聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理
教会財産没収・教会破壊・聖職者全員銃殺事件の検証
(宮地作成)
〔目次〕
4、銃殺・殺害された聖職者・信徒数データ 約70万人殺害(表1、2、3)
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
『赤色テロル型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』大飢饉の原因形成
第7部『「ネップ」評価とその後に発生した500万人飢死の原因』
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』ロシア革命の根本的再検討
『レーニン体制の評価について』21−22年飢饉からみえるもの
大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入と政治の逆改革
このファイルは、「聖職者全員銃殺型社会主義者レーニン」を分析する。それは、従来から公表・宣伝されてきた「レーニン神話」像とは、まるで異なっている。よって、ここで使っているデータ、文献の信憑性が問題になる。文末ではなく、本文の前に、7つの文献の説明と私の判断を書く。
(1)、岩上安身『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年、P.287)
そこに、レーニンの1922年3月19日付「教会財産没収、聖職者銃殺指令」極秘手紙全文が載っている。これは、1990年4月「ソ連共産党中央委員会会報」で公表された。その抜粋が、下記のドミートリー・ヴォルコゴーノフ著『レーニンの秘密・下』(P.209)、内田義雄著『聖地ソロフキの悲劇』(P.43)に、同一内容で載っているので、「手紙」の存在、内容は真実である。
(2)(3)(4)、廣岡正久京都産業大学教授『ソヴィエト政治と宗教−呪縛された社会主義』(未来社、1988年)、『ロシア正教の千年』(NHKブックス、1993年)、『ロシアを読み解く』(講談社現代新書、1995年)
これら3冊におけるロシア正教問題、レーニンの「戦闘的無神論」の内容や宗教根絶路線の研究内容はきわめて貴重なものである。本文で、かなり参考にし、その私なりの要約を書いた。そこでの宗教弾圧データも信憑性があり、データ(表)でもかなり使用した。
(5)、ドミートリー・ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上下』(NHK出版、1995年)
これは、「レーニン秘密・未公開資料」に基づく出版物である。その「はじめに」によれば、モスクワのソ連共産党中央委員会ビル内に「レーニン関連文書保管所」があり、そこにはレーニンの未公開資料が3724点と、そのほかにレーニン署名入り未公開文書が3000点近くもあることが、1991年ソ連崩壊後、明らかになった。このファイルでは、『上・下』779ページ中、『下』「第6章、一元的社会」の1節「レーニンと教会」(P.203〜224)における「レーニン秘密・未公開資料」宗教弾圧データを使った。
とくに、「教会財産没収、聖職者銃殺指令」極秘「手紙」を理解する上で、レーニンがその口実とした「シューヤ事件」の全体像、前後経過は、この著書で初めて暴露された。そこでの没収財産データは、正確な数字で、信用できる。ヴォルコゴーノフは、ソ連軍事史研究所所長で大将の軍籍をもっている。彼と出版当時のエリツィン政権との関係や「レーニン未公開資料」公表の意図には、いろいろ問題点もある。しかし、この著書で使用されているのは、その著述内容から見ても、レーニン第1次資料であり、その正確な引用である。
(6)、内田義雄『聖地ソロフキの悲劇−ラーゲリの知られざる歴史をたどる』(NHK出版、2001年)
これは、1923年、ソ連で初めての公式ラーゲリ(強制労働収容所)が置かれたソロフキ修道院に関する綿密な取材ルポルタージュである。宗教根絶第3段階内容と、聖職者一人一人の経過とその遺族の真相究明の過程が、生々しく描かれている。ソロフキ収容所の実態も、2001年、本書で、初めて公表された。
(7)、ソルジェニーツィン『収容所群島』の「第2章、わが下水道の歴史」
そこにおける宗教根絶過程の「文学的考察」は、総計227人の回想、手紙に基づく証言で、これも真実である。
(注)、このファイル全体に言葉の混在がある。ロシヤとロシア、ソヴィエトとソヴェトである。使用文献によって、廣岡教授は両者を使い、他の人と私は後者を使っている。引用文の関係もあり、いずれかに用語統一せず、混在のままにした。
ソ連崩壊後、レーニンがトロツキーとモロトフ宛に出した手紙2通をヴォルコゴーノフが発掘・公表した。この「極秘、写しは絶対にとらないこと」という手紙に、レーニンの本音が剥き出しに表れている。レーニンは、他の手紙・指令にも、この文言を多用している。
〔小目次〕
これは、ヴォルコゴーノフ『七人の首領−レーニンからゴルバチョフまで』(朝日新聞社、1997年、原著1995年)にある。訳文が〈掃き清められた〉となっているが、「浄化」と同じ用語だと思われる。レーニンは、その言葉を、1922年5月以降の「反ソヴィエト」知識人数万人追放作戦においても使った。「浄化」という言葉の性質は別ファイルで分析した。
「同志トロツキー、〈掃き清められた〉(=「浄化」された)教会の数に関する情報を発送されたものと思いますが…。ではごきげんよう! 一九二二年年三月十一日 レーニン」(最新資料研究ロシア中央文書保管所、フォンド二、資料一六六六、ファイル一〜二)。
1922年3月19日付「手紙」全文 1990年4月「ソ連共産党中央委員会会報」で公表
ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員政治局員のためのX・M・モロトフヘの手紙
一九二二年三月十九日
極秘、写しは絶対にとらないこと。政治局員各自(カリーニンも同様)意見は直接、文書に書きこむこと。 レーニン
シューヤ(訳者注=イワノヴォ州にある市)で起こった事件は、すでに政治局の審議に附されてはいるが、事件が全国的な闘争計画に沿ったものである以上、断固たる処置をとる必要があると思われる。三月二十日の政治局会議に自ら出席できるかどうかわからないので、手紙で自分の考えを述べる。シューヤの事件は、最近ロスト通信が各新聞社宛に掲載を目的とせずに流した、例のペトログラードにおいて、極右が教会財宝没収令に対し抵抗の構えをみせているとするニュースと関連づけてとらえるべきである。
今度の件と、新聞が書いている宗教界の教会財産没収令に対する態度や我々が知っているチーホン総主教の非合法なアピールを比べると、極右聖職者達がこの時期を狙って我々に戦いを挑むことが、きわめてよく練られた計画であることが判明する。極右聖職者の主要メンバーで構成する秘密会議で、この計画が練られ、決定されたに違いない。シューヤの事件は、この全体計画の単なる一片にすぎない。
思うに、我々に対し、勝ち目のない徹底抗戦で向かってくるとは、敵の大きな戦略的誤りである。むしろ我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができる。まさに今、飢えた地方では人を喰い、道路には数千でなければ数百もの屍体がころがっているこの時こそ、教会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならない)のである。今こそ、農民のほとんどは我々に味方するか、そうでないとしても、ソビエトの法令に力ずくの抵抗を試みるひと握りの極右聖職者と反動小市民を支持できる状況にはないであろう。
我々はいかなることがあっても、教会財産を断固、早急に没収しなければならない。それによって数億ルーブル金貨の資金が確保できるのである(修道院や大寺院の莫大な財産を思い出して下さい)。この資金がなくては経済建設をはじめとする、いかなる国家的事業も、またジェノアで自己の見解を貫き通すこともありえない。ルーブル金貨数億(もしくは数十億)の資金を手に入れることは是が非でも必要である。それが首尾よくできるのは今だけである。状況を見てみると、後からでは成功しない。絶望的な飢餓のときを除いては、農民大衆が、たとえ教会財産没収闘争で当方の完全勝利が自明だとしても、我々に好意的態度を示したり、せめて中立でいてくれるという保証はない。
ある賢明な作家が国家的問題に関して、「一定の政治目的を達成するために残酷な手段を必要とする場合は、思いきった方法で、きわめて短時間に行なわなければならない。残酷な手段を長期にわたって用いれば大衆が耐えられないだろう」と述べているが、まったくそのとおりである。さらにこの考えは、反動宗教界に残酷な手段でのぞむとなると、ロシアの国際的立場が、とりわけジェノア以後、政治的に不合理かつ危険の多いものとなるだろうということで裏づけされる。今、反動宗教界に対する我々の勝利は完全に約束されている。また国外のエス・エルやミリュコフ派など主要な敵も、我々が今この時期、飢餓に際して迅速かつ容赦なく反動宗教界を弾圧するなら、もはや我々に抗することはできないであろう。
それゆえ、私は、今こそ極右聖職者達に徹底的かつ容赦ない戦闘を挑み、彼らが今後、数十年にわたって忘れることのできないような残忍な手段で抵抗を鎮圧すべきだという、疑う余地のない結論に達した。この計画を実施に移すための作戦を私は次のように考えている。
いかなる措置を採るときも公的には同志カリーニンのみが登場し、同志トロツキーは印刷物にしろ公衆の前にしろいかなる形であれ姿を現わしてはならない。政治局の名ですでに出された没収の一時停止に関する電報は変更しない。この電報は、敵にあたかもわれわれが逡巡しており、威嚇に成功したと思わせるので好都合である。
シューヤには全ロシア中央執行委員会、もしくは他の中央政府機関から最も精力的で、分別のある敏腕な者を一人(数人より一人がよい)、政治局員の一人が口頭で指示を与えて派遣する。そして、この指示は、それによって彼がシューヤで、現地の聖職者、小市民、ブルジョアを全ロシア中央執行委員会の教会財産没収令に反対する実力抵抗に直接または間接にかかわったかどで、できるだけ多く、少なくとも数十人以上逮捕する。
任務終了後、彼はただちにモスクワに来て、自ら、政治局全体会議か、それを代表する二名の政治局員に報告を行う。この報告にもとづいて政治局は司法当局に細かい、これも口頭の指令を出す。それは飢餓救援に抵抗するシューヤの暴徒に対する裁判が迅速に行なわれ、シューヤと、できればそれ以外にもモスクワや他の教会都市の最も影響力ある危険な極右を非常に多数、必ず銃殺刑にして終わるようにするためである。
チーホン総主教自身には、明らかに、この奴隷所有者どもの暴動の頭目ではあるが、手を出さないほうが、賢明だと思う。彼に関してはGPU(ゲーペーウー)に秘密指令を出して、この時の対外関係をすべて、できるだけ正確かつ詳細に洗い出させること。そして、それをジェルジンスキーとウンシュリフト自らが毎週、政治局に報告するようにすること。
党大会において、この問題にかかわるすべてないしは、ほとんどすべての代議員とGPU、司法人民委員部の主要職員からなる秘密会議を設けること。富豪の大寺院、修道院、教会の財宝没収がどんなことがあっても容赦なく、徹底的かつ最短期間で行なわれるべしとする大会秘密決議はこの会議で行う。これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョアは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない。
この措置が迅速かつ滞りなく実行されることを監視するため、当の大会すなわち秘密会議で特別委員会を指名し、そこに同志トロツキーとカリーニンを必ず加えること、そしてこの委員会の存在は絶対公表せず、委員会指導下の作戦はすべて委員会の名によらず、全ソビエトと全党の名において行なわれること。富豪の大寺院、修道院、教会でこの措置を実行するときは特に責任感の強い優秀な職員を配すること。
一九二二年三月十九日 レーニン
同志モロトフヘの依頼、この手紙を各政治局員から今日中に回覧し(写しはとらず)、読了後、手紙の主旨に同意か反対かを書き込んで、ただちに秘書に戻すよう、とりはからって下さい。
一九二二年三月十九日 レーニン
――――――――――――――――――
*(岩上・注)、レーニンがここで引用している「ある賢明な作家」とは誰のことか、私には特定できない。ただ、ここで述べられていることと、きわめてよく似た一説をマキャヴェリの著書に見出すことは可能である。「加害行為は、一気にやってしまわなくてはいけない。そうすることで、人にそれほど苦汁をなめさせなければ、それぞれ人の憾み(うらみ)も買わずにすむ」『君主論』中公文庫、池田廉訳)。
〔小目次〕
第1段階 政教分離と聖職者差別路線
第2段階 教会財産没収、聖職者銃殺路線への大転換
第3段階 強制収容所送りと銃殺、拷問死による聖職者・信者根絶路線
廣岡正久京都産業大学教授は、著書『ソヴィエト政治と宗教−呪縛された社会主義』において、この関係を克明に分析している。以下は、その一節(P.60)を私が要約したものである。
1917年2月、帝制の崩壊からソヴェト体制の成立に至る一連の革命は、ロシヤの国民生活に根底的な政治、経済的変革をもたらした。そればかりでなく、新たに深刻な精神的亀裂と葛藤をも惹起した。なぜなら、ロシヤは、900年間にわたって、ロシヤ正教が国民統合の精神的原理をなし、民族的、文化的伝統を育んできた国であったからである。革命前夜に当たる1914年当時、ロシヤ正教徒が実に総人口の70%(約1億人)、ロシヤ人中ではほぼ100%を占めていたという事実は、ロシヤ正教会が国民生活の全領域にまたがって、いかに巨大な影響力を有していたかをしめしている。
その結果、「戦闘的無神論」を掲げるボリシェヴィキの勝利はただちにロシヤ正教会との熾烈な対立抗争を生み出した。宗教、とくに旧体制のもっとも枢要な支柱の一つであったロシヤ正教会は、可及的速やかに破壊し、根絶されなければならない――これが、新たにロシヤの支配者として登場したレーニンたちが一致して抱いた確信でした。生まれたばかりのボリシェヴィキ政権にとって、反革命の悪夢を払拭するためにも、旧体制の徹底的破壊は至上命令でなければならなかったからである。
第1段階 政教分離と聖職者差別路線
(1)、1917年から1921年までの3つの方策
第一は、土地、施設そして聖器物をも含む教会資産の国有化の断行である。宗教儀式に不可欠な教会施設は、司法行政機関の管理下におき、その使用については監督官庁の許可を得なければならないとした。この結果、ロシヤ正教会をはじめとする諸教会は、経済的基盤を奪われただけでなく、施設の使用を制限されることによって、その宗教活動にも重大な支障をきたした。さらにこの政策の一環として、修道院の徹底的な破壊も企てられ、1920年までに、670のロシヤ正教修道院が閉鎖されたといわれている。
第二は、聖職者に加えられた身分上ならびに権利上の差別政策である。彼らを旧資本家階級や犯罪者などとともに最下等身分に定め、公民権を剥奪した。そのうえ、この非労働者階級には食料配給カードが支給せず、また就労に欠かせない労働組合への加入も認めなかった。
第三の方策は、宗教の社会的影響力、とりわけ教育にたいする影響力の排除だった。教育人民委員会は、教会と学校との分離に関する布告を着実に履行し、その結果、教会が設立した学校を、閉鎖もしくは国・公立学校へ移管し、宗教教育も、少数の神学校を除いて全面的に禁止した。
この間、教会は、信者による一定の抵抗があったものの、ボリシェヴィキ政権にたいして、低姿勢を続けていた。レーニンも、内戦終了、食糧独裁令の誤りにたいする農民反乱武力鎮圧、戦時共産主義を終えるまで、この路線にとどめ、教会にたいして致命的な打撃を加えなかった。
(2)1921年の大飢饉にたいするロシア正教の対応とレーニンの対応
1921年、22年には、約2500万人が飢えていた。それは、ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』、梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』が論証したように、1918年5月以来のレーニンの「食糧独裁令」の誤り、暴力的な軍事=徴発遂行の誤りを基本原因とする飢饉だった。
ロシア正教のチーホン総主教は、飢えた人たちのために教会内の財産を使用することを提案した。21年8月にも、再度信者に呼びかけ、全ロシア教会委員会を結成した。他の救済委員会も、自由主義者を中心に作られた。
1921年7月7日、政治局は、その申し出を討議し、彼の呼びかけをラジオで放送することで一致した。トロツキーは、ボリシェヴィキの新聞にもそれを載せたがった。しかし、レーニンは、教会の富を没収し、彼らの勢力を弱めるために、この飢饉を利用することを模索し、新聞掲載を拒否した。
1921年8月27日、レーニンは、救済委員会メンバー全員を、「エスエル党員とのつながりがあり、反ソヴェト宣伝をしている」とでっち上げて、ただちに逮捕するよう命令した。彼は、教会や西側慈善団体からの援助は、反革命の温床になると警戒した。
第2段階 教会財産没収、聖職者銃殺路線への大転換
1922年2月23日、ソヴェト中央執行委員会は、大飢饉に見舞われた東部ロシアの飢餓住民の救済を名目として、「教会の聖器物ならびに貴金属・宝石類の没収を命じる布告」を発令し、新聞に発表した。この布告発令経過は、レーニンが、教会側の資金提供を拒絶したうえで、レーニンが単独で発令し、政治局があとから追認したものだった。
3月11日、レーニンはトロツキーにたいし、政治局が“浄化済み”、つまり財宝没収済みの教会の数について、集計を出すよう指示したかどうかを確かめよと手紙に書いた。同時に、逮捕および処刑された聖職者の数についても定期的に報告するように要請した。GPUは、三月中旬から下旬にかけて、「聖職者および宗教関係職員の革命的弾圧」について数通の報告書をレーニンへ送った。党組織、国家保安部(GPU)、特別結成隊が教会に突入しはじめた。彼らは政府の布告を読み上げ、自発的にすべての財宝を引き渡すように要求した。司祭たちは、聖体礼儀に必要なもの以外はすべて、進んで引き渡した。地方の無神論者たちは、司祭を押し退けたり、逮捕したりしたあげく、自分たちで勝手に没収していきた。これは大勢の前科者を掻き集めて行った組織的強奪だった。
トロツキーは後年、自伝のなかで次のように書いている。「……目立たぬように非公式なやり方で果たした、十指に余る仕事のなかに、反宗教宣伝があったが、レーニンはこれにとりわけ興味を抱いていた。彼は度々、しつこいほど、私がこの分野から目を離さないように、と依頼した」と(レオン・トロツキー、栗田勇訳『わが生涯』下巻、現代思潮社、P.854)。
3月中旬、「シューヤ事件」が、あちこちで信者たちが抵抗した中で発生した。レーニンは、イヴァノヴォの近くのシューヤという小さな町で騒動が起こったという報告書をGPUから受け取った。民警を引き連れた地方党委員会のメンバーが3つの小さな教会をからっぽにし、シューヤのユダヤ教の会堂にあった財宝を倉庫から奪ったあと、その教会に到着した。大勢の群衆が集まっていて、争いになり、だれかが教会の鐘を鳴らしはじめた。第146歩兵連隊の半分が出動を命じられた。機関銃が発射され、血が流され、死者が出た。その晩、教会の信者たちが約100ポンドの銀製品を地方党委員会に持参した。徴発委員会はこれに満足せず、さらに360ポンドの銀製品と大量の金製品、宝石類を奪い取った。
GPUは、妨害行為は黒百人組司祭によって組織されたものだと報告した。だが、どこでも抵抗は自発的に行われたのは明らかだった。レーニンはかんかんに怒った。彼も、この時ばかりは怒鳴りちらし、罵言雑言を吐いた。彼はついに、聖職者、とくにチーホン総主教を、一挙に抹殺してしまうまたとない機会が到来したと感じた。「シューヤ事件」とその裁判の内容は、ドミートリー・ヴォルコゴーノフが、「レーニン秘密・未公開資料」に基づいて、『レーニンの秘密・下』(P.207)で初めて公表した。
3月19日、上記レーニンの「教会財産没収、聖職者銃殺指令」極秘手紙。レーニンが「シューヤ事件」をきっかけとして中央委員兼書記のモロトフと、政治局員向けに詳しく書いた6頁にわたる手紙の内容は、他のレーニン主義者たちの目にさえ触れないようにしまい込まれた。この秘密資料が公表されたのは、68年後の1990年だった。
内田義雄氏は『聖地ソロフキの悲劇−ラーゲリの知られざる歴史をたどる』において、この「手紙」抜粋を載せている。その「手紙」の注釈として、次のように書いている。そのなかでレーニンが書いている「黒百人組」とは、革命前の帝政時代に、活動が活発になってきた革命派や自由主義者に対抗して反動的な地主や聖職者が組織した右翼団体の名称であるが、ここでは革命政権に抵抗する人たちをすべて反動派の「黒百人組」と決めつけるレーニンお得意のレトリックの用語として使われている。(P.43)
レーニンによる「黒百人組」というウソのレッテル貼りは、前年1921年3月クロンシュタット・ソヴェト水兵反乱における「白衛軍の将軍との連携」という真っ赤なウソ、1920、21年のタンボフ農民反乱における「エスエルに指導された反革命」としたウソと、まったく共通する詭弁である。
クロンシュタット反乱における「白衛軍将軍どもの役割」というレーニン演説がなんの根拠もなく、鎮圧・粛清のためのウソであったことについては、アイザック・ドイッチャーが『武装せる予言者』で明言し、P・アヴリッチが『クロンシュタット1921』で完璧に論証している。「エスエルに指導された反革命運動」としたレーニン、ボリシェヴィキの宣伝も、反乱指導者アントーノフは、たしかにエスエル党員だったが、エスエル方針と関係はなく、レーニンらの根本的に誤った軍事=食糧徴発体制、食糧強奪にたいする農民の正当な抵抗運動であったことを、梶川伸一氏は『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』で膨大なアルヒーフ(公文書)を使って証明した。
3月22日、政治局の会合は、レーニンの「極秘指令」に基づいて、「シューヤ事件」裁判の方針を、電光石火のスピードで決定した。その内容は、「シューヤ事件」を口実として、聖職者全員銃殺・教会財産没収路線への大転換を図るものだった。方針は「宗務院(ロシア正教会の最高統治機関)のメンバーと総主教の逮捕が必要であること。15〜25日以内に行うと発表すべきである。シューヤで起こったことは公表し、告発されたシューヤの司祭や信者は1週間以内に裁判にかけること。反抗の首謀者は銃殺刑に処すること」などだった。
ウンシュリフトは総主教を今すぐ逮捕すべきだと主張した。政治局に提出されたGPUの覚え書にはこう書かれていた。「チーホン総主教とその一味は……教会の財宝の没収に反対して公然と運動を展開しつつある……チーホンおよびもっとも反動的な宗務院メンバーの逮捕に踏み切る証拠は十分にある。GPUは、(1)潮時を見て宗務院総監と総主教を逮捕する。(2)新しい宗務院メンバーの選出は進めるべきではない。(3)財宝の没収に反対した司祭は全員、人民の敵として、ヴォルガ川流域のもっとも飢饉のひどい地域へ追放すべきである」と提案した。
3月30日、シューヤの事件について、レーニンは政治局に、勧告の手紙を出した。レーニンは政治局の会合が開かれる日に、自分は出席しない予定だったので、この手紙の下書きを電話で秘書のリージャ・フォティエヴァに口述筆記させた。「飢饉救済に反対したシューヤの謀反人たちの裁判は、できるかぎり速やかに行うこと、シューヤの黒百人組のうちもっとも影響力のある大勢の危険な人間は銃殺するしかないこと、できれば、この町ばかりでなく、モスクワその他の信者の多い地域でもこれを適用する」。
教会の問題は重要だったので、政治局は数回の会合を開いてこの手紙について討議した。カーメネフ、スターリン、トロツキー、モロトフは、革命軍事会議議長のトロツキーが書いた命令書草案について検討し、いくつかの修正条項付き17項目の命令書が承認した。ヤコヴレフ、サブロノフ、ウンシュリフト、タラシコフ、ヴィノタロフ、バジレヴィチらによる中心となる委員会が結成された。監督役はトロツキーだった。同じような委員会が地方にもつくられた。
チーホン総主教の飢饉救済のための財宝供出拒否に反対する“生きている教会派”と呼ばれるいわゆる“教会刷新派”を支持することによって、教会を分裂させるために、できるだけ広範囲に扇動を行うことが決定された。この運動はできるだけ短期間に実行されることになり、著名な聖職者の逮捕が続いた。財宝の没収が行われる時には、軍隊、共産党員、特殊部隊などが、所定の教会の周辺を固めた。略奪がはじまってまもなく、トロツキーはレーニンにこう知らせている。「今日までの主だった没収は、明け渡された修道院、博物館、倉庫などで行われている。戦利品は莫大な量にのぼっているが、この仕事はまだまだ終わっていません」。
教会財産没収率を上げるために、政治局はさらなる“技術的援助”をえるための費用として、500万ルーブリを計上した。この委員会の新しい助人の大半は、武装強盗で捕まったことのある前科者たちだった。国中で、教会や聖職者にたいする軍隊式の遠征が開始された。ユダヤ教の礼拝堂、イスラム教のモスク、ローマカトリック教会も例外ではなかった。夜中に、チェーカーの地下室や、近所の森の中で、いやな拳銃の発射音が聞えた。処刑された司祭や信者の死体は、溝や谷間に折り重なって放り込まれた。国中から教会の鐘の音が聞えなくなった。地方の党指導者、チェキスト、委員会のメンバーらは金や財宝を大急ぎで数えては箱に詰め込んだ。
5月4日、政治局は、レーニンの提案にしたがって、「反抗的な聖職者による企てについての情報を提供し、首謀者を射殺」し、「聖職者に死刑」を命じる布告を正式に承認した。
5月8日、シューヤの司祭と信者の裁判は終了し、11人が死刑、残りの被告には期間はまちまちの禁固刑が宣告された。政治局に恩赦を嘆願した者のうち、6人が認められたが5人は拒否され、すでに裁判なしに処刑された数千人のリストに仲間入りした。
5月初旬、その間も、レーニンは高位聖職者の裁判を急がせていた。政治局はモスクワ裁判所に、(1)チーホンの裁判をすぐに開くこと、(2)司祭たちに死刑を宣告することを命じた。裁判は早急に行うのが望ましかったが、世界各地から抗議の声が上がった。ローマ教皇、ドイツ社会民主主義者、スウェーデンの平和主義者、当時、国際連盟の難民高等弁務官だったノルウェーの探検家・政治家のフリジョフ・ナンセンらからも電報が届きた。政治局はチーホフ裁判を延期し、この間題をさらに慎重に検討することに決めた。
第3段階 強制収容所送りと銃殺、拷問死による聖職者・信者根絶路線
内田義雄は、『聖地ソロフキの悲劇−ラーゲリの知られざる歴史をたどる』において、聖職者・信者たちの強制収容所送りと銃殺、拷問をさまざまな個々人のケースで追跡し、この第3段階を解明した。以下は、その一部を要約、紹介したものである。
1923年5月、極秘命令・ソロフキ修道院を反革命分子の特別収容所にせよ!
アルハンゲリスクからケードロフを団長とするゲペウ(GPU、国家政治保安部)の一団が乗り込んできた。それはモスクワの中央政府が、「ソロヴェツキー群島及びその修道院の全施設をゲペウの直接管理下に置き、反革命的分子のための特別な収容所を設置せよ」との極秘命令を下したからである。やって来たゲペウの担当官たちは、ソホーズを解散させるとともに、修道院の施設を接収した。そしてまずソロフキに残存する宗教的なものの根絶に着手した。
レーニンは「宗教は人民の阿片である」として、宗教の弾圧を命じ、すでにロシア各地で教会や修道院の閉鎖を行い、聖職者の逮捕や処刑が始めていた。遠い白海のソロフキにもその手がのびてきたのだった。ゲペウ担当官たちはまず教会の尖塔の十字架を引きずり下ろし聖堂の聖壇を取り壊し、イコンをすべてはがした。修道院の貴重な財産は破壊または掠奪し、数世紀にわたって集められた図書や古文書を焼きた。教会の鐘楼からは、すべての鐘を取り払いた。楼上の鐘は、尖塔の頂に立つ十字架と並んで、ロシア正教の象徴だった。ゲペウは、引きずり下ろした教会の鐘をいつぶした。
1923年夏、ソロフキの島々にさまざまな分野の人たちが囚人として続々と送りこまれてきた。革命政権に抵抗した貴族や白軍の将校たちとその家族、レーニンのボリシェヴィキ派に反対したメンシェヴィキ派やエスエル党などの党員たち……。ソロフキ修道院は監獄になった。そのなかにはロシア正教の高位の主教たちが大勢いた。当時、ソロフキに来れば著名な各管区の主教のほとんどに会える、といわれたほどだった。この人たちのほとんどは、その後銃殺または過酷な労働で命を失ったと推定される。
ソロフキの宗教的なものの根絶に片を付けながらゲペウの担当官たちは、ソ連共産党中央部の極秘命令に基づく「特別な収容所」の管理・運営に忠実に、そして厳格に取りかかっていきた。ソロフキ収容所の正式名称は「ソロフキ特命ラーゲリ」(略称「スロン」SLON)だった。1923年5月に開設されたソロフキ収容所には、2、3年後には1万人近い囚人たちが収容されていた。島の囚人たちは、劣悪な生活条件の下で森林の伐採、島の土(質の良い肥えた土であった)を本土に送るための鉄道の建設、レンガ造りなど、過酷な労役にかりだされた。1929年まではソ連で唯一公式の「ラーゲリ(強制労働収容所)」だった。それは、1923年から39年まで存続した。
ソルジェニーツィン『収容所群島』における「ソロフキ下水道の歴史」
ソルジェニーツィンは、その第2章「わが下水道の歴史」(新潮社、1974年、P.47)で、聖職者・信者根絶路線を次のように描いている。その個所を、そのまま転載する。
一九二二年の春、国家保安部と改称されたばかりの反革命および投機取締非常委員会は教会のことにも容喙(ようかい)することを決めた。《教会革命》をも行うこと、つまり、幹部を入れかえ、天のほうに片耳だけ向け、もう一方の耳はルビャンカのほうに向けるような人びとを新しい幹部に据えることが必要だったのだ。そういう要請に添うことを約束したのは《生きている教会》派の人びとであったが、彼らは外からの援助なしでは教会機関を手中に収めることができなかった。
チホン総主教が逮捕され、銃殺刑の宣告をともなった二つの有名な裁判――モスクワでは総主教を中心に暴動を起す計画を推進しようとしていた人びとの裁判、ペトログラードでは教会の権力が《生きている教会》派に移るのを阻止しようとしたヴェニアミン府主教の裁判が行われたのもそのためであった。県や郡でもあちこちで府主教や主教が逮捕され、こうした大物逮捕の後には例によって例のごとく雑魚の、つまり、主祭長や修道僧や補祭などの逮捕が続いたが、これは新聞紙上に報道されなかった。教会改革を唱える《生きている教会》派の圧力に屈しようとしなかった人びともぶち込まれていった。
聖職者は毎日の水揚げ量の必ずある一部を占めており、ソロフキ島のどの囚人護送団宿泊地でも彼らの銀髪が目についた。
二〇年代初期から、神智学者、神秘論者、降神術者(バレン伯爵のグループは霊魂との会話の記録をとっていた)などのグループ、宗教団体、ベルジャーエフ=サークルの哲学者たちなども逮捕の憂き目にあった。ついでに《東方カトリック教徒》(ウラジーミル・一ソロヴィヨフの信奉者たち)やA・I・アプリコソワのグループも殄滅され、ぶち込まれた。何か当然の成行きといった形で、普通のカトリック教徒ポーランドのクションズ(カトリック僧)たちも監獄入りしていった。
しかしながら、二〇年代、三〇年代にずっと国家保安部(ゲーペーウー)−内務人民委員部(エヌカーヴェーデー)の重要目標の一つであったこの国における宗教の根絶は、信仰心のあつい正教徒たち自体を大量に投獄することによってはじめて達成できることであった。以前のロシアの生活を黒く染めていた修道僧や修道尼たちが徹底的に消されたり、ぶち込まれたり、流刑地へ送られていったりした。教会活動に熱心な人びとは逮捕され、裁判にかけられた。その範囲はどんどん広がっていき、やがて普通の平信徒たち、老人たち、特に女たちがごっそりつかまっていった。女たちの信仰心はなかなか固く、中継監獄や収容所では長年にわたってこうした女たちにも尼さんの綽名(あだな)がたてまつられた。
もっとも、こうした人びとが逮捕され、裁判にかけられるのは信仰そのもののためではなく、自分の信念を声に出して述べたり、子供たちをそんな気持で教育したりしたためであるかのように一般には考えられていた。ターニャ・ホドケヴィチが書いたように、「お祈りするのは自由だけれど−でも……神さまにしか聞えないように」といった具合であった(この詩のためにターニャは十年の刑をくらった)。精神的真理をわが物にしていると信じている人間が、それをこともあろうに自分の子供たちに対して隠さねばならないのだ! 子供の宗教教育は二〇年代には第五八条一〇項によって政治的犯罪、すなわち、反革命的煽動と見なされるようになった! たしかに法廷ではまだ宗教を棄てるチャンスは与えられていた。父親は宗教を棄てて子供を育てつづけ、母親はソロフキ島へ行く、といったケースもたまにではあったがあることはあった(この数十年間、こと信仰に関しては女性のほうがずっとしっかりした態度を見せてきた)。宗教犯は全員、当時最高の刑期だった十年を申し渡された。
4、銃殺・殺害された聖職者・信徒数データ 約70万人殺害
稲子恒夫名古屋大学名誉教授は、編著『ロシアの20世紀』(東洋書房、2007年4月、1069頁)を出版した。彼はソ連法学・ソ連史研究者であり、多くの著書がある。著者は、この編著書で、1991年ソ連崩壊後に発掘・公表された大量の極秘資料を収集・分析している。この内容レベルは、日本において、極秘資料に基づく最初の年表・資料・分析文献となった。
著書の「教会の弾圧」テーマ(P.217)は、次の総計を載せた。アレクサーンドル・ヤーコヴレフ(ロシア連邦大統領付置政治弾圧犠牲者名誉回復委員長)によると、革命以来ソビエト政権に殺された聖職者は20万人、そのほか約50万人が宗教を理由に殺された。レーニン・スターリンは合計で70万人を殺害した。その年度別・事件別の詳細データが、下記3つの(表)である。
(表1) レーニン路線による聖職者・信徒銃殺・殺害数
時期 |
規模 |
出典 |
1917〜18 |
キエフ府主教1人、主教20人、聖職者数百人暗殺。殺害前に手足を切り刻み、生きながら火で焼いた。市民の宗教行進に銃撃。尼僧を暴行 |
W・ストローイェン『共産主義ロシアとロシア正教会』(『ロシア正教の千年』に引用) |
1918・6〜19・1 (ソ連一部地域) |
処刑‥府主教1人、主教18人、司祭102人、輔祭154人、修道士と修道女94人 投獄‥主教4人、司祭(妻帯司祭および修道司祭)211人 不動産の没収‥教区718、修道院18 閉鎖‥聖堂94、修道院26、ほかに非宗教的目的に使用された教会14、礼拝堂9 |
レフ・レゲリソン『ロシア正教会の悲劇』(教会公式資料) (『ロシア正教の千年』に引用) |
1918〜20 |
主教28人銃殺。聖職者数千人の殺害あるいは投獄。信徒ほぼ12000人が宗教活動名目で処刑、数千人が労働キャンプか流刑 |
『ロシア正教の千年』 |
1921〜23 |
司祭2691人、修道士1962人、尼僧3447人の計8100人銃殺。その他多数の信徒殺害。1414件の死傷事件発生 |
『ロシア正教の千年』 |
1922・4〜5 |
有力聖職者「54人裁判」。モスクワ最高裁判所は、11人に死刑宣告。処刑5人 |
『ソヴィエト政治と宗教』 |
1922・6 |
ペトログラードのヴェニアミン府主教の裁判。教会財産没収の妨害名目による逮捕。10人に死刑宣告。処刑4人、他に禁固刑22人 |
『ロシア正教の千年』 |
1922 |
聖職者、熱心な信徒14000人から2万人射殺 |
『レーニンの秘密・下』 |
1921〜23 |
特別法廷における反革命罪死刑宣告(ソ連全体の公的公表数字) 1921年、有罪者総数35829人、うち死刑9701人、1922年、6003人と1962人。1923年、4794人と414人。(注)、特別法廷裁判によらない銃殺・殺害は上記データ |
塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』 |
(表2) 教会破壊、没収財産、使途と飢饉死亡者
時期 |
規模 |
出典 |
1905〜1950 革命前〜1939 |
教会破壊 1905年に教会8万、1950年までに11525に激減 革命前、教会54174、修道院1025。1939年開いている教会500、修道院は数カ所を残して、破壊または閉鎖 |
『レーニンの秘密・下』 『ソヴィエト政治と宗教』 |
1922.11.1まで 1922 |
没収財産 金1220ポンド、銀828275ポンド、ダイヤモンド35670個、高価値1762品、宝石用原石536ポンド、金貨3115ルーブリ、銀貨19155ルーブリ 金442キロ、銀236227キロ、ダイヤモンドを含む膨大な資産 |
『レーニンの秘密・下』 『ソヴィエト政治と宗教』 |
1922 |
その使途 コミンテルンの資金、GPUおよび政治局の当座の入用、党エリート個人に割当する分配。飢饉救済名目の没収だが、飢饉のための食糧購入配分はわずか |
『レーニンの秘密・下』 |
1921〜1922 |
飢饉死亡者 飢饉は3回あるが、第1回目の1921、22年飢饉の飢饉死亡者は500万人 食糧の軍事徴発を原因として、ウクライナだけで100万人の飢饉死亡者 |
『ロシア・ソ連を知る事典』 |
(表3) スターリンによる銃殺・殺害=レーニン路線の継承
時期 |
規模 |
出典 |
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1924 |
府主教セラフィム逮捕、ソロヴェツキー強制収容所送り。裁判なしに、ロストフ・ナ・ドンで司祭、修道士122人とともに射殺 クロンシュタット反乱水兵で処刑を免れた2000人がソロフキ収容所に送られてきた。囚人を川に浮かぶはしけに乗せ、沈めて溺死させた。岸に向かってくる者は機関銃で射殺。それが何回も繰り返された |
『ロシア正教の千年』 『聖地ソロフキの悲劇』 |
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1925〜27 |
主教160人中、逮捕117人。全員を処刑、強制収容所送り、流刑。1930年代末、収監・流刑の主教150人を超えた |
『ロシア正教の千年』 |
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1928〜29 |
ソロヴェツキー強制収容所の全収容者の20%がロシア正教会関係 |
『聖地ソロフキの悲劇』 |
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1932〜33 |
レニングラードの修道士、修道女318人を強制収容所送り。聖堂22閉鎖。モスクワで聖堂と修道院400以上爆破。活動している教会は革命前の15〜25%に減少 |
『ロシア正教の千年』 |
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1933夏 |
シベリア。神の存在を否定すれば生きのびるチャンスがあると、聖職者に告げられた。しかし、いずれの答えも『神は存在する!』だった。静寂が戻るまで、ピストルの発射音が60回鳴り響いた |
D・ポロピエロフスキー『ソヴィエト無神論の歴史』(『ロシア正教の千年』に引用) |
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1932以降 |
1932年以降の主教の逮捕者数は、1936年20人、翌37年50人、全部で100人。1930年に府主教セルギーが挙げた主教163人中、主教86人が7年後に収容所の奥に姿を消した。同時期に主教29人死亡し、“引退強要”27人。結局、1930年代と40年代に総主教教会と革新教会派とを合わせて、主教約600人殉教。 迫害の犠牲が主教などの高位聖職者に限らず、教区司祭にも及んだ。レニングラードでは、1935年当時に教区司祭100人中、1940年生存7人だけ。革新教会派の場合、1935年司祭50人中、1941年生存8人だけ。 |
レフ・レゲリソン『ロシア正教会の悲劇』(教会公式資料) |
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1937 |
教会破壊の実態と“成果”発表
ソロフキ収容所所長・次長は、反革命的プロパガンダを行っている囚人1900人銃殺の「許可申請」提出。最終銃殺リスト1820人。そのうち、509人はレニングラード郊外で銃殺、200人は島内で銃殺。最大の1111人はサンダルモフの森で4日間にわたり銃殺、「1111人の処刑執行完了」報告書をKGBファイルから発見 |
『イズヴェスチャ』紙(1936・8・12)、『プラウダ』紙(1937・4・15) 『聖地ソロフキの悲劇』 |
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1930〜39 |
1930年代の10年間、ロシア正教会聖職者3〜4万人が銃殺、もしくは収監。修道院から追い出された修道士、尼僧も流刑、収監、あるいは射殺 |
レフ・レゲリソン『ロシア正教会の悲劇』(教会公式資料) |
〔小目次〕
1、西ヨーロッパにおけるマルクス・エンゲルスの宗教批判
廣岡正久は、著書『ソヴィエト政治と宗教−呪縛された社会主義』(P.43)において、要約すると、このテーマを次のように3点に規定している。マルクスが宗教に浴びせる批判は、もっぱら宗教の社会的側面、すなわち宗教の社会的起源と社会的役割を暴露することに集中している。
第一に、宗教とは、なによりもまず道徳と芸術、哲学などといった他のすべての社会意識形態と同様、経済的「土台」にたいする「上部構造」、すなわち、生産過程に対応する一定の社会関係の反映にほかならない。したがって宗教は自立性を有するものではなく、前社会主義的な社会発展段階にあっては階級搾取を本質とする社会関係の幻想的表現にすぎない。
第二、宗教の社会的、イデオロギー的機能である。それが資本主義社会の内部矛盾を隠蔽するばかりか、さらにはその社会・経済体制を擁護し、正当化する役割を果たす。宗教は、被搾取者にたいして搾取の現実から目をそらせ、その苦しみを忘れさせる麻薬として作用する。
第三、階級社会のもとで真の現実性をもたない人間の幻想的表現である宗教は、真の人間解放をめざすプロレタリアートの革命闘争の結果として、早晩、枯死するに至る。なぜなら、人間の「現実的な生活過程」の変革は、不可避的に、「この生活過程のイデオロギー的反射と反響」をも変化させずにはおかないからである。資本主義的な社会・経済関係の崩壊は、その幻想的、イデオロギー的表現である宗教をも崩壊へと導くからである。イデオロギー的上部構造である宗教は、経済的土台の変革にともなって、自然死を遂げる。
2、ロシアにおける戦闘的無神論の伝統
廣岡正久は、『ロシアを読み解く』(P.101)で、その系譜を次のようにのべている。
ロシア正教の強固な宗教的伝統は、他方で宗教を根底から否定し、神と教会を徹底的に拒否する過激な反動を呼び起こした。それは単に宗教を否定するだけでなく、神や教会を弾劾し、断罪するといった激しい反動であった。その“無神論”は、逆説的に、むしろロシア人に特有の熱狂的な信仰と呼ぶにふさわしいものであった。実際、ロシア人の無神論は単に神の存在を否定するのではない。それは神を、神の観念を全面的に否定し、拒否するのだ。
ロシア人の無神論の本質はその戦闘的性格にある。彼らは神に戦いを挑む戦士を自負している。その意味で、彼らは無神論の熱烈な信仰者なのだ。“無神論的”社会主義を信奉する革命家たちの登場を目撃したドストエフスキーは、その社会主義を「新しい宗教」と呼んだ。ロシア革命の悲劇を知るわれわれには、ドストエフスキーの予言は不気味な響きをもって迫ってくる。彼は書いている。「今や、新しい宗教が古いものに取って代わろうとしているのだ。だからこんなに戦士が現れてくる」と。
政治の実践的な課題としてのロシア的無神論を明確に打ち出したのは、暴力主義的なアナーキズム運動の創始者ミハイル・バクーニンであった。バクーニンにとって、神とは「人間的自由と尊厳の最も完全な否定」にほかならない。バクーニンは、人間の名において“神の殺害”をさえ主張する。「神が存在するならば、彼は不可避的に永遠の、至高の、絶対的な支配者である。したがって、そのような支配者が存在するならば、人間は奴隷である。……私はいう、神が実際に存在するとしても、神を廃止しなければならない(勝田吉太郎訳『鞭のドイツ帝国と社会革命』)。
過激な“戦闘的”無神論の信条は、ロシア革命にも受け継がれた。事実、一九一七年の革命から七四年間におよんだソヴィエト体制がロシア正教会をはじめとする諸宗教に対して、かつてのいかなる革命政権にも見られなかったほど激しく、かつ執拗な敵意を示したことは記憶に新しい。この体制は、近代の多くの革命が追求した「権力の神聖の剥奪」に満足することなく、およそ神の観念と宗教のいっさいを社会から根絶するばかりか、人間の意識からも一掃しようと企てた。
3、レーニンの戦闘的無神論
以下も、廣岡著書の私なりの要約である。
レーニンは、マルクスの3つの仮説中、第一、二を共通の命題としている。しかし、顕著な違いは、レーニンが、第三の「宗教の自然死」を信じないことだった。革命運動の「自然発生性」を否定したレーニンは、西ヨーロッパとロシアの条件の相違もあって、「戦闘的無神論」の立場に基づいて、「宗教の根絶を目指す激烈かつ攻撃的な反宗教闘争」を訴えた。
第一、レーニンは、宗教が「市民の私事」「個人の良心」の問題であるとは断じて認めなかった。ロシア革命にとって、宗教は、最重要な社会・政治的な課題であるとした。論文や書簡等に見られる、レーニンの宗教にたいする敵意や反感は、あまりにも激烈で、偏執狂的である。ゴーリキーの宗教的偏向をとがめた書簡のなかでレーニンは、宗教信仰を抱く者すべてを口汚くののしって「法衣を着けていない坊主、粗雑な宗教をもっていない坊主を暴露し、非難し、放逐すべきである」と述べた。さらに第二の書簡では「神の観念はいつでも奴隷制(最悪の出口のない奴隷制)の観念である」と、バクーニンに劣らない激しさで宗教に非難を投げつけている。この「攻撃的無神論」こそが、1922年の血なまぐさい宗教弾圧を招来する要因の一つだった。
第二、レーニンのいう政教分離の原則は、自由主義的な信仰の自由や良心の自由の原則を意味するものではない。レーニンの関心は、ただ一点、革命闘争の勝利に注がれているのであって、その目的は、宗教と国家権力との結びつきを断ち切り、宗教を無力化するとともに、併せて既存権力の「神聖の剥奪」と弱体化を促すことだった。したがってそれは、宗教根絶の闘争の第一歩であり、その有利な条件をつくり出すための革命戦略の一環にほかならない。
第三、1919年のロシヤ共産党(ボ)第8回大会で、レーニンは、プロレタリアート独裁の任務は宗教の根絶であるとはっきりと指摘している。「宗教政策の分野では、プロレタリアートの独裁の任務は、すでに法制化されている教会と国家との分離および学校と教会との分離に満足しないことにある。プロレタリアートの独裁は、搾取階級すなわち地主および資本家と、大衆の無知をささえるものとしての宗教宣伝団体との結びつきの破壊を、徹底的におしすすめなければならない。」と。しかし、ここまでくると、「戦闘的無神論」それ自体が「擬似宗教的信仰の対象」となり、いっさいの宗教の存在も、また他のいかなる信仰をも容認せず、ついには血なまぐさい宗教弾圧に狂奔するに至った。
したがって、レーニンの「戦闘的無神論」は、マルクス・エンゲルスの宗教批判との共通点を持ちつつも、その本質はロシアにおける「戦闘的無神論」の伝統を受け継いだものである。レーニンの「聖職者全員銃殺型社会主義」とは、マルクスや西ヨーロッパの社会主義理論、思想と根本的に異質な、かつ、「人道にたいする犯罪」を是認し、異端者大量殺人を正当化した異様なロシア特殊的社会主義だった。
廣岡著書が引用しているニコライ・ベルジャーエフの2節を転記する。
マルクス主義はあらゆる第一義的な問題に解答を用意し、生に意味を与える普遍的な、完成した一つの思想であると自負している。それは政治学であり、倫理学であり、科学であり、哲学でもある。それはキリスト教にとって代わろうとする新しい一つの宗教である(P.40)。
ベルジャーエフは、苛烈な宗教弾圧を招いた共産主義体制の疑似宗教的性格を指摘して、次のように論じている。共産主義は、神の選民としてのプロレタリアートにたいする宗教的崇拝を要求する。それは神と人間にとって代わるために招かれた社会的集合体を神化する。社会的集合体こそ、道徳的判断と行為の唯一の基準である。それはいっさいの正義と真理とを包摂し、表現する。それは自己の正統神学を有し、自己の祭祀を創始する。それは他のすべてにたいして強制的な、自己の教義体系と自己のカテキズムとを準備する。それは異端を剔抉し、異端者を破門する(P.55)。
6、レーニンにおける「大量銃殺是認」革命の倫理
〔小目次〕
3、タンボフのアントーノフ反乱にたいする「大量射殺指令」の倫理
レーニンは、スイスでの長期亡命革命家である。その間、プロレタリア民主主義を強調し、当然のことながら、「反革命分子、聖職者の銃殺」などは一度も主張しなかった。ただ、フランス革命挫折の教訓から、権力奪取した小数派の権力維持体制の必須条件になるシステムとして、ジャコバン「公安委員会」方式については、突っ込んだ研究をしていた。
彼が、銃殺、逮捕、抵抗者「人質」方針を大々的に主張するようになるのは、1917年10月、ボリシェヴィキ単独武装蜂起により一党独裁最高権力者になるのと同時ではない。それは、1918年5月、飢餓対策としての食糧独裁令発令以降だった。彼が、その誤った路線に抵抗する大多数の中農にたいして、恣意的に富農、クラークのレッテルを貼りつけて、軍事=食糧徴発を遂行してからだった。この食糧独裁令は、1918年5月13日から1921年3月までの2年10カ月間、戦時共産主義として継続された。この路線がいかに誤ったロシア農民からの食糧収奪政策であり、かつ、内戦の基本原因になったかについては、ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』と、梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』が、ソ連崩壊後の未公開資料、アルヒーフ(公文書)で論証した。
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』
レーニンの根本的誤りのもう一つは、1918年1月の「憲法制定議会武力解散」問題だった。1917年11月ボリシェヴィキ単独政権が行った選挙で、ボリシェヴィキは25%の議席しか獲得できなかった。その小数派ボリシェヴィキ政権が、40%の議席を獲得したエスエルにたいして政権を譲る、または連立を組むどころか、左派エスエルが(12月に)分裂したのに、統一名簿のままで行われた(11月)選挙だから無効と、レーニン式詭弁を使って武力解散した。これには、他の社会主義政党、75%の他党派支持者が猛反発し、これも内戦発生の第2原因になった。ロイ・メドヴェージェフは、内戦発生主要原因としての従来の外国軍事干渉説、白衛軍説を否定し、レーニンの2大誤りを、その主要原因と規定した。
2大誤りとその強行からくる矛盾が約2年間、次第に蓄積していき、1920年白衛軍との内戦終了とともに、ボリシェヴィキ一党独裁の誤りにたいして爆発したのが、1920、21年の危機だった。社会主義的政策を遂行する条件が存在しないのにもかかわらず、社会主義的農業、自由商業廃止・取締り、労働の軍事化方針などにたいして、5つの全分野で反乱が勃発した。
(1)シベリア・タンボフを最大とするロシア全土での農民反乱、(2)ペトログラードの労働者ストライキ、(3)クロンシュタット・ソヴェト水兵55000人の反乱、(4)チェーカーによる逮捕・粛清から逃れていた他社会主義党派、アナキストの参加、(5)ボリシェヴィキ党内3分派の活発化などである。レーニンは、それらにたいして「大量銃殺是認指令」による全面弾圧という最悪の選択肢を選んだ。その弾圧内容は、『逆説1921年の危機』で分析した。
一方、世界プロレタリア革命が勃発するまでは、ボリシェヴィキ一党独裁権力をなにがなんでも維持する方策として、レーニンは、80%を占める農民にたいしてだけ、食糧独裁令を撤回し、「ネップ」による現物税体制、自由商業容認という一時的後退戦術を採った。一党独裁体制を守り抜く上で、5つの全分野武力弾圧戦略と1分野一時的後退戦術を採るという点を見ると、レーニンはまさに激動する革命期に現れた天才的なプラグマティストだった。
この戦略・戦術強行の延長として、1922年の聖職者全員銃殺型社会主義者レーニンが登場した。
3、タンボフのアントーノフ反乱にたいする「大量射殺指令」の倫理
1921年3月、レーニンは、農民反乱と兵士反乱の同時勃発に直面して、まず先に、クロンシュタット・ソヴェト水兵55000人反乱を武力鎮圧し、その多数を虐殺した。4〜6月の間、2103名に死刑判決を執行し、6459名を投獄した。フィンランドに逃れた数千名は、いつわりの恩赦の約束でロシアに帰った。しかし、すでに出来ていた北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送り、その大多数は手を縛られ、首に石を付けてドビナ河に投ぜられた。55000人の完全粛清後、今度は、農民反乱鎮圧に向かった。このデータは、中野徹三『共産主義黒書を読む』による。
中野徹三『共産主義黒書を読む』
梶川伸一は『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』で、ソ連崩壊後公表された膨大な公文書を解析し、レーニンらの食糧独裁令、軍事=食糧徴発はまったく誤った政策であること、シベリア・タンボフの農民反乱はそれにたいする正当な抵抗であることを論証した。その誤った政策と過酷な食糧収奪を基本原因として、1921、22年に500万人もの飢饉死亡者が出た。飢饉には天災的要因が一部あったにしても、その500万人は、レーニン、ボリシェヴィキ、チェーカーと赤軍とによって、結果的に殺された。
農民反乱にたいして、レーニンは、チェーカーと赤軍5万人、装甲列車3輌、機関銃数百丁で武力鎮圧した。
1921年6月11日、レーニンは次のような命令を、政治局の承認をえて、発令した。これは、『レーニンの秘密・下』(P.158)の「レーニン秘密・未公開資料」による。
反乱の指導者アントーノフの率いる[タンボフ県の]一団は、わが軍の果断な戦闘行為によって撃破され、ちりぢりばらばらにされた上、あちこちで少しずつ逮捕されたりしている。エスエル・ゲリラのみなもとを徹底的に根絶するために……全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令する。(1)自分の名前をいうのを拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺すること。(2)人質をとった場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなかった場合は射殺すること。(3)武器を隠しもっていることが発見された時、一家の最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。
(4)ゲリラをかくまった家族は逮捕して他県へ追放し、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺すること。(5)ゲリラの家族や財産をかくまった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(6)ゲリラの家族が逃亡している場合には、その所有物はソヴィエト政権に忠実な農民たちに分配し、放棄された家屋は焼き払うか取り壊すこと。(7)この命令は厳重に、容赦なく実行すること。この命令は村の集会で読み上げること。政治局は、あちこちの県で大虐殺が行なわれるのを認めていた。
ただし、裁判なしにその場で射殺というレーニンの命令に基づいて、射殺された農民犠牲者数の統計は、不明である。レーニンの「未公開秘密資料」3742点、それ以外の「レーニン署名入り秘密資料」約3000点のいずれかにある。1921年、(1)2月、ストライキをしたペトログラード労働者・メンシェビキ党員5000人の逮捕、そのうち多数の拷問死・銃殺、(2)3月以降、クロンシュタット・ソヴェト55000人の虐殺・完全粛清、(3)6月、農民反乱の武力鎮圧、抵抗者の大量射殺した。その後、(4)21、22年にわたり、人肉を食うような飢饉死亡者が500万人も発生している最中に、(5)1922年2月からレーニンは、「聖職者全員銃殺型社会主義」建設者に一段と変質していった。
これらの「大量殺人指令」に現れているレーニンの革命倫理、人間性をどう考えたらいいのか。1991年のソ連崩壊後、このような「レーニン未公開秘密資料」やアルヒーフ(公文書)が一部公開されるまでの74年間、私たちは、レーニンのこのような「人道にたいする犯罪」を指令する一党独裁最高権力者の素顔をまるで知らなかった。「粛清者レーニン」の素顔を知らされず、「レーニン神話」の革命観、ロシア革命像を信仰してきた。
4、レーニンにおける革命目的と手段の関係
ソ連崩壊前74年間における公表・宣伝上の「革命英雄レーニン像」と、未公開・隠蔽されてきた「クロンシュタット水兵殺戮・死刑、抵抗農民射殺、聖職者銃殺指令者レーニン像」という表裏両面から、レーニンの革命観、人間性を再構築するとどうなるのか。
どのような社会主義権力・国家を作るのかという目的とその社会主義建設手段との関係について検討する。目的と手段に関する一般論として、2つの考え方がある。
(1)、現実に使用された手段は、必ず目的に従属している。その手段が、犯罪的・非人道的であるとき、その目的自体が非人道的内容を本質的に包摂している。
(2)、目的と手段とは、往々にして乖離(かいり)する。目的は正しくても、やむをえず犯罪的手段が採られるという乖離が発生することもある。たまたま非人道的手段が採られたとしても、その時点の社会的・歴史的条件を考慮すべきであり、そのことだけで目的の正当性・正義性までも否定することは誤りである。
(3)、1991年ソ連崩壊後、レーニン「未公開秘密資料」、アルヒーフで暴露されたレーニンの「殺戮・死刑、射殺、銃殺」手段は、1921、22年におけるロシアの条件、内外情勢をいくら考慮しても、その本質は「人道にたいする前衛党犯罪」である。その手段を正当化し、弁解するような共産党員、マルクス主義者はいないであろう。
(4)、それとも、次のように主張するレーニン弁護人がいるのか。レーニンの手段が犯罪的であったことは認める。しかし、当時の特殊条件・情勢に基づく、社会主義擁護のやむをえない非常措置であって、レーニンの社会主義像・目的はあくまで正しい。たまたま目的と手段とが一時的に乖離したにすぎない。また、その粛清データそのものが本当に信用できるのか疑問である。
(5)、私の見解は以下である。レーニンの「人道にたいする前衛党犯罪」である兵士・農民・聖職者大量殺人手段は、彼の社会主義権力・国家像の目的に従属し、その目的から必然的に発生したものである。彼の権力・国家目的自体が、驚くべき選民主義、独善、自然発生性を一面的に否定した、上から、外からレーニン型イデオロギーを注入する社会主義だった。内田義雄『聖地ソロフキの悲劇』(P.166)は、このように言っている。ソ連のドキュメンタリー映画「ソロフキの暴力」の冒頭で、1918年につくられた革命政権のポスターに掲げられたレーニンの言葉が引用されている。「鉄の手で、人類を幸福へ導こう!」。ザミャーチンは、SF小説「われら」において、最高権力者「恩人」をレーニンそっくりに描写した上で、その「恩人」が「鉄の手」をもち、異端者処刑のレバーを押す情景を描いた。ボリシェヴィキのザミャーチンは、それにより逮捕された。
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(関連ファイル)
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
『赤色テロル型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』大飢饉の原因形成
第7部『「ネップ」評価とその後に発生した500万人飢死の原因』
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』ロシア革命の根本的再検討
『レーニン体制の評価について』21−22年飢饉からみえるもの
大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入と政治の逆改革