クロンシュタット叛乱
スタインベルグ
(注)、これは、スタインベルグ著『左翼社会革命党1917〜1921』(鹿砦社、1972年)の第21章「クロンシュタット叛乱」全文(P.250〜274)の転載である。第21章は長くて、〔小見出し〕がないので、私(宮地)が付けた。絶版だが、全体を読みたい方には、図書館貸し出しの方法がある。本文中の傍点個所は黒太字にした。ペトログラードの全市的な労働者ストライキとクロンシュタットの反乱とは密接な関係を持っている。その関連を示すために、主な日付は、私(宮地)が青太字にした。
1994年、クロンシュタットの反乱者は、大統領令によって、名誉回復された。
〔目次〕
1、紹介・解説(宮地) 左翼社会革命党とスタインベルグ経歴
2、第21章・クロンシュタット叛乱 全文
4)、クロンシュタット代表団のペトログラードに関する報告と大集会
5)、臨時革命委員会の結成
7)、3月8日以後の戦闘状況
3、富田武『クロンシュタット反乱参加者の名誉回復』1994年大統領令
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』コメントと6資料
P・アヴリッチ
『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット 『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
ヴォーリン 『クロンシュタット1921年』反乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』反乱の全経過
大藪龍介
『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱
梶川伸一
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
Google検索 『kronstadt』
1、紹介・解説(宮地) 左翼社会革命党とスタインベルグ経歴
左翼社会革命党
この党は、「左派エスエル」「左翼エスエル」ともいいます。『ロシア・ソ連を知る事典』(平凡社)の説明を引用します。エスエル党(SR.社会主義者・革命家党)の左右分裂は第一次大戦に対する態度に端を発している。1917年革命の過程で党主流は臨時政府を支え、土地奪取を願う農民の志向と対立したが、これを批判する左派はボリシェヴィキの十月革命に支持を与えるにいたり、党中央より除名された。12月3日から11日(ロシア暦11月20〜28日)この人々は左派エスエル党結党大会を開いた。ナタンソンのような者幹部のほか.スピリドーノワ、カムコフら若い世代が中心となり、首都、バルト海艦隊、カザン、ウファ、ハリコフなどがその拠点であった。12月22日(ロシア暦12月9日)、ボリシェヴィキの求めに応じて、コレガーエフ(農業)、スタインベルグT・Z・Steinberg(司法).プロシャン(郵便・電信)らが人民委員会議(内閣)に入った。この党は憲法制定会議の解散にも同意を与えたが、18年3月ドイツとのブレスト講和問題が大詰めを迎えると、党の主流は調印拒否、革命戦争論の立場をとった。講和批准ののち、人民委員会議に加わっていた閣僚を引揚げ、下野した。春から初夏にかけて食糧問題が深刻化し、ボリシェヴィキ政権が食糧独裁路線を打ち出すと、労働者を農民にけしかけるものとして強く反発し、対ドイツ戦争の中での労農の一体化に活路を求めて、7月6日反乱を起こした。ドイツ大使を殺害し、自派の武装部隊を動かして電信局を占拠し、アピールを各国に打電した。この一種の武装デモは翌朝からの鎮圧作戦でつぶされ、開催中の第5回全ロシア・ソヴェト大会代議員中30%を占めた第二党たるこの党は非合法化され、指導者は逮捕された。この行動に批判的であった人々は、革命的共産主義者党とナロードニキ共産主義者党をつくり、のちに共産党に合流した(P.231)。
スタインベルグの経歴
彼は、左派エスエル指導者の一人として、1917年12月9日レーニンの連立ソヴィエト政権に司法人民委員として参加した革命家です。1907年、モスクワ大学法科の学生であった時、非合法エスエル党員として逮捕され、シベリアへ3年の流刑に処せられましたが、ドイツへ亡命してハイデルベルグ大学で法律を学びました。のち帰国して、モスクワで弁護士を開業するかたわら、非合法活動に従事しました。第一次大戦勃発後、非合法文書発行のかどで再び逮捕されましたが、二月革命後は左派エスエル派に属しました。連立ソヴィエト政権の司法人民委員のポストにつき、他6人の左派エスエル出身の人民委員とともに、3カ月間活動しました。1918年3月、連立解消で全員が人民委員(閣僚)を辞しました。1919年初頭、モスクワで、「反革命政党」指導者として、チェーカーに逮捕され、5カ月間入獄しました。以後1923年4月まで、反ボリシェヴィキ地下活動に従事してチェーカーに再逮捕されました。しかし、同年脱走してドイツへ逃れました。本書は、1955年、ロンドンで出版されました。
本書の最大の特徴
特徴は、その内容が、連立ソヴィエト政権の司法人民委員(閣僚)の立場からの痛烈な内部告発論文になっているということです。これは、連立期間3カ月における直接の現場体験に基づく、もっとも生々しい、レーニン・ボリシェヴィキの国家テロル批判文献です。本書が分析する期間は、1917年から1921年までです。その内容は、レーニンによる武装蜂起・権力奪取時点からクロンシュタット反乱鎮圧までの最高権力者レーニン批判となっています。とくにレーニンの赤色テロル分析とジェルジンスキー批判の内容については、人民委員会議(ソヴィエト)内部の状況に関する現場証言としてきわめて貴重なものです。左派エスエルは、たしかに革命前は、ツアーリ帝政側の「国家テロ」にたいする「反国家テロ」を実行しました。しかし、スタインベルグは、権力者側になってから、しかも、司法人民委員に就いて以後は、公開裁判による犯罪・反革命取締りを主張し、レーニン・ジェルジンスキーの赤色テロル=チェーカーによる裁判なし大量処刑に何度も、強烈に反対しました。
クロンシュタットは、ペトログラードのバルト海よりの入口に位置する強固な要塞島、ということを超えた存在であった。クロンシュタットは、また、革命の最も有名な根拠地だった。ひるがえって一九〇四〜一九〇六年の最初の大衆蜂起の日々には、ロシア艦隊―北部も南部も共に―の水兵たちは、ツアーリズムに抗する闘争の中で最も積極的な役割を果したのであった。
セバストーポリとオデッサでは、黒海艦隊が、全世界を驚嘆させた。今もなお心に残るのは、一九〇五年六月のロシア戦艦ポチョムキン上の叛乱である。戦艦ポチョムキンは、赤旗を翻えし、一一日間にわたってツァーリ体制の権威を拒否したのだった。その同じ年の一一月、セバストーポリで二隻の軍艦が、優秀な海軍少佐ピョトール・シュミットの指揮の下に叛乱を起こした。全艦が降服を余儀なくされ、乗組員は無慈悲に処罰された。けれどもシュミットは、自らの処刑の直前に軍法会議の裁判官たちに向かって発言した、「今日、我々を殺すのは諸君だ。だが、待っていたまえ、やがて、おそらく次の年には、諸君は同じような、あるいはもっと悪い運命に苦しむことだろう。諸君は私を殺すことはできよう、だが、生き残った者たちが我々の復讐に起ちあがるであろう」
バルト海艦隊の水兵たちは、南部ロシアにおける彼らの同志たちに遅れをとりはしなかった。一九〇五年一〇月、彼らはクロンシュタットで蜂起した。一九〇六年七月には、ツァーリ政府による第一国会(ドゥーマ)の強制的解散に続いて、彼らは、スヴェアボルグ、ゲリシンクフォルス、レーヴェリそれに今一度クロンシュタットにおいて絶望的な勝ちめのない戦いを闘ったのであった。
彼らの革命的熱情は、決して偶然のものではなかった、というのは、ロシア艦隊は、錯綜した社会的組織体(オーガニズム)をなしていたからである。水兵たちは、この国のあらゆる主要な階級の断面図を表わしていた。ほとんどの者がロシア農民の息子ではあったが、近代的海軍が要請する技術性のゆえに、彼らは高度の資格を有する海上労働者となっていた。そのうえさらに、その多年にわたる海軍勤務を通じて、こうした農民=労働者たちは、厳格な軍事的訓練と規律性とを経験していた。彼らの間から聡明で勇敢な若者たちの広範なグループが成長し、そうした人びとは、農村や都市における状況を熱烈な関心をもって見まもっていた。しかも、海軍において彼らは、先祖代々からその憎しみを既に抱いている当の相手の旦那(バーリン)、つまり海軍将校と毎日顔をつき合わせていたのである。この将校たちは地主的・軍事的貴族階級から選抜されており、彼らは農民の息子たちに厳重な抑圧体系の内部でのその社会的劣等さを感じさせていた。こうしてロシア海軍は、法と処罰という鉄の爪をつうじてかろうじて押えつけられている社会的憎悪の坩堝(るつぼ)と化していたのである。水兵たちの間で、彼らの苦難上総体としての政治体制との関連性をさし示す革命的宣伝が常に効果をあげたということは、大して不思議なことではない。
一九一七年革命のまさに最初の日々に、クロンシュタットの水兵たちは、自らの市と要塞との徹底的な掃討行動を起こしていた。彼らは、嫌悪を催すような過去にまつわる痕跡のすべてを除去しようとしたのみならず、《彼らの只中に》自分たち自身のソヴェト的秩序を打ち立てることにも着手したのであった。ブルジョア新聞は、例えば、早くも一九一七年五月二六日にクロンシュタット・ソヴェトよって採択された決議―「クロンシュタット市における権力は、今よりのち、労働者・兵士代表ソヴェトにのみ存する。国全体にかかわるような諸問題に関しては、我々のソヴェトは、ペトログラードとの臨時政府と交渉するであろう」―のことを念頭において、事あるごとに彼らを《クロンシュタット共和国》と言いたてていた。
クロンシュタットの人びとは、最大の注意を払って諸事件の推移を見守り、革命が武装行動を必要としていると彼らが感じとった時には、常にペトログラードへ武装分遣隊を派遣した。こうした行動については、フランス革命が一つの歴史的先例を提供している。港町マルセイユの人びともまた、革命の前進を助けるために有名な分遣隊をパリへと派遣したのであり、その時に「マルセイエーズ」がフランスおよび世界の革命讃歌となったのである。
一九一七年七月に暴動が起り、ペトログラードの労働者が国家権力のソヴェトへの移譲を要求した際、クロンシュタットの水兵たちは彼らの強力な代表であった。タウリーダ宮前での劇的なデモンストレーション中の一瞬をとらえて、クロンシュタットの水兵たちは、農業大臣ヴィクトル・チェルノフをまともに脅迫した。彼らは、土地改革遂行のひきのばし、それに連立内閣諸大臣への屈従のかどで、彼を非難したのである。その時この事態を水兵たちに対する時宜をえた演説によって救ったのは、トロツキーだった。彼は、水兵たちを革命の誇り、革命の誉れ、と呼んだのであった。
バルト海艦隊の水兵たちは、ドイツに抗して要塞を防衛するという自己の任務を忠実に遂行しつつ、同時に、六月蜂起においても積極的な役割を果した。ロシア軍艦「オーロラ」がクロンシュタットよりネヴァ河に入り、冬官を威嚇した時に、ケレンスキー政府の運命は定まったのである。クロンシュタットはソヴェト体制の根拠地となり、バルト海艦隊水兵は、長期にわたる内乱の期間に、あらゆる危機に瀕した戦線で戦い、かつ死んでいった。
3、1921年2月、ペトログラードの労働者ストライキ
一九二一年三月、ボリシェヴィキ政府に抗して叛乱を起したのも、クロンシュタットの水兵たちであった。このようなことがどうしてありえたのか? 彼らは、自己のかつての革命的な伝統と絶縁してしまったのか? それとも、彼らは、なおその真実の精神を抱いて行動しつつあったのか?
ウランゲリ将軍に対する勝利…一九二〇年一一月…とクリミアにおける内乱の終結から僅カ数か月後のことであった。人びとは、安堵のため息をつき、耐え難い日常と化した飢餓、独裁それに迫害を打破する何か根本的な変化を待ち望んでいた。政府は、国内における抑圧と困窮のすべてを、内乱という仮借ない口実をもって正当化していたのではなかったか? だがしかし、月日がたっても、テロルによる重圧の緩和の兆は現われなかった。
事態は、革命の砦ペトログラードにおいて、ことに厳しいものであった。工場労働者やその家族は、凍てついた住居で飢餓すれすれの食料で暮していた。
一九二一年一月、公式資料(原註)によれば、労働者は一日に二〇〇グラムから八〇〇グラムの間の黒パンを受けとっていた。しかも、パンはロシア人の食事において主食だったのだ。ところが、こうした乏しい食料でさえも、定期的に配給されるとはかぎらなかった。抗議の気分がペトログラードの労働者たちの間で再び頭をもたげ、彼らが一連のストライキを開始したのは、こうした時期であった。革命の勃発の正確に四年後にあたる二月を通じて、ストライキは次から次へと大工場―革命のはじまりの日々に名を揚げたその同じ工場―を閉鎖していった。
一九二一年二月二八日までには、そうした工場のうち最大のもの、即ちプチロフ製鋼工場がストライキに合流した。
(原註)、イダ・メット夫人による『クロンシュタット・コミューン』(一九四九年パリ発行)〔邦訳、鹿砦社刊〕というきわめて興味深い本の中で引用されている。
当初、労働者たちは、経済的諸要求―主としてパンに対する要求―だけを提出していた。だが―それに、そうならざるを得なかったのだが―彼らはすぐに政治的諸要求をつけ加えた。彼らは、言論と出版の自由、それに政治犯の大赦を望んでいたのである。ペトログラードのボリシェヴィキ支配者たちは狼狽し、ペトログラード・ソヴェト議長ジノヴィエフは、恐慌状態(パニック)に陥った。
ボリシェヴィキは、すぐさま、三人の独裁者からなる軍事的「防衛委員会」を任命し、ペトログラードに戒厳令を宣言した。戦艦「ペテロ=パウロ」の水兵で、後にクロンシュタット叛乱を指導したS・ペトリチェンコは、こうした状況を次のように述べている(原註)―「ペトログラード・ソヴェトは、労働者の正当なる諸要求に耳を塞ぎ続けたのみならず、彼らを協商国のスパイや手先であると非難して、大量に逮捕しはじめた。優勢な軍事力を頼みとし、革命の旗という仮面に身を隠して、チェーカーはその常套手段を行使した。官僚主義者どもは、人びとが彼らに反対するのをあえて差し控えた内戦の期間中に、腐敗の度を強めていた。ところが、彼らは、新たな状況を理解していなかったのである。労働者は、ストライキを続行し、そうして支配体制の血に飢えた狂暴な手によって打ち倒されたのだ」
(原註)、ベルリンにおける左翼社会革命党在外部発行『ズナーミヤ・ポリブイ』より引用。この記事は、一九二六年一月号に掲載された。
次いでペトリチェンコは、一つの重要な事実に触れている。ペトログラードに駐屯しており、労働者に共感していた赤軍兵士や水兵のいくつかの部隊は、ソヴェト政府が彼らを《クロンシュタット》をもって威嚇したために、労働者の救援に赴けなかったのである。ボリシェヴィキは、クロンシュタットが自分たちに歯向かうすべての者にその報復の鉄槌を下す用意を整えている、と広言しでいたのだ。ところが今度は、そうした政治的ごまかしも功を奏さなかった。クロンシュタットは近接するペトログラードで何が起りつつあるのかを知ったのである。
二月二六日に、クロンシュタットは現場の状況を調査するため代表団を急派した。この代表団は、直接にストライキで閉鎖された工場へ赴き、労働者自身の口から説明を求める予定であった。
だが、水兵の代表たちは、予期せぬ障害に遭遇した。「工場はツァーリの時代の監獄(カートルガ)の様相を呈していた」とペトリチェンコは後にその亡命の地より書いている。「彼らは、外部を軍隊によって包囲され、内部を武装したチェーカー部員(チェキスト)によって埋めつくされていた。労働者たちは、当惑したような目つきをして、無目的に立ちつくしていた。工場委員会議長がクロンシュタット代表団の話を聴く集会を告げた時、労働者は誰も動きはしなかった。その代りに、『俺たちは彼らを、こうした代表団を知ってるさ』というような呟きを我々は耳にした。そこで我々は尋ねた、『諸君はどうして我々と物事をざっくばらんに討論しようとしないのだ? 我々は諸君の不満の原因を知るためにやってきたのに』。彼らは長い間黙りこくっていた、それから誰かが言った、『俺たちは、前にも代表団に会ったんだ。でも後になって代表団を信用した者は皆、しょっ引かれちまったんだ』。我々は彼らに、我々が間違いなくクロンシュタットから派遣されたのだということを証明する書類を提示した。『さあ、諸君は我々を信じてくれるな?』。それでもなお彼らは動こうとはせずその視線は兵士や工場委員会のメンバーに向けられていた。それで我々はすべてを理解し、もはや何も言わずに、彼らの顔をじっと見つめた。彼らの涙にうるんだ目をみているとそのうちの幾人かの頻を涙がつたって落ちていった。我々は、最後に彼らに向って呼びかけた、『でも同志たち、我々はクロンシュタットに何と報告すれは良いのだ? 諸君は口がきけなくなってしまったのか?』
「遂に一人の勇敢な男が口を開くと毅然として語り出した。『そうだ、俺たちは自分の舌をなくしてしまったし、記憶もなくしてしまった。俺は、あんた方がここからいなくなったら俺の身の上に何が起るかを承知している。それでも、あんた方がクロンシュタットからやってきている以上は、しかも奴らが俺たちをクロンシュタットを使って脅迫し続けている以上は、あんた方は本当のことを、つまり、俺たちは飢えさせられているってことを知らなきゃいけない。俺たちには着る物も靴もない。俺たちは、精神的にも肉体的にもテロられているんだ。ペトログラードの監獄を見に行って、この三日間にどれほど多くの俺たちの仲間が逮捕されたのかを知ってほしい。それだけじゃない、同志たち、共産党の奴ら(コミュニスト)に―あんたらは俺たちの名前のかげに長い間隠れてきたが、もうたくさんだ!―って言ってやる時がきたんだ。自由に選出されたソヴェト万歳!』」
4、クロンシュタット代表団のペトログラードに関する報告と大集会
二月二八日、クロンシュタット代表団がペトログラードに関するその報告を行なった時、戦艦「ペテロ=パウロ」乗組員は全員一致で、歴史に残るよう運命づけられた一つの決議を可決した。ここにその中で特徴的ないくつかの条項(第一、二、三、五、一一、および一五項)をあげよう―
「現在のソヴェトが労働者および農民の意志を代表していないが故に、秘密投票による新たな選挙が即時実施されるべきであり、この選挙に先だってすべての労働者および農民の間で自由な選挙運動が行なわれるべきである。
「我々は、労働者および農民、アナキストおよびすべての左翼社会主義諸政党に対する言論と出版の自由を要求する。
「我々は、集会結社、労働組合および農民組織の自由を要求する。
「我々は、人民による抵抗運動に関連して逮捕されたすべての社会主義者の囚人ならびに労働者、農民、赤軍兵士、水兵の釈放を要求する。
「農民は、賃労働を雇用せず自ら働く限りにおいて、自己の土地についての完全なる支配権ならびに家畜の使用権を認められるべきである。
「賃労働を雇用していない小規模手工業者に対しては、仕事の自由が許可されるべきである」
三月一日、一日たって、一万六〇〇〇人の水兵、クロンシュタット守備隊の赤軍兵士、それに市の労働者を集めた公然たる大集会が港広場(ハーバー・スクウエア)で開催された。ボリシェヴィキのヴァシーリエフが議長であり、演説者にはソヴェト中央執行委員会議長でボリシェヴィキのミハイル・カリーニンおよびバルト海艦隊政治委員クジミンとが含まれていた。この三人の指導的ボリシェヴィキの激しい抗議とむき出しの恫喝にもかかわらず、戦艦「ペテロ=パウロ」の決議が、満場一致で採択された。カリーニンは、すぐにモスクワへ向けて出発した。クロンシュタットは、まだ叛乱の意図は持っていなかった―それまでは、ボリシェヴィキ政府をなおも信頼して請願を行っていたのである。にもかかわらず、この決議の一語一語そのものが、叛乱の意図ありとして、とがめられたのであった。
爆発を引き起こすには、ただ火花が閃くだけでよかった。
三月二日、それは、クロンシュタット・ソヴェトの再選挙について討議するため開かれた完全に合法的な協議会の最中に起こった。すべての艦船、軍事部隊および工場からの三〇〇名の代表には、若干の共産党員も含まれていた。「ペテロ=パウロ」の水兵ペトリチェンコが議長に選ばれた。協議会は、この国の苦難を、平和的な手段をもって緩和するために何を為しうるかに関する問題を討論していた。この会議の全体的基調は、ソヴェト支持にあり、共産党に対しても好意的でさえあった―協議会は、政治委員たちの横暴なやり口に対してのみ敵意を抱いていたのである。そうした時に、クジミンが発言のために起立し、こうした雰囲気をたちまち一変させた。彼は、あらゆる報告や訴えを倣慢にも拒否し、次のような言葉をもって閉めくくった、「諸君らがもし公然たる武装闘争を望むのなら、受けて立とう。共産党員は、自発的にその権力を譲り渡すようなことはしないし、最後まで闘うであろう」
クジミンの挑撥的な演説に続いて、クロンシュタット・ソヴェト議長ヴァシーリエフの同様な演説が行なわれた。協議会の空気は、さらに一層変化していった。代表たちは、この二人…クジミンとヴァシーリエフ…がもはや信頼できないということを感じとり、二人は拘束され、会館〔会場となっていた文化会館のこと〕から退去させられたのである。と同時に、出席しているすべての共産党員の代表を逮捕すべきであるとの提案をこの協議会が拒否したということは、特徴的であった。クロンシュタットは、依然として政府との協定を希望していたのである。
決議が再び読みあげられ、熱狂的に承認された。そこで突然、政府がこの協議会に対する攻撃を用意しつつありこの目的のためにライフル銃および機関銃で武装したトラック五〇輌もの兵士がすでに派遣された、という警報が会館に拡まった。これに応えて、代表の一人が、クロンシュタットは直ちに自己の防衛を組織すべきであり、「臨時革命委員会」がこの場で選出されるべきであるとの提案を行なった。委員会は、ペトリチェンコを今一度議長にいただいて、この協議会の運営委員をもって即座に形成された。安全上の理由から、この委員会は「ペテロ=パウロ」上に移動し、そしてそこから、クロンシュタット市、要塞および艦隊における事実上の唯一の権力として活動を開始したのである。
この委員会の構成は、一点の曇りもなく、この運動の人民的性格を証明していた。その一五名の委員の中には、党の指導的人物や政治的文筆家は、唯の一人もいなかった。八人の水兵(一人として将校ではなかった)と七人の労働者は、無党派でありクロンシュタットの労働者を直接に代表していた。のみならず、彼らの主要な文書―「ペテロ=パウロ」決議―も、その後の彼らの公的発言も、老練な政党政治家の手で定式化されたものではなかった。彼らは、人民の綱領をまぎれもなくその身に刻みこんでいたのである。事実、歴史的文書を検討すると、まず第一に、水兵たちがその叛乱に際してソヴェト憲法を固守していたこと、そして第二に、彼らの論点の主要な部分が左翼社会革命党員の綱領を反映したものであることが明らかとなる。だが、左翼社会革命党は、そうした文書の作製には、いかなる役割をも占めていなかったのだ。(もし、そうでなかったとしたら、ボリシェヴィキ政府は〔左翼社会革命〕党を叛乱の共謀者として告発するのに失敗などしなかったであろう)。叛乱者たちは、その体験、人民の要求についてのその理解そして一〇月の理念へのその忠誠心とをもって自己の綱領を定式化したのであった。彼らは、蜂起の最初の日から最後にいたるまで、こうした諸理念を見捨てはしなかった。
今や、事態は急速に進行していた。
一九二一年三月二日には、一発の弾丸も発射せずに市内の戦略的要所および公共施設のすべてが革命委員会の手に陥ちた。全艦船、要塞、全赤軍部隊も同様であった。政府の新聞印刷工場が占領された。
一九二一年三月三日、有名なクロンシュタット水兵・赤軍兵士・労働者臨時革命委員会『イズヴェスチヤ』(以後、我々はこれを単に『イズヴェスチヤ』と呼ぶことにする)の第一号が現われた。その冒頭の論文そのものにおいて、この運動の指導者たちは、以下のような重要なことばを書き記しでいた―
「我々の国は困難な時期を経過しつつある。飢え、寒さ、経済的混乱は、ほとんど三年間にわたって、その支配を緩めてはいない。この国の主人公たる共産党は、自己を大衆の間から引き揚げてしまい、この状況を処理する能力が自己にないことを明らかにした。党は、ペトログラードやモスクワにおける最近の騒擾に対して、それらがはっきりと党が労働者大衆の信頼を喪失してしまったことを示しているにもかかわらず、一向に注意を払おうとしなかった。党は、労働者の要求を反革命の陰謀とみなしている。これは大いなる誤解である。
「これらの騒擾や要求は、全人民の声なのである。労働者、水兵それに赤軍兵士のすべては今、全人民の共通の意志と努力を通じてのみ、この国はパン、燃料、石炭、裸の者への衣服、裸足の者への靴を備えうることを知っている。ただ人民だけが、共和国をその袋小路より救い出せるのである。このことを遂行せんとする意志は、三月一日のクロンシュタット決議の中に明瞭に宣言されている。そこでは、同時に、クロンシュタット・ソヴェトの即時再選挙を要求し、ソヴェト秩序の再編を平和裡に開始することが決定されていた。支配体制の代表たちによる脅迫的な演説が、革命委員会の創設をひき起こしたのである」
このアピールは、委員会が最後の時まで忠実に堅持した政策方針を述べることで結ばれていた。
「同志ならびに市民諸君! 委員会は、一滴の血も流されないよう切望している。工場、要塞、艦上での仕事を中断しないでほしい。我々の任務は、新たなソヴェトの誠実かつ公正な選挙のための諸条件を共に保証することである。我々は、諸君に、秩序正しく、冷静に、断固として、全勤労人民の幸福のための新たな創造的社会主義的労働に向かうよう呼びかける」
こうして水兵たちは、叛乱の言辞から行動へと突き進んだ。それでもなお、彼らは国家の支配者たちとの協定が可能となることを希望していた。彼らの目的は、革命ではなくソヴェト体制の枠内における改良だったのである。彼らは…その伝統と功績の故に…人民の名において発言する資格をもっている、と感じていた。けれども、彼らはボリシェヴィキの恐慌状態と絶望的な無分別さを見通してはいなかった。ボリシェヴィキは、譲歩することなど考えもしなかったのだ。ボリシェヴィキ間のイニシアティヴは、すでに地方的独裁者ジノヴィエフの手からレーニンとトロツキーの中央権力へと移っていた。そしてモスクワにおいて、彼らはすばやく自分たちの闘争手段を準備したのであった。
三月二日、早くも、レーニンとトロツキーは、邪悪な嘘言と中傷に満ちた公式声明に署名し、これを発表した。彼らは、クロンシュタットの運動を暴動と呼び、水兵たちを「社会革命党の裏切者どもと結託してプロレタリア共和国に対して反革命的陰謀を画策しつつあるかつての帝政派将軍どもの手先き」と呼んだのである。つづいて、ロシア人民および全世界に、以下の如き《純然たる》真実を知らせるために彼らの命令が出されていた。
「二月二八日、『ペテロ=パウロ』乗組員は、『黒百人組』(かつての君主主義的ギャング)の精神を体現している決議を採択した。それから、前将軍コズロフスキー(原註)が前面に登場した。かくして、帝政派将軍が今一度、社会革命党の尻押しをつとめているのだ。この全ての事に鑑み、労働・防衛会議は―
(1)、コズロフスキーとその援助者を非合法化すること
(2)、ペトログラード管区を戒厳令下に置くこと
(3)、最高権限をペトログラード防衛委員会の手に与えることを命令する」
(原註)、コズロフスキー将軍は共産党政府によってクロンシュタットに任命配属されていたのであり、叛乱に際しては、いかなる役割をも果していなかった。
周知のように、こうした皮肉たっぷりな主張の中には、真実の言葉の一かけらもない。彼らの意図は、クロンシュタットの水兵たちを貶めること、それに彼らを右翼社会革命党、君主主義者、「フランスのスパイ」の追随者として言いたてること、にあった。だが、クロンシュタットは、心して、反革命勢力とのあらゆる接触を抑制していた。ヴィクトル・チェルノフが、右翼社会革命党の名において彼らに援助の提供を申し出た時ですら、彼らは丁重にではあったがきっぱりと、これを拒絶したのである。
彼らの無線を通じてのメッセージの交換は、再現するに値しよう―チェルノフはエストニアのレーヴェリより次のように打電した―
「憲法制定議会議長ヴィクトル・チェルノフは、専制の軛を振り落す一九〇五年以来三度目の闘争を続けている英雄的水兵、赤軍兵士ならびに労働者同志諸君に、兄弟的連帯の挨拶を送る。私は、国外にあるロシアの協同的諸機関を通じての人員による援助と食糧の供給とを申し出る。何が、どれほど必要とされているのかを知らせてほしい。私は、自ら赴き、私の力と権威とを人民革命の下におく用意をととのえている……人民解放の旗を最初に掲げた諸君に栄光あれ! 左右の専制政治を打倒せよ!」
革命委員会は、短かい無線によるメッセージで応えた―
「クロンシュタット臨時革命委員会は、国外にあるすべての我々の兄弟たちに対して、その好意に深い感謝の意を表明する。臨時革命委員会は、同志チェルノフの申し出について感謝してはいるが、さしあたり、つまり今後の展開が事態をはっきりさせるまで、これを謝絶する。その間に、あらゆる事が考慮されるであろう。
ペトリチェンコ 臨時革命委員会議長」
クロンシュタットでは、ボリシェヴィキ政府が彼らに対して武装攻撃を準備しつつあるということがいよいよ明白となってきた。水兵たち自身はいかなる武装蜂起をも計画していなかったし、また、運動全体も実際、計画されたものではなかった。当時、正しくも指摘された(原註)ように、もし彼らが真に蜂起を意図していたのであったら、彼らはクロンシュタットが未だ堅く氷に取り囲まれている三月初めに蜂起を開始しはしなかったであろう。彼らがすこしの間、春の陽が氷を打ち砕くまで待ったなら、クロンシュタットは、ペトログラードへ狙いを定めた強力な艦隊という強みをも兼ね備えた、近づき難い要塞と化したことだろう。彼らの運動は、相互の連帯に基づく精神的力を頼みとする、奮起させられた人びとの真に自然発生的な平和的な行動であった。その故にこそ、クロンシュタットは、最初の決定的な日々において、ボリシェヴィキの混乱を拡大するためのいかなる攻撃的な措置もとらず、また軍事的攻撃の用意も行なわなかったのである。その故にこそ、彼らは本土からの赤軍の接近を阻止するために、要塞の周囲の氷を砕くことをしなかったのである。
(原註)、右翼社会革命党によって一九二一年にプラグで刊行された『クロンシュタットに関する真実』を参照。
しかしながら、こうした運動のもつ致命的な危険性をよく理解していたボリシェヴィキは、敏速に、無情に、一切の妥協を排してこれを鎮圧することを決意していた。
三月六日、トロツキーはラジオを通じてクロンシュタットへ最後通牒を送った―
「労農政府は、クロンシュタットおよび叛乱戦艦が直ちにソヴェト共和国の権威に服すよう要求する。私は、それ故、社会主義の祖国に向けて拳をふりあげたすべての者が、即刻その武器を捨てるよう命令する。抵抗する者は武装解除され、ソヴェト当局へ引き渡されるであろう。逮捕されている政治委員(コミサール)および他の政府代表は、直ちに釈放されねばならない。無条件に降服する者のみが、ソヴェト共和国の慈悲をあてにできるであろう。私は、現在、武力をもって叛乱を鎮圧し叛徒を屈服させるべく準備を整えよ、との命令を発している。善良なる一般住民がこうむるであろう危害に対する責任は、反革命的叛徒の上に完全に帰せられるであろう。
この警告は、最後のものである。
トロツキー共和国革命軍事委員会議議長
カーメネフ最高総司令官」
もし、トロツキーが、すぐにも降服するだろうと期待していたとすれば、彼は誤まっていた。
三月七日付の『イズヴェスチヤ』上で、叛乱者たちは、真剣にしかも毅然として応えた―
「陸軍元帥トロツキーは、三年間にわたる共産党員政治委員(コミサール)の専制政治に抗して叛乱を起した自由クロンシュタットを脅迫してきた。彼は、軍事的破壊と平和な一般住民への砲撃とをもって共産党員による独裁という屈辱的な軛を投げ捨てた勤労人民を脅やかしている。彼は、破廉恥にも、忍耐強いロシアの名において語り、慈悲を約束するのだ……もう沢山だ! 君たちは、労働者をこれ以上だませない。共産党員諸君、君たちの願いは虚しく、君たちの脅しは効かないのだ。革命の《第九の波》(原註)はすでに高まり、やがてそれはこの国の中傷者や抑圧者どもを洗い流すことであろう。トロツキー氏よ、我々は君の慈悲など必要としないのだ!」
(原註) ロシア水夫の問では、嵐の際「第九の波」があらゆるもののうちもっとも危険なものである、といわれていた。
三月七日午後六時四五分、翌日、砲撃が始まった。革命委員会の公式発表によれば、共産党派沿岸砲台がクロンシュタットの各堡塁へ向けて砲火を開いた。各堡塁はこの挑戦を受けて立ち、やがて砲台を沈黙させた。
クロンシュタット側における最初の砲撃の影響は、決定的なものであった。その瞬間まで彼らは、支配体制がその武力に訴えはしないことを願ってきたのだ。今や彼らは、自らを同じ武器で防衛せねばならないことを認識したのである。その夜、彼らの平和的な改革への願いは、革命への雄叫びにとってかわった。しかも彼らはその革命的闘争を、ただ自分たち自身のためにではなく、ロシア全体のために、そして《共産党員政治委員》に反対してではなくボリシェヴィキ体制全体に反対して、闘ったのである。
三月八日、革命委員会は、「全世界に知らしめよ」と題した熱烈なラジオ・アピールを放送した―
「すべての、すべての、すべての諸君! 最初の一弾が発射された……労働者の血潮に膝までつかりながら、元帥トロツキーは、真実のソヴェト権力を樹立するため共産党員による専制に抗して決起した革命的クロンシュタットに対して、卒先して砲火を開いた。我々、クロンシュタットの赤軍兵士、水兵および労働者は、一滴の血も流すことなく自己を共産党員の軛から解放したし、彼らの生命を保障さえしてきた。彼らは大砲による脅しでもって我々を再び彼らの圧制の下に服従させんと望んでいる。
流血を欲していないが故に我々は、無党派のペトログラード・プロレタリアートの代表が、クロンシュタットはソヴェト権力のために闘っているのだということを知るために、我々のもとに派遣されるよう要求した。だが、共産党員は、我々の要求をペトログラード労働者の目から隠し、あまつさえ、砲火―勤労大衆の要求に対する似而非労農政府の返答の常套手段である―を開いたのである。
全世界の労働者に、我々が社会革命の獲得物を防衛しつつあることを知らしめよ。
我々は、勤労大衆の正しい目的のため戦いつづけ、勝利するか然らずんば、クロンシュタットの廃墟の下に死すであろう。
全世界の労働者が、我々の審判者とならんことを。無辜の人民の血潮が狂信的共産党員の頭上に流されるであろう。
ソヴェト権力万歳!」
『イズヴェスチヤ』の同じ号(三月八日付)で、クロンシュタットの人民は、その綱領を明確な言葉で定式化していた。これを境として絶望的な闘争へ突入することを理解していたが故に、彼らは、自分たち自身のために、そしてまた全世界のために、彼らの戦いの目的をはっきりさせることを望んだのである。したがってこの論文は、二月二八日の決議に劣らず重要なものである。それは「何のために我々は戦うのか?」と題されていた。
「一〇月革命をもって労働者階級は、自己の解放を成し遂げたいと希求していた。しかしながらその結果は、人間性に対するさらに一層酷い奴隷化であった。ツァーリの警察と憲兵の権力は、人民に自由を与えるかわりに絶え間ないチェーカーの恐怖を教え込んだ簒奪者ども―共産党員―の手に陥ちた……こうしたことのうちで最も邪悪にして犯罪的なのは、共産党員による精神に対する陰謀である、即ち、彼らは労働者の内的世界へその触手をのばし、誰もが彼らの教理どおりに思考するよう強制したのである。
労働者階級の解放という赤旗を高く掲げた最初の国、労苦する者のロシアは、共産主義者の支配の栄光を称えるための、こうした殉教者たちの血潮にぬれている。共産党員はその血の海の中で、労働者の革命のすべての輝きにみちた約束と夢とを溺死させつつあるのだ。ロシア共産党が、自称している如くに勤労大衆の擁護者ではない、ということが、今や明らかとなった。労働者人民の利害は、それとは相容れないのである。
辛棒強い忍耐に、終止符が打たれねばならない。国内のいたるところが、抑圧と暴力に抗する叛乱のかがり火に照らし出されている。だが、ボリシェヴィキ警察体制は不可避的な第三革命の勃発に対して、あらゆる予防策を講じてきた。
それにもかかわらず、第三革命は到来し、それは労働者自身によって形づくられつつある。共産主義の将軍たちは、決起したのが人民であることを十分よく理解している。彼らは、自己の安全が脅やかされるのに恐怖し、労働者の復讐から逃がれる術(すべ)がないことに気づいて、投獄、銃殺その他の残虐行為を用いて叛乱者を恐怖で支配しようと試みている。だがしかし、共産党独裁制の下での生活は、死よりもはるかに恐るべきものなのだ……。
中間の道はない。勝利か、然らずんば死か! その模範は、右翼からたると左翼からたるとを問わずすべての反革命の仇敵であるクロンシュタットによって示されてきた。クロンシュタットは、三世紀にもおよぶ専制君主政治をも顔色なからしめるが如き三年にわたる共産主義者の圧制に抗して、叛旗を高く掲げた。ここクロンシュタットにおいて、労働者を縛りつけている最後の鉄鎖を打ち砕き、社会主義建設のための新たな大道を切り拓くであろう第三革命の礎石が、据えられたのだ。
『The
Truth about Kronstadt』 『Kronstadt
Uprising』
この新たな革命は、東方と西方の大衆を鼓舞し、共産主義者による官僚主義的な、無味乾燥な《建設工事》とは異なった新たな社会主義的創造の模範となるであろう。人民は、労働者と農民の名の下に今までなされてきたことが社会主義などではない、ということを学ぶであろう。
ただの一弾も発射することなく、ただの一滴の血も流すことなく、第一歩は踏み出された。労働する者は、流血を必要としない。彼らは、自己を防衛する場合にのみ、血を流すであろう。労働者と農民は前進する―憲法制定議会をそのブルジョア体制もろとも、また共産党の独裁制を労働者の首に絞首索をまきつけ、しめ殺さんと脅してきたチェーカーや国家資本主義もろとも背後にうち棄てて。
現下の蜂起は、今こそ党の鞭に対する恐怖なしに活動する、自由に選出されたソヴェトを獲得する機会を人民に与えている。人民は、今や、政府機関に組み込まれた労働組合を、労働者、農民そして勤労知識人による自発的な連合へと再編していくことができるのだ。共産党独裁の警察的暴力支配は、ついに粉砕されるのだ」
クロンシュタットに行きわたっていた精神にみられるおそらく最もきわだった特徴は、はじめて砲撃を受けた悲劇的な日々においてすら、彼らが国際主義的な絆を忘れはしなかった、という事実に求められる。『イズヴェスチヤ』はその三月八日号で、全世界の勤労婦人へ向けてのラジオ・メッセージを発表した。「今日は世界の祝日、勤労婦人の日である。雷鳴の如き砲撃のもと、労働者人民の敵の手で発射される砲弾が炸裂する只中より、我々―クロンシュタットの人民―は、貴女がたに我々の兄弟的挨拶を送る。この挨拶は、赤色クロンシュタット、即ち自由の共和国より貴女がたのところへ届けられる。我々の敵は、我々を引き裂こうと望むかも知れない、だがしかし、我々は不敗なのだ。我々は、貴女がたが、あらゆる抑圧と暴力からの迅速な解放をなしとげるよう祈っている。世界革命万歳!」
その日以降、戦闘は絶え間なく続けられた。ボリシェヴィキ派砲兵隊と飛行機は、要塞と市とを砲撃し、爆撃した。この時までに防衛委員会を設置していたクロンシュタットの人びとは、活発に応射した。市街地の労働者たちは、頭上の飛行機を小銃(ライフル)で狙い射った。熱狂的精神と献身的行為への心構えとが全住民をとらえていた。しかし、彼らがそうした闘争に備えてこなかったことと、政府による封鎖が(隣接しているが今は外国即ちフィンランド領となっている地域だけを除く)全国から彼らを孤立化させていたが故に、彼らの軍事的力量は制約されたものとなっていた。他方、政府はロシアのあらゆる資源を自己の自由裁量下においていた。連日の砲撃を続けている時でさえ、政府は、クロンシュタットに対する突撃のために最も遠隔の後背地より兵士を動員しつつあったのである。
だが、政府側陣営においてもまた、当惑がみられた。ボリシェヴィキは、クロンシュタットのスローガンに本能的に魅せられている自己の軍隊を信頼していなかったのである。この時期に関するボリシェヴィキ派の歴史家N・プーホフは、このことを確認している(原註)。彼は赤軍兵士たちが雪の中で偽装するためあたかも屍衣のような白い長い上っぱりを身にまとっていたと述べている。
三月八日の夜、彼らは、クロンシュタットへの攻撃を開始した。猛烈な吹雪がバルト海上を吹き荒れ、視界はほとんどゼロであった。
プーホフは報告している、
「まさに作戦が開始されんとした時に、第二大隊が進撃を拒否した。たいへんな苦労をかさねたあげく、共産党員政治委員に助けられて、彼らは氷上を出撃するよう説得された。だが、彼らがクロンシュタット側の最初の南部砲台に到達するや否や、その大隊の一個中隊全部が敵に降服してしまい、将校だけが引き返してきた……夜は明け始めていた。やがて他の部隊、即ち第三大隊も同じ途を辿ったということが明らかとなった。この大隊は、人びとが彼らに向けて赤旗を振っているミリューチン堡塁へ接近しつつあった、そこで彼らは、降服するか射殺されるか、との叛徒の警告を耳にしたのである。政治委員と三〜四名の兵士を除く全員が、降服した。彼らは、危うく降服しそうになっていた第七中隊を連れて引き返した」。この報告は、当時公けにはされていなかった赤軍公式コミュニケから引用されたものである。
(原註)、N・プーホフ、『クロンシュタット叛乱』、国立出版所、モスクワ、一九三一年。
状況は、戦線の北部においても同様であった。政治委員ウグラノフは、三月八日にペトログラード党委員会宛に書いている、「私は部隊の士気について報告することを、私の革命的義務と考えます。我々は第七堡塁を占領しました。しかしながら、兵士の間の意気阻喪の故に、我々はそれを放棄せねばならなかったのです。私は、彼らの懸念について報告せねばなりません―彼らはクロンシュタットの人びとが何を要求しているのか知りたがっているし、自分たちの代表を彼らのところへ派遣したがっているのです」
こうした状態は、他の多くの軍事部隊においても、広くゆきわたっていた。クロンシュタット側の砲火は、兵士たちを倒しただけではなく、彼らの足下の氷をもしばしば割った。負傷した者は、そうした割れ目に足をすべらせ、氷のように冷たい水中へ呑み込まれていった。兵士の血潮に赤く染められた広漠たる雪野原は、悪夢のような出来事の象徴と化した。クロンシュタットの指導者たちは、こうした出来事をつぶさに目のあたりにして、この兄弟殺しに狩りたてられた彼らの血肉をわけた兄弟たちに同情していた。
三月一〇日、彼らは、「ボリシェヴィキ側に立って戦っている赤軍兵士たち」へ感動的なメッセージを送った。
「同志たち。我々は兄弟の血を流すことを望んではいないし、余儀なくそうさせられる迄は、一発の弾丸も射たなかった……諸君にとって不幸なことには、猛烈な吹雪が夜の闇に吹き荒れていた。にもかかわらず、共産党員の死刑執行人どもは、諸君を背後から党員を配置した機関銃でもって脅しながら、氷上に諸君を追いたてたのだ。諸君の多くは、その夜フィン湾の渺茫たる氷原に消えていった。そして、夜が明け猛吹雪が静まった時、諸君のうち生き残ったほんの僅かの者が、白い屍衣に身を包み、疲れと飢えでほとんど身動きも出来ない有様で、我々のもとへやってきた。
朝早くには、すでにその数は一〇〇〇名にも及び、その日の暮れ方には、さらに増えて数えきれぬほどとなった。諸君は、この危険な冒険に、多大の犠牲を支払ったのだ。だが、奴らは新たな諸連隊を送って寄こすだろう。
……同志たち、諸君は何をしているのか? 正気をとり戻してくれ。我々と団結せよ、そして我々の共同の敵へ向って、自由なソヴェト・ロシアと我々の兄弟である労働者農民のために肩を組んで進撃しよう!」
フィンランド湾氷上を突撃する赤軍 反乱者殺害・一掃の戦闘をする赤軍
『Kronstadt Uprising』imagesからの写真2枚
これに続いて政府は、その三つの発現形態―ボリシェヴィキ党中央委員会、チェーカー、赤軍―の全てをあげて、決定的手段を採った。トゥハチェフスキーがクロンシュタット攻略《作戦》の指揮官に任命された。軍隊は再編制され、しかも、クロンシュタットの歴史や功績についてほとんど無知な中央アジア人―キルギスやバシキール―兵士によって増強された。当時第一〇回共産党大会が開催されていたモスクワから、彼らは、軍隊とチェーカー軍事部隊とに煽動者として送り込む三〇〇名を下らない代表団を急派してきた。その中には、党のもっとも重要な指導者たちの多くが含まれていた。共産党員は、ある部隊では全体の三〇パーセントを占めており、別の部隊では、それは六〇パーセントにもおよんでいた。残りの兵士たちを脅迫するために、《革命》法廷は全力をあげて活動を開始した。
歴史家プーホフはこう報告している、「敵や挑発者であることが立証された者は、その罪状に従って法廷によって罰せられ、判決は直ちに軍隊に通知された」。こうしたやり方で《士気》が高揚させられた。
三月一五日、トゥハチェフスキーは、次のような命令を発した―「三月一六日夜から一七日にかけて、クロンシュタット要塞は、強襲によって奪取さるべし」。特別編制部隊が、要塞を攻撃し、クロンシュタット市街地における白兵戦を行うよう命令を受けた。
そうした間、クロンシュタットは、依然としてペトログラードおよびロシアの労働者が彼らの救援に駆けつけてくれることを希望しつつも、決戦への備えを固めていた。クロンシュタットの人びとは、毅然として立っていた。市、工場、学校そして軍隊にあった何百人という共産党員は、『イズヴェスチヤ』上で公然と彼らが共産党から脱党することを述べたのである。その総数は、七八〇名にも達した。彼らは恐怖からではなく、真実の人民解放が迫っているとの確信から、そうしたのだ。したがって彼らの声明は、直接的であり雄弁でもあった。クロンシュタット側へ降服した兵士たちは自分たちを再編制して防衛者たちに加わった。クロンシュタットでは、誰一人として降服することなど思いもよらなかったのだ。三月一二日―ツァリーズムの崩壊の四周年記念日―がクロンシュタットで祝われ、『イズヴェスチヤ』の社説はその読者に彼らの要塞、即ち「社会革命の不寝番」は、(一九一七年の)二月と一〇月における人民の権利のために闘ってきたことを想起させた。今こそ、初めて「労働者人民の第三革命において、叛旗を高く掲げる」時がきた。ちょうどツァーリ専制が崩壊していったように、人民委員(コミサール)の専制もまた滅びていくであろう。彼らは続けた。
「少数の英雄的人びとの一団が、党の絞刑吏の狂暴なまでの激怒を一身に引き受け抵抗を開始して以来、一二日が経過した。だが我々は確信している。我々は勝利に満ちた最後迄戦い抜くか、さもなくば、自由に選出されたソヴェト万歳!と叫びつつ、倒れてゆくであろう」
三月一六日、彼らが自由に振舞えたその最後の日においてさえ、その『イズヴェスチヤ』最終号で、彼らは、自らの理念的目標を、明確な言葉で再び述べていた。これらの言葉は、あたかも未来の世代に属するロシアの戦士たちへの遺言のようであった。
「ロシアの労働者人民が一〇月叛乱に決起した時、彼らは、労働の共和国を建設するためにその血潮を流した。ところが、共産党員は、まず最初にすべての他党派の社会主義者を、そののち労働者農民大衆を排撃した……国家よりの命令によって、市民の生活は、忍び難いほど退屈で無味乾燥なものと化してしまった。
自由な個性の発展や自由な労働生活の代りに、言語に絶する奴隷制度が設けられた。いかなる自立的思想も指導者に向けられた正当な批判も、投獄、そしてしばしば死をもって罰せられる犯罪となった。死刑と人間への全き侮辱とが《社会主義の祖国》にはびこった。生は堪え難いものと化し、そして、クロンシュタットは、監獄の鉄格子を打ち砕くため、先頭に立っている。クロンシュタットは、異なった社会主義、即ち生産者自身が自己の労働の生産物の完全な支配者であり管理者であるような、労働の共和国のために戦っているのだ」
8、3月16日、トゥハチェフスキーの一斉総攻撃
精神は依然として高揚し続けていたが、次第にそれを維持するのが困難となってきた。彼らは、軍事的緊張によって疲れ果てていた―総数一万四〇〇〇人のうち一万人が兵士であった。不十分な食料(それは全員に平等に配分されていた)と寒い中で貧弱な衣服を着けたまま、彼らは休養もなしに、月も夜も銃をとり続けていたのである。多くの者は疲労の極にあった。
三月一六日、トゥハチェフスキーの一斉総攻撃は、計画された通りに開始された。ボリシェヴィキ派軍隊は甚大な損害をこうむったが、堡塁を強襲し、それを一つ、また一つと陥していった。水兵たちは市内へ退却し、武装労働者大隊が彼らに合流し、共にあらゆる街路で戦った。彼らは、一つ一つの家屋、屋根、地下室に拠って射撃を続け、そしてそれでもなお、兵士たちを味方に獲得しようと試みていた。死傷者の数は莫大なものだった。戦闘は、三月一八日の夜に引き継がれ、さらにその翌日中続けられた。それから、銃声が途絶え、死のような沈黙が、クロンシュタットの上に降りかかった。
地図の□印は、クロンシュタット側の海上堡塁。左図の赤矢印は、三月七、八日の
第一次攻撃だが、壊滅的な損害で退却。黄色基地と矢印は、三月一六〜一七日
の南北からの第二次総攻撃で、氷結した湾内の堡塁を占領し、市街戦で鎮圧した
ところで、殺戮をまぬがれた水兵、赤軍兵士それに労働者の身には何が起こったのか? 数千人は、最後の夜のうちに氷上を横切ってフィンランドへとかろうじて脱出していった。他の者は、チェーカーと軍事法廷の手に陥ちた。毎夜、囚われた水兵たちの諸グループがペトログラードの牢獄から引き出され、銃殺された。非常に多くの者が監獄やアルハンゲリスクやトルキスタンの強制収容所へと送られていった。
《勝利》にもかかわらず、ボリシェヴィキ支配体制は、手放しで喜べなかった。この体制は正しくも、クロンシュタット運動を、自己の権力に対する脅威と見倣し、その結果レーニンは、すぐさま、新しい統治手段を提起することにより、その問題を処理したのだった。これは、自由を与えてくれるものでもなく、また一党独裁からソヴェトを解き放ってくれるものでもなく……ただ経済的なネップ(新経済政策)を売り物にしていた。これは、プロレタリアートの政治的独裁と一対になった、農民の《所有本能》(プロパティ・インスティンクト)への経済的譲歩の体系となるはずであった。共産主義者たちは、正義や人間の尊厳に対する大衆の熱烈な欲求を無視し、その代わりに、彼らを経済的《自由》でもって―当分の間―なだめようと心に決めたのである。一九二二年一月一日付『プラウダ』は、その前年についての分析の際、クロンシュタットについて、こう言及せざるをえなかった。「我々の敵は、一つの重要な事実、即ち共産党指導者の政治的叡智、を考慮に入れることができなかった。致命的な脅威を目前にして、党は―寸刻の猶予もならない問題に関して―自己の方針を転換し、新経済政策へ向けての国家という船の進路の必然的なかつ素早い変更をなしえたのであった」。こうして、国家という船とその船長とは、自らを救済したのである。
9、クロンシュタット叛乱の性格―革命の中の革命
しかし、クロンシュタットは、忘れられてはいなかった。いかなる意味においてもそれは反革命などではなく、むしろ、革命の中の革命とでも言うべきものであった。彼らの主体的な意志およびその客観的な歴史的責務に従って、クロンシュタットの水兵たちは、ロシア革命をその本来の軌道にもどすべく決起したのである。四年もの長きにわたって、人民の中に蓄積されてきたあらゆる事ども―その苦悩と不安、その輝かしい希望と真理に対する深い信念―こうしたすべてが、クロンシュタットの決起のうちに、表現し発言する場を見出したのだった。自分の土地で脅されている農民の声、辱しめられ飢えている労働者の声、卑しめられロボット化された知識人の声―彼らの苦悩に満ちた声のすべてが、クロンシュタットからのアピールの中に、そして後には大砲の響きの中に、こめられていた。そしてこれが人民の決起であったが故に、クロンシュタットにはロシア革命の最良にして最も忘れ得ぬ諸特徴が、澄んだ輝きを伴って現われていた。
クロンシュタットは、寛大であり、そして人道主義的であった。最初の瞬間から最後にいたるまで、それは流血を嫌悪していた。ことに残酷なロシアの内戦を何年間もくぐり抜けてきた水兵たちは、自分たちの解放闘争にあたってそうした血まみれのやり方を拒否したのであった。彼らは、絶え間なく『イズヴェスチヤ』上のその宣言や論文で、このことを繰り返していた。三月八日、即ち彼らの堡塁に向けて第一弾が発射されたその翌日、その深い精神的打撃にもかかわらず、彼らは簡潔に言明した、「労働する者は、流血を必要としない。彼らは、自己を防衛する場合にのみ、血を流すであろう」。人は、きっとローザ・ルクセンブルクのまったく同様な言葉を想い起こすことであろう。「プロレタリア革命は、自己の任務を実現するのにテロルを必要とはしない。それはただ、殺人に対して、憎悪と嫌悪を持つだけである」。
クロンシュタットの指導者たちは、可能な限りの場でその島の防衛者の生命を無駄にせぬよう試みただけでなく、政府が彼らに向けて駆りたてていた彼らの仲間である兵士たちに対する絶望的な同情心にも満ちていた。心からの悲哀の念をもって彼らは、「フィン湾の氷のような水を染めた赤き血潮」について書き記し、彼らが死の種を播くことを余儀なくされた当の人びとへその迷妄から醒めるよう訴えたのである。無意識のうちに、彼らはナロードニキ・テロリストのグレゴリー・ゲルシュニが、かつてツァーリの裁判官へ投げつけた偉大な言葉を繰り返していたのだった。「我々は、諸君が我々の血を流したが故にではなく、諸君が我々に諸君の血を流すよう強いたが故に、諸君を憎む……」。死と破壊とが、ほとんど無制限に君臨しているような国にあって、クロンシュタットの指導者たちは、平和、相互理解それになによもまず、生命の尊さを説いたのである。
例えば、ペトログラードの政府が、クロンシュタットの水兵および赤軍兵士の家族を人質として拘留しているということがクロンシュタット側に判明した際、革命委員会は、三月七日、ペトログラード・ソヴェト宛に、以下のようなラジオ・メッセージを送った―
「クロンシュタット守備隊の名においてクロンシュタット臨時革命委員会は、ペトログラード政府の手で人質として拘留されている水兵、労働者、赤軍兵士の家族が二四時間以内に釈放されるよう要求する。
クロンシュタット守備隊は、クロンシュタットにおける共産党員は完全な自由を享受しており、その家族も絶対に安全であることを通告する。ペトログラード・ソヴェトの例は見習われることはないであろう、何故ならば、我々はそうしたやり口を、たとえ絶望的な憤激からなされたとしてさえも、恥ずべき、堕落しきったものと見倣すからである。歴史上こうした醜行は未だかつてない。
臨時革命委員会議長 水兵ペトリチェンコ
書記 キルガスト」
それは、本当だった。クロンシュタットは共産党員たちに危害を加えはしなかったのだ。迫害するとか処罰するとかいう考えも存在していなかった。いかなるチェーカーも創設されなかったし、死刑を導入しようとすることなど考慮されもしなかった―よしんば敵共産主義者たちが市中いたるところに存在していたにしても、である。のみならず、『イズヴェスチヤ』は、クロンシュタットの人びとに「我々は復讐を行なわない」という見出しの下に、短かい宣言を発したのであった、「共産党独裁による人民への長くうち続いた抑圧は、我が住民の側に当然の憤激を引き起こしてきた。その結果、ある場合においては、共産党員の身内が排斥されたり、その地位から追い出されたりした。こうしたことはあってはならないのだ。我々は、復讐を行なわない―我々は、自分たちの労働の利益を護るだけである」
クロンシュタットの人民は、自己の経済的利害のためにだけ戦ったのではなかった。彼らは、とりわけ人間の解放のために、自覚しつつ苦闘したのであった。彼らの「自由ソヴェト」への熱い要求は、人間、市民、同志からその精神的・道徳的鉄鎖を取り除きたいという願いを表現していた。その最後の記事の中で―その中で彼らは皮肉たっぷりに「カツコつきの社会主義」について書いていた―、彼らは、人間性の自由な発達の代わりに、思いもよらぬ奴隷制がいかにして生じたのかを、ロシア人たちに今一度、想い起こさせた。そうした人びとのリバータリアン〔絶対自由主義者〕的、人道主義的精神を理解するには、彼らの『イズヴェスチヤ』の全一四号を通読すれば十分である。
彼らは、絶望的な戦闘の最後の時にいたってさえも、それを裏切りはしなかった。堡塁がすでに占領され街頭での戦闘が荒れ狂っていた時に、何千人もがフィンランドに亡命を求めて脱出しつつあった時に、どのような軍隊でも敗者となればその限は激しい憎悪で盲目となっただろうその時に、勝ち誇った支配体制が彼ら自身にどれほど残酷に報復するかを理解した時に、クロンシュタットの人びとは、彼らの只中にいる共産党員たちに復讐しようとはしなかったのである。すでに述べた二人の指導的なボリシェヴィキ―クジミンおよびヴァシーリエフ―は、チェーカーが市中に突入した際、その手で解放された。彼らは直ちに、数名の市内の共産党員と共に、投獄されていた間彼らの生命を保証してくれた人びとを背後から襲うことにとりかかったのである……。
この人民の中の人民、このクロンシュタットの人びとは、人間の生命を尊重しただけではなかった。彼らは、自己の国際的、全人民的義務を十全に自覚し続けていた。それだからこそ、彼らは時を得て全世界の勤労婦人へ挨拶を送ったのであり、常に自分たち自身を抑圧された人類の前衛と考えていたのである。そして彼らは、自らと全世界のために絶対的正義と完全な真実そのものを求めたが故に、マクシマリスト〔最大限綱領主義者〕であった。彼らの言葉と行為とは、革命の出発に際しての叫びを、もう一度、響かせていた―「全てを変革せよ。我々の偽りと無味乾燥さと悲惨とに充ちた生が正義と喜びと美しさに充ちたものとなるように、あらゆるものを変革せよ」
その英雄的な闘争において、クロンシュタットはロシア革命の基本的諸特徴、即ち、その人道主義的、全人民的、最大限綱領主義的性格を、再び確認した。消えゆく時でさえ、クロンシュタットは、降服の白旗を掲げはしなかったのである。
クロンシュタットは、一つの時代の終焉を示すものであった。クロンシュタット以降ロシアの人民は、自己の権利と名誉とを護るため、そうした手段をもって起ち上がる力をもはや持つことはなかった。人は陰鬱な心を抱いて、歴史の上で正義が勝利することなど決してないし、圧制者が互いに交代しようとも圧制の剣は依然として残るのだ、と言うかもしれない。だが、やはりそうではないのだ。クロンシュタットの影は今なおロシア全土を覆っている。今日、勝利に満ちた征服者たち―トロツキー、ジノヴィエフ、トゥハチェフスキーは何処にいるのか? 彼らがあれほど誇りをもって防衛した、その体制が、後には彼らを裏切者と屠り、一人また一人と殺していったのだ。だが、クロンシュタットの殉教者たちは、罪なき子らとしてロシア人民の記憶の中に今も生き続けている。
一七九三年、ダントンがパリ革命法廷に臨んだ時、彼は九月の大虐殺を彼に思い出させるかのように亡霊の如き声が「九月! 九月!」と叫ぶのを耳にした。クロンシュタットに責任を負うべき体制がクレムリンに君臨するかぎり、それは、「クロンシュタット! クロンシュタット!」という叫びを耳にし続けるであろう。
3、富田武『クロンシュタット反乱参加者の名誉回復』
(注)、これは、『新版・ロシアを知る事典』(平凡社、二〇〇四年)における「名誉回復」項目の抜粋(七四二頁)である。旧版ではなかった「ソ連解体以後」の部分を、富田武が執筆担当をしている。ただ、名誉回復の根拠は、ここに書かれていない。歴史の評価が、クロンシュタット水兵一万人・基地労働者四千人は反革命分子でなく、いわゆるクロンシュタット反乱とは、正当な十五項目綱領に基づく、ソヴィエト内の合法的な要請行動だったと逆転した。となると、(1)それにたいして「白衛軍将軍どもの役割」と真っ赤なウソをつき、(2)彼らに「白衛軍の豚」レッテルを貼りつけ、(3)上記のような殺し方で皆殺しをさせたレーニンの評価はどうなるのか。レーニンの側こそ、ソヴィエト権力の簒奪者であり、ソヴィエト機構をボリシェヴィキ一党独裁権力に変質させた軍事クーデターの反革命指導者だったことになる。現在のロシア歴史学会では、十月の規定として、それを、十月プロレタリア社会主義大革命などでなく、レーニン・ボリシェヴィキによる単独権力奪取の軍事クーデターだったとする見解が、主流になってきている。
富田武『Professor Tomita's Platform』ソ連政治史、コミンテルン史
[ソ連解体以後]名誉回復の対象は、共産党解散・ソ連解体とともに、レーニンの下での弾圧の犠牲者にも及ぶようになった。〈政治弾圧犠牲者の名誉回復に関するロシア共和国法〉に基づき、従来〈反革命分子〉とされていたクロンシュタットの反乱参加者が、94年1月の大統領令で名誉回復された。また、内戦期に大多数が〈白衛軍〉についたとされるコサックは、91年8月クーデタ前に採択された〈被弾圧諸民族の名誉回復に関するロシア共和国法〉の適用を受けて、92年6月の大統領令で名誉回復された。この法に基づいて、第2次世界大戦中に対独協力の疑いでシベリア等に強制移住されたチェチェン人、イングーシ人、ヴォルガ・ドイツ人や、大戦前に対日協力の疑いでシベリア、中央アジアに強制移住(民族強制移住)させられた朝鮮人も名誉回復されている。
〔名誉回復問題について、富田武氏への私(宮地)のメール質問〕
(1)、クロンシュタット反乱者の名誉回復にいたる経過と、名誉回復理由
(2)、コサックの名誉回復にいたる経過と、名誉回復理由
に関して、分かる範囲で教えて頂けないでしょうか。(なお、返事のHPへの転載の了解を頂いています)
〔富田武氏からのメール返事の全文〕
宮地さん、とりあえずのお答えをします。富田武。
1)、コサックの名誉回復について:コサックはヴォルガ・ドイツ人、チェチェン人等と並べられる民族ではなく、ロシア人だが独特の歴史と文化、風俗を持つため「民族」の扱いを受けたと言えます。その名誉回復はコサック自身の運動によるものですが(モスクワでも祖父譲りの制服をまとった彼らをよく見かけました)、そこにロシア民族主義の尖兵として使いたいというエリツィン政権の思惑が働いたことは言うまでもありません。ちなみに、1992年6月15日の大統領令では「コサックに関わる歴史的公正の回復、歴史的に形成された文化的・民族的一体性をもつ集団としての名誉回復を目的とし、コサック復興運動代表者のアピールに応えて」となっています。
2)、クロンシュタット反乱参加者の名誉回復:こちらには名誉回復の運動はありませんでしたが、十月革命そのものを不当な権力奪取とみる(二月革命のブルジョア議会コースが望ましかったとする)エリツィン政権にしてみれば、水兵たちの要求(ボリシェヴィキ抜きのソヴィエト)の正当性を認めたのではなく、共産党の歴史的不当性を照明するためでした。ちなみに、1994年1月10日の大統領令では「1921年春のクロンシュタット市における武装反乱の廉で弾圧されたロシア市民の歴史的公正、法的権利を回復するため」とあり、具体的には、1921年3月2日の労働国防会議決定第1項(コズロフスキーもと将軍と部下を法の保護外におく)を廃止し、水兵らに対する弾圧を不法な、基本的人権に反するものと認め、事件犠牲者の記念碑をクロンシュタット市に建立するという3つの措置を決めました。
*労働国防会議決定第2項「ペトログラード市とペトログラード県を戒厳状態に置く」、第3項「ペトログラード要塞地区の全権をペトログラード市防衛委員会に移管する」。
なお、両者とも詳細な資料集が1997年に刊行されています(前者はまとめてではなく、ドン地方の『ミローノフ』など)。
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(関連ファイル)
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』コメントと6資料
P・アヴリッチ
『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット 『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
ヴォーリン 『クロンシュタット1921年』反乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』反乱の全経過
大藪龍介
『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱
梶川伸一
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
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