メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏
メーデー事件裁判元被告・滝沢林三
〔目次〕
1、メーデー事件における早稲田大学1千人部隊の表と裏 (手紙全文)
1、別働隊のこと
三、各論論告の政治性と虚偽 (全文)
四、結論 (抜粋)
3、滝沢林三略歴
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『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
大金久展『「神山分派」顛末記』早稲田細胞と神山分派
長谷川浩・由井誓『内側からみた日共’50年代武装闘争』対談
由井誓
『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』早稲田独立遊撃隊
宮島義勇『中国密航と50年8月・周恩来との会見』北京機関・武装闘争の結論
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊第一支隊」
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』
(宮地注とコメント)
滝沢林三氏は、メーデー事件当日、人民広場突入をした早稲田大学一千人部隊の副指揮者でした。彼は、逮捕された早稲田学生8人の中で、唯一メーデー事件裁判で起訴された元被告です。『滝沢最終意見』にあるように、その8人中、2人は、警察・検察の誘導に屈服して、彼を告発する検察側証人になりました。
当時の早稲田大学細胞は、日本共産党の学生細胞において、最大の党員数を持ち、首都における影響力も強力でした。1952年当時の情勢で、日本共産党は、宮本顕治らの国際派がスターリンの「宮本らは分派」という裁定に屈服し、主流派に自己批判書を提出したことにより、“統一回復”をしていました。スターリン・徳田・野坂の「51年綱領」、四全協・五全協の武装闘争方針に基づき、日本共産党の組織は、表の「臨中」と裏のビューロー・軍事委員会という二重組織になっていました。早稲田大学細胞も同じく、表の部隊と、裏“Y”の早稲田独立遊撃隊・山村工作隊に分かれました。ただ、すべてが主流派ではなく、神山派も存在していました。
メーデー事件は、共産党の軍事方針・武装闘争の実践における最大の武装闘争行動でした。メーデー事件の広場突入指令問題と人民広場における戦闘については、別ファイルで書きました。滝沢氏は、表側の共産党員で、早稲田細胞の決定で副指揮者になりました。早稲田細胞の裏側”Y“の人数は、不明ですが、メーデー事件で誰一人として逮捕された裏側の党員はいません。50数年後の今日でも、軍事委員会の指令による行動を話そうとしません。「死ぬまで話せない」と言う党員もいます。私(宮地)は、このファイルに『早稲田大学1千人部隊の表と裏』という題名を付けましたが、以下の内容は、表のメーデー事件元被告の話です。別ファイルの由井誓氏は、裏側の早稲田独立遊撃隊員ですが、当日における自分の「アカハタ」売りの別働隊行動しか書いていません。
〔目次1〕は、滝沢氏から私(宮地)が受け取った手紙の全文です。ここに、裏側の一端が書かれています。〔目次2〕は、メーデー事件裁判における滝沢氏の最終意見です。警察・検察側の権力犯罪を、彼個人の例できわめて具体的に告発し、論証しています。手紙文中の6枚の写真は、『広場の証言―写真で見るメーデー事件―』(1972年、絶版、法廷に提出した証拠写真)から5枚、『メーデー事件写真集』(1967年、メーデー事件被告団、絶版)から1枚をコピーしたものです。これらの手紙、文書を私(宮地)のHPに転載することについては、滝沢氏の了解をいただいてあります。
1、メーデー事件における早稲田大学1千人部隊の表と裏 (手紙全文)
拝復 七月三日付けの貴殿のはがきを七月五日に受け取りました。後述のような事情で、ご要望に応えられますどうか少し首を傾げましたが、吉田嘉清氏からこの件で電話を頂いておりますので、いくつかの資料を同封の上お返事を差し上げることにしました。メーデー事件前後の表部隊での私の行動については同封の資料『メーデー事件裁判各論に関する最終意見』と貴殿が既にお読みになった『メーデー事件と私』(註)にあらましのことは述べてあります。裏の組織に関しては、メーデー事件当時、私は党規約に規定のない党員候補扱いで、その頃「Y」という党内用の隠語で呼ばれていた軍事方針・軍事委員→中核自衛隊のことは一切知らされていませんでした。ただYに属していると推定できる幾人かの早大細胞の人間から非公式にいろいろな情報を耳にしていました。
(註)、小論『メーデー事件と私』は、二年毎に開催されている山形ドキュメンタリー映画祭の一九九三年度版のパンフレット『日本ドキュメンタリー映画の躍動・六〇年代』に所収されたものです。
1、別働隊のこと
早大の何人かから事件のずっと後になって聞いたところによりますと、五十人くらいが代々木の党本部に集合して本隊とは別行動をしました。当時早大一法四年生だった角田成雄君(註)によると、別行動の主な役目は総評の指定する各コースのデモの解散地で散会する人たちを呼び集めて人民広場へ誘導することだったと言います。
(註)角田君は、共産党の新宿地区委員、いいだ・もも等の共産主義労働党の活動家を経由してその後、不動産屋の業界紙を一人でやりながら埼玉県比企地方の方言の収集をしていましたが、いつの頃からか高名な右翼系の同和団体・東日本同和会の機関誌『曙』の編集長となっていました。
共産党員で私の検事側証人となった柴田嘉彦君は、総評本部勤務の後、名古屋にある社会福祉大学の教授となりましたが、彼の自供によれば彼も別動隊の一人でした。吉田嘉清さんもよく知っている千原靖雄君や故由井誓君が別働隊であったことは確かと思われます。
一九五二年五月一日、第二十三回東京中央メーデーは皇居前広場の使用許可が得られなかったために、神宮外苑を会場にして開催されました。この日、人数不祥の多数のデモ隊員が突然演壇に駈け上がる異様な騒動が巻き起こりました。(演壇のマイクを奪って「人民広場に行こう」と呼び掛けようとしたものと推測されます)。いったい何人が誰に指令して演壇占拠事件を引き起こしたのかは、長い裁判を経た後も今だに不明のままです。騒擾罪として起訴されたメーデー事件は、事実審理の対象を原則として広場内で起こった事実に限定したからです。
今回、吉田嘉清氏からの電話で、貴殿がメーデー事件のことで私に電話してくるかもしれないと聴いた後、親しい友人で元メーデー事件被告のT君にその辺のことを尋ねてみました。彼の話では、彼も演壇占拠のことは事前に知らされていたとのことです。(それ以上の詳しいことは語りませんでした)。T君は事件当時、東大駒場の自治会委員長で(全)東大デモ隊の副指揮者でしたが、保釈で出所した後は数年間、被告団事務局の仕事を仕切っていました。
次に早大デモ隊の隊列の話ではありませんが、裏の組織と関係があるのではないかと想定される早大関係者を二人挙げることができます。一人は元メーデー事件被告のM君(一文)です。私が監督・編集をした映画『メーデー裁判』(一九七〇年製作)にも編入されていますが、馬場先門から広場に入ったデモ隊のトップ集団は三多摩地区ブロックでした。その先頭のど真ん中にM君の姿があります。彼の周囲ではプラカードを壊して角材代わりにした屈強な青年たちが気勢をあげています。M君は広場「突入」の事前計画を上部機関からある程度まで知らされていたものと思われます。
馬場先門に向うデモ隊 デモ隊の先頭は隊列の横幅を広げ、竹竿を横にして
車道上を馬場先門に向って行進した。写真の一段高くなっているところは
都電の停留所で、屋上に旗の立っている後方の建物が米軍司令部である。
もう一人はT君(一文)です。彼は五〇年当時武井昭夫全学連委員長の下で副委員長をしていましたが、五一年九・三建議の後(主流派の)党に復帰し、五二年四月から早大に顔を出し始めたばかりでした。ここからの話は一足飛びにぐんと飛びます。一九八〇年前後のこと、早大学生運動OB三十数名くらいが吉田嘉清さんらを中心に和田君(通称・髭)夫婦が四つ谷でやっていた飲み屋「縄のれん」に集まった時に一文出身のK君(五〇年の党分裂当時は私と同じ神山派)がアルコールの入った目でT君と面と向き合って「君はメーデー事件の時、自動車に火を付けていたな。私は現場で見てたんだよ」と穏やかでない目付で言いました。T君はその時ややうろたえたような感じで否定も肯定もしませんでしたが、私がその場を適当にとりなしました。ことの真偽はその二人が知るのみですが、広場内の騒動を尻目に見ながら、日比谷公園側の道路サイドに駐車してあった車を手際よく次々に引っくり返して火を付けていくためには、事前の訓練が必要です。それには当然それを指揮した裏の組織があったはずです。
自動車への放火 あまりにも残虐な弾圧に憤激した一部の人びとは、米軍
司令部前に並んでいたアメリカ軍の自動車に火を放った(午後3時50分頃)
メーデーの数日前、活動者会議が文学部地下のどこかの部室で行なわれました。議長は細胞キャップの榊原喜一郎君。その席で指揮村本君、副指揮滝沢の役が決まりました。メーデー当日の行進プランに関しては「人民広場へ行く」と漠然と決めただけで、今にして思えば不思議なことに、それ以上は何一つ討議されませんでした。これは過去を振り返っての推測ですが、四全協、五全協で軍事方針が決定されてからは、非公然活動や非合法活動が当たり前とされていたので、会議参加者の間では、人民広場へ行く行進プランは上部のどこかの組織がちゃんと決めているんだろうという暗黙の了解が成り立っていたのだと思います。ただ、その時榊原君か誰かが「当日は、警官隊を分散させるために新宿や都内の各所で小規模の集会やデモ行進を行なう計画がある」と語っていました。しかし事件の後の裁判の証拠調べの中で、メーデー当日都内各所で小規模の集会やデモが行なわれたという事実は出てきていませんので、この情報は日本共産党の側が警察首脳の警備計画を混乱させるために、わざと誤った情報を流したものだったのかもしれません。
私はメーデー事件の裏の組織とその指揮系統について誰からもまとまった話を聞いたことがありません。その種の組織が実在したことは疑いありませんが、刑事裁判の上では伝聞証拠は証拠能力がないとされていることも勘案して、ここでは裏の組織の存在を推定するに至った私自身の直接体験を二つ記述したいと思います。
体験1
同封の資料(1)『メーデ事件裁判各論に関する最終意見』十四頁【補注3】に記載した都学連執行部の佐藤君(早大文学部)は、馬場先門コースを進んでいた早大デモ隊の後半分(政経学部が主体)を早大副指揮者の私に何の連絡もせずに切り離して祝田橋コースへ回してしまいました。(早大の隊列の実質的な指揮は私がとっていて、総指揮の村本君は早大隊列の先頭を歩いていただけで、大混乱の中で彼は何の役にも立ちませんでした)。
私は広場内を駆け足で進む早大デモ隊(前半分)の最後尾に付けて絶えず後方を気にしながら、活動家を一人、また一人と二回後方に探索に行かせました。しかし広場にいる間中何の情報も得られませんでした。佐藤君が誰からどういう指示を受けていたか知りませんが、彼のしたことは、団体行動の基本原則も現場の常識も全く無視した無茶苦茶としか言いようのないやり方です。私は事件の十カ月後に保釈出獄してから佐藤君に会って事情を聴こうとしましたが、事件の後、彼の消息は活動家の誰に聞いても分からず、早稲田にも顔を出していない様子でした。事件当日彼に指示を与えた傲慢不遜な組織と、事件の後彼の消息を不明にした組織とは同一の裏の組織であると断定してよいと思います。
体験2
同封の資料(2)『広場の証言−写真で見るメーデー事件−』二十四〜五頁と資料(1)『メーデ事件裁判各論に関する最終意見』十四頁の社会タイムスの記事を交互に参照しながら以下の文章をお読みください。と言いますのは、社会タイムスのこの記事にあるデモ隊の指揮者というのは事件当日の前後の事情からして明らかに私・滝沢林三を指しているからです。
馬場先門から広場に入り二重橋前に到着して一息いれていたデモ隊の先頭集団は、突然武装警官隊の襲撃に遇いました。デモ隊側は、石を投げ付けたり、プラカードを壊して作った角棒で抵抗した一部のデモ隊員を例外として、他は一目散に退却しましたが、先がつかえて転倒する者が続出し、棍棒のあらしと催涙ガスにやられて、警官隊の思うがままに蹂躙されました。早大の隊列は雪崩を打って退却してくる先頭部隊にあっというまに巻き込まれてしまい、ちりぢりばらばらになってしまいました。
資料(2)『広場の証言』二十四頁の写真は、下記の説明文のとおりです。
「警官隊は二重橋前からガス弾や拳銃弾を発射し、棍棒で暴行をふるいながらデモ隊を追って中央自動車道路の手前まできて停止した。」
中央自動車道路をはさんで 祝田橋から入って左側にある芝生を銀杏台上の島といい、
右側にある芝生を楠公銅像島という。警官隊は二重橋前からガス弾や拳銃弾を発射し、
棍棒で暴行をふるいながらデモ隊を追って中央自動車道路の手前まできて停止した。
デモ隊員の中には逃げた後そのまま帰路についた人も少なくなかったようです。しかし戦う意志の強いデモ隊員たちは、この後警官隊が停止して中央自動車道路の二重橋寄りに阻止線を張ったのを見て、同じ道路の東側の芝生上に三々五々集まってきました。この時、私は誰か指揮者が前に出てデモ隊の再結集を呼び掛けるにちがいないと思っていました。ところが前に出る指揮者は一人もいないのです。そのことから察するに広場に入った後どうするかという計画は誰も立てて来なかったらしいのです。しかし、早大の副指揮者である私は早大生のデモ隊員に対して広場内でこの後どうするべきかを指示する責任があります。
私は恐怖心を振り払ってただ一人前に出て、道路の真ん中に立ちました。眼前には横長に散在するデモ隊員の姿があり、目に入らない背面には阻止線を張って立ち並ぶ警官隊の姿があります。気合いを入れて大声を張り上げ「早稲田は集まれーっ」と何回も叫びました。(その時の情景が資料(2)『広場の証言』二十五頁の写真です)。すると、ほとんどのデモ隊員たちは指揮者の登場を首を長くして待っていたらしく、早大生だけでなく他の大学の学生たち、さらには一般のデモ隊員たちも続々と集結してきました。
楠公銅像島のデモ隊 楠公銅像のある芝生上に後退したデモ隊はそこで
でちりじりになった仲間を探しあうとか、負傷者の手当てをするなどしな
がら中央自動車道路をへだててならんでいる警官隊とにらみあうような
状況となった。(滝沢注)中央自動車道路の線で再結集しはじめた早大
生のデモ隊員たち。ほぼカメラの中央位置に副指揮者の滝沢が立って、
「早大生は集れ」と叫んでいた。プラカードの肖像は、故大山郁夫教授。
この時のデモ隊の中には明らかに異なった二つの潮流がありました。号令に従い集結する多数のデモ隊員たちと、隊列から飛び出して警官隊に石を投げ付ける少数のデモ隊員です。私は石を投げている人たちに向かって、「石など投げて警官を挑発していないで、隊列に入ってくれ。解散大会をやるんだ」という趣旨のことを懸命に呼び掛けました。しかし石を投げている人たちは全く耳を貸そうとしません。私には、彼らは解散大会を開くことなど念頭になく、もっぱら警官隊と衝突するのが目的でそうしているとしか思えませんでした。
そうこうしているうちに、私のところへ伝令が二回駆け寄ってきました。一回目の伝令は「ただ今、南部のデモ隊が祝田橋に到着しました」という趣旨の報告、二回目の伝令は「南部のデモ隊は祝田橋の阻止線を突破して、こちらに向かっています」と。二人とも報告を告げるやいなや慌ただしく走り去っていきました。おそらくリーダーと見られるあちこちの人間に同じことを報告するため走り回っていたものと思われます。このこと一つとってみても、メーデー当日は表の部隊とは別に裏の組織が暗躍していたと認定することができます。
この後、先に馬場先門から広場に入った中部コース組と祝田橋の阻止線を突破して広場に入った南部コース組が合流してデモ隊は大部隊にふくれ上がりました。その間の状況は、資料(2)『広場の証言』三十〜三十三頁の写真に写っています。この大部隊は再び警官隊と対峠しますが、ここでもデモ隊の前に立つ指揮者は誰一人現れませんでした。しばらく対峠している間に投石する者やら、角材を槍のように掲げて警官隊に向かって気勢をあげる者やらが部分的に動いているだけで、他の大多数のデモ隊員は空しく時を過ごすだけだったのです。すでに早大の隊列は影も形もなくなってしまい、私は全体の指揮者はいないのか、指揮系統はどうなっているのかと内心いらだちながら、いたずらに立ちんぼをしているだけでした。そうしているうちに数千人のデモ隊員は無残にも警官隊の第二次総攻撃に曝されてしまったのです。
南部のデモ隊、解散集会へ 楠公の芝生上のデモ隊が銀杏台上の島にうつって
きてから、銀杏台の島に集まっていた南部のデモ隊に対し、『解散集会をひらく
から上の島の芝生に集まる』よう連絡が出された。南部のデモ隊は二重橋前
広場に通じる砂利道を横切ってぞくぞくと上の島に集まってきた。既に上の島
のデモ隊は整列を終り、南部のデモ隊(写真手前)は集合中である。
警官隊の増強 その頃、警官隊はぞくぞくと増強され、その数は一千数百名と
なった。写真後方に見える屋外ステージのようを建物は五月三日の憲法発布
記念日に天皇や総理大臣などが出てきておこなう式典の建物である。
当時は在日朝鮮人の共産主義者はコミンフォルムの一国一党の組織原則にもとづいて日本共産党に所属していました。そして五二年メーデーの時には朝鮮戦争の休戦協定はまだ締結されておりませんでした。在日朝鮮人の共産党員および朝鮮系日本人(日本国籍の朝鮮人一世・二世…)の共産党員たちが、メーデー事件当日、広場内の戦いで最も戦闘的であっただろうことは十分推測できます。その当時は世界中の左翼陣営に属するほとんどの人は、朝鮮戦争の放火者はアメリカ軍であると固く信じていたからです。しかし実際は全く逆であって、今では戦争放火者は金日成の北朝鮮軍であることが完膚無きまでに立証されています。それはそれとして、戦闘的であることは必ずしもその戦いの進め方すなわち戦術が正しいことの証明にはなりません。戦闘的と言われる闘争の中には俗に極左冒険主義とか一揆主義と呼ばれている闘争形態も含まれるからです。
上述の経過を分析すれば、裏の組織の指揮者はデモ隊を広場に突入させて警官隊と激突させ、皇居とGHQの真ん前で大騒動を起こし内外を震撼させるという誇大妄想的な構想をもっていただけで、広場内でメーデーの解散集会を開くことは全く考えていなかったと私は推定します。つまり彼らには皇居前広場をメーデーのために実力で開放することの意義、憲法第二一条が規定している「集会・結社・表現の自由」を守る権利闘争のもつ重大な意義が全く分かっていないのです。つまるところ、残虐な独裁者スターリン・毛沢東・金日成路線の上に乗っかって軍事方針なるシロモノを担ぐような日本共産党のリーダーたちには、日本民族としての独立の気概も体制を変革する知恵と指導力も期待することはできないということです。
滝沢林三
二〇〇三年七月九日
宮地健一様
滝沢林三
前置き (略)
一、早稲田大学学生のデモ隊が人民広場に入った理由 (略)
二、権力犯罪としてのメーデー事件 (略)
三、各論論告の政治性と虚偽 (全文)
四、結論 (抜粋)
メーデー事件のきわめて高度の政治性、権力犯罪としての性格は、事件以後における逮捕と訴追さらに公判の審理過程のなかにも貫徹しています。私に対する訴追と検事の諭告も例外ではありません。
以下、私に対する各論論告と早大におけるメーデー逮捕者の場合とを検討することによって、捜査段階以降における権力犯罪の実態を追及することにします。まず、早稲田大学の学生デモ隊員として逮捕された人たちが、どんな人たちであったのか、私が知り得た範囲の人たちを見てみることにします。
小林 秀雄 文学部 歴史研究会幹事
三上 登 文学部 ソビエト研究会幹事
五十嵐建吉 文学部 文学研究会幹事・早稲田大学文化団体連合会幹事
伊佐地(名前不祥) 理工学部 厚生会(注・アルバイト学生の事業体)幹事
平野 義政 政経学部 社会科学研究会幹事 (故人・マル経学者平野義太郎の長男)
柴田 嘉彦 政経学部 社会科学研究会幹事 (検事側証人、総評本部職員→社会福祉大学教授)
福間 安弘 第二文学部 所属団体不明 (検事側証人)
この最後の二名は私に対する検事側証人となっています。これらの人たちは、みな戸塚署もしくは早稲田署に留置された後、起訴にならずに釈放された人たちです。この他にもあるいは逮捕され釈放された人たちがいるかと思いますが、わたしが知り得たのはこれだけです。そして、早大のデモ隊員のなかから起訴されたのは、当時第一法学部四年生だった私一人であります。
当日、千名以上参加したと思われる早稲田大学のデモ隊のなかからわずか十名足らずのこれらの人たちが、どういう基準によって選び出されて逮捕されたのでしょうか。これらの人たちは、当日広場内でどうしたとか、あるいは広場に向かう途中でどうしたとかいうことは、恐らく何の関係もなく逮捕されたとしか思えません。
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【補註1】 (二〇〇二年三月記す) メーデー当日の早大デモ隊の総指揮者は文学部の村本君、副指揮者は私・滝沢であった。村本君は腕に『指揮』の腕章を、滝沢は『副指揮』の腕章を巻いていた。事件当日の夕刻近くに早大の構内で見た村本君の額には包帯が巻いてあり、朧げな記憶だがその包帯には薄く血が滲んでいた。事件後まもなく彼の姿は学内から消えた。しかし、広場で頭に負傷した総指揮者の村本君にその後逮捕状が出た形跡は全くない。この事ひとつをもってしても、警察のメーデー弾圧の主たる目的が広場内の違法行為の追及よりも活動家を逮捕して大衆運動を破壊することにあったことがはっきりわかる。
村本君は、早大在籍中の源田空将の娘と結婚した。その後、消え失せた。後日、榊原君か次の細胞キャップのどちらかが、「村本は死んだ」と言った。「死んだ」の意味は「組織との関係が切れた」という意味。
メーデー事件の裁判は、広場に入ったデモ隊員は全員が騒擾事件の被疑者なので、デモ参加者のなかから弁護側証人を申請するにも、その証人が逮捕される恐れがあるため被告・弁護団側は証人申請の問題で大変苦労をした。最終弁論の時点では証人逮捕の恐れは実際問題としてなかったのだが、諸般の事情を考慮して村本君の名前は最終意見陳述の段階においても伏せておいた。
私は、事件の後も早大細胞の指示があって、早大に登校をつづけた。六月十日に早大で開催された破防法粉砕全都学生総決起大会の成功のために全力をつくした。その間警察の尾行は執拗をきわめた。大学当局は無許可集会の責任を問い、政経から榊原喜一郎、文学部から土本典昭、法学部から滝沢林三の三名をピックアップして無期停学処分に付した。私は下宿から迂回してきた大学の通知を入手し、指定日の七月十七日に法学部に出頭、一又教授(教務主任)から処分の通告を受け、その場で抗議をした。そして、中一日置いた七月十九日の朝、西池袋の立教大学近くの街頭で戸塚署の私服警官二名によって逮捕された。
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警察の逮捕の理由は、逮捕された学生が所属していた研究会や団体の名前がそれを示しています。ただし、彼らの所属した団体のなかに学生自治会の名が見当たらないことは、全学連が全国学生自治会総連合の略称であることを知っている人ならば、きっと奇妙に思うに違いありません。しかし、それは奇妙でも何でもないのです。当時、早稲田大学の学生自治会は、一九五〇年のレッド・パージ反対闘争で閉鎖されて以来存在していなかったのです。そして、先にあげた人たちが所属していた団体すなわち歴史学研究会やソビエト研究会、文学研究会、厚生会、社会科学研究会といった団体が他の団体とともに学生自治会再建運動の実質的な推進母体となっていたのです。私もまた当時学生自治会再建のために活動していた学生の一人でした。この後で述べる私の検事側証人福田、柴田逮捕のデタラメぶりとを考え合わせるならば、早大におけるメーデー事件の逮捕は大衆的な学生運動を弾圧することを目的として行われたことが、自ずから明らかとなってきます。
早稲田の学生運動の弾圧を担当している戸塚警察署は、大学当局の手先と一体となったスパイ活動によって学生自治会再建の動きを事前にキャッチしていたものと思われます。そして戸塚署と早稲田署は、互いに功を競いあって早大の学生活動家を逮捕し、メーデー事件を学生運動を弾圧する絶好の機会として利用したのです。当時逮捕された学生たちのなかに、メーデー事件に関してはほとんど何も聞かれず、もっぱら学生運動の内容について聞かれたという人が少なからずいることは、そのことをさらに裏付けしております。
私自身、戸塚署に留置されていた約五〇日間、警察官の取り調べのなかで、メーデー事件について何か聞かれた記憶は全くありません。たとえ私が黙秘権を行使していたにせよメーデー事件について一言の問いも発しないというのは異常なことと考えます。実際、私を起訴した佐久間検事は、私が黙秘していたにもかかわらず、メーデー事件に関していくつかの問いをしています。
戸塚署で主として私を訊問したのは、当時の公安主任木内警部補でしたが、一度だけ公安部長と称する男の前に連れ出されたことがありました。しかし、彼ももっぱら他の学生運動の活動家のことを話題にして、学生運動に関する私の見解を聞き出そうと空しい努力をしただけで、メーデー事件に関しては、やはり一言の問いも発しませんでした。警察が私を逮捕した最大の狙いが早大における大衆的な学生運動の破壊にあったことは、私自身の体験によってもわかるのであります。そして、まさにこのことこそが、先に述べた馬場検事正の訓示を捜査の段階に適用した際の具体的内容なのです。メーデー事件の権力犯罪としての本質は、こうした捜査の段階において、もっとも集中的に現れているのであります。
さて、前に述べました通り、早大の逮捕者のなかで福間安弘と柴田嘉彦の二名が私に対する検事側証人となっています。まず、検事側証人福間氏の調書や証言について検討を加えることにします。
福間氏は柴田氏と異なり、私は法廷で彼と対面するまで一面識もありませんでしたが、彼の方では私のことをメーデー事件以前において「学生運動や自治活動でしょっちゅう見かける顔だった」と証言しております。私は学生運動の活動家の一人であったことを否定しませんし、逆にそうだったからこそ警察や検索当局は私を逮捕し起訴したのだと考えておりますので、彼が私をたまたま何かの機会に見たということはあり得たかとも思います。しかし、彼は第二文学部つまり夜間部の学生であり、とりたてて学生運動に熱心であったと思われる形跡は何一つ見られないにもかかわらず、第一法学部つまり昼間部にいた私を学生運動のなかでしょっちゅう見かけたなどという話はまことに奇妙なことです。私の方では、当時の友人や知人、学生活動家たちの間で彼についてほんの少しでも知っているという人は一人も見つかっておりません。彼が、学内でしょっちゅう滝沢を見たと供述しているのは、普通に考えれば警察や検事の誘導訊問に迎合した嘘の供述と考えるほかありません。早大の逮捕者のなかでは、彼一人だけが研究団体の所属関係が不明であります。
彼は法廷で「広場内で倒れていた女子学生をかばって伏せたところを恐らく警官の棍棒と思われる物で後頭部をなぐられて昏倒し、その後、慈恵医大病院と思われる病院に行った」と証言しておりますので、あるいは事件の後、病院を調べ回っていた警察に知られて逮捕されたものと思われます。警察が、学生活動家でもなく、デモ隊のリーダーでもなかったこの負傷した学生を、あえて逮捕した理由は何だったのでしょうか。それは、自白した後、付和随行にも問われないで釈放されたというその後の経過によってもわかるように、人民広場に入った彼の行為を法的に処置するためでなく、意思の弱そうな学生を捕まえて、彼の口から学生活動家たちの動向を聞き出し、そして活動家を逮捕した際、検事側証人に仕立て上げる目的であったことが明瞭であります。
彼の証言は一見きわめて率直のようでありながら、検事に迎合して私を陥れるための虚偽を巧妙に挟みこんでいるのが特徴です。そのもっとも典型的な事例は、検事も各論論告で得意になって引用しているところですが、「滝沢は馬場先門から二重橋に向かって進行中の早大のデモ隊に指示して、隊列を組み直した後、隊列に向き直って『石を拾って持て』と指示した」旨証言している箇所であります。以下、この嘘が嘘である理由を具体的に究明することにします。
早大のデモ隊は、二重橋に到着する前に警官隊の攻撃が開始されたために、二重橋方面から雪崩を打って後退してくる前方のデモ隊と鉢合わせするような状態となったのでありますが、その段階について検事の論告は、福間証言を使って次のように述べています。すなわち、滝沢は早大生のデモ隊に対して『敵がわれわれに向かって襲って来ている。みんな用意してくれ』との趣旨の指示をなした。具体的には被告人はまず『女子学生を列のなかに入れるように』、『荷物をもっている人もなるべく列のなかに入れて、スクラムを離さないように』との指示をなし、他の指揮者も同様の指示をなした」と述べています。
検事は、女子学生や荷物を持っている人を列のなかに入れ、スクラムを離さないようにという内容を、敵がわれわれに向かって襲ってくるから、みんな用意をしてくれ、との趣旨であると評価しているわけですが、みんなに何を用意してくれと言ったのか、用意することの内容については全く触れておりません。また次の節では、このことをもって隊列を組み直して警官隊との対決の準備したのだと言っています。しかし、この対決という意味も依然としてあいまいであります。検事はこうしたあいまいな用語を並べ立てることによって“乱闘の準備をしたのだ”という工合にその内容を受け取らせようというペテンを行っているのです。福間証言のいうように、仮に早大の指揮者のなかに「女子学生や荷物を待った人を列のなかに入れるように指示した者がいたことが事実だったとしても、彼は同時に「スクラムを離さないように」と指示していることによって明らかなように、警官隊の棍棒と軍靴による襲撃から隊列を守ろうとしただけのことであることは、三才の幼児にも分かることであります。しかも、この検事例証人の証言によっても明らかなように、早大のデモ隊は女子学生や荷物を持った人もふくめて広場に入ったのです。このことは、早大のデモ隊が、警官隊との乱闘といった事態を予想していなかったことを完全に証明しております。
百万言を費やした検事の論告も、真実の光りの前には風船玉のようにしぼんでしまいます。論告の阻止予想論や広場以前暴徒化論などがどんなにデタラメであるか、検事側証人のこの福間証言自体が逆に証明したと言ってよいでしょう。
そこで検事は、デモ隊を何としてでも暴徒に仕立て上げ、私を率先助勢の罪におとしいれるために、もっと大掛かりな嘘を導入してくるのです。すなわち検事は福間の証言を使って、被告人滝沢は、先程のデモ隊のスクラムを組み直した後、隊列の方に向かって「石を拾って持て」と指示したというのです。これがどんなにデタラメな証言であるか、少し常識のある人なら、たちどころに判断することができるでしょう。「スクラムを離さないように」と指示した同じ人間が、すぐそのあと「石を持て」と指示するというようなことは全く荒唐無稽なことです。スクラムというのは隣同士の人間が腕をしっかりと組み合っている状態です。このスクラムを離さない限り、石を拾うことは絶対に不可能です。「スクラムを離さないように」ということの意味からすれば「石を持て」という指示をすることはありえないし、「石を持て」ということの意味からすればその前に「スクラムを離さないように」という指示をすることはあり得ないことです。この証言が嘘であることは、そのことだけでもはっきりしています。
ところで論告で「石を持て」となっているところは、起訴状でも、検事の冒頭陳述でも、ずっと「砂を持て」と書いてあったところなのですが、論告で「石を持て」ということに変わったのです。検事側証人尋問の法廷で福間は、調書を作った佐久間検事に対して初めから「石を持て」と供述したと述べ、外村(立会)検事は、佐久間検事が石を砂と書きまちがえたのだ、と釈明しましたが、そのようなイキサツを信用できるでしょうか。佐久間検事のような長年検事を勤めてきたベテランが、石と書くべきところを砂と書きまちがえるというような初歩的なミス、それも私を起訴する際のポイントともいうべきところで書きまちがえたるということなど到底信じるわけにはまいりません。
仮に同じ書きまちがえるにしても、「砂」という字を書こうとして、左辺の石の部分だけを書いて、右辺の少という部分を書き加えるのを忘れるということはあり得ても、「石」という字を「砂」と書きまちがえるためには、右辺の少という部分を余分に書き加えるという作業を必要とするので、故意に書き違える以外に、うっかり書きまちがえるということは普通起こり得ないと考えます。しかも、検事が私を起訴するに当たっては、「石」を「砂」とすることは明らかに検事にとって不利となることがらですから、佐久間検事が故意に「石」を「砂」とする理由もあり得ないはずです。どこからどう突っ突いてみても、佐久間検事が「石」を「砂」と書きまちがえたという話しは、あとからこじつけた作り話ということになります。土台、「スクラムを離すな」と指示したとされているデモ隊の指揮者が、「砂を持て」とか「石を持て」とか指示するはずがないのです。福間は、警察官や検事の誘導によって、釈放されたい一心から偽りの供述をしたものであるに違いありません。
各論の証拠調べの段階になって「砂を持て」ではデモ隊の攻撃的姿勢を示すものとしては弱いと考えた検事は、史実に反する福間証言と口裏を合わせ、佐久間検事が字を書きまちがえたという新しいフィクションを導入することによって、砂を石に変えてしまったのだ、と考えることがこの間の事情を最も合理的に説明することになると考えます。無から砂が生じ、砂は石に変わるといったこの調子でいくと、しまいには、さざれ石が巌となりて苔の蒸すまで改変されてゆかないとも限りません。
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【補注2】 歳月を隔てて記憶は多少不確かだが、馬場先門から二重橋に向かう東西に走る広い自動車道路はもちろん舗装されていて周りは芝生なので、そもそも拾おうにも近くに石は見当たらない。南北に走る中央自動車道路を横切って二重橋近くになると辺りには玉砂利が敷いてある。早大のデモ隊がこの辺りまで前進した時、突然前方からデモ隊員が雪崩を打って逃げて来た。そのすぐ後ろに密着して黒々とした警官隊の群れが見えた。この時私はデモの隊列を固めるために「スクラムを離れるな」と叫んだ確かな記憶がある。
さらに警官の姿が目前に迫った時、目つぶしで抵抗しようとして足元の砂利をつかんだ。この時大声で「砂を持て」と叫んだかすかな記憶も残っている。隊列が崩れてからは、私は指揮者というよりも一人のデモ隊員として周りの数十人の人たちに呼びかけるのが精一杯だった。福間証人がこの大混乱のなかで私の声を聞いたとはとても信じられない。これに推理を加えれば、私をマークしていた私服警官がその時の私の声を記録していて、福間の供述というふうにデッチ上げたものと考えられる。「砂を持て」と私が言ったという佐久間検事の調書の記載は、まだ真実との間に針の穴くらいの通路をもっていたのだが、外村検事は、砂を石に改変することによって、被害者を加害者へと反転させたのである。
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労働者や一般の人民にとっては、集団の力、団結の力にまさるものはありません。そして、通常その団結の威力を示す最も効果的な形態が集会や示威行進であります。この意味からデモ隊にとって一番大切なことは、隊列を乱すことなく正々堂々と行進することであり、そのためにデモ隊はふつうスクラムを組んでお互いの連帯感を強めながら、隊伍をととのえて行進するのであります。したがって、デモ隊は警官隊の直接的攻撃を受けてどうしても隊伍を維持できなくなるといった事態にでも直面しない限り、通常隊列を乱したり、あるいは個々ばらばらにスクラムを離れたりすることはないのであります。
日本社会党の人たちが発行していた社会タイムスの五二年五月四日付第六四号には、『メーデー事件の真相はこうだ』と題する記者座談会が載っています。そのなかに広場内の出来事についての次の一節があります。
M 「とにかくヤジ馬が盛んに石を投げていたようだ。だが、デモ隊がちょう発だからヤメロと止めて歩いていた。とにかく石を投げていたのはデモ隊に加わっていたんではなかったようだ。」
B 「デモ隊の指揮者が石など投げてちょう発に乗らずに、勇気があったら中に入ってきてくれと訴えていた。(後略)」
その後、この裁判の事実事理によって明らかとになったように、広場内で投石があった段階は、二重橋前で第一回の衝突が起こった後のことであります。この記事が、石を投げたのは、ほとんどデモ隊以外の人たちだとしている点は、事実審理を経た今日では、必ずしも事態を正確に表現しているとは言えないかもしれません。すでに、棍棒、ピストル、催涙ガスを使った警官隊の野蛮な攻撃を受けた後で、デモ隊員のなかにこれに憤激して石を投げて抵抗する者が出たとしても、その行為は正当防衛であり、人民の抵抗権の正当な行使であって、何ら法の追及を受けるべき筋合いのものではありません。むしろ、人間として当然の感情の発露であり、人民のたたかいとして当然のことであります。
しかし、それにもかかわらず、この日のデモ隊の指揮者のなかには、個々バラバラに行われている投石を制止して、所期の目的である広場内での解散集会を整然と行うために、再度デモの隊列を整えようと努力していた者があったことは、これまでの事実審理はもちろん、この記事によっても明らかであります。デモ隊すなわち進歩的人民の隊列とは、このようなものであります。デモ隊が隊伍を組めばすぐにそれは警官隊と衝突するために行っているのだ、とする検事の論法は、自己の内部の心象を現実と信じこむ精神分裂病者の心理であり、メーデー事件における警官隊の残虐性そのものの延長であって、まさに血に飢えた狼の論法というほかありません。
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【補注3】 メーデー当日、警官隊は馬場先門で阻止線を張っていたが、やがて自ら阻止線を開いた。この瞬間、デモ隊員は二重橋前を目指して奔流となって驀進した。副指揮者として早大の全隊列を統率していた私は、馬場先門の警官が阻止線を開いた地点で隊列を点検していて政経、理工を主力とする早大の後ろ半分が消えてしまったことに気づいた。私は後続部隊を探すために伝令二名を走らせ、自分自身は後ろ半分を絶えず気にしながら最後尾を走っていった。その直後の私の行動は、前述の福間証言に対する反論のところに詳述してある。なお、指揮者に無断で早大デモ隊の後半を切って南部のデモ隊と合流させ、祝田橋に向かわせたのは誰かと事件の後で追跡したが、早大から都学連執行部に出ていた文学部の佐藤君らしいという未確認の情報があるだけである。これまでのところ事件の後の佐藤君の消息を知る人は見当たらない。
【補注4】 第一回の襲撃でデモ隊を蹴散らした警官隊は、祝田橋に通じる中央自動車道路の二重橋側に引き下がって阻止する態勢をつくった。訳も分からずに追われたデモ隊員の多くが中央自動車道路の東側の芝生に三々五々集まって来た。しかし、デモ隊のなかから一人の指揮者も現れないので、中央自動車道路の路面にエアポケットのような空間ができた。私は勇気をふるって道路のまんなかに立ち、「早稲田は集まれ」と大声で何度も連呼した。すると早稲田の学友だけでなく、集まるきっかけを待っていた一般のデモ隊員たちが見る見るうちに続々と集まって来た。デモ隊員のなかに私をてっきり全体の指揮者の一人と思ったらしい人もいて、「いま南部のデモ隊が祝田橋を突破して広場に入りました」などと報告する人もいた。この時道路に出て来て警官に右投げてはデモ隊のなかに逃げこむ人間が次々に現れた。私は勇気があったら石など投げていないでデモ隊に入ってスクラムを組め」と叱咤した。前記の『社会タイムス』座談会でのM、B二人の記者の発言は、この時の中央自動車道路上の私の行動を指していると推定されるので、最終意見陳述に引用したのだった。
デモ隊は誰が号令するでもなくしだいに再結集してきて膨れ上がった。二重橋組のデモ隊員たちは、その後祝田橋から広場に入って来た南部のデモ隊と合体して大集団となる。そして再び二重橋近くにまで進出し、これに警官隊が催涙弾とピストルを使って突撃して事件は第二段階に入る。
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検事側証人柴田氏を使った検事のやり方は、福間氏の場合以上に悪辣なものであります。柴田氏がメーデー当日早大のデモ隊と行動を共にしていなかったことは、検事も公判廷でそれを認めました。しかし、警察がわたしを逮捕し、検事が起訴する段階においては、柴田氏の自供調書を一貫して使用していた事実を消し去ることはでさません。柴田氏の場合、彼がどうして嘘の自供調書を作られるに至ったのか、彼自身、法廷での証言のなかで明らかにしております。それを要約すれば、一人っ子だった彼は家のことが心配だったこと、彼の逮捕が母の勤め先に知れて母が首を切られるのを心配したこと。また彼自身は、メーデー当日早大生のデモに参加せず代々木の共産党本部に集まって別の行動をとった、そのことを警察に知られるのを恐れていたこと。これらの不安から、一日も早く釈放されたいと焦ったということであります。
警察は、彼のこの動揺につけこんで、とにかく滝沢のことをしゃべれば釈放してやる、という毒入りの餌を彼の目の前にぶら下げました。突然社会から隔離されて留置場に閉じこめられ、警察の追及にさらされている人間にとって、釈放という餌ほど飛びつきたい衝動に駆られるものは他にありません。
彼は“共産党関係のことは何もしゃべらないが、警察がもっぱら滝沢さんのことを追及しているので、滝沢さんのことならしゃべってもよいだろうと考え、自分の実際の行動を隠して嘘の自供をした”と法廷での証言で明らかにしました。彼は共産党関係のことは言わないが、滝沢のことならしゃべってもよいだろうと、どういうわけで考えたのでしょう。しかも私に関しては、見ていないことを見たとしてデッチ上げ、その上事実に反して、早大におけるメーデー打合せ会の司会者または議長とか早大のデモ隊の総指揮者とかの私以外の人間のした行動や役割についても私の肩におっかぶせるというような、全く警察も考え及ばなかった離れ業をやってのけたのです。もっとも検事は冒頭陳述では私を早大全体の指揮者扱いにしていましたが、論告では数人の指揮者の一人というふうにこっそり訂正しております。
柴田氏のこうしたデタラメな自供は、警察の追及や彼の弱さだけによって生まれたのでしょうか。いや、もっと他にも原因があると思われるのです。柴田氏自身法廷での証言で述べていたように、当時学生運動は混乱しており、彼も私も一緒に所属していた社会科学研究会も混乱していました。見たことを見ないと言い、見ないことを見たと言い、共産党のことは何も言わないが、滝沢のことなら何をしゃべってもよいだろうとして、見ていない私の行動や他人の分まで滝沢にかこつけて自供をした柴田氏の不思議な心理現象は、権力の抑圧と彼の人間的な弱さとに加えて、運動内部のこうした異常な状況のなかで育成された彼の派閥的偏見を考慮に入れなければとうてい理解することはでさないのであります。
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【補注5】 五二年メーデー当時、早大の自治会はまだ再建されていなかったので、メーデー打合せ会は文団連(注・文化団体連合会)傘下各団体の幹事や活動家など十名前後で行われた。議長をしたのは当時共産党早大細胞のキャップをしていた故榊原喜一郎君である。またデモの総指揮者は早大細胞の事務局長をしていた前述の村本君である。私は活動家として学生運動の「表」の舞台で活動していたが、共産党内では分派思想の持主として、党規約にない党員候補とされていた。当時の共産党は、「裏」の組織の党員の方が党内のランクが上位であった。
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検事は、人民広場に入ったデモ隊はすべて日本共産党を支持する個人や団体であるかのような論告をしていますが、これは彼らの共産党弾圧の政治的意図を自ら暴露しているにすぎないのであって、実際には当日のデモ隊員のなかには、当時の指導方針を支持する人間が大勢いたのと同じように、それを直接支持しない者も、あるいは条件付で批判的に支持する者も大勢いたのであります。彼らは人民広場の解放を要求するという一点で結び合って広場に入ったのであり、早大の学生約一千名もまたその例外ではないのであります。
検事は柴田氏の法廷における証言の結果、彼の警察や検事に対する供述がデタラメであったことをしぶしぶ認め、柴田氏がメーデー行進の途中私と行動を共にしたとしていた部分は全部引っこめました。しかし、デモ行進の以前と以後の部分は借用できるとして、私がメーデー参加を打ち合わせする会の司会者または議長だったという柴田氏の検察官調書の部分を引用して論告しています。広場内の出来事の審理について自信を失った検事は、各論に名を借りて広場に入る以前のことや以後のことを持ってきて、私に懲役二年を求刑する重要な理由の一つとしているのです。私たちが再三主張しているように、メーデー裁判は広場内の事件を中心に審理しているものであり、事前・事後のことは、この裁判の審理と本質的関係はないのであって、まして各論における審理とは全く無関係であります。仮に千歩ゆずって審理の対象となるとしたところで、早大におけるメーデー参加の打合せ会は、毎年学内の各参加団体の代表によって行われている恒例行事にすぎず、誰が議長であったかということなどは、全く意味のないところであります。しかし、検事があくまでそれを不当に主張しつづけているので、権力による歴史的事実の歪曲を許さないためにも早大における「メーデー打合せ会の司会者または議長となった者」は私ではないということだけをここで明言しておきます。すでに明らかなように、柴田氏の警察および検事に対する供述調書は虚偽と捏造の産物以外の何物でもないのであって、検事がそのなかの一部分を引っ張り出すということ自体全くナンセンスであり、許されないと考えます。
私は、事件当日、早稲田大学の学生の隊列と共に人民広場に入ったことを、公判廷においてはっきりと証言しました。この際私は、事件の後、早大におけるメーデー弾圧事件抗議闘争に参加したことを明らかにするとともに、その抗議闘争とはどのようなものであったのかについて述べたいと思います。このことを述べるのは裁判所に対してというよりも、この法廷を通して広く一般国民にメーデー事件の真相を伝えたいと願うからであり、メーデー事件当日私がとった行動は、日本人民の一人として当然の行動であり、権力機関によって裁かれ、贖罪を要求される理由は何一つないと確信しているからであります。
メーデー当日、警官隊の攻撃にあって散り散りになった早大生は、三々五々大学に帰ってきました。あまりの残虐さに憤激して、折から登校しつつあった夜間部の学生に真相を伝えようと、傷ついた学生たちも加わって報告会を開きました。
しかし翌日になると、新聞紙上はデモ隊側の暴動とする記事で埋まっており、メーデー参加者を騒擾罪を適用して検挙するとの方針が佐藤検事総長によって述べられておりました。私たちは、すでに事件の真相に対する大規模な捏造が開始されているのを知らされたのです。この日の早稲田の学生の行動について、五月三日の毎日新聞は次のように報じております。
“早大で座りこみデモ 負傷者の治療費学内カンパを要求”
「二日正午から早大大隈銅像前で一部急進派学生約二百五十名による「メーデー批判会」が催され、同会は午後六時頃終わったが、学生側は滝口学生生活課長に面会を要求、同学本部前で会見した。学生側は“メーデーで負傷した早大生の治療費を学生から集めるが、学校側も協力してほしい”と申し入れたが、同課長はこれを拒否、約三十五分にわたる押し問答の末、本部に入ってしまった。学生側は同課長の回答を不満として七時すぎから同本部前に座り込みをはじめ、学校側がとびらを閉ざして相手にしないとみるや『戦争反対』『破防法粉砕』などを叫びながら反戦旗を先頭に構内を一周、再び本部前に集合、気勢を上げた後、各学部毎に今後の闘争方針を相談し、同九時すぎ解散した。(後略)」
この記事には検事の論告文にも似た文章表現があって、当時の毎日新聞の論調の低級ぶりを偲ばせます。人数ももっと多かったはずです。しかし、それでも事件当時の早大生が何を要求していたかがわかります。いったい、暴れるのが目的で広場に入った学生だとしたならば、どうして負傷した学生の治療費のカンパを大学当局に要請することができるでしょうか。広場であの野蛮な弾圧を受けたくやしさと、負傷した仲間の学生に対する同情だけが事件直後の反動攻勢のなかで学生にこのような行動をとらせたのであります。
この早大生のたたかいは、ゴールデン・ウィークの連休を間に挟んで五月八日の警官の学園不法侵入に抗議するたたかいへと引き継がれました。これは、無抵抗の学生に警官隊がなぐりこみをかけた事件として新聞にも大きく報道されました。
この頃日本の支配者たちは、メーデー事件捜査に名を借りて、首都の警察力を総動点して民主勢力や共産党の影響下の諸団体に対する弾圧に狂奔していました。早稲田大学にも、五月八日、早稲田署の私服刑事二名が大学当局にも無断でもぐりこみ、ひそかにスパイ活動をつづけていました。当時警官による学園不法侵入事件は全国各地の大学で起さていた時でもあり、メーデー事件の警官の残虐行為に憤激していた早大の学生は、この二名の私服刑事を捕まえて大学当局に引さ渡し、警察の謝罪文を要求して座りこみました。
大学当局からは、佐々木教育学部長と滝口学生生活課長が出て警察幹部と話合いました。ところが、その話合いが円満に解決しようとした瞬間、待機していた武装警官隊が突如として襲いかかり、座りこんでいただけの学生の頭に棍棒の雨を降らせたのです。五月九日の朝日新聞は、この瞬間のもようを次のように報じています。
「この間、学生は終始ほとんど無抵抗主義の態度をとっていた。警官隊には一名の負傷者もなかったが学生側には三十余名の重軽傷者が出たほか、佐々木教育学部長、滝口学生生活課長も負傷した。」
かつて一九五〇年のレッド・パージ反対闘争の時は自らすすんで警官隊を学内に導入し、百四十三名の学生を大量検挙させた島田総長も、この時は次のような告示(要旨、朝日新聞発表のもの)を発表して警察に抗議し、学園の自治を守ることを学生に訴えました。
「告示要旨
警察の学内連絡が不十分だったため、今回の事件が起こったのは遺憾だ。ただし当初一部の学生に多少穏当然を欠くようなことがあったことは認められる。三者(学生側と大学当局と警察のこと)の会談が妥結せんとしていたとき、突如武装警官隊が侵入、不祥事を起こした。この際、学園の自治と研究の自由を確保しなければならない。学生諸君も自分の力で学園を守ることを期してほしい。大学において調査の上善処するから学生諸君も自重されたい。」
いまや誰の目にも警官隊がどんなに血迷っていたか明らかであります。終始無抵抗で警官隊の暴虐に抗議した早大学生のこのたたかいは、メーデー事件のかくされた真相について国民が目を開く大きなきっかけを作りました。この事件の後では、メーデー事件はデモ隊側が引き起こした暴動であるとした権力機関とマスコミの逆宣伝も、すっかり色あせてしまいました。デモ隊員に騒擾罪という派手な衣装を着けさせることによって国民の目をたぶらかしていた権力者の醜怪な本体が黒々と浮かび上がってきたのです。
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【補注6】 五月八日の日没後間もない頃、私は法学部地下の厚生会の部室で榊原君か誰かから緊張した低い声で「いま私服が二人捕まって、学生たちが私服を囲んでいる」と知らされた。私はこの日の夕刻、メーデー事件の真相報告のために、全学連のオルグとして文学部の下島君と二人で関西・九州方面に出発するよう指示されていたため、暗くなって人影も定かでない構内を遠視しながら早稲田を後にした。その夜は東大駒場寮で全学連書記長斎藤文治に会った後、京都大学、九州大学、熊本大学、鹿児島大学の四校を回り、自治会主催の真相報告会を成功裏に開き、五月二十五日に早稲田に帰った。
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メーデー事件直後の半戒厳令弾圧態勢の下で、首都の民主勢力が窒息させられようとしていた時、早稲田の学生が断固としてメーデー弾圧に抗議するたたかいに立ち上がり、さらに五月八日の警官隊の学園侵入に抗議してたたかったことは、破防法反対の統一行動を破壊しようとしていた支配階級に大きな打撃を与え、そのことによって民主勢力に大きく貢献したのであります。そして、早稲田の学生は五・八事件の後、抗議委員会を全学に組織し、やがてこれを母体にして学生自治会の再建を実現してゆくのであります。私は当時のこれらの学生のたたかいを、いまも誇りをもって語ることができます。
“労働者は不逞の輩である。不逞の輩はすぐ徒党を組んで暴動を起こすものである。故に労働者の運動は何がなんでも鎮圧しなければならない”という暴民思想の三段論法の上を漂流しているだけの検事論告に対して、もはやこれ以上多言を費やす必要はないと考えます。
四、結論 (抜粋)
私たちは、不当な政治的弾圧を受け、その上、十三年半に及ぶ被告としての生活を強要されてきました。一口に十三年半といいますが、一度しかない人生の最も貴重な年代を、被告として受けるさまざまな圧迫とのたたかいのために費やさねばならなかった私たちの怒りと悲しみは、言葉では言いつくせないものがあります。第一審だけで十余年もかかるという長期裁判は、そのことだけで人道に反しているといわなければなりません。またこのような長期裁判が、憲法第三十七条に保障された公平で迅速な裁判を受ける権利を侵害していることはいうまでもありません。
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【補注7】 私がこの最終意見を東京地裁の法廷で述べた日付の記録がない。事件から十三年半後だから一九六五年十一月のことである。第一審判決が行われたのは、それからさらに四年二カ月先の一九七〇年一月二十八日、事件発生から実に約十八年後のことである。この第一審判決で、馬場先門から広場に入ったデモ隊に属していた被告約半分が無罪となり、この二年十カ月後の第二審判決で残りの半分が無罪となった。他に公務執行妨害罪で有罪(執行猶予付き)となった少数の被告がいる。
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(中略)
最後に、長期裁判の被告としての生活がどんなものであったか、すでに多くの被告の仲間が述べていますので、私は私自身に関する事がらを簡単に述べておきたいと思います。
一例を挙げれば、私が昭和二十九年三月に早稲田大学の法学部を卒業してから本年十一月までの間に勤めた会社の数は八つあります。一社平均一・五年ということになります。勤めが変わったのは必ずしもメーデー被告だからということではありませんが、メーデー被告であるために安定した職業につく道を封じられてきたことは確かです。業界新聞の広告取りや、食品のセールスマン、出版社の校正のアルバイト等多くの職を転々として、現在は記録映画の脚本、演出、製作の仕事をフリー契約でつづけています。この間、いくつかの会社で、所轄の警察署から「滝沢は赤だから注意しろ」という内容の干渉があったことがわかっています。
こうした警察の干渉によって直接首になったことはありませんが、このような干渉が、私の会社内での立場を陰に陽に悪化させ、あるいは新しく就職する際の制約となってきたと、はっきりに断言することができます。しかも、このような不当で且つ陰険な圧迫は、メーデー事件被告に特有のものではなく、支配階級の日本人民に対する無数の弾圧のなかの一齣なのであります。しかし、だからこそ私たちはこのような不当な圧迫を許すことはできないのです。
私は安保闘争の前後の数年間、この法廷にもメーデー事件のフィルムを提出しているあるニュース映画の企画・編集者としてニュースの報道に携わった事があります。【補注・『朝日ニュース』、東宝系映画館上映のニュース映画】。その間多くの政変劇や三池争議、安保闘争等の大事件に遭遇しましたが、なかでも六〇年四月二十九日の安保条約(改定)国会強行採決、六月十五日樺美智子さんが亡くなった日の全学連の国会突入事件、浅沼稲次郎が右翼テロに倒れた瞬間を撮影した時の記憶等がいまも生々しく残っています。警官隊とデモ隊の衝突、武装警官がデモ隊に襲いかかる光景は数え切れないほど目撃し、フィルムに取材しました。デモ隊に直接加わった人間としてでなく、また単なる傍観者としてでもなく、一人のジャーナリストとして、また一人のドキュメンタリストとして、この歴史的激動期を見つめることができたということは、忘れることのできない体験であり、私はそのなかから多くのことを学びとることができました。しかし、そうした経験の後でも、メーデー事件当時、私が権力の本質と権力犯罪について感じ理解したことは、より深められることはあっても、変わることはありませんでした。
(以下略)
3、滝沢林三略歴
1931年2月24日茨城県結城市生まれ、48年12月早稲田大学付属第二高等学院一年の時日本共産党に入党、49年4月早大第一法学部入学、50年5月戸塚税金事件で逮捕されたが、その時10日間の勾留中に日本共産党東京都委員会が早大細胞を解散したため党籍を失う。51年9・3建議を契機に「復党」、党規約にない党員候補。
1952年5月1日のメーデーに早大デモ隊の副指揮者として参加、メーデー事件で警察に追われているさなかの6月10日、破防法粉砕全都学生総決起大会が早大で行なわれ、そのリーダーの一人として大学当局から無期停学、7月19日(メーデー事件から80日後)に検挙され、早大デモ隊の中からただ一人起訴される。53年3月保釈、同年4月平野義太郎参院選挙応援・無検印ポスター張りの件で3日間勾留され処分保留で釈放。
1953年5月アカハタ(赤旗)本局発送部勤務、10月校正部に職場移動。12月早大無期停学解除、54年3月早大一法卒業、同月妻利子と結婚、5月共産党中央委員会により神山分派の一員として査問に付される。この時妊娠3カ月の妻はアカハタ本局指導部の「今子供を産むことは夫滝沢の自己批判の妨げになるから中絶せよ」という決定に従い夫に知らせずに堕胎、同年11月アカハタ―本局を追放される。
以後、教科書の校正、業界紙の広告取り、マカロニのセールスマンを経て、57年新理研映画入社・ニュース映画『毎日世界ニュース』編集、59年日本映画新社『朝日ニュース』編集;60年三井三池争議と安保国会を担当、朝日ニュース特集「血塗られた安保新条約」は60年度ニュース映画部門でブルーリボン賞を受賞、61年8月日本共産党離党(註)。63年学研映画局専属、65年以降フリーの映像監督。
滝沢林三の主な映像作品
1、ニュース映画
『血塗られた安保新条約』 ニュース映画「朝日ニュース」 企画編集・国会担当
※1960年度 毎日映画コンクール・ブルーリボン賞
2、記録・文化映画
1.『メーデー裁判』 脚本、監督、編集 ‘69年
2.『第一審判決』 脚本、監督、編集 ‘70年
3.『中世の福島』 脚本、監督、編集 ‘70年
4.『差別・人間であること』 脚本、監督、編集 ‘73年
5.『東南アジアの農業と水』 脚本、監督、編集 ‘77年 −タイ、インドネシア−
6.『乾燥地の潅漑農業』 脚本、監督、編集 ‘78年 −エジプト−
7.『江戸時代の朝鮮通信使』 脚本、監督、編集 ‘79年
※1980年度 毎日映画コンクール・2位、映画ペンクラブ推薦、
8.『イルム…なまえ −朴秋子(バクチュジャ)さんの本名宣言−』 脚本、監督、編集 ‘83年
3、テレビ番組
1.『密入国者 −姜昌允(カンチャンユン)の場合−』 構成・演出 放映 東京テレビ ‘67年
−生きている人間旅行シリーズー
2.『水はうたう −越中五箇山−』 構成・演出 放映 朝日テレビ ‘70年
−秘境シリーズ−
3.『隅田川』 構成・演出 放映 フジテレビ ‘73年
−日本の川シリーズ−
4.『神集め島・神津島』 構成・演出 放映 フジテレビ ‘74年
−島と日本人シリーズ−
5.『石段の島・沖の島』 同上 ‘74年
6.『家畜生産工場』(牛、豚、鶏) 構成・演出 放映 日本テレビ ‘80年
−知られざる世界シリーズ−
7.『ネコにひそむ野性』 同上 ‘81年
雑誌等に掲載された滝沢林三の主な文章
題名 媒体 出版年月
1.古代神あつめ島 −伊豆・神津島(こうづしま)− 『歴史読本』 ‘76年9月号
2.鵜と鵜葺草不合尊 季刊『日本の中の朝鮮文化』34号 ‘77年6月発行
(うがやふきあえずのみこと)
3.ナイル・デルタの農村にて 『朝日ジャーナル』 ‘80年4月11日号
4.浅沼暗殺の映像 −ドキュメンタリーにおける偶然性とはなにか−
『社会評論』44号 ‘83年8月刊
5.映画『差別・人間であること』を製作して 『広報さいたま』 ‘83年12月号
6.伽耶子と林相俊の人間像 一映画『伽耶子のために』を観て−『記録』‘85年1月号
(かやこ) (イムサンジュン)
7.亀井文夫先生に −病床の亀井さんへの手紙−
『シネ・フロント』亀井文夫追悼号「トリ・ムシ・サカナの子守歌」‘87年1月号
8.メーデー事件と私 ‘93年山形国際ドキュメンタリー映画祭パンフレット
9.江戸時代の朝鮮通信使から学ぶべきもの
‘95年山形国際ドキュメンタリー映画祭パンフレット
10.初心忘るべからず 財団法人雇用振興協会 『協会だより』 ‘97年6月号
−ベテラン管理主事からの手紙−
11.弟橘媛の命(おとたちばなひめのみこと)のこと −吾妻神社祭神−
神奈川県二宮町議会『議会だより』 2003年1月号
(註)、その後の経過
83年「イルム…なまえ―朴秋子さんの本名宣言」。83年夏映画「イルム…なまえ」製作中より推定北朝鮮系の“影の集団”から連日攻撃に曝されるようになり映画製作を断念、87年2月郷里茨城県結城市に移住、市役所の臨時雇い、クレジット会社の信用調査係、スーパーマーケットの荷物検収係、公共住宅の管理人・98年3月定年退職、同年4月神奈川県二宮町に移住、二宮町生きがい事業団に加入し剪定の職についたが“影の集団”の妨害を受けて離職、以後無職。
(註)、離党届 1961年8月5日 滝沢林三
「党の方針に重要な点で異なった意見を持ち、現在党内民主主義が破壊され、中央委員会幹部会の独善的官僚主義が第十八回党大会の名において許容されている中で、党員としてその矛盾を解決してゆくことに確信を失いましたので、離党することを決意し、お届けします。」
以下、離党届は離党の理由を十三年間の党員としての生活を踏まえて詳しく説明しています。その当時私は、先進資本主義国の社会主義運動は、イタリア共産党の故グラムシが提唱した構造改革路線を選ぶべきだという立場に立っていました。しかし日本共産党書記長宮本顕治らは構造改革派を次々に除名処分に付していました。それに対して私は党内民主主義の面で少数意見を中央機関紙に発表する自由を認めるべきだという意見を持っていました。しかし今にして思えば、それは「木に縁って魚を求む」ようなものであり、本質的にスターリン主義のこの党とこの時きっぱりと絶縁したのは最も適切な選択でした。
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(関連ファイル)
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