クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応

 

クロンシュタット反乱めぐるコメントと6資料

 

(宮地作成・編集)

 

 〔目次〕

   1、宮地コメント『クロンシュタット反乱の性格と背景』

   2、R・ダニエルズ『クロンシュタット叛乱』

   3、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』付録声明2編

   4、イダ・メット『ペトリチェンコの証言』クロンシュタット臨時革命委員会議長

   5、ニコラ・ヴェルト『クロンシュタットの反乱とその前後』

   6、内田義雄『聖地ソロフキの悲劇』クロンシュタット水兵の処刑

   7、富田武『クロンシュタット反乱参加者の名誉回復』1994年1月大統領令

 

 (関連ファイル)         健一MENUに戻る

     『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』

       ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係

     『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱

     ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版

     P・アヴリッチ 『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他

     イダ・メット   『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文

     ヴォーリン  『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

     スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過

     A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過

     大藪龍介   『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱

     梶川伸一   『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

       食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

       レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

     Google検索  『kronstadt

 

 1、宮地コメント『クロンシュタット反乱の性格と背景』

 

 この事件は、「クロンシュタットの反乱」と呼ばれている。しかし、ソ連崩壊後に発掘されたデータによって、それは、当初からの反乱目的行動ではなく、ソヴィエト内における合法的な要請行動であったという見解も広まっている。クロンシュタットの十五項目綱領の要求内容がそれを証明している。しかも、その時期は、三月初めであり、フィンランド湾は完全に凍結していた。戦艦を動かすことはできなかった。外国勢力との接触は一切なく、クロンシュタット水兵・労働者の独自行動だった。カリーニンの演説も聞いた上で、モスクワに帰還させている。ただし、それは、武器を持っていなかった農民反乱やペトログラードの全市的労働者ストライキ要求と決定的に異なっていた。それは、バルチック艦隊軍事基地における軍艦を持ち、もともと武装している水兵・労働者の要求だった。もし、ボリシェヴィキ一党独裁権力打倒の意図的な武装反乱であれば、その時期を、湾凍結がなくなる四月以降にするはずである。四月後の反乱決起ならば、凍結したフィンランド湾上を、トハチェフスキー指揮下の五万人の赤軍が突撃することはできなかった。それどころか、不満が高まっていたソ連全土の赤軍によるボリシェヴィキ政権打倒の軍事反乱に波及したであろう。

 

 クロンシュタット水兵・労働者の甘さは、レーニンが、ソヴィエト内の革命仲間として、平和的な交渉に応ずるだろうと錯覚したことにある。クロンシュタットの多数の宣言・チラシ内容を見ても、彼らは、トロツキーによる兵士委員会廃止、旧ロシア軍将官利用、軍隊のボリシェヴィキ化路線に厳しい批判を表しており、それも決起の一要因だった。しかし、なぜか、レーニンにたいしては、ほとんど批判せず、レーニンによる要求受け入れとソヴィエト改革に幻想を抱いていた。しかし、レーニンは一党独裁政権の崩壊に怯え、平和的な要求交渉を拒絶し、クロンシュタットの軍事鎮圧と皆殺し対応路線を採った。その時点から、ソヴィエト内部における合法的な十五項目綱領の要請行動は、軍事反乱にならざるをえなくなった。

 

 クロンシュタットの反乱の背景には、一九二〇年までに内戦が基本的に終了したのにもかかわらず、戦時体制を続けたボリシェヴィキ一党独裁政府に対する労働者、農民、兵士の不満がある。一九二一年二月、革命拠点ソヴィエトのペトログラート労働者十数万人が、プチロフ工場労働者六〇〇〇人を先頭として、一党独裁反対・食糧独裁令撤廃の全市的ストライキに総決起した。しかし、レーニンとジノヴィエフは、ペトログラード全市を軍事封鎖し、工場を逆ロックアウトした。さらに、ストライキ労働者を大量逮捕し、五〇〇人のストライキ指導者を即座に銃殺した。当時のペトログラードのボリシェヴィキ権力者ジノヴィエフが、レーニンの指令の下に、五〇〇人を即時殺害・銃殺した事実については、V・セルジュとメンシェヴィキ指導者ダンが明白な証言をしている。ペトログラード・チェーカーが、ストライキ労働者たちを、さらに大量銃殺しようとしたのにたいして、ボリシェヴィキのV・セルジュがなんとか止めさせた。彼は、その後、『母なるロシアを追われて』(現代思潮社)亡命した。

 

 クロンシュタットの水兵・労働者は、ペトログラードの全市ストライキに連帯して、調査団を派遣した。彼らは、鎮圧・虐殺されたペトログラード労働者ストライキの要求項目を受け継いで、(一)ソヴィエトの秘密再選挙、(二)労働者、農民に対する言論、出版、集会の自由、(三)社会主義政党に属する政治犯の釈放という政治要求の他に、経済要求をふくめた十五項目を採択した。一九二一年三月一日、一六〇〇〇人が参加したクロンシュタット・ソヴィエト大会は十五項目を採択し、あまりにも挑発的な演説をした一部共産党幹部を逮捕し、臨時革命委員会を設立した。この要求内容と行動は反社会主義的なものでなく、社会主義体制内部での民主化を求めるものだった。大会は、そこで反対演説し、反対投票した全露ソヴィエト執行委員会議長カリーニンを安全にペトログラードに帰還させることを承認した。

 

 ソヴィエトとは、会議、和合などを意味したが、一九〇五年革命で出現し、ペトログラード・ソヴィエトが中心だった。一九一七年二月革命でツアーリを退位させ、全国各地に労働者、兵士、農民のソヴィエトができ、全ロシア・ソヴィエト大会が作られた。十月革命でケレンスキー臨時政府が倒され、全権力のソヴィエトへの移行が実現した。一九一八年一月の第三回ロシア・ソヴィエト大会は、ロシアは、労働者・兵士・農民ソヴィエトの共和国である、中央および地方の全権力はこれらのソヴィエトに属すると決議した。

 

 クロンシュタットは、地図にあるように、ペトログラード(レニングラード)西方海上二九qのフィンランド湾内のコトリン島にある軍港都市で、バルト海艦隊の主力基地だった。人口は当時約四五〇〇〇人だった。その内、水兵は一〇〇〇〇人、艦隊基地労働者は四〇〇〇人いた。一九〇五年革命でも革命反乱を起こし、一九一七年十月革命では革命軍最大拠点の一つで、武装部隊をペトログラードにも派遣し、クロンシュタット水兵は<革命の栄光>としてたたえられた。ジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』にも革命水兵たちの活躍や発言がいろいろ描かれているが、これらの水兵はほとんどがクロンシュタット・ソヴィエトの水兵たちだった。

 

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 革命運動の二つの最大拠点ソヴィエトであるペトログラード・ソヴィエトの全市労働者やクロンシュタット・ソヴィエトの全員が、なぜ十月革命から三年四カ月後に、ソヴィエトの民主化を要求して立ちあがったかを考える必要がある。十五項目の要求は、その期間にレーニン、ボリシェヴィキによって権力がソヴィエトからどのように簒奪されていったかを証明している。クロンシュタットの臨時革命委員会は、戦艦ペトロパヴロフスク、戦艦セバストポリ、クロンシュタット電話局、ドック修理維持工場、第三労働学校、海軍機雷敷設工場、クロンシュタット要塞建設部、港湾水先案内人等の、長い兵役についていた水兵・労働者代表者たちで構成された。

 

 ロシア共産党(ボリシェヴィキ)第十回大会直前に発生した、ボリシェヴィキ一党独裁への民主化要求と反乱がレーニンらに与えた衝撃は決定的だった。一九二一年三月八日、レーニンは第十回大会第一日目で「白衛軍将軍どもが――諸君はみなそれを御存知であるが――ここで大きな役割を演じたことは疑いない。それは完全に立証されている」と報告した。これは、レーニンの真っ赤なウソである。そもそも、クロンシュタットの最高指令官に、その旧ロシア軍将軍を配置したのは、レーニン・トロツキーであって、旧軍事専門家を利用する方針に転換したことによるものであった。一党独裁権力に執着するレーニンは、平気でウソをついたのである。

 

 レーニンには、十月革命時点の最大拠点の一つであるクロンシュタット・ソヴィエト内部からの民主化要求に譲歩や妥協する選択肢があった。しかし、彼はそれを白衛軍の新たな陰謀、西側の策謀による反革命反乱と捏造、歪曲し、その武力鎮圧を決定した。第十回大会は、鎮圧を命じられた赤軍内の動揺拡大、鎮圧行動拒否の動きを受けて、三〇〇人の代表団を赤軍政治委員に任命し、鎮圧に派遣した。

 

 この革命の栄光に包まれた、仲間のクロンシュタット水兵の鎮圧を、クロンシュタット側の要求の内容も知らされないままで、レーニン、ボリシェヴィキ一党独裁政権=ソヴィエトからの権力簒奪政権に命じられた赤軍兵士、部隊が動揺し、部隊丸ごと鎮圧出動を拒否し、あるいはクロンシュタット側に同調し、そこに降服しようとする者が大量に出るのも当然のことだった。レーニンは、それに対して赤軍の再編制を急遽、全土で大規模に行うとともに、クロンシュタット・ソヴィエト側に降服、寝返りしようとする赤軍兵士の背後からの機関銃による大量殺人をも実行させた。

 

 アイザック・ドイッチャーは「ボリシェヴィキは、クロンシュタットの人びとを白色将軍に率いられた反革命謀反者として非難した。この非難が、根拠のないものであったことは、明らかになっている」(『武装せる予言者』オックスフォード大学出版、一九五四年、五五一頁)としている。レーニンのウソは、ソ連崩壊後、完全に証明されている。

 

 クロンシュタット・ソヴィエトのあるコトリン島は、全島とその周辺が海上要塞になっており、冬季はフィンランド湾が厚い氷で全面凍結した。鎮圧赤軍部隊五万人はその氷上を渡り、赤軍水兵一〇〇〇〇人、基地労働者四〇〇〇人が守る島の四方から総攻撃を仕掛けた。革命赤軍同士の戦闘という兄弟殺しの悲惨な戦闘を経て、三月十八日反乱は鎮圧された。五万人対一・四万人の激烈な赤軍内の殺し合いだった。軍当局の発表では、赤軍側死者五二七人、負傷者四一二七人となっているが、ここには溺死者および負傷したまま氷上に置き去りにされて死亡したおびただしい人々はふくまれていない。クロンシュタット側の死亡、負傷の数字はなにもない。革命法廷の犠牲者数、その後の報復虐殺数も不明である。判っているのは、十七、十八日にかけて水兵やクロンシュタット・ソヴィエトの約八〇〇〇人が、クロンシュタットを脱出して、フィンランドへ亡命したことだけである。一九七〇年は人口三九〇〇〇人であるが、当時のコトリン島人口、約四五〇〇〇人の残りが戦闘で死んだのか、『収容所群島』に送られたかも不明である。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/IMG00065.GIF  

地図の□印は、クロンシュタット側の海上堡塁。左図の赤矢印は、三月七、八日の

第一次攻撃だが、壊滅的な損害で退却。黄色基地と矢印は、三月一六〜一七日

の南北からの第二次総攻撃で、氷結した湾内の堡塁を占領し、市街戦で鎮圧した

 

 

 2、R・ダニエルズ『クロンシュタット叛乱』

 

 ()、これは、R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』(現代思潮社、一九八二年)における「第六章、一九二一年の危機」内の「クロンシュタット叛乱」(一一五〜一一七頁)の全文転載である。R・ダニエルズ著書の他個所転載は別ファイルに載せてある。

 

    R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か

 

 ペトログラードに近いクロンシュタット海軍基地における抗議運動に端を発して、一九二一年三月二日、爆発した公然たる叛乱は、疑いもなくソヴィエト政府が直面したもっとも由々しい国内的政治危機であった。クロンシュタットは、極左共産主義者たちが表わした同じ種類の不平によって励まされながらも、党にたいする忠誠と規律に拘束されていなかった幻滅した革命家たちの運動であった。クロンシュタットの叛乱者たちは、十月革命そのものの名において、ソヴィエト指導者にたいして反抗した。

 

 モスクワは、ソヴィエト政府の権威にたいするクロンシュタットの兵士たちの挑戦と、彼らによる同島での指導的共産党職員の逮捕とに関する情報を受けるや、直ちにこの叛乱を非難した。ある公式声明は、「フランスの反革命によって要求され、かつ、疑いもなく準備された……新たな白軍の陰謀」を告知した。ソヴィエト指導者の主な関心事は、能うる限り速やかに、彼らの権威に挑戦するもの全部を粉砕することであった。このような態度は、当時の多くの人々を驚かせた。その頃、ペトログラードにあったアメリカの無政府主義者アレクサンダー・バークマンは、報告した。「若干の共産党員たちでさえも、政府が示した調子に怒った。彼らは、労働者のパンの要求を叛乱と解釈することは、致命的な誤謬だといっている。罷業参加者と彼らの正直な選挙の要求とにたいするクロンシュタッ卜の共感は、ジノヴィエフによって、反革命陰謀に変えられてしまった……水兵たちが、ソヴィエトの確固たる支持者だということは、誰もが認めている。彼らの目的は、必要な改革を承認することを当局に強いることである。」

 

 クロンシュタットの改革要求について少なくとも若干の正当な根拠があったということは、叛乱勃発の前日に不平分子を押えるという不首尾の使命を帯びて自身クロンシュタットにおもむいたカリーニンによって認められていた。自由選挙から自由商業に及ぶ種々の改革を要求している、三月一日にクロンシュタットで採択された決議を、カリーニンは、「ある訂正を加えたうえで、多かれ少なかれ、受容できる」ものとして述べ、共産党内の現実の組織的悪弊をついていた。確かに、クロンシュタット叛乱は、時宜を得た改革によって先手を打つことができただろう。しかし、このような行き方は、あまりに面倒だったろうし、また、政府の権威にたいする重大な打撃たり得ただろう。ペトログラードは、波状的な山猫ストに苦しんでいたし、これをメンシェヴィキと社会革命党員の地下活動家は利用することを試みていたと伝えられ、そしてソヴィエト当局は、そこで、情勢を手中に収めておくために全力をあげなければならなかった。共産党指導者にとっては、この危機的な時に、締め上げる方が、ずっと自然なのであった。民衆の間に不満がみなぎっている状態ならば、政府が、クロンシュタットの人々が、検討されうる問題を抱えていると認めることは、ソヴィエト政権を至るところで崩壊させてしまったかもしれなかった。共産党にとって、十月革命の諸原則を共産党員たちにたいして擁護する運動としてのクロンシュタットの理念―「第三革命」の理念を抑圧することが、何にもまして、肝要であったのだ。

 この考えは、クロンシュタットの叛乱者たちが、彼らの新聞―臨時革命委員会の『イズヴェスチャ』の紙面で、展開しようと努めていた綱領の基礎なのであった。

 

 「労働者と農民の蜂起の波は、彼らの忍耐が終りに来たことを証明した。勤労者の蜂起は迫った。人民委員制を転覆する時が到来した……クロンシュタットは、初めて、労苦する人々の第三革命のための蜂起の旗印をかかげた……独裁制は倒れた。憲法制定議会は、地獄に去った。人民委員制は崩壊しつつある。」

 

 叛乱者たちは、宣言した。「血なまぐさいトロツキーと、飽食したジノヴィエフと彼らの一味徒党は、共産主義的強奪者の党の権力のために闘っているが、われわれは、勤労人民の其の権力のために闘っている」。ボリシェヴィキ政権は、ツアー時代のそれに匹敵する弾圧に乗り出した。労働は、マルクス主義的図式が約束しているような「歓喜に」ではなく「新しい奴隷制に」なってしまった。「勝利か、しからずんは死!」が叫ばれた。

 

 クロンシュタットの叛乱者たちは、その武装せる反抗の点では異なるが、その綱領の点では、共産党内の極左反対派と非常に頼似していた。労働組合に関するクロンシュタットの立場は、労働者反対派の明らかな模倣(エコー)であった―「大衆の中央集権化された『共産主義的』発展に努力する、支配党の政策のおかげで……われわれ労働組合は、純粋に階級的な組織たる機会を全然もたなかった。」一九一七年製のアナルコ・サンディカリスムは、官僚的中央集権主義に対置された―「労働組合に広汎な自治が与えられていたならば、中央集権的構造を持った共産党の全秩序は、必然的に崩壊したであろうし、それとともに、人民委員と政治部の必要もまた崩れ去っていたであろう……ソヴィエト社会主義共和国は、革新された労働組合によって代表される勤労階級にその行政が属する時にのみ、強力たりうるのだ。」

 

 叛乱に参加した共産党員の数は、党大衆の間の反官僚主義的感情の程度を証明している。臨時革命委員会の『イズヴェスチヤ』に発表された、党に背いた共産党員の声明は、この態度を生き生きと説明している。―

 

 「共産党の政策は、国を逃げ場のない位置に導いてきた――なぜならば、党は官僚的になり、何事も学ばなかったし、学ぼうともしなければ、大衆の声を聴こうともしていない。

 三年間全体を通じて、われわれの党は、利己主義者、立身出世主義者で一杯になり、その結果、官僚主義と、破滅と闘争する仕事への犯罪的関係さえもが拡がった……勤労者の権利の真の擁護者−ソヴィエト権力万才。

 すべての名誉ある共産主義者は、銃弾と爆弾以外に労働者、農民に語りかける言葉をもたぬ者たちから、自らを区別しなければならない。党内に瀰漫(びまん)した弊害は……共産主義という美しい思想に泥を塗っている」

 

 島の要塞の防衛がはじまって、最初の頃にクロンシュタットの叛乱者によって捕えられた政府部隊の多くのものは、「水兵と労働者が人民委員制の権力を倒した」と知ると、叛乱者の側についた。普通の共産党員たちは、クロンシュタット事件が提起した問題を前にして信を置けなかったので、政府はクロンシュタット自体の攻撃においても、またクロンシュタットが支持を得る希望をもっていたペトログラードの秩序維持においても、彼らには依存しなかった。使用された部隊の主体は、チェーカーの所属員と赤軍訓練学校から選抜した士官候補生とであった。クロンシュタットにたいする最後の攻撃は、共産党の最上級官僚によって指揮された―この目的のために、モスクワから第一〇回党大会に出席した代表の大きなグループが急派されたのである。

 

 クロンシュタット叛乱と極左共産主義者の思想との間の結びつきは、党指導層にとって、反対派をもはや大目にみることができないという否応ない証拠であった。確かに、極左反対派とクロンシュタット運動との間に直接的きずなはなかった。反対派指導者は、叛乱者にたいして党指導部を支持するのを怠りはしなかったからだ。

 

 けれども、党内部の反対派とクロンシュタット叛乱とは、同種の不満のあらわれであった。すなわち、どちらもが、党指導部を革命の精神に違背したとして、方便という祭壇に民主主義と平等主義の理念を犠牲として捧げたとして、そしてまた、自らのために権力との官僚的関係に傾いたとして、攻撃していた。党の立場からは、このような爆弾的批判は、永久に牙を抜きとられるべきであった。

 

 

 3、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』付録声明2編

 

 ()、これは、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』(現代思潮社、一九七七年)における三つの付録中、クロンシュタット臨時革命委員会の声明文書「付録B・C」(二八七〜二九三頁)の全文転載である。『クロンシュタット1921』本文の転載は、別ファイルに載せてある。

 

    P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他

 

 〔小目次〕

   付録B「われわれはなんのためにたたかっているのか」

   付録C「引用符付きの社会主義」

 

 付録B「われわれはなんのためにたたかっているのか」

 

 一〇月革命を遂行したのち、労働者階級はその解放を達成することを望んできた。だが、その結果は人間の人格のなお一層の奴隷化であった。警察および憲兵君主制の権力は共産党纂奪者の掌中へ移った。かれらは、人民に自由を与える代わりに、人民のなかにチェーカーの拷問室へ投げこむ絶えざる恐怖を浸みこませた。そのチェーカーたるや、その恐ろしさにおいてツァーリスト体制の憲兵行政にはるかにまさっているのである。銃剣、銃弾、およびチェーカー・オプリーチニキチの粗暴な命令――このようなものこそ、ソヴェト・ロシアの労働者がかくも多くの闘争と苦悩ののちかちとったものである。労働者国家の栄光にみちた紋章―鎌とハンマー―は、実際共産党当局によって、共産党コミッサールと役人の新しい官僚制の静穏で気苦労のない生活を維持するため、銃剣と格子窓によって置き換えられてしまった。

 

 だが、あらゆるもののうちでもっとも恥知らずで犯罪的なものは、共産党が発足させた精神的隷属状態である。すなわち、かれらはその手をまた、勤労者の内面的世界のうえにも置き、かれらに共産党の仕方で考えることを強要しているのである。官僚機構と化した労働組合の助けをかりて、かれらは労働者をその作業台に縛りつけ、それゆえ労働は喜びではなく奴隷制の新たな形態となってしまった。自然発生的蜂起において表明された農民の抗議、ならびにその生活状態がかれらをストライキへと駆り立てた労働者のそれにたいして、かれらは大量処刑と流血をもって答えており、それらにおいてかれらは帝政将軍によってさえ凌駕されていない。労働の解放の赤旗を掲げるべき最初の者、勤労者のロシアは、共産党支配の栄光のために迫害された者たちの血でぐっしょりと濡れている。この血潮の海のなかで、共産主義者は労働者の革命の一切の偉大な灼熱の誓約と標語を溺れさせているのである。その情景はますます鮮烈に描かれており、そしていまや、ロシア共産党がそれを装っている勤労者の擁護者でないことは明らかである。働く人民の利益はそれとは異質なものである。権力を獲得したのち、それはそれを失うことのみを恐れ、またそれゆえ、中傷、暴力、虚偽、殺人、反徒の家族への復讐など、あらゆる手段を許されるものとみなしている。

 

 勤労者の長らく耐えてきた忍耐心は尽き果てた。そこここで、国土は抑圧と暴力にたいする闘争における蜂起の火の手によって照らし出されている。労働者によるストライキは燃え上がっているが、ボリシェヴィキ・オフラナ諜報員は眠っておらず、不可避的な第三革命を出し抜き鎮圧するためにあらゆる措置を講じている。だが、それにもかかわらず、それは到来しており、そしてそれは勤労者自身の手によってなされつつあるのである。共産主義の将軍どもは、社会主義の理想は裏切られたと確信して立ち上がっているのが人民であることをはっきりと見ている。それでもなお、わが身をおもいわずらい、労働者の激怒から逃がれる道がないことに気づいて、かれらはいまなお、かれらのオブリーチニキの助けをかりて、反徒を投獄、銃殺隊、およびその他の残虐行為で恐怖に陥れようと努めているのである。だが、共産党独裁の軛(くびき)のもとでの生活は死よりも恐ろしいものとなっている。

 

 反乱に立ち上がった働く人民は、共産党とかれらが樹立した新しい農奴制にたいする闘争には中間地帯がないことを理解している。ひとは最後まで進まなければならない。かれらは譲歩する素振りをみせている。すなわち、ペトログラード県では、道路遮断分遣隊が撤収され、一、〇〇〇万金ルーブリが海外から食糧物資を買い付けるために割り当てられた。だが、ひとは欺かれてはならない。というのは、この餌の背後には、ひとたび静穏が回復されるやその譲歩にたいして一〇〇倍も償われることを狙っている、独裁者たる、主人の鉄腕が隠されているからである。

 

 いな、中間地帯はありえない。勝利かしからずんば死かだ! 実例は、右翼のまた左翼の反革命への脅威、赤いクロンシュタットによって据えられつつある。ここで、新しい革命的一歩前進が踏み出されている。ここで、その影に帝政三〇〇年の軸を置いている、共産党支配の三年にわたる暴力と抑圧にたいする反乱の旗幟が掲げられている。ここクロンシュタットにおいて、労働する大衆から最後の足枷を打ち落し、社会主義創造性への新しい大道を切り開く、第三革命の最初の礎石が敷かれたのである。

 

 この新しい革命はまた、官僚主義的共産主義「創造性」に反対する新しい社会主義建設の実例として奉仕することによって、東方のまた西方の労働する大衆を奮起させるであろう。海外の労働する大衆はかれら自身の眼で、ここでいままでに労働者と農民の意志によって創り出されたすべてのものが社会主義ではなかったことを見るであろう。一度の発砲もなく、一滴の血もなく、最初の一歩が踏み出された。勤労者は血を必要としない。かれらは自己防衛の瞬間においてのみそれを流すであろう。共産主義者のあらゆる暴虐行為にもかかわらず、われわれは自身を、かれらの悪意のある、偽りの扇動がわれわれの革命事業を妨げぬようかれらを公共生活から孤立させることにのみ限定する、充分な抑制力をもっている。

 

 労働者と農民は、そのブルジョワ体制とともに憲法制定会議を、またその絞刑吏の輪なわが労働する大衆の首にまつわりつきかれらを絞め殺そうと脅している、そのチェーカーとその国家資本主義とともに共産党の独裁をかれらの背後に残しつつ、着実に前方へ行進する。現在の革命はついに、勤労者に、いささかの党の圧力もなく機能する、かれらの自由に選挙されたソヴェトをもつ、また官僚機構と化した労働組合を労働者、農民、および労働するインテリゲンツィヤの自由な結社をつくりかえる機会を与えている。ついに、共産党専制の警官の棍棒は打ち壊されたのだ。

 

   

『The Truth about Kronstadt           『Kronstadt Uprising

 

 付録C「引用符付きの社会主義」

 

 一〇月革命をおこなうにあたり、水兵と赤軍兵士、労働者と農民はソヴェトの権力のために、勤労者の共和国の創設のために、かれらの血を流した。共産党は大衆の態度に周到な注意を払った。その旗幟(きし)のうえに労働者を振い立たせる魅力的なスローガンを書きつけたことによって、それはかれらをその陣営のなかに引き入れ、かれらを社会主義の輝ける王国へ導くことを約束した。それはボリシェヴィキだけがいかに樹立するかを知っていたものである。

 

 当然にも、限りない喜びが労働者と農民をとらえた。「ついに、われわれが地主と資本家の軛のもとで耐えしのんできた奴隷制は伝説のなかに過ぎ去りつつある」、とかれらは考えた。あたかも畑、工場、および作業場における自由労働の時代が到来したかにみえた。あたかもすべての権力が勤労者の手に移ったかにみえた。

 

 巧妙な宣伝によって、働く人民の子供らは党の隊列のなかに引き入れられ、そこでかれらは厳格な規律によって足枷をはめられた。ついで、自身を充分強力と感じて、共産主義者はまず他の諸傾向の社会主義を権力から除いた。ついで、かれらは労働者と農民自身を国家という船の舵から押しのけ、その間ずっとかれらの名において国土を支配し続けた。かれらが盗んだ権力に代えて、共産主義者はソヴェト・ロシアの市民の肉体と魂にたいするコミッサールの恣意的な支配を置いた。あらゆる理性に抗しまた勤労者の意志に反して、かれらは自由労働の代わりに奴隷制をもって、国家社会主義を執拗に建設し始めた。

 

 「労働者の統制」のもとで生産を破壊したのち、ボリシェヴィキは工場と作業場を国有化することへ進んだ。資本家の奴隷から、労働者は国営企業の奴隷へと変えられた。やがてこれだけではもはや充分ではなかったので、かれらは労働の速度を増進する制度―テーラー・システム―を導入することを計画した。すべての労働する農民は人民の敵と宣言され、クラークと同一視された。大変な精力をもって、共産主義者は農民を破滅させることにとりかかり、自身を国営農場―新しい地主、国家の所領―の創設に熱中させた。これこそ、農民が、かれらの新たにかちとった土地の自由な使用の代わりに、ボリシェヴィキの社会主義から受け取ったところのものである。徴発された穀物と没収された牛や馬と交換に、かれらはチェーカーの急襲と銃殺隊を得た。労働者国家におけるすばらしい交換制度―パンの代わりに弾丸と銃剣だ!

 

 市民の生活は絶望的に単調で退屈なものになった。ひとは権力によってそうあるべしと定められた時間表にしたがって生活した。個々の人格の自由な発達と自由な労働生活の代わりに、異常なそして前例のない奴隷制が出現した。あらゆる独立の思考、犯罪的支配者の行為にたいするあらゆる正当な批判は、投獄によって、またときには処刑によってさえ罰せられる犯罪となった。「社会主義社会」において、かの人間の尊厳の冒涜たる、死刑が繁栄し始めた。

 

 このようなものこそ、共産党の独裁がわれわれにもたらした社会主義の輝ける王国なのである。われわれは、党委員会とその無謬のコミッサールの命令にしたがって従順に投票する役人のソヴェトとともに、国家社会主義を得た。「働かざる者は食うべからず」というスローガンは、新しい「ソヴェト」命令によって「すべてはコミッサールのために」へねじ曲げられた。労働者、農民、および労働するインテリゲンツィヤにとって、残っているのはただ監獄環境における陰気な、絶えまのない労苦だけである。

 

 状況は耐えがたいものになっており、そして革命的クロンシュタットはこの監獄の鎖と鉄格子を打ち破る最初のものである。それは異なる種類の社会主義のために、生産者自身が唯一の主人でありかれが適当と認める仕方でかれの生産物を処分することができる、勤労者のソヴェト共和国のためにたたかっているのである。

 

 

 4、イダ・メット『ペトリチェンコの証言』

 

 ()、これは、イダ・メット『クロンシュタット叛乱』(鹿砦社、一九七一年、絶版)における「第二章、各政治党派の見解と動向」の六番目「ペトリチェンコの証言」(九二〜九八頁)の全文転載である。彼は、クロンシュタット臨時革命委員会議長だった。レーニンによる武力鎮圧後、亡命した。イダ・メット『クロンシュタット叛乱』本文については、別ファイルで載せている。

 

    イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過、14章全文転載

 

 最後に、一九二六年一月の左翼社会革命党機関紙『ズナーミヤ・ボリブィ』に論文として発表されたペトリチェンコの証言の主要部分を引用しょう。

 

 「私は、左翼社会革命党と英国の共産主義者とのあいだに交わされた書簡を読んだところだ。これらの書簡では、一九二一年のクロンシュタット蜂起の問題が取りあげられている……。

 私は、〔臨時革命委員会の〕議長であったゆえに、英国共産党政治局のためにこれらの出来事について手短かにいくつかの点を明らかにすることを、私の道徳的義務であると考える。私は諸君が、諸君の情報をモスクワから得ていることを知っている。私は、さらにまた、そうした情報が、一方的なものであり、偏見にみちたものであることも承知している。諸君が硬貨のもうひとつの面を提示されるとしても、それは無益なことではないだろう……。

 

 諸君は、一九二一年のクロンシュタット蜂起が外部から指令されたものではないということを諸君自身で認めてきた。このことは、勤労者大衆、水兵、赤軍兵士、労働者それに農民たちの忍耐がその極限にまで達したのだ、という認識につながるものなのである。

 

 共産党の独裁―あるいは、むしろ、その官僚主義―にたいする人民の怒りが蜂起という形態をとったのであり、このことのゆえに、貴重な血が流される結果となったのだ。階級とかカースト階層の相違という問題など存在していなかった。バリケードの両側にはともに労働者がいた。その相違点は、クロンシュタットの人びとが意識的に自らの自由な意志で前進していたのにたいして、彼らを攻撃している側の人びとが、共産党指導者に欺かれ、しかもそのうちのある者は自己の意志に逆らってまで行動していたという事実に存している。私は諸君にさらにこうつけ加えてもよい――クロンシュタットの人びとは、武器をとり血を流すことを嫌悪していたのだ! と。

 

 それでは、一体なにが起ってクロンシュタットの人びとは、自らを《労農政府》と呼んではばからない共産党の顔役どもと砲火で応酬することを余儀なくされたのか?

 クロンシュタットの水兵たちは、この政府を樹立するために積極的な役割を果してきた。彼らは、反革命のあらゆる攻撃に抗してこの政府を防衛してきた。彼らは、ペトログラード―世界革命の心臓部―への関門を防衛したのみならず、コルニーロフから始まってユーデニッチおよびネクリュードフ両将軍におわる白衛軍に抗する無数の戦線で戦闘部隊を形成したのであった。

 

 諸君は、この同じクロンシュタットの人びとが、突然、革命の敵になってしまったと信じるよう求められているのだ。《労農》政府は、クロンシュタットの叛乱者を、協商国の手先き、フランスのスパイ、ブルジョアジー、社会革命党員、メンシェヴィキ等々と非難した。武装反革命将軍どもによる現実の脅威が姿を消したまさにその時に―国土の再建にあたらねばならないまさにその時に―人びとが一〇月〔革命〕の果実を味わおうと思っているまさにその時に―事物をその真実の色彩で呈示し、政治的課題を明らかにすることが問題となっている(すなわち、もはや約束をするのではなく、それらを実行することが問題となっている)まさにその時に、クロンシュタットの人びとが、突然、危険な敵に豹変してしまったとは、驚くべきことである。人びとは、革命の成果について決算書を作成しはじめていた。われわれは、このことを内戦の期間中には夢想すらしなかったのだ。しかも、まさしくこうした時点で、クロンシュタットの人びとが敵であることが判明したのである。とすれは、一体、クロンシュタットは革命にたいしていかなる罪を犯したというのであろうか?

 

 内戦がおさまるにつれて、ペトログラードの労働者は、同市のソヴェトに、その経済的公約を思い出させ、戦時体制から平時体制へ移行する時期がきたことを想い起させることが、自らの権利であると考えた。

 

 ペトログラード・ソヴェトは、こうした他意のない、しかも必要不可欠な要求を、反革命とみなしたのだ。ペトログラード・ソヴェトは、こうした要求に耳を閉じ、口をつぐんだのみならず、労働者たちを協商国のスパイや手先きであると断言して、家宅捜索や逮捕という手段に訴えはじめたのである。これら官僚主義者どもは、人びとが彼らに抵抗するのをあえて差し控えた内戦期間中に、腐敗の度を強めていた。彼らは、状況が変化したことに気づかなかったのだ。

 

 労働者は、ストライキに訴えることで応えた。ペトログラード・ソヴェトの激怒は、このときに、野獣の狂暴さと化したのだ。彼らは自らのオブリチニキ(原註一)の手助けをうけて、労働者を飢餓と疲弊のなかにおしとどめたのである。彼らは、労働者を、その鉄の拳で握りしめ、ありとあらゆる塀の強制労働へと駆りたてた。赤軍兵士や水兵は、労働者へのその同情にもかかわらず、彼らを防衛するためにあえて決起しはしなかった。だが《労農政府》はこのとき、クロンシュタットについては、見込み違いをしていたのだ。幾分遅ればせながらも、クロンシュタットは、ペトログラードにおける事態の真実を知ったのである。

 

 英国の同志諸君、それゆえ、諸君がクロンシュタット叛乱は特定個人の活動の結果起ったものではないというとき、諸君は誤っていない。

 さらに、いわれているところの外国およびロシアの反革命諸組織によるクロンシュタットへの支援については、私自身の方がもっと知りたいと思っているぐらいだ! 私はふたたび繰り返そう、叛乱は、いかなる政治組織によってももたらされたものではなかった、と。そうしたものが、クロンシュタットに存在していたかどうかすら疑わしい。叛乱は、自発的に勃発したのである。それは、大衆自身…一般住民と守備隊の双方…の意志を表明していた。このことは採択された諸決議や、いかなる反ソヴェト派の支配的影響も嗅ぎ出せない臨時革命委員会の構成のうちに明らか見てとれよう。クロンシュタットの人びとの言によれば、そこで生起したり行なわれたりしたことどもはすべて、刻下の状況の要請によるものであった。叛乱者たちは、他のだれをも信頼しなかった。彼らは臨時革命委員会ですら信頼せず、あるいは代表者会議・集会その他いかなるものについても同様であった。このことについては疑問の余地がない。臨時革命委員会は、そうしようとおもえは可能であったにもかかわらず、けっしてこうした方向〔権力を自己の手に集中すること〕へ向けてなにかを企てようとはしなかったのである。〔臨時革命〕委員会の唯一の関心事は、人民の意志を厳密に履行することであった。それが正しかったのか、誤っていたのか、私には判決を下すことはできない。

 

 真実は、大衆が委員会を領導していたのでありその正反対ではなかった、ということなのだ。われわれのなかには、あらゆる事象を三アルシン(原註二)も深く洞察したり、なされねばならぬことのすべてを知りつくし、いかなる状況をも最大限に利用する術を心得ている、といった類の有名な政治家など存在していなかった。クロンシュタットの人びとは、予定された方策も計画もなく、状況に応じて自己の進むべき途を手探りしつつ、自らの採択した決議の枠内で行動したのである。われわれは、全世界から切断されていた。われわれは、ロシアたると外国たるとを問わず、クロンシュタットの外部で何が進行していたのかを知ってはいなかったのだ。おそらく、つねにそうであるように、われわれの蜂起について自らに都合のよい青写真を描いてみた者も幾人かはいたことであろう。そうした人びとは、無駄な時を費していたのだ。もし、ことが異なったふうに展開したなら、どういうことが起ったであろうかなどと推測するのは不毛なことである。というのは、事件そのものの性質が、われわれの予測していたものとはまったく異なったものとなりえたかもしれなかったからである。確かなことがひとつある。それは、クロンシュタットの人びとが、自らの手に握られたそのイニシアティヴを譲り渡すことを望まなかった、ということである。

 

 共産党員は、その出版物のなかで、われわれがフィンランドのロシア赤十字から食糧と医薬品の提供を受けたと非難している。われわれは、そのような申し出を受諾することになんらやましいことはないと考えたことを認めよう。臨時革命委員会および代表者会議の双方とも、それに同意したのである。われわれは、赤十字を、われわれになんの害も与えない公平無私な援助を提供してくれる慈善組織と考えていた。赤十字代表団にクロンシュタットへ入ることを許可するよう決定した際、われわれは、彼らを目隠ししたまま司令部へ連行した。最初の会談において、われわれは、彼らに、われわれは慈善組織からのものとしてその援助の申し出を感謝して受けるが、彼らにたいするいかなる約束事にも自己拘束されないと考えている旨を伝えたのである。彼らが送ろうとしている食糧が婦人や子供たちにたいして規定通り配給されるかどうかを監視するためクロンシュタットに常駐代表を残して置きたい、という彼らの要望をわれわれは受け入れた。

 

 彼らの代表―ヴィルケンと呼ばれる退役海軍将校―は、クロンシュタットに留まった。彼は、四六時中監視つきの一室に閉じこめられ、われわれの許可なしには、外へ出ることは一歩たりともできなかったのである。彼が目にしたものといえば、クロンシュタットの守備隊および一般住民の断固たる決意だけであった。

 

 これが、『国際的ブルジョアジーの援助』と称されるものだったのか? それとも、ヴィクトル・チェルノフがわれわれにその挨拶を送ってきたという事実のなかに、こうした援助がすでに存在していたというのか? これが『ロシアならびに国際的反革命勢力の支援』だったのか? 諸君は、クロンシュタットの人びとがわが身を反ソヴェト派の懐の内に投げ出さんとしていたなどと、本当に信じることができるのか? 右派が蜂起について策略をめぐらしはじめているのを知ったとき、叛乱者たちが、労働者にたいして躊躇することなくそのことを警告したことを想い起して欲しい。《紳士どもか、それとも同志たちか》と題された、『クロンシュタット・イズヴェスチャ』三月六日号の論文を想い起して欲しいのだ。」

 

  (原註一) オブリチニキは、イワン雷帝の個人的親衛隊であり、同時に、彼の高級政治警察であった。七年間の存在期間(一五六五〜一五七二年)中に、彼らは、その残忍な活動で悪名をはせた。

  (原註二) 長さを計るPシアの単位。

 

 

 5、ニコラ・ヴェルト『クロンシュタットの反乱とその前後』

 

 ()、これは、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』(恵雅堂、二〇〇一年)における「クロンシュタット反乱とその前後」(一二一〜一二五頁)の全文転載である。一九九一年のソ連崩壊後、レーニン指令による大量殺害データが、発掘された。これは、その内、クロンシュタット反乱前後の衝撃的なデータである。『共産主義黒書』における「第2章、プロレタリア独裁の武装せる腕(かいな)」抜粋は、別ファイルに載せてある。

 

    ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−〈ソ連篇〉』

 

 〔小目次〕

   一触即発の両首都

   クロンシュタットの反乱

   一層の抑圧

 

 一触即発の両首都

 

 国の反対側の両首都―古い首都のペトログラードと新首都のモスクワ―でも、一九二一年初めの情勢は一触即発であった。経済はほとんど停滞していた。もはや列車は動かず、燃料の欠乏から大部分の工場は閉鎖されるか、のろのろと仕事をしていた。都市への食糧の供給は保証されていなかった。労働者たちは路頭に迷うか、近郊の農村で食物を探すか、凍って半ば廃れた仕事場で議論するかしていた。みんながみんな、少しの食物と引き換えに、「製造所」から手当たり次第に品物を盗んでいた。

 

 「至る所不満だらけである…一月十六日、チェーカー情報部のある報告は結論している…労働者の間では、近く体制が崩壊するのではないかと言われている。もはや誰も働かない。みんな飢えている。大規模なストライキが差し迫っている。モスクワ守備隊の信頼は次第に失われ、いつ我々の統制から抜け出すかもしれない。予防措置が絶対必要である!」

 

 一月二十一日、政府はモスクワ、ペトログラード、イヴァーノヴォ・ヴォズネセンスク、クロンシュタットにおけるパンの配給を、翌日から三分の一減らす布告を出した。もはや最後の白軍は打倒されてしまったので、この措置は政府が反革命の危機を宣伝し、それによって勤労大衆階級の愛国心に訴えることもできない時に、この布告が突如出された。これによって火薬庫に火がつけられた。一九二一年の一月末から三月中旬にかけて、ストライキ、抗議デモ、飢餓行進、示威運動、工場占拠が毎日のように続いた。その最盛期は、モスクワでもペトログラードでも、二月末から三月初めであった。二月二十二〜二十四日、モスクワでチェーカーの分遣隊と、兵士に連帯を表明するために無理に兵営に入ろうとする労働者のデモとの間で、事件が発生した。何人かの労働者が殺され、何百人かが逮捕された。

 

 ペトログラードでは二月二十二日から新しい盛り上がりが見られた。いくつかの大工場で労働者は、一九一八年三月のように、メンシェヴィキとエス・エルの傾向の強い「労働者全権会議」を選挙した。この会議は最初の声明で、ボリシェヴィキの独裁廃止、ソヴィエトの自由選挙、言論・結社・出版の自由、全政治犯の釈放を要求した。この目的を達成するために会議はゼネストを呼び掛けた。軍司令官は、いくつかの連隊が集会を開いて、労働者支持の動議を採択するのを妨げることができなかった。二月二十四日、チェーカーの分遣隊は労働者のデモに発砲して、十二人の労働者が殺された。この日には約一〇〇〇人の労働者と戦闘的社会主義者が逮捕された。それにもかかわらず、デモの隊列は絶えず大きく膨れ上がり、何千もの兵士が労働者に加わるために部隊から脱走した。帝政を崩壊させた二月の事件から四年後になって、同じシナリオが繰り返されるかに見えた。すなわち、デモの労働者と反乱兵の友愛の連帯である。二月二十六日二十一時、ペトログラードのボリシェヴィキの長であるジノヴィエフは、レーニンに電報を送って、パニックを予告した。「労働者は兵営内の兵士と接触をとり始めた……我々は相変わらずノヴゴロドからの救援隊を待っている。もし信頼できる軍隊が近いうちに来ないなら、我々は後れをとることになろう。」

 

 クロンシュタットの反乱

 

 翌々日にはボリシェヴィキ指導部が何より恐れていた事態が起こった。ペトログラード沖のクロンシュタット基地の二隻の装甲艦の水兵が反乱を起こした。二月二十八日二十三時、ジノヴィエフは新たな電報をレーニンにあて打った。「クロンシュタット。二隻の大艦『セヴァストポリ』と『ペトロバヴロフスク』はエス・エル=黒百人組の決議を採択し、我々に二十四時間以内に回答するようにとの最後通牒をつきつけた。ペトログラードの労働者の間では、情勢はきわめて不安定である。大企業ではストライキが行なわれている。エス・エルは今後事態を悪化させるものと考えられる。」

 ここでジノヴィエフが言っている「エス・エル=黒百人」の要求というのは、三年間のボリシェヴィキの独裁の後での、大部分の市民の要求にほかならなかった。それは討論のあと秘密投票でソヴィエトへ代議員を再選挙すること、言論・出版の自由―しかしこれには「労働者、農民、アナキスト、左翼社会主義諸政党が有利になるような」という限定が付されていた―すべての者への平等な配給、社会主義諸政党の党員で拘留されている全政治犯の釈放、労働運動・農民運動のために投獄されている労働者、農民、兵士、水兵の釈放、食糧徴発の廃止、チェーカー特別分遣隊の廃止、農民が「自分自身の手段でやってゆくことを条件に、その土地で欲することを行ない、自分自身の家畜を飼育」する絶対的自由であった。

 

 クロンシュタットでは、次々と事態が進行していった。三月一日にはこの基地の町の市民と軍人の総人口の四分の一の一万五〇〇〇人以上の大集会が開かれた。事態を救うために全露中央執行委員会議長のミハイル・カリーニンがその場に駆け付けたが、大衆の野次で追い払われてしまった。翌日には反乱側は、クロンシュタットの二〇〇〇のボリシェヴィキの少なくとも半分以上と結合して、臨時革命委員会を結成した。これはただちにペトログラードのストライキ参加者および兵士と連絡を取ることを試みた。一九二一年三月最初の数週間のでログラードの情況についてのチェーカーの毎日の報告は、クロンシュタットの反乱がどれほど多くの民衆に支持されていたかを物語っている。「クロンシュタット革命委員会は今日明日にでもペトログラードで一斉蜂起が起きないかと待っている。反乱兵と大工場の間の連絡ができた……今日海軍造船所の集会において、労働者は蜂起に参加を呼び掛けるアピールを採択した。クロンシュタットとの連絡係として三人の代表―アナキストとメンシェヴィキとエス・エル―が選出された。」

 

 運動をただちに止めるためにペトログラードのチェーカーは、三月七日に「労働者に対して断固たる措置を取るように」との命令を受けた。四八時間内に二〇〇〇人以上の労働者、シンパ、戦闘的社会主義者あるいはアナキストが逮捕された。反乱兵と違って労働者には武器がなく、ほとんどチェーカーの別働隊に抵抗することができなかった。反乱の後方基地を破壊したあと、ボリシェヴィキは入念にクロンシュタット攻撃を準備した。反乱鎮圧にはトハチェフスキー将軍が任命された。この一九二〇年のポーランド戦線の勝利者は、民衆に発砲するために、革命の伝統のない若い士官学校生やチェーカーの特別部隊に援助を求めた。作戦は三月八日に開始された。十日目にクロンシュタットは双方数千の犠牲を出して陥落した。反乱の鎮圧は容赦ないものだった。敗北後、投獄されていた何百人もが銃殺された。最近公刊された史料によれば、一九二一年四月〜六月だけで二一〇三人が死刑、六四五九人が強制収容所へ収監となった。クロンシュタット陥落の直前に約八〇〇○人が凍った広い湾を越えてフィンランドへ逃げ延びたが、結局彼らはテリオキ、ヴィボルグ、イノの移送収容所に強制的に収監された。彼らのうち大赦の約束に騙されてロシアに帰った者は、ただちに逮捕されてアルハンゲリスク近くの最も忌まわしい収容所であるソロフキ島とホルモゴールイに送られた。アナキスト系の史料によれば、ホルモゴールイに送られた五〇〇〇人のクロンシュタットの拘留者中、一九二二年春まで生き延びた者は一五〇〇人以下であった。

 

 ドヴィナ河畔のホルモゴールイの収容所は、多くの収容者を手早く処分することで、悲しい名声を轟かせていた。平底船で上陸した囚人は首に石を、両手に手枷をつけられて、川に投げ込まれた。この集団溺殺は一九二〇年の六月に、ミハイル・ケドロフというチェーカーの指導者によって始められた。一致した証言によると、ホルモゴールイに運ばれてきた多くのクロンシュタットの反乱兵やコサックやタンボフ県の農民が、一九二二年にドヴィナ川で溺殺されたに違いなかった。同年、移送特別委員会は、事件の時要塞にいたというだけで、二五一四人のクロンシュタット市民をシベリアに送ったのだった!

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/water.jpg

 

 一層の抑圧

 

 クロンシュタットの反乱を鎮圧した政府は、戦闘的な社会主義者の追跡、ストライキと「なげやりな」労働者との戦い、食糧徴発の廃止を公式的に宣言したにもかかわらず依然として続いている農民一揆の粉砕、教会の弾圧へと全力を傾けた。

 すでに一九二一年二月二十八日に、ジェルジンスキーはすべての地方チェーカーに以下のように命じていた。「(一)すべての無政府主義的、メンシェヴィキ的、エス・エル的インテリゲンツィア、とりわけ農業と食糧調達部門の人民委員部で働いている役人をただちに逮捕すること。(二)この活動開始後、工場で働いていて、ストライキやデモを呼び掛ける可能性のあるすべてのメンシェヴィキ、エス・エルおよびアナキストを逮捕すること。」

 

 一九二一年三月からのネップの導入は、抑圧政策の緩和どころか、穏健な社会主義の活動家の一層の抑圧を招いた。この弾圧は彼らが経済的「新政策」に反対する危険からではなく、むしろ長いこと彼らがこの政策を唱えてきて、その分析の正しさと洞察力を示したからであった。「自称であれ、僭称であれ、メンシェヴィキとエス・エルの唯一の居場所は―とレーニンは一九二一年四月に書いている―それは牢獄である。」

 

 数カ月後になっても社会主義者がまだあまりにも「活動的」なのを見たレーニンは、「もしメンシェヴィキとエス・エルが、まだちらっとでも顔を見せるようだったら、容赦なく彼らを銃殺してしまえ!」と書いた。一九二一年の三月から六月の間に二〇〇〇人以上の穏健な社会主義の活動家やシンパが逮捕された。メンシェヴィキ党の中央委員会の全委員が投獄された。シベリア流刑で脅迫された彼らは、一九二二年一月にハンストを始めた。ダンとニコラエフスキーを含む十二人の指導者が国外追放になり、一九二二年二月ベルリンに到着した。

 

 

 6、内田義雄『聖地ソロフキの悲劇』抜粋

 

 (注)、これは、内田義雄・元NHK特派員『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版、二〇〇一年)からの一部抜粋(五五頁)である。クロンシュタット反乱の水兵・労働者たちで、生き残って、ソロフキ収容所に送られた者も、収容所内の処刑システムで殺された。ソロフキ収容所の問題は、別ファイルで書いた。

 

    『「革命」作家ゴーリキーと「囚人」作家勝野金政』

     ゴーリキー「二枚舌」説と、「スターリン命令によるゴーリキー殺害」説

 

 マルサーゴフは革命当時、帝政側のコーカサス陸軍に所属していたため革命側の赤軍と戦うことになったが、一九二二年の革命記念日の大赦令を信じて投降したという。しかし恩赦どころか、三年間の矯正労働を宣告され、ソロフキの収容所に送り込まれた。彼は自分自身の体験や同僚の囚人たちの話を記録している。

 

 彼が一九二四年はじめにソロフキに来た時、「反革命分子」として色分けされた多くの囚人がいたが、話を聞くと彼らが生き延びてきたことは奇跡としか言いようがなかった。彼らは最初、アルハンゲリスクの南東八〇キロにあるホルモゴールイとペルトミンスクの収容所に入れられていたが、摂氏零下五〇〜六〇度の真冬でも暖房はいっさいなく、食事は朝がじゃがいも一個、夕食はお湯で煮詰めたじゃがいもの皮、そして夜食にまたじゃがいも一個であった。囚人は大部分が敗北した白軍の将校と兵士、その支配下にあった地域の住民たちで、次から次に送られてきた。

 

 

 一九二一年春のクロンシュタットの反乱の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。その他コルチャーク将軍指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがいた。連日のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、そのまま沈めて溺死させた。そのなかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで岸に向かってくる者は、機関銃で容赦なく撃たれた。それが何回も繰り返された。

 

 

 7、富田武『クロンシュタット反乱参加者の名誉回復』

 

 (注)、これは、『新版・ロシアを知る事典』(平凡社、二〇〇四年)における「名誉回復」項目の抜粋(七四二頁)である。旧版ではなかった「ソ連解体以後」の部分を、富田武が執筆担当をしている。ただ、名誉回復の根拠は、ここに書かれていない。歴史の評価が、クロンシュタット水兵一万人・基地労働者四千人は反革命分子でなく、いわゆるクロンシュタット反乱とは、正当な十五項目綱領に基づく、ソヴィエト内の合法的な要請行動だったと逆転した。となると、(1)それにたいして「白衛軍将軍どもの役割」と真っ赤なウソをつき、()彼らに「白衛軍の豚」レッテルを貼りつけ、(3)上記のような殺し方で皆殺しをさせたレーニンの評価はどうなるのか。レーニンの方こそ、ソヴィエト権力の簒奪者であり、ソヴィエト機構をボリシェヴィキ一党独裁権力に変質させた軍事クーデターの反革命指導者だったことになる。現在のロシア歴史学会では、十月の規定として、それを、十月プロレタリア社会主義大革命などでなく、レーニン・ボリシェヴィキによる単独権力奪取の軍事クーデターだったとする見解が、主流になってきている。

 

    富田武『Professor Tomita's Platformソ連政治史、コミンテルン史

 

 [ソ連解体以後]名誉回復の対象は、共産党解散・ソ連解体とともに、レーニンの下での弾圧の犠牲者にも及ぶようになった。〈政治弾圧犠牲者の名誉回復に関するロシア共和国法〉に基づき、従来〈反革命分子〉とされていたクロンシタットの反乱参加者が、94年1月の大統領令で名誉回復された。また、内戦期に大多数が〈白衛軍〉についたとされるコサックは、91年8月クーデター前に採択された〈被弾圧諸民族の名誉回復に関するロシア共和国法〉の適用を受けて、92年6月の大統領令で名誉回復された。この法に基づいて、第2次世界大戦中に対独協力の疑いでシベリア等に強制移住されたチェチェン人、イングーシ人、ヴォルガ・ドイツ人や、大戦前に対日協力の疑いでシベリア、中央アジアに強制移住(民族強制移住)させられた朝鮮人も名誉回復されている。(富田武)

 

 〔名誉回復問題について、富田武氏への私(宮地)のメール質問〕

 (1)、クロンシュタット反乱者の名誉回復にいたる経過と、名誉回復理由

 (2)、コサックの名誉回復にいたる経過と、名誉回復理由

に関して、分かる範囲で教えて頂けないでしょうか。(なお、返事のHPへの転載の了解を頂いています)

 

 〔富田武氏からのメール返事の全文〕

 宮地さん、とりあえずのお答えをします。富田武。
 1)、コサックの名誉回復について:コサックはヴォルガ・ドイツ人、チェチェン人等と並べられる民族ではなく、ロシア人だが独特の歴史と文化、風俗を持つため「民族」の扱いを受けたと言えます。その名誉回復はコサック自身の運動によるものですが(モスクワでも祖父譲りの制服をまとった彼らをよく見かけました)、そこにロシア民族主義の尖兵として使いたいというエリツィン政権の思惑が働いたことは言うまでもありません。ちなみに、1992年6月15日の大統領令では「コサックに関わる歴史的公正の回復、歴史的に形成された文化的・民族的一体性をもつ集団としての名誉回復を目的とし、コサック復興運動代表者のアピールに応えて」となっています。

 2)、クロンシュタット反乱参加者の名誉回復:こちらには名誉回復の運動はありませんでしたが、十月革命そのものを不当な権力奪取とみる(二月革命のブルジョア議会コースが望ましかったとする)エリツィン政権にしてみれば、水兵たちの要求(ボリシェヴィキ抜きのソヴィエト)の正当性を認めたのではなく、共産党の歴史的不当性を照明するためでした。ちなみに、1994年1月10日の大統領令では「1921年春のクロンシュタット市における武装反乱の廉で弾圧されたロシア市民の歴史的公正、法的権利を回復するため」とあり、具体的には、1921年3月2日の労働国防会議決定第1項(コズロフスキーもと将軍と部下を法の保護外におく)を廃止し、水兵らに対する弾圧を不法な、基本的人権に反するものと認め、事件犠牲者の記念碑をクロンシュタット市に建立するという3つの措置を決めました。
 *労働国防会議決定第2項「ペトログラード市とペトログラード県を戒厳状態に置く」、第3項「ペトログラード要塞地区の全権をペトログラード市防衛委員会に移管する」。

 なお、両者とも詳細な資料集が1997年に刊行されています(前者はまとめてではなく、ドン地方の『ミローノフ』など)。

 

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 (関連ファイル)

     『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』

       ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係

     『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版

     P・アヴリッチ 『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他

     イダ・メット   『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文

     ヴォーリン  『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

     スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過

     A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過

     大藪龍介   『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱

     梶川伸一   『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

       食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

       レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

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