくろみを棄てさせねばならない。いまやクロンシュタットの兄弟が真の自由を防衛して起ち上がったからには、労働者には共産党員に与えるただひとつの返答しかない。挑発者と死刑執行人よ、まだ逃げるひまのあるうちに、お前たちの権力をただちに放棄せよ! 自分のついた嘘で自分をごまかしてはならぬ!
旧いレーニン・トロツキー商会
それはよく仕事をしてきた―旧いレーニン、トロツキー商会。権力をもった共産党の犯罪的絶対主義政策はロシアを貧困と荒廃におとしいれようとしてきた。
その後は、後退の時期であった。しかし、労働者によって流された涙と血は、それでもまだ足りないとみえる。共産主義者によって嘲笑され、ふみにじられている労働者の権利を求めて、革命的クロンシュタットが勇敢にとりくんだ歴史的闘争のまさにこの瞬間に、烏の群れは第十回党大会を開くことに決定した。この大会は兄弟殺しの仕事をもっと成功裡につづけるための手段を講じようとしている。
「共産党員」のあつかましさは極点に達している。彼らは「商業的譲歩」について非常に落ちついて語り、レーニンは素朴そのものといった様子で次のように宣言した。「われわれは譲歩の主義をとりはじめている。この試みが成功するか否かはわれわれにかかっているのではない。しかしわれわれは最善をつくさねばならない」。それとともに、彼はボリシェヴィキがロシアを混乱におとしいれていることを認め、次のようにつづけた。「もしわれわれが経済的に諸外国に追いつこうとするなら、外国の技術を導入しなければ国を再建することはできない。現状からして、われわれは機械類だけでなく、わが国に豊富にある石炭も外国から買い付けねばならない。われわれはまだ、消費物資を流すために、また農業経済の必要な貯蔵物を得るために新たな犠牲を払わなければならないであろう。」
それでは、経済的成果の名によって、労働者を工場の奴隷にし、農民をソフホーズの奴隷にした当の名高い経済的成果というのは、いったいどこに存在するのか。
それは何もないのではないか……。レーニンはつづける。「もし、われわれが偉大な村落経済と大工業の再建に成功するとしたら、それはすべての生産者に無報酬で新たな犠牲を払わせることによってのみ可能であろう」。ボリシェヴィキ幹部が、共産党絶対主義のくびきに従順にすすんではまり込もうとする人に期待させた「よい生活」とはこのようなものである。これはまさにソヴィエトの第八回大会で「すべてがすばらしくうまくいっている……。土がわれわれのものならば、パンはあなたがたのものであり、水がわれわれのものならば、魚はあなたがたのものであり、森がわれわれのものならば、材木はあなたがたのものである」と言ったあの農民のことである……。
レーニンは「小土地所有者にいくらかの特権を認めることと、自由経済の分野をいくらか拡げること」を約束している。立派な昔の主人のように、党独裁の悪徳で労働者の首をあとになってはげしく打ち砕くために、彼はいくつかの便宜を申し出ようというのである。「われわれは確かに強制なしにすますことはできない。というのは、わが国は疲弊し、おそろしい貧困状態におちいっているからだ。」
レーニンが構想しているのは、建設の仕事、すなわち高水準の商業の譲歩と税金の引き下げである。
「コンミューン」の恩恵
「同志諸君、われわれは新しい美しい生活をうちたてている」と、このように共産党員は語り、書いている。「われわれは暴力の世界を破壊し、実にあふれた新しい社会主義社会を建設しなければならない。」このように彼らは人びとに歌いかける。だが、何が真実であるかをよく見究めようではないか。
すべてのもっともよい家屋、すべての一番上等のアパートは共産党機関の事務局に没収された。このように官僚だけが住み心地のよい、気持ちのよい、広々としたところに住んでいるのである。住むに適した住居の数が減り、労働者は昔とかわらぬところにいた。彼らはかつてより悪い状態で密集していた。
家々は修繕されずに、こわれかかっている。暖房にいたっては問題にならない。窓ガラスは、こわれたままであり、屋根の穴から雨もりがしている。垣根はたおれ、煙突は半分こわれている。洗面所は使いものにならず、汚物がアパート中にあふれているので、市民は庭や近所の家で用を足している。階段は電燈がつかず、つぎはぎだらけだ。溝や便所や排水口や下水を掃除しないので、中庭は排泄物でいっぱいである。街路は不潔である。歩道は修理されていないし、でこぼこですべりやすい。街を歩くのは危険である。
住居を得るためには、住宅局にコネを持たねばならない。それがなくては何もできない。情実のあるものだけが、適当なアパートにはいっている。
食糧については、もっと悪い。無責任で無知な役人は何トンもの食糧を使いものにならなくしている。配給されるじゃがいもはいつも凍っている。春と夏には肉がいつも腐っている。いまは美しい新生活の建設者から市民が手に入れている豚肉が、あるときはほとんど口にはいらないのだった。「正真正銘のソヴィエトの魚」であるニシンは現在まで長い間、窮境を救ってきたが、これさえもあまり見かけない。ソヴィエトの売店は、ボスがあらゆるガラクタ物を握っており、それについて奴隷労働者は何も言えなかった昔の工場の売店よりももっと悪かった。
家族生活をこわすために、われわれの支配者は、集団食堂を発明した。その結果はどうだろうか。いまだに食物は口にはいらない。市民の口にはいる前に盗まれてしまい、ほんの残り物しかないのだ。子供の栄養は少しはよくなっているが、まだ十分ではない。特にミルクが足りない。共産党員は自分たちのソフホーズ(国営農場)のために、農民から乳牛を没収してきた。さらにこれらの家畜は、予定より前に死んでしまう。生きている牛の乳は、まず支配者のところへとどき、次に役人のところへ配られる。そのあと、残りが子供たちにまわされる。
だがなんといっても一番手に入れるのが難しいのは衣類と靴である。古い背広を者たり交換したりしている。ほとんど何も配給されていない。たとえばある組合はいまボタンを配給しているが…一人につき、一個半である。これは笑えることだろうか? 靴についてはこれはとても手に入れられない。
共産党の楽園への道は美しい。だがそこを裸足で通ることができようか。
必要物資がたくさんのヤミルートをとおして流れている。いわゆる「協同組合」の常連と支配者がすべてを所有している。彼らは専用の食堂と特別配給券をもっている。彼らはまた人民委員の希望にしたがって生産物を分配する「物資局」を自由にできる。
この「コンミューン」が生産的労働を奪取し、完全に堕落させたことをわれわれはついにさとった。働こうという意欲と労働への興味が完全に失われてしまった。靴職人や仕立屋や鉛管工などは、仕事をたたんで散っていった。彼らは番人や小使いになっている。ボリシェヴィキが建設しようとしてきた楽園はこのようなものである。
旧制度にかわって、圧制と倣慢と情実と盗みと投機の新しい制度が確立された。ひとかけらのパンをもらうたびに、一個のボタンをもらうたびに権威者に手をさしのべなければならない恐しい制度、自分を参加させることができず、自分自身の労働の処理にかかりあうことができない制度、奴隷状態とみじめな生活状態の制度。
10、『イズヴェスチヤ』三月十六日付最後の第14号、いわゆる社会主義について
十月革命を成就するにあたって、水兵、赤軍兵士、労働者、農民は、ソヴィエトの権力のために、労働者共和国の建設のために血を流した。
共産党は、大衆の高揚にきびしく注意を払っていた。労働者の熱狂を喚起するような魅力的なスローガンをその旗に書き込んで、党は労働者を闘争へとかりたて、ボリシェヴィキだけが建設の方法を知っている美しい社会主義王国へ彼らを導こうと約束した。
当然、労働者と農民はすっかり有頂天になった。「ついに、地主と資本家の圧制の下で耐え忍んできた奴隷制度が神話になろうとしているのだ」と彼らは考えた。まるで、畑に工場に仕事場に自由労働の時代がきたかに見えた。まるで権力が労働者の手に移行したかに見えた。
巧みな宣伝によって、労働者階級の子供たちは党の陣営のなかへ入れられ、そこできびしい規律に服させられた。そうして彼らが十分に強化されたとなると、共産党員はまず権力から他の諸流派の社会主義者を排斥し、次には労働者農民の名で統治しつづけながら、労働者と農民を国家の重要ポストから追い出した。
このようにして、共産主義者は、個人的権力の専制主義を総動員して人民委員の制度をつくった。すべての正しい道理に反対し、労働者の意志に反して、彼らは次に自由労働に根ざした社会を建設せずに、奴隷制の国家社会主義を堅固に建設しはじめた。
工業がすっかり衰退していたとき、ボリシェヴィキはいわゆる「労働者管理」にもかかわらず、仕事と工場の国有化を行なった。まもなくこれでは間に合わなくなり、彼らはテーラー・システム*を採用する計画をたてた。
* 能率増進の目的で科学的に一標準値をきめ、あたえられた作業を一定時間内に完成した場合に特別の報酬を与えるというものでアメリカ人テーラーによってはじめられた科学的管理法の一形態である。― 訳者
全農民大衆は、人びとの敵であると宣伝され、「クラーク」と同一視された。そうして共産党員は、きそって農民を荒廃させ、ソヴィエト開発すなわち農民の新しい搾取者である国家の所有地を確立した。これが待ちに待っていた、解放された土地での自由な労働のかわりに、ボリシェヴィキの社会主義から農民が獲得したものなのである。ほとんど強奪されたパンや家畜と交換に、彼らはチェカの襲撃と大量銃殺を得たのであった。労働者国家の立派な交換制度とは―パンと交換に鉛と銃剣を得ることなのである!
市民の生活は、単調で死にそうなほど退屈で、権威当局の指示どおりのきまりきったものになった。自由労働と個人の自由な発展によって活気づけられた生活のかわりに、比類のない信じがたい奴隷制度が生まれた。すべての独立的思考と、犯罪的な支配者の行動に対するすべての正しい批判は罪であるとされ、投獄や死刑に処せられた。実際、死刑と人間性への恥辱がこの「社会主義の祖国」に蔓延した。
共産党の独裁がわれわれを導いてきた、社会主義の美しい王国とはこのようなものであった。われわれは、権威当局と絶対に誤りを犯さないという人民委員が指図したものに従順に投票する役員たちのソヴィエトといっしょに、国家社会主義を受け取った。「働かざる者は食うべからず」というスローガンは、この美しい「ソヴィエト」制度の下に「すべてを人民委員のために」と修正された。そして労働者、農民、知的労働者はどうかといえば、彼らは彼らのほんとうの仕事をまさに牢獄のなかで行なわねばならなかった。
これは耐えがたくなってきている。革命的クロンシュタットは第一に牢獄の鎖と門を壊した。クロンシュタットは、生産者が彼の労働による生産物の所有者となり、彼の望むようにそれを処理できるような真の労働者のソヴィエト共和国のために戦っている。
〔小目次〕
1、『イズヴェスチヤ』三月七日付第5号、ペトログラードとクロンシュタット
1、『イズヴェスチヤ』三月七日付第5号、ペトログラードとクロンシュタット
われわれにのこっているのは、悲劇の最後の幕―クロンシュタットへの攻撃、英雄的なクロンシュタットの防衛、来たるべき陥落―を論ずることである。
情報を得るためにペトログラードからクロンシュタットへ代表を送る件に関する交渉のくわしいいきさつは、三月七日の『イズヴェスチヤ』第5号を読めばわかる。
「臨時革命委員会はペトログラードから次のような電報を受け取った。
『そちらで何が起こっているのか知るために無党派のメンバーと党に属するメンバーからなる数人のソヴィエトの代表をペトログラードからクロンシュタットへ送ることができるかどうかペトログラードへ電報で知らせていただきたい。』
臨時革命委員会はさっそく電報でそれに答えた。『ペトログラード・ソヴィエトあて電報。われわれは、ペトログラードからの電報によるメッセージを受け取った。それは、こちらで何が起こっているのかを知るために、無所属および党所属の代表をペトログラードからクロンシュタットへ送ることができるかどうかと質問していたが、それに対してわれわれは、あなたがたのいう無所属のメンバーの独立性を確信するわけにはいかないので、あなたがたがわれわれの代表の面前で、工場や赤軍部隊や水兵のなかから無所属のメンバーを選ぶよう提案したい。あなたがたは一五パーセントの共産党員をいれてよろしい。クロンシュタットからペトログラードへ代表を送る日時と、ペトログラードからクロンシュタットへ代表を送る日時とを明記した返事を三月六日十八時までにいただきたい。この時間までに答えるのがむずかしい場合には、あなた方のよい日時と返事のおくれた理由を知らせてほしい。帰る方法についてはクロンシュタットの代表に確かめていただきたい。
臨時革命委員会』」
このような交渉が行なわれているにもかかわらず、政府はクロンシュタットに対して軍事行動の準備をしているという噂が、たえずペトログラードに拡まった。しかし、人びとはそれを信じなかった。それはあまりに犯罪的で信じがたいように思われたからだ。
ペトログラードの労働者は、クロンシュタットで何が起こっているのか少しも知らなかった。唯一の情報は共産党紙だけであり、その文はいつも「クロンシュタットで反革命反乱を組織したコズロフスキー将軍」のことであった。
人びとはどのような態度をとるかきめようと、ペトログラード・ソヴィエトに招集された大会を心待ちにしていた。ソヴィエト大会は三月四日に開かれた。だが召喚された者だけが、この大会に出席でき、それはほとんど共産党員で占められていた。このなかに、アナキスト、アレクサンドル・ベルクマンがいた。彼はこの集会に参加することを許され、そのことをクロンシュタット反乱のすぐれた研究書なかでくわしく記している。その本はわれわれ自身がものをみるときと同じように*ただしい根拠に基づいているものである。
* すなわち臨時革命委員会の『イズヴェスチヤ』やソヴィエトの文書や、選ばれた目撃者たち。私の知るかぎりでは、彼の研究書ははじめイギリスでリーフレットのかたちで出されのちにスペイン内戦中にアナキスト誌『ティモン』に載り、最後に一九三九年一月にフランス・アナキスト紙『ル・リベルテール』が数回にわけて連載した。
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
A・Berkman 『The Kronstadt Rebellion』英語版全文
「ペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフは開会を宣言し、クロンシュタットの情勢について長い演説をした。私はジノヴィエフの主張にどちらかといえば賛成してこの会議にやってきた。私はクロンシュタットにおける反革命の試みがどれほど『確実性』のあるものかに関して、その大会に注意を払っていた。しかしながらジノヴィエフの演説をきいて私は、水兵に対する共産党の非難は真実のわずかな影もないまったくの捏造であることを確信した。私はジノヴィエフの演説を前に何度もきいたことがある。ジノヴィエフの演説はその前置きで人を説得させてしまえば、あとはそのまま人を納得させるだけの才をもっていると私は思っていた。だがいま、彼の態度、彼の推論、彼の語調や動作は―ことごとく彼の言葉は、彼の不誠実な言動の虚偽を反映したものであり、私は彼の良心が内心で反抗しているのをさえみることができた。
クロンシュタットに対してあげられた唯一の『証拠』は三月一日の決議であった。決議の要求は正当でおだやかでさえあった。この文書と、カリーニンの水兵に対する激越な、ほとんどヒステリックな非難に基づいて、致命的な処置をとることに決定した。ジノヴィエフの右腕であるエフドキーモフによってあらかじめ用意され、提出されたクロンシュタットに対する決議文が通過した。代議員たちは狭量と血に飢えた残虐性とですっかり興奮しきっていた。この好戦的な決議は、ペトログラードの工場からきたいく人かの代表や水兵の代表の喧々轟々たる抗議のなかで決定された。この決議はクロンシュタットを、ソヴィエト権力に反抗する反革命運動であると断罪し、ただちに降服すべきことを要求したものであった。それは戦いの宣言であった。
共産党員のなかにも、その決議が実行にうつされることなど信じないものが大勢いたのである。トロツキーが賞讃して『ロシア革命の誇りと栄光』と呼んでいたクロンシュタットの水兵に対して、武力を用いて攻撃することは奇怪千万なことであった。親しい友だちの間では真面目な共産党員は、そのような残虐行為が承認されるなら党にとどまっていることはできないと話し合っていた。」
次の日の三月五日に、トロツキーはクロンシュタットへの最後通牒を発した。それはクロンシュタットヘラジオを通じて伝えられたし、また代表を送ることに関するふたつの電報と同じ号の『イズヴェスチヤ』にも発表された。当然、代表を送る件についての交渉もすぐぶちこわしになった。ここにトロツキーの最後通牒の全文がある。
「労農政府は、クロンシュタットおよび反逆している戦艦に対して、ただちにソヴィエト共和国の権力に服従すべき命令を出した。それに従って私は、社会主義の祖国に対して反旗をひるがえすものすべてに、即刻、武器を放棄するよう命ずる。強情に抵抗しつづける者は武装を解除されて、ソヴィエト当局へひきわたされるであろう。逮捕された執行委員とその政府代表をただちに釈放せよ。無条件に降服するものだけが、ソヴィエト共和国の慈悲にあずかり得るであろう。
同時に私は武力をもって暴動を鎮圧し、反徒を平定すべき命令を発する。平和な民衆がうけるかもしれない損害の全責任は、反革命反徒にあるであろう。これが最後の警告である。
共和国革命軍事委員会議長 トロツキー
最高司令官 カーメネフ」
この最後通牒につづいて「お前たちを雉子のように撃ち殺すつもりだ」というトロツキーの指令が出された。
ペトログラードにいて、まだ自由の身であったいく人かのアナキストは、クロンシュタットへの攻撃を放棄するよう、ボリシェヴィキを説得するための最後の努力を払った。彼らは、ロシアの革命的エリートであるクロンシュタットの水兵や労働者の切迫した大虐殺を阻止するために最後の努力をすることが、革命への義務であると考えた。
三月五日に彼らはクロンシュタットの平和的な意志と正しい要求を強調し、水兵の革命的役割を委員会に想起させ、同志と革命家にとって意義のある方法で衝突を解決する手段を提案して、防衛委員会へ抗議文*を送った。ここにその文書がある。
ペトログラード労働・防衛委員会へ
ジノヴィエフ議長へ
いま、沈黙を守ることは不可能であり、犯罪でさえある。いまここに起こっている事件は、アナキストとしてのわれわれに、卒直に語り、現状に対するわれわれの態度を詳細にくわしく述べなければならない必要を感じさせる。
労働者と水兵の間にある不満と不安の精神は、絶対に見のがしえない重大な事実の結果である。寒さと飢えが、不満に蜂起するきっかけを与え、論争と批判の可能性のまったくないことが、労働者や水兵に苦情を正式に宣言させる原因となったのだ。
反革命主義者の一味は彼ら自身の利益のために、この不満を利用しようと考え、それに努めている。労働者や水兵の背後にかくれて彼らは自由貿易やそれに似たような要求を含む憲法制定会議のスローガンをまきちらしている。われわれアナキストは、はやくからこれらのスローガンの欺瞞を暴露してきた。そしてわれわれは全世界に向かって声明する。われわれは社会主義のすべての友とともに、ボリシェヴィキの側に立ってあらゆる反革命に対して武器をとって戦おうとすることを、すべての人の前で宣言する。
ソヴィエト政府と労働者および水兵との問の衝突については、われわれはそれが武力に訴えることなく、うち解けた親しい革命家らしい協定によって解決されなければならないと信じる。なぜならソヴィエト政府がこうした情勢において流血の手段に訴えるということは、少しも労働者を威嚇したり沈黙させるものではなく、むしろただ事態を悪化させ、連合国と反革命主義者がその魔手を伸ばすのに役立つばかりである。
さらにもっとも重大なことは、労農政府が労働者および農民に対して武力を用いることは、国際的革命運動に反動的結果をもたらし、いたるところで社会革命にはなはだしい損害を与えるものであるということである。ボリシェヴィキ同志よ、いま考えなおしても決して遅くはない! 断じて砲火に訴えるな、諸君はいまやもっとも重大かつ決定的な行動に出ようとしているのだということをよく考えてみてくれ!
われわれはここに次のような提案をする。五人(うち二人はアナキスト)からなる委員会を組織すること。平和的な手段によって衝突を解決するため、委員会をクロンシュタットへ派遣すること。目下の状態ではこれが何よりも焦眉の手段だ。それは国際的革命的意義を有するであろう。
一九二一年一二月五日
ペトログラードにて
アレクサンドル・ベルクマン
エマ・ゴルドマン
ペルクス
ペトロフスキー
* 一九二一年にペトログラードにまだ自由の身でいるアナキストがいることに読者が驚くといけないので問題の抗議文の署名者は、ボリシェヴィキから危険であるとは考えられていないことを述べておかねばならない。A・ベルクマンとE・ゴルドマンはロシアの戦闘活動には従事していなかった。ペルクスとペトロフスキーは「ソヴィエト」(プロ・ボリシェヴィキ)といわれたアナキストであった。それにもかかわらず、のちにベルクマンとゴルドマンは追放され、ペルクスとペトロフスキーの運命は不明である。どのような場合でもアナキズム運動の最後の軌跡は一九二一年に消えている。
この抗議文自身は、かなりおだやかな漠然とした、そしてさまざまな意味にとれさえするような言葉で表現されていることに読者は気づかれることだろう。この文の執筆者たちは、ボリシェヴィキを説得し、「同志愛の精神」で行動させようという素朴な空しい希望をいだいていた。しかしボリシェヴィキは同志ではなかった。彼らはクロンシュタットとの衝突においてはどんな譲歩もせず、彼らの指導権に対するいろいろな運動を野放しにしてはおかなかった。ボリシェヴィキにとってそれは生か死かの問題であった。
抗議の手紙を送ったことについてベルクマンはこう記している。「ジノヴィエフはその文書が防衛委員会に通達されたとの報告をきいた。彼はそれをとりに彼の代理の者をやった。この訴えが委員会で討議に付されたかどうか私は知らない。たしかなことは、それについて彼らは何もしなかったということである。」
三月六日、トロツキーは攻撃準備をすっかりととのえた。各地の戦線からもっとも忠実な師団が送られてきた。クルサンティ連隊、チェカの分隊、共産党員からなる部隊はセストロレツク、リシイ・ノス、クラスナヤ・ゴルカなどの要塞やその他の近くの基地に結集した。もっとも優秀な軍事専門家がクロンシュタット包囲と攻撃のための計画の作戦場へ送られた。トハチェフスキーがその軍隊の総指揮官に任命された。
三月七日午後六時四十五分、セストロレツクとリシイ・ノスとクラスナヤ・ゴルカの大砲はクロンシュタットに砲撃を開始した。銃弾と爆弾と勝手な声明文が飛行機からまかれ、クロンシュタットに落とされた。クラスナヤ・ゴルカに任命された「烏の群」―トロツキー、トハチェフスキー、ドゥイベンコその他―は、突撃によって包囲された要塞を奪取するよう、くりかえし命令を出した。だが、これらの試みは役に立たなかった。どんなに猛烈な攻撃も、勇敢な防衛者からはねかえされた。砲撃はクロンシュタット市に少しも恐慌をひきおこさなかった。逆に、人びとの怒りをかきたて最後まで抵抗しようとの意志を強めた。
三月八日、『イズヴェスチヤ』第6号がはじめて新しい情勢を報道した。見出しには、「トロツキーの第一弾は共産党の遭難の信号だ」とあり、その下に次のようなはじめてのコミュニケを載せた。
「六時四十五分、セストロレツクとリシイ・ノスの共産党の大砲はクロンシュタット要塞にむかって最初の火ぶたを切った。要塞はその挑戦に応戦し、じきに砲台を静まらせた。つぎにクラスナヤ・ゴルカが火ぶたを切ったが、戦艦『セバストポリ』から手痛い攻撃をうけた。絶えまなく砲撃がつづいている。われわれの側では二人の赤軍が負傷し、病院へ送られている。物質的損害はなし。
一九二一年三月七日
クロンシュタット」
このコミュニケにつづいて次のような記録が載せられている。
第一弾
彼らはクロンシュタットに砲撃を開始した。われわれの用意は完了している! われわれの力をためそうではないか!
彼らは行動をはやまっている。共産党員の嘘言にもかかわらず、三年間の奴隷状態を経た今日、ロシアの労働者がクロンシュタットによってはじめられた偉大な解放運動を認めてきているという事実に共産党は気づいている。
死刑執行人は安心していられないのだ。彼らの恐しい狂気沙汰の犠牲となったソヴィエト・ロシアは、彼らの牢獄からのがれつつある。それと同時に彼らは労働者への支配権を放棄せざるを得なくなっている。
共産党政府は遭難信号を送っている。自由クロンシュタットがもう八日間も存続しているということは彼らの無力を示している。もう少しすれば、われわれの輝かしい戦艦と要塞の応戦でソヴィエト海賊船を沈没させ、海賊船は「権力を党ではなく、ソヴィエトヘ」という旗をかかげた戦艦が革命的クロンシュタットとともにあることを理解しないわけにはいくまい。
『イズヴェスチヤ』三月八日付、第6号、世界に知らせよ!
臨時革命委員会はきょう次のような電報を送った。
「すべての諸君―すべての諸君―すべての諸君
最初の大砲が火を吹いた。労働者の血に汚れた『陸軍元帥』トロツキーは、共産党独裁に反対して真のソヴィエト権力を再び確立するために起ち上がった革命的クロンシュタットに砲火をあびせた。われわれ―クロンシュタットの赤軍兵士と水兵と労働者―は一滴の血も流さずに、共産党の圧制から自らを解放したのである。われわれの間にいる党員の生命を見逃した。彼らはいまや、大砲の脅威によって再び彼らの権力をわれわれに押しっけようとしている。
われわれは流血を望まず、クロンシュタットがソヴィエト権力のために戦っていることを確認させるためにペトログラード・プロレタリアートの無党派の代表をここに送るよう要求した。だが、共産党員はペトログラード労働者から、このわれわれの要求を隠し、戦火をひらいた―偽りの労働者農民政府が、労働者大衆の要求に対する常套的な返答である。
全世界の労働者が、ソヴィエト権力の防衛者であるわれわれが社会革命の勝利を守っているのだと知っていさえしたら! われわれは労働者大衆の正しい目的のために戦いながら、クロンシュタットの廃嘘のなかで、勝利するかしからずんば死ぬ以外ないであろう。
全世界の労働者はわれわれを正しく裁くであろう。無実の血が、権力に酔って気の狂ったばか者共産党員の上に流されるであろう。ソヴィエト権力よ、永遠(とわ)にあれ。
臨時革命委員会」
クロンシュタットは静まっている
昨日、三月七日に労働者の敵、共産主義者はクロンシュタットに戦闘を開始した。人びとははげしい砲撃を受けた。都市の労働者は彼らの臨時革命委員会と完全に意気投合していることがすぐにはっきりと示された。交戦を開始したにもかかわらず、委員会は戒厳令を施くことは不必要だと考えた。実際、彼らは何をおそれる必要があっただろうか。彼ら自身の赤軍兵士も、水兵も、労働者も、知識人も委員会が恐れる理由は何もないのである。一方、ペトログラードでは戒厳令が施かれたおかげで、だれも午前七時まで一人で外出することが禁じられている。これはもっともなことである。支配者は彼ら自身の労働者を恐れねばならないからだ。
クロンシュタットへの最初の攻撃は、白装束に身をかためた共産軍の選抜隊によって南と北から同時に行なわれた。凍りついたフィンランド湾は雪でおおわれているので、白装束だと、すっかりカムフラージされてしまうのだ。要塞攻撃の最初の試みは途方もない数の死者を出して終わった。水兵たちはこれを深く嘆き悲しみ、クロンシュタットを反革命であるとだまされて信じている武装した兄弟たちに感動的な言葉で呼びかけた。
三月十日の『イズヴェスチヤ』第8号は、共産主義のためにたたかう赤軍兵士にあてて、次のように述べている。
「われわれは兄弟の血を流したいとは思わない。われわれは許された最少限の砲撃しかしていない。われわれは労働者の正しい道を守らねばならない。そのためには、兄弟に砲火をあびせ、人民の犠牲で特権的な生活をつくりあげてきた共産主義者によって死刑にされてもしかたがないと思っている。
われわれの兄弟である君たちにとって不幸なことにも、攻撃しているときは恐しい猛吹雪だった。すべてが暗い夜の影につつまれていた。それにもかかわらず共産党の死刑執行人は、君たちに、氷の上を進軍するよう命令し、共産党編制隊によって配置された後衛の機関銃で背後から君たちをおどした。
君たちの多くはフィンランド湾の広大な氷の原でその夜、死んでいった。そして猛吹雪が終わって明け方になったとき、疲労と飢餓で身動きもできなくなった君たちの隊のほんの少数のものが、白装束のままでやっとわれわれのところに這ってきた。
明け方には君たちは千人だったのが、その日のうちにもはや、数えきれないまでにふえていった。諸君は自らの血をこの冒険にささげた。諸君が敗北すると、トロツキーはさらに新たな殺戮の犠牲者をあつめにペトログラードへ急行した―われわれ農民、労働者の鮮血を安く手に入れるために。」
クロンシュタットは、ペトログラードのプロレタリアートがクロンシュタットを援助にくるだろうと堅く信じていた。しかし首都の労働者はすっかり恐怖のとりこになっていた。クロンシュタットは包囲され、孤立させられて、助けは望めなかった。
クロンシュタット守備隊は、約一万の水兵をふくめて、一万四千人から成っていた。この守備隊は、湾に散在する広い戦線とたくさんの堡塁や砲台を防御しなければならなかった。限りなく増援されるボリシェヴィキのたえまのない攻撃、食料の欠乏、寒い長い夜々、こうしたすべてのことがクロンシュタットの士気をしだいに沮喪していった。しかし水兵たちは英雄的な忍耐力をもって、この国が彼らの崇高な模範についてくるであろう最後の瞬間を待ち望んだ。だが、この闘争はあまりに不公平であった。何千というボリシェヴィキ兵士が降服して捕虜となり、またそのほか何百という人びとは、薄くなったり解けかけたり、砲撃で壊された穴や裂けめでいっぱいの氷の下に沈んでいった。しかしこうした損害も攻撃の火の手をゆるめはしなかった。新しい増援部隊があとからあとから到着したのだ。
おしよせる潮に対して、クロンシュタットはひとり孤立して何をすることができたろう。クロンシュタットはもちこたえるのに全力をつくした。クロンシュタットはペトログラードとモスクワと赤軍兵士がさしせまった全般的な反乱、すなわち第三革命のはじまりとなる反乱を起こすだろうと、執拗に期待しつづけた。クロンシュタットは日夜、しだいにせばめられていく前線で英雄的にたたかった。だが反乱も援助も期待したように現われなかった。日ごとにクロンシュタットの抵抗は弱まっていき、攻撃側は一段と有利になった。
そのうえ、共産主義者は、革命的水兵たちがペトログラードを砲撃しようとしているという噂をほかのデマといっしょに拡めていたが、クロンシュタットはもともと後部からの攻撃を食い止めるようにつくられてはいなかったのである。実際、この名高い要塞は、海上からの攻撃に対して首都を守るだけの目的で建てられていたのだ。ボリシェヴィキが、ほとんど毎夜、攻撃しつづけたのは、まさしくこの弱い地点だったのである。
三月十日は一日中、共産党砲撃隊が絶え間なく南と北から全島を砲撃しつづけた。
十二日と十三日の夜、共産主義者は再び「白装束」を用いて、南から攻撃してきた(『イズヴェスチヤ』のコミュニケは、三月十一日は濃霧のため砲撃できなかったと言っている)。この攻撃でクルサンティの何百人もがまた犠牲になった。
次の日になると、戦闘はしだいに列を乱してきた。防衛者たちは疲労と窮乏でつかれてきていた。彼らはいまや市のはずれで戦っていた。革命委員会から毎日出された闘争コミュニケは、ますます悲劇的なものとなり、犠牲者の数は急増した。
三月十六日、ついにクライマックスに近づいたことを知ったボリシェヴィキは、猛り狂った砲撃準備をととのえ、嵐のような集中攻撃をあびせてきた。彼らはどんな犠牲を払っても絶滅せねばならなかった。つづく抵抗のどの瞬間にも、クロンシュタットの発射する弾はボリシェヴィキへの挑戦として撃たれた。そしてどのような瞬間にも、クロンシュタットは何百万という人びとを共産党から目ざめさすことができた。しかしすでに彼らは徐々に孤立化していくのを感じた。すでにトロツキーはやむを得ず、中国とバシュキールの行動部隊に使いを送った。一刻の猶予もせずにクロンシュタットを皆殺しにしてしまわねばならなかった。そうしなければクロンシュタットは、ボリシェヴィキの勢力をバラバラに破壊してしまうであろう。
早朝からクラスナヤ・ゴルカの重機関銃は、市街に絶え間のない掃射をあびせ、火災と破壊をひきおこした。戦闘機は、爆弾を投下し、そのひとつは一目でわかる赤十字のしるしのついた病院を壊した。この猛烈な攻撃につづいて南と東からの攻撃がはじまった。バルチック艦隊の元人民委員で、未来のクロンシュタットの独裁者であるドゥイベンコがのちに述べているように、攻撃の計画はトハチェフスキー最高司令官と南部軍の幕僚の命令によって、もっとも詳細な点まで前もって準備されていたのである。ドゥイベンンコは「白装束の勇敢なクルサンティは従列進軍を可能にした」と言っている。
フィンランド湾氷上を突撃する赤軍 反乱者殺害・一掃の戦闘をする赤軍
『Kronstadt Uprising』imagesからの写真2枚
それにもかかわらず、はげしい機関銃掃射ののち、いくつかの地点で敵は撃退された。市街の壁の下での戦闘の騒音のなかを、水兵は巧みに機略を用いてもっとも危険な地点へ突進し、命令を与え、アピールを叫んだ。防衛者たちは、純粋に雄々しい狂気のとりこになった。だれも危険とか死を考えなかった。「同志よ! 労働者部隊をのこらず早急に武装せよ! 武装できるすべてに援助させよう!」と叫んだ。そこで全部隊がのこらず編制され、武装され、すぐに闘争に参加した。女たちも自分からすすんで危険を無視して弾薬を都市の外へ運ぶという勇気と活動を示した。彼女たちは負傷者をいたるところから収容してきてはげしい砲火のなかを病院へと運んだ。彼女らははじめて援助を組織化した。
三月十六日の夜には、戦闘はまだまだ決定的段階にいたってはいなかった。民兵はまだ街路を馬に乗って歩きまわり、非戦闘員に安全な所へ避難するよう呼びかけた。しかし、いくつかの要塞は占領された。だが、夜の間に、市内で釈放されていた共産主義者は、クロンシュタットのもっとも弱い点は、ペトログラード側の門戸であるということをうまく攻撃者に示唆することができた。
三月十七日の午前七時にボリシェヴィキはものすごい砲撃ののちに、急襲し、市中央の有名な錨広場へ突進した。水兵はそれでもまだ譲らなかった。彼らはそれぞれの地域、それぞれの街、それぞれの家を守って「雄獅子」のように戦いつづけた。相当の犠牲を払って赤軍兵士は、いくつかの場所にかたい足場を確保していられたのである。臨時革命委員会のメンバーは、危険にさらされているところをあちこち走りまわって戦闘員に戦術を与え、防衛を組織化した。印刷所では『イズヴェスチヤ』第15号がまだ印刷されつづけていたが、それはついに陽の目をみることはなかった。
十七日は一日中、彼らはクロンシュタット市内で戦った。水兵はどの街も手にいれることができなかったことはわかっていたが、いやしくもチェカの独房内で殺されるよりは戦って死ぬほうがいいと思った。チェカは残忍な屠殺者だった。水兵に命をとられなかった市内の共産党員は、水兵を裏切って武装し、背後から攻撃してきた。共産党員によって獄中から釈放されたバルチック艦隊の人民委員クズミンとクロンシュタット・ソヴィエト議長ヴァシーリエフは、反乱の粛清に加勢した。
三月十七日の夜じゅう、クロンシュタットの水兵と兵士の絶望的な戦いはずっとつづいた。戦いの十五日間を通じて、市内の共産党員になんの危害も与えなかったクロンシュタットは、いまや射撃と野蛮な死刑と群れをなした本物の殺し屋の舞台に変わった。屠殺者の手をのがれたいくつかの部隊は、フィンランドへ逃げのびた。
地図の□印は、クロンシュタット側の海上堡塁。左図の赤矢印は、三月七、八日の
第一次攻撃だが、壊滅的な損害で退却。黄色基地と矢印は、三月一六〜一七日
の南北からの第二次総攻撃で、氷結した湾内の堡塁を占領し、市街戦で鎮圧した
十八日の早朝、共産主義者は市のあちこちでまだ戦っていた―というよりむしろ、反徒を追跡していた。ふたつの革命的計画は達成されないままになってしまった。ひとつは水兵と兵士たちが第三革命の旗上げを行なった二隻の偉大な戦艦―「ペトロパヴロフスク」と「セバストポリ」―を最後の瞬間に爆破しようということであった。だが彼らがこの計画を実行しようとしたとき、電線が切られているのを発見した。もうひとつは、クロンシュタットのほぼ全住民が、クロンシュタットを「死人と空家」にして共産主義者に手渡すために、クロンシュタットを発とうときめていた。だが、この計画も移動する手段がまったく見つからないまま、実現しなかった。
クロンシュタット人民委員に任命されたドゥイベンコは「反逆の都市を一掃する」全権力を与えられた。これは大虐殺の乱行を意味していた。チェカによる犠牲者は数えきれない数に上り、要塞の落ちた翌日から数日にわたってひとまとめに処刑された。
次の数週間、クロンシュタット監獄はクロンシュタット市の何百人もの囚人でいっぱいになった。毎夜、囚人は小さないくつかのグループにまとめて連れ出され、チェカの命令で銃殺された。クロンシュタットの臨時革命委員会のメンバーであるペレペルキンはこのようにして死んだ。
『イズヴェスチヤ』三月九日付第7号に載せた「白旗の悪用」という題のエピソードがある。同じく臨時革命委員会のメンバーであるヴェルヒーニンは、反乱の最初のころ、ボリシェヴィキの裏切り行為によって捕えられた。「昨三月八日、数人の赤軍兵士がオラニエンバウムからクロンシュタットへ白旗を掲げてやってきた。われわれの二人の同志が、休戦旗をもってやってきた者に会うために、武装解除して馬に乗っていった。われわれの仲間の一人が敵の一団へ近づいた。向こうは一定の距離をおいて立ち止まった。われわれの同志が数語も言ったか言わぬうちに、共産主義者たちは彼に襲いかかって彼を馬からひきずり降ろし、連れ去った。二人目の同志はやっとひきかえすことができた」。このようにして連れ去られた使者がヴェルヒーニンであった。当然のことだが、彼についてそののち何も聞き知ることはなかった。臨時革命委員会の他のメンバーの運命については、われわれにはわからない。
牢獄や収容所やアルハンゲリの極地やトルキスタンの遠い砂漠で、真の自由ソヴィエトのために、ボリシェヴィキの専制政治に反逆したクロンシュタットの人びとは、長い年月悲惨な生活に耐えながら、しだいに死んでいった。今日生きている人はおそらくないであろう。
反乱からいくらかたったとき、ボリシェヴィキ政府は、すすんで当局へ自首するなら、外国へ亡命したり、国内に隠れている反徒のために全般的な特赦を行なおうと発表した。この「特赦」を信じるほど素朴な人びとはみな、その場で逮捕され、武装した彼らの同志と同じ運命になった。この不名誉な待ち伏せは―その他の多くのことのなかでも―とくにボリシェヴィキの真実の歴史のなかで、もっとも恥ずべき部分のひとつとなった。
10、クロンシュタットの教訓
レーニンはクロンシュタットの運動について何も理解しなかった―というよりむしろ、何も理解しようとしなかったのである。レーニンと彼の党にとって本質的なことはどんな犠牲を払っても、権力を維持することであった。この反乱に対する勝利は、ここしばらくの間、レーニンに新たな自信を与えた。しかし、これから先のことについては気づかっていた。クロンシュタットの機関銃が党に、「党の立場を反省させ、再考させた」ことを、彼は認めた。だがレーニンは労働者の動揺や反乱によってはっきりと示された方向へ党の立場を改定しただろうか。まったくそうではなかった。これらの出来事からひきだされる根本的な教訓は、党が独裁制を改める必要があるということと、ソヴィエトの自由選挙のような労働者と国にとって欠かせないものは何かということであった。
ボリシェヴィキは、この方向へ一歩でも譲歩することは彼らの権力に決定的な一撃となることをよく知っていた。彼らにとっては権力をそっくり維持することが、何にもまして必要だったのである。マルキスト、権威主義者、国家主義者として、ボリシェヴィキは大衆にどんな自由も自主的行動も許すことはできなかった。彼らは自由な大衆に信頼をおかなかった。彼らは自分たちの独裁が失墜したら、いままでなされてきたことが全部ぶちこわしになり、革命を危険にさらすことになり、そうなった場合は、自分たちが狼狽するだろうと確信していた。同時に、独裁―「統制のテコ」―を維持すれば、基本的に譲歩して、革命の目的を認めずに「戦略上後退する」ことができ、また彼らのすべての経済政策を一時的に放棄することさえできるのだということも確信していた。さらに悪いことに、ボリシェヴィキは革命の目的実現はおくれるだろうと自分たち自身で語っていた。だから、彼らの考えは、ひとえに「われわれの支配に手をふれずにそのまま維持するためには、何をなさねばならないか」という点にしぼられた。
経済の分野において、一時的に譲歩すること、「権力」―これこそ、彼らの第一問題だ―の分野を除いてすべてに譲歩を認めること。彼らの唯一の「妥協」は、人びとの不満をしずめるために、骨を投げ与えることであった。不満が表面に現われたときだけは、ほんの少しばかりの満足を与えねばならなかった。彼らがその次に専心したことは、必要な譲歩を決定し、「後退」の限界を定めることであった。彼らは最後的にこの譲歩の範囲を確定したが、こうして歴史の奇妙な皮肉によって、レーニンと彼の党は、かつてクロンシュタットの人びとに誤っておしつけ、そのためにクロンシュタットが彼らとたたかわなければならなくなり、ついには多くの流血の惨事をひき起こしたあの計画を採用したのであった。
レーニンは有名な「新経済政策」(ネップ)を宣言した。これは、一定の「経済的自由」すなわち私的商業と生産活動の一定の自由を許した。このようにクロンシュタット反乱の要求した「自由」のほんとうの意味は、完全に歪められていた。労働者大衆の自由な創造的な建設的な活動、すなわち完全な解放に向かう行進を継続し、もっとスピードを上げさせるような、クロンシュタットの要求でもあった活動を行なわずに、ネップは個人が商売したり、事業を営んだり、富を獲得したりするそういう「自由」であった。ソヴィエトの新興成金「ネップマン」が現われたのは、このころであった。
ロシアと諸外国の共産主義者は、「戦略上の後退」として、またブレスト=リトヴスクのころの「戦時態勢の一時的休止」と似たような一種の「経済の一時休止」として、ネップをながめ、説明した。そしてこのためには、党が三月事件(クロンシュタット事件)によってぐらついた地位を一瞬にして堅固にするため、どうしても独裁が必要なのであった。
実際、ネップはあとから革命的方向へよりよく前進できるためにではなく、反対に出発点へ、昔と変わらぬ残忍な独裁制へ、昔と変わらぬ無制限な国家主義へ、新しい資本主義国家による労働者大衆の昔と変わらぬ支配と搾取へ、よりスムーズに逆戻りできるための休止以外の何ものでもなかった。ボリシェヴィキはクロンシュタット事件を二度とくりかえさないための保証書をたずさえて、全体主義的国家資本主義への道をうまく逆戻りできるようにと後退したのである。
後退の期間、この発生しはじめた資本主義国家は、その危険にそなえてこの国の「マジノ線」をつくった。ネップの数年間をかけて物質力と軍事力を強大にし、徐々にボリシェヴィキの行政的官僚的警察「装置」と、それにふさわしい新ブルジョアジーをつくりあげ、その「鉄腕」ですべての人びとを抑圧し、全体主義的収容所と牢獄を全国に普及させられるまでに強くなった。
このような意味で、戦略上の後退について語ろうとするなら、ここに起こったのがまさしくそれである。レーニンが死んで(一九二四年)、スターリンが後継者に決まって―党内でのいくつかのもめ事の後に―まもなく、新経済政策は禁止された。「ネップマン」は逮捕され、追放されたり、銃殺され、彼らの持ち物は没収された。そして完全武装をととのえ、官僚化し、資本主義化し、「装置」と栄養のゆきとどいた特権階級にささえられた国家は、全能の神の地位を確立した。しかしこれらすべての緊急事は、社会革命や労働者大衆の熱望や彼らの真の解放とどんな共通点もなかった。
ボリシェヴィキ政府は国内のネップにとじこもっていたのではなかった。さらにその歴史の皮肉によって、ボリシェヴィキがクロンシュタットを「資本家にあやつられた連合国の従僕」と非難していたときに、クロンシュタットの人びとは、(まさにボリシェヴィキが手をふれなかった革命への仕事をつづけていたのである。レーニンの指令に従って、ボリシェヴィキは、外国資本家や連合国との妥協の路線を歩みはじめた。クロンシュタットを攻撃し、まだその死体の山がフィンランド湾の氷をおおったままになっていた数日の問にも、彼らは巨利を得ようと、連合国の大資本主義やポーランドの帝国主義など、各国の実業家と重要な契約を結んでいた。
彼らは、イギリス資本への門戸を開くアングロ―ロシア通商条約に署名した。彼らはリガの講和条約にも署名した。そのために、千二百万の人びとが反動ポーランドの手にわたった。同盟を結ぶことによって、彼らは若いトルコ帝国がコーカサスにおける革命運動ののど元を締めるのを手伝った。彼らはこうした筋から援助をもとめて、あらゆる国の資本家と取り引き関係を結ぶ用意をした。
すでに述べたが、「革命ののど元を締めることによって、共産主義勢力は、反動ブルジョアジーの援助や支持を独力で前よりさらにいっそう公然と堅固なものにしなければならなかった……。自分たちの足下から土がくずれていくのを知りながら、大衆からますます離れ去り、革命との最後の接触を壊し、大小の独裁者、追従したり、へつらったりする人びと、日和見主義者や取巻きなどのすべての特権階級には自由な行動を許したが、彼らは新しい勢力をはねつけ、破壊してしまったので、真に革命的などんなものを創造する力もなく、権力者たちは自分たちの地位を固めるために古い勢力へ逆戻りしなければならなくなった。彼らは自分たちの仲間をますます無定見に見つけていった。その仲間から、彼らは、承認、同盟、連合をうるさく求めた。自分たちの存在を安全で確実にする方法がほかになかったから、彼らはこの仲間には自分たちの意見を譲歩した。大衆と友情を失って、彼らは友情をほかに求めたのである。彼らはこれらの新しい友の助けによって自分たち自身をささえることができると考えた。そして、いつの日にか、この友をも、自分たちの利益のために裏切ろうと考えていた。その間に彼らは反革命的・反社会的な行動の網に、日ごとに深くからまりつかれていった。」
クロンシュタットは敗北し、国家社会主義が勝利した。それは依然として今日もなお勝利しつづけている。しかし動かし得ない事件の成り行きの力によって、国家社会主義はとりかえしのつかない不幸に必ず落ち込むであろう。なぜなら、その勝利はその内部に、終局の破壊の種を蔵しているからである。国家社会主義は共産党独裁の本質をますますさらけ出してゆくであろう。有無をいわせぬ諸事の力に捕えられた共産主義者は、彼らの支配権と特権を維持するために、目的を犠牲にし、すべての彼らの原則を放棄し、どんな人間とも取り引きする用意のあることをますます暴露している。クロンシュタットは、すべてのくびきから解放し、社会革命をなしとげようとする人びとの、まったく自主的な試みであり、どんな政治的な神も、指導者も、教師もなしに、労働者大衆自身が直接的に決定的に勇敢になしとげた試みであった。それは第三革命への第一歩であった。
クロンシュタットは敗北した。しかしそれはひとつの仕事を成し遂げた。重要な仕事であった。反乱において、大衆の前に開かれた錯綜した薄暗い迷路のなかで、クロンシュタットは正しい道を照らす輝かしいたいまつであった。反徒たちは権力という言葉や思想を追放して共同や組織化や管理のことについて話すのではなく、彼らの環境のなかではいまだに権力(ソヴィエトの権力)のことについて語っていたが、それは大した問題ではない。それは過去へ払った最後の貢物であった。ひとたび労働者大衆自身の手で言論と組織と行動の完全な自由が勝ち取られれば、ひとたび独立人民の活動の道が見いだされれば、あとは自発的に自然にやってくるであろう。霧がいまだ厚く、たいまつやそれが照らしている道を隠しているということは、そう問題ではない。いったん輝けば、その光は決して消えないだろう。何百万という人間がたいまつの輝くのを見るだろう。その日は近づきつつある。
―おそらく、それほど遠いことではないだろう。
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(関連ファイル)
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題
P・アヴリッチ
『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット 『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
大藪龍介
『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱
梶川伸一
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
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