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1924年 アメリカでオレンジ計画(対日軍事計画・機密)


 アメリカは1904年から軍事計画の研究に着手し(出典:西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」p242 )、さまざまな国を仮想敵国として検討した「カラーコード戦争計画」が1920年代に策定された(出典:LINK カラーコード戦争計画 - Wikipedia。そのうちの対日戦略である「オレンジ計画」は、1919年に非公式に立案され、1924年初頭にアメリカの陸海軍合同会議で採用された(出典:LINK オレンジ計画 - Wikipedia
 「カラーコード戦争計画」は1939年に凍結され、当時高まっていた枢軸国との二正面戦争に備えて5色のレインボー・プラン」が発展的に策定され、1939年6月にアメリカの陸海軍統合会議で承認された(出典:LINK カラーコード戦争計画 - Wikipedia および LINK レインボー・プラン - Wikipedia。「オレンジ計画」は、「レインボー・プラン」のなかに組み込まれていった(出典:LINK レインボー・プラン - Wikipedia


 西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」(文春文庫、2009年)p242 から引用します。なお、引用文中の(注)太字は、当サイト管理人が施したものです。
 一九〇四年にアメリカ陸海軍の統合会議が開かれて、世界戦略の研究に着手した。さまざまな色別に分けた対世界戦略のシミュレーションである。戦争が始まったときそれぞれの国とどのように戦うかという計画策定案であった。今でも行われているが、ドイツを仮想敵国にしたのがブラックプラン、イギリスに対してはレッドプラン日本に対してはオレンジプラン、南米はまとめてパープルプラン、カナダに対してはクリムゾン(注:濃く明るい赤色で、やや紫がかっている。)プラン、メキシコに対してはグリーンプランというふうに色分けした戦争予定準備計画図を作っていた。このうちオレンジ計画という対日戦略と、ブラック計画という対独戦略だけがアメリカの仮想敵国意識のなかにずっと長く残っていくのである。
 オレンジ計画の内容は、日本が戦争を開始したならば、海軍はどう動き、どのように動員計画をしていくかという対応の算定であって、日本はフィリピンとグアムをまず侵すだろう、そのとき船をどのように運んでいくか等々ということから始まって、あらゆる戦略が詰められていく。しかもこの計画は、毎年のように改訂が加えられる。たんなる机上プランではあるが、第二次世界大戦の前にはそのプランどおりに、反攻作戦が策定されていて、そっくりそのまま実行された。四十年も前(注:日米開戦(1941-45年)から数えて約40年前の日露戦争(1904-05年)を指しているものと思われる。)日露戦争の直後から、そういう準備が繰り返され、毎年のように作戦が練り直されていたことを、われわれはよく知っておかなくてはならない。





【参考ページ】
1904年 日露戦争(〜1905)
1905年 ポーツマス条約(日露講和)
1905年 日米間でハリマン事件(南満州鉄道の経営権問題)
1907年 アメリカ大西洋艦隊の世界一周(〜1909)(リンクのみ)
1924年 アメリカでオレンジ計画(対日軍事計画・機密) 〜このページ
1937年 アメリカのライフ誌に反日のねつ造写真記事
1938年 ティンパーリが「What War Means: The Japanese Terror in China」をイギリスで刊行(中国国民党の反日宣伝本)
1938年 日本政府がユダヤ人を差別しないことを決定
1941年 アメリカが日本にハル・ノートを提示
1941年 日本軍が真珠湾を攻撃(大東亜戦争(太平洋戦争)へ、〜1945)
大東亜戦争(太平洋戦争)と人種偏見について





参考文献
「決定版 国民の歴史 下」西尾幹二著、文春文庫、2009年
LINK オレンジ計画 - Wikipedia
LINK カラーコード戦争計画 - Wikipedia
LINK レインボー・プラン - Wikipedia
LINK クリムゾン - Wikipedia 〜色。
LINK 第二次世界大戦の会談・会議 - Wikipedia


更新 2014/5/18

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