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澀江抽齋 その一〜その九

鴎外選集8(東京堂 1949.9.25)
※ 初出・全集等と比較していない。ルビを省略した。
※ 人名・書名・年号等にはタグを付している。

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その一
三十七年如一瞬。學醫傳業薄才伸。榮枯窮達任天命。安樂換錢不患貧。これは澀江抽齋の述志の詩である。想ふに天保十二年の暮に作つたものであらう。弘前の城主津輕順承の定府の醫官で、當時近習詰になつてゐた。しかし隱居附にせられて、主に柳嶋にあつた信順の館へ出仕することになつてゐた。父允成が致仕して、家督相續をしてから十九年、母岩田氏縫を喪つてから十二年、父を失つてから四年になつてゐる。三度目の妻岡西氏徳と長男恒善、長女、二男優善とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。邸は神田辨慶橋にあつた。知行は三百石である。しかし抽齋は心を潜めて古代の醫書を讀むことが好で、技を售らうと云ふ念がないから、知行より外の收入は殆ど無かつただらう。只津輕家の秘方一粒金丹と云ふものを製して賣ることを許されてゐたので、若干の利益はあつた。
抽齋は自ら奉ずること極めて薄い人であつた。酒は全く飮まなかつたが、四年前に先代の藩主信順に扈隨して弘前に往つて、翌年まで寒國にゐたので、晩酌をするやうになつた。煙草は終生喫まなかつた。遊山などもしない。時々採藥に小旅行をする位に過ぎない。只好劇家で劇場には屡出入したが、それも同好の人々と一しよに平土間を買つて行くことに極めてゐた。此連中を周茂叔連と稱へたのは、廉を愛すると云ふ意味であつたさうである。
抽齋は金を何に費やしたか。恐らくは書を購ふと客を養ふとの二つの外に出でなかつただらう。澀江家は代々學醫であつたから、父祖の手澤を存じてゐる書籍が少くなかつただらうが、現に經籍訪古志に載つてゐる書目を見ても抽齋が書を買ふために貲を惜まなかつたことは想ひ遣られる。
抽齋の家には食客が絶えなかつた。少いときは二三人、多いときは十餘人だつたさうである。大抵諸生の中で、志があり才があつて自ら給せざるものを選んで、寄食を許してゐたのだらう。
抽齋は詩に貧を説いてゐる。其貧がどんな程度のものであつたかと云ふことは、略以上の事實から推測することが出來る。此詩を瞥見すれば、抽齋は其貧に安んじて、自家の材能を父祖傳來の醫業の上に施してゐたかとも思はれよう。しかし抽齋の不平が二十八字の底に隱されてあるのを見ずにはゐられない。試みに看るが好い。一瞬の如くに過ぎ去つた四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才伸を以て妥に承けられる筈がない。伸ると云ふのは反語でなくてはならない。老驥櫪に伏すれども、志千里に在りと云ふ意が此中に藏せられてゐる。第三も亦同じ事である。作者は天命に任せるとは云つてゐるが、意を榮達に絶つてゐるのではなさゝうである。さて第四に至つて、作者は其貧を患へずに、安樂を得てゐると云つてゐる。これも反語であらうか。いや。さうではない。久しく修養を積んで、内に恃む所のある作者は、身を困苦の中に屈してゐて、志は未だ伸びないでもそこに安樂を得てゐたのであらう。
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その二
抽齋は此詩を作つてから三年の後、弘化元年に躋壽館の講師になつた。躋壽館は明和二年多紀玉池が佐久間町の天文臺址に立てた醫學校で、寛政三年に幕府の管轄に移されたものである。抽齋が講師になつた時には、もう玉池が死に、子藍溪、孫桂山、曾孫柳■(三水+片:::大漢和)も死に、玄孫曉湖の代になつてゐた。抽齋と親しかつた桂山の二男■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭は、分家して館に勤めてゐたのである。今の制度と較べて見れば、抽齋は帝國大學醫科大學の教職に任ぜられたやうなものである。これと同時に抽齋は式日に登城することになり、次いで嘉永二年に將軍家慶に謁見して、所謂目見以上の身分になつた。これは抽齋の四十五歳の時で、其才が伸びたと云ふことは、此時に至つて始て言ふことが出來たであらう。しかし貧窮は舊に依つてゐたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人扶持出ることになり、安政元年に又職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五兩が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以て償ふことは出來なかつた。謁見の年には、當時の抽齋の妻山内氏五百が、衣類や裝飾品を賣つて費用に充てたさうである。五百が亡くなつた後に抽齋の納れた四人目の妻である。
抽齋の述志の詩は、今わたくし中村不折さんに書いて貰つて、居間に懸けてゐる。わたくしは此頃抽齋を敬慕する餘りに、此幅を作らせたのである。
抽齋は現に廣く世間に知られてゐる人物ではない。偶少數の人が知つてゐるのは、それは經籍訪古志の著者の一人として知つてゐるのである。多方面であつた抽齋には、本業の醫學に關するものを始として、哲學に關するもの、藝術に關するもの等、許多の著述がある。しかし安政五年抽齋が五十四歳で亡くなる迄に、脱稿しなかつたものもある。又既に成つた書も、當時は書籍を刊行すると云ふことが容易でなかつたので、世に公にせられなかつた。
抽齋の著した書で、存命中に印行せられたのは、只護痘要法一部のみである。これは種痘術のまだ廣く行はれなかつた當時、醫中の先覺者がこの恐るべき傳染病のために作つた數種の書の一つで、抽齋は術を池田京水に受けて記述したのである。これを除いては、こゝに數へ擧げるのも可笑しい程の四つの海と云ふ長唄の本があるに過ぎない。但しこれは當時作者が自家の體面をいたはつて、贔屓にしてゐる富士田千藏の名で公にしたのだが、今は憚るには及ぶまい。四つの海は今猶杵屋の一派では用ゐてゐる謠物の一つで、これも抽齋が多方面であつたと云ふことを證するに足る作である。
然らば世に多少知られてゐる經籍訪古志はどうであるか。これは抽齋の考證學の方面を代表すべき著述で、森枳園と分擔して書いたものであるが、これを上梓することは出來なかつた。そのうち支那公使館にゐた楊守敬が其寫本を手に入れ、それを姚子梁が公使徐承祖に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになつた。其時幸にがまだ生存してゐて、校正したのである。
世間に多少抽齋を知つてゐる人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた經籍訪古志があるからである。しかしわたくしはこれに依つて抽齋を知つたのではない。
わたくしは少い時から多讀の癖があつて、隨分多く書を買ふ。わたくしの俸錢の大部分は内地の書肆と、ベルリン、パリイの書估との手に入つてしまふ。しかしわたくしは曾て珍本を求めたことがない。或る時ドイツのバルテルスの文學史の序を讀むと、バルテルスが多く書を讀まうとして、廉價の本を渉獵し、文學史に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないと云つてあつた。わたくしはこれを讀んで私かに殊域同嗜の人を獲たと思つた。それゆゑわたくしは漢籍に於ても宋槧本とか元槧本とか云ふものを顧みない。經籍訪古志は餘りわたくしの用に立たない。わたくしは其著者が澀江とであつたことをも忘れてゐたのである。
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その三
わたくし抽齋を知つたのは奇縁である。わたくしは醫者になつて大學を出た。そして官吏になつた。然るに少い時から文を作ることを好んでゐたので、いつの間にやら文士の列に加へられることになつた。其文章の題材を、種々の周圍の状况のために、過去に求めるやうになつてから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜つた。そこに武鑑を檢する必要が生じた。
武鑑は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮むるに闕くべからざる史料である。然るに公開せられてゐる圖書館では、年を逐つて發行せられた武鑑を集めてゐない。これは武鑑、殊に寛文頃より古い類書は、諸侯の事を記するに誤謬が多くて、信じ難いので、措いて顧みないのかも知れない。しかし武鑑の成立を考へて見れば、此誤謬の多いのは當然で、それは又他書によつて正すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全體を觀察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を斷面的に知るには、これに優る史料は無い。そこでわたくしは自ら武鑑を蒐集することに着手した。
此蒐集の間に、わたくしは弘前醫官澀江氏藏書記と云ふ朱印のある本に度々出逢つて、中には買ひ入れたのもある。わたくしはこれによつて弘前の官醫で澀江と云ふ人が、多く武鑑を藏してゐたと云ふことを、先づ知つた。
そのうち武鑑と云ふものは、いつから始まつて、最も古いもので現存してゐるのはいつの本かと云ふ問題が生じた。それを决するには、どれだけの種類の書を武鑑の中に數へるかと云ふ、武鑑のデフイニシヨンを極めて掛からなくてはならない。
それにはわたくしは足利武鑑、織田武鑑、豐臣武鑑と云ふやうな、後の人のレコンストリユクシヨンによつて作られた書を最初に除く。次に群書類從にあるやうな分限帳の類を除く。さうすると跡に、時代の古いものでは、御馬印揃、御紋盡、御屋敷附の類が殘つて、それが稍形を整へた江戸鑑となり、江戸鑑は直ちに後の所謂武鑑に接續するのである。
わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの武鑑に對する知識は日々變つて行く。しかし今知つてゐる限を言へば、馬印揃や紋盡は寛永中からあつたが、當時のものは今存じてゐない。その存じてゐるのは後に改板したものである。只一つこゝに姑く問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔さんが最古の武鑑として報告した、鎌田氏の治代普顯記中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられてゐるエラルヂツクを、我國に興さうとしてゐるものと見えて、紋章を研究してゐる。そして此目的を以て武鑑をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即ち治代普顯記の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄寫を許したから、わたくしは近いうちに此記載を精■(手偏+僉:れん・けん:巡察する:大漢和12779)しようと思つてゐる。
そんなら今に■(之繞+台:::大漢和38791)るまでに、わたくしの見た最古の武鑑乃至其類書は何かと云ふと、それは正保二年に作つた江戸の屋敷附である。これは殆ど完全に保存せられた板本で、末に正保四年と刻してある。只題號を刻した紙が失はれたので、恣に命じた名が表紙に書いてある。此本が正保四年と刻してあつても、實は正保二年に作つたものだと云ふ證據は、卷中に數箇條あるが、試みに其一つを言へば、正保二年十二月二日に歿した細川三齋が三齋老として擧げてあつて、又其第を諸邸宅のオリアンタシヨンのために引合に出してある事である。此本は東京帝國大學圖書館にある。
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その四
わたくしはこの正保二年に出來て、四年に上梓せられた屋敷附より古い武鑑の類書を見たことが無い。降つて慶安中の紋盡になると、現に上野の帝國圖書館にも一册ある。しかし可笑しい事には、外題に慶安としてあるものは、後に寛文中に作つたもので、眞に慶安中に作つたものは、内容を改めずに、後の年號を附して印行したものである。それから明暦中の本になると、世間にちらほら殘つてゐる。大學にある紋盡には、伴信友の自筆の序がある。文政三年に此本を獲て、最古の武鑑として藏してゐたのださうである。それから寛文中の江戸鑑になると、世間に稍多い。
これはわたくしが數年間武鑑を捜索して得た斷案である。然るにわたくしに先んじて、夙く同じ斷案を得た人がある。それは上野の圖書館にある江戸鑑圖目録と云ふ寫本を見て知ることが出來る。此書は古い武鑑類と江戸圖との目録で、著者は自己の寓目した本と、買ひ得て藏してゐた本とを擧げてゐる。此書正保二年の屋敷附を以て當時存じてゐた最古の武鑑類書だとして、卷首に載せてゐて、二年の二の字の傍に四と註してゐる。著者は四年と刻してある此書の内容が二年の事實だと云ふことにも心附いてゐたものと見える。著者はわたくしと同じやうな蒐集をして、同じ斷案を得てゐたと見える。序だから言ふが、わたくしは古い江戸圖をも集めてゐる。
然るに此目録には著者の名が署して無い。只文中に所々考證を記すに當つて抽齋云としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た弘前醫官澀江氏藏書記の朱印が此寫本にもある。
わたくしはこれを見て、ふと澀江氏と抽齋とが同人ではないかと思つた。そしてどうにかしてそれを確めようと思ひ立つた。
わたくしは友人、就中東北地方から出た友人に逢ふ毎に、澀江を知らぬか、抽齋を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣つて問ひ合せた。
或る日長井金風さんに會つて問ふと、長井さんが云つた。「弘前の澀江なら藏書家で經籍訪古志を書いた人だ」と云つた。しかし抽齋と號してゐたかどうだかは長井さんも知らなかつた。經籍訪古志には抽齋の號は載せてないからである。
そのうち弘前に勤めてゐる同僚の書状が數通屆いた。わたくしはそれによつてこれだけの事を知つた。澀江氏は元祿の頃に津輕家に召し抱へられた醫者の家で、代々勤めてゐた。しかし定府であつたので、弘前には深く交つた人が少く、又澀江氏の墓所も無ければ子孫も無い。今東京にゐる人で、澀江氏と交つたかと思はれるのは、飯田巽と云ふ人である。又郷土史家として澀江氏の事蹟を知つてゐようかと思はれるのは、外崎覺と云ふ人であると云ふ事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精しい佐藤彌六さんと云ふ老人で、當時大正四年に七十七歳になると云つてあつた。
わたくしは直接に澀江氏と交つたらしいと云ふ飯田巽さんを、先づ訪ねようと思つて、唐突ではあつたが、飯田さんの西江戸川町の邸へ往つた。飯田さんは素と宮内省の官吏で、今某會社の監査役をしてゐるのださうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしは誰の紹介も求めずに往つたのに、飯田さんは快く引見して、わたくしの問に答へた。飯田さん澀江道純を識つてゐた。それは飯田さんの親戚に醫者があつて、其人が何か醫學上にむづかしい事があると、澀江に問ひに徃くことになつてゐたからである。道純は本所御臺所町に住んでゐた。しかし子孫はどうなつたか知らぬと云ふのである。
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その五
わたくし飯田さんの口から始めて道純と云ふ名を聞いた。これは經籍訪古志の序に署してある名である。しかし道純が抽齋と號したかどうだか飯田さんは知らなかつた。
切角道純を識つてゐた人に會つたのに、子孫のゐるかゐないかもわからず、墓所を問ふたつきをも得ぬのを遺憾に思つて、わたくしは暇乞をしようとした。其時飯田さんが、「ちよいとお待下さい、念のために妻にきいて見ますから」と云つた。
細君が席に呼び入れられた。そして若し澀江道純の跡がどうなつてゐるか知らぬかと問はれて答へた。「道純さんの娘さんが本所松井町の杵屋勝久さんでございます。」
經籍訪古志の著者澀江道純の子が現存してゐると云ふことを、わたくしは此時始めて知つた。しかし杵屋と云へば長唄のお師匠さんであらう。それを本所に訪ねて、「お父うさんは抽齋と云ふ別號がありましたか」とか、「お父うさんは武鑑を集めてお出でしたか」とか云ふのは、餘りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
わたくし杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問ひ合はせて貰ふことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辭した。
二三日立つて飯田さんの手紙が來た。杵屋さんには澀江終吉と云ふ甥があつて、下澁谷に住んでゐると云ふのである。杵屋さんの甥と云へば、道純から見れば、孫でなくてはならない。さうして見れば、道純には娘があり孫があつて現存してゐるのである。
わたくしは直に終吉さんに手紙を出して、何時何處へ往つたら逢はれようかと問うた。返事は直に來た。今風邪で寢てゐるが、なほつたら此方から往つても好いと云ふのである。手跡はまだ少い人らしい。
わたくしは曠しく終吉さんの病の癒えるのを待たなくてはならぬことになつた。探索はこゝに一頓挫を來さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思つて、此隙に弘前から、歴史家として道純の事を知つてゐさうだと知らせて來た外崎覺と云ふ人を訪ねることにした。
外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮にある。わたくしは宮内省へ往つた。そして諸陵寮が宮城を離れた霞が關の三年坂上にあることを教へられた。常に宮内省には往來しても、諸陵寮がどこにあると云ふことは知らなかつたのである。
諸陵寮の小さい應接所で、わたくしは初めて外崎さんに會つた。飯田さんの先輩であつたとは違つて、此人はわたくしと齡も相若くと云ふ位で、しかも史學を以て仕へてゐる人である。わたくしは傾蓋故きが如き念をした。
初對面の挨拶が濟んで、わたくしは來意を陳べた。武鑑を蒐集してゐる事、古武鑑に精通してゐた無名の人の著述が寫本で傳はつてゐる事、その無名の人は自ら抽齋と稱してゐる事、其寫本に弘前の澀江と云ふ人の印がある事、抽齋と澀江とが若しや同人ではあるまいかと思つてゐる事、これだけの事をわたくしは簡單に話して、外崎さんに解决を求めた。
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その六
外崎さんの答は極めて明快であつた。「抽齋と云ふのは經籍訪古志を書いた澀江道純の號ですよ。」
わたくしは釋然とした。
抽齋澀江道純は經史子集や醫籍を渉獵して考證の書を著したばかりでなく、古武鑑や古江戸圖をも蒐集して、其考證の迹を手記して置いたのである。上野の圖書館にある江戸鑑圖目録は即ち古武鑑古江戸圖の訪古志である。惟經史子集は世の重要視する所であるから、經籍訪古志は一の徐承祖を得て公刊せられ、古武鑑や古江戸圖は、わたくし共の如き微力な好事家が偶一顧するに過ぎないから、其目録は僅に存して人が識らずにゐるのである。わたくし共はそれが帝國圖書館の保護を受けてゐるのを、せめてもの僥倖としなくてはならない。
わたくしは又かう云ふ事を思つた。抽齋は醫者であつた。そして官吏であつた。そして經書や諸子のやうな哲學方面の書をも讀み、歴史をも讀み、詩文集のやうな文藝方面の書をも讀んだ。其迹が頗るわたくしと相似てゐる。只その相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。さうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽齋が哲學文藝に於いて、考證家として樹立することを得るだけの地位に達してゐたのに、わたくしは雜駁なるヂレツタンチスムの境界を脱することが出來ない。わたくし抽齋に視て忸怩たらざることを得ない。
抽齋は曾てわたくしと同じ道を歩いた人である。しかし其健脚はわたくしの比ではなかつた。■(之繞+向:けい:遠い・遙か〈「迥」の俗字〉:大漢和38868)にわたくしに優つた濟勝の具を有してゐた。抽齋わたくしのためには畏敬すべき人である。
然るに奇とすべきは、其人が康衢通逵をばかり歩いてゐずに、往々徑に由つて行くことをもしたと云ふ事である。抽齋は宋槧の經子を討めたばかりでなく、古い武鑑や江戸圖をも翫んだ。若し抽齋わたくしのコンタンポランであつたなら、二人の袖は横町の溝板の上で摩れ合つた筈である。こゝに此人とわたくしとの間に■(日+匿:::大漢和)みが生ずる。わたくし抽齋を親愛することが出來るのである。
わたくしはかう思ふ心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽齋の何人なるかを知らずに、漫然抽齋のマニユスクリイの藏■(去/廾:::大漢和9605)者たる澀江氏の事蹟を訪ね、そこに先づ經籍訪古志を著した澀江道純の名を知り、其道純を知つてゐた人に由つて、道純の子孫の現存してゐることを聞き、やう\/今日道純と抽齋とが同人であることを知つたと云ふ道行を語つた。
外崎さんも事の奇なるに驚いて云つた。「抽齋の子なら、わたくしは識つてゐます。」
「さうですか。長唄のお師匠さんださうですね。」
「いゝえ。それは知りません。わたくしの知つてゐるのは抽齋の跡を繼いだ子で、と云ふ人です。」
「はあ。それでは澀江保と云ふ人が、抽齋の嗣子であつたのですか。今保さんは何處に住んでゐますか。」
「さあ。大ぶ久しく逢ひませんから、ちよつと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知つてゐるものがありませうから、近日聞き合せて上げませう。」
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その七
わたくしは直に保さんの住所を討ねることを外崎さんに頼んだ。と云ふ名は、わたくしは始めて聞いたのでは無い。是より先、弘前から來た書状の中に、かう云ふことを報じて來たのがあつた。津輕家に仕へた澀江氏の當主は澀江保である。は廣嶋の師範學校の教員になつてゐると云ふのであつた。わたくしは職員録を■(手偏+僉:れん・けん:巡察する:大漢和12779)した。しかし澀江保の名は見えない。それから廣島高等師範學校長幣原坦さんに書を遣つて問うた。しかし學校には此名の人はゐない。又曾てゐたこともなかつたらしい。わたくしは多くの人に澀江保の名を擧げて問うて見た。中には博文館の發行した書籍に、此名の著者があつたと云ふ人が二三あつた。しかし廣嶋に踪跡が無かつたので、わたくしは此報道を疑つて追跡を中絶してゐたのである。
此に至つてわたくし抽齋の子が二人と、孫が一人と現存してゐることを知つた。子の一人は女子で、本所にゐる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下澁谷にゐる終吉さんである。しかし保さんを識つてゐる外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかつた。
わたくしは猶外崎さんに就いて、抽齋の事蹟を詳にしようとした。外崎さんは記憶してゐる二三の事を語つた。澀江氏の祖先は津輕信政に召し抱へられた。抽齋はその數世の孫で、文化中に生れ、安政中に歿した。その徳川家慶に謁したのは嘉永中の事である。墓誌銘は友人海保漁村が撰んだ。外崎さんはおほよそこれだけの事を語つて、追つて手近にある書籍の中から抽齋に關する記事を抄出して贈らうと約した。わたくし保さんの所在を捜すことゝ、此拔萃を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の應接所を出た。
外崎さんの書状は間もなく來た。それに前田文正筆記津輕日記喫茗雜話の三書から、抽齋に關する事蹟を抄出して添へてあつた。中にも喫茗雜話から抄したものは、漁村の撰んだ抽齋の墓誌の略で、わたくしは其中に「道純諱全善、號抽齋、道純其字也」と云ふ文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと訓ませたのださうである。
これと殆ど同時に、終吉さんの稍長い書状が來た。終吉さんは風邪が急に癒えぬので、わたくしと會見するに先つて、澀江氏に關する數件を書いて送ると云つて、祖父の墓の所在、現存してゐる親戚交互の關係、家督相續をした叔父の住所等を報じてくれた。墓は谷中齋場の向ひの横町を西へ入つて、北側の感應寺にある。そこへ往けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである。血族關係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。此二人の同胞の間にと云ふ人があつて、亡くなつて、其子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは圖案を作ることを業とする畫家であつて、三軒の家は頗る生計の方向を殊にしてゐる。そこで早く怙を失つた終吉さんは伯母をたよつて往來をしてゐても、勝久さん保さんとはいつとなく疎遠になつて、勝久さんは久しくの住所をだに知らずにゐたさうである。そのうち丁度わたくしが澀江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの女冬子さんが病死した。それを保さんに報じたので、勝久さんの所在を知つた。終吉さんが住所を告げてくれた叔父と云ふのが即ち保さんである。是に於てわたくしは、外崎さんの捜索を煩すまでもなく、保さんの今の牛込船河原町の住所を知つて、直にそれを外崎さんに告げた。
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その八
わたくしは谷中の感應寺に往つて、抽齋の墓を訪ねた。墓は容易く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立つてゐる。「抽齋澀江君墓碣名」と云ふ篆額も墓誌銘も、皆小嶋成齋の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が餘り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除したものださうである。喫茗雜話の載する所は三分の一にも足りない。わたくしは又後に五弓雪窓が此文を事實文編卷の七十二に收めてゐるのを知つた。國書刊行會本を閲するに、誤脱は無いやうである。只「撰經籍訪古志」に訓點を施して、經籍を撰び、古志を訪ふと訓ませてあるのに慊なかつた。經籍訪古志の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭の命じた名だと云ふことが、抽齋森枳園との作つた序に見えてをり、訪古の字面は、宋史鄭樵の傳に、名山大川に游び、奇を捜し古を訪ひ、書を藏する家に遇へば、必ず借留し、讀み盡して乃ち去るとあるのに出たと云ふことが、枳園の書後に見えてをる。
墓誌に三子ありとして、恒善優善成善の名が擧げてあり、又「一女平野氏出」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事ださうである。又平野氏の生んだ女と云ふのは、比良野文藏の女威能が、抽齋の二人目の妻になつて生んだである。勝久さん終吉さんの亡父は此文に載せて無いのである。
抽齋の碑の西に澀江氏の墓が四基ある。其一には「性如院宗是日體信士、庚申元文五年七月十七日」と、向つて右の傍に彫つてある。抽齋の高祖父輔之である。中央に「得壽院量遠日妙信士、天保八酉年十月二十六日」と彫つてある。抽齋の父允成である。其間と左とに高祖父と父との配偶、夭折した允成の女二人の法諡が彫つてある。「松峰院妙實日相信女、己丑明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源靜院妙境信女、庚戌寛政二年四月十三日」とあるのは、允成の初の妻田中氏、「壽松院妙遠日量信女、文政十二己丑六月十四日」とあるのは、抽齋の生母岩田氏縫、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏寛政六年甲寅三月七日、三歳而夭、俗名」とあるのも、「曇華水子、文化八年辛未閏二月十四日」とあるのも、並に皆允成の女である。其二には「至善院格誠日在、寛保二年壬戌七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日榮、嘉永七年甲寅三月十日」と彫つてある。至善院は抽齋の曾祖父爲隣で、終事院は抽齋が五十歳の時父に先つて死んだ長男恒善である。其三には五人の法諡が並べて刻してある。「醫妙院道意日深信士、天明四年甲辰二月廿九日」としてあるのは、抽齋の祖父本皓である。「智照院妙道日修信女、寛政四壬子八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻登勢である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母澀江氏、安永六年丁酉五月三日死、享年十九、俗名千代、臨終作歌曰」云々としてあるのは、登勢の生んだ本皓の女である。抽齋の高祖父輔之は男子が無くて歿したので、十歳になる女登勢に婿を取つたのが爲隣である。爲隣登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に來て、登勢の配偶になつて、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、澀江氏の血統は一たび絶えた。抽齋の父允成本皓の養子である。次に某々孩子と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子ださうである。其四には「澀江脩之墓」と刻してあつて、これは石が新しい。終吉さんの父である。
後に聞けば墓は今一基あつて、それには抽齋の六世の祖辰勝が「寂而院宗貞日岸居士」とし、其妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖辰盛が「寂照院道陸玄澤日行居士」とし、其妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽齋の妻比良野氏が、「■(彳+扁:へん・べん:遍く行き渡る・巡る・偏る:大漢和10174)照院妙淨日法大姉」とし、同岡西氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあつたが、其石の折れてしまつた迹に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのださうである。
わたくしは自己の敬愛してゐる抽齋と、其尊卑二屬とに、香華を手向けて置いて感應寺を出た。
尋いでわたくし保さんを訪はうと思つてゐると、偶女杏奴が病氣になつた。日々官衙には通つたが、公退の時には家路を急いだ。それゆゑ人を訪問することが出來ぬので、終吉の兩澀江と外崎との三家へ、度々書状を遣つた。
三家からはそれ\〃/返信があつて、中にも保さんの書状には、抽齋を知るために闕くべからざる資料があつた。それのみではない。終吉さんは其隙に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽齋の事をわたくしに語つて貰ひたいと頼んだのである。叔父甥はこゝに十數年を隔てゝ相見たのださうである。又外崎さんも一度わたくしに代つて保さんをおとづれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが船河原町へ往くに先んじて、とう\/保さんが官衙に來てくれて、わたくし抽齋の嗣子と相見ることを得た。
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その九
氣候は寒くても、まだ爐を焚く季節に入らぬので、火の氣の無い官衙の一室で、卓を隔てゝ保さんわたくしとは對坐した。そして抽齋の事を語つて倦むことを知らなかつた。
今殘つてゐる勝久さん保さんとの姉弟、それから終吉さんの父、此三人の子は一つ腹で、抽齋の四人目の妻、山内氏五百の生んだのである。勝久さんは名をと云ふ。抽齋が四十三、五百が三十二になつた弘化四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽齋嘉永四年に本所へ移つたのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
終吉さんの父安政元年に本所で生れた。中三年置いて四年に、保さんは生れた。抽齋が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、も四歳になつてゐたのである。
抽齋安政五年に五十四歳で亡くなつたから、保さんは其時まだ二歳であつた。幸に母五百明治十七年までながらへてゐて、保さんは二十八歳で恃を喪つたのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考の平生を聞くことを得たのである。
抽齋保さんを學醫にしようと思つてゐたと見える。亡くなる前にした遺言によれば、經を海保漁村に、醫を多紀安琢に、書を小嶋成齋に學ばせるやうに云つてある。それから洋學に就いては、折を見て蘭語を教へるが好いと云つてある。抽齋は友人多紀■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭などゝ同じやうに、頗るオランダ嫌ひであつた。學殖の深かつた抽齋が、新奇を趁ふ世俗と趨舍を同じくしなかつたのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小團次の藝を「西洋」だと云つてある。これは褒めたのではない。然るにその抽齋が晩年に至つて、洋學の必要を感じて、子に蘭語を教へることを遺言したのは、安積艮齋に其著述の寫本を借りて讀んだ時、飜然として悟つたからださうである。想ふにその著述と云ふのは洋外紀略などであつただらう。保さんは後に蘭語を學ばずに英語を学ぶことになつたが、それは時代の変遷のためである。
わたくし保さんに、抽齋の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、僅に二歳であつた保さんが、に武鑑を貰つて翫んだと云ふことを聞いた。それは出雲寺板の大名武鑑で、鹵簿の道具類に彩色を施したものであつたさうである。それのみでは無い。保さんが大きい本箱に「江戸鑑」と貼札をして、其中に一ぱい古い武鑑を收めてゐたことを記憶してゐる。此コルレクシヨンは保さんの五六歳の時まで散佚せずにゐたさうである。江戸鑑の箱があつたなら、江戸圖の箱もあつただらう。わたくしはこゝに江戸鑑圖目録の作られた縁起を知ることを得たのである。
わたくし保さんに、の事に關する記憶を、箇條書にして貰ふことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで獨立評論に追憶談を載せてゐるから、それを見せようと約した。
保さんと會見してから間もなく、わたくしは大禮に參列するために京都へ立つた。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にゐるうちに、書きものの出來たことを報じた。わたくしは京都から歸つて、直に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、又獨立評論をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に據るのである。

〔その10〕〜

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