飢餓の革命
ロシア十月革命と農民
梶川伸一
(注)、これは、梶川伸一著『飢餓の革命』(名古屋大学出版会、1997年発行)における『はじめに 十月革命とは何か』と『おわりに』の全文です。梶川氏は、出版当時、名城大学助教授で、現在は金沢大学文学部教授です。全体で8章、579ページの大著で、この内容、視点、実証的分析、その結論は、日本における従来のロシア革命研究にない、画期的なものであるといえます。『第1章飢餓の革命、第2章飢餓は続く、第3章飢餓の克服に向けて、第4章食糧独裁への道、第5章食糧部隊の編成、第6章八月改革の実施、第7章穀物を求めて、第8章貧農委員会』の構成になっています。
この大著における膨大な実証的分析には、圧倒されます。8つの章全体が長く、著者には、まことに失礼ですが、『はじめに』『おわりに』に、その基本的観点、論旨がありますので、そこだけを載せます。いずれにも、多数の(注)がありますが、ロシア語文献なので、ここでは省略しました。文中の傍点個所は、太字にしました。以下の文を契機として著書全体を読んでいただければ幸いです。私(宮地)のHPに転載することについては、梶川氏の了解を頂いてあります。
〔目次〕
はじめに 十月革命とは何か(P.1〜24)
おわりに(P.567〜576)
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梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民−戦時共産主義下の農村−』
梶川伸一『幻想の革命』ネップ「神話」の解体
Amazon『梶川伸一』で著作4冊リストと注文
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
クロンシュタット水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応
『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領と農民反乱との関係
はじめに 十月革命とは何か
ソ連が崩壊した現在、ロシア十月革命とは何であったのかは包括的に検討されなければならない重要な問題であり、様々な政治的呪縛=「幻想」から研究状況が解放され、歴史研究者としてその研究対象を客観的に把握できる環境が創り出されたという意味では、「ロシア革命」史研究(ロシア革命とは十月蜂起に係わる状況だけでなく、それに続く「ソヴェト国家」体制の形成過程を含む)にとって新たな段階に入った。しかしながら、ここでは直接にその解答を意図しているのではなく、その後のロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国が必然的に内包する初期段階での諸問題が考察の対象になっている。基本的な問題の枠組みは、権力と農民である。
十月革命から戦時共産主義までの過程をどのように解釈するかについては、様々な見解が主張されてきた。二〇年代から複合革命論が登場する。現代の戦時共産主義研究者B・B・カバーノフは、ペレストロイカ期のロシア革命の見直しの時代に著した論文の中で、二一年一月のポクローフスキィの興味ある言葉を引用する。「われわれは一つではなく、二つの革命が起こっていることを理解しないうちは、ロシア革命を何も理解できないであろう。一つは世界的で、[……]要するにこれはマルクスからはじまる革命である。もう一つは、農民革命で、これは一八世紀末から続き一五〇年の間農民は自分の労働の余剰生産物を自由に処分できる権利のために闘ってきた「プガチョーフの縁者」である」と。
このような複合革命の主張は二〇年代半ばに明確な形を取っていた。Л・クリーツマンは、二〇年代の代表的な戦時共産主義期に関する著作で、ロシア革命を次のように性格づける。「大ロシア革命は純粋にプロレタリア的(反資本主義的)でも、純粋に農民的(反封建的)革命でもなく、そうではなく、それは特に複雑な社会現象である。[……]問題は、ロシア革命のこの二重の性格にあるのではなく、反資本主義革命(それは反封建革命と結合されなければ純粋な社会主義革命であったろうが)と反封建革命(それはプロレタリア革命と結合しなければ純粋なブルジョワ革命であったろうが)との結合の特殊性にある」[強調は原文]。レーニンには複合革命への直接的言及はほとんどない。その数少ない例として、一九年四月に「ロシアでは十月革命で反ブルジョワジーのプロレタリア革命と反地主の農民革命が独特の形で結合した」ことが社会主義社会の勝利を容易にしたと、彼はこのことに触れた。このようないわば構造論的なロシア革命の理解が存在し、クリーツマンのこの主張はトロツキー派の政治的敗北とともに葬り去られたが、ソ連史の見直しの中で復活した。
複合革命論の復活は、十月革命を単純に一義的に「社会主義」革命と解釈するのではなく、複雑な過程として考察の対象とすべきであるとの認識が改めて生まれたことを意味した。このような文脈の中で複合革命の「結合の特殊性」を再検討しなければならない。従来、都市のプロレタリア革命と農村の農民革命との結合、すなわち労農同盟の問題は「社会主義」革命の枠内で一義的に考察されていた。この「結合の特殊性」を新たなロシア革命の解釈の中で検討し直さなければならない。十月革命とそれに続く戦時共産主義期に都市プロレタリアートと農民とはいかなる関係にあったのかが、具体的に検討されなければならない。
本書では一七年以後特に尖鋭化した食糧危機をめぐってこの間題が展開される。
従来の十月革命史研究は制度=軍事史に偏重していたきらいがある。ここでは華々しい赤軍部隊も、熱気溢れるプロレタリアも登場しない。ただ当時の民衆の悲惨な光景が延々と叙述されるにすぎない。この時期のロシアは人口比で八〇%以上を農村人口が占めていただけでなく、間違いなく農村ロシアであった。この意味でボリシェヴィキ権力と農民との関係こそがその後のロシア革命の運命を決定づけた。そして、この関係はすでに一七年にはじまっていた飢餓の問題に深く係わっていた。穀物の獲得に関連してまず都市と農村との対立が十月革命までの流れで生じていたこと、一七年の収穫期を過ぎても飢餓は改善されず、ますます拡大するにつれ、絶望の淵に追いやられた農民によりすでに農村では「十月革命」が発生していたこと、こうして十月革命は「飢餓ГОЛОДの革命」であったにもかかわらず、ソヴェト権力はこれを解決できなかっただけではなく、工業=都市労働者革命としての「十月革命」防衛のために農村からの穀物収奪を容赦なく断行した。このため都市プロレタリアと勤労農民との対立が極限にまで達しただけでなく、革命ロシアの運命も危機に瀕するようになったことを論じようとしている。
「飢餓の革命」は農民運動の推移にも現れた。一九〇五年革命以来労働運動と農民運動は年間の騒擾の総件数でも、季節的変動でも相互に一定の関連を持ちつつ増減していた。しかし一七年の運動が特異な現象となるのはその規模だけではなく、通常収穫期を過ぎれば減少するはずの農民運動が、一時的減退の後に、九、一〇月に再び増加した事実である。一七年の農民運動だけでなく、その後の戦時共産主義期の農民運動は収穫期を過ぎ、いっそう尖鋭化された。収穫の取り分をめぐつて都市と農村との対立が激化したのある。
中農政策への転換が言及された一八年一一月の第六回全ロシア・ソヴェト大会で、ジノーヴィエフは、「わが党は都市で産まれ、コムニスト党は常にはっきりとした都市の政党でしかなかった」と農村=農民問題に関する共産党の限界を率直に表明した。一九年五月のイヴァノヴォ=ヴォズネセンスク県執行委員会議長大会で、「わが上層部は農民の生活をあまり知らない」とボリシェヴィキ活動家は明言した。ボリシェヴィキの農民政策が様々な見地から批判的に言及されるようになり、「農民の父」と呼ばれたМ・И・カリーニンが二五年に述べているように、共産党の農民政策の一〇分の九はレーニンに負っていたとするならば、その誤りはレーニンに帰すべきであろうか。そうではない。これら乏しい農民観は一人レーニンだけでなく、このような瑕疵は都市プロレタリアを基盤としたボリシェヴィキ権力が広く共有していた。カバーノフは「ボリシェヴィキの悲劇は、ボリシェヴィキが農民を理解しなかったことにあった」と適切に表現した。
もともと、共同体農民にとってボリシェヴィキとは二重の意味で余所者であった。一つは共同体外の都市住民であり、もう一つは、正体不明のグループである点で。たとえば、十月蜂起直後にシムビルスク県ブインスク郡に派遣された情宣活動家の一人は次のように述べた。「わたしが組織化についてと秩序の制定について語ろうとしたとき、無知な大衆がわたしをボリシェヴィクと呼んだので、わたしはボリシェヴィクとは何者かと尋ねると、彼らは、それはブルジョワジーだと応えた」。農民にとってブルジョワジーもボリシェヴィキも無縁な存在であった。もちろん、プロレタリアートも。このようなボリシェヴィキ観は革命直後だけではなかった。農村革命が終了したといわれる一九年春にモギリョフ県を訪れた労働者は、「現地の農民はわれわれを取り囲み、足元から頭の先まで好奇と恐怖の眼で眺めた。子供が泣き出し、おそるおそる母親に尋ねた。「おかあちゃん、おかあちゃん、これがボリシェヴィキなの。何しにやってきたの」。母親が囁く。「バカ、お黙り、お家にお帰り、奴らはお前を閉じこめちゃうよ」。」と対応するような無知な農民を非難した。しばしばボリシェヴィキはアンチ・キリストと見なされた。このようなボリシェヴィキ観のために、モスクワ県ドミトロフ郡のボリシェヴィキは通りに出ることもできず、嘲笑され、後ろ指を指され、誰も見ていなければど突かれていた。貧農委員会期には農村へのボリシェヴィキの進出が顕著になるにつれ、ボリシェヴィキは怨嗟の的になった。このためオリョール県エレツ郡の党組織は郷のすべての党細胞[党の基礎組織]と貧農委に次の決議を送った。「無知な分子からのコムニスト郷・村細胞のメンバーへの殺害未遂と生命の脅威の頻繁な事件を考慮し、郷組織は、たとえコムニストの一人の同志の殺害に対しても、一〇〇〇人のクラーク=悪党、富農、彼らの手先を撲滅するであろうことを宣言する」。
それだからこそ、ボリシェヴィキにまつわる風聞には恐怖がつきまとった。一八年夏のヴォログダ県では、「あらゆる生産物と穀物を力ずくで取り上げる赤軍兵士がやって来る」との風聞が広まっていた。ある駅で赤軍兵士は六〇人を銃殺したとの風聞が流れ、このためある村団で農民はスホード[伝統的な村の寄合]を開き、そこで息子が赤軍に勤務しているならすぐ呼び戻すよう決議されたように、このような風聞は「根も葉もない」にもかかわらず、農民の間にしっかりと根を下ろしていた。ヴィヤトカ県ノリンスク郡執行委員会は八月半ばの会議で、今晩銃殺、暗殺、放火が行われるとの風聞が勤労人民の敵により広められている、市民はそれを信じてはならないと決議された。これら風聞が真実か否かが重要なのではなく、農民の間でボリシェヴィキの風聞が恐怖をともなって流布していた事実が肝要なのである。革命後しばらくは農村でもっとも重要な情報伝達手段は風聞であった。農村ではボリシェヴィキに関する様々な風聞が流され、タムボフ県モルシャンスク郡の郷貧農委は、サモゴンカ[密造酒]の醸造禁止とならんで「偽りの風聞を広めてはならない」ことを住民に命じた。一九年七月に出されたクルスク県条例で、社会的恐怖を引き起こすあらゆる風聞をまき散らすこと、政府施設または公務員の活動に敵意を催すような偽りの情報をまき散らすことが禁じられた。
県内で貧農委の組織化が順調に進んでいたオロネツ県のプドジ郡からは、農民の会合、大会などで確信したことだが、「農民と農村の半プロレタリア階級でさえも党の任務に対して不信感を抱いて対応している」と報告された。
ボリシェヴィキは本質的に異質な農民世界に新しい秩序を導入しようとしたが、外部からこの「異形」の世界を変革することができず、むしろ穀物調達を通して両世界の対立が尖鋭化されたのが戦時共産主義の結果である。
「十月革命」期の問題は多くの研究者によって論じられ、この時期は同時に革命的秩序の確立期であり、この観点からの考察もなされてきた。たとえば、Б・Г・ギムペリソーン、Б・Н・ゴロデーツキィ、またはイタリアの戦時共産主義史研究者S・マッレのように、第一次大戦と革命で解体された政治、経済の統合=中央集権化の過程として、戦時共産主義期を捉えようとする潮流がある。これら歴史観は、水平的地域的統合と垂直的中央集権化を座標軸として、十月蜂起とそれに続く戦時共産主義期の政治、経済の再編過程を分析することで通底する。
このような観点に立てば、ソヴェト権力の確立とは、十月革命直後の地方での混乱=地方分権化から地方の統合=中央集権化の過程の謂いとなる。この政治的指標として、まず一八年一月の労兵ソヴェトと農民ソヴェトの合同の第三回全ロシア・ソヴェト大会がある。労農同盟の全国的制度化である。別の表現では、複合革命の収斂化のはじまりである。続いて、旧行政機関の解体期が一八年二〜三月に訪れる。この時期、トヴェリ、トゥーラ、オリョール、コストロマ、ヤロスラヴリ、スモレンスクで市ドゥーマが解体され、一月のモスクワから四月のクルスク県にいたる二四の県ゼムストヴォ参事会が解体された。そしてこれは同時に、農村地方におけるソヴェト権力の確立期と見なされている。たとえば、ロシア革命史研究者Т・В・オーシポヴァは一八年三月末までに、中央諸県の九一・二%の郷でソヴェト権力が形成されたとして、この時期にソヴェト権力が確立されたとする。
しかしこの労働者と農民の合同の過程で特徴的なことは、郷より郡、郡より県のソヴェトで、農業諸県より工業諸県で先行したことである。これは農民の自立的運動の結果としては、都市プロレタリアとの合同が緩慢であったことを物語っている。そして実際にこの時期には、農村権力として様々な組織が存在していた。たとえば、一八年二月、ペンザ県クラスノスロボドスク郡オボチェンスカヤ郷の村ではスホード全体集会で、また別の村ではスターロスタ[村会議長]ではなく市民某が議長職を務める全体集会で、またある村団では兵士の議長職の下の村スホードで、ドイツの最後通牒に関する審議が行われた。この他、別の郷では郷農民代表ソヴェト議長の下に村団からの代表で、郷参事会で、郷ゼムストヴォで、この問題が審議された。そして、同じ郡、同じ郷でも様々な農民組織が存在していたが、重要問題は郷全体集会や村集会[スホード]で決定された。
さらに、この時期に形成された農村ソヴェト自体、ソヴェト政府の農村権力機関と単純に同定することはできない。トヴェリ県ノヴォトルジョク郡ソヴェト執行委員会は、政府の穀物固定価格を遵守することなく、それより一○倍近くも高い一プード四五ルーブリの価格で穀物調達を行っていた。一八年四月には、ヴィヤトカ県ソヴェト大会は全県でソヴェト政府の定めた穀物固定価格を廃止した。このほかアストラハン、カザン、タムボフ県ソヴェトも穀物固定価格を廃止した。三月と五月のサマラ、シムビリスタ県ソヴェト大会は穀物専売を放棄する決議を採択した。
このような地方ソヴェトの党派性の雰囲気を、一八年二月の第一回クルスク県労兵農代表ソヴェト大会は次のように報じている。「議事録では、大会に四八九人の代議員が到着し、そのうちボリシェヴィキは二〇六人、シンパ三五人、エスエル一六四人、不明八四人と述べられているが、これは現実と合致していない。第一に、大会提案は、このような党の力関係ではそのようなことが起こりえないはずなのに、純粋にエスエル的性格を帯びていた。第二に、ボリシェヴィキのフラク会議で、大会の議事録が指摘しているように、ボリシェヴィキが多数では決してなかった。明らかに、大会に到着した代議員は自分をボリシェヴィキと呼んだのだ、なぜなら「ボリシェヴィキ」は農民の間で非常に人気があったので」。
これらの実例は、いくつかの地方ソヴェトは、政府機関の末端組織として機能していなかったことを示している。したがって、農村におけるソヴェト権力の確立を考察する場合、郷ソヴェトの形成の数的増加のみで語ることはできない。農村の具体的状況の中で、農民組織の形成が考究されなければならない。
革命的秩序の形成過程とは、繰り返せば数量的なソヴェト組織の拡大でもなく、党細胞の増加でもなく、中央権力への地方農村権力の従属過程であり、これ自体が初期ソヴェト体制とは相矛盾する過程であった。なぜならば、「十月革命」の中での革命運動とは地域的な一定の自立的運動体であり、このため、党組織が欠落した地方にも(ロシアのほとんどがそうであったが)十月革命後ソヴェト権力が速やかに成立したのである。本質的に初期ソヴェト体制は中央権力と地方ソヴェトとの「緩やかな統合体」でしかなかった。この「初期ソヴェト体制」が喪失する過程が旧来の研究では「ソヴェト国家」体制の形成過程と見なされた。多くは勤労農民の意志を体現した農村ソヴェトまたは村スホードがクラーク的ソヴェトと弾劾され、農村への「プロレタリア」革命の導入が声高に叫ばれた。このように、十月革命と戦時共産主義期は、ある意味では革命的理念と現実の乖離、幻想と幻滅の混在、指令的管理と自然発生性の確執の時代であった。このような矛盾する現象を孕んだこの時期が、ここでは「幻想の革命」、「混乱の革命」、「飢餓の革命」の三位一体的構造として捉えられ、考察される。
十月革命以後様々な「幻想」がボリシェヴィキを捉えていたが、研究者自身もこれら「幻想」から免れていたわけではない。十月革命以前のボリシェヴィキの綱領とは異なり、『土地についての布告』では、土地は国有化されたのではなく、共同体的利用となった。これは一般にはボリシェヴィキ権力による農民への譲歩、または労農同盟のはじまりとして解釈されている。しかしそのような通説には与しない。第一に、農村での権力基盤の脆弱性からボリシェヴィキには他に選択の余地がなかった。第二に、一八年春の農村=土地革命は農民独自の運動の帰結であり、したがって、農村での革命は組織的、平和的形態ではなく、特に「土地飢餓」が深刻であった中央黒土地帯では暴力的形態を採っていた。すなわち、自立的農民運動にボリシェヴィキは何ら掣肘を加えることができなかっただけでなく、第三に、このような土地革命は一時的彌縫策でありながら、その後もボリシェヴィキ政権は農業革命の明確な展望を持たず、農業生産の向上と結合させなかった(社会主義農業の「幻想」を除いて)がために、食糧を農民から収奪する以外にロシア革命は存続できなかった。農村革命が農業政策と有機的に結合されなかったため、都市と農村の緊張関係が逆に昂進されたのである。つまり、土地布告の発布後、農村共同体の社会的自治と経済力は大きく増える一方で、食糧問題、特に穀物調達問題を通して権力と農民の対立が尖鋭化する構図がネップ末期まで続くことになるのである。
土地革命の結果としての共同体農民の輩出は、小商品生産者=小ブル農民が創り出されたことを意味する。特に農村で「非合法」商業、すなわちかつぎ屋行為が跋扈した。専売化された穀物を含め、あらゆる生産物が投機価格で販売され、大きな商業利潤が仲介人の懐に入った。こうして農村市場は賑わいを見せながらも、商業仲介人が怨嗟の的になったのもまた事実であった。「商人」は「投機人」や「奸商」と同じく「人民の敵」を意味した。ボリシェヴィキ権力と農民はこの点で一致した。このため、いくつかの地方で自然発生的に商業が国有化された。一八年九月、モスクワ県ゴルキ、タムボフ県モルシャンスクで私的商業の商品、備品が没収され、私的商業が禁止され、ソヴェト小売店が開かれた。一〇月にはオリョール県トゥルブチェフスク市で全私的商業が国有化され、商店は差し押さえられた。これら現実は、コミューン型国家を目指そうとするボリシェヴィキの方針が地方ソヴェトにより支持されているように思えた。しかしながら、この過程で住民の商品飢餓は深まり、商店は商品不足のために閉じられた。
商業の現物化と貨幣の減価は、レーニンが当初抱いていた構想、「社会主義に関しては、それは商品経済の根絶にあることは周知のことである」状況が、迫っているように思わせた。ここで、都市と農村との交換の組織化としての「商品交換」制度が生まれた。この構想はすでに、一八年一月の第一回全ロシア食糧大会の決議に現れ、その中では「集荷所に充分な量の農民穀物を引き入れる目的で、大会は国家的規模で組織された商品交換を確立することを必要と見なす」と述べられた。この構想はボリシェヴィキの過渡期の経済政策の中に位置づけられていたからこそ、四月の最高国民経済会議でЮ・ラーリンは、『ソヴェト権力の経済政策』についての報告で次のように発言した。「われわれはできるだけ紙幣なしでやって、貨幣が単なる決済単位でしかなくなるような状況にいたるように、国内で新しい原理により生産物の商品交換を確立しょうとする構想に達した」。そして彼は早くも一八年末に直接的な貨幣なし交換への移行を主張するようになった。しかしこれは幻想でしかなかった。商品交換制度は、一八年の春から夏にかけてのわずか二、三カ月で実質的に崩壊した。これに替わるように、かつぎ屋が全土に猖獗し、彼らとともに都市労働者部隊が農村からあらゆる穀物を汲み出した。元食糧相プロコポーヴィッチは正しくも、かつぎ屋は多くを餓死から救済したと指摘した。けだし、かつぎ屋こそが戦時共産主義期でもっとも活発な商品の担い手であった。
また貨幣はその意味を失っていた。農村ではフントで紙幣が量られた。しかしこれも、後の財務人民委員Г・ソコーリニコフが、「生産の商品的性格の死滅と同時に、貨幣の商品的性格も死滅する」と想定したような社会主義の一定段階に、ソヴェト経済体制が達したことを意味しなかった。生産の低下と紙幣発行の増加がインフレを昂進させ、貨幣の減価を促進した結果にすぎなかった。一八年七月一日から二一年一月一日までに、紙幣発行量は二六・七倍に増加し、ルーブリ購買力は一八八分の一に減少した。二一年三月の第一〇回ロシア共産党大会で、Б・А・プレオブラジェーンスキィが、「フランス革命でフランス・アシニャ紙幣は最悪の時で五〇〇分の一に減価した。わがルーブリの価値は二万分の一にまで減価した。すなわち、われわれは四〇倍もフランス革命を追い越した」と皮肉ったのがこの現象であった。二一年秋まで続く「無貨幣交換幻想」とはこのようであった。
社会主義農業の建設もまた幻想であった。すでに一八年に集団経営の組織化が開始されたにもかかわらず、そのうちでもっとも普及した形態であるアルチェリ[協同組合的経営]に、二〇年で農民経営のわずか〇・五%が統合されただけであった。集団農場での労働条件は一般的に劣悪で、単位面積当りの穀物収穫の余剰も少なかった。二○年秋以後の農業論争の中で、直接的社会主義経営への農民経営の変革はユートピアであるとの共通認識が生まれるようになった。同年一二月末の第八回全ロシア・ソヴェト大会でレーニンは、農民に工業製品を充分に供給できない間は農業の社会主義化は空想であると語った。
十月革命以後の「農業」革命の中で、農村では共同体的土地利用の悪弊(混在耕地、遠隔耕地、細分地条等々)が最終的に根絶されなかっただけでなく、さらに悪化し、二〇年になると一連の農業生産地帯は旱魃に襲われ、農業危機が顕在化した。このような状況にボリシェヴィキ指導者は苛立ちを隠さなかった。第八回全ロシア・ソヴェト大会コムニスト・フラクで、農業人民委員代理テオドローヴィッチは次のように戦時共産主義期の農業政策の限界を指摘した。土地利用の革命は起こつたが、農業の革命は存在しなかった、農民経営は以前と同じく小経営のままである、と。
ボリシェヴィキが共有していた理念的社会主義像はいくつかの幻想を産みだし、ある程度この「共産主義幻想」がこの時期の政策を支えていた。そしてネップヘ移行するためには単に戦争状態が終結するだけでなく、この幻想から徐々に解放される過程が不可欠であった。
ロシア十月革命とは、確かにクリーツマンやカバーノフが主張するように、都市における労働者統制から国家管理を目指す社会主義革命と、農村における共同体農民=小生産者体制を創り出した農村革命との複合体であった。この農村革命を「社会主義」革命に同定したことが幻想を産み出す要因の一つとなった。長尾久は十月革命に関する先駆的著作の中で、一七年の農民運動の先頭に立っていたトゥーラ、ヤロスラヴリ、タムボフ、オリョール、ニジェゴロド、リャザニ、クルスク、ペンザ、ヴィヤトカ諸県をはじめとする一八年の大規模な農民蜂起をもって、「全社会的に十月革命は分裂・解体しはじめたのである」とし、経済史研究者B・П・ドミトレーンコは、ようやく一八年夏に労農同盟が決裂したとし、カバーノフは、食糧割当徴発が必然的に農民を国家に敵対する側に追いやったと見なしている。しかし、労農同盟の存在自体もまた幻想ではなかったろうか。飢餓が尖鋭化するにつれ都市と農村の対立は深化し、ボリシェヴィキの食糧政策は十月革命直後から農民との緊張関係をいっそう昂進させたのが真実に近いように思われる。フランスの歴史学者マルク・フェローは、十月革命を「農村に対する都市の、そして農村の都市に対する一つの戦争であった」と指摘する。
このように都市と農村との対立の尖鋭化がボリシェヴィキ革命の帰結であるなら、従来ソヴェト史学でクラーク反乱と解釈されてきた農民反乱を、この文脈で検討し直すこともまた必要ではなかろうか。何より、われわれ研究者自身が「十月革命幻想」から解放されることが必要に思われる。
「混乱」は総力戦としての大戦とそれに続く革命による破壊と解体によって引き起こされた。大工業地区の都市では労働者は飢えと物価高騰に苦しみ、農村へと離脱した。特に飢餓が深刻であったペトログラード地区のいくつかの工場では、このために熟練労働者の七〇%以上を失った。農村では彼らの流入により混乱が生じた。チェレポヴェツ県では農村での苦しい経済的状況の中で、以前は農業と何も共通のものを持たなかった工場地区からの住民の流入が起こり、「到来者はしばしば非経営的性格を持ち、農業生産に恐ろしく悪影響をおよぼし、土地の権利を農民から奪った」。こうして、「充満した巨大な土地飢餓を充足することはできなかった」。また、食糧と土地を求めての大量の移住民や、戦乱その他で故郷を捨てた多数の避難民の群れが現れ、列車や駅を占領し、そのような地方では食糧危機が昂進され、栄養失調からチフスやコレラをはじめとする伝染病が猖獗した。一八年夏にはヴォロネジで猛威をふるっていたコレラの死亡率は六五%にも達した。一九年二月はじめのヴォロネジ県ソヴェト大会で、「コレラ、スペイン風邪、最近ではチフスのような伝染病との闘争に少なからぬ力と時間が注がれた。われわれは伝染病と適切に闘争するための必要な手段を持たず、一連の現象はそれらの猖獗を促している」と幹部会は報告した。
村に武装したかつぎ屋や投機人が溢れ、そのほか匪賊行為が頻発し、怪しげな徒党が闊歩し、騒然とした雰囲気であった。タムボフ県モルシャンスク郡の郷では、窃盗を働くごろつきのような徒党が現れるようになったために、夜九時以降あらゆる寄り合いや集いに出向く者は自由剥奪で処罰されるとの命令が貧農委により出された。この流れは止まることなく、一九年六月にタムボフ県から、「スパッスク郡の住民への穀物供給の措置は採られなかった。状況は危機的。赤軍兵士家族と貧農の群集は郡執行委と郡食糧委を取り巻き穀物を要求している。充たすのは不可能。当郡食糧委の現有は三六〇プード。穀物を持たない住民は一三万五四三二人。県食糧委への訓令を実行し、郡に食糧の供給を乞う。市の住民は四月の基準の配給を受け取っていない。交付は局地的であった。赤軍兵士家族と避難民の状態はひどい」とパニック的状態が食糧人民委員部に打電された。
その一方で、黙々としてシベリアへ向かう群れは、飢餓が尖鋭化するごとに大きくなった。一八年夏までに一四万人の移住者が、戦線によりシベリアが分断されるまで、途切れることなく希望を求めてシベリアに向かった。このシベリアへの移動は二〇年の旱魃を経て、夏以後いっそう大規模に復活し、同年末までに八万四五〇〇人が移住した。
また内戦が激化するにつれ、農村での動員は強化された。これについてサラトフ県カムイシン郡農業部は次のように報告している。「ここでは前線はおもに次のように農作業に反映されている。一、馬を持つ農民大衆に任務命令が与えられ、作業から切り離された、二、多くの飼料を軍隊が取り上げ、もし今後も続くなら郡の若干の村で畑作業の時に家畜飼料が不足する恐れがある」。働き手と役畜を失った農民経営からも割当徴発によって容赦なく生産物は徴収された。
赤軍への動員の強化とともに、特に農村での兵役忌避者дезертирの数が増加した。一八年一二月二五日づけ国防会議政令で、兵役忌避はもっとも重大な犯罪であるとし、見つけだされた兵役忌避者には銃殺にいたる、隠匿者には五年の強制労働にいたる厳罰を定めたにもかかわらず、その後も各地から大量の兵役忌避が報告された。オリョール県カラチェフ郡では、一九年七月はじめの二週間で、郡軍事コミサリアートに三一七四人の兵役忌避者が出頭した。トヴェリ県では八月中に、兵役忌避者の数は二万五〇〇〇人にまで達した。このように兵役忌避は大規模に行われ、一九年中に一七六万一〇〇〇人の兵役忌避者が拘留されるか、自発的に出頭した。夏季休暇で故郷のプスコフ県オポチカ郡の郷に戻った活動家は、非常に広範に兵役忌避が展開されていることに驚きを隠さず、彼は兵役忌避者と話し合った結果、彼らは前線に赴くのが恐いからではなく、何のために戦っているのか知らないために兵役を忌避しているのだと結論づけた。イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク県セレダ郡から一九年七月に内務人民委員部に、郡では兵役忌避が非常に広範に展開され、郡には全部で八〇〇〜一〇〇〇人の兵役忌避者がいるが、彼らの捕獲の部隊が郷に現れるや、すべての村で警鐘(ナバート)が鳴り渡り、このため兵役忌避者は容易に身を隠すことができると報告されたことから判断すれば、この行動は広く大衆的支持をえていたことになる。これをヴォロネジ県執行委は、「実際郷執行委は、その管轄内での実質的力の欠如と大部分の村の住民の保守性を口実に、必要なエネルギーを発揮していない。住民は兵役忌避にまったく無関心で、ソヴェト権力を支援していない」と表現した。コストロマ県ヴァルナヴィノ郡の村懲罰部隊コミサールは、「住民は匪賊を隠匿し、彼らを賞賛し、地方権力には協力的でない」ので、一般住民への抑圧的措置の認可を要請した。二〇年三月にクルスク県チェー・カーは、兵役忌避は増加している、現在まで約六〇〇〇人を捕獲したが、県にはまだ約一万から一万五〇〇〇人が捕獲されずにいる、それとの闘争はまったく不可能であると報告した。
前線へのコムニストの動員が強化されるにつれ、コムニスト内部にさえ兵役忌避は頻発する現象となった。ヴラヂーミル県ポクロフ郡で、コルチャークとの闘争のためのコムニストの動員に関連して郷細胞は四〇人を徴募したが、そのうち二五人は自分たちはコムニストではないので召集されるべきではないと言明した。ヴォロネジ県では、党細胞書記でさえ前線への派遣を拒否した。
こうして増え続けた兵役忌避者は徒党を組んで武装し、納屋を壊して穀物を奪い、農民の穀物の搬送を妨げ、当局と激しい戦闘を繰り返した。サラトフ県では前線からの脱走兵が略奪を行い、住民を強奪していた。各地で動員や徴兵に抵抗する農民反乱が勃発した。
ソヴェト権力は兵役忌避との断固とした闘争を指示した。兵役忌避との闘争のカムパニアが一九年に広く展開されたことは大々的に喧伝されたが、実際にはそれは内戦が基本的に終了する二〇年末まで続けられた。各地に兵役忌避との闘争委員会が設置され、これに関する決議が地方ソヴェトで採択された。『兵役忌避者を追い立てよ』の檄では、「軍隊からの逃亡は、今やキリストの裏切り、軽蔑すべき腰抜けを意味する。農民たちよ! 兵役忌避者(脱走兵)が村に現れたならば、彼らを追い立てよ。姉には弟の兵役忌避者に手をさしのべさすな。母親には息子を腰抜けの兵役忌避者として呪わせよ。兵役忌避者が表に出ないようにせよ。腰抜けに軽蔑の烙印を捺し、奴をペスト患者として扱え」と述べられた。カザン県の郷ソヴェトでは、七七村落の代表は自分の村から一人の兵役忌避者も出さないようにする旨が決議された。クルスク県ファテジ郡の村では、自分の村で兵役忌避者を出さない、前線からの脱走兵を受け入れない、相互に小屋を監視し、そこで脱走兵が見つかるなら捕らえて、裁判に送ることが義務づけられた。サマラ県エラニでは、二〇年一〇月に兵役忌避者の家族に二〇〇万ルーブリの罰金が課せられ、一三人の悪意ある忌避者から財産が没収され、彼らの隠匿の廉で一六三人の人質が捕らえられた。
これら兵役忌避者の家族からは最後の家畜までも容赦なく取り上げられた。一八年のリャザニ県では貧農委により兵役忌避者から土地が没収された。モギリョフ県の村で、村落に大勢いる兵役忌避者との闘争のために、彼らには定められた土地基準を与えない、その親戚には基準の半分の規模で土地を分配する、その両親、子供、妻はソヴェト権力からのあらゆる援助が剥奪されることが決定された。チェレポヴェツ県チフヴィン郡の郷ソヴェトは、兵役忌避者の家族から穀物一・五プードを取り上げ、それを赤軍兵士家族に引き渡すことを決議した。二〇年一一月には、ヴィヤトカ県ヤランスク郡で兵役忌避者隠匿の廉で一六人の貧農経営から八頭の馬と二頭の牛が没収され、経営は崩壊し、畑の耕作ができなくなった。
兵役忌避者の捕獲に食糧部隊も投入された。一九年七月後半にサラトフ県セルドブスク郡で、六人のエイジェントと一八〇人の部隊により一万四〇〇〇プードの穀物と一〇〇人以上の兵役忌避者が捕獲された。同県ヴォリスク郡では、兵役忌避は大規模に展開され、郡執行委により、通行証明書なしに市や村に滞在する全員を逮捕し、郡軍事コミサール下の兵役忌避との闘争委に護送するプリカース[命令書]が出された。各地で『兵役忌避者週間』が設けられ、彼らとの精力的闘争が行われた。[カルーガ県]モサリスク郡では八月中旬のこの期間に三四四一人が出頭した。二〇年六月にトゥーラ県エピファニ郡の郷に部隊が到着し、兵役忌避者の一掃をはかった。何人かは逃亡し、そのため妻や父親が人質に取られ、財産を没収され、逃亡を幇助した廉でコントリビューツィア[懲罰的課税]が課せられた。一九年一一月に兵役忌避闘争委が設置されたチェリャビンスク県で、二〇年末までのその活動は次のように総括された。一九年一一〜一二月で二二四二人、二〇年四月に四二三〇人、九月に一六九二人が捕獲された。この闘争で次第に抑圧的措置が頻繁に適用されるようになり、二〇年八月までは財産没収は六〇件しかなかったが、それ以後の三カ月間で四〇四件の没収が行われた。忌避者七三四〇人のうち一〇六人が監獄、一九四人が矯正収容所、一三四人が強制労働、一一六五人が執行猶予、五〇六七人が罰金、一八人が銃殺、六五六人がそのほかの判決を受けた。もちろん、捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲になった。母親は、息子は悪意のある兵役忌避者として革命裁判にかけられ、銃殺されるかもしれません、特赦と前線への派遣をお願いし、最後の血の一滴にいたるまでソヴェト権力を守り罪を購うでしょうと助命を嘆願した。だが、彼らを過酷な運命が待ちかまえていた。一九年六月にはヴィヤトカ県ノリンスク郡で、兵役忌避との闘争を行っていた部隊により二人の兵役忌避者が銃殺された。スモレンスクでは兵役忌避の廉で二〇年六月に銃殺の判決が出された。この時期の法廷の判決は多くが二四〜四八時間以内に執行された。
一七年から飢餓は次第に深刻になりはじめ、十月革命もまさにペトログラードの飢餓状況で生じた。一八年に飢餓は未曽有の規模に達したが、一九年以後は定期刊行物ではこれについてほとんど紙面に掲載されなくなった。しかしこれはロシアで飢餓が消滅したことを意味しなかった。公文書館資料で、それ以後も飢餓が昂進されたことを示す各地からの報告を読むことができる。
両首都での十月蜂起の知らせはほぼ半月ほどでロシアの各農村部に伝わり、一八年冬から春にかけて郷・村ソヴェトが形成されるようになった。しかしこれら農村ソヴェトは、特に当時の飢餓状況の中で地方的利害に走り、〈貧農〉紙上では四月一三日づけの「貧農は正しい。村の狼、富農=クラークを抑えなければならない。では誰が彼らを抑えるか? これを地方ソヴェトが行わなければならない」[強調は原文]との巻頭論文を最後にして、地方ソヴェトの役割を積極的に評価する論調はほとんど消えてしまった。替わって、地方ソヴェトに対する評価は次第に批判的になる。これは、特に穀物生産地帯の地方権力が、中央権力の穀物の搬出命令を拒否して、それら地域住民の食糧確保を目指していた事実に関連していた。ウファー、シムビルスク、ヴォロネジ、カザン、タムボフ県のソヴェトは県外への穀物の搬出を禁止した。各地で穀物固定価格が引き上げられ、中央権力により定められた穀物専売の実施が危ぶまれるようになった。このような「食糧分離主義」を清算し、食糧人民委員部機関による食糧調達と分配の中央集権化を試みたのが、一八年五月のいわゆる「食糧独裁令」であった。
特にこの時期、農村で都市以上に飢餓を深刻にさせたのは、家族をあわせて約二〇〇万人が一八年春に帰村したことである。彼らのほとんどは特に大戦中に肉体労働者として、または下級職員として一時的に村から都市に移り住んだ者であり、彼らは法的には自分の百姓家に戻る権利を保持した農村の「不在経営」と見なされた。一七年と一九年のセンサスの間でそのような「不在経営」のうち、オレンブルグ県では八三%、リャザニ県では七三%、シムビルスク県では六九%、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク県では五八%、ヤロスラヴリ県では七八%、ヴォログダ県では六九%が帰村した。これら人口の流入は農村での食糧消費を増加させた。
しかし、中央から派遣された食糧部隊が依拠すべき地方ソヴェトは依然として「分離主義的傾向」が強く、穀物調達の拠点としては当てにならないものであった。たとえば、六月には次のように地方ソヴェトが非難された。「最近民衆は食糧問題でひどい目に遭っている。ここでは時には、地方ソヴェトが直接民衆に対して有害に振る舞っている。[……]それは、飢えた者の口からわずかなものを奪い、さらに食糧業務に混乱を持ち込み、困難な状況をいっそう大きくしている。それ故、各地方ソヴェトは、自分の狭い視野だけを、自分のやり方だけを、自分の郡と郷だけのことを考えてはならない」。
この文脈で、ソヴェトに替わる権力機関として貧農委が設置された。ボリシェヴィキの構想では、貧農を統合する貧農委は、都市のプロレタリアと連携し、農村でのボリシェヴィキ権力の基盤となり、何よりも穀物余剰の集荷で大きな役割をはたすはずであった。
貧農委員会期には、ボリシェヴィキ権力は農村内「階級闘争」の実現に成功しなかっただけでなく、飢餓状況は逆にソヴェト権力への不満を加速させた。リャザニ県エゴリエフスク郡の郷では、農民の多数は穀物なしになり、油粕と籾殻さえも充分に食することができず、顔は痩せ、お互いに支え合いながら歩くほどのひどい飢餓の下で、「ボリシェヴィキはどこで穀物をくれたのだ、国を赤貧にしただけだ」といわれていた。トヴェリ県ノヴォトルジョク郡では、飢餓のために「もしソヴェトが穀物をくれないなら、奴らを粉砕しよう。それで穀物業務を商人の手に移そう。彼らはわれわれに麦粉も砂糖もくれる」といたるところで話されていた。同じく、ノヴゴロド県チェレポヴェツ郡アンドログスカヤ郷の村では、耐え難い飢餓のために全員が憤っており、「すべての責任はソヴェトとボリシェヴィキにある。奴らがみんなを裏切った。奴らがおまえたちに穀物を渡さないのだ。ソヴェト打倒」との声が挙がり、飢餓で分別を失った貧農が続いて叫ぶ。「ソヴェト権力打倒! ソヴェト解散!」。そこでスホードが開かれ、ソヴェトの解散が決議された。
要するに、全体的飢餓状況の中で当面の権力基盤である北部や中央工業ロシアの食糧確保をはかろうとして、強圧的な食糧政策を採ったボリシェヴィキは、農村で勤労農民の不信と反発を招いたのであった。「穀物を求める闘争はソヴェト国家の強化のための闘争と分かち難く結びついていた」との見解は、逆説的意味で真理であった。ソヴェト体制に基づく調達政策が失敗し、強力な国家システムによる強制的調達制度が導入されなければならなかった、との意味で。食糧戦線で「ソヴェト国家」は共同体農民との闘争を余儀なくされた。
こうして、都市労働者からなる食糧部隊は、各地で一丸となった共同体からの抵抗を受け、共同体農民の結集の合図である警鐘が各地で乱打された。
六月一六日、ヤロスラヴリ県ニコリスコエ村で警鐘がひっきりなしに鳴り響いた。近隣の村々の住民が騒ぎだした。皆はわけも分からず、お互いに何事かと尋ねあっていた。大きな村は消防車の出動を準備した。まもなく事が判明した。ニコリスコエに五回ほど情宣活動家が、住民をソヴェト権力に従属させ、そこにソヴェトを組織するよう説得しにやって来た。だが農民たちは、現地のクラークと投機人の黒百人組[極右団体]的情宣の影響の下で、到着した情宣活動家に話をさせなかった。最後に彼らは遅くなった活動家に宿泊を提供するのを拒否し、役場から追い出し、サモスード[私的制裁]にかけることさえ望んだ。情宣活動家たちは教唆者の逮捕のために赤軍兵士を呼んだ。赤軍兵士を見てクラークたちは隣人たちに助けを求めて、ナバートを鳴らしたのだ。
そしてボリシェヴィキはこのような農民の不満、抵抗、さらには反乱の多くの原因を農民の無知に帰した。貧農委でさえ地方権力機関として充分に機能せず、飢餓状態にあった勤労農民は穀物の自発的供出を拒否した。
農民が穀物の自発的供出を拒否した別の理由は、低い穀物への固定価格にあった。すでに生産原価を下回る固定価格であったにもかかわらず、ボリシェヴィキは固定価格の引き上げには断固として反対を表明した。
こうした一八年の穀物カムパニアの状況では、ボリシェヴィキ権力には二つの選択肢があった。農民が不満を持つ駅=埠頭渡しの固定価格の引き上げか、強制的武装力の適用であった。たとえば、六月には次のように穀物生産県のヴォロネジからモスクワ州食糧委に打電された。「南部諸郡の地区に約三〇〇万プードの穀物がある。所有者農民は納屋渡し固定価格で引き渡し、駅に運んでいない。北部諸郡には穀物はない。農民はすべて武装され、クラーク=富農との闘争は不可能。彼らは住民の圧倒的多数をなしている。強制力を避けるため、納屋渡し価格を食糧コミサールに要求することが必要だ。非常に重要な時機である。収用手続きの例外として、納屋渡し価格で穀物を搬出するか、即座に徴収部隊を派遣するかが必要である」と。
別の穀物汲み出し手段として一八年四月二日布告で導入された商品交換制度も、事実上効果を挙げていなかった。制度上の不備についてはいうまでもないが、制度が整えられたとしても、飢餓状況と全般的穀物不足の中で、農民には交換のための穀物がなかった。ヴィヤトカ県オルロフ郡では、郡内にいくつかの商品交換所が組織され、そこではライ麦粉一プード二〇フントに対して塩一プード、ライ麦粉一プードでマホルカ[安煙草]二〇フントを受け取ることができたが、貧農はこれら商品に困窮していたが、交換用の麦粉を持っていないので、受け取ることができなかった。
さらに悪いことには、ソヴェト権力が農村取引に設定した消費組合店はほとんどその役割をはたしていなかった。多くの消費協同組合には司祭やクラークが居座っているといわれた。ヴラヂーミル県の『グラジダニン[市民]』の名称で開かれた消費組合店は、クラークと闇商人により経営され、物価高騰のために組合費は一〇ルーブリから、二〇、五〇ルーブリにまで増額された。そのため支払能力のない貧農は組合名薄から除かれ、彼らへの生産物の引き渡しは停止された。
その結果、農民は投機人との個人的「商品交換」取引を余儀なくされ、そのため農民には交換用の穀物を保持することが必要であった。貨幣はすでに一八年以後多くの地方でその役割を終えていた。タムボフ県モルシャンスク郡からは春に、穀物生産地方では「今や、何も手に入らない」紙幣は魅力を失ったと報じられた。そして、各地でこれら交換の場としてのバザールが賑わっていた。たとえば、馬鈴薯の主産地であるヤロスラヴリ県ダニロフ郡では、穀物不足のために馬鈴薯価格が高騰し、この地の農民は飢餓のために潤っていた。各村にフォーマルなバザールが確立していた。あらゆる商品が持ち込まれ、馬鈴薯と交換されていた。ペンザ県クラスノスロボドスク郡のドブロフカでは、バザールの日には、苦難の時期にもかかわらず、大勢の民衆が出向いてバザールは賑わい、麦粉も積み上げられ、そこにはすべてが潤沢であった。
しかし、「無貨幣交換幻想」の中でも市場経済が存続し、中央権力の再三の指令にもかかわらず、市場を根絶できなかったことに戦時共産主義の限界があったのではなく、商業への抑圧が強まるにつれ、市場での投機的傾向が高まったことが戦時共産主義の限界であった。投機市場なしで戦時共産主義期に生存することができなかった状態を指して、ある者は「投機せざる者、食うべからず」あるいは「盗まざる者、食うべからず」と皮肉った。こうして二〇年に市場への抑圧が強化されるにつれ、投機価格でも最小限を手に入れようとする労働者と農民の窮状は極限に達し、都市プロレタリアートと農民の不満の爆発は自由商業を求める叫びで一致した。
困窮するプロレタリアを賄うために、強制力による調達が唯一残された道であった。だが、同様に飢餓に苦しむ農民にとって割当徴発の負担は限界を超えていた。
次に掲げるのはВЦИК(全ロシア・ソヴェト中央執行委員会)宛てに二〇年八月に出された割当徴発軽減の請願書の全文である。
今年九月にエゴリエフスク郡食糧委によって、リャザニ県エゴリエフスク郡レレチ村字ヤニヴァのわたしの親、農民アキム・グリゴリエーヴィッチ・シマコーフにライ麦二・五プード、馬鈴薯(今、彼から量は明らかにされていない)、油三フント、鶏と卵の規模で食糧委員会の割当による現物税納付に関する要求が提示された。現在はライ麦二・五プードが徴収された。わたしの父は七〇歳、母は六九歳、妹は四〇歳。わたしは一九一八年に赤軍に召集され、それで父はそのような年齢で労働をするには辛く、わずかな分与地を助けを借りずに耕作していた。赤軍兵士家族への援助に関するСНК[人民委員会議]布告に従って。豊作の時でも自分の穀物では足りず、様々な代用品、籾殻、その他を食さなければならなかった。原因は小土地と地味の悪さである。今年は特に収穫が悪く、穀物は数カ月分しかない。そのうち二・五プードが取り上げられた。赤い星配給はない。わずかな扶助金を受け取っているだけで、それではパン一フン卜しか買うことができない。わたしも助けることができない。わたし自身赤軍配給では不足し、装備を受け取っていない。生存のための闘争をしなければならない。その上、家畜飼料の収穫は非常に悪く、それを養うことはできないだろう。したがって、家族は餓死を運命づけられ、どうやって家族は生き、来年の夏まで堪えるのかをわたしはまったく知らない。上述のことに基づき、ВЦИКにわたしの家族の窮乏を脱し、食糧とあらゆる税から免除し、取り上げたライ麦二・五プードを返還するよう切にお願いする。
これが十月革命後の農民の生活であった。いくつかの地方では農民生活は一八年にはそれ以前よりも悪化しトゥーラ県ヴェニョフ郡から農村の状態について、「オート麦一プードに一五ルーブリ支払う力はない。各人は冬の間に一三五ルーブリを引き渡さなければならないが、賃金がない。飢えなければならない。現在われわれ貧農は先祖代々の服装のままで、一アルシンの織物も見たことがない。多くの者はキャベツもない。われわれは生まれた日を呪っている。土地の社会化後は、われわれは食い手当たり四分の一デシャチーナの畑を受け取っただけである」と述べられた。一九年三月のコストロマ県ユリエヴェツ郡郷執行委大会で、ある郷執行委の代表は、「革命前と比べて、農民と労働者はよりよい生活をしているということはできない。それだから、生活の改善のためにしっかりと活動しなければならない」と発言した。
本書では特に食糧問題に焦点を合わせて議論が進められる。一八年一一月のヴィヤトカ県貧農委大会で県食糧委代表が適切にも、「食糧問題は胃袋の問題だけでなく、それは政治問題であり、最近ではソヴェト権力の存亡の間題にまでなっている」と言及したような意味で、ロシア十月革命は「飢餓の革命」であった。
以下の叙述で党機関での政策決定過程に充分な検討がなされていないが、それは、確かにボリシェヴィキ党には様々な意見の対立があり、決してレーニンの一枚岩的組織ではなかったとしても、二〇年代半ば以後に比較して政策決定過程に党中央機関はそれほど重要な役割を帯びていなかったとの判断に基づいている。また、食糧問題に関する党内論争で、食糧組織の地方分権化を主張するテオドローヴィッチ、食糧独裁に反対したルィコーフ、ラーリンなどのごくわずかな例外を除き、穀物専売の保持と食糧独裁による農民からの強制的穀物収用の方針についてはレーニン、党中央委、食糧人民委員部の方針は基本的に一致していたと考えているのも、その理由の一つである。
最後に資料について若干触れなければならない。
ここではいくつかの公文書館(アルヒーフ)資料が利用されているが(特にロシア経済国家アルヒーフ食糧人民委員部フォンドРГАЭ.Ф.1943.とロシア連邦国家アルヒーフ人民委員会議フォンドГАРФ.Ф.130.)、もちろん、われわれはこの信憑性についても留保条件が必要である。これら資料にボリシェヴィキはその眼で、農民はまたその心性で記録に残したからである。またいくつかの資料は人為的に破棄され、あるいは取捨選択された。われわれが利用する資料すべてがそうであるように、これら資料の整合性を検証し、史料批判の下ではじめてこれらが有用性を獲得することは改めていうまでもない。この意味でアルヒーフ資料は興味ある事実を物語っているが、それ以上のものではないことも銘記すべきである。
当時多数出版され、情宣活動の一翼を担った小冊子もここではいくつかが利用されているが、それらの史料としての価値は限定的であるとの付帯条件をつけて、つまりあまりにも党派性が表出されているとしても、これらが当時持っていた影響力と客観的意義は無視できないものがあり、それなりの有効性を保全していると考えている。
新聞資料に関しては、中央紙だけでなく、地域研究では地方紙の持つ意味は非常に重要に思えるが、ここではほとんどをその断片しか利用することができなかった。頻繁に党中央委機関紙〈貧農〉が引用されているのは、中央紙の中で農民の声がもっとも反映され(一九年半ばで廃刊となったВЦИК農民部(後に農業人民委員部)機関紙〈勤労農民の声〉を除き)、地方で大きな影響力を持っていたからにほかならない。
(注1)〜(注105) ほとんどがロシア語文献なので省略
十月革命は民衆の、とりわけ農民の悲劇で終わった。飢餓ではじまった革命は、これを解決することができなかっただけでなく、ボリシェヴィキの権力基盤である都市=工業労働者の切迫した飢餓を克服するために(それはできなかったが)、飢餓に喘ぐ農村からも穀物を奪うシステムがロシア農業を荒廃させつつあり、革命ロシアにとってそれは悲惨な結果をもたらした。ことさら農民の飢餓を強調するのは、二〇年の大旱魃まで中央紙のほとんどが現実の飢餓状況を黙殺し続けたにもかかわらず、明らかに飢餓は止むことなく拡大し、より重要なことは、ボリシェヴィキの食糧政策はプロレタリア権力の救済の名目で農村の飢餓を容認していたことのためである。一九年はじめの第一回全ロシア食糧会議で、一八年九月から一二月までの「国家供給計画の作成の際に、農村住民は自分で賄うことを想定し、[国家供給は]都市と労働者住民だけに適用された」と報告された。すでに北部諸県では苔を食べ、蝿のように餓死者が出るほどの飢餓状況であったにもかかわらずブリュハーノフは公然と次のように語った。「セヴェロドヴィンスクとアルハンゲリスクは穀物に困窮しているが、ほかの諸県を飢餓に晒すことなく供給することができないので、栄養失調のままにしなければならない。平等はありえず、これを考えてはならない」。
ロシア十月革命を階級闘争の要素だけで分析するのは誤りであり、地域的対立がそれに複雑に絡み合っていた。そもそもロシアにおけるプロレタリア工業労働者は相対的にわずかであっただけでなく、両首都とイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクなどわずかな大都市に偏在し、これは都市と農村との対立関係を、中央と地方との関係に転化させた。食糧独裁令までは消費諸県と生産諸県との対立が顕在化し、前者の地方権力(両首都の場合は中央権力と同義になったが)は独自に穀物の徴収部隊を派遣し、地方住民のために地域内の穀物を確保しょうとする後者の地方権力との間で、時には武力衝突にいたる闘争が繰り広げられた。だが、食糧独裁令によりこれら地方権力の発意による食糧調達活動は厳禁され、中央権力が穀物の調達権を掌握したため、それ以後この対立は中央対地方との緊張関係として表出した。調達活動が進捗しない中で、中央から派遣される徴収部隊は農民に必要な基準を考慮せずすべての穀物を汲み出し、この措置はプロレタリア独裁の擁護のために中央権力により肯定された。一九年九月三〇日づけでレーニンとツュルーパは、中央の飢餓が癒されていないので、「生産諸県は生産者から余剰を収用し、内部消費を極限にまで縮小し、もっとも短い期間で飢えた者に穀物を確保する義務を負う」ことを指示した。これは次のように適用された。オリョール県では、配給による供給は重肉体労働者を除き八分の五フントに縮小され、農村住民にはほとんど何も交付することなく、穀物の徴収と中央への配送が実施された。同県テルブヌィで三カ月間も穀物の配給が要請されたが、村に穀物がないとの理由でそれは拒否され、そのため村の子供が餓死した。ボリシェヴィキ革命の本質は飢餓に具現化された。
ロシア革命にとって一七年の工業大都市での武装蜂起の成功以上に、一八年の動向がその運命を決定づけた。
政治的には一定の自立的地域的運動の流れが様々な農村組織を媒介として二月革命以来存在し、これは「民主化」の名の下に奨励され、肯定的に評価された。その地方的権力組織の枢要がソヴェトであった。農民はソヴェトを長い間待望していた「ヴォーリャ」の実現としての村の直接的自治と見なした。当時の焦眉の問題であった講和、食糧、土地に関して中央権力(二月革命政府とソヴェト中央執行委)は地方ソヴェトの要求に直接応えることができず、これら地方権力が地域的欲求を充たすため(特に食糧と土地問題で)中央政府の合法的枠外へと活動を展開する過程が農村での「十月革命」であった。したがって、十月「社会主義」革命とは、もちろんボリシェヴィキが幻想を抱いたように都市と農村のプロレタリアートの同盟関係の中で成立したのではなく、中央で権力を奪取したボリシェヴィキ政権と地域主義的ソヴェトとの連合体でしかなかった。この体制はある意味ではクリーツマンらが主張するように、「複合革命」の要件を備えていた。だがこの二重性はプロレタリア革命とブルジョワ革命のそれにあるのでなく、むしろボリシェヴィキ権力と共同体農民との直接利害の矛盾にその「複合性」があった。この矛盾は旧体制の崩壊と新しい政権の確立までは、必ずしも全面的に展開されることはなかった。農民は彼らの要求が新政府によって充たされることを期待し、その限りでボリシェヴィキ政府を支持した。
だが現実的には一八年春のロシア農村の混乱の中で、様々な対立が相互に絡み合いながら広まった。土地の獲得をめぐり、共同体農民とそれから外れた区画地農、都市から戻った「余所者」との争いがあった。農村の伝統的支配に関して世代間の紛争もあった。特に前線兵士として新しい文化に触れた若年層は、家父長制的農村支配に「民主化」を持ち込んだ。当時の農民にとって重要なのは日常的=地域的関心事であり、反ボリシェヴィキ勢力(特に右翼エスエルが)が最後の反攻の期待をかけた憲法制定議会も、おもに農民の無関心のために、その暴力的解散にもかかわらず反ボリシェヴィキ運動の発火点にはならなかった。だが希望に充ちた農村革命が実質的成果をもたらすのは稀であった。食糧危機などの理由で都市から戻った多くの「元農民」が土地を分与される権利を留保していたために、土地再分配の際に土着農民はほとんどそれを増やすことができなかった。またこのような分配は一時的と見なされ、頻繁に割替が生じ、混在耕地や遠隔耕地などの以前の弊害が根絶されなかっただけでなく、さらに拡大する場合さえ頻発した。特にこのような現象は中央黒土地帯で顕著であった。その上、都市住民の帰村により、または大量の避難民の流入により特に生産諸県での食糧の需要が高まり、食糧危機は農村にも拡大した。こうして地方ソヴェトは、それが消費諸県であれ生産諸県であれ独自に穀物の確保を目指す必要に迫られた。土地も食糧問題も未解決に残され、時には以前より状態が悪化し、新政権への幻想が破れたとき、彼らは旧来の共同体に閉じ込もった。
「初期ソヴェト体制」とはボリシェヴィキ権力(左翼エスエルとの連立であるとしても基本的には)と地方ソヴェトとの緩やかな統合体である以上、ソヴェトの自立的活動は容認された。ソヴェト活動を「地方的性格の問題では完全に独立している」と規定した一七年一二月に内務人民委員部が出した指令によれば、地方住民のための食糧調達はすべからく「地方的性格の問題」であり、合法的ソヴェト活動であった。生産諸県の地方ソヴェトは消費諸県=工業中央の派遣する部隊による穀物の汲み出しに対抗し、国家固定価格を超えた独自の価格を設定し、搬出禁止令を出し、時には自由商業を認可して抵抗し、地域内の自給をはかった。そのため中央権力が策定した穀物調達計画の達成率は一八年一月の二一・八%から五月には一二・二%に落ち込んだ。両首都への穀物の搬入は低下し続け、五月になると特にペトログラードは崩壊寸前であった。この四カ月半で到着予定の穀物量四七〇万プードのうち県食糧委が受け取ったのは二七万七〇〇〇プードにすぎず、五月半ばにその管轄には小麦粉二四〇プードとその他わずかな穀物生産物が残されているだけであった。パンの基本配給は八分の一フントに縮小し、それは配給により想定されたカロリーの二五%も充たすことができなかった。これは市内での過激行為を招き騒然とした状況を生みだした。街頭には一片のパンを求める少なくとも三万の娼婦が佇み、壁には、「レーニンと馬肉は失せろ、ツァーリと豚肉をよこせ」のスローガンが書かれていた。食糧不足とインフレなどの生活条件の劣化への労働者の不満は頂点に達しようとしていた。地方でも飢餓一揆が猖獗し、食糧危機は政治的危機に転化し、ボリシェヴィキ権力は存亡の危機に瀕した。
この五月に一連の布告により食糧独裁が確立された。この体制は穀物調達に強制原理を持ち込んだ(より正確にはこれまでの武力的収奪を合法化する)だけでなく、地方ソヴェトの権限を中央に従属させる厳格な中央集権システムを構築した点で、新たな時代、戦時共産主義期のはじまりであった。工業の分野でも、失業とパン配給に不満を持つペトログラード労働者の七月二日のゼネストを目前にして、六月二八日づけで大工業国有化令が出された。従来は一七年一一月一四日づけ布告により二月革命からの労働者組織による企業生産管理の労働者統制が実施されてきたが、六月法令により重要大工業部門が国有化され、その管理は国家(最高国民経済会議)に移管され、これ以後ここでも行政的=指令的中央集権化が加速された。
自立的農村ソヴェト運動が臨時政府の合法的制肘を超えた時に、農村の「十月革命」が勃発したとするなら、食糧独裁令によりこの運動を非合法化することで農村の「社会主義革命」(レーニンはこれを農村の「十月」と呼んだ)がはじまった。そしてこれは農村「十月革命」と同じく「初期ソヴェト体制」の終焉でもあった。食糧独裁を反対派ボリシェヴィキは的確にも「ソヴェト理念の破産」と認めた。これ以後、革命の運命を握る食糧人民委員部が非常大権を行使しただけでなく、クリーツマンが「ソヴェト国民経済組織のシステムでの最高国民経済会議のヘゲモニーは食糧人民委員部に取って替わられ[……食糧人民委員部は]実質的にソヴェト・ロシアの経済的組織化全体の枢軸となった」と見なしたような、あらゆる経済官庁組織を従属させる巨大な中央集権システムが食糧人民委員部を機軸として構築された(またこの制度に付随する官僚主義も生み出して)。一八年の農村革命で生じたのは多数の小ブル農民であり、彼らは低い穀物固定価格による調達に消極的であれ、積極的であれ抵抗し、ボリシェヴィキ権力は、中央からの軍事力により「クラーク反乱」の名の下にそれらを鎮圧した。食糧独裁令により、穀物余剰持ち農民をクラークと認定したボリシェヴィキは、農村での「階級闘争」を断行しなければならなかった。五月のВЦИК会議でのシリーフチェルの発言によれば、農民の九〇%が余剰を持ち、農村内「階級闘争」を適用する対象であった。ツュルーパは、「モスクワの近くでさえ著しい貯蔵を持ち、飢えたモスクワにも、ペトログラードにも、そのほかの中央諸県にもそれらを引き渡さない農村ブルジョワジーに戦争を布告する以外の解決はない」と公然といい放った。ボリシェヴィキ権力にとって、農村権力を掌握し、穀物戦争で勝利するには内戦は不可避であり、スヴェルドローフの発言によれば、「農村を二つの和解し難い敵対的陣営に分裂させ、都市で最近起こったような内戦をそこで焚きつけ、農村ブルジョワジーに対して貧農を決起させる」必要があった。穀物問題が農村の権力問題に結びつくとき、七月六日に内戦を焚きつけられた左翼エスエルのモスクワ蜂起が失敗に終わった結果、農村での「プロレタリア独裁」がはじまろうとしていた。内戦が農村の少数派でしかない貧農=バトラークに依拠する限り、村ソヴェト=スホードに替わる「プロレタリア」の拠点を創出しなければならず、そこで貧農委が設置された。貧農委と「穀物十字軍」は農村への労働者の凱旋行進であった。しかし、夏から秋の経験で判明したように、余所者により組織された貧農委は共同体農民から遊離し、また農民により設置された貧農委は農民世界に埋没し「クラーク的」と呼ばれるようになった。ジノーヴィエフが一一月はじめの北部州貧農委大会で、農村でのソヴェトと貧農委との二重権力を排除し、貧農ソヴェトを構築するための改選を訴え、「貧農委は決して選挙されずに、到来した情宣活動家か小グループにより任命されただけであった」と貧農委の組織化の際に認められた弊害に触れたとき、共同体農民の基盤を欠いた農村組織の無力さを意識しなければならなかった。
この時期の多数の実例が、共同体農民は一丸となってプロレタリア権力に抵抗したことを示している。レーニンはこのような農民の一体性を一八年一二月の第一回全ロシア農業部・貧農委・コミューン大会で、白衛軍の攻勢により地主の復活を恐れて農民全体が統合されたと報告した。この一体性が認識されたとき、リーが指摘するように、クラークは敵であったが、もはや彼らは食糧危機を解決する鍵でなくなった。ボリシェヴィキは共同体全体からの穀物の徴収の問題に直面した。一八年末の貧農委の解散は、農村における「階級闘争」の勝利の結果ではなく、「階級闘争」による穀物徴収には限界があること、農村を分化させる試みが失敗したとの認識にボリシェヴィキが到達したことを意味した。
地方で様々な消費基準が存在し、収穫がすでに脱穀され、かつぎ屋取引が展開している状況の下で、農民の貯蔵する穀物の登録ができない以上、ボリシェヴィキにとって穀物余剰の有無により農民を階級的に分類するのは現実的に不可能であり、そもそも穀物余剰の認定さえできなかった。アールスキィはすでに一八年秋に、問題は穀物が現在富農=クラークだけでなく、「勤労農民の」中農にもあることであり、現在彼らを区別することはほとんどできないと、これら階級基準の適用の困難を指摘していた。農村での「階級闘争」の適用は、特に穀物生産地帯で農民一揆を猖獗させ、権力基盤の脆弱な農村の支配を脅かすとともに、調達の不履行は都市プロレタリアの不満を激化させる恐れがあった。食糧危機がボリシェヴィキの体制的危機と結びつくとき、「階級闘争」なしで指定された穀物量すべてを調達する方法が案出されなければならなかった。それが一八年夏〜秋に実施された、共同体農民全体からの穀物の徴収方法としての割当徴発の試みであった。それは、商品交換によるセレダー方式と村団との契約によるシリーフチェル方式として実現された。そしてこの方式を発展させ、一九年一月以後全国的規模で割当徴発が実施された。もちろんそこでは、商品交換は充分に機能せず、契約原理ではなく、割当量の納付が武装力の適用の下で義務づけられた。全ロシア食糧会議でシリーフチェルは、強制でなく実施されたトゥーラ県エフレモフ郡でのその方式の輝かしい成果を披瀝したが、全国的割当徴発の導入の際には、「穀物の最大限の汲み出しを保証する唯一の手段として」武装力の存在の下での強制的穀物賦課の方法を勧告した。
このような穀物徴収方法の適用は、一九年三月の第八回党大会で採択された中農路線として現れ、この路線変更は、「われわれは、土地を持ち自分の手だけでそれを耕作する農民を中農と呼び、中農にも穀物余剰があるだろうが、そのことで彼はまったくクラークとならない」と表明された。しかし、このような中農路線は旧ソ連史学で主張されたような労働者と農民との「軍事=政治同盟」を意味しなかった。これは対クラークとの「階級闘争」に基づく穀物徴収から、村団を単位とした徴収方法への移行、すなわち割当徴発による穀物調達の声明でしかなかった。それは、この党大会の議論で中農路線は、大会の農業部会で議長を勤めたルナチャールスキィが、「中農を支持するために、同意しない経営形態を力づくで持ち込まないようにするために」共産党は中農を擁護していると明言したように、コミューンやソフホーズへの強制加入の廃止と関連づけられたが、割当徴発との係わりではいっさい言及されなかったことにも現れた。より正確にいえば、この党大会では食糧問題は取り上げられなかった。レーニンが大会最終日に、「中農に対してはわれわれはいかなる抑圧も許さない」[強調は原文]と述べたときも、割当徴発の適用には触れなかった。
今やボリシェヴィキにとって重要なのは、クラークを階級敵として葬ることではなく、共同体農民全体を支配することであった。一八年中は農村ソヴェト、次いで貧農委の武装化がはかられたが、一二月二日の布告で、すべての住民と民間施設だけでなく、「すべてのソヴェトと貧農委はそれらの議長の個人的責任の下に、それらの管轄にあるすべての武器を引き渡すことが義務づけられ」、武器の管理は軍事人民委員部に統一された。農村組織の非武装化は割当徴発の実施の前提条件であった。ボリシェヴィキは、農民全体との敵対関係を自覚的に認識しはじめたのである。
当然にも、中農路線の下でも農村の状況は悪化し続けた。カザン県執行委は一九年五月に出した書簡『中農をソヴェト活動に引き入れることについて』の中で、「農民はツァーリ専制にあまりにも痛めつけられたので、ソヴェト権力の利点を速やかに理解することができない。戦争状態により、われわれは農民から人間、家畜、穀物を取り上げ、あらゆる種類の賦課を、荷馬車や人々に実施することを余儀なくされている。農民が困窮する財の必要量を、それがないためにわれわれは与えることができない」と、中農路線の現実化の困難を訴えた。さらに、貧農委の解散後に行われた改選カムパニアでの選挙干渉の結果、郡ソヴェト執行委は郡都で生活しているコムニストから構成されるようになり、このため農民との実質的関係は失われ、ボリシェヴィキ権力と共同体農民との亀裂はいっそう明白となった。これが一八年の農民政策の結果であった。
一九年春には軍事的脅威も増大した。この時までに北カフカース、クバニ、ドン州とドンバスの一部がヂェニーキン軍により占領され、これらの地で反革命農民反乱が勃発し(たとえば、ドン州で三万以上のカザーク中農を巻き込んだヴョセンスカヤ一揆)、危機が増幅された。モスクワ大学教授の日記には次のように記されている。「三月一五日。東部からの進撃について[三月一二日にシベリア軍がウファーを占領]、赤軍と労働者の間での騒擾の風聞が広まり続け、皆喜んでいる。それでも、飢餓は疑いもなく強まり、パンはフント三〇ルーブリに、麦粉はプード一一〇〇ルーブリに達した。[……]三月一六日。風聞は強まっている。赤軍内での反乱や飢餓のための騒擾がいわれている。それらはペトログラードでのストを否定していない。[……]」。ボリシェヴィキ権力の基盤である赤軍と首都の労働者が揺らいでいるとの認識が広まり、これに飢餓が加わった。モスクワを含む工業四県の織物工場の労働者のうち一〜三月で四分の一だけが四分の三フントまで、残りほとんどは四分の一フント以下のパン配給しか受け取らず、二〇〇〇人以上の労働者はパンの配給をまったく受け取れなかった。こうして動員だけでなく、栄養失調による羅病と餓死は労働者の隊列を滅ぼした。
飢餓により生じた革命状況の中でボリシェヴィキは権力の奪取に成功したが、それを克服することはできなかった。飢餓と動員で都市は崩壊し続けた。二〇年までにモスクワの人口は四〇%を失い、一八九七年の水準に低落した。内外の反革命勢力との戦闘が拡大する中で一八年一一月の第六回全ロシア・ソヴェト大会でジノーヴィエフが、「都市プロレタリアートは農村なしに軍隊を創出することができない」と語ったように、十月革命の防衛のために農村の動員が無条件に必要であった(中農路線が党内で議論されるようになったのはこの時である)。また赤軍の肥大は必然的にその装備と食糧の需要を増加させ、そのためにもまず軍隊への食糧の確保が内戦の深化とともに切実に要求された。革命ロシアの運命を決する食糧と軍隊は農民の手に握られていた。だが、プロレタリア権力(都市=プロレタリアートの崩壊現象により共産党が支配するプロレタリアートなき「プロレタリア」権力の傾向を強めつつ)を維持するため、農村からの穀物調達と動員を強化すればするほど、農民との緊張関係が昂進され、ロシア革命の運命が危機に晒されるというジレンマが、戦時共産主義期の基本的構造であった。
サマラを含むヴォルガ諸県は一八年夏に右翼エスエルに占領され、農民は旧統治機関や地主の所有権の復活を認める「サマラ政府」の政策に反対した。これに対する「人民軍」懲罰部隊にヴォルガの村は武装して抵抗した。九月はじめまでに東部戦線に七万の赤軍が集結し、「人民軍」は撃破され、九月一〇日のカザンからはじまり一〇月七日にはサマラが解放された。だがサマラの解放後農民を待ち受けていたのは、ボリシェヴィキ政府が執拗に要求する様々な賦課であった。一九年五月の県ソヴェト大会で、それ以後の農民の状態について、「無償の軍隊用の荷馬車の供出、人間、馬、駱駝の動員、様々な徴発、ヴォルガ渡河の積み替え賦役、これら全部が農民経営をすっかり解体し、悪化させた。[……]集荷した穀物の替わりに、運輸の解体などが原因で、農民は充分な織物、そのほかの商品を受け取らなかった」と報告された。このような農民の不満は三月にメレケス郡で農民反乱を引き起こし、反乱はサマラ郡に、そしてそれに近いシムビルスク県スィズラニ郡へと拡大し、県南部へ、東部へと広がった。こうして瞬くうちにヴォルガ各地が激しい反ボリシェヴィキ反乱の舞台となった。
ロシア革命の命運を握った農民の運命は悲劇的であった。彼らを待ち受けていたのは戦時共産主義の下でのロシア農業の完全な荒廃と、その必然的帰結としての大飢饉であった。農民の悲劇をロシア革命全体の脅威と自覚するには、さらにロシア全土が飢餓に喘ぐ二年の歳月と多くの犠牲を要した。
(注1)〜(注25) ほとんどがロシア語文献なので省略
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(関連ファイル)
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ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領と農民反乱との関係