〜あ〜

◆アートフル・ドヂャーズ◆
監督・脚本 保田卓夫
出演 いしだ壱成 西島秀俊 佐藤タイジ 浅野麻衣子 裕木奈江 早瀬ひとみ 岡安乃布子
ビターズエンド 1997年 96分
1998年1月下旬シネヴィヴィアン六本木公開

これって、位置づけとして邦画なんだろうか洋画なんだろうか……主人公達が日本人だから一応は邦画なのか……。(ちなみに野茂のドヂャーズとは関係ないらしい)
NYに棲みついた売れない画家とポルノ作家とストリートミュージシャンたちのおもしろおかしき日々。ある日画家は幼なじみの女の子と出会って……。
最初のタイトルバックで「いしだ壱成 西島秀俊 佐藤タイジ 裕木奈江」と出たので、その幼なじみの女の子が裕木奈江だと思ったら、最後の方でやっと出た程度。浅野麻衣子の4分の1か5分の1ぐらいじゃないのだろうか。だったら浅野麻衣子をもっと目立たせてやれよ〜。準主役級なんだから。 まあもっとも、西島秀俊+裕木奈江というトレンディドラマドロップアウト組(ホメてんですよこれ)のお元気な姿を垣間見れたのは嬉しい……んだが裕木奈江って相変わらずこういう役柄なの? もういい加減別パターンさせてあげたら。テレビのイメージじゃさんざんな目にあって損しているんだからさ。
最初の話に戻ると、いわゆる日本の映画の基本フォーマットから離れている映像なのだな。舞台がニューヨークだからってことではなく。監督さんはあちらの映像学校を出てずっとあっちの現場をやっていたそうであるし、もっと他の作品を観てみたいものである。満足。(1998/02/22)

●a.b.c.の可能性●
監督 パスカル・フェラン
出演 アンヌ・カンティノー クリステル・テュアル アンヌ・カイエール イザベル・オリーブ サンドリーヌ・アタール アントワーヌ・マチュウ ニコラ・ピルソン アルノー・シモン ダヴィッド・グイエ
1995年 フランス映画 1時間46分

AからJまで(Zまでだと多すぎるから?)の頭文字を名前に持つ10人の男女の組んずほつれつ(フランス映画らしからぬ言い方……)設定では「フランスの地方都市」が舞台になっているようですが、それほど、日本の東京と他県といったような隔壁性はみられなかった。
こういう映画をつくるとき「やっぱり女はミステリー」「男って馬鹿」「女の友情は短い」「男は恋愛より友情を取る」などなど、言い尽くされ過ぎてそれもまた真実であるような格言的なテーマ(それも男か女か片一方に偏りがち。制作者のジェンダーに関する基本的な考え方が裏面に隠れていること多し)が透けて見えないようになっていたのがよかった。
PS
「ふたりのこと、話したことあんまりない。いつも自分のことばっかり」「話しているじゃない。僕のことを話すということは、自然にふたりのことにつながるはずだよ」
ちがう、ちがうそ。それはあくまで自分のことなのだ。
自分のこと、と、ふたりだけのこと、というのは、単位がまるでちがうのだ。それを同一に考えてしまうことから、恋人同士の悲劇が始まり、やがて別れに始まってしまうのだと思うぞ。(1998/03/28)

●愛を乞うひと●
監督 
出演 

始まって十五分くらいで、劇場を出て帰ろうかと思いました……。

どうしてこの期におよんでも、日本映画と言えば貧乏臭さを一体化させないと気が済まないのか。
どうしようもないとあきらめて、せめてその手の貧乏臭さを差し引いたところで観る価値があるか、そうでなかったら、この映画はバツ、ってところでしたが……。今日的問題(幼児虐待などの)を持って今に示唆しているのではないかな、というところ。二回以上観たくないんだけど。
蛇足。野波麻帆のコギャル言葉、あれは無理に言わせなくてもいいんじゃないかなあ。コギャル言葉ってのはここ数年で派生してきたものであって、その大部分は古くなる可能性が高い。(例えば「チョベリバ」なんて現段階じゃ古く感じるでしょ)この映画を数年後に観て、彼女の言葉使いだけ非常に古臭いものを感じてしまう可能性があるのではないかな。(1998/10/24)


●あなたに言えなかったこと●
監督・脚本 イザベル・コヘット 出演 リリ・テイラー アンドリュー・マッカーシー アレクシス・アークエット リチャード・エドソン デビ・メイザー レスリー・マン シーモア・カッセル

まずは本映画と何の関係もない話から。
映画のタイトルに邦題がつくと「君」「あなた」「恋人」「世界」「愛」などなど……歌の文句にでもなりそうな、要はカップルの「共有する空間」を体現するような語彙で満ちあふれている。
これもそうなんだろうな……原題はまったくちがうんだろうな……と思いきや「The Things I never told you」直訳でした……邪推して申し訳ありません。

では、何が言えなかったのかというと……、ドンは不動産屋の営業。だが夜は電話でカウンセラー。彼はさまざまな人の悩みを聞く。ある日彼はカメラ屋で働くアンの悩みを聞く。彼女は彼氏と離ればなれで……。感想は「ジャンクメール」や、これの前に観た「台北ソリチュード」と同じように、これも最後まで偶然が重なって必然に成り代わっているストーリー。だからこそおとぎ話っぽいが、人生に降り被さる「悩み」とのつきあい方について、ドンの口を借りてオープニングからそのイメージの連鎖とアフォリズムが続く。それは生を、あるいは死をイメージしている。そういえば偶然にも、この映画は前に観た「台北ソリチュード」と同じように、下半身裸で背を向けて、クラリネットを吹いているシーンがあったが、あれも人生とは滑稽なりと言いたいのだろうなあ。

新宿武蔵野シネマカリテって、レイトショーなんかは秀作が多いので、ぜひパンフにシナリオ採録をつけて欲しいとこだよ。
(1998/03/22)

●雨上がりの駅で●
監督 ピーター・デル・モンテ
出演 アーシア・アルジェント/ミシェル・ピコリ/シルヴィア・コーエン/リーノ・カポリッキオ

ひょんなことから、アルツハイマーにかかった退官教授の動向を追うことになったココラ。彼はある日、いきなり遠い列車に乗っていく……棲み家のローマを離れて……。
記憶が次から次と消えて行く恐怖と、それすら自覚しなくなった者への周囲の対応というのは、さぞ大変なものだろうという認識しかしていない、少なくとも私は。
彼に付いて歩くことによって、その人生の陰という薄ら寒さに、自暴自棄になってしまうのも無理もない。行く先々でそれぞれの人の生活を知る。かつて自分がローマに止まったまま、決して知ることのなかった生活の数々を。
イタリアという、陽気な性格を持つ人の棲む国で生まれた映画にしては、やけに黒い霧が漂っていたというか、ストーリーよりも、情景をざっくざっく切り刻んであしらったサラダみたいなもんでした。(1998/10/17)


いちばん美しい年令(とし)
製作・監督・台詞 ディデイエ・オードバン
脚本・台詞 クレール・メルスィエ
出演 エロディー・ブジェーズ/メルヴィル・プポー
ガエル・モレル/ソフィー・オーブリー

エロディさん(日本語の語感で言うとすごい名前)は10代の青春ものにはかならず出てくるなあ。もう24だというのに未だに「青春シンドローム」みたいなやつでハイティーン役できるし。そこがフランス人種の不思議なところで「女子高生」だったら実際に「女子高生」の年齢の人じゃないとその役ができないけど……まあ最近では西田ひかるが25にして(私と同い年)CMで女子高生役やってましたが、もっとそういう人がいてもいいんじゃないかねえ。女の子をあっという間にオバサン化させるから。そういうところに日本人の「使い捨てで育てない」文化なんだと思うよ。エロディはゲンズブールの最後の秘蔵っ子だそうだけど、日本にもゲンズブールみたいなプロデューサーがいればねえ……日本人は手をつけるだけでおわるから(笑)
だいぶ話がそれましたが……そのエロディさんの(何故「さん」付けなんだ)作品にしてはヘヴィ。謎が解けるシーンはちょっと直視しにくい。個人的には好きな青春絶望路線ですが。(1997/12/23)

●いつものように●
監督 けんもち聡
出演 河野智典/高瀬アラタ/石川七恵/島田朋子/今川菊生

場内にビギンが流れていた……うわーい懐かしい。 ファーストの中の曲だ。
イカ天組としてどちらかといえば蔑まれることの多いビギンだが 音楽性は高いぞ。1&2枚目なんて白井良明プロデュースだぞ。 (イカ天出身だからって蔑まれる風潮ってまだあるのかな。 解散したフライングキッズだって、ブランキージェットシティだって イカ天ななのに)劇中で、主人公が 風俗系の彼女を自転車の後ろに乗っけて口ずさむ歌が 2枚目の中の曲だったり、そもそも「いつものように」だって ビギンの曲だったのだ。エンンディングで思い出した。

話がそれすぎたが、内容ね。
青春映画の王道で、特に毒も薬も大きな事件も大恋愛も失恋もない。 男二人親友同士が、ふとしたきっかけで沖縄出身 のイラストレーターの男の子と出会う。ただそれだけなのだ。
出会いの中で身の上話なども展開される。
シルヴァンスタインの「ぼくを探しに」などが引用されている。 この絵本は誰でも知っている上にわかりやすい比喩であり、 女の子がどうして東京に出てきたかの伏線にもなっている。 オーソドックスなのだ。あまりにオーソドックスゆえに 「いいね」と「たったのこれだけ」と評価は分かれそうだ。
ヒロイン七恵(なぜか役者の実名が劇中で使われている)語りも長くて、多少冗長になるのが気になったし。
私はこういう路線は大好きなのだが。(1997/07/04)


いますぐ抱きしめて
脚本・監督/ウォン・カーウァイ
出演/アンディ・ラウ/マギー・チャン/ジャッキー・チュン/アレックス・マン/ウォン・アン/ウォン・バン 香港映画・ヴィスタサイズ・ポニーキャニオン・ユーロスペース/1988年/96分
ウォン・カーウァイデビュー作……なんだけど、最後の最後まで暴力性が強かったなあ。BGMや挿入歌がくどいし。
喧嘩のシーンにモーションを使って、猫の鳴き声などの最小限のエフェクトを使っているところなど、今に通じる部分がこの頃からあったのだと思うけど。
アンディ・ラウとマギー・チャンのラブシーンが通俗的すぎるし、場合によってはラストが予想されてしまうような流れになっている気がする。少なくとも若者が観ても「おしゃれ」とはいわない気がする。
軽率な弟分のジャッキー・チュンの情けなさと歯がゆさがよかった。関係ないけど雑誌なんかでこの人が紹介されるとき「チェンじゃないよチュンだよ」って必ず書かれている気が……。

などといろいろ点が辛くなってしまうのは、どうしても「今のウォン・カーウァイ」というのが頭にあるので、それを基準にして批評してしまうせいか。

●ウィンター・ゲスト●

監督・脚本 アラン・リックマン
出演 フィリダ・ロー エマ・トンプソン ゲイリー・ハリウッド アーリーン・コックバーン シーラ・レイド サンドラ・ヴォー ダグラス・マーフィー ショーン・ビガースタッフ

有名な方々がいろいろ評論して、絶賛しているのだけど……こういう映画と、一般的に求められている映画との差がよくわかってしまうような見本になる映画でもあるな。
ちなみにこの館で同時上映していたのは「タイタニック」だし。

なにか大きな事件が起こってわくわくどきどきするわけではないし、映像自体は綺麗なんだけどなあ……。

年老いた母と娘、少年と少女、少年と少年……それぞれの無邪気でせつない会話……というより、よくよく聞くと会話が成立していない。それぞれ自分の心の中で堰き止められた部分を言葉に出している。片一方がそんな調子で相手に伝えようとしても、もう片方は受け止めているのかいないのか、その茫洋とした部分だけが残されているのがおかしい。
しかも世界は一面の雪の白。乾いた言葉が乾いた空気に伝わっていくことで、映画の空気も別世界に変えている。(1998/05/23)



●内なる傷痕●
監督・出演 フィリップ・ガレル
音楽 ニコ
出演 ピエール・クルマンティ バルタザール・クレマンティ D・ポムルール

私はニコという人はヴェルベットアンダーグラウンドの歌姫ということ以外、ほとんど知識がありません。
だからほとんど見たまんまのことしか書けないな……。
自分の精神世界を人に見せる滑稽さは、すべての表現者における課題でもあるんだろうけど、特にニコという歌姫(しゃべり言葉でも、はっきり認識できるというのが歌姫の条件なのだろうなあ)の背景というのは絶望であり、そこに至るまでの過程が最重要条件であることがうかがえるし、そのことから、観る者の眼も耳も喚起してくれる映画です。終わり。投げやり。(1998/06/20)


●エンド・オブ・バイオレンス●
監督 ヴィム・ヴェンダース
脚本 ニコラス・クライン
出演 ビル・ブルマン アンディ・マクダウェル トレーシー・リンド ガブリエル・バーン ロザリンド・チャオ ローレン・ディーン K・トッド・フリーマン ウド・ギア サミュエル・フラー
1997年 ドイツ映画 122分

今回の舞台はハリウッド。そして主役は映画プロデューサーということで、いつものヴェンダースらしからぬ路線……。
だと思っていたら、台詞回しは後半、いかにもヴェンダースという感じになってきた。
うーん、ヴェンダースは基本的に「ほのぼの」の人だと思うから、(異論はあるだろうが)こうやって無理矢理サスペンス絡みにしてしまうことはちょっと納得できないところもあるよ。
今回のテーマはタイトルにもある「暴力」そして「危険に対する回避」だと思うのだけど、そのアプローチが、いまいち現実にある暴力や危険に肉迫していない物足りなさを感じてしまった。(1998/03/28)

◆桜桃の味◆
監督・脚本・編集 アッバス・キアロスタミ
出演 ホマユン・エルシャディ アブドルホセイン・バゲリ アフシン・バグダリ アリ・モラディ ホセイン・ヌーリ
1997年イラン映画 1時間38分モノラル

その1
今の時期にユーロスペースに来る方々へ。
もう少し待ったほうがいい。立ち見になるかも。
その2
席はなるべくなら右側を選んだほうがいい。
字幕の白とバックの白が重なり合うときがあって、かなり観にくくなるから。 映画開始から数分後、出た、キアロスタミお得意のジグザグ道、これがないと始まらないようだ。キアロスタミは車内からの人物のアングルを撮ることが多いが(そうでもないか?)この映画では全編に渡って自殺の後始末を他人に頼む男が運転する。
自殺を止めようとする相手方、それでもやむにやまれず自分の自殺を正当化する男、どちらも、せつない。


◆墜ちてゆく女◆
監督・脚本・台詞 カトリーヌ・ブレイヤ
出演 イザベル・ルノー フランシス・ルノー ローラ・ザクリオ アラン・ソラル セルジュ・トゥピアナ

うーむ、フル・モンティの後にこれってのもきっっつううう。
しかし映画を少しでも多く観ようとするとこういうことになるんだわ。(偶然にも翻訳が「フル・モンティ」と同じく松浦美奈さんだった)

のっけから、殺人の証言をする男と判事とカメラマンたち。
「箒の先で後部から彼女の局部に突っ込んで、その後にナイフを……」娘の証言「彼は私たちの人生をめちゃくちゃにしたけど、彼も犠牲者だった」そして、彼が殺人に至るまでの、彼女との出会いから……ってこの映画のタイトルちがっているやん、墜ちたのは男ではないか。
原題は「完璧な愛」、だというのに。

男も女も、自分の不幸な生い立ちというか、呪われた運命について語る。自分はその犠牲者だと。彼らふたりが出会ったことによってその運命から逃れ 幸せになろうとするが、すれちがい。
男は言う「恋愛関係とは一方が他方より勝ってこそ、成立する。今のふたりはお互い死闘だ」うーむ、ゆずりあったら恋愛だとは言えないぞ。

あと、たとえば「魔性の女」なんていう常套句なんていうやつで女を定義付けするのも疑問だな。
自分が性的な面でふしだらと呼ばれるとき「環境のせい」と「自分の資質のせい」という二大要素があるね。でもどっちのせいにもできないのよ。
「自分がこういう境遇にいたからこうなったんだ」なんて言ったら「甘えんじゃねえおらおら」になるし「自分って生まれたときからこう」なんて言ったら「変える努力を怠ってきたんじゃないの」となる。どちらも、コアの自分を置き忘れてきて翻弄されたことを正当化しようという態度にしかなんないのよ。
どうすればいいの僕たち……などと思っても波打際で愛を語るも喧嘩するのも、どっかに解答が流れてくる、なんて甘い夢でも見ているしかないんだわな。
ねー松浦美奈さん。青年クリストフに言い寄る女達を「アバズレ」でフレデリック自身を自虐的に「売女(ばいた)」って呼んでいるけど、両者とも呼び方古いんでは……とはいえ、不倫も援助交際も社会問題化して、女性のふしだらさを咎める俗称のようなもの自体が意味をなさなくなってきているのかね。そういやこの映画はR指定だし。(中学生でシネヴィヴィアンに来るかどうか知らんが)

しかし、この映画はモーニング&レイトショーなんだけど、日曜の朝からこれ観ると落ち込まないのかなあ……試してみてもよかったかも。あとパンフが300円の概要を書いただけのやつだった。シナリオ採録もやってよー。台詞は気に入ってたんだからさー。(1998/04/11)

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