日本共産党のソ連資金疑惑−闇の日ソ関係史
クレムリン秘密文書は語る−第2章全文
志位和夫のソ連資金流入否定談話−九三年四月
名越健郎
〔目次〕
2、はじめに(抜粋)
3、第2章、日本共産党のソ連資金疑惑(全文)
3、日本共産党の疑惑 志位和夫のソ連資金流入否定談話−九三年四月
8、袴田の暗躍
10、党本部建設にも疑惑
4、著者略歴
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『シベリア抑留めぐる日本共産党問題』1945〜1955「六全協」、ソ連からの資金援助
『日本共産党88年間の党財政データ』ソ中両党隷従46年間の党財政
風間丈吉『モスコウとつながる日本共産党の歴史』主たる費用はコミンテルンからの交付金
加藤哲郎『「非常時共産党」の真実─1931年のコミンテルン宛報告書』1カ月2千円要求
wikipedia『野坂参三』
1、宮地コメント−ソ連資金援助での不破・志位のウソ
名越健郎著『クレムリン秘密文書は語る−闇の日ソ関係史』(中公新書、236頁)は、ソ連崩壊3年後の1994年に出版された。この内容は、ソ連崩壊で初めて発掘・公表されたソ連秘密文書とそのデータに基づいているだけに、きわめて貴重である。このファイルは、「はじめに」の抜粋と、「第2章、日本共産党のソ連資金疑惑」の全文を転載した。著書は、現在絶版になっているが、この転載に当たって、名越健郎時事通信社編集局次長の了解を得た。
ソ連崩壊後、ソ連資金援助とその金額、党本部受領について、イタリア共産党とフランス共産党は公式に認めた。しかし、日本共産党−不破・志位は、国際的なソ連資金援助事実を否定してないが、日本共産党としての党本部受領を全面否認している。その否認論理はウソで詭弁でないのか。
1993年、不破哲三は、次のように否定した。自ら筆をとってソ連公文書の分析記事を長期間連載し、「日本共産党としてソ連に資金を要請した事実はなく、ソ連資金は野坂、袴田らソ連との内通者に渡ったもので、その資金は党への干渉、破壊活動と結び付いていた」と主張した。
1993年、志位和夫も、同一の詭弁を使った。名越健郎がモスクワから秘密基金の存在と日本共産党への資金流入疑惑を報道した際、彼は4月13日付で次のような談話を発表した。
「一、日本共産党として旧ソ連共産党に資金を要請したことはないし、党の財政にソ連資金が流入した事実はない。
一、秘密基金に関する資料の真偽を速断することはできないが、リストによれば、一九五五年に二十五万ドルが日本共産党に拠出されたことになっている。仮にそういう資金の流れがあったとしても、それは党として要請したり、受け取ったりしたものでは全くない。一九五〇年から五五年までの期間、党中央は解体し、党は分裂していた。分裂した一翼が亡命先で「北京機関」なるものをつくり、ソ連、中国はこれを公認して、援助を与えていたが、第七回党大会で統一を回復した日本共産党はこれを正規の機関として認めてこなかっただけでなく、今日では大国覇権主義の手先としての活動であったことを指摘している。
一、リストは五九年に五万ドル、六二、三年に各十五万ドルが拠出されたとしているが、その対象となったのは、それぞれ党にかくれてソ連とひそかに特別の関係を持ち、内通者の役割を果たしていた野坂参三や袴田里見(いずれもわが党から除名)らであり、それがわが党への干渉、破壊の意図と結びついたものであることは、先の見解で指摘した通りである。六三年分のリストに志賀義雄、神山茂夫という明白な内通者への各二千五百ドルの援助が明記されているのも、それを裏書きするものである。」
不破・志位の詭弁・ウソにたいする反論を下記第2章で名越健郎が正確に書いている。まったく説得力に欠けるウソなので、ここでは触れない。ウソの論証として、名越健郎は、(1)共産党本部への正式な資金援助と、(2)個人への秘密資金提供は、ソ連リストにおいて、厳密に区別されている、ともした。年度別データだけを確認する。
名越著書は、次のデータを載せた。これらの「特別ファイル」は日本共産党本部にも秘密基金から資金が渡っていたことを明記している。各年ごとのリストによると、一九五一年に一〇万ドル、五五年に二五万ドル、五八年に五万ドル、五九年に五万ドル、六一年に一〇万ドル、六二年に一五万ドル、六三年に一五万ドルの計八五万ドルが供与されたことになる。(P.91)
(表1、2)は、私が作成した。時価換算の計算式は別ファイルに載せた。(表1)の回数1〜3は、ソ連共産党によるシベリア抑留期間中の資金援助とその金額35万ドルで、他と区別した。1945年から61年まで、11年間もの日本国民60万人シベリア抑留期間中に、時価換算で108億円も党本部受領をしている事実をどう考えたらいいのか。第2章「野坂はソ連のスパイだった」における、野坂参三のシベリア抑留者にたいする民主化運動提案とソ連承認との見返り金額の側面はないのか。
(表1) ソ連共産党から日本共産党への資金援助回数と額推計
回 |
年 |
ソ連援助額 |
為替レート |
当時の1円 |
現在時価 |
受領 |
共産党側弁明 |
1 2 3 |
1945 1951 1955 |
(隠蔽?) 10万ドル 25万ドル |
360円 360円 360円 |
200円・倍 16.6円・倍 |
(?億円) 約72億円 約15億円 |
党本部 党本部 党本部 |
「野坂要請」 「大村領収書」 「北京機関」 |
計 |
35万ドル |
360円 |
108億円 |
党本部 |
|||
4 |
1963 |
15万ドル |
360円 |
10円・倍 |
約5億円 |
党本部 |
「野坂、袴田ら」 |
ところが、この4回とは別個に、日本共産党自身が認める、ソ連共産党にたいする資金援助の「要請」「受領」がある。『日本共産党の七十年・年表』にある。ただ、(表2)の1955年25万ドルと、1963年15万ドルは、(表1)と重複する。しかし、現日本共産党は、それら「要請」「受領」を、すべて「北京機関」、または、ソ連内通者個人としている。1958年の5万ドル、1959年の5万ドルという秘密文書の金額そのものの存在ついては、隠蔽している。
(表2) ソ連共産党からの別個の資金援助回数と額
秘密文書6回75万ドル金額受領の隠蔽・ウソ
回 |
年月日 |
形態 |
機関・個人 |
『七十年・年表』内容 |
年表 |
秘密文書 |
1 |
1952.9.6 |
受領 |
北京機関 |
ソ連資金を受け取ったという大村英之介名義の受領証。「北京機関」の指導下にあったものへの資金援助を証明 |
P.140 |
|
2 |
1954.1 |
受領 |
北京機関 |
ソ中両党の財政的従属下「北京機関」が「党学校」設置(関係者千数百人〜二千人) |
P.143 |
|
3 |
1955.1.13 |
要請 |
北京機関 |
「日本共産党中央委員会北京局」として、5人の署名で、ソ連共産党中央委員会に資金援助を要請 |
P.145 |
25万ドル |
1958 |
(秘密文書) |
(沈黙・隠蔽) |
/ |
5万ドル |
||
1959 |
(秘密文書) |
(沈黙・隠蔽) |
/ |
5万ドル |
||
4 |
1961.11.1 |
要請 |
野坂参三 |
ソ連共産党第22回大会に団長野坂、副団長宮本が出席。野坂はモスクワに残留して、ソ連側に資金援助を要請 |
P.169 |
10万ドル |
5 |
1962.3.1 |
受領 |
袴田里見 |
袴田、イズベスチヤ特派員に接触。ソ連からの資金援助を催促。7月14日付「受領書」 |
P.170 |
15万ドル |
6 |
1963.5 |
受領 |
袴田里見 |
袴田、ソ連の国家保安委員会(KGB)から5万ドル相当額を受領。ひきつづき6月にも(五中総での路線転換のくわだてへの「論功行賞」の性格をもつ) |
P.175 |
15万ドル |
(表1)と(表2)のデータの一部が、時期的に見て、同一資金援助になる可能性もある。しかし、日本共産党は、それについて触れていない。(表2)の6件中、日本共産党が、資金援助額を明記しているのは、袴田の5万ドル相当額だけである。下記の秘密文書の金額データを意図的に隠蔽している。名越健郎が発掘・公表しているからには、日本共産党も秘密文書の金額データを知っているはずである。
2、はじめに(抜粋)
本書は、一九八八年から九三年まで時事通信社のモスクワ特派員を務めた私が、ロシアのいくつかの公文書館で入手した非公開文書を基に、日ソ関係史の見直しを図ったものである。国家が滅びる時、大量の秘密資料や文書が漏出し、その機密が暴露される。一九九一年十二月のソ連邦解体は、ソ連という鉄のカーテンの内幕に触れる絶好の機会であり、新生ロシア指導部は当初、七十数年にわたる共産党政治の暗黒面を強調すべく、積極的に文書公開を行なった。その意味で本書はソ連消滅の副産物である。
革命以来、この厳しい旧ソ連の大地で幾多のドラマが展開されたが、そのドラマに日本人も無縁ではなかった。スターリン時代、理想郷を求めた岡田嘉子と杉本良吉が手を取り合って雪の樺太国境を越えたように、多くの社会主義者が労働者の祖国を目指した。彼らの末路は悲劇的だったとはいえ、歴史の跡付けから彼らのロマンを嗤うことはできない。
第二次大戦後は六四万人の日本兵がソ連領に連行され、各地で強制労働に従事した。バイカル−アムール鉄道(BAM鉄道) は日本人抑留者の血と汗で完成したといわれるし、極東の各都市には、日本人が建設した建物が多数残っている。スターリン強制労働の走りといわれる戦前の白海運河建設にも日本人の囚人が駆り出された記録が残っていた。
旧ソ連各地を旅行すると、年配の人から「昔この町に日本人がいた」「ラーゲリで日本人と働いたことがある」などと懐しそうに話しかけられる。抑留者の中には、社会主義に共鳴したり、捕虜であることを恥としてそのまま残留した人も少なくなかった。彼らのその後を追跡することは極めて困難だが、凍る大地の上空からこの地に住んだかもしれない日本人の運命を思うと、歴史の非情さを痛感したものだった。
革命・戦争期のソ連とかかわった世代が次第に鬼籍に入るなかで、日ソ関係の不幸な歴史はセピア色に変色した旧ソ連の公文書でたどることができる。
ロシア政府公文書委員会のルドリフ・ピホヤ委員長は「ロシアほど巨大な公文書館を擁する国は世界に存在しない。国立中央公文書館だけで二億に上る文書のファイルがあり、あらゆる政府機関、地方組織に文書室がある。個人に関する記録資料は、ドイツでは国民一人当たり一センチに対し、わが国では一〇〜一五センチの厚さになる」と述べていたが、共産党政治特有の書類信奉やロシア人の文学性も伴って、ソ連時代には膨大な量の文書が作成され、ソヴィエト時代の巨大な残骸として保存されている。
ソ連邦を継承したロシア政府は九二年春からソ連共産党中央委関係の文書を中心に公開を開始、国防省や参謀本部、検察局などでも部分的な閲覧が可能になった。しかし、最重要部門である共産党政治局関係の文書はロシア大統領府が管轄し、公開されていないし、機密性の高い国家保安委員会(KGB)の文書類も門外不出のままだ。
また、文書公開はその時の政治情勢に左右されるもので、ロシアの政治、外交が保守志向と大ロシア主義を強めるに伴い、公文書館の扉は次第に閉ざされてきた。本書に登場する文書は、「モスクワの春」というべき九二年春から九三年春までの民主改革時代に入手したものだ。
本書は全四章から成り、(1)岡田嘉子・杉本良書亡命事件、(2)日本共産党とソ連の癒着、(3)日本社会党の資金援助疑惑、(4)日ソ関係全般、を扱った。私自身、晩年の岡田嘉子さんとは親交があったが、越境後の過酷な運命について一切口を閉ざし、平静を装った岡田さんは最後まで大女優だったと実感した。文書の入手や読み方については、ウラディーミル・ボブレニョフ・ロシア軍検察局長官補佐官の協力を得た。
日本共産党と日本社会党の対ソ関係に関する文書は、ロシア政府公文書委員会現代資料保存センターなどで閲覧、入手した。日本の革新政党が冷戦時代、反核・平和のスローガソの裏で行なっていた対外政策の一断面を描写したが、もとより筆者の側に政治的な意図は一切ない。
3、第2章、日本共産党のソ連資金疑惑(全文)
旧ソ連の保守派が蹶起し、三日天下に終わった八月クーデター鋲圧直後の一九九一年八月二十五日は、七十数年にわたるソ連史を通じて、首都モスクワに最も解放感がみなぎった一日だったかもしれない。
前日、ゴルバチョフ大統領兼共産党書記長(当時)はクレムリンで側近らと四時間にわたる会議を開き、クーデターの陰謀に多数の共産党幹部が加担していたことから、「党中央委は解散という、困難だが誠意ある決定を下すべきだ」と共産党中央委の解体を通達、自らも書記長辞任を発表した。クーデター失敗後、党組織の解体現象がソ連各地で雪崩のように続くなか、自ら先手を打って共産党を解散し、社会主義に終止符を打つ歴史的決定だった。
このゴルバチョフ声明が前夜のテレビで発表された瞬間、多くの家庭で歓声が挙がったという。翌日のモスクワは夏空が真っ青に澄みわたり、中心部の赤の広場やクレムリン周辺に繰り出した市民の表情には解放感と余裕がみなぎっていた。共産党本部のあるスターラヤ広場には、多くの市民が集まり、封印された共産党本部前で、「パゾール(恥を知れ)」のシュプレヒコールを叫んでいた。
私もこの共産党解体の反響記事を書くため、赤の広場で市民の談話を拾ったが、「共産党は壮大なムダだった」「われわれは二十世紀を台無しにしてしまった」「われわれは何が何だかわからないグロテスクなものを造り上げてきただけだった」という発言が印象的だった。もはや共産党政治への逆戻りは絶対にあり得ないと確信したものだ。
ソ連共産党は既に国民の信頼を完全に失っていたとはいえ、一九一一七年の社会主義革命以来、政治、経済、文化を統率しただけでなく、国民生活に重々しく君臨してきただけに、共産党解体が市民に安堵感と将来への期待感を広げたのは当然だった。共産党解体や軍の地盤沈下、国家保安委員会(KGB)再編を経て、四か月後の十二月に超大国・ソ連があっけなく崩壊していく過程は、ソ連がイデオロギーと警察力、軍事力に立脚した「砂上の楼閣」だったことを示していた。
モスクワ市内に解放感が漂ったこの日、共産党中央委のニコライ・クルチナ総務部長がモスクワの自宅で不審な死を遂げた。クルチナはクーデターに参画したボルディン大統領府長官の後任として、一年前党総務部長に就任。それまでは一貫して党財務部門を歩み、ソ連共産党の対外援助など党の秘密資金も担当し、党の機密を知り尽くす人物といわれていた。
クーデター失敗からそれまでに、計画の首謀者とされたプーゴ元内相やゴルバチョフの軍事顧問で生粋の保守派軍人だったアフロメーエフ元参謀総長が自殺したが、クルチナの自殺は別の角度から関心を呼んだ。モスクワの旧共産党関係者で、「窓から飛び下りて自殺した」とするタス通信の報道を鵜呑みにする者はだれもいない。
クルチナは自宅のアパートの八階の窓から飛び下りたが、現場に駆けつけたロシア人記者によると、建物から落下地点までかなりの距離があり、自分の力でそこまで飛び下りるのは不可能だという。クルチナを追うように、中央委総務部幹部のゲオルギー・パブロフ、ドミトリー・リソボリクの二人が次々とナゾの死を遂げた。
この直後、党総務部や財務部の当局者は怯えながら、「私が自殺したと報道されても、信じないでほしい」と話していたという。私自身、クルチナの死因を調べようとして、党総務部の知人から「やめた方がいい」と忠告されたことを覚えている。結局三人の死は怪死のまま片付けられてしまった。
クルチナら三人は党の財務責任者として、共産党の対外援助部門を担当していたとされるが、第三国に対するソ連共産党の資金援助こそ党の最大機密の一つだった。
国際共産主義運動の総本山だったソ連が、世界の共産党や革命運動に膨大な援助を行なっていたことは知られているが、その規模や援助先は鉄のカーテンに隠されていた。共産党の機密を闇に葬るため、ある機関がクルチナら責任者の口を永遠に封じたことも考えられる。
実は、クーデター失敗直後、スターラヤ広場のソ連共産党本部は機密資料の焼却や隠蔽作業で大騒ぎだったらしい。共産党幹部多数が参画したクーデターが破綻した以上、勝利したエリツィン陣営が共産党の資産・文書を押収し、「共産党の犯罪」が白日の下に曝されるのは目に見えていた。だから、機密文書の多い国際部をはじめ、党本部の各部署で夜を徹して書類の焼却作業が行なわれたという。
だが、連邦権力を掌握したエリツィン・ロシア大統領は八月二十三日、共産党活動の停止を命じる大統領令を布告。これに伴い、党のスタッフは全員党本部から退去となり、建物は封印された。
エリツィンはその際、国有財産や国家資金が共産党によって非合法に流用されたとの判断から、「ソ連共産党のすべての動産、不動産、外貨、ルーブル、金、銀行口座をロシア政府に移管する」との大統領令を布告するとともに、共産党資金回収にあたる特別委員会を創設。委員会はアリストフ検事とドミトリエフ内務省組織犯罪捜査局長を委員長とし、法律家や検事、警察幹部ら計八〇人で構成され、極秘裏に活動した。
『イズヴェスチヤ』紙(九三年三月三十一日、四月一日)の調査報道によると、特別委は九一年末までに、海外への不法資金援助の調査・回収のため、援助受容国とみられるイタリア、フランス、米国、スペイン、英国、インド、ポルトガル、オーストリア、キプロス、フィンランド、ギリシャの一一か国に調査団を派遣した。調査団は各国の共産党本部などを訪れ、協力を求めたが、結局、援助資金は追跡できないままに終わった。各共産党とも、ロシア政府の代表団を受け入れたものの、総じて援助受け入れの事実を否定し、情報提供をしなかったという。
各国共産党にとって、ソ連から秘密資金を導入していたことが判明すると、壊滅的打撃を受けるだけに、援助受け入れを否定するのは当然だろう。ポルトガル共産党だけは援助を受けた可能性を認める一方、「ロシア政府には援助資金を回収する権限はない。ポルトガルの裁判所の承認が不可欠となる」と回答したという。
しかし、特別委の調査の結果、(1)対外経済銀行の七つの外貨口座が長年ソ連共産党の対外援助に特別使用された、(2)西側共産党の一部は秘密資金を企業経営に運用し、約三〇〇から五〇〇の企業がソ連秘密資金を基に設立された、(3)資金の受け渡しはKGBが担当していた、などの事実が判明。特別委は七つの口座に預金されていた現金約二〇〇〇万ドルを回収した。
秘密援助資金の回収は不調に終わったものの、その行方は膨大な共産党の公文書によって追跡することができる。共産党体制下では一切公表されなかった党の秘密文書は党本部だけで数千万点に上るとされ、その閲覧によって鉄のカーテンに覆われたソ連共産党史のナゾに肉薄することが可能だ。旧共産党文書は九一年八月三十日付でロシア政府公文書委員会(ビホヤ委員長)に移管され、九二年夏から部分的な公表が始まった。私はその半年後、共産党秘密援助に関する文書を入手することができた。
今日ではすっかり色褪せた「万国の労働者よ、団結せよ」というマルクスの有名なテーゼは、十九世紀半ばの欧州で共産主義運動、労働運動の国際化を促進したが、ロシア革命後の一九一九年、レーニンの呼び掛けによりサンクトペテルブルグで各国共産党、左翼運動の国際会議が招集され、第三インターナショナルと呼ばれるコミンテルン(国際共産党)が誕生した。当初国際革命組織だったコミンテルンはスターリン時代になると、ソ連の権威を高める翼賛機関に変質、ソ連は国際共産主義運動の盟主として各国の共産主義運動を支援し、各国共産党もモスクワの指令を無条件に受け入れた。
コミンテルンは第二次大戦中の四三年に解散したが、それはスターリンが米英などの同盟国に配慮した戦術的解散にすぎず、大戦後の四七年には後継機関としてコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)が誕生。ソ連を盟主とする国際共産主義運動は冷戦の高まりの中で脈々と受け継がれた。戦後、各国の共産主義運動支援の名目で密かに設立されたのが「ルーマニア労組評議会付属左翼労働組織支援国際労組基金」と称する秘密基金であり、スターリン時代の一九五〇年、ルーマニアのブカレストに創設された。
ソ連共産党中央委が五〇年七月十九日付で採択した基金設立に関する極秘の決議はこの基金の目的と内容をこう述べている。
《一、海外の左翼政党、進歩的労組や大衆組織に物質的支援を与えるため、ルーマニア労組評議会の付属機関として、「左翼労働組織支援国際労組基金」を創設する。
一、基金の初年度の規模は二〇〇万ドルとし、ソ連共産党が一〇〇万ドル(五〇パーセント)、中国共産党が二〇万ドル(一〇パーセント)を拠出し、ドイツ社会主義統一党、ポーランド統一労働者党、チェコスロヴァキア共産党、ルーマニア労働党(後の共産党)、バンガリー労働者党の五党がそれぞれ一六万ドル(八パーセント)を負担する。
一、援助の実行は基金運営委員会が全会一致で決定する。委員会のメンバーは各党間で毎年互選される。
一、一九五〇年の運営委はソ連、ハンガリー、ポーランド三党代表で構成する。
一、基金設立に関する各党との交渉はポノマリョフ同志(党中央委対外政策委副委員長)が指導する。》
秘密基金の本部がルーマニア労組の付属機関としてブカレストに設置されたことは、コミンフォルムの本部がブカレストに置かれたことと連動していよう。戦後の各国共産党の連絡組織として結成されたコミンフォルムは、冷戦下の共産党活動の連携を目的に欧州九か国の党が参画、フルシチョフによるスターリン批判後の五六年に解散するが、秘密基金はコミンフォルムの資金援助機関だった。ルーマニアへの設置はあくまで便宜上の措置であり、基金を実質的に動かしていたのはソ連にほかならなかった。クレムリンは戦後も国際共産主義運動拡大に並々ならぬ野心を持っていたのである。
基金は政権政党が各国の非政権政党を支援する形で発足したが、中国がソ連に次ぐ第二の拠出国だったことが注目される。四九年に革命を達成したばかりの中国は当時共産主義一枚岩と向ソ一辺倒のスローガンを唱え、「世界同時革命」の理想に燃えていたのだ。
秘密決議には、党対外政策委のグリゴリヤン委員長が五〇年八月十六日付でスターリンに宛てた秘密基金設立に関する次のような報告も添付されていた。
《「左翼労働組織支援国際労組基金」の設立に際して、ポノマリョフ党対外政策委副委員長が最近、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア三国を回り、意見調整を行なった。
三国党首脳はこの会談で基金創設を全面的に支持したが、会談の中で、ハンガリーのラコシ同志は「ハンガリー労働者党は既にこの数年、いくつかの共産党に資金援助を行なっており、五〇年にはフランス共産党に一五万ドルを供与した」と述べた。
ポーランドのビエルト同志は「ポーランド統一労働者党はフランス共産党に組織的支援を行ない、五〇年に約一〇万ドルを供与した」と付け加えた。
チェコのゴトバリド同志は、(1)チェコ共産党は既にフランス共産党に一〇万ドルの援助を与えた、(2)現在チェコにはフランス共産党の活動家五〇人やイギリス共産党の活動家五〜七人が滞在している、(3)チェコは西欧とモスクワの通過点となり、多くの国際会議も開かれることを挙げ、「基金に毎年一六万ドルは拠出するが、それ以上の援助拠出は不可能だ」と語った。》
この文書から、フランス共産党など西欧共産党は、革命が成立したばかりの東欧諸国に寄生し、援助を強要していた構図が浮かんでくる。小国の東欧各党は本音では秘密基金への拠出に乗り気でなかったことが行間から読み取れる。
私の手元には、一九五〇年、五一年、五五年、五八年、五九年、六一年、六二年、六三年、七三年、九〇年の十年分について、「左翼労働組織支援国際労組基金」が各国の共産党や左翼組織に供与した援助のリストがある。「極秘」「特別ファイル」の刻印が押され、一部のリストは手書きで書かれている。ソ連共産党の内部文書には、「部内用」「秘密」「極秘」「特別ファイル」の四段階の機密指定があり、「特別ファイル」が最高機密を意味する。
初年度の五〇年は、ソ連共産党中央委決議に沿って、ソ連、中国など七か国共産党から計二〇〇万ドルの資金が拠出され、(1)フランス共産党(六〇万ドル)、(2)イタリア共産党(四〇万ドル)、(3)フィンランド共産党(三七万ドル)、(4)英国共産党、オーストリア共産党(各一〇万ドル)の順で、計二一の共産党に送られた。援助額は毎年、各国共産党が基金運営委員会に必要な希望額を提出、委員会がこれを基に決定していた。
翌五一年には、基金の規模は三二三万ドルに拡大、一四か国の党に供与され、日本共産党への一〇万ドルの援助が初めて計上されている。中国共産党は前年の三倍以上の六二万五〇〇〇ドルを拠出。日本共産党だけでなく、インド共産党、トルコ共産党などアジアの共産党への援助も始まった。(P.83)
「左翼労働組織支援国際労組基金」の
各国共産党に対する援助額
1951年(計323万ドル) |
1955年(計624万ドル) |
1961年(計1044万ドル) |
1963年(計1530万ドル) |
1 フランス共産党(120万ドル) 2 フィンランド共産党(87万ドル) 3 イタリア共産党(50万ドル) 4 イタリア社会党(20万ドル) 5 日本共産党(10万ドル) |
1 イタリア共産党(264万ドル) 2 フランス共産党(120万ドル) 3 オーストリア共産党(50万ドル) 4 フィンランド共産党(45万ドル) 4 イタリア社会党(45万ドル) 6 日本共産党(25万ドル) |
1 イタリア共産党(400万ドル) 2 フランス共産党(150万ドル) 3 フィンランド共産党(60万ドル) 4 オーストリア共産党(50万ドル) 5 クルド民主党(イラク,33.5万ドル) 15 日本共産党(10万ドル) |
1 イタリア共産党(500万ドル) 2 フランス共産党(150万ドル) 3 インドネシア共産党(100万ドル) 4 フィンランド共産党(65万ドル) 5 ベネズエラ共産党(60万ドル) 19 日本共産党(15万ドル) 79 日本共産党志賀グループ(5千ドル) |
この年のリストは「五一年分の基金が枯渇してしまったため、フランス共産党への六〇万ドル、日本共産党への一〇万ドル、インド共産党への一〇万ドルなどはソ連共産党の資金から渡された」と述べ、日本共産党へは「秘密基金」と別枠でソ連から直接供与したことを明らかにしている。
一九五五年には基金の規模は六二四万ドルと五〇年の三倍以上に膨れ上がった。五三年のスターリンの死や、その後の雪解けとは関係なく、ソ連が舞台裏で国際共産主義運動を操っていたことが読み取れる。五五年はソ連共産党が二九〇万ドル、中国共産党が二〇万ドル、東欧五党が二〇万〜二五万ドルをそれぞれ拠出、日本共産党を含む二五党に資金援助された。
その後、基金は五九年(八七五万ドル、四三党)、六三年(一五三〇万ドル、八三党)、七三年(一六六八万ドル、六九党)と年々拡大し、ペレストロイカの挫折がはっきりしたゴルバチョフ時代の九〇年(二二〇〇万ドル、七三党)まで、実に四十年にわたって続いたことが文書で立証されている。
四十年間の全リストは入手できなかったが、文書を管轄するロシア政府公文書委員会の当局者は、秘密基金を通した資金援助総額は四十年間で計五億ドル以上に上り、大口の援助受容党は、(1)フランス共産党、(2)イタリア共産党、(3)米国共産党の順だと指摘していた。
イタリア共産党は六二年には五二〇万ドルと全体の四三パーセントの資金を受けるなど突出していた。ユーロコミュニズムという自主路線を掲げたベルリングエル・イタリア共産党書記長は七五年、ソ連からの資金援助を拒否することを決定、七〇年代後半からは個人を除いてリストから消えた。「クレムリンの長女」と呼ばれるほどソ連べったりだったフランス共産党も、やはり大口の秘密援助を受けていた。
秘密基金の援助先は西欧の共産党が中心だが、六〇年代に入ると、アジアや中東、アフリカ、中南米の共産党、左翼組織にも広げられ、ソ連の世界戦略と連動していたことがわかる。
アジアでは、六三年にインドネシアのスカルノ体制が動揺すると、前年援助がゼロだったインドネシア共産党に一気に一〇〇万ドルを提供、同党はこの年の援助リストの第三位になった。六三年のインドネシア共産党の武装蜂起は中国共産党の全面支援によるものといわれていたが、ソ連共産党からも秘密援助があったわけで、秘密基金の目的の一つに、第三世界の内政撹乱があったのである。
また、七三年のリストによると、正体不明だったフィリピン共産党が秘密基金から五万ドルを受けていたことが判明。この時点では存在しないといわれていたネパール共産党も二万ドルを受けたと援助リストに記載されている。
中国共産党はソ連に次ぐ資金供給国だったが、中ソ対立が表面化する六〇年代初めまでには、基金から脱退している。
秘密基金は本来運営委員会による合議制を原則としたものの、次第にソ連共産党の単独決定に移ったようで、「特別ファイル」に入っている六三年一月のソ連共産党中央委決議は、党国際部が提出したリストに基づいて、各党別の援助額を割り当てている。
決議はさらに、「資金の引き渡しはソ連国家保安委員会(KGB)に依頼する。セミチャストヌイ同志(KGB議長)に対し、援助供与に際しては、ルーマニア労組付属の国際労組基金からの援助であることを伝達するよう要請する」と述べており、KGBが現金引き渡しを担当していたことが確認された。大抵は、各国のソ連大使館に駐在するKGB要員が各党指導者に手渡していたもようだ。
前出の『イズヴェスチヤ』紙の記者はロシア検察局捜査官の話として、各党の援助要請と受領ぶりをこう書いている。「アメリカ共産党のガス・ホール書記長はひっきりなしに巨額のドルを請求した。大統領予備選の前になると、彼は米国ではもうすぐ共産主義が勝利します、もう一〇〇万ドルばかりお送りくださいという調子の楽観主義に満ちた手紙をソ連共産党指導部に送りつけた。彼は七一年から九〇年までに四〇〇〇万ドル以上のカネを受けたが、当初領収書は警戒して暗号で書いていた。フランス共産党は積極的に党のカネを企業に投資した。彼らは文書に証拠を残さず、領収書に関しては、自分の正体を見せないよう十分注意していた。イタリア共産党はざっくばらんで、資金の要請をソ連共産党中央委に直接送り、領収書にも本名を書き、金額を明示していた」
こうして、世界における共産主義運動拡大を目的としてスターリン時代に創設された秘密援助は、フルシチョフ、ブレジネフ時代からアンドロポフ、チェルネンコ時代を経て、新思考外交を推進したゴルバチョフ時代まで延々と毎年続いていたのである。ファーリン共産党国際部長が八九年十二月五日付で中央委に提出した報告書がそれを証明している。
《共産党国際部の問題について
左翼労働組織支援国際労組基金はソ連共産党と他の社会主義諸国共産党の拠出金によって長年にわたり運営された。しかし、七〇年代末からポーランドとルーマニアが、八七年からハンガリーがそれぞれ外貨支出の困難を理由に参加を中止。八八、八九年にはドイツ社会主義統一党、チェコ共産党、ブルガリア共産党が理由の説明もなく、割当の拠出額を基金に振り込まなかったため、ソ連共産党だけの拠出で維持されることになった。これら三党の八七年の割当額は計二三〇万ドルで、全体の二二パーセントだった。
ソ連共産党の一九八九年の基金への納付金は二二五〇万外貨ルーブル(二二〇四万ドル)だった。八九年には、基金から世界七三の共産党、労働党、革命・民主勢力に計二一二〇万ドルが供与された。
基金から長期にわたって定期的に一定の資金を得てきた各党はこの国際的団結の形態を高く評価し、他のいかなる援助形態に変更することも不可能だと考えている。これらの党の大半はこれまでに、来年の援助受け入れの要請を提出しており、一部の党は増額を求めている。
このため、ソ連共産党は同基金への拠出を続け、九〇年も今年と同水準の約二二〇〇万ドルを振り込むのが妥当と考える。
ソ連共産党国際部長 ワレンチン・ファーリン》
ファーリンは駐西独大使を経て、八八年から九一年の党解体まで国際部長を務めた。共産党の犯罪を裁く九二年からのクーデター裁判では証人喚問されたが、秘密基金の存在は公表していなかった。
党中央委はこの提案を受けて八九年十二月十一日付で、九〇年に左翼労働組織支援国際労組基金に二二〇〇万ドルを納入することを決定。ゲラシチェンコ・ソ連国立銀行総裁に対し、「特別用途」のため、二二〇〇万ドルをファーリン部長に提供するよう指示した。
憲法上は一社会団体にすぎなかったソ連共産党が、膨大な国有財産の使用を紙切れ一枚で指示すること自体にその違法性が象徴されている。
この中央委決議には、党書記ら一〇人が手書きで賛成の署名をしているが、その中に、ペレストロイカの生みの親、アレクサンドル・ヤコブレフ(後にオスタンキノ・テレビ社長)の「ザ(賛成)」と書かれた署名があった。ゴルバチョフの最有力ブレーンで、共産党の横暴を阻止する立場にあった改革派のヤコブレフが、西側や第三世界の内政撹乱につながる秘密基金を支持していたとは驚きであり、その政治姿勢が疑われかねない。
党書記長だったゴルバチョフも当然基金の存在を知っていたはずである。政権晩年には西側諸国にソ連経済立て直しの緊急支援を訴える一方で、裏ではスターリン体制の遺物というべき秘密基金を公然と運用していたわけで、文書はゴルバチョフの政治姿勢も問い質している。(P.89の証拠写真)
「国際労組基金」から日本共産党に25万ドルが
支払われたことを示すソ連共産党文書(1955年)
エリツィン大統領がクーデター鎮圧後直ちに基金の停止措置を取ったのは、八五〜八七年に共産党政治局員候補を務め、党中枢にいたエリツィンが、基金の存在を承知していたためとみられる。
最後の年の国際労組基金の送り先は、(1)ポルトガル共産党一〇〇万ドル)、(2)ギリシャ共産党(九〇万ドル)、(3)イスラエル共産党(八〇万ドル)、(4)チリ共産党(七〇万ドル)の順で、以下、ベネズエラ、アルゼンチン、エルサルバドルなど中南米の共産党が続く。主要先進国の共産党は一つもなく、国際労組基金自体が形骸化し、惰性で運営されていたことがわかる。
それにしても、九〇年といえば、東欧諸国が八〇年代末の変革によって脱社会主義を完了し、ソ連自体、経済困難や国民の急進改革志向で体制の存続が危ぶまれていた時期。この期に及んで、なお各国の共産主義運動を支援しようとする姿は、もはやロシア特有のアネクドート(小話)の世界だが、結局、秘密基金はソ連共産党解体が近づくとともに自然消滅した。
3、日本共産党の疑惑
ところで、これらの「特別ファイル」は日本共産党にも秘密基金から資金が渡っていたことを明記している。各年ごとのリストによると、一九五一年に一〇万ドル、五五年に二五万ドル、五八年に五万ドル、五九年に五万ドル、六一年に一〇万ドル、六二年に一五万ドル、六三年に一五万ドルの計八五万ドルが供与されたことになる。当時の八五万ドルは、三十年後の貨幣価値では一〇億円以上に匹敵する巨額の援助だったといえよう。
秘密基金からの各党への援助額はそのつどソ連共産党中央委で決定されており、たとえば六二年の一五万ドルの日本共産党向け援助を承認する文書も残っていた。
《ソ連共産党中央委国際部議定書(六一年十二月十一日)
一、一九六二年に日本共産党に対し、一五万米ドルの資金援助を提供することを適切な決定と認める。
一、セミチャストヌイ同志(KGB議長)は日本共産党への上記援助資金の引き渡しに責任を持つものとする。引き渡しに際し、「左翼労働組織支援国際労組基金」からの援助であることを周知させるよう通達する。》
事実なら、在京ソ連大使館のKGB員から日本共産党に対して一五万ドルの秘密資金が手渡されたはずである。
日本の政治資金規正法は外国の内政干渉を防ぐため、外国からの政治資金導入を禁止。資金受け入れは違法行為となり、禁錮三年以下ないし罰金刑と規定されている。
リストによれば、六三年に国会の部分的核実験停止条約批准審議でソ連を支持して賛成票を投じ、日本共産党を除名された志賀義雄と神山茂夫に同年それぞれ二五〇〇ドル、七三年に「志賀グループ」に五万ドルが計上されている。日本の団体、個人名はこれ以外には援助リストに載っておらず、日本社会党についても記載がない。
ソ連が日本共産党を除名された志賀ら「日本のこえ」グループに定期的に金銭援助を与えていたことは、次の文書からもうかがえる。
《アレクサンドロフ在日ソ連大使館員の党中央委宛て報告(六四年二月二十八日)
二月二十五日夜、志賀義雄を自宅に訪ね、モスクワからの電報と「贈り物」を手渡した。》
《ヴィノグラードフ駐日ソ連大使の党中央委宛て報告(六四年三月八日)
三月一日、志賀義雄と大使館で会談した。志賀は彼が非常に苦しい物質的状況にあることを強調したうえで、昨年末までに彼に提供されたような援助を与えるようソ連共産党中央委に伝えてほしいと頼んだ。》
《アニシモフ一等書記官の党中央委宛て報告(六六年四月十六日)
三月二十八日、志賀の側近である浅原正基「ルナ」代表と大使館で会談した。浅原はこの中で、「日本共産主義者統一準備委員会」創設の財政基盤となる貿易会社「ルナ」(資本金一〇〇〇万円)を設立したことを伝え、特別な配慮を要請した。手始めにソ連が同社に木材五万立方メートルを売却するよう求めた。》
これらの援助が国際労組基金から捻出されたものかどうかは不明だが、ソ連共産党がソ連への忠誠を誓った論功行賞として、または、日本共産党に対する撹乱の目的で志賀グループを支援したことは間違いない。
日ソ両共産党関係は六三年の原水禁問題を契機に路線対立を強めることから、六三年を最後に秘密基金を通じた資金援助は停止された。五〇〜五五年の極左冒険主義を清算した日本共産党が、六〇年代の中ソ論争やヴェトナム戦争のはぎまで、ソ連への依存を脱したことは評価できる。だが、五八年の党大会で「自主独立路線」を打ち出した同党が、六三年まで秘密基金から援助を導入していたとなれば、それまでの自主独立路線自体が疑われかねない。
志位和夫のソ連資金流入否定談話−九三年四月十三日付
これに対し、日本共産党側は資金導入を一貫して否定、「援助はあくまで一部の内通者が要請したもので、党中央は一切関与していない」との立場を貫いている。私がモスクワから秘密基金の存在と日本共産党への資金流入疑惑を報道した際、志位和夫書記局長は九三年四月十三日付で次のような談話を発表した。
「一、日本共産党として旧ソ連共産党に資金を要請したことはないし、党の財政にソ連資金が流入した事実はない。
一、秘密基金に関する資料の真偽を速断することはできないが、リストによれば、一九五五年に二十五万ドルが日本共産党に拠出されたことになっている。仮にそういう資金の流れがあったとしても、それは党として要請したり、受け取ったりしたものでは全くない。一九五〇年から五五年までの期間、党中央は解体し、党は分裂していた。分裂した一翼が亡命先で「北京機関」なるものをつくり、ソ連、中国はこれを公認して、援助を与えていたが、第七回党大会で統一を回復した日本共産党はこれを正規の機関として認めてこなかっただけでなく、今日では大国覇権主義の手先としての活動であったことを指摘している。
一、リストは五九年に五万ドル、六二、三年に各十五万ドルが拠出されたとしているが、その対象となったのは、それぞれ党にかくれてソ連とひそかに特別の関係を持ち、内通者の役割を果たしていた野坂参三や袴田里見(いずれもわが党から除名)らであり、それがわが党への干渉、破壊の意図と結びついたものであることは、先の見解で指摘した通りである。六三年分のリストに志賀義雄、神山茂夫という明白な内通者への各二千五百ドルの援助が明記されているのも、それを裏書きするものである。」
日本共産党はソ連資金疑惑で、国際共産主義運動の秘密資金の流れがあったことは暗に認めながらも、それを受け取っていたのは、ソ連と内通していた野坂、袴田らソ連追随グループであり、党中央は一切関与していないとの立場を貫いている。そこには、資金を受け取っていないという具体的証拠は示されておらず、すべての責任はかつての同志に押しつけられようとしている。
日本共産党は五〇〜五五年に分裂するものの、五五年に一応の統一を回復、同年の六全協で野坂、宮本コンビによる指導体制がスタートする。五八年の第七回党大会で野坂議長、宮本書記長体制に移行、八二年に野坂が名誉議長に退き、宮本が議長に就任するまで、両者の指導体制は二十数年続いた。副委員長だった袴田里見は七七年に除名されるが、(1)野坂、(2)宮本、(3)袴田、という党内序列が長期間日本共産党の看板だった。
野坂参三元名誉議長は九二年に党を除名されるまで、清廉潔白な活動家とされており、生活も地味で、巨額の資金を独り占めしたとは考えられない。袴田元副委員長は長年、宮本議長の腹心といわれ、その活動を宮本議長が知らなかったとは思えない。二人がソ連資金を自己の目的に使用した形跡はないし、党内の厳しい相互監視体制もそれを許さなかっただろう。
また、国際労組基金の援助リストは「日本共産党の志賀義雄同志」(六三年)、「ジンバブエ・アフリカ民族同盟のロデジヤ同志」(同)などと党名と個人名を区別しており、党に対する支援は「日本共産党」「イタリア共産党」などとはっきり明記している。分裂時代の五一、五五年はともかく、五八〜六三年については、秘密基金が日本共産党本部に流れた疑いは払拭しきれない。一方、日本共産党が国際労組基金以外からも、ソ連から融資や便宜供与を受けていた疑惑が後に示す旧ソ連文書に明記されており、そこには外部には窺い知れない共産主義者間の同志的連帯が読み取れるのである。次に、ソ連秘密文書に基づき、日ソ両共産党関係の影の部分に迫ってみよう。
「日本共産党の希望の星」から「堕ちた偶像」へと波乱の革命人生を送った野坂参三元日本共産党名誉議長は九三年十一月十四日、百一年の生涯を閉じたが、日本共産党が野坂をどう断罪しても、野坂が戦前、戦後を通じ、党の顔として君臨し、党を指導した事実は残る。野坂の死こそ、「日本の共産主義運動史上、最も謎に包まれた男が、すべての謎を残したまま、ヤミに消えて行ってしまった」(立花隆)といえるが、その暗躍ぶりはソ連秘密文書にも大量に記録されている。
野坂参三が戦前のコミンテルン活動家時代、同志の山本懸蔵をソ連に密告した経緯は既に知られている。米国亡命中の三八、三九年、コミンテルンのディミトロフ書記長に対し、「山本懸蔵は日本官憲のスパイの疑いがある」と根拠のない密告を行ない、粛清に追い込んだ揚げ句、ソ連側に工作して山本の死亡年(三九年)を四二年と捏造、さらに密告の事実を隠蔽するため山本の妻、関マツの帰国を執拗に阻止する経緯は、『闇の男−野坂参三の百年』(文芸春秋)に詳しい。日本共産党は九二年、ソ連解体で噴出した五十年前の真実を突き付けられた結果、「山本を裏切り、スターリンの大量弾圧に加担したことは人間的にも恥ずべき行為であり、党規約に違反する」として、名誉議長の地位を解任、党からも除名した。
スターリン粛清がピークだった同時期、岡田嘉子も「杉本良吉はスパイ」と自白したが、二つの密告は次元の全く異なる問題である。岡田嘉子は拷問と脅迫によって虚偽の自白を強いられた被害者であり、彼女はそれによって死ぬほど苦しんだ。しかし、野坂は保身のため、自ら進んで山本懸蔵を密告した加害者でありながら、戦後も何食わぬ顔で日本の革命運動を指導。自伝『風説のあゆみ』では、山本を「刎頚の友」と呼び、自らが山本の釈放に奔走したかのように書いていた。
同志密告は、「闇の男」野坂参三の謎の行動の一章にすぎなかった。
野坂が第二次大戦直後、亡命先の中国からそのまま帰国せず、モスクワを訪問して、ソ連共産党と戦後の日本民主化の青写真を秘密裏に討議していたことはあまり知られていない。四六年一月に凱旋帰国した野坂は「民主統一戦線結成」「愛される共産党」を掲げて一躍共産党ブームを呼ぶが、実は戦後の新路線は、野坂のモスクワ秘密会談で生み出されたもので、モスクワ会談が戦後の日ソ両共産党関係史の原点だった。
秘密会談に関するソ連共産党文書は、野坂とスターリン体制下のソ連が戦後の日本民主化を綿密に打ち合わせていたことを物語っており、空白だった終戦時のソ連の対日政策が浮かび上がってくる。
一九二二年の日本共産党創設時からのメンバーである野坂は、三一年から十五年にわたってソ連や米国、英国で多彩な活動を展開、コミンテルンの執行委員を務め、「オカノ・ススム」のコードネームで呼ばれていた。四〇年からは中国共産党の解放区延安に潜入、大戦中は旧日本兵捕虜ら約五〇〇人から成る日本反戦同盟を設立し、反戦運動を指導した。戦後、日本共産党指導者の地位確立を狙っていた野坂にとって、帰国前にソ連との関係を調整しておく必要があったのだろう。
日本はコミンテルンから終始注目されていた国の一つで、日本共産党自体が一九二二年、コミンテルンの指示に基づき、日本支部として創設された。二七年と三二年に発表されたコミンテルンの「日本テーゼ」は、(1)天皇廃位、(2)地主の土地解放、(3)工場、銀行の国有化などレーニンの有名な四月テーゼを下敷きにした内容だった。
第二次大戦直後はスターリンにとって世界革命の理想を推進する絶好の機会であり、バルト三国やモルドヴァを版図に加えたソ連は東欧の社会主義化を着実に推進、フラソス、イタリア、ギリシャなどでも左翼政権誕生の可能性が生まれていたし、東方でも中国、インドシナ、朝鮮で前途有望な事件が起きていた。むろん、スターリンにとって世界革命とは、クレムリンを盟主とするソ連の勢力圏拡大にほかならなかった。
こうした状況の中で、戦争で壊滅的状況に陥り、米軍に占領された日本をスターリンが黙って見ているはずはなかった。「反動的な米帝国主義の占領と抑圧」「労働者階級と農民の貧窮化」という戦後日本の状況は、マルクス・レーニン主義理論に従えば、必然的に革命の勃発にたどり着くはずだったからだ。
スターリン指導部が日本の終戦後の混乱を革命・民主化闘争の好機とみなしたことは間違いないが、ソ連にとって日本進出の足がかりは当面日本共産党以外になかった。だが、当時の日本共産党は徳田球一や志賀義雄、宮本顕治ら数少ないリーダーは投獄されて党中央は存在せず、ゼロから党を再建しなければならなかった。そこでソ連が注目したのがコミンテルンでも知られた野坂の存在だった。
野坂の招請をソ連指導部に提案したのは、コミンテルンの元書記長だったブルガリア人のディミトロフ・ソ連共産党国際情報部と、ソ連共産党で一貫して対外関係部門を担当したポノマリョフだった。二人はソ連の対日開戦の翌日に当たる四五年八月十日付でスターリン、モロトフ、マレンコフという最高指導部に計五ページの報告書を送り、野坂の略歴や活動、思想を紹介したあと、「毛沢東ら中国共産党指導部は野坂と反戦同盟に高い評価を与えている」「野坂のグループは日本における新体制樹立に際し、利用価値があると思われる」と述べ、野坂のモスクワ招請を提案している。ソ連は参戦と同時に、敗戦後の対日工作にも着手し、野坂を日本における影響力拡大の拠点に据えることを考えたとみられる。
野坂は四五年十月初め、モリ、ヤマダ、ウメダの三人の側近とともに、ソ連軍情報将校のソスコフ少佐に付き添われ、極秘裏に中国のカルガンからモスクワ入りした。野坂は到着後、人目につかない場所に送られ、外出も禁止。当時モスクワにいた妻と娘にも会えなかった。
秘密会談でソ連側代表を務めたのは、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)のF・クズネツォフ大将で、ポノマリョフも同席した。会談は四五年十月から十一月にかけてクズネツォフの執務室で通訳を介して断続的に行なわれ、交渉の進行はモロトフ外相が管轄、モロトフから直接指示が出された。交渉の結果はマレンコフ、ベリヤというスターリンに最も近い側近に報告されており、スターリンは野坂との会談を掌握していたと思われる。
私の入手した資料は、(1)クズネツォフらが書いた野坂との会談記録、(2)ソ連側が作成した野坂の経歴、(3)クズネツォフらがマレソコフ、ベリヤにあてた日本共産党の政治路線の報告など約一〇〇ページに上るが、これを基にモスクワ秘密会談を再構成してみよう。
ポノマリョフは冒頭、「ソ連は敗戦後民主国家になった日本と友好関係を築くことを望んでいる。米帝国主義の占領下にある日本の多くの困難を十分理解している」と表明。野坂はソ連の対日政策や日本共産党の諸課題、今後の関係維持、支援問題を討議したいと答えた。
会談の主要テーマは、日本共産党の新しい党路線や日本民主化、日ソ両共産党の関係、野坂自身の日本帰還問題などで、野坂が自らの見解を表明、ソ連側に助言と支援を仰ぐ形で進行した。野坂は敗戦後の日本で共産党がとるべき政治戦略をソ連共産党に提示したが、その内容は共産主義者とは思えないほど柔軟で、むしろ社民路線に近い内容だった。
たとえば、天皇制について野坂は四五年十月三十一日の会談で、「天皇は政治、軍事的役割のみならず、神的な威信を備えた宗教的機能を果たしている」と天皇制存続を容認する発言を行なっている。
《日本大衆の天皇への崇拝はまだ消えていない。日本共産党が天皇制打倒のスローガンを掲げるなら、国民から遊離し、大衆の支持は得られないだろう。第一二回コミンテルン大会まで、日本共産党は君主制打倒を要求してきたが、現実にはその要求は無力だった。延安で反戦同盟に参加した日本人捕虜とこの問題を討議したが、天皇制打倒のスローガンは不評だった。天皇制廃止の問題を提起することは、既に自由党などから公然たる抵抗に遭っている。
この問題では、第二次大戦後の欧州の経験に配慮する必要がある。特にイタリアでは、君主制が維持されながら、同時に民主政府も存続している。戦略的には打倒を目指しても、戦術的には天皇に触れないのが適当だ。当面は日本における絶対主義体制の廃止、民主体制確立というより一般的なスローガンを掲げながら、天皇制存続の問題は国民の意思に沿って決定すると宣言した方が適当だろう。国民の意思にゆだねることは、ユーゴスラヴィアでも行なわれている。天皇制問題の決定は、米国やソ連の立場にも配慮する必要がある。
天皇の宗教的機能を残すことは可能だ。皇太子を即位させ、一切の政治的機能を持たない宗教的存在にとどめることもできる。》
この野坂の主張は西欧型の立憲君主制に近く、共産主義者とは明らかに相容れない立場である。モスクワでの天皇制容認発言が公表されると、野坂は名誉議長時代の一九九二年八月十六日付『赤旗』紙上で、「天皇に対する当時の私の配慮は、祖国を遠く、かつ長く離れて孤立した環境にあったことも反映して、今日の時点からみれば妥協的にすぎたきらいがある」と自己批判を迫られた。
野坂が、徳田球一ら当時の共産党指導部の天皇制打倒要求から離れて天皇制を容認した理由は明らかでないが、野坂自身、理論や路線より自己保身や妥協を優先する戦術型政治家であり、戦後の党内論争で一貫して主流派についてきたのもその変わり身の早さにあった。現に、コミンテルンが一九五〇年、野坂の平和革命路線を「反社会主義的」と非難すると、地下に潜り、暴力革命路線に転じている。
興味深いのは、クズネツォフがモロトフ外相に宛てた報告の中で、「天皇制の問題に関する野坂の見解は賛同し得る」と述べ、天皇制存続に同調していることだ。
また、ポノマリョフも野坂との一連の会談を踏まえた四五年十一月十三日付の報告書で、天皇制について、「現在の状況下で日本共産党がとるべき立場は、天皇ヒロヒトの戦争責任を提起し、息子の地位継承ないし摂政評議会の設立を要求するのが望ましい。基本的に日本の天皇は政治的、軍事的権力を削除し、宗教的機能だけにとどめるべきだ」とし、やはり天皇制存続を容認している。
実はこの野坂の見解は、四六年からの極東国際軍事裁判(東京裁判)でソ連が昭和天皇訴追に反対したことに影響を与えたかもしれない。
昭和天皇を戦犯として裁くかどうかは東京裁判の最大の焦点で、当時オーストラリアや中国が天皇訴追を要求、米国内にも訴追論があったが、東京裁判に臨むソ連側代表団が東京で提出した戦犯リストに昭和天皇の名はなかった。
これについて、エリツィン大統領の軍事ブレーンで戦史家のボルコゴノフ大統領顧問は、「第二次大戦後、最高指導者のスターリンが天皇制存続を望み、昭和天皇を戦争犯罪人にする動きに反対を唱えた」ことを明らかにした。
ボルコゴノフによると、スターリンは四六年五月に開廷した東京裁判の直前、モロトフ外相に対し、「ソ連は昭和天皇に戦争責任を負わせるという意見に賛成しない。軍国主義勢力を裁くべきだ」と文書で通達。モロトフはこの方針を駐ソ米国大使に口頭で伝達したとされる。この文書は大統領府公文書館に保存されているという。
スターリンが天皇制存続を事実上支持した理由について同顧問は、(1)天皇制による「封建体制」に置くことで、日本が米国型政治体制へ移行し、米国の傘下に入ることを防ごうとした、(2)スターリンは各国の君主に敬意を払っていた、(3)米国が訴追しない方針を決めており、米国と衝突するのは得策ではないと判断した、などと分析していた。同顧問はこの中で、スターリンが満州帝国のラスト・エンペラー溥儀(ふぎ)と文通などを通じて交遊を結び、溥儀を可愛がっていたという意外な事実を公表したが、自らを「皇帝」とみなしたスターリンには各国の君主への妙なコンプレックスがあったようだ。
昭和天皇不起訴は最終的には同年十月、連合国軍最高司令部(GHQ)の意見として決まったが、ソ連が昭和天皇訴追を避けたことも、天皇制存続に一定の役割を果たしたかもしれない。
野坂自身は『赤旗』紙上で、ソ連が天皇不起訴を主張したこととのかかわりについて、「関係ない」と否定している。しかし、終戦直後のソ連には日本分析のための有力な情報パイプがなかったことからみて、野坂の見解がソ連の政策決定に一定の影響を与えたとの仮説も成り立ち得る。
野坂は天皇制だけでなく、戦後日本の民主化構想について、予想外に柔軟な考え方をソ連側に提示した。
農地改革では、「日本の特殊性を考慮し、一〇ヘクタール以上の面積の地主の土地を没収するとのスローガンを掲げるのが好ましい。土地没収にあたっては、国家と小作農、地主がそれぞれ部分的に犠牲を負って地主に補償すべきだ」と土地の集団化を拒否。
独占資本解体問題では、「当面は独占資本統制のスローガンが適当だ。民主政府が収益と生産に対する統制を強めることで、資本家の力を弱め、生産関係を労働者に有利な方向に転換できる。産業国有化のスローガンを打ち出す時期には来ていない」と述べた。これでは財閥解体を断行したGHQの方がより革命的である。
当面の政治戦略では、「幣原内閣退陣、民主政府樹立を進める」とした上で、「日本民主化の実現には、日本共産党は社会党や自由党と結集し、民主統一戦線創設を目指すべきだ。大衆の支持を獲得するため、八時間労働や社会保障、失業対策、地代値下げ、住宅建設などの要求を掲げていく」と述べている。
私の手元には、野坂が会談に際し、日本語で書いてソ連共産党に提出した「民主的戦線を組織するために共産党が提示すべき共同綱領」という三ページの文書がある。この中で野坂は、(1)太平洋戦争を侵略戦争と宣言、(2)現政府の即時退陣、(3)言論の完全自由、(4)勤労者の生活改善など二一項目を挙げているが、過激な方針は慎重に避けている。
これに対し、クズネツォフは同年十一月二十三日の会談で、野坂の見解を総合的に論評。「天皇制や民主統一戦線結成、民主化プログラムに関する立場は正しいと思う」と述べ、野坂の基本路線を評価した。個別には、「農業問題では、当面地主から没収した土地を小作農に分配するというスローガンは制限し、農業の現状を深く研究したうえで、詳細な構想を練るべきだ。独占資本統制というスローガンも慎重に対応すべきであり、独占資本の詳細な研究と調査が必要だ」と指摘。また、「ルーマニアやポーランド、ハンガリーの経験を機械的に日本に適用すべきではない。日本は資源の限られた島国であり、特殊性を考慮すべきだ」とアドヴァイスしている。
軍情報機関の幹部であるクズネツォフがどのような人物かは不明だが、野坂への回答に際してはモロトフら上層部の指示を受けたはずで、ソ連指導部も占領下の日本に対して比較的柔軟に対処したといえよう。
ソ連が戦後の日本民主化にどう対処し、日本共産党にどのような指示を与えたかは、党国際情報部のポノマリョフとパノシキンが四五年十一月十三日付で、マレンコフ首相と、ヘリヤNKVD長官に宛てた極秘報告書に示されている。野坂との一連の会談を踏まえて書かれた全文一三ページの秘密報告書から勧告部分の要旨を紹介しよう。
《一、権力と国家体制=現下の情勢では、日本共産党は幣原内閣退陣を要求し、天皇制については、天皇裕仁の息子への地位委譲ないし摂政評議会の設立を要求する立場をとるのが望ましい。天皇からはその政治的、軍事的権力を剥奪し、宗教的幾能にとどめるべきだ。
一、憲法改革=日本共産党はこの問題で、全政府機関の民主化、中央・地方機関からの反動分子、軍国主義分子の一掃、戦争責任者の公職追放、民主選挙による知事・地方代表の選出などの要求を掲げるのが望ましい。
一、農地改革=われわれの意見では、日本共産党は天皇と戦犯の所有地没収のスローガンを掲げるべきだ。他の地主の土地については、部分的な没収にとどめるとともに、小作の一掃を主張する。
一、大企業=財閥の解体や銀行、輸送、電力部門の国有化は制限する方が望ましい。日本共産党は中小企業への国家支援を要求すべきだ。
一、民主戦線=日本の民主勢力はまだ団結しておらず、政治的、組織的にも極めて脆弱だが、それでも、共産党や社会党、民主組織、労組が参加する民主統一戦線創設への現実的可能性が存在する。民主勢力は日本の特殊性から出発し、広範な民主連盟のような形に結集すべきだ。》
これらは、戦後革命を達成した東欧諸国にソ連が提示した要求に比べ、極めて柔軟な内容といえよう。ソ連は敗戦後の日本で直ちに社会主義革命が成功するとはみておらず、進歩勢力を結集した統一戦線方式を支持、米国の占領政策にもあえて抵抗しなかった。
クズネツォフはモロトフに送った報告書で、野坂について、「成熟した政治家であり、国際問題にも通じている」としながらも、「数年間日本を離れて活動しているため、一部の問題には精通せず、明確な構想を提示できなかった。たとえば、農業問題や土地問題の状況を知らないし、組織問題にも強くない印象を受けた」と疑問符を付けていた。
政策面では柔軟な社民路線を示した野坂だが、同志山本へのスパイ嫌疑や伊藤律の北京幽閉工作などにみられる陰湿さはモスクワ会談でもやはり発揮されている。
たとえば、野坂は徳田、志賀ら当時の日本共産党指導部の同志を「左翼偏向」と痛烈に批判している。モスクワ会談では、日本共産党指導部の再建問題も重要テーマの一つとなったが、四五年十月三十日クズネツォフの執務室で行なわれた会談で、ソ連側が「徳田、志賀の路線をどうみるか」と質したのに対し、野坂は「徳田も志賀も個人的によく知っているが、二人は一九二八年から投獄されており、反ファシスト闘争の経験がなく、民主勢力統一の意味を知らない。だから、政治問題で常に左翼冒険主義的立場を貫いている。現在の状況下で共産主義者がどう活動すべきか認識不足であり、日本の民主勢力を正しく指導できない」と酷評した。
野坂は暗に、日本の共産主義運動を指導できるのは、長年国際共産主義運動に携わった自分以外にいないことをソ連側に誇示したといえよう。党再建のため、中国で自ら設立した反戦同盟を中核に据える構想を示し、ソ連に彼らの帰国協力を訴えている。
モスクワ会談で野坂が最も配慮したのは、ソ連と協力体制を確立し、ソ連側から物質的支援を受けることだった。野坂はクズネツォフらに対し、(1)五万ドルの資金援助、(2)五〇〜六〇人分の民間服、(3)モスクワとの通信網確立、(4)妻の合法的出国、(5)日ソ協会の設立、(6)ソ連の対日宣伝放送強化など一五項目を要請した。五万ドルの資金援助は「金塊や貴金属の形で、延安の八路軍(のちの中国人民解放軍)代表部から受けとりたい」と要請した。クズネツォフは「五万ドルの資金援助およびその他の要請を満たすことは可能と考える」と答え、モロトフに支払いを勧告した。
資金援助では、ソ連党中央委国際情報部のコワリョフ、クライノフ両部員と十一月二目に行なった会談でも、野坂は「日本共産党への援助として、一万ドルを米ドルか金塊の形でいただければありがたい。援助は日本における反ファシスト闘争のための大衆組織への支援という形態をとる」と要請した。安易に資金援助を求める体質が、対ソ従属を決定づけてしまう。
さらに、野坂は一連の要請の中で、「満州、南サハリン、朝鮮領域の日本人と日本軍捕虜に対し、積極的な日本民主化のための政治教育を組織することが不可欠だ。そのために、朝鮮北部にいる日本民族解放連盟のメンバーを利用することが可能だ」と提案した。これを受けて、ディミトロフはモロトフに対し、「日本軍捕虜や日本人への政治教育実施を指示すべきだ」と勧告している。このころ、満州、朝鮮半島で捕虜になった関東軍将兵のシベリア抑留が始まっており、やがてソ連各地のラーゲリで民主化運動と称した激しい政治・思想教育が展開されるが、日本人抑留者への民主化教育は野坂の提案が発端だったかもしれない。
モスクワ秘密会談を受けて、ソ連共産党が野坂および日本共産党にどう対応していくかは、ディミトロフ党国際情報部長がモロトフ外相に宛てた書簡(日付不明)に明示されている。ディミトロフはこの中で、「野坂同志が提起した問題は以下のように対処するのが望ましい」として、次の八項目を勧告、モロトフの承認を得た。
《一、野坂と彼の同志の中国からの帰還は積極的に協力する。
一、ソ連にある日本語のマルクス・レーニン主義の文献を日本に送付する。
一、日本共産党の再建、その活動や出版・宣伝活動に必要な一定の物質的援助を与える。
一、野坂との関係は内務人民委員部(NKVD)ないし赤軍参謀本部情報総局(GRU)の信頼のおける工作員を通じてのみ維持し、ソ連共産党中央委を通しては行なわない。
一、日本共産党に進歩勢力の統一戦線結成と日本の民主的再編に向けた路線をとるよう助言する。
一、満州や朝鮮の日本人および日本軍捕虜の間に民主化運動を組織する。
一、日本共産党党綱領の策定を急がないよう助言する。
一、野坂に主要国共産党やソ連の動向について情報提供する。》
長年コミンテルンの書記長を務めたディミトロフは四三年のコミンテルソ解散後、ソ連共産党国際情報部長に転出、引き続き対外工作を担当したが、コミンテルン時代の同志である野坂に一貫して協力的だった。ちなみに、野坂が三八、三九年に同志の山本をスパイと密告する手紙を送った相手もディミトロフで、秘密を分かち合う仲だった。
提案の中の「野坂との関係はNKVDないしGRUの信頼のおける工作員を通じてのみ維持し……」とは、野坂をソ連の地下エージェントとすることを意味し、エージェント契約が試みられたもようだ。野坂自身、モスクワ滞在中、ソ連情報機関の要請に応え、米国在住日本共産党員の消息や徳田、志賀に関する情報、延安にいる朝鮮人共産主義者の消息、中国の軍事情報などを英語ないし日本語で書き、積極的に情報提供した。
野坂スパイ説は、GRUの情報将校とみられるスリーピン大佐が四年後の四九年十月二十九日付で作成した野坂の「個人ファイル」(全文七ページ)の中にはっきりと示されている。野坂の経歴、活動をまとめ、党中央委に提出されたファイルから引用しよう。
《野坂は、ソ連共産党中央委に対し、日本共産党の基本綱領や戦術問題で頻繁に助言を求めている。野坂はまた、東京にいるわれわれの要員の一人と関係を維持し、彼を通じて日本の内政、経済状況や占領軍の政策、日本共産党を含む各政党の活動についてわれわれに情報提供している。野坂はしばしば、日本共産党政治局を代表して、われわれの日本代表に対し、日本におけるソ連の権威を強化するため、ソ連の対日政策への勧告や要望を提出した。》「われわれの要員」とはGRUの工作員を意味しており、日本共産党の内部情報はおそらくソ連に筒抜けだったのだろう。
ロシア東洋学研究所のアレクセイ・キリチェンコ国際学術交流部長は資料調査を基にこう語る。「野坂はソ連情報機関にとって、日本で最も信頼できる情報源の一人だった。KGBの古文書館には、日本の国内情勢や共産主義運動、労働運動に関する野坂の詳細な報告が保存されている。情報提供に対して、野坂はソ連側から評価されただけでなく、物質的報酬も受け取っていた。野坂とソ連の地下関係はスターリンが死ぬ一九五三年まで続いた」
野坂が安易にソ連のエージェントとなるのは、長年のコミンテルソ活動を通じたソ連への連帯意識以上に、野坂自身の内面的な弱さや狭滑さ、二重人格性があったといえよう。野坂については、日本の官憲や占領米軍のエージェントだったとする二重三重のスパイ説もある。一九三〇年に眼病治療のため保釈され、翌年容易にソ連に入国したことや、日本占領時代、米軍将校との面会をしばしば目撃されたことなどが状況証拠だが、スパイは結局二重三重スパイを余儀なくされるのかもしれない。
二重スパイといえば、ディミトロフが四五年十月十六日付でモロトフに送った徳田球一に関する報告書の中に次のような一節があった。
《同志バラノフが電報で提起した問題について、徳田の信頼性が判明したなら、以下の対応を取ることが可能だ。
一、米国の防諜機関との協力は断固拒否するよう勧告する。米国の提案は日本共産党の権威失墜を見込んでいるように思われる。》
「提起した問題」や「米国の提案」の内容は明らかでないが、どうやら、米占領軍も日本共産党を手中に収めようと画策していたもようで、敗戦後の日本を舞台に米ソ情報機関の間で日本共産党に対する激しい駆け引きが展開されていたかもしれない。
モスクワ秘密会談を終えた野坂は四六年一月、ソ連軍の保護の下で満州、朝鮮を経て、九州経由で帰国。焼け跡の東京で熱狂的な歓迎を受け、一躍戦後民主主義の旗頭の一人となった。
8、袴田の暗躍
ソ連の崩壊以来、日本共産党はソ連共産党を「歴史的巨悪」と呼び、両党の問には「何の同根もない」とするキャンペーンを展開してきた。「ソ連が最も恐れた自主独立の日本共産党」「外国、財界から一切カネをもらわない清潔な日本共産党」というスローガンも登場。『赤旗』紙上では、不破委員長自ら筆をとってソ連公文書の分析記事を長期間連載し、「日本共産党としてソ連に資金を要請した事実はなく、ソ連資金は野坂、袴田らソ連との内通者に渡ったもので、その資金は党への干渉、破壊活動と結び付いていた」と主張した。
日本共産党が独自にソ連公文書を入手するため、代表団を長期間モスクワに派遣し、入手した文書に基づいて前党首の野坂参三を断罪したことは、政党の責任として立派であり、ソ連資金疑惑をうやむやに終わらせた日本社会党とは大きな違いだった。
だが、野坂らの内通を示すソ連公文書が真実で、国際労組基金からの資金流入は事実に反するという論理は説得力に欠ける。しかも日本共産党には、国際労組基金以外のルートからも資金流入があった疑惑が別のソ連公文書から明らかになりつつある。
六〇年代初期のソ連公文書に再三登場するのは、党内序列第三位の袴田里見元副委員長であり、ソ連工作員とみられる人物と都内でしばしば秘密会談を行なっている。たとえば、『イズヴェスチヤ』紙のペトロフ東京特派員は六二年三月、次のような極秘の公電をモスクワの党中央委に送った。
《六二年三月一日、袴田同志が夫人とともに来訪し、十八時から二十一時まで話し合った。内密な話題もあり、何度もここだけの話であるという断りをいれながら、袴田は日本共産党と友党間の関係に関する一連の問題を取り上げた。
袴田は、自分をはじめ日本の同志全員がソ連と中国の共産党間の対立に動揺していると語った。私(ペトロフ)は「平和共存、軍縮、個人崇拝批判についてのソ連の立場は全く正しく、理由のあるものだ」と説明した。これに対し、袴田は「その通りであるが、中国の同志も自国で革命に成功したのであるから、独自の豊富な革命闘争の経験を有していて、それを生かそうとしている」と述べた。彼の全般的見方は、中ソ・イデオロギー論争は両国共産党の指導部間の喧嘩が形になって現れたというもので、「何とか早急に両者で折り合いをつけてくれないものかと思っている」と述べた。
アルバニア問題について、袴田同志は「フルシチョフ同志が党大会でアルバニア指導部の批判を始めたことは唐突だった。そのようなことをする予定なら、事前に友党に知らせ、前もって立場を決定できるようにしてほしい」と不満を漏らした。
東京に建設する日本共産党本部の建物の設計のため、ソ連の技術者を派遣する件で、袴田は「日本人技術者二人がモスクワを訪れている。日本共産党中央委でソ連人技術者を招請する話は出たが、正式要請は出なかった。ソ連人技術者の援助の必要はないかもしれない」と語った。
ナウカ書店の社屋建設への支援問題で、袴田は「融資が一九〇〇万円でなく、二一〇〇万円であることは承知しているが、これは五〇〇〇万円という必要額に対して少ないうえに、野坂と宮本も賛成したこの要請に対し、モスクワがまたしても日本共産党中央委幹部会の正式決定の形で確認することを主張してきたことは理解できない」と不満を述べた。
それに対し私は、「袴田同志が党内で大きな比重を占めていることは皆よく承知しているが、何分金額の張る話なので、形式を整える意味でも、そのような要請には日本共産党議長ないし書記長の署名が必要である」と答えた。
さらに私は「この問題に野坂と宮本が賛成していて、あなたの言うように野坂がモスクワを訪問した時に改めて持ち出したのならば、どうして正式決定を出すことができないのか」と質問した。「野坂は実に狭い男であって……」というのが袴田の答えである。袴田は「この種の問題はあまり広い範囲の人に知られるのはまずいので、幹部会の審議に上げることは不適当だ」と何度も強調した。
袴田同志はまた、日本共産党の病院に医療機器を提供する問題を早く決定してほしいと要請した。さらに「以前と違い、最近は選挙運動資金の到着が非常に遅れるようになった」と不満を漏らした。対談の最後に袴田は、私を自宅に招きたい、二日ばかり一緒に箱根に旅行しないかと誘った。》
一九七七年に「転落者」として除名された袴田里見は、戦前、戦中を獄中で過ごし、官憲の拷問にも耐えた闘士。党内では資金調達などダーティーワークを担当し、“汚れ役”を自認していた。報告を書いたペトロフは、特派員は隠れ蓑で、実際はソ連共産党国際部と日本共産党のパイプ役だったとみられる。
六二年当時は日本共産党が自主路線を強め、ソ連離れを図る微妙な時期だが、それでも日本共産党にとって、ソ連はなお“ビッグ・ブラザー”だったことが報告の随所に現れている。
報告に出てくるナウカ書店は、東京・神田にあるソ連関係図書の専門書店。ソ連は日本共産党の要請に基づき、六〇〜六二年に同書店に総額一四万ルーブル(当時のレートで約四五〇〇万円)の特別融資を行なっていたことが、旧ソ連文書から判明している。
ナウカ書店への融資実行に至る経緯を別のソ連共産党中央委文書から拾ってみよう。
《シェブリャギン党中央委国際部副部長の報告(六二年二月十九日付)
袴田同志は手紙で、地価が高いため、これだけの借款では新店舗と事務所の建物を建てるには不十分だとして、新たに十二年返済で五〇〇〇万円の追加融資を求めてきた。》
《ウォリソフ外国貿易次官の党中央宛て報告(六二年八月七日)
日本共産党中央委書記の浜田同志が日本共産党中央委を代表して、日本共産党の管理下にあるナウカ書店に対し、販売店舗、倉庫、事務所の用地買収と建設のための融資を依頼してきた。全ソ図書輸出入公団「国際図書(メジュクニーガ)」は六〇年秋、同書店に対し、三万三七五〇外貨ルーブルのクレジットを供与、六一年には補足的に一万五〇六〇外貨ルーブルを供与した。…ナウカ書店は日本におけるソ連書籍および定期刊行物の輸入の八〇〜九〇パーセントを占め、ソ連書籍の販売に熱心で、東京、大阪、京都、名古屋、札幌に店舗を構えているが、恒常的な財政難に陥っている。日本のブルジョア書店はソ連書籍の販売に難色を示し、ソ連書籍販売はよい結果が得られていない。ナウカへのわれわれの援助なくして、ソ連書籍取引の著しい拡大は望めない。外国貿易省はナウカへの九万一六〇〇外貨ルーブルの追加融資を求めた日本共産党中央委の要請を支持する。》
《党中央委決議(六二年八月十日)
六二〜六三年度にナウカ書店に対し、倉庫付きソ連書籍販売店の建設のための無利子のクレジット九万一六〇〇外貨ルーブルの信用を供与するとの外国貿易省の提案を承認する。全ソ図書輸出入公団「国際図書」がナウカ書店と六五〜七五年間の融資返済を見込んだ契約に調印するよう指示する。》
こうしてナウカ書店に対し、総額一四万四一〇外貨ルーブル、日本円で約四五〇〇万円の追加融資が決定された。ところで、ペトロフ報告には「野坂、宮本も賛成した提案」とあり、ここで初めて宮本顕治の名が出てくる。日本共産党は一連のソ連資金疑惑を野坂、袴田らソ連内通者の責任とし、宮本議長は一切知らなかったと主張しているが、党実務の総括責任者である書記長が党を介した大型融資を知らなかったとは考えにくい。
宮本の名は六二年一月十八日に袴田がペトロフ特派員とレストランで行なった密談の報告書の中にも出てくる。この時もナウカへの融資問題が主要議題となり、袴田が「今に至るまで書店建設のための費用を受け取っていない」と不満を表明。ぺトロフが融資の要請は袴田個人の提案なのかと質したのに対し、袴田は「この問題について知っているのは党内で三人だけだ。野坂、宮本そして私だけだ。だから私がまるでソ連に金をゆすっているようにみえるのかもしれない」と述べている。
このナウカ書店への融資には後日談があり、実は、ナウカがソ連の融資を全額使ったわけではなかった。
旧ソ連共産党の公文書館には、日本の出版社、合同出版社代表のドイ・スケノブが一九六五年八月、モスクワにある全ソ図書輸出入公団「国際図書」を訪ね、同公団のストゴフ副総裁と行なった会談記録が保存されている。ドイは当時、東京都庁の職員で、合同出版社の宮原敏夫会長の委任状を携行してモスクワに飛び、レーニン全集全五五巻とソ連邦共産党史全六巻を刊行する問題で交渉にあたった。五〇年日本共産党に入党、六二年に党を除名されている。
八月四日の会談で、「国際図書」によるナウカへの融資に話題が及んだ時、ドイは「クレジットはナウカ社に送られ、店舗が建設されたが、建設に使われたのはナウカが受け取った資金の半分だけで、残りの半分はナウカが自分の目的に使った。ナウカは手持ちの古い倉庫を高く売ったため、新店舗建設はナウカにとって安上がりで済んだ」と語った。
八月十日の二回目の会談でストゴフ副総裁が「あなたは前回の会談でナウカが自分の目的に使ったと述べたが、その目的が何か明らかにしてほしい」と尋ねたのに対し、ドイは「どんな目的か正確には知らないが、クレジットの半分が党の金庫に入ったことは知っている」と答えている。これが事実なら、「国際図書」がナウカに与えた信用供与約四五〇〇万円の半分の二二五〇万円が日本共産党の懐に入った計算になる。
日本共産党はナウカへの融資要請が報道された時、『赤旗』(九二年十二月三日付)紙上で、「事実関係の必要な調査を行った結果、クレジットの提供はナウカ社と国際図書との企業間取引の問題であり、党への資金援助などとする根拠はない」と反論していた。ドイ自身が日本共産党を除名された人物で、会談でも同副総裁に日本共産党系のナウカとの取引縮小を促していることから、その主張は必ずしも信用できないが、発言は具体的であり、企業献金などの形でソ連の融資がナウカから日本共産党に流れた疑いが残る。
企業献金といえば、専門商社、イスクラ産業の石川社長が在京ソ連大使館員との会談で日本共産党への献金を告白している。プロホロフ二等書記官が党中央委国際部に送った報告(六六年四月十三日)から−。
《石川社長は会談の中で「宮本を団長とする代表団はとても暗い気持ちで中国から帰ってきた。中国指導部との交渉は不満足なもので、かなり急いで北京から帰国した。北京での交渉から彼らの得た教訓は、外部の力に依存せず、独力でやらねばならないということだ」と語った。
石川は、もしソ連の同志たちが何らかの問題について、日本共産党のだれかの意見を知りたいと思うなら、数日後という条件付きで斡旋に努力すると述べた。
私の質問に対して、石川は「イスクラ産業は個人的に袴田に資金を提供しているほか、より多くの額を日本共産党の金庫に献金している」と率直に語った。
石川によると、日本共産党は、いわゆる日中貿易で友好商社が行なっているように、(党への)物質的援助をする少数の商社とソ連機関との貿易に関心を持っているという。》
ソ連の自然食品や薬品類の輸入で知られるイスクラ産業は日本共産党に近いとされていたが、同党に献金していたことが判明したのは初めてである。
ただ、石川社長はこの中で、日中共産党会談の内容をソ連に伝えたり、日本共産党への橋渡しを申し出るなど企業人として不審な言動も目につく。日ソ共産党関係が既に冷却していたこの時期、同社長が袴田の代理の形でプロホロフ書記官と定期的に会っていたことを示す会談記録がいくつか保存されており、やはり、袴田とソ連との内通はあったのかもしれない。
10、党本部建設にも疑惑
一方、六二年三月のペトロフ・袴田会談の報告に出てくる「日本共産党の病院に医療機器を提供する問題」はそれ以前に決着しており、六一年八月七目付のソ連共産党第一九二回書記局会議議事録にこう書かれている。
《一、日本共産党中央委員会の病院のために脳波計一台、顕微鏡用細片切断器一台、電気泳動器一台、血管縫合器一台の供給に関する日本共産党中央委の要請を承認する。
一、ソ連保健省に対し、これらの医療機器を六一年末までに日本に送付するよう通達する。
一、総額五〇〇〇ルーブル(当時のレートで約一六〇万円)はソ連共産党の党財源から支出する。》
この時期、日本共産党中央委は機関紙『赤旗』用の輪転機の供給もソ連に要請しているが、型式が異なることから、実現しなかった。六一年七月三十一日のソ連共産党中央委のプロトコール第一九一号は、在京ソ連大使に宛てて、「赤旗印刷所に輪転機を提供するよう要請された件で、ソ連専門家が調査した結果、ソ連、東欧で製造されている機種は日本側要請と型式が一致しないことが判明した。この旨宮本、袴田両同志に伝えてほしい」と通達している。
袴田・ペトロフ会談の中で、袴田が「以前と違い最近は選挙運動資金の到着が非常に遅れるようになった」と不満を述べた点も気になるところだ。事実なら、日本共産党が直接ソ連から選挙資金を得ていたことを公然と認めたことになるが、袴田が言及したこの選挙資金こそ、国際労組基金からの援助なのだろう。
選挙資金要請は、『週刊文春』(九三年三月三日号)が入手した次のような野坂の資金要請メモにも直接述べられている。
《親愛なる同志、一九六二年の御援助として、十五万〜二十万ドルを供与されることをお願いします。これは、党の一般活動、来年の参議院選挙、党学校建設、党本部建設に使用されるためです。同志的挨拶をもって。
一九六一年十一月一目 野坂参三》
国際労組基金の支援リストによると、六二年には日本共産党に一五万ドルが送られている。
野坂がメモで触れた「党本部建設」のくだりは、ペトロフの六二年三月の報告に出てくる「東京に建設する日本共産党本部の建物の設計のためにソ連の技術者を派遣する件」とも連動しており、東京・代々木の日本共産党本部建設にソ連からの支援があったのではないかとの疑惑が出てくる。党本部新築計画は六一年七月の日本共産党第八回党大会で、総工費四億円をかけて建設することが決まっており、日本共産党は全党員に募金を呼び掛けていた。
ところで、日本共産党は自主独立路線を強め、六四年以降はソ連資金援助の水脈を断ち切ったとはいえ、完全にソ連と手が切れたわけではなかった。たとえば、七八年十月二十日のソ連共産党書記局議定書第一三〇号は、日本共産党の対ソ依存姿勢が七〇年代未にも残っていたことを示している。
《 『赤旗』モスクワ特派員M同志の認証の件
一、日本共産党機関紙『赤旗』特派員H同志の帰国に伴い、M同志をモスクワ特派員として認可するよう求めた日本共産党指導部の要請を実行する。
一、ソ連赤十字はM同志に対し、毎月の生活費三五〇ルーブル、幼児一人につき月額五〇ルーブル、一時支度金三五〇ルーブルを支給するほか、支局の秘書兼通訳費、一時的なホテル宿泊代、ロシア語個人授業受講費を負担する。
一、ソ連党中央委はM同志と家族の東京からモスクワまでの交通費を外貨で支払う。
一、M同志の郵便、電報、電話代は『プラウダ』紙の負担とする。
一、M同志と家族の医療、保養サービスはロシア共和国保健省付属第四総局に委任する。》
私の手元にある文書では、六八年、七二年の特派員交代時にも、ソ連共産党は全く同じ内容の便宜供与を決定しており、『赤旗』モスクワ支局の運営はソ連から特段の配慮を受けていたことがわかる。
ソ連党国際部で日本共産党工作も担当したイワン・コワレンコは『週刊文春』とのインタヴューで、「宮本をリーダーとした日本共産党がソ連離れを図っていたことは事実だが、私はそれを子供が駄々をこねるようなものと解釈し、要請のまま援助を続けてきた」と述べていたが、日本共産党側には、ソ連を批判しつつも、同じ共産主義者としての甘えの構造が脈々と続いていたといえよう。「ソ連が最も恐れた自主独立の日本共産党」というスローガンはやや荷が重いようである。
4、著者略歴
名越健郎 なごし けんろう
1953年((昭和28年))。岡山県生まれ。1976年、東京外国語大学ロシア語料卒業。
時事通信社に入社。バンコク特派員、モスクワ特派員を経て、現在、外信部→編集局次長
著書:「メコンのほとりで」(中公新書)
「アジアの内幕ノート」(共著・同文館出版)
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〔関連ファイル〕
『シベリア抑留めぐる日本共産党問題』1945〜1955「六全協」、ソ連からの資金援助
『日本共産党88年間の党財政データ』ソ中両党隷従46年間の党財政
風間丈吉『モスコウとつながる日本共産党の歴史』主たる費用はコミンテルンからの交付金
加藤哲郎『「非常時共産党」の真実─1931年のコミンテルン宛報告書』1カ月2千円要求
wikipedia『野坂参三』