「神山分派」顛末記
大金久展
(注)、これは、早稲田1950年記録の会『史料と証言第4号』(1999年)に掲載された文書の全文を転載したものです。50年分裂における主流派と国際派の実態に関して、国際派の一つである神山分派の実態・性格は、かなり重要なテーマであるにもかかわらず、ほとんど知られていません。大金氏は、当時、共産党早稲田細胞にいて、そこでの神山分派の中心でした。国際派といっても、反徳田の5つの分派に分かれており、それらの相互関係は、解明すべき点を多く含んでいます。大金論文は、その貴重な資料になるものです。
これは、HP早稲田1950年記録の会にも載っていますが、私(宮地)のHPに独立させて転載します。この転載にあたっては、大金氏の了解をいただいてあります。
〔目次〕
1、入党前後のこと
2、早大社研に入る
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早稲田1950年記録の会『史料と証言』『50年を中心の年表』全6冊分の内容
由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』早稲田独立遊撃隊
『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21〜24
Mun Kunsu『1951年「民戦の武装闘争開始」』経過 『1952年「民戦」の武装闘争』
いわゆる日本共産党の五〇年分裂当時、早大細胞は基本的には主流派と国際派の二つに分かれたが、コミンフォルム批判を「無条件で支持」するという反主流の勢力が圧倒的に強かった。商学部の小林央、政経の藤井誠一、教育学部の水野、横田などが主流派を支持し、細胞解散処分では「再登録」に応じて「再建細胞」を組織したが、その勢力はせいぜい十数名に過ぎなかった。
しかし、コミンフォルム批判を支持した早大細胞のいわゆる国際派は、東大細胞のように宮本系一色ではなかった。
もちろん、学生自治会の執行部グループは宮本系でほぼ固められていたようだが、このほかに本間栄二などを中心とし、のちに「日本共産党国際主義者団」と結合したグループが、細胞の実際活動家のかなりを組織してコミンフォルム批判直後からひそかに独自の活動を開始していた。これはいうまでもなく「志賀意見書」を「精神的支柱」とし、哲学者の野田弥三郎や東京都選對部長などをやっていた成富健一郎、関西の下司順吉などが指導していたグループだった。
そして、こうした主流派、国際派全学連(宮本系)、および「国際主義者団」のいずれにも属さず、相対的に独自の立場をとったものも学内では相当の数にのぼった。そして、そのなかからしだいにのちに「神山派」といわれるものが結集していくのである。
「国際主義者団」とこの神山グループ、およびその他多様なグループが存在したことは、東大をはじめ他大学にはみられない大きな特色であったろう。早稲田とは伝統的にそういう大学であった。
そして、「分派の存在と両立しない意志の統一体としての党」という悪名高いスターリンの定式によって無用のエネルギーを消耗させられながらも、一九五〇年のレッド・パージ反対闘争の全期間を通じて、少なくともこれに関しては、主流派も含めてそのすべての勢力が一致して早大自治会を中心にこの闘争を闘い抜き、全国学生運動の最大拠点校のひとつとしての役割を果たしたのである。(もちろん犠牲も大きかった)。
そして、このなかで私は「神山派」といわれたグループの中にいた一人であった。
片山さとし(元読売新聞政治部、六全協後一時東京都委員)に「神山茂夫の全体像の試み」という一文があるが、私はその評価に基本的に賛成である。早稲田で「神山分派」をやり、その後いろいろと曲折はあったが、ともかく義理がたくその葬儀、納骨にまで付き合った私の眼に映じた神山の人物像は、片山が書いていることとほぼ一致する。
そこで、便宜上、まずその一節を冒頭にかかげてから本文に入ることにしようと思う。
「神山という人物は非常に革命的な素質にめぐまれていたと思う。中国の古いことばに、娑婆に偶語する智勇弁舌の徒が革命家だというのがあるが、神山にはそういう智勇弁舌があった。近代革命家の性格としては理論の能力、文筆の能力、それからオルグの能力があげられるが、神山にはそういう能力が備わっていた。それが不幸にしてスターリン主義の地盤に生まれてきたので、客観的条件も悪いし、当人も後にはそれに染まって、その能力を万全に発揮できなくて、もみくしゃにされ、スポイルされた面が強かった。これはある意味では、日本の共産主義者の典型的な像でもあったといえる。ただし神山の場合は、多くの人のように官憲の弾圧によってそうであったというよりは、スターリン主義の地盤に妨げられたという要素が多かったのではないか。そして彼は勇気もあり、自分でいっていたように粗暴でもあったが、反面細やかな小心の思慮もあり、義理人情を誇示する面もあった。敵権力に対しては一歩も引かない粗暴さを示してビクともしなかったが、味方の権力つまり党権力にたいしては、粗暴の面ではなくて、党にたいする忠誠心も手伝って義理人情の面が出すぎて、一種の浪花節調に流れる傾向があったように思える。」(一九七八年一月『神山茂夫研究』第五号、『片山さとし遺稿集』一九九五年に所収)
1、入党前後のこと
私は敗戦の年、昭和二十年三月に戦時特例として旧制中学を四年で卒業した。受験は三回限り、浪人は許されず、あとは軍の学校へいくか、徴用工の途しかなかった。文科には徴兵猶予の特典がなかったので、苦手を承知のうえで第一回目は旧制高校の理科を受けて見事失敗して(残念なから敗戦を見通せなかった)、二回目の受験で早稲田大学専門部政治経済科に入り、昭和二三年に旧制最後の政経学部に進学するという変則的なコースをたどった。
だから、私の早稲田での学生生活は敗戦直前から始まり、一九五〇年十月のレッド・パージ反対運動による除籍処分に至る時期ということになる。
昭和二三年三月、私は早稲田大学専門部政治経済科を卒業したが、政経学部への進学試験を受けるとともに、友人の薦めで冷やかし半分でライオン油脂(現・ライオン)の入社試験も受け、両方とも合格した。
まことに無責任な話だが、私は政経学部に在籍のまま、しばらく会社勤めをやってみることにした。
当時、ライオン油脂は産別系の全日本化学産業労働組合連盟傘下の有力組合で、のちに有名な人民艦隊のリーダーのひとりだった古庄邦之助が経理課長のまま労働組合委員長と共産党細胞のキヤップを兼ねていた。主力の平井工場の党員数は二〇名を超ていたろう。
私は同期入社の下村義雄(東京商大卒、大塚金之助ゼミの出身でのちアカハタ記者として活躍、昭和四五年没)とたちまち意気投合し、ともに一ヶ月足らずで日本共産党ライオン油脂細胞に入党した。(この年の学卒採用は五〇名を超える応募者のなかでわれわれ二人だけだったので人事部長は社長から大目玉をくらったそうだ。)
そしてその足で当時商学部地下にあった早稲田大学細胞にこの事実を伝え、秋には学校に戻る意思であることをつけ加えた。応対に出たのは政経同期の星野司郎(故人)だった。それは多分五月のはじめ、メーデー直後のことだったろう。日本共産党への入党は、敗戦直後からマルクス主義文献に接し、河上肇の著作などから強い影響を受けていた私にとっては予定のコースだったが、この工場体験がその時期を多少とも早めたことは間違いなかった、といえよう。
ライオン油脂に在籍したのは正味四ヶ月足らずだったが、ちょうどこの時期は有名な「東宝争議」をはじめ労働争議の最盛期で、新米ながら見よう見真似で江東地区にあった汽車会社をはじめあちこちの工場にビラくばりやオルグにでかけた。ライオン油脂でも当時かなり尖鋭な賃上げストがおこなわれていたが、入社早々ながら職場委員として相応に働き、それが一段落したところで「大学に戻る」と宣言して退社したが、それはおそらく七月末のことだったろう。退職金はもちろん出なかったが、直属上司の常務がポケット・マネーで一万円の餞別をくれた。厄介ばらいができてよほど嬉しかったのだろう。早速これで風早八十二の『日本社会政策史』などを買ったことはいまでもよく覚えている。
2、早大社研に入る
ライオン油脂を退社する、と古庄キヤップに伝えた折、私は彼から餞別がわりに当時駿河台の日大の大教室で開かれていた「人民大学」の聴講券をもらった。たいていのことは忘れてしまったが、なかで強烈な印象としていまも残っているのは神山茂夫の「国家論」を聞いたことだった。神山というのは初めて聞く名前だったが「俺は志賀君と『前衛』で論争をやっているが理論上のことでは一歩もひけない……」と敖然とうそぶきながら自信満々で自説を展開していた。「大した男がいるものだ」と感心しながら、帰りに彼の戦中三部作のひとつとして有名な『日本資本主義分析の基本問題』(岩崎書店)や『人民的民主主義の諸問題』(同友社)などを買って帰った。日本共産党中央委員会の一員でありながら、山田盛太郎はじめ名だたる講座派の理論家をなでぎりにしているのを読んだ印象は強烈だつた。そして、これが私にとっては神山を知る最初のきっかけだった。
九月から大学に顔を出すようになった私は、なんの予備知識もないままに本格的にマルクス主義の勉強をするつもりで社研に入ることにした。入って驚いたのは、そこが神山理論の牙城だったことである。
新入りの私をテストするつもりなのか、一級上の幹事長の有田辰男(現名城大学教授)が「なにか報告しろ」というので、その頃流行っていた「ヴァルガ批判」の簡単な紹介をやったら途端に社研幹事、細胞では社研グループ所属ということにされた。
この早大社研は敗戦直後、学内では非公認団体だった日本共産党早大細胞のメンバーによって結成され、学内左翼の合法舞台の役割を果たすとともに活動家の速成養成機関としての一面をもっており、簡単なパンフレット二、三冊の手ほどきが済むと各学部の活動家がすぐさま細胞活動や自治会活動に引き抜いていく、といった役割を果たしていた。政経学部では武田敦、滝沢克己、津金佑近、松本哲男、志村豊壽、水野邦夫、由井誓などがいずれも社研を二、三ヶ月足らずで通過していった連中だった。
早大社研が、細胞から自立した独立の「研究団体」として確立されるようになったのは、有田によれば一九四七年春からのことで、それまでは細胞のキャップが兼任で委員長を名乗り、細胞も青共も社研もいっしょくただったらしい。
こうしたなかで、最初は商学部の北浦洋、専門部政経の三島耕、有田など数名で日本資本主義論争の研究会をはじめ、間もなくこれに専門部商科のマルクス五人男といわれた大越幸夫、高尾義之、岩瀬肇一、藤井誠一、中田陽久たちが加わり、みんなに推されて有田が初代幹事長になったというのが、その後の「社研事始」だったようだ。有田によるとそのなかで中心的に動いたのは三島で、慶応の社研と連絡をとり、社研の講師陣の中心となった浅田光輝をひっぱってきた。浅田は慶応の出身で、その当時は豊田四郎の日本経済機構研究所に所属していわゆる「神山理論」の立場から盛んに理論活動を展開していた。
しかし、こうした社研の理論的な立場は、当然細胞からは白眼視され、「日和見主義」「理論拘泥主義」あるいは「サロン・マルキスト」などのレッテルを貼られた。藤井誠一や広瀬賢などはこうした社研批判の急先鋒で、神山理論の牙城である社研に対抗するという旗印を掲げて「民主主義科学者協会早大支部」を結成した。「神山理論は偏向だ、小山弘健ではなく内田穣吉の『日本資本主義論争史』のほうが正しい」と主張して有田たちと激しくやりあっていた。もちろん、その根底にあったのはいわゆる「志賀・神山論争」をめぐる評価の問題だった。
「志賀・神山論争」
私が社研に入った当時、「志賀・神山論争」なるものが多くの関心をあつめていた。社研外からも広瀬賢、船本滋をはじめ、入れかわりたちかわりいろいろな連中がやってきて部室で議論の花を咲かせていた。
そして、逆説的にいうと、私は志賀義雄が『前衛』に載せた「党史の見方」や「世界史の一考察」などの論文に反発してそこから確信的な神山理論の支持者になった、といえそうだ。
一九四六年十二月、『人民評論』に載った『「軍事的封建的帝国主義」とは何か』という神山の信夫清三郎批判の論文にたいして、政治局員で『アカハタ』主筆の志賀義雄が翌年六月四日から六回にわたってシガ・ヨシオの署名で『アカハタ』紙上に「軍事的・封建的『帝国主義』について」という論文を連載した。そして、これがこの論争の発端だった。
志賀は「獄中十八年」の威光と党政治局員の権威で簡単に神山を押さえこめると過信していたフシがあるが、神山は猛然と『前衛』誌上で反論を展開した。(『アカハタ』での反論の機会はあたえられなかった。)
これに答えた志賀の「党史の見方」(『前衛』一九号)という一文は、私にはおよそ理論論争の内容にはほど遠い高飛車なものにみえた。
志賀はその最後のむすびで「年も若く党生活もみじかい神山君の理論的偏向」は、「党史のただしい知識を欠き、階級意識のひくい党員、ことにあらたに党内へ流入した青年知識人の階級意識の低さの集中的なあらわれ」だと断じたのである。
神山はこれにたいして「年齢がうえで、党生活がながいものがかならず正しいというなにか特別の保証があるのだろうか」と「党史の見方に答える」(『前衛』二〇号)で反論したが、志賀はこれに答えることなく、「世界史の一考察」を最後に一方的にこの論争を打ち切った。「神山君の理論は……インテリゲンチャ、ことに学生からきた党員のなかで、まだ小ブルジョア性を根本的に克服していない人々の傾向のあらわれだ。」が論証抜きのむすびだった。
この論争については、学者・理論家に任せておけばよいような領域にまで政治家がふみこんだ、という印象を否めず、私はこの論争の内容に栗原幸夫や津田道夫のように深入りすることはしなかったが、「獄中非転向」がハバをきかせ、最高指導者にたいする無条件的な追随を当然とするような党風のなかで神山の立場を異端視する風潮にはとても同調するわけにはいかないと思ったものだ。理論的というばかりでなく、私が五〇年問題のなかで基本的に神山の党内闘争での立場を支持するようになったのには、この論争が影響していたことはたしかである。
一九四八年秋から翌年の春までは社研幹事(党内では社研グループ)ということで、細胞内では比較的恵まれた環境で研究会活動を中心とした学生生活を送っていた。
有田や北浦が卒業したあとの社研の幹事長に私をという話しがあった。
有田や三島などはいわゆる日常の細胞活動を「這いずり回る素朴実践主義」と軽蔑し、「オレの党活動は大衆団体としての社研を育て、その研究水準を高めることだ」といって社研にガッチリと根をはやし、ほかのことには見向きもしなかった。私もこれを真似して社研の幹事長を引き受けていれば、いま頃はどこかの四流大学の名誉教授位にはなっていたかも知れないが、実際にはまるで違った途を歩むことになってしまった。
私は当時の間庭キャップに乗せられて二年になった途端に、当時結成されたばかりの文化団体連合会副委員長になるとともに、自動的に文化団体グループのキャップを兼ね、この年の秋には文化団体グループ担当の名目で細胞委員(LC)の一員になる破目になった。どうもこれは武田敦の差し金だったらしいが、その必然的な結果として翌五〇年初頭のコミンフォルム批判の嵐に巻き込まれ、党からの除名と大学による除籍処分に至るコースを辿ることになってしまった。このときの細胞委員会のメンバーは津金、坂本、松下、梅田、猿渡に私の六人であったろう。(この六人と本間を加えた七人が旧早大細胞最後の指導部となった。)
「早稲田の神山派」
コミンフォルム批判をめぐる早大細胞内の党内闘争のなかで、私はそれまでの単なる社研内の神山派から「早稲田の神山派」の中心人物に昇格することになった。
考えてみるとこの「神山派」というのはいちばんワリの合わない「分派」であった。主流派、「団」、そして宮本系全学連の全てから「分派」呼ばわりされながら、実はそれらのどれよりも「分派」としての内実を備えていなかったのである。神山との直接の接触などもちろんなく、独自の政綱や組織、機関紙などはまったくなかった。
私がこの時期に分派形成の意志が全くなかったといえばウソになろう。私は私なりに神山との個人的な接触を試みたことも何度かあったが、戦前の「武装共産党」時代の「全協刷新同盟」の体験が骨髄まで沁みこんでいる彼は、全くこれに応じようとはしなかったのである。
津田道夫は『昭和思想史における神山茂夫』(社会評論社)のなかで、神山は「分派とみられることを極力回避しつつ党統一を念じ、一定の行動をとった」が「そのことで両派(徳田派と宮本派―引用者)から胡乱な目でみられる素地をもつくってしまった」と書いているが、早大細胞内部での私もおそらくはそのような立場だったろう。
津田はこれに続けて神山が「五一年五月から八月にかけ、文書活動に限定したうえで、一方、徳田派の批判を展開し、同時に他方では、宮本主導による統一会議系の綱領的文書にも批判的意見を提出した。中道派の中道派たるゆえんであである」と書いているが、われわれがはじめて神山と会ってこうした活動の一部に参加したのは五一年三月以降のことだった。(これについては後でふれる。)
ところで、私が神山派とみなされたのは主として浅田光輝との関係によるものだった。「所感派」も「団」のグループ、それに自治会中執グループもみなそういう受け取り方をしていたようだ。たしかに、私は浅田から理論的な指導を受けていたのは事実だった。
しかし、浅田は理論家であって、党内闘争や学生運動の指導などできるはずもなく、する気もなかった。それどころか私が細胞委員の一員としてレッド・パージ反対闘争の渦中に飛び込んで活動しだすと浅田は「大金は極左になった。どうしようもない、困ったものだ」と社研の連中に嘆いていたのである。
木村勝三は「東大細胞の終わり―『戸塚事件』の記憶」(『一・九会文集』二号)のなかで、五〇年当時の東大細胞には国際派中の正統派宮本顕治に直結した秘密の中核組織、「ゲハイムニス・パルタイ」(通称ガー・ペー)、つまり、秘密の、とくに権威ある党エリート組織が恒常的に存在し、これが「全細胞の指導権を握っていた」と書いているが、早稲田には神山と直結した「秘密の中核組織」などはありようがなかったのである。
寺尾五郎も降旗節雄との対論『革命運動の深層』(谷沢書房)のなかで「あんたがたは、神山派というとすぐ小山弘健・浅田光輝などの学者を念頭におくだろうが、この人びとはいわば側近理論家グループであって、政治的派閥組織としては、寺田貢、内野壮二・神山利夫などの戦前からの古参の者、それに東京の林久男や新井吉生・栗原幸夫、静岡の森一男とか、『アカハタ』の発行名義人になっていた原田龍男だとか、早稲田系を集団としてまとめていた大金久展とか、そうした人びとの動きなんだ。俺は宮本派と神山派とに関係しつつも、双方から少しはみ出している存在だったろうナ」と書いている。「政治的派閥組織」というのは、降旗にたいする寺尾の見栄だろうが、事実としてはそんなところであったろう。
ここで、ついでに五〇年問題での神山の基本姿勢について、栗原幸夫が書いているものも紹介しておこう。慶大細胞創立者の一人で戦後初期から豊田四郎などを通じて神山の理論的影響をうけ、『神山茂夫著作集』全四巻(三一書房)を編纂した栗原は『革命幻談・つい昨日の話』(社会評論社)のなかで、五〇年当時、「神山がいったい何を考えているのか、何をやろうとしているのかさっぱりわからなかった」といっているが、これが実際だった、と私も証言できる。(因みに栗原はこの本のなかで、「この時代にいちばんまとまって神山派として行動したのは、早稲田大学のグループですね。ただわりにはやく神山を見限っちゃうんですが。」といっている。)
事実、神山はコミンフォルム批判の当初から翌年の二月まで、つまり主流派が突如として「武装闘争方針」に転換し、「分派主義者に最後の勧告」をおこなうまでは独自の「中道派」としての態度に終始していたのである。だから、コミンフォルム批判から十月闘争に至る時期および翌年三月まで、早大内には「神山派」といわれるようなグループ組織は残念ながら存在しはしなかったのである。
細胞解散前後
情報通の志賀義雄などは、側近に「近く重大な国際批判がくる」という予見を語っていたらしいが、われわれにとってコミンフォルム批判はまさに青天の霹靂だった。連日のように細胞会議が開かれ、細胞内は騒然たる空気につつまれた。全学連副委員長として派遣されていた七俵博が早稲田にはりついて連日猛烈なアジテーションをくりかえした。自治会中執の鈴木雄や当時はめったに細胞に姿を見せなかった吉田嘉清も激烈な大演説で「コミンフォルム批判の無条件支持」をアピールした。
ここで、当時の細胞内での論争や党内闘争のあれこれに立ち入ることはしないが(やりだしたらエンドレスになる)、とどのつまり早大細胞は主流派によって全学連書記局細胞、東大細胞とともに解散処分を受けることになった。
たしか、五月六日の午後、新宿地区委員長の岩崎貞夫(のち小河内山村工作隊で活動中病死)が一号館の地下にあった細胞の部屋にやってきて口頭でこれを伝えた。私と津金が応対したが、早口で理由をのべると脱兎のように窓から飛び出していった。(ドアのカギはしめられていた)。解散処分という事態に対処するための緊急細胞総会が開かれたのは五月七日のことで、百余名が出席して圧倒的多数で「解散反対」を決議し、「再登録」に応ずるとした藤井たちを逆に除名した。除名を提案したのは私で藤井たちに「出ていけ」とドナったそうだが、よく覚えていない。この「解散反対細胞」は五月二一日(日)の細胞総会で分裂した。本間たちのグループが「独自の途を歩む」と宣言して退場していったのである。
この日の討論での最大の争点は、本間たちグループの分派活動だった。雑誌『真相』に掲載された「早大細胞意見書」の表紙は細胞総会で配布され、全部が回収されたものとは明らかに違うもので、ひそかに本間たちが全国にバラまいたものだった。解散理由の一つになった「挑発ビラ」も本間たちが細胞指導部の討議を経ずに独断でつくったものだった。また、吉田たちの自治会中執にたいしても「帝国主義者の手先」呼ばわりをするなど、その極左的行動が問題になった。結果として早大細胞は「再建細胞」、「団」と「解散反対細胞」の三つに分裂することになったのである。
東大と違って早稲田は「宮本系」一色ではなく、さまざまなグループが存在し、相互に激しく対立するという側面もあったが、基本的にいって「反レッド・パージ闘争」に関するかぎり全く意見の相違はなく、それぞれが自分の信ずる方法でこれに参加した。これとどのように闘うかがそれぞれのグループの試金石だと信じられていた。党内論争に明け暮れるのではなく、学内での実際活動のなかでその正否を検証しよう、いうのが当時の支配的な空気だったろう。そして、こうした立場からある種の相互協力関係も生まれていた。これが安東仁兵衛などから「早稲田民族主義」とからかわれたり、羨ましがられたりするところなのだろう。
「細胞解散によって党の上からの決定で動くのではなく、自分の頭で考え、実践でこれを試す。いろいろな潮流があったし、激しい議論もやったが、みんな素晴らしい連中だった。コミンフォルム批判の是非とか朝鮮戦争の評価とか、いまの時点からいえばいろいろあろうし、その当時の個々の行動のいくつかについての悔いはあるにしても、全行動の結果についてはいまも悔いはない」、とある日の本誌の編集会議で坂本尚が発言していたが、これが「反レッド・パージ闘争」を闘い抜いた早稲田の活動家共通の実感ではなかろうか。
本間たちが去ったあとの「解散反対細胞」指導部には石垣辰男と堀越稔があたらしく加わった。二人とも党派的には統一委員会系統の「革命的(正統派)中央委員会の周りに結集しよう」というスローガンを支持していたようだが、こうした立場を押しつけるようなことはせず、早大学生自治会委員長吉田嘉清を扶けて幅広い学内での統一行動の組織化に努力していた。
「十月闘争」の時期、石垣は自治会副委員長だったが「オレほど大学から丁寧にあつかわれたものはいまい」というのが自慢だった。「まず最初は譴責だろ。つぎが停学六ヶ月でそのあと無期停、最後が除籍だものな、いきなり除籍といった連中とは格が違う」と威張っていた。
党内闘争での立場の相違にかかわらず「早稲田大学レッド・パージ反対全学中央闘争委員会」を組織してともに闘おうと提唱したのは石垣ではなかったろうか。そしてその周りに結集したのは政経では武田、滝沢、水野、志村、安藤、西宮、波形、由井や私をはじめとする「政経学部中闘」のメンバーだった。文学部では坂本、井川、岩丸、西山、近藤、天野などが中執グループを支えて活発な活動を展開していた。そしてこれらの連中がどうやら「中道派」とみなされていたといえるだろう。
「中道派」とはなんであったか
ところで、この「中道派」というものの説明がまことに厄介で、どうにも説明に窮する、というのがいつわりないところである。
早稲田の国際派は「所感派」によってすべて「全学連内に巣くう分派主義者」とみなされ、その間の意見や立場の相違を一切無視して除名処分に付された。「除名確認」(本誌三号参照)を一読すればその好い加減さはすぐわかる。
本間たちが主として標的にしたのは吉田嘉清を中心とした自治会執行部のグループだった。これまたその一端は本誌三号に紹介されているが、いずれにしても「中道派」などはあまり相手にはされなかったのではなかろうか。
だから、「中道派」という呼称は「自治会執行部グループ」(宮本系)によってつけられたものではないかというのが私の解釈である。つまり、主流、「団」と宮本系にたいして相対的に独自の立場にたつ個々の活動家の動きをなんらかの「分派」的結合ではないかと推論した上での呼称ではなかったかと思うのである。たとえば、津金などは政経学部自治会議長としてあらゆるグループと全方位で接触を保ち、狭い派閥闘争に巻き込まれることを注意深く避けていた。政経や文学部の「中闘」で動いていた連中にしても決して一つの派閥に属していたわけではなかったのである。
ただし、このなかで神山の理論的、組織的立場を基本的に支持していた私はかなり明確に全学連中央グループのある種の傾向に批判的だったのはたしかである。
「戦略=レッド・パージ粉砕、戦術=全国一斉ゼネラル・ストライキ、組織方針=反戦学生同盟」という方針は「全学連党」の極左路線そのものと私にはみえた。細胞解散前に全学連中央グループが招集した全国学生細胞代表者会議の徹夜の討論のなかで私は坂本とこれへの批判的意見をのべたことがあるが、これによって私は「全学連内の右翼日和見主義分派」というおよそ見当違いのレッテルをはられることになった。
「十月闘争以後」
十月闘争で早稲田は学生の処分と大量逮捕、自治会活動の禁止など多くの困難をかかえたが、そのなかで私は日本共産党への復帰という途をえらんだ。
当時、浅田によると神山は『北京人民日報』の九・三社説のアピールに呼応してともかく「統一」の方向を目指すべきだという態度だったらしい。そして、これが私が「再建細胞」に復帰しようと考える基礎になったのはたしかである。
この当時のわれわれの態度については由井がその「遺稿」に客観的に書いているので繰り返さないが、それは五〇年末のことだったろう。津金と一緒に党員候補になつたが、キャップは藤井(翌年から松本にかわった)だった。
当時、すでに津金、水野、私は除籍されており、松本は留置場にいた。こうした政経学部の除籍組が中心になり、これに武田、滝沢、志村などが加わって酒の店「自由学校」が開店したのはこの年十二月のはじめだった。(これについては武田が『津金佑近 仕事と回想』に書いている)
しかし、これは「スパイ小俣事件」(これについては未発表の小文がありいずれ公表の機会もあるだろう)の発生などから東京都委から閉店を指示された。
同期生はすでに卒業していた。津金と私は自活の途を求めて当時の東日本重工(現・三菱重工)下丸子工場の日傭い労働者として働くことにしたが「自己批判が完成するまで学内に残れ」という細胞の決定で学内に戻された。
どうやら「四全協」で「武装闘争方針」に転換した党がその尖兵にする肚らしいと察知できた。「分派根性を叩きなおす」という露骨な態度があらわだった。
こうしたなかで、早稲田のグループは一九五一年三月中旬、はじめて神山と会うことにした。場所は目黒・柿の木坂の井川の家で浅田も同席した。水野、岩丸、近藤、西山、天野、私その他がいた。
神山が文書活動に限定して独自の「分派活動」を開始したのはこのときからであったが、それはとても腰の入ったものとはいえなかった。私は寺尾五郎、原田龍雄などと「内外資料」という情報紙の編集・印刷をやったり『平和活動の手引き』という小冊子などをつくっていた。
それはさておき、一九五一年八月の再度の国際批判で早稲田のグループと神山の関係には基本的に終止符がうたれた。条件をみながら各自個々に復党するというのが神山の方針だった。早稲田での行動の一切の責任は私が負うことにした。
これについて亀山幸三は『戦後日本共産党の二重帳簿』(現代評論社)で私を「神山分派活動を全部一人で背負いこんだ豪傑である」と書いているが、これは亀山一流の「勇み足」というほかない。亀山は神山の「分派活動」一切を背負ったように書いているが、そんなことができるはずがない。責任を自主的に負ったのは早稲田の活動についてだった。責任のがれをいうつもりは毛頭なかったし、余計なことをいって当時の勝ち誇った「一方の側」に無用の言質をあたえるいわれがなかっただけのことだった。
早稲田グループと神山の結び付きはこうして僅か五か月足らずの短い期間で終わった。党に復帰した連中を待っていたのは、小河内の山村工作隊行きだった。私は津金や由井が「山に行く」といったとき「オレは独自の途を歩む」といって組織との連絡を切った。
私と水野、西山は神山利夫(神山茂夫の実弟)が主宰していた「政経特報」(のち「自立経済」と改称)という通信社に入ったが、これは一年余という短い期間のことだった。党への復帰をめぐる意見の相違やその他いろいろなことがあった。
これぞ理想の「高い山」と確信して、峻険な途と知りながら勇躍して日本共産党早大細胞の一員として活動の第一歩を踏みだしたのはいまから五〇年も前のことだった。人間だれもがまっすぐな途を歩めるものではあるまい。コミンフォルム批判とか朝鮮戦争の実相、東欧共産主義の命運、スターリン主義粛清の真実など、そして、なによりも「ソ同盟共産党」の消滅と「ソ連邦」の解体といった予想もしなかった苦い体験がわが「アルト・ハイデルベルク」のあとにつづいた。そういう時代を生きたことに悔いはない。
われわれの旧早大細胞の活動の資料、記録はあらかた散逸し記憶もうすれていく一方である。また、これに続く時期の活動は現在の「党史」によって「なかったこと」とされている。しかし、せめて砂川闘争を闘った高野秀夫の時代までを俯瞰した「早大細胞史」は是非まとめておく必要があろう。
最後になったが、私は安東仁兵衛がやっていた『現代の理論』(一九六四年十二月号)に「共産党組織論の盲点―分派問題をめぐるソ党史の検討」という小論を書いた。まだ党籍があった頃だが、所属組織のキャップの通報で党本部に呼び出されて中央委員の土岐強と文化部長の山下文夫に査問され、すでに渡してあった原稿を取り戻せと強要された。
私はこれを断ってそれはそのまま発表された。「分派問題」についてのあらましの私の考えは不十分ながらそこにのべてある。一読願えるとありがたい。(一九九九・六・一)
一九五〇年旧制政経学部三年在学中除籍。(社)化学経済研究所事務局長。(社)海洋産業研究会常務理事等を歴任
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(関連ファイル)
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『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
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八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21〜24
Mun Kunsu『1951年「民戦の武装闘争開始」』経過 『1952年「民戦」の武装闘争』