クロンシュタット水兵とペトログラード労働者(2)
クロンシュタット水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応
1921年2月22日〜3月18日の25日間
(宮地作成・編集)
〔目次〕
1、ペトログラード・ソヴィエトとクロンシュタット・ソヴィエトの歴史 (別ファイル1)
2、ロシア革命の政治システムめぐる闘争
3、レーニンによるソヴィエト民主主義破壊、ソヴィエト権力簒奪過程
4、ペトログラード労働者の要求と全市的な山猫ストライキ、2月22日〜3月3日
5、クロンシュタット水兵の15項目綱領と平和的合法的要請、2月28日〜3月18日
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『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との関係
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版
P・アヴリッチ
『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット 『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
ヴォーリン 『クロンシュタット1921年』反乱の全経過
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
大藪龍介
『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱
中野徹三
『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散
梶川伸一
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
Google検索 『kronstadt』
4、ペトログラード労働者の要求と全市的な山猫ストライキ
2月22日〜3月3日
〔小目次〕
2、ペトログラードのデモ・ストライキと大量逮捕・弾圧・殺害手口
1、ペトログラード労働者の飢餓と経済要求、政治要求の激化
この状況については、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』の「クロンシュタット前夜のペトログラード」や、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』が、詳細な分析をしている。その要点を時系列順に直して書く。
1920年夏、ジノヴィエフの「商取引を禁じる布告」発令
市場は、公式には廃止となっていた。しかし、なかば黙認された闇市場は、ペトログラードにも存在していた。1920年夏、突然、ジノヴィエフが、「いかなる種類の商取引をも禁じる布告」を発令した。当局は、それまで開いていたわずかな数の小商店を閉鎖させ、その扉を封印した。これは、レーニンの「市場経済廃絶・貨幣経済廃絶」路線に基づいて、ソ連全土で強行された。この瞬間から、飢餓はもはや住民の創意工夫によっては緩和できないものとなった。ペトログラードの飢餓はその極点にまで高まった。
1921年1月、ペトログラード市国家供給部(Petrokommouna)の報告
それによれば、金属精錬工場労働者は1日分の配給量として黒パン800グラム、その他の重工業の労働者は600グラム、A・Xカードを所有する労働者は400グラム、残余の労働者は200グラム、をそれぞれ割りあてられていた。黒パンは、当時のロシア人にとって主食だった。
ところが、こうした公式の割当てですら、不規則にしか配給されず、しかも規定量よりも少ないというありさまだった。住居は、暖房なしだった。衣類と靴の欠如はひどいものだった。公式統計によれば、ペトログラードにおける1920年の労働者階級の賃金は、1913年当時のそれのわずか9パーセントにすぎなかった。
住民は首都から流出していった。地方に親戚をもっている人びとは、そこへ帰っていった。正真正銘のプロレタリアートは、地方ときわめて細々とした関係を保ちながら、最後まで留まっていた。当時ペトログラードに駐留していた数千の「労働軍兵士」(Troudarmeitzys)も、同じ事態だった。労働軍兵士とは、白衛軍との内戦終結後、徴兵兵士を故郷に帰さないで、工場の労働者として使った兵士のことである。これは、レーニン・トロツキーの方針だった。最後にストライキという階級闘争の古典的武器に訴えたのは、二月革命と十月クーデターで傑出した指導的役割を演じた、名高いペトログラード・プロレタリアートそのものだった。
1920年〜21年の冬、飢餓の深刻化
ペトログラードの人口が3分の2も減少したにもかかわらず、1920年〜21年の冬はことに厳しいものになった。市中の食糧は1917年2月以来、払底していて、その後の事態は、毎月毎月悪化していた。大都市ペトログラードは、他の諸地方から持ち込まれる食料品に、つねに依存してきた。しかし、これらの地域の多くで、農村経済は危機に瀕しており、ペトログラードへの供給は、きわめて少量だった。鉄道の悲劇的な状態は、事態をさらに一段と悪化させていた。レーニンの食糧独裁令は、農民反乱を激発させただけでなく、「軍事・割当徴発」により、農民の生産意欲を喪失させ、ロシア農業そのものをも破壊しつつあったからである。
その原因は、(1)レーニンが強行した食糧独裁令の「軍事・割当徴発」という根本的に誤った、9000万農民からの穀物・家畜収奪路線と、(2)食糧供給にあたる国家諸機関の行政上の官僚主義的堕落である。その結果、住民に食糧を供給するという政府の役割は、実際には反対の飢餓の進行をもたらした。
ペトログラードの住民は、ありとあらゆる可能なところで、食糧を調達した。物々交換は、大規模に行なわれていた。農村には未だ若干の食糧の予備があり、農民は、この穀物を自分たちに欠如している品物――長靴、石油、塩、マッチといった生活用品――と交換する。労働者は、それらの品物を携えて農村へ行き、交換に数ポンドの小麦粉や馬鈴薯を肩にかついでくるのだった。
1921年1月21日、政府が「都市へのパン配給量を1/3に削減する」政策を発表
この政策により、労働者のボリシェヴィキ体制への怒りは、極限状態になった。労働者の怒りは、ペトログラード守備軍や周辺のバルチック艦隊水兵にも波及した。クロンシュタット・ソヴィエトは、ペトログラードのすぐ沖のコトリン島にあった。バルチック艦隊の最大拠点基地の島には、水兵・労働者を含むソヴィエトの住民45000人がいた。
1921年2月上旬、燃料欠如による工場閉鎖と食糧供給の途絶
当局は、ペトログラード最大の工場60以上を、燃料欠如のため、閉鎖した。食糧供給も、政府の特権階層以外、おおかた途絶した。飢えた労働者と兵士たちが、街頭でパン屑を乞う状況が現れた。激昂した市民は、階級範疇による不平等な配給制度に抗議した。レーニンとペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフは、ペトログラードにおいて、(1)32種類の食糧配給カードによる階級差別政策を施行し、(2)食糧配給有効期限1カ月間のみのカードシステムを労働者支配・ストライキ鎮圧の武器にしてきていた。(3)その中の特権階層とは、政府官僚、チェキスト、赤軍、ボリシェヴィキ党員などだった。市民と労働者の怒りは、ボリシェヴィキ党員だけが、新しい靴と食糧を受け取ったという噂で頂点に達していった。
1921年2月中旬、モスクワの工場集会とデモ・ストライキの激発
最初の労働者決起は、新首都モスクワで、噴出した。自然発生的な工場集会のラッシュで始まった。それに続いて、ストライキとデモが行われるにつれて、決起は全市に広がり、急速にエスカレートした。製革工の代表者会議や非党員金属工の代表者会議も開かれようとした。
経済要求は、(1)労働の軍事規律化・戦時共産主義の即時廃止と自由労働制実施、(2)食糧独裁令の穀物徴発撤廃と自由取引・自由商業回復、(3)配給量の増額などだった。彼らは、経済要求に止まらなかった。
政治要求は、(4)政治的権利と市民的自由の回復、(5)憲法制定議会の復活だった。なかには、(6)共産主義者とユダヤ人はくたばれというプラカードもあった。
最初、当局は、救済の約束でデモを終わらせようとしたが、失敗した。レーニンも、モスクワ金属工場の騒々しい集会に出て、説得しようとしたが、労働者たちからやじり倒された。ここにいたって、もはや、労働者にたいするレーニン演説の権威は、完全に地に落ちた。そこで、レーニンは、正規の軍隊と士官学校生徒(クルサントゥイ)を導入し、ストライキ労働者を弾圧し、秩序を回復させようとした。
ただ、モスクワにおけるストライキ工場数、参加労働者、逮捕・処刑数などは、ソ連崩壊後も、判明していない。
1921年2月22日、モスクワの労働者デモとチェーカーによる鎮圧
22日から24日、モスクワで労働者デモが発生した。デモ隊は、兵士に連帯を表明するために、モスクワ守備隊の兵営に入ろうとした。チェーカー分遣隊が、それを阻止し、デモ隊何人かを殺し、何百人も逮捕した。
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
2、ペトログラードのデモ・ストライキと大量逮捕・弾圧・殺害手口
1921年2月22日〜3月3日の10日間
〔小目次〕
2月22日、ペトログラードの工場ほとんどで自発的労働者集会が勃発
2月23日、トルーボチヌイ工場における最初のストライキ発生
2月24日、労働者集会・3000人デモと、即時弾圧体制確立・「戒厳令」発令
2月25日、トルーボチヌイ工場労働者が周辺の工場に職場放棄を呼び掛け
当局の弾圧と宣伝
2月26日、クロンシュタット調査代表団派遣。当局の弾圧とストライキ沈静化目的の譲歩
2月27日、労働者側の宣伝文、ビラ。当局による譲歩追加
2月28日、プチーロフ工場ストライキ決起
「党員軍」のペトログラード突入命令とストライキ粉砕。
クロンシュタット代表団の帰着と決議
3月 1日、クロンシュタット人民大会。当局の譲歩追加
3月 2日、1万人逮捕・500人即時殺害
レーニン・トロツキーによるクロンシュタット弾圧命令
3月 3日、ストライキの完全鎮圧。工場の操業開始。蜂起の動きと大量逮捕
以下のデータは、主に、ソ連崩壊前に出版された、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』、ヴォーリン『知られざる革命』ら3人の著書に基づいている。ソ連崩壊後の研究で、ニコラ・ヴェルト、ヴォルコゴーノフ、その他のロシア革命史研究者の著書は、この「ペトログラードの10日間」について、新しい資料をあまり載せていない。E・H・カーも、具体的なデータを書いていない。日本人の研究者で、このテーマを分析・発表した人は、私の知る限り、現在までに一人もいない。以下の内容は、3冊の資料を、私(宮地)なりにまとめ、要約し、私の見解を含めて再構成したものである。P・アヴリッチは、「第2章、ペトログラードとクロンシュタット」(P.39〜100)において、下記データに関する出典の(注)を、92カ所もつけている。しかし、出典文献が、すべてロシア語か英語なので省略する。
ジョン・リードは、『世界をゆるがした十日間』(岩波文庫、1919年初版)で、「十月革命」のペトログラードを生き生きと描いた。彼は、アメリカ共産党員として、これをボリシェヴィキ全面支持の立場から書いた。レーニンは、1919年末の序文において、私はこの書を世界の労働者たちに無条件で推薦すると絶賛した。
その11月7日から3年4カ月後、ふたたび、ペトログラードとレーニンをゆるがした十日間が勃発した。今度は、レーニンの路線・政策に反対し、その撤廃要求を掲げた、ペトログラード・プロレタリアートの集会・デモ・全市的な山猫ストライキだった。ソ連全土での農民反乱、モスクワ・ペトログラード労働者ストライキ、クロンシュタット・ソヴィエト水兵の反乱という全階層の反乱・ボリシェヴィキ独裁反対の総決起によって、レーニンは一党独裁政権崩壊の危機に直面した。レーニンとペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフが採った対応は、ストライキ労働者の大量逮捕・殺害だった。そして、世界をゆるがすことがないよう、その弾圧データを完璧に隠蔽・消去した。逮捕者1万人中、500人即時殺害以外の銃殺・強制収容所送り・流刑などの処分データは、その80年後およびソ連崩壊10数年後になっても不明のままである。
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との関係
ヴォーリン『クロンシュタット1921年』反乱の全経過
2月22日、ペトログラードの工場ほとんどで自発的労働者集会が勃発
レーニン、ジノヴィエフは、上記全体の労働者政策を変えることを拒んだ。不満・要求をもった労働者たちと討論しようともしなかった。労働者のどんな提案・発議もはねつけた。労働組合トップや執行委員会はボリシェヴィキ党員で占められ、政府と一体化していた。その労働組合幹部自体が、労働の軍事規律化・ノルマ制・出来高払い制を積極的に遂行していた。政府と労働組合が、一般労働者の要求を解決する民主主義的ルートを、剥奪・閉鎖していたのである。
モスクワに続いて、ペトログラードでも、労働者たちが決起し、ほとんどの主要工場で、労働者大会を開いた。集会は、政府への要求案を可決し、その決議文を工場、街頭に貼り出した。演説者たちはみな、まず、食糧問題を解決することを求めた。(1)穀物徴発の廃止、(2)道路遮断物の撤去、(3)特権的配給量の廃止、(4)個人所有物を食糧と交換することの許可、などである。
しかし、要求内容や労働者の行動には、様々な見解が現れ、歪みも出た。なぜなら、1921年時点には、レーニンが、それまでに、労働者の思想・討論の自由を禁止し、他社会主義政党の革命家・指導者のほとんどを逮捕し、殺害し、監獄に閉じ込めるか、国外追放していたからである。よって、集会は、労働組合主導の正規大会でなく、大部分が労働組合幹部に逆らった、自発的な、山猫ストライキ的な大会にならざるをえなかった。ボリシェヴィキという反労働者、ソヴィエト権力簒奪クーデター、食糧独裁令の一党独裁政府にたいする労働者の非合法集会が、ペトログラードのいたるところの工場で勃発した。
2月23日、トルーボチヌイ工場における最初のストライキ発生
最初のストライキが、トルーボチヌイ工場において勃発した。ここは、ペトログラードで最大の金属工場だった。山猫ストライキ労働者たちの要求内容は、飢餓対策として食糧供給援助への緊急処置である。具体的には、(1)ジノヴィエフが市場経済廃絶政策として全面禁止した地域的な市場の再設置、(2)市から半径30マイル以内の旅行の自由、(3)市周辺の道路を押えて農村からの食糧持ち込みを阻止している民兵分遣隊の退去などである。こうした経済的諸要求と並んで、いくつかの工場は、(4)言論および出版の自由とか、(5)労働者政治犯の釈放といった、一層政治的な要求を前面に押し出していた。トルーボチヌイ工場の集会は、さらに、(6)食糧配給量の増額と手持ちのすべての靴および冬物衣類の即時分配を要求する決議を通過させた。
2月24日、労働者集会・3000人デモと、即時弾圧体制確立・戒厳令発令
(1)、労働者のデモ・集会
24日朝、ストライキ鎮圧に必死の当局は、トルーボチヌイ工場で、労働者手帳を一人一人検査した。それは、当局の決定的な挑発だった。工場全体が仕事をやめた。労働者は、道具を置いて、工場から退出した。ストライキ参加者は、ネヴァ川北岸にあるヴァシリエフスキー島への道をとったのち、街頭における大衆的示威行進(デモンストレーション)を組織した。ストライキ代表団は、ペトログラード守備隊の一つであるフィンランド連隊の兵営と連絡をとろうと試みた。しかし、兵士をデモに引き入れることには失敗した。
にもかかわらず、追加の労働者が付近の工場から、学生が鉱山専門学校から到着し始め、やがて3000人の群衆が政府にたいする彼らの否認を叫ぶために集った。ある説明によると、ペトログラード労働組合評議会のボリシェヴィキ議長アンツェロヴィチが現場へ急行し、労働者に仕事にもどるよう促したが、車から引きずり降ろされ殴りとばされた。
いくつかの大工場労働者は、1918年3月のように、「労働者全権会議」を選挙で作った。これには、メンシェヴィキやエスエルの影響があった。この会議は、最初の声明で(1)ボリシェヴィキの独裁廃止、(2)ソヴィエトの自由選挙、(3)言論・結社・出版の自由、(4)全政治犯の釈放を要求した。
(2)、ジノヴィエフによるデモの武力解散措置
ジノヴィエフは、一般兵士でなく、ボリシェヴィキ党員からなり、政府に絶対忠誠のクルサントゥイ(士官学校生徒)の分遣隊を彼らデモ隊3000人に対抗して繰り出した。なぜなら、一般兵士では、他地方ですでに何回も発生していたように、鎮圧命令を拒否して、ストライキ労働者に加担する危険が高かったからである。その士官学校生徒軍隊は、非武装の大衆デモを武力で解散させた。その軍隊とペトログラード・チェーカーは、いくつかの集会を阻止した。無数の報告書によれば、ジノヴィエフはペトログラードにおいて、真の専制君主のごとく振舞っており、暴力に訴える以外にストライキ労働者を説得するすべを知らなかった。
こうした間にも、ストライキは拡大していった。バルチスキイ工場が操業を停止した。ラファーマ工場や多くの工場――スコロホッド靴工場、アドミラルチスキイ工場、ボーマンおよびメタリスチェスキイ工場もストライキに加わりた。パトロニイ軍需工場もストライキに入った。大工場のいくつかであるトライキ参加者は、党代表者たちが発言する機会を拒否した。
(3)、レーニン・ジノヴィエフによる防衛委員会設置と戒厳令と包囲状態宣言
24日、レーニンの緊急指令に基づいて、党指導者たちは、防衛委員会と呼ばれる特別参謀本部を設置した。そして、ペトログラード市の全地区にも、地区党指導者、地区旅団の党員大隊指揮官それに将校訓練隊付政治委員からなる同様の3人委員会(トロイカ)を設置するよう命令した。また同様な委員会を、遠隔地域にも組織した。トロイカとは、地方党指導者、地方ソヴィエト執行委員会議長、それに地区軍事人民委員という、党・ソヴィエト・軍からなる、一党独裁型のストライキ弾圧システムのことである。
同日、防衛委員会はペトログラード全市に戒厳令と包囲状態宣言を発した。(1)夜間11時以降の市街地の通行禁止、および(2)防衛委員会に前もって特別に許可されなかった集会や会合は戸外たると屋内たるとを問わず、全面的に禁止、(3)いかなる違反も軍隊法に従って処断されるであろうとする内容である。この布告は、ペトログラード軍管区司令官アヴローフ(後にスターリンによって銃殺される)、軍事会議委員ラシェヴィチ(後年、自殺した)、それにペトログラード要塞地区司令官ヴォーリン(後にスターリンによって銃殺される)らのトロイカが、署名した。
当局は、ボリシェヴィキ党員にたいする総動員令を発令した。特別部隊を編制し、これは特別な目標に向けて派遣されることとなった。同時に、この都市への入口と出口に通ずる道路とを警戒していた民兵分遣隊を、ストライキ労働者に加担する危険があるとして、撤退させた。そうした後で、ペトログラード・チェーカー分遣隊は、デモ隊に発砲し、労働者12人を殺害した。ストライキの指導者たちの大量逮捕を開始し、この日だけで、1000人の労働者と社会主義者を逮捕した。
2月25日、トルーボチヌイ工場労働者が周辺の工場に職場放棄を呼掛け。当局の弾圧と宣伝
(1)、労働者ストライキの拡大、兵士の脱走・労働者への参加
デモ・ストライキの動きは、さらに大きくなり、町中に広がった。ストライキ労働者は、海軍兵器廠とギャレルネイア港湾労働者に呼びかけた。労働者があちこち群をなして集会をしようとするたびに、特別部隊が追い散らした。
ヴァシリエフスキー島におけるデモの翌日、トルーボチヌイの労働者はふたたび街頭に出て、周辺の工場地区の間を扇動してまわり、仲間の労働者に職場を放棄するよう呼びかけた。彼らの努力はただちに成功を収めた。工場退去が、ラフェルム・タバコ工場、スコロホート製靴工場、およびバルトおよびパトロンヌイ金属プラントに起こった。ついで、ヴァシリエフスキー島デモ隊のいく人かが前日士官学校生徒によって殺傷されたとの噂にあおられて、ストライキが海軍造船所とガレールナヤ乾ドックを含む、その他の大企業に拡大した。数地点で、群衆が政府の政策への即席攻撃を聴くために集った。
何千ものペトログラード守備隊兵士が、労働者に加わるために、部隊から脱走した。二月革命の4年後になって、同じシナリオが繰り返されるかの情勢が現れ始めた。
(2)、当局の弾圧とペトログラード全市包囲体制
そこで、もう一度クルサントゥイが彼らを退散させるために呼び寄せられた。混乱の拡大を見て、政府はペトログラード守備隊にも鎮圧出動するよう警告を発した。しかし、守備隊自体も大きく動揺しており、いくつかの部隊は、労働者にたいしてたたかおうとしなかった。当局は、危険を感じて、守備隊を武装解除した。レーニン・ジノヴィエフは、もはや守備隊さえも頼れなくなったので、あわてて、地方や国内の他前線から、多数の絶対忠誠のボリシェヴィキ党員軍を、ペトログラード全市包囲に急行するよう緊急動員をかけた。
(3)、ボリシェヴィキ側の大キャンペーン開始
(1)、当局は、「赤色ペトログラードの労働者へ」という共同アピールを発し、彼らに仕事にとどまるよう訴えた。このアピールとともに、彼らは、市内の不安をくい止めるため大宣伝キャンペーンに乗り出した。あらゆる公式筋から、罷業者は反革命の手に乗らないよう警告された。飢え、食糧の枯渇、および寒さは、国土が通り過ぎたばかりの七年戦争の不可避的な結果である。かくも高価な勝利を白衛軍の豚どもと彼らの支持者に没収されることは、いったい意味をなすだろうか。
(2)、ペトログラードのクルサントゥイも声明を発した。内容は、トルーボチヌイの労働者をたんに、イギリス、フランス、および、その他の国々の地主、いたるところに散らばっている白衛軍の手先、および彼らの従僕、資本主義の追従者――エスエルならびにメンシェヴィキをよろこばせるにすぎない行動であると非難していた。
(3)、ペトログラード防衛委員会は、イギリス、フランス、およびポーランドのスパイが混乱を利用するため市内に潜入したと警告した。
(4)、毎日の政府側新聞は、挑発者と怠け者が騒擾に責任があると糾弾した。また、ペトログラードのさまざまな工場と御用労働組合(政府と一体化した機関)からの決議の洪水を印刷した。騒動の発起人といわれたストライキ労働者にたいして好んで使われたあだ名は、シクールニキすなわち我利がり亡者――文字通りには、自身の生皮〔肉体的幸福〕にのみ関心をもつひとびと――だった。そして、ストライキのための通常のことば(スターチカあるいはザバストーフカ)を使う代わりに、坐りこみ罷業者と怠業者をも包摂する口語、ヴォルインカという語を貼り付けた。
2月26日、クロンシュタット・ソヴィエトが調査の代表団派遣。当局の弾圧と一方でのストライキ沈静化目的の譲歩(ムチとアメの二面政策)
(1)、クロンシュタットの調査代表団派遣
2月26日、ペトログラードで進行しつつあった事態のすべてに関心を寄せていたクロンシュタット水兵たちは、ストライキについての事実を知るために代表団を派遣した。この内容は、下記のクロンシュタット水兵要請行動に書く。
(2)、当局における政権崩壊の恐怖感と、一層の弾圧、ロックアウト・大量逮捕
騒擾が高まったので、ペトログラード・ソヴィエトは、以後の行動を検討するため特別会議を開いた。数週間後に悪名をうることになるバルト艦隊コミッサール・クジミーンが、ペトログラードのすぐ沖にあるクロンシュタットに碇泊している戦艦の乗組員の中に不穏な動きがあることを報告した。そして、水兵らの高まりつつある怒りに注意を促し、もしストライキの継続が許されるなら、クロンシュタットでも爆発が起こるかもしれないと警告したとき、不吉な旋律がかき鳴らされた。クロンシュタットは、ペトログラードの西方約20マイル、フィンランド湾内に位置する、コトリン島上の要塞都市ならびに海軍基地である。(1)ペトログラードの全工場労働者、(2)ペトログラード守備隊兵士、(3)クロンシュタットの武装した水兵などの3つの勢力が、ボリシェヴィキ政権に反対して連携し、同時決起すれば、レーニン一党独裁政府の即時崩壊を引き起こす。
二月二十六日二十一時、ペトログラードのボリシェヴィキの長であるジノヴィエフは、レーニンに電報を送って、パニックを予告した。「労働者は兵営内の兵士と接触をとり始めた……我々は相変わらずノヴゴロドからの救援隊を待っている。もし信頼できる軍隊が近いうちに来ないなら、我々は後れをとることになろう」(『黒書』P.122)。
この恐怖にあおられて、ペトログラード軍事会議委員ラシェヴィチは、トルーボチヌイ工場の労働者を厄介者、自分たちだけの利益を考えている者ども、反革命と呼んだ。彼は、断固たる措置こそストライキ参加者を取り扱う唯一の方法だと宣言した。彼はとりわけ、運動の主要な教唆者、トルーボチヌイの労働者を彼らの工場からロックアウトし、そして自動的に彼らの配給量を剥奪するべきだと要求した。特別会議も意見を同じくし、そしてただちに必要な指令を発した。プロレタリアの不満の第2温床となっているラフェルム工場もロックアウトした。他企業の労働者には、彼らの機械に復帰すること、さもなければ同じ懲罰を受けるだろうと命令した。
市内への大軍事力の集結以外では、当局は、すべてのストライキ労働者を彼らの工場からロックアウトすることによって抗議運動を打破しようとした。このことは――トルーボチヌイとラフェルムの場合におけるように――そのストライキ労働者に配給券を渡さないことを伴った。食糧配給停止を武器としたストライキ弾圧政策である。
それらと同時に、ペトログラード・チェーカーは、広範な逮捕を遂行した。工場集会や街頭デモで体制を批判した演説者を拘留した。
(3)、当局の一方でのストライキ沈静化目的の譲歩
ジノヴィエフは、弾圧の一方で、緊急の譲歩措置を採り、ストライキの不満を沈静化させようとした。それは、反対運動の刃をそぐに充分な大きさの一連の譲歩だった。即座の措置として、1日1缶の保存肉と1ポンド4分の1のパンの特別配給を兵士と工場労働者にした。それは、ゲイボルク駐在アメリカ領事の報告によれば、ペトログラードの減少しつつある食糧供給にかなりの穴を空けた。それと同時に、政府は、現在の貯えがなくなったとき使われる緊急供給を大急ぎで他の地区から運びこんた。
2月27日、労働者側の宣伝文、ビラ。当局による譲歩追加
(1)、ストライキの拡大と労働者側の宣伝文、ビラ配布
ストライキ労働者を、ロックアウトし、配給券を渡さず、兵糧攻めにして屈服させようという、この試みは、ただそれまでの緊張を強めたにすぎなかった。2月の残る日々の間に、運動は拡大を続け、工場から工場へと広がり、当局は、工場操業の中止に追い込まれた。
2月27日から、労働者は、さまざまな種類の無数の宣伝文を町々にまき、ペトログラードの壁に貼った。そのなかでもっとも代表的なビラのひとつは次のように言っている。
政府の政策についての根本的な変革が要求されている。第一に労働者と農民は自由を必要としている。彼らはボリシェヴィキの規制の下に生活したいとは思っていない。彼らは彼ら自身の運命を自分たち自身で決めたのだ。同志諸君、革命の秩序を守れ! 組織的に断固として次のことを要求する。(1)すべての投獄された社会主義者と無所属の労働者の釈放。(2)戒厳令の撤廃。(3)働く者すべてに対する言論・出版・集会の自由。(4)工場委員会、労働組合、ソヴィエトの代表の自由な再選挙(『知られざる革命』P.27)。
(2)、当局の追加譲歩
保存肉とパン特別配給以外にも、ジノヴィエフは、2月27日、労働者のもっともさし迫った要求にたいする数々の追加的譲歩を発表した。(1)労働者が食糧買い出しのため市を離れることの許可。(2)これを容易にするため、周辺の農村地帯へ特別旅客列車を仕立てる約束。(3)ペトログラード周囲の道路遮断分遣隊が、一般労働者からは食糧を没収しない訓令。(4)政府が外国から約1800万プードの石炭を購入、それが近く到着してペトログラードや他の都市における燃料不足を緩和する方針の発表。(5)もっとも重要であったのは、はじめて、農民からの穀物の強制的奪取を放棄して現物税に代える計画の立案中、などだった。
これらの追加譲歩政策の性格は、戦時共産主義の制度がついに、町と農村との間の取引の自由を少なくとも部分的に復するであろう政策「ネップ」新経済政策によって置き換えられなければならないことを示した。レーニンは、1920年8月からのソ連全土での農民反乱勃発、1921年2月のペトログラード労働者大ストライキ、3月のクロンシュタット・ソヴィエトの反乱という9000万農民、220万プロレタリアート、赤軍水兵の総反乱に直面し、彼の根本的に誤った市場経済廃絶路線の撤回に追い込まれた。それは、彼自身が認めているように、後退・敗北だった。しかし、彼は、『赤色テロル』ファイルで分析したように、反乱農民・ストライキ労働者・反乱兵士を数十万人殺害しようとも、一党独裁権力だけは放棄せず、それに執着した。
2月28日、大プチーロフ金属工場自身も、ストライキに決起。ボリシェヴィキ党員軍のペトログラード突入命令とストライキ粉砕。クロンシュタット代表団の帰着と決議
(1)、プチーロフ金属工場のストライキ決起、労働者要求の変化
28日、ストライキは、6000人の労働者を擁する巨大なプチーロフ金属工場に達した。この工場は、それが第一次世界大戦中にあったものの6分の1にすぎなかったけれども、なお侮りがたい企業体だった。
いまや、二月革命の4周年記念日が近づいていた。そしてペトログラードにおける不穏は、メンシェヴィキ指導者ダンが注目したように、ツアーリ専制崩壊の直前、1917年におけるその都市の気分を想起させた。当局の懸念をかきたてたもう一つの要素は、労働者要求の性格が変化したことだった。当初、工場集会で通過した決議は、(1)食糧の規則的な配給、(2)靴と防寒衣類の発給、(3)道路遮断物の撤去、(4)農村への買い出し旅行と村人と自由に取り引きすることの許可、(5)特別の労働者範疇にたいする特権的配給量の排除など、圧倒的に経済問題を取り扱っていた。2月の最後の2日間に、これらの経済的要求は一層緊急の語調を帯び、あるチラシは、たとえば、凍死体となって発見されたか自宅で餓死した労働者の事件を引き合いに出していた。
だが、当局の観点から、それ以上に警戒しなければならなかったのは、政治的苦情がストライキ運動において顕著な地位を占め始めたという事実だった。とりわけ、労働者は、その若干が最近大きなペトログラード企業に配属されていた、(6)労働者軍の解散を求めた。さらには、(7)純粋に警察的機能を遂行していた、武装ボリシェヴィキの特別分隊が工場から引き揚げることを要求した。最初は散発的であった、(8)政治的および市民的権利の回復にたいする訴えが執拗かつ広範になってきた。
(2)、レーニン・ジノヴィエフによるボリシェヴィキ党員軍のペトログラード突入命令とストライキ粉砕
ジノヴィエフらのストライキ鎮圧任務を複雑したのは、ペトログラード守備隊のかなりの部分が、全市的ストライキの雰囲気にとらえられており、政府の命令を遂行するうえで信頼が置けなかったという事実だった。当局は、信頼しがたいと考えられた部隊を武装解除し、営舎に閉じこめた。ペトログラード守備隊兵士らが、十月・ソヴィエト革命において決起したように、持ち場を離れて群衆と混じり合うのを阻止するため、長靴の発給が禁止されたという噂すら流れた。正規の守備隊の代わりに、当局は、共産党士官候補生・クルサントゥイに頼り、市の巡回任務で付近の士官学校から何百名と呼び寄せた。加えて、市内秩序を回復にそなえて、その地域における全党員を動員した。
レーニン、ジノヴィエフ、軍事人民委員トロツキーは、ペトログラード守備隊を武装解除した上で、他地方・前線から急行させた絶対忠誠のボリシェヴィキ党員軍を、ペトログラードに突入させた。党員軍は、容赦のない弾圧を反革命レッテルの労働者に加えた。一夜にして、ペトログラードは軍隊の兵舎に変わった。どの街角でも、党員軍は、歩行者を誰何(すいか)し、身分証明書を点検した。ときおり、散発的な銃声が路上にこだました。レーニンは、「鉄の手で社会主義を建設しよう!」というスローガンを自ら創作していた。彼は、「匪賊」「黄色い害虫」の労働者ストライキを、軍隊とチェーカーの鉄の手で粉砕した。
(3)、戦艦ペトロパヴロフスク乗組員の15項目要求決議
同日、戦艦ペトロパヴロフスクの乗組員は、ペトログラード・ストライキと鎮圧についての事態を討議した後、15項目綱領決議を採択した。クロンシュタット・ソヴィエトが行動に入ったのは、正確には、この2月28日からだった。
3月1日、クロンシュタット人民大会。当局の譲歩追加
(1)、クロンシュタット人民大会
3月1日、錨広場で人民大会が開かれた。それはバルチック艦隊の第一、第二戦隊によって招集され、クロンシュタット・ソヴィエトの機関紙に告知された。同日、全ロシア中央執行委員会議長カリーニンとバルチック艦隊の人民委員クジミーミンがクロンシュタットに着いた。カリーニンは軍礼と軍楽隊と、ひるがえる軍旗に迎えられた。
1万6千の水兵と赤軍兵士と労働者がこの集会に参加した。議長はクロンシュタット・ソヴィエトの執行委員長で共産党員のヴァシーリエフだった。カリーニンとクジミーンも出席した。ペトログラードへ送られた代表たちは報告を行った。
(2)、ストライキ沈静化目的の当局の譲歩追加
3月1日、ペトログラード・ソヴィエト当局はペトログラード県全体からのすべての道路法断物の撤去を声明した。同日、さらに、ペトログラードにおいて労働兵役を課されていた赤軍兵士約2000人ないし3000人が動員解除され、彼らの故郷の村へ帰ることを許された。公式の説明は、生産の削減が彼らのそれ以上の滞在を不必要にしたからだった。労働者軍とは、1920年11月に内戦が終了し、赤軍550万人を半減させたとき、徴兵除隊兵士を返さないで、兵士のままで工場労働者として労働の軍事規律化方針により使用するというレーニン・トロツキーの政策だった。その政策にたいする兵士の怒りも強烈だった。公式説明は口実で、その労働者軍が、クロンシュタット・ソヴィエト反乱と連動することを恐れた、ジノヴィエフの反乱予防措置だった。
3月2日、1万人逮捕・500人即時殺害。レーニン・トロツキーによるクロンシュタット弾圧命令
(1)、ペトログラード、ロシア全土での1万人逮捕・500人即時殺害
2月の最後の数日間に、メンシェヴィキ指導者ダンの計算によれば、チェーカーは、約500人の反抗的労働者とストライキ「リーダー」を牢獄で殺害した。同様に、学生、知識人、およびその他の非労働者を数千名検挙し、その多くは反対政党およびグループに所属していた。チェーカーは、ペトログラードのメンシェヴィキ組織を急襲した。それによって、それまで逮捕をまぬがれていた、ほとんどすべての活動的指導者を監獄へ護送した。カズコーフとカメンスキーは労働者のデモを組織したのち、2月の末に逮捕された。ロシコーフとダンを含む少数の者は、一日長く自由の身でとどまり、夢中で彼らの声明やチラシをつくって配付したが、まもなく警察が検挙した。
1921年の最初の3カ月間に、チェーカーは、党の全中央委員を含む約5000人のメンシェヴィキ逮捕をロシア全土において行ったと推定されている。それと同時に、チェーカーは、まだ自身を自由とみていた少数の著名なエスエルとアナキストを同じく検挙した。ヴィクトル・セルジュがその『一革命家の回想』において語っているところによれば、チェーカーはそのメンシェヴィキ収監者をストライキの主要な教唆者として銃殺しようとしたが、マクシム・ゴーリキーが干渉して彼らを救った。
ただ、ソ連崩壊後10数年経った現在でも、大量逮捕・殺害の具体的データは判明していない。
(2)、レーニン・トロツキーによるクロンシュタット弾圧命令
レーニン・トロツキーは、3月2日「クロンシュタット弾圧命令」を出した。その命令内容は下記に書く。
3月3日、ストライキの全面鎮圧。工場の操業開始。蜂起の動きと2000人逮捕
(1)、ストライキの全面鎮圧
3月3日、当局、チェーカーと赤軍は、ロックアウト・ストライキ労働者全員解雇・配給券支給停止・大量逮捕・リーダー500人即時殺害などの手口によって、ペトログラードの労働者ストライキを全面鎮圧した。
クロンシュタット反乱にかんする官許歴史家であるプーホフは、直前のペトログラードの労働者ストライキに関して、労働者階級とその前衛である共産党の手から権力を奪うために、プロレタリアートの没階級意識的部分を利用している革命の敵を打倒するために、断固たる階級的手段をとる必要があったと記している。これは、プーホフ、『1921年のクロンシュタット叛乱』国立出版所、「若き親衛隊」版、1931年、叢書「内戦期」に所収されている。
(2)、労働者蜂起の動きと2000人逮捕
ただし、その後も、労働者蜂起の動きがあった。『黒書』がそれを伝えている。
毎日のチェーカー報告の一つ、「クロンシュタット革命委員会は今日明日にでもペトログラードで一斉蜂起が起きないかと待っている。反乱兵と大工場の間の連絡ができた……今日海軍造船所の集会において、労働者は蜂起に参加を呼びかけるアピールを採択した。クロンシュタットとの連絡係として三人の代表――アナキストとメンシェヴィキとエスエル――が選出された」。
運動をただちに止めるためにペトログラードのチェーカーは、三月七日に労働者に対して断固たる措置を取るようにとの命令を受けた。四八時間内に二〇〇〇人以上の労働者、シンパ、戦闘的社会主義者あるいはアナキストが逮捕された。反乱兵と違って労働者には武器がなく、ほとんどチェーカーの別働隊に抵抗することができなかった。反乱の後方基地を破壊したあと、ボリシェヴィキは入念にクロンシュタット攻撃を準備した。反乱鎮圧にはトゥハチェフスキー将軍が任命された。この一九二〇年のポーランド戦線の勝利者は、民衆に発砲するために、革命の伝統のない若い士官学校生やチェーカーの特別部隊に援助を求めた。作戦は三月八日に開始された(P.123)。
当局は、ストライキ労働者に流血をみずに仕事へ復帰するよう説得する最後の努力として、彼らの宣伝活動を強化した。新聞だけでなく、民衆の尊敬を受けていた党員を街頭、工場、および兵営における扇動のために狩り出した。宣伝の中心テーマは、ストライキとデモは、白衛軍とそのメンシェヴィキならびにエスエル同盟者ら扇動者によって企まれた反革命陰謀であると非難した。
レーニンは、それまでに、メンシェヴィキ、右派エスエル、社会革命党やアナキストのかなりの人数を、大量逮捕し、獄中に入れ、処刑していた。彼ら政治犯の釈放は、ストライキ労働者の政治要求の一つだった。しかし、未逮捕の活動家たちは、ひとたびストライキが勃発するや、それらを激励するのに最善を尽した。このことはメンシェヴィキについてはとくにそうで、彼らは1921年までに、彼らが1917年革命の期間に失った労働者階級の支持の多くを取り戻していた。1921年のペトログラード十日間のとき、トルーボチヌイ工場やその他の争議のあった企業におけるメンシェヴィキの勢力はかなりのものに回復していた。メンシェヴィキの扇動者は労働者集会で同情的な聴衆を獲得し、彼らのチラシと宣言書は多くの熱心な手を経て回覧された。それでもなお、ストライキの扇動において疑いもなくある役割を演じたとしても、メンシェヴィキや他のなんらかのグループがそれらを事前に計画し組織したという証拠はない。
ペトログラードの労働者は、すでにみたように、政府にたいする公然たる抗議に噴出する彼ら自身の広範な理由を持っていた。それらが計画されたものではないという意味で、2月のストライキは民衆的不満の自然発生的な表現だった。
(1)、ジノヴィエフが行ったムチによる弾圧とアメによる懐柔という二面作戦
ペトログラード騒擾は急速に消滅した。3月2日あるいは3日までに、ストライキ中のほとんどの工場は操業に戻った。当局側の譲歩はその任務を終えた。というのも、民衆の謀反心を刺激したのはなによりも飢えと寒さだったからである。それでもなお、当局が行った軍事力適用と広範な逮捕こそ秩序を回復するうえで不可欠だった。ペトログラード・ボリシェヴィキはすばやく同志的結束を固め、鎮圧という気のすすまない任務を効率的かつ迅速に遂行した。ジノヴィエフは、危険が迫ったとき恐慌状態に陥りやすい、臆病者としてのその一切の評判にもかかわらず、ストライキ労働者を鎮めるため、ムチとアメ弾圧行動を指揮した。
(2)、労働者側の問題点
ペトログラードの労働者・住民側にまったくの問題点がなかったなら、運動の瓦解は、かくもすみやかには起こらなかった。労働者はただあまりにも消耗していたので、どのような持続的政治活動をも維持していくことができなかった。飢えと寒さは多くの者を無関心の状態におとしめていた。そのうえ、彼らは効率的な指導と首尾一貫した行動のプログラムを欠いていた。過去、それらは急進的インテリゲンチャによって供給されてきた。
だが、1921年には、ペトログラードの知識人は、かつて革命的抗議の先鋒であったとしても、いまや、あまりにも赤色テロルの恐怖を感じており、かつ、個人的努力のむなしさによってあまりにも麻痺させられていたので、反対の声をあげることができなかった。その同志の大部分は投獄あるいは流刑に処せられ、またいく人かはすでに処刑されている状態のもとでは、生き残っている者で同様の運命に陥る危険をすすんで犯そうというものは少数だった。彼らにとって形勢がかくも圧倒的に不利であるときには、またいささかの抗議も彼らの家族から32種類に細分化された食糧配給カードを奪うかもしれないときには、とくにそうだった。
これらの理由で、ペトログラードにおけるストライキは短命に終わる運命にあった。実際、それらは始まるやいなやほとんど突然終息し、体制にたいする武装蜂起の地点にまではついに到達しなかった。にもかかわらず、それらの影響は絶大だった。旧首都における暴動の発展にぴったりと調子を合わせていた、近くのクロンシュタットの水兵をかきたてることによって、それらは多くの点でソヴィエト史におけるもっとも重大な反乱であったクロンシュタットの反乱のために背景を設定したのである。
5、クロンシュタット水兵の15項目綱領と平和的合法的要請
2月28日〜3月18日
〔小目次〕
第1段階、事前の不満・要求と抗議の集団脱党、1月〜2月26日
第2段階、クロンシュタット代表団の帰着と決議、平和的合法的要請、2月28日〜3月6日
第3段階、レーニンの皆殺し対応とそれにたいする防御的反撃、3月7日〜3月18日
クロンシュタット反乱と呼ばれている水兵の行動とその性格を、いくつかの段階に分けて検討する必要がある。さらに、ペトログラード労働者の全市的山猫ストライキとの関係は、直接的だが、前後関係の側面とともに、2つの革命拠点の同時進行と言える側面がある。クロンシュタット水兵の独自の不満・要求がそれ以前から爆発寸前にまで高まっていた。ペトログラード労働者ストライキとレーニン・ジノヴィエフによる大弾圧・ストライキ指導者500人銃殺を直接見聞きしたことが、2月28の公然とした爆発の導火線になった。
1月〜2月26日
1921年1月、クロンシュタット水兵の5000人集団脱党
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』が、事前の不満・要求とともに、共産党員水兵の共産党バルチック艦隊政治部にたいする怒りと非難を記している。クロンシュタット反乱の期間は、2月28日から3月18日までとなっているが、事前の要求提起と抗議行動の面では、ペトログラード労働者の山猫ストライキより前から始まっている。
クロンシュタット水兵の怒りは、飢餓だけでなく、軍事方針にも向けられた。彼らは、軍事人民委員トロツキーの方針に対抗して、海軍における「政治部」の完全な廃止を要求した。海軍政治部の実態は、(1)軍全体にたいするボリシェヴィキの一党独裁システムというだけでなく、(2)トロツキーによって、ボリシェヴィキ党員水兵にたいする統制・管理機関に変質させられていた。1月だけで、ボリシェヴィキ党員である水兵5000人が、抗議の集団脱党をした。
2月15日、第2回バルチック艦隊共産党員水兵会議と決議
軍事人民委員トロツキーは、(1)赤軍正規軍化、(2)ツアーリ将軍らの大量雇用、(3)ボリシェヴィキ党員からなる政治委員(コミッサール)配置、(4)将校選挙廃止と政治部の将校任命制による兵士委員会の権限剥奪、さらには、(5)自主的に結成されていた兵士委員会の廃止を強行した。トロツキーは、軍隊内の政治部を、党の方針を遂行し、他党派支持兵士を排除し、他の国家暴力装置と同じく、(6)赤軍をボリシェヴィキ一党独裁軍に転換させるためのシステムに変質させていた。
会議は、300人の代議員を集めて、「バルチック艦隊政治部(Poubalt)の所業を公然と非難する決議」を可決した。それは、次の4項目である。この決議は、その党独裁機関自体が、官僚化して、ボリシェヴィキ党員水兵にたいする統制・管理機関となり、独裁政党側にいるバルチック艦隊共産党員水兵から、公然と非難される実態に腐敗していたことを証明した。
第二回共産党員水兵会議は、バルチック艦隊政治部(Poubalt)の所業を公然と非難するものである。
(1)、バルチック艦隊政治部は、自らを大衆からばかりか、活動家たちからも切り離している。それは、水兵のあいだになんらの権威を持たない、官僚的機関へと変質してしまったのである。
(2)、バルチック艦隊政治部の仕事には、計画性もしくは順序だった方法が全面的に欠如している。同時にそこには、その行動と第九回党大会で採択された諸決議とのあいだの一致が存在していない。
(3)、バルチック艦隊政治部は、自らを党員大衆からまったく切断してしまった結果、その局部的イニシアティヴを全的に破壊してしまった。それは、すべての政治的活動を机上の仕事に変えてしまった。こうしたことは、艦隊における大衆組織に有害な影響を与えてきた。昨年六月から一一月のあいだに(水兵)党員の二〇パーセントが、離党してしまっている。これは、バルチック艦隊政治部の誤った指導方法により説明されうる。
(4)、この原因は、バルチック艦隊政治部の組織諸原則そのもののなかに見い出されるべきである。これらの諸原則は、民主主義をより一層拡大する方向に転換されねばならない。
数人の代議員は、その発言のなかで、海軍における政治部の完全な廃止を要求した(P.17)。
2月26日、クロンシュタット水兵がペトログラード・ストライキ調査の代表団派遣
(1)、ペトログラード・ストライキ調査の代表団派遣
2月26日、ペトログラードで進行しつつあった事態のすべてに関心を寄せていたクロンシュタット水兵たちは、ストライキについての事実を知るために代表団を派遣した。
クロンシュタット代表団がペトログラードに到着したとき、彼らは工場が軍隊と士官学校生徒によって包囲されているのを見出した。いまなお稼動している作業場では、武装した共産党員の分隊が労働者に監視の眼を光らせており、水兵らが近づいていったとき、労働者は沈黙したままだった。人は考えたにちがいないとさし迫った反乱における指導的人物ペトリチェンコが記している。「これらは工場ではなくて帝政時代の強制労働監獄である」と。
以下は、彼が書いた調査の様子である。これを、スタインベルグ『左翼社会革命党1917〜1921』(鹿砦社、1972年)から、そのまま引用する。
「この代表団は、直接にストライキで閉鎖された工場へ赴き、労働者自身の口から説明を求める予定であった。だが、水兵の代表たちは、予期せぬ障害に遭遇した。彼らは、外部を軍隊によって包囲され、内部を武装したチェーカー部員(チェキスト)によって埋めつくされていた。労働者たちは、当惑したような目つきをして、無目的に立ちつくしていた。工場委員会議長がクロンシュタット代表団の話を聴く集会を告げた時、労働者は誰も動きはしなかった。その代りに、俺たちは彼らを、こうした代表団を知ってるさ、というような呟きを我々は耳にした。
そこで我々は尋ねた、諸君はどうして我々と物事をざっくばらんに討論しようとしないのだ? 我々は諸君の不満の原因を知るためにやってきたのに。彼らは長い間黙りこくっていた、それから誰かが言った、俺たちは、前にも代表団に会ったんだ。でも後になって代表団を信用した者は皆、しょっ引かれちまったんだ。我々は彼らに、我々が間違いなくクロンシュタットから派遣されたのだということを証明する書類を提示した。さあ、諸君は我々を信じてくれるな? それでもなお彼らは動こうともせずその視線は兵士や工場委員会のメンバーに向けられていた。それで我々はすべてを理解し、もはや何も言わずに、彼らの顔をじっと見つめた。彼らの涙にうるんだ目をみているとそのうちの幾人かの頬を涙がつたって落ちていった。我々は、最後に彼らに向かって呼びかけた、でも同志たち、我々はクロンシュタットに何と報告すれは良いのだ? 諸君は口がきけなくなってしまったのか?
遂に一人の勇敢な男が口を開くと毅然として語り出した。そうだ、俺たちは自分の舌をなくしてしまったし、記憶もなくしてしまった。俺はあんた方がここからいなくなったら俺の身の上に何が起るかを承知している。それでも、あんた方がクロンシュタットからやってきている以上は、しかも奴らが俺たちを、クロンシュタットの名前を使って脅迫し続けている以上は、あんた方は本当のことを、つまり、俺たちは飢えさせられているってことを知らなきゃいけない。俺たちには着る物も靴もない。俺たちは、精神的にも肉体的にもテロられているんだ。ペトログラードの監獄を見に行って、この三日間にどれほど多くの俺たちの仲間が逮捕されたのかを知ってほしい。それだけじゃない、同志たち、共産党(コミュニスト)の奴らに――あんたらは俺たちの名前のかげに長い間隠れてきたが、もうたくさんだ!――って言ってやる時がきたんだ。自由に選出されたソヴィエト万歳!」(P.254)。
この代表団は、数多くの工場を訪れて回り、28日にクロンシュタットに帰着した。彼らは目撃した光景への憤慨に満ちて、クロンシュタットへもどり、戦艦ペトロパヴロフスク艦上での歴史的集会において彼らの知ったことを提示した。
(2)、当局における政権崩壊の恐怖感
ペトログラード・ソヴィエトは、以後の行動を検討するため特別会議を開いた。バルト艦隊コミッサール・クジミーンが、ペトログラードのすぐ沖にあるクロンシュタットに碇泊している戦艦の乗組員の中に不穏な動きがあることを報告した。そして、水兵らの高まりつつある怒りに注意を促し、もしストライキの継続が許されるなら、クロンシュタットでも爆発が起こるかもしれないと警告した。(1)ペトログラードの全工場労働者、(2)ペトログラード守備隊兵士、(3)クロンシュタットの武装した水兵などの3つの勢力が、ボリシェヴィキ政権に反対して連携し、同時決起すれば、レーニン一党独裁政府の即時崩壊を引き起こす。
第2段階、クロンシュタット代表団の帰着と決議、平和的合法的要請行動
2月28日〜3月6日
2月28日、クロンシュタット代表団帰着と戦艦ペトロパヴロフスク乗組員の15項目要求決議
2月28日、ペトログラード・ストライキ調査代表団は、クロンシュタットに帰着した。同日、戦艦ペトロパヴロフスクの乗組員は、ペトログラード・ストライキと鎮圧についての事態を討議した後、以下のような決議を採択した。クロンシュタット水兵10000人が行動に入ったのは、正確には、この2月28日からだった。
「艦隊乗組員総会によってペトログラードにおける状況を把握するために派遣された代表団の報告をきいた結果、水兵たちは以下のことを要求する――
(1) ソヴィエト再選挙の即時実施。現在のソヴィエトは、もはや労働者と農民の意志を表現していない。この再選挙は、自由な選挙運動ののちに、秘密投票によって行なわれるべきである。
(2) 労働者と農民、アナキストおよび左翼社会主義諸政党にたいする言論と出版の自由。
(3) 労働組合と農民組織にたいする集会結社の権利およびその自由。
(4) 遅くとも一九二一年三月一〇日までに、ペトログラード市、クロンシュタットそれにペトログラード地区の非党員労働者、兵士、水兵の協議会を組織すること。
(5) 社会主義諸政党の政治犯、および投獄されている労働者階級と農民組織に属する労働者、農民、兵士、水兵の釈放。
(6) 監獄および強制収容所に拘留されているすべての者にかんする調書を調べるための委員会の選出。
(7) 軍隊におけるすべての政治部の廃止。いかなる政党も自らの政治理念の宣伝に関して特権を有するべきでなく、また、この目的のために国庫補助金を受けるべきではない。政治部の代りに、国家からの資金援助でさまざまな文化的グループが設置されるべきである。
(8) 都市と地方との境界に配備されている民兵分遣隊の即時廃止。
(9) 危険な職種および健康を害するに職種ついている者を除く、全労働者への食糧配給の平等化。
(10) すべての軍事的グループにおける、党員選抜突撃隊の廃止。工場や企業における、党員防衛隊の廃止。防衛隊が必要とされる場合には、その隊員は労働者の意見を考慮して任命されるべきである。
(11) 自ら働き、賃労働を使用しないという条件の下での、農民にたいする自己の土地での行動の自由および自己の家畜の所有権の承認。
(12) われわれは、全軍の部隊ならびに将校訓練部隊が、それぞれこの決議を支持するように願っている。
(13) われわれは、この決議が正当な扱いの下に印刷、公表されるよう要求する。
(14) われわれは、移動労働者管理委員会の設置を要求する。
(15) われわれは、賃労働を使用しないという条件の下での、手工芸生産の認可を要求する。」
この決議を、ついで全クロンシュタット水兵総会が、また赤衛軍の多数の部隊も、賛成した。さらにこの決議を、クロンシュタットの全労働者大会も賛成した。そしてこれが、反乱の政治的綱領となった。
3月1日、クロンシュタット人民大会と15項目綱領の承認
3月1日、錨広場で人民大会が開かれた。それはバルチック艦隊の第一、第二戦隊によって招集され、クロンシュタット・ソヴィエトの機関紙に告知された。同日、全ロシア中央執行委員会議長カリーニンとバルチック艦隊の人民委員クジミーミンがクロンシュタットに着いた。カリーニンは軍礼と軍楽隊と、ひるがえる軍旗に迎えられた。
1万6千の水兵と赤軍兵士と労働者がこの集会に参加した。議長はクロンシュタット・ソヴィエトの執行委員長で共産党員のヴァシーリエフだった。カリーニンとクジミーンも出席した。ペトログラードへ送られた代表たちは報告を行った。
大会は、ペトログラード労働者の正当な熱望を押し殺す共産主義者のやり方を、怒りをこめて非難した。つづいて戦艦ペトロパヴロフスクがすでに可決している決議が上程された。討議の際、カリーニン議長とクジミーン人民委員はその決議とペトログラードのストライキとクロンシュタットの水兵を非常にはげしく攻撃した。しかし、彼らの弁説は役に立たなかった。ペトロパヴロフスクの決議は、ペトリチェンコという名の乗組員によって提案され、2人を除く、ほぼ満場一致で承認された。反対者は、クロンシュタット・ソヴィエト執行委員長で共産党員ヴァシーリエフとバルチック艦隊付政治委員クジミーンの2人だけだった。クロンシュタット・ソヴィエト内には当時2000人の共産党員がいた。ソヴィエト議長と政治委員2人を除いて、他の全共産党員が決議に賛成したという党内状況になっていた。
クジミーン人民委員は次のような言葉でこのことを記している。決議はクロンシュタットと守備隊の圧倒的な多数で決定された。それは約1万6千の市民の出席した3月1日の市総会に提出され、満場一致で可決された。クロンシュタットの執行委員長ヴァシーリエフと同志カリーニンはその決議に反対投票をした(『知られざる革命』P.39)。
3月2日、ソヴィエト代表者会議と臨時革命委員会の設置。レーニン、トロツキーによるクロンシュタット弾圧命令
翌2日、クロンシュタット・ソヴィエトの代表者会議が3000人以上の参加で開かれた。大会の任務は、ソヴィエト執行委員会の任期が3月に終わるのを受けて、クロンシュタット・ソヴィエトの新選挙のやり方を決めることだった。官僚的な共産党人民委員の独断的制度に陥っているソヴィエトを、自由で平等な新選挙によって、「すべての権力をソヴィエトへ、政党にではなく」というシステムを取り戻すことだった。
討論において、クジミーン人民委員は「もし君たちが戦争を初めようと望むなら、始めるがいい。共産党は決して政権を譲りはしないから。最後の一人まで戦う」と、挑発の演説をした。当然、彼は、共産党とチェーカー、クルサントゥイによるペトログラード労働者の山猫ストライキ大弾圧とストライキ指導者500人即時銃殺事実を踏まえて、水兵たちを脅迫したのだった。そのとき、共産党の15の武装部隊が、会場に進軍中という情報がもたらされた。大会は、共産党独裁ソヴィエトに変質した代表機関に替わるものとして、新選挙を行なう目的のクロンシュタット臨時革命委員会の設置を決定し、その代表を選んだ。そして、挑発・脅迫をした人民委員クジミーンとソヴィエト議長ヴァシーリエフを逮捕した。
この時点においても、クロンシュタット水兵たちは、共産党一党独裁政権との平和的交渉を望んでいた。15項目の要請行動を平和的に行なう意図だった。ただ、1918年6月14日ソヴィエトからの他党派追放というレーニンのソヴィエト権力簒奪クーデター以後、すべてのソヴィエトは、共産党独裁で、執行委員会は共産党員に占拠されていた。クロンシュタット・ソヴィエトも同じであった。人民委員とソヴィエト議長が、平和的要請決議に挑発と脅迫で応えたからには、ソヴィエト新選挙と15項目交渉をする上では、臨時革命委員会を設置するしかなかった。しかし、臨時革命委員会の設置は、まだ武力反乱という段階ではない。
レーニン、トロツキー、ジノヴィエフは、ペトログラード労働者の山猫ストライキ鎮圧に、ムチとアメ作戦によって成功しつつあり、ストライキ指導者500人即時銃殺を遂行中だった。それだけに、クロンシュタット水兵との交渉を全面拒否し、即座の弾圧・皆殺し対応を決めた。レーニン、トロツキーが出した、3月2日の「クロンシュタット弾圧命令」を、スタインベルグ『左翼社会革命党1917〜1921』(鹿砦社、1972)から、そのまま引用する。
ボリシェヴィキは、譲歩することなど考えもしなかったのだ。ボリシェヴィキ間のイニシアティヴは、すでに地方的独裁者ジノヴィエフの手からレーニンとトロツキーの中央権力へと移っていた。そしてモスクワにおいて、彼らはすばやく自分たちの闘争手段を準備したのであった。早くも三月二日、レーニンとトロツキーは、邪悪な嘘言と中傷に満ちた公式声明に署名し、これを発表した。彼らは、クロンシュタットの運動を暴動と呼び、水兵たちを「社会革命党の裏切者どもと結託してプロレタリア共和国に対して反革命的陰謀を画策しつつあるかつての帝政派将軍どもの手先」と呼んだのである。
つづいて、ロシア人民および全世界に、以下の如き《純然たる》真実を知らせるために彼らの命令が出されていた。
「二月二八日、ペテロ=パウロ乗組員は、黒百人組(かつての君主主義的ギャング)の精神を体現している決議を採択した。それから、前将軍コズロフスキーが前面に登場した。かくして、帝政派将軍が今一度、社会革命党の尻押しをつとめているのだ。この全ての事に鑑み、労働・防衛会議は――
(1)、コズロフスキーとその援助者を非合法化すること
(2)、ペトログラード管区を戒厳令下に置くこと
(3)、最高権限をペトログラード防衛委員会の手に与えること、を命令する」。
(原註) コズロフスキー将軍は共産党政府によってクロンシュタットに任命配属されていたのであり、叛乱に際しては、いかなる役割をも果していなかった(P.254)。
『The
Truth about Kronstadt』 『Kronstadt
Uprising』
3月3日、臨時革命委員会新聞『イズヴェスチヤ』第1号発行、訴え・論評、手紙の掲載
これらの内容の詳細は、ヴォーリン『知られざる革命、クロンシュタット1921年』が、もっとも詳しく載せている。その特徴は、ソヴィエト新選挙を実現しようとする熱烈な感情である。そこに、11通の手紙があるが、赤軍将校、現共産党員、教員たちが、臨時革命委員会の行なおうとする新選挙と15項目綱領を支持しているかが、よく分かる。
以後、3月6日までは、共産党政権との戦闘は起きていない。
第3段階、レーニンの皆殺し対応とそれにたいする防御的反撃
3月7日〜3月18日
3月7日、共産党政権による最初の砲撃が始まった。7、8日の第一次攻撃は、クロンシュタット臨時革命委員会の防御的反撃に出会って、政権軍は敗退した。3月16、17日、トハチェフスキー指揮の赤軍5万人が、氷結したフィンランド湾の四方から、水兵1万人・基地労働者4千人にたいして総攻撃をかけた。18日、レーニンは、クロンシュタット反乱を鎮圧した。
フィンランド湾氷上を突撃する赤軍 反乱者殺害・一掃の戦闘をする赤軍
『Kronstadt Uprising』imagesからの写真2枚
この戦闘・鎮圧経過は、HPに転載したP・アヴリッチ、イダ・メット、スタインベルク、ヴォーリンら5つの(関連ファイル)にある。よって、ここでは書かない。
地図の□印は、クロンシュタット側の海上堡塁。右図の赤矢印は、三月七、八日の
第一次攻撃だが、壊滅的な損害で退却。黄色基地と矢印は、三月一六〜一七日
の南北からの第二次総攻撃で、氷結した湾内の堡塁を占領し、市街戦で鎮圧した
〔小目次〕
1、クロンシュタット15項目綱領の冒頭5項目が暴露したもの
クロンシュタット事件とは、何であったのか。(関連ファイル)として転載した5人は、ソ連崩壊前の分析である。崩壊後の文献は、ニコラ・ヴェルトの研究結果しかない。それらを合わせて、15項目綱領の性格を再検討する。事件の本質を、この15項目が照らし出しているからである。項目別の分析は、P・アヴリッチとイダ・メットが行なっている。私(宮地)は、ここで、ソヴィエト・システムとその選挙問題を中心に検討する。
1917年11月7日、ペトログラード・ソヴィエト労働者とクロンシュタット・ソヴィエト水兵の大部分は、各ソヴィエト内のエスエル、メンシェヴィキ党員を除いて、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを支援した。彼らは、レーニンの政権公約「すべての権力をソヴィエトへ」と政策公約「土地・平和・パン」という4つの全面実行を信じたからである。土地革命を、政党の助けを借りず、自力で成し遂げた80%・9000万農民も、レーニンが土地革命をエスエル政策そのままの土地社会化法で事後承認したので、一党独裁共産党政権を支持していた。
労働者・農民・兵士ソヴィエトのレーニン政権にたいする政策的支持関係は、5カ月間続いた。その期間のソヴィエト選挙は、二月革命以来の自由で平等な選挙スタイルだった。しかし、(1)1918年4月29日全ロシア中央執行委員会におけるレーニン、スヴェルドルフ、トロツキーらによる食糧問題での農民・農村にたいする内戦路線を開始する宣言、(2)5月13日食糧独裁令と労働者食糧徴発隊組織化、貧農委員会組織化という内戦戦術開始、(3)6月14日全ロシア中央執行委員会と全ソヴィエトからのエスエル、メンシェヴィキ追放決定とボリシェヴィキ惨敗ソヴィエトのチェーカーを使った武力解散という一連の行為は、まさにソヴィエト権力簒奪クーデターだった。そのクーデターは、一挙に、労働者・農民・兵士すべてをして、ボリシェヴィキに背を向けさせた。彼らは、4つの政権・政策公約を支持しただけで、レーニンのプロレタリア独裁理論や市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論などというマルクス主義革命理論を支持したわけでなかったからである。
以後、1921年2月までの2年10カ月間、レーニンによって権力簒奪されたソヴィエトの選挙は、自由で平等な選挙でなくなり、全他党派党員の被選挙権が剥奪された。共産党秘密政治警察チェーカーは、レーニンの強化策・豊富な資金投入によって28万人体制に増幅させられた。チェキスト(チェーカー要員)は、ジェルジンスキー命令を受けて、次々とボリシェヴィキ惨敗ソヴィエトを武力解散させ、後釜に共産党員を据えた。ソヴィエトは、自由のない平等を奪われた選挙となり、全国の各級ソヴィエト執行委員会は、共産党員だけで構成された。労働組合とあらゆる社会団体も、共産党独裁の下部国家機関に変質させられた。それにたいして、各地で、残存する社会主義他党派党員や労働者・農民・兵士は、ソヴィエト再選挙要求を出したが、レーニンとボリシェヴィキは再選挙を拒否し続けた。こうして、自由で平等なソヴィエト新選挙という要求とその要請行動が、共産党独裁政権と労働者・農民・兵士との決定的な対立点に浮上したのである。
ソ連全土で、上記(表)のように、労働者・農民・兵士の総反乱が発生した。しかし、レーニンは、スイス長期亡命中に、パリコミューンを徹底して研究した。そして、暴力革命によって権力奪取をした後こそ、反革命・人民の敵を赤色テロルで大量殺人をしなければ、プロレタリア独裁政権は崩壊するという一面的、かつ極端に歪曲した教訓を、1917年4月帰国時点に持ち込んでいた。彼は、帰国後、わずか7カ月間で、広大なロシアの絶対的最高権力を手に入れた。レーニンの強烈な反革命分子・人民の敵の大量殺人意志と、共産党秘密政治警察28万人という国家暴力装置の赤色テロルを前にして、自然発生的で地方分散的な反乱は無力で、次々と鎮圧された。
何度鎮圧されても、各地の労働者・農民・兵士の反乱は、経済要求とともに、ソヴィエト新選挙などのソヴィエト民主主義要求を掲げ続けた。それらの経済要求・ソヴィエト民主主義回復要請反乱の総集約点として、ついに、革命拠点のペトログラード労働者とクロンシュタット水兵が決起したのが、1921年2月22日から3月18日の25日間だった。
15項目綱領の上から5項目の政治的要求だけ見てみる。他10項目は、政治要求もあるが、経済要求が多い。これらを文章化したのは、クロンシュタット水兵たちだが、それは、2月22日からのペトログラード労働者の山猫ストライキが掲げた要求をまとめたものである。よって、5項目は、ペトログラード労働者とクロンシュタット水兵・基地労働者とが完全一致した共通要求だった。
(1) ソヴィエト再選挙の即時実施。現在のソヴィエトは、もはや労働者と農民の意志を表現していない。この再選挙は、自由な選挙運動ののちに、秘密投票によって行なわれるべきである。
(2) 労働者と農民、アナキストおよび左翼社会主義諸政党にたいする言論と出版の自由。
(3) 労働組合と農民組織にたいする集会結社の権利およびその自由。
(4) 遅くとも一九二一年三月一〇日までに、ペトログラード市、クロンシュタットそれにペトログラード地区の非党員労働者、兵士、水兵の協議会を組織すること。
(5) 社会主義諸政党の政治犯、および投獄されている労働者階級と農民組織に属する労働者、農民、兵士、水兵の釈放。
これら5項目すべては、共産党によって剥奪されているソヴィエト民主主義を復活させよという要求である。それらは、1921年時点のソヴィエト民主主義の破壊実態が、おそるべき惨状になっていることを暴露している。(1)自由で秘密投票をする選挙になっていない。再選挙要求が共産党によって拒否されている。(2)言論・出版の自由がない。(3)集会結社の権利と自由がない。(4)非共産党員の組織が禁止されている。(5)多数の政治犯が逮捕されたままで、釈放されない。
レーニンは、プロレタリア民主主義は、ブルジョア民主主義の百万倍も民主的であると力説した。しかし、これらの要求は、ソヴィエト民主主義の復活というだけでなく、この実態がブルジョア民主主義レベル以下になっていることを暴露した。15項目綱領は、レーニンのソヴィエト権力簒奪クーデターが、プロレタリア独裁という虚構看板の本質である共産党独裁の下に、ソヴィエト民主主義を完全に破壊したことを、稲妻のように照らし出した。
ただ、2月28日から3月6日までの第2段階において、クロンシュタット水兵・基地労働者は、15項目綱領に基づいて、レーニンや軍事人民委員トロツキーらと平和的な交渉をすることを望んでいた。また、レーニンらがその合法的平和的要請に応じるだろうと判断していた。そのレーニン判断は、彼らの甘さともいえる。しかし、経済要求はともかく、クロンシュタット綱領冒頭5項目の政治的要求が共産党一党独裁権力の存立基盤を覆し、政権崩壊を引き起こすレベルとは考えなかったのか。「すべての権力をソヴィエトへ、政党にではなく」というクロンシュタットのスローガンは、ソヴィエト権力簒奪クーデター指導者レーニンの存在そのものを否定するものだった。言いかえれば、レーニンのクーデター政権は、もはや、二月革命以来のソヴィエト民主主義を復活させれば、政権崩壊してしまう段階にまで腐敗していたのである。
2、ソヴィエト権力簒奪クーデター総仕上げとしての皆殺し対応
レーニン、ペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフは、歴史的な革命拠点ペトログラードの全市的労働者山猫ストライキにたいして、一度も要求を話し合う態度を採らなかった。最初から、大量逮捕、ロックアウト、戒厳令で応えた。山猫ストライキ参加労働者を10000人逮捕した。ストライキ指導者500人を即座に銃殺した。ソ連全土でメンシェヴィキ党員5000人を逮捕した。ペトログラード労働者とクロンシュタット水兵とが連帯すれば、二月革命と10月単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターの革命拠点勢力の矛先が、今度は、共産党一党独裁クーデター権力打倒に向けられる恐怖に打ち震えたからである。
しかも、ペトログラードより早く、クロンシュタットでは、1921年1月、水兵5000人が軍隊内の共産党政治部のやり方に抗議して、共産党を脱党していた。2月、水兵共産党員会議が、政治部にたいして強烈な非難決議を突き付けていた。ペトログラードとクロンシュタットの革命運動における歴史的な連帯関係を見れば、2つが結合すれば、ソ連全土で、レーニンのソヴィエト権力簒奪クーデター政権にたいする同時多発反乱に発展することは必然だった。クロンシュタット決起の前に、なにがなんでも、ペトログラード山猫ストライキを武力鎮圧し、クロンシュタットと分断する必要があった。
レーニン、軍事人民委員トロツキー、バルト艦隊人民委員クジミーンらは、クロンシュタットの15項目綱領にたいしても、平和的要請として交渉する意志は最初からなかった。なぜなら、冒頭5項目の政治的綱領は、すでに党独裁権力となって腐敗したレーニンのソヴィエト民主主義破壊クーデター政権を崩壊させるレベルのソヴィエト民主主義復活要求だったからである。しかも、その綱領は、党独裁政権下の政治生活実態が、ブルジョア民主主義以下の自由と権利剥奪レベルになっていることを、1億4千万労働者・農民・兵士と全世界に、稲妻の閃光のようにさらけ出した。しかも、農民反乱や労働者山猫ストライキと違って、軍艦を持つ完全武装赤軍の、かつ、革命の栄光拠点バルチック艦隊水兵の15項目綱領は、平和的合法的要請段階といえども、瞬時に殲滅しなければ、党独裁政権の崩壊は、目に見えていた。レーニン、トロツキーらにとって、平和的交渉か、皆殺し対応かで、後者の選択肢しかなかった。
レーニン、トロツキーは、政権崩壊の恐怖とともに、革命勢力内部におけるクロンシュタットへの親近憎悪に駆られて、クロンシュタット水兵・基地労働者14000人の皆殺し対応を決断した。レーニンは、3月8日から16日まで、モスクワで、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)第10回党大会が開いていた。レーニンは、クロンシュタット平和的要請行動にたいして、白衛軍将軍の役割と真っ赤なウソをついた。そして、皆殺し作戦のために、党大会代議員300人を軍事コミッサールとして、クロンシュタットに派遣した。当時、党内論争をしていた労働者反対派は、労働組合の国家権力からの自立を要求していた。その要求レベルは、ペトログラード山猫ストライキ労働者やクロンシュタット水兵の要求と共通点が多かった。しかし、彼ら分派メンバーは、一党独裁権力政党の党員だった。ソヴィエト権力簒奪クーデター政権崩壊の最大危機に直面して、彼らも、クロンシュタット水兵皆殺し作戦に賛成した。
1991年のソ連崩壊後、レーニン指令による大量殺害データが、3つ発掘された。
〔皆殺し対応データ1〕、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』(恵雅堂、2001年)が、ソ連崩壊後の衝撃的なデータを載せた。「作戦は三月八日に開始された。十日目にクロンシュタットは双方数千の犠牲を出して陥落した。反乱の鎮圧は容赦ないものだった。敗北後、投獄されていた何百人もが銃殺された。最近公刊された史料によれば、一九二一年四月〜六月だけで二一〇三人が死刑、六四五九人が強制収容所へ収監となった。
クロンシュタット陥落の直前に約八〇〇○人が凍った広い湾を越えてフィンランドへ逃げ延びたが、結局彼らはテリオキ、ヴィボルグ、イノの移送収容所に強制的に収監された。彼らのうち大赦の約束に騙されてロシアに帰った者は、ただちに逮捕されてアルハンゲリスク近くの最も忌まわしい収容所であるソロフキ島とホルモゴールイに送られた。アナキスト系の史料によれば、ホルモゴールイに送られた五〇〇〇人のクロンシュタットの拘留者中、一九二二年春まで生き延びた者は一五〇〇人以下であった。同年、移送特別委員会は、事件の時要塞にいたというだけで、二五一四人のクロンシュタット市民をシベリアに送ったのだった!」(124頁)
『共産主義黒書』「クロンシュタット反乱者たちを集団溺殺」 「ドヴィナ河畔の
ホルモゴールイの収容所は、多くの収容者を手早く処分することで、悲しい名声
を轟かせていた。平底船で上陸した囚人は首に石を、両手に手枷をつけられて、
川に投げ込まれた。この集団溺殺は一九二〇年の六月に、ミハイル・ケドロフ
というチェーカーの指導者によって始められた。一致した証言によると、ホルモ
ゴールイに運ばれてきた多くのクロンシュタットの反乱兵やコサックやタンボフ県
の農民が、一九二二年にドヴィナ川で溺殺されたに違いなかった。」(124頁)
〔皆殺し対応データ2〕、ヴォルコゴーノフ『七人の首領・上』(朝日新聞社、1997年)が、「レーニン秘密資料」6000点、その他から、皆殺し対応データを発掘し、公表した。
「ボリシェヴィキの専横にたいしてクロンシュタット軍港の水兵らが蜂起したとき、レーニンは、騙された人たちの自然発生的な騒乱に過酷な弾圧の提唱者となった。クロンシュタットの要塞、あるいは艦船にいた、というただそれだけの理由で銃殺された。たとえば、一九二一年三月二十日、特別三人委員会(トロイカ)の会議で、戦艦ペトロバヴロフスクの水兵一六七人について審理された。三人委員会にひきだされた全員に、銃殺刑が言い渡された。判決はただちに執行された。翌日、同戦艦でさらに三二人が銃殺された。そして三月二十四日にはまたこの戦艦で二七人の水兵が銃殺された…。数十の法廷なるものが活動した。ぺトログラード県チェーカー非常委員会だけで、なんと二一〇三人の銃殺刑を言い渡している。昨日まで農民だった水兵や兵士たちが、党の専横に抗議の声をあげただけなのに(240)。
第七軍を指揮していたトゥハチェフスキーは、強襲の開始を命じた。明日中に戦艦ペトロバヴロフスクとセヴアストーポリを、窒息性ガスと有毒性爆弾で攻撃すべし(241)。しかし、窒息性ガスの到着が間に合わなかった……。
一九二一年夏までに二一〇三人が銃殺刑、六四五九人が刑務所拘留および流刑を言い渡された(242)。のちに、スターリンによってポリシエヴイキ的秩序が確立されると、流刑者たちはみんな銃殺されてしまった。
レーニンの権力は、テロと死刑なしにはやっていくことができなかった。暴力なしでは、権力はあっけなく崩壊したであろう。」(P.160)
(注240)、ロシア国家保安省文書保管所、クロンシュタット暴動関係資料、ファイル一
(注241)、ロシア国立軍事関係文書保管所、フォンド三三九八八、目録二、資料三六七、ファイル四〇
(注242)、ロシア国家保安省文書保管所、フォンド一一四七二八、クロンシュタット暴動関係資料、ファイル一−一五
〔皆殺し対応データ3〕、内田義雄・元NHK特派員は『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版、2001年)で次の事実を記している。生き残って、別のソロフキ収容所に送られた者も、収容所内の処刑システムで殺された。
『聖地ソロフキの悲劇』収容所の機関銃による虐殺 「一九二一年春のクロンシュタットの反乱
の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。その他コルチャーク将軍
指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがいた。連日
のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、
そのまま沈めて溺死させた。そのなかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで
岸に向かってくる者は、機関銃で容赦なく、撃たれた。それが何回も繰り返された。」(55頁)
レーニンは、クロンシュタット臨時革命委員会が採択した15項目の民主的要求と決起にたいして、白衛軍の将軍の役割と、真っ赤なウソをついた。これが、レーニンの恣意的なウソであったことは、アイザック・ドイッチャー、P・アヴリッチ、イダ・メット、ヴォーリンらが、歴史的事実として証明している。農民・労働者・兵士の総反乱による一党独裁政権崩壊の恐怖におののいたレーニン・政治局は、それだけでなく、クロンシュタット水兵・労働者14000人にたいして、反革命の豚・白衛軍の豚というレッテルを貼りつけ、鎮圧司令官トハチェフスキーに皆殺しを指令した。反革命の豚の殺し方が上記のようになるのは必然だった。
(表9) クロンシュタット事件の死傷者・処刑数の判明分
項目 |
クロンシュタット水兵・労働者 |
政府軍 |
||||
分類 |
人数 |
出典 |
分類 |
人数 |
出典 |
|
勢力 |
水兵 基地労働者 コトリン島他住民 |
10000 4000 31000 |
全文献 |
鎮圧司令官 攻撃軍、クルサントゥイ、共産党員軍など |
トハチェフスキー 50000 |
全文献 |
死傷 |
死者 負傷者 フィンランドに脱出 内帰国者 |
600〜数千 1000以上 8000 不明 |
アヴリッチと 『黒書』 |
死者 内代議員 負傷者 入院 内死亡 |
700 15 2500 4000 527以上 |
アヴリッチ |
鎮圧後の処刑 |
銃殺 内3月20日 3月21日 3月24日 銃殺刑 強制収容所送り ホモゴールイ収容所 内溺殺・虐殺 ソロフキ収容所 内虐殺 シベリア収容所 |
数百人 167 32 27 2103 6459 5000 3500 2000 全員 2514 |
アヴリッチと 『黒書』、ヴォルコゴーノフ 『聖地ソロフキの悲劇』 『黒書』 |
追放、バルト水兵と全海軍部隊 クロンシュタット・ソヴィエト |
15000 ソヴィエト閉鎖、復活させず |
アヴリッチ イダ・メットとアヴリッチ |
逮捕 |
社会主義活動家 メンシェヴィキ中央委員 内国外追放 |
2000 全員 12 |
『黒書』 |
|||
スターリン |
生残り流刑者銃殺・虐殺 |
全員 |
全文献、ヴォルコゴーノフ |
この(表)データは、あくまで判明分である。クロンシュタット事件については、レーニン、トロツキーの具体的皆殺し指令文書などを含め未発掘データがかなりある。彼らは、その証拠を隠滅・消却した可能性もある。というのも、ヴォルコゴーノフは「レーニン秘密資料」6000点を調べたとき、スイス長期亡命時点の資金関係データやドイツ軍封印列車で帰国したときのデータが、明らかに、レーニンの直接指令の下で、秘密資料ファイルから完全に抹殺されていた証拠があると、『レーニンの秘密』において証言しているからである。
クロンシュタット事件には、さまざまな名称を付けられている。日本語は、「反乱」「叛乱」「叛逆」である。英語では、やはり、主として「uprising」だが、「rebellion」もある。その他に、「the third revolution」がある。クロンシュタット事件の性格規定として、どの名称がふさわしいか。研究社の英和辞典で、その意味を見てみる。
(1)、「the third revolution」は、クロンシュタット臨時革命委員会機関紙、アナキストが名乗っている。クロンシュタット事件を、二月革命と「十月革命」に続く、第三の革命と位置づける見方である。水兵たちが、クロンシュタット・ソヴィエトの歴史的伝統から、その意気込みで決起したことは、納得できる。
(2)、「rebellion」は、不成功に終わった反乱、政府にたいする謀反を指す場合が多い。それにたいして、「revolution」は、革命、または、思想・社会の変革で成功したものを表す。アメリカ人アナキストで当時ペトログラードにいたベルクマンは、「rebellion」と規定している。決起したが、弾圧され、成功しなかった革命という意味である。
(3)、「uprising」は、反乱、暴動と訳されている。しかし、立ちあがる、起きるという「uprise」の名詞なので、クロンシュタット事件については、総決起という意味でも使われている。
A・Berkman『The Kronstadt Rebellion』英語版全文
Google検索『kronstadt』「uprising」名称が多い
日本語も、3つの英語も、クロンシュタット事件の名称として、その一面を表している。事件全過程の一部をみれば、間違いではない。しかし、事件の経過を厳密に検討すると、それらの名称でひとくくりするのは、事件の真相を正確に反映しないと、私(宮地)は考える。私なりの名称は、ファイル副題のように、「クロンシュタット水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応」事件となる。それでは長すぎるとなれば、「クロンシュタット事件」が適切でなかろうか。
(4)、P・アヴリッチの題名は「Kronstadt1921」で、ヴォーリンも「Kronstadt1921」である。イダ・メットの「The Kronstadt Commune」と同じく、題名としては、「uprising」「rebellion」を使っていない。3つの段階を総合的に表すのには、これらの名称がふさわしいと、私(宮地)は考える。
Ida Mett『The Kronstadt Commune』クロンシュタット・コミューンの英語版全文
その名称がいいとする根拠は、上記で分析したクロンシュタット事件の3段階の分類に基づいている。
第1段階、事前の不満・要求と抗議の5000人集団脱党、1921年1月〜2月26日
第2段階、クロンシュタット代表団の帰着と決議、平和的合法的要請、2月28日〜3月6日
第3段階、レーニンの皆殺し対応とそれにたいする防御的反撃、3月7日〜3月18日
第2段階の2月28日から3月6日の7日間、臨時革命委員会は、15項目綱領の平和的要請を、レーニン・トロツキーにたいしてしただけで、共産党独裁政権にたいして、いかなる武装蜂起・攻撃もしなかった。水兵たちは、政府との平和的交渉を望んでいた。レーニンが、その交渉に応じると、彼らが錯覚していたという言い方もできよう。
臨時革命委員会の設置と数人の共産幹部逮捕そのものが、反乱の開始ではないのかという問題がある。私の見解は異なる。そもそも、1921年2月時点、クロンシュタット・ソヴィエトは、共産党独裁機関に変質させられており、社会主義他党派はソヴィエト執行委員会から完全に排除されていた。クロンシュタットの他党派党員幹部は、逮捕され、監獄にぶち込まれたままだった。ソヴィエト執行委員や基地労働者の労働組合執行委員は、全員が共産党員によって占拠されていた。そこでの水兵・労働者の要求は、自由で平等な新選挙だった。しかし、共産党占拠のソヴィエトは、新選挙を受け入れるはずもなかった。すでに、ソヴィエトと労働組合が、共産党独裁で、水兵・労働者にたいする支配・抑圧機関に変質していた。それに対抗して、自由で平等なソヴィエト新選挙を行うには、クロンシュタット臨時革命委員会という別組織を設置するしかなかった。
クロンシュタットの水兵10000人・基地労働者4000人を支配し、抑圧する機関は、(1)バルト艦隊の共産党政治部、(2)共産党員に占拠されたクロンシュタット・ソヴィエト、(3)共産党員独裁のクロンシュタット労働組合、(4)共産党秘密政治警察のクロンシュタット・チェーカーだった。その最高責任者は2人だった。バルト艦隊政治委員クジミーン、クロンシュタット・ソヴィエト議長ワシリーエフである。彼らは、3月1日の16000人集会に参加したが、そこで15項目綱領に反対しただけでなく、挑発的な発言をした。その2人と数人の共産党執行委員を逮捕したのは、15項目綱領の要求を貫徹をする上で、やむをえない措置だった。
本当に共産党独裁政権打倒の武装蜂起・反乱をするのであれば、最初から、いくつかの常識的な作戦と体制をとったはずである。
(1)、決定的な証拠は、フィンランド湾の氷結が融ける4、5月でなく、5万人の政府軍が氷上を渡って攻撃できる2、3月に、15項目綱領を採択したことである。氷が融けていれば、軍艦2隻を含むバルチック艦隊が自由に動き、攻撃を阻止できた。食糧も確保できた。
(2)、政府軍からクロンシュタットへの砲撃基地となった南対岸のオラニエンバウムという戦略拠点を占領しようとしなかった。そこには、当時、クロンシュタット水兵支持の将校・赤軍がいた。そこに進撃していれば、コトリン島とオラニエンバウムという2つを拠点として、ペトログラード労働者の総決起と連携することができた。
(3)、クロンシュタットの外にいる社会主義他党派、外国亡命者、国外勢力からの軍事支援申し出が多数あったが、それらをすべて断った。そして、レーニンにたいして、平和的合法的な要請をするという姿勢を貫いた。たしかに、帝政将校のコズロフスキー将軍は、クロンシュタットにいた。しかし、それは、レーニン、トロツキーが、赤軍強化のための軍事路線として、旧帝政将校を軍事専門家として活用するという方針に転換し、彼らがクロンシュタットに砲術専門家として任命・配置したからある。トハチェフスキーも同じく旧帝政将校だった。コズロフスキーは、クロンシュタット事件において、何の役割も果していない。
第2段階2月28日から3月6日の7日間、臨時革命委員会の方針・行動実態は、武装反乱・蜂起ではない。その性格は、自由で平等な新選挙を求めるという平和的合法的な要請だった。臨時革命委員会は、逮捕した共産党幹部数人を含め、誰一人殺さなかった。クロンシュタットには、共産党員が、水兵5000人の集団脱党後も、まだ2000人いた。共産党員の彼らは、自由に行動できた。それだけでなく、そのほとんどが、臨時革命委員会を支持し、自由で平等なソヴィエト新選挙の実現を目指して積極的に活動した。それは、転載ファイルの5人や資料ファイルの数人が、さまざまなデータで証言している。とりわけ、ヴォーリン『クロンシュタット1921年』が、手紙11通を載せ、生き生きとした情景によって、それを証明している。
ヴォーリン『クロンシュタット1921年』反乱の全経過、手紙11通
第3段階の3月7日、レーニンは皆殺し対応を選択した。そして、トロツキーは砲撃命令を下した。彼らは、ペトログラード労働者の山猫ストライキ武力鎮圧とストライキ指導者500人即時銃殺と同じく、一度も臨時革命委員会と平和的交渉をしようともしなかった。軍事人民委員トロツキーは、旧帝政将校トハチェフスキーを皆殺し作戦の指揮官に任命した。3月18日までの11日間、臨時革命委員会とクロンシュタット水兵・労働者たちは、降伏しなかった。戦いの性格は、防御的反撃のレベルであった。トハチェフスキー指揮の5万人は、(1)遠隔地から急遽動員された赤軍・(2)共産党員軍・(3)共産党士官学校生徒(クルサントゥイ))軍で構成されていた。
クロンシュタット攻撃を命令された赤軍兵士たちは、15項目綱領内容を知りたがった。革命の栄光拠点のクロンシュタット水兵を皆殺しにせよという命令にたいして、革命仲間の赤軍は動揺した。ペトログラード近辺の赤軍兵士は、部隊丸ごとで出動を拒否したり、氷上攻撃中にクロンシュタット側に寝返った。そこで、トロツキーとトハチェフスキーは、寝返る赤軍部隊を、背後から機関銃で、全員射殺するよう命じた。フィンランド湾の氷上には、クロンシュタット側の防御的反撃で撃たれた赤軍兵士とともに、寝返ろうとして背後からの機関銃で味方に殺された兵士たちが、入り混じって倒れていた。
砲撃開始の翌日3月8日から、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)第10回大会が開かれた。レーニンは、冒頭で、クロンシュタットについて、「白衛軍将軍の役割」と真っ赤なウソをついた。そして、党大会代議員から300人を、攻撃軍5万人部隊のコミサールとして、急遽派遣した。彼らは、レーニンのウソを宣伝しつつ、白衛軍の豚を皆殺しにするよう政治宣伝活動を行った。それと同時に、彼ら共産党政治委員たちは、攻撃軍部隊の動揺阻止、寝返り兵士射殺の任務も遂行した。派遣された代議員の内、15人が死亡した。
5万人は、コトリン島の四方から氷上を突撃して、市街戦になってもたたかった水兵・労働者を虐殺した。レーニンによる皆殺し対応の実態は、上記(表9)や2枚の3DCGの通りである。水兵・労働者たちは、防御的反撃をする中で、ペトログラード労働者が連帯して総決起しないかと、待ち望んだ。しかし、レーニン、ジノヴィエフの鎮圧・完全分断作戦によって、第3段階の3月7日までに、ペトログラード労働者の意気込みは粉砕されていた。
イダ・メットは、この全過程を、「last upsurge of the Soviets」=ソヴィエト最後の高揚と規定した。このペトログラードとクロンシュタット1921年におけるレーニンの大量殺人によって、ソヴィエト民主主義復活の最後のたたかいは、息の根を止められた。レーニン、トロツキー、ジノヴィエフらによるソヴィエト権力簒奪クーデターは、ついに完全な成功を収めた。そして、ソヴィエト社会主義共和国連邦=ソ連邦というソヴィエト民主主義を破壊し、プロレタリア独裁の名前を騙った共産党独裁体制が、1991年ソ連崩壊まで、70年間続いた。
1920、21年において、レーニンという人物がしたことと、その人間性をどう考えたらいいのか。ボリシェヴィキ党員作家ザミャーチンは、ゴーリキーとともに、ソ連文壇の中心で活動していた。その中で、彼は、モスクワ・ペトログラード労働者の山猫ストライキ、クロンシュタット総決起とレーニンによる皆殺し対応、共産党秘密政治警察チェーカーの手口を全体験した。同時期・同現場で、その直接体験をSF小説化した作家は、ザミャーチンしかいない。ソ連崩壊後、彼のレーニン認識を再確認するとどうなるのか。
レーニンは、自ら、「鉄の手で社会主義を建設しよう」というスローガンを創って、キャンペーンを展開した。上記全体の誤りと、全分野における民主主義抑圧者に変質した、最高権力者レーニンの一側面は、歴史上でひた隠しにされ、偉大なマルクス主義者レーニンの虚像が作られていった。レーニンは、巨大な鉄の手をセットした絶対的権力者として、反民主主義・赤色テロル型一党独裁システム維持・強化に固執する中で、絶対的に腐敗した。ザミャーチンは、「自分自身を押しつぶし、膝を折って」という言葉で、レーニンの腐敗状態を文学的に表現した。彼は、「その方の巨大な鉄の手」と書いて、レーニンのスローガンを否定しただけでなく、レーニンを殺人者と規定した。
『われら』 「恩人は、ソクラテスのように禿げた頭をもった男で、その
禿げた所に小さな汗のしずくがあった」「その方の巨大な鉄の手は、
自分自身を押しつぶし、膝を折ってしまっていた」「明日、彼ら(反逆
者)は、みな恩人の処刑機械に至る階段を昇るであろう」(299頁)
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
山内昌之『革命家と政治家との間』−レーニンの死によせて−
7、クロンシュタット反乱参加者の名誉回復
これは、『新版・ロシアを知る事典』(平凡社、2004年)における「名誉回復」項目の抜粋(P.742)と富田武からのメール回答である。旧版ではなかった「ソ連解体以後」の部分を、富田武が執筆担当をしている。ただ、名誉回復の根拠は、『事典』に書かれていない。歴史の評価が、クロンシュタット水兵1万人・基地労働者4千人は反革命分子でなく、いわゆるクロンシュタット反乱とは、正当な15項目綱領に基づく、ソヴィエト内の合法的な要請行動だったと逆転した。
となると、(1)それにたいして「白衛軍将軍どもの役割」と真っ赤なウソをつき、(2)彼らに「白衛軍の豚」というレッテルを貼りつけ、(3)上記のような殺し方で皆殺しをさせたレーニンの評価はどうなるのか。レーニンの方こそ、ソヴィエト権力の簒奪者であり、ソヴィエト機構をボリシェヴィキ一党独裁権力に変質させた軍事クーデター指導者だったことになる。現在のロシア歴史学会では、十月の規定として、それを、十月プロレタリア社会主義大革命などでなく、レーニン・ボリシェヴィキによる単独権力奪取の軍事クーデターだったとする見解が、主流になってきている。
ただ、この名誉回復決定は、下記メール回答にあるように、エリツィン政権独特の政治的思惑も含む。
富田武『Professor Tomita's Platform』ソ連政治史、コミンテルン史
[ソ連解体以後]名誉回復の対象は、共産党解散・ソ連解体とともに、レーニンの下での弾圧の犠牲者にも及ぶようになった。〈政治弾圧犠牲者の名誉回復に関するロシア共和国法〉に基づき、従来〈反革命分子〉とされていたクロンシタットの反乱参加者が、94年1月の大統領令で名誉回復された。また、内戦期に大多数が〈白衛軍〉についたとされるコサックは、91年8月クーデター前に採択された〈被弾圧諸民族の名誉回復に関するロシア共和国法〉の適用を受けて、92年6月の大統領令で名誉回復された。この法に基づいて、第2次世界大戦中に対独協力の疑いでシベリア等に強制移住されたチェチェン人、イングーシ人、ヴォルガ・ドイツ人や、大戦前に対日協力の疑いでシベリア、中央アジアに強制移住(民族強制移住)させられた朝鮮人も名誉回復されている。(富田武)
〔名誉回復問題について、富田武氏への私(宮地)のメール質問〕
(1)、クロンシュタット反乱者の名誉回復にいたる経過と、名誉回復理由
(2)、コサックの名誉回復にいたる経過と、名誉回復理由
に関して、分かる範囲で教えて頂けないでしょうか。(なお、返事のHPへの転載の了解を頂いています)
〔富田武氏からのメール返事の全文〕
宮地さん、とりあえずのお答えをします。富田武。
1)、コサックの名誉回復について:コサックはヴォルガ・ドイツ人、チェチェン人等と並べられる民族ではなく、ロシア人だが独特の歴史と文化、風俗を持つため「民族」の扱いを受けたと言えます。その名誉回復はコサック自身の運動によるものですが(モスクワでも祖父譲りの制服をまとった彼らをよく見かけました)、そこにロシア民族主義の尖兵として使いたいというエリツィン政権の思惑が働いたことは言うまでもありません。ちなみに、1992年6月15日の大統領令では「コサックに関わる歴史的公正の回復、歴史的に形成された文化的・民族的一体性をもつ集団としての名誉回復を目的とし、コサック復興運動代表者のアピールに応えて」となっています。
2)、クロンシュタット反乱参加者の名誉回復:こちらには名誉回復の運動はありませんでしたが、十月革命そのものを不当な権力奪取とみる(二月革命のブルジョア議会コースが望ましかったとする)エリツィン政権にしてみれば、水兵たちの要求(ボリシェヴィキ抜きのソヴィエト)の正当性を認めたのではなく、共産党の歴史的不当性を照明するためでした。ちなみに、1994年1月10日の大統領令では「1921年春のクロンシュタット市における武装反乱の廉で弾圧されたロシア市民の歴史的公正、法的権利を回復するため」とあり、具体的には、1921年3月2日の労働国防会議決定第1項(コズロフスキーもと将軍と部下を法の保護外におく)を廃止し、水兵らに対する弾圧を不法な、基本的人権に反するものと認め、事件犠牲者の記念碑をクロンシュタット市に建立するという3つの措置を決めました。
*労働国防会議決定第2項「ペトログラード市とペトログラード県を戒厳状態に置く」、第3項「ペトログラード要塞地区の全権をペトログラード市防衛委員会に移管する」。
なお、両者とも詳細な資料集が1997年に刊行されています(前者はまとめてではなく、ドン地方の『ミローノフ』など)。
(関連ファイル)
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』
ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との関係
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版
P・アヴリッチ
『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット 『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
ヴォーリン 『クロンシュタット1921年』反乱の全経過
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
大藪龍介
『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱
中野徹三
『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散
梶川伸一
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
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