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澀江抽齋 その四十三〜その

鴎外選集8(東京堂 1949.9.25)

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その四十三
嘉永五年には四月二十九日に、抽齋の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵田口儀三郎の養女を娶つた。五月十八日に、恒善に勤料三人扶持を給せられた。抽齋が四十八歳、五百が三十七歳の時である。
伊澤氏では此年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒抽齋より一つの年上で、二人の交は頗る親しかつた。楷書に片假名を交ぜた榛軒の尺牘には、宛名が抽齋賢弟としてあつた。しかし抽齋小嶋成齋に於けるが如く心を傾けてはゐなかつたらしい。
榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでゐた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る廣大な構であつた。庭には吉野櫻八株を栽ゑ、花の頃には親戚知友を招いてこれを賞した。其日には榛軒の妻飯田氏しほと女かえとが許多の女子を役して、客に田樂豆腐などを供せしめた。パアル、アンチシパシヨン(*予め。他家に先っての意か。)に園遊會を催したのである。歳の初の發會式も、他家に較ぶれば華やかであつた。しほは素京都諏訪神社の禰宜飯田氏の女で、典藥頭某の家に仕へてゐるうちに、其嗣子と私してしほを生んだ。しほは落魄して江戸に來て、木挽町の藝者になり、些の財を得て業を罷め、新堀に住んでゐたさうである。榛軒が娶つたのは此時の事である。しほは識らぬの記念の印籠一つを、から承け傳へて持つてゐた。榛軒しほに生ませた女かえは、一時池田京水の次男全安を迎へて夫としてゐたが、全安が廣く内科を究めずに、痘科と唖科とに偏すると云ふを以て、榛軒全安京水の許に還したさうである。
榛軒は邊幅を脩めなかつた。澀江の家を訪ふに、踊りつゝ玄關から入つて、居間の戸の外から聲を掛けた。自ら鰻を誂へて置いて來て、粥を所望することもあつた。そして抽齋に、「どうぞに構つてくれるな、には御新造が合口だ」と云つて、書齋に退かしめ、五百と語りつゝ飮食するを例としたさうである。
榛軒が歿してから一月の後、十二月十六日に弟柏軒が躋壽館の講師にせられた。森枳園等と共に千金方校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になつてゐた。
是年に五百の姉壻長尾宗右衞門が商業の革新を謀つて、横山町の家を漆器店のみとし、別に本町二丁目に居宅を置くことにした。此計畫のために、抽齋は二階の四室を明けて、宗右衞門夫妻の二女、女中一人、丁稚一人を棲まはせた。
嘉永六年正月十九日に、抽齋の六女水木が生れた。家族は主人夫婦恒善夫婦水木の六人で、優善は矢嶋氏の主人になつてゐた。抽齋四十九歳、五百三十八歳の時である。
此年二月二十六日に、堀川舟庵が躋壽館の講師にせられて、千金方校刻の事に任じた三人の中森枳園が一人殘された。
安政元年は稍事多き年であつた。二月十四日に五男專六が生れた。後にと名告つた人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽齋は子婦の父田口儀三郎の窮を憫んで、百兩餘の金を餽り、をば有馬宗智と云ふものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽齋は躋壽館の講師たる故を以て、年に五人扶持を給せられることになつた。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋壽館醫書彫刻手傳を仰附けられた。今度校刻すべき書は、圓融天皇天元五年に、丹波康頼が撰んだと云ふ醫心方である。
保さんの所藏の抽齋手記に、醫心方の出現と云ふ語がある。昔から嚴に秘せられてゐた書が、忽ち目前に出て來た状が、此語で好く表されてゐる。「秘玉突然開■(木偏+賣:::大漢和)出。瑩光明徹點瑕無。金龍山畔波濤起。龍口初探是此珠。」これは抽齋亡妻の兄岡西玄亭が、當時喜を記した詩である。龍口と云つたのは、醫心方が若年寄遠藤但馬守胤統の手から躋壽館に交付せられたからであらう。遠藤の上屋敷は辰口の北角であつた。
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その四十四
日本の古醫書は續群書類從に收めてある和氣廣世藥經太素丹波康頼康頼本草釋蓮基長生療養方、次に多紀家で校刻した深根輔仁本草和名丹波雅忠醫略抄寶永中に印行せられた具平親王弘决外典抄の數種を存するに過ぎない。具平親王の書は本字類に屬して、此に算すべきではないが、醫事に關する記載が多いから列記した。これに反して、彼の出雲廣貞等の上つた大同類聚方の如きは、散佚して世に傳はらない。
それゆゑ天元五年に成つて、永觀二年に上られた醫心方が、殆ど九百年の後の世に出でたのを見て、學者が血を涌き立たせたのも怪むに足らない。
醫心方は禁闕の秘本であつた。それを正親町天皇が出して典藥頭半井通仙院瑞策に賜はつた。それからは世半井氏が護持してゐた。徳川幕府では、寛政の初に、仁和寺文庫本を謄寫せしめて、これを躋壽館に藏せしめたが、此本は脱簡が極て多かつた。そこで半井氏の本を獲ようとして屡命を傳へたらしい。然るに當時半井大和守成美は獻ずることを肯ぜず、其子修理大夫清雅も亦獻ぜず、遂に清雅の子廣明に至つた。
半井氏が初め何の辭を以て命を拒んだかは、これを詳にすることが出來ない。しかし後には天明八年の火事に、京都に於て燒失したと云つた。天明八年の火事とは、正月晦に洛東團栗辻から起つて、全都を灰燼に化せしめたものを謂ふのである。幕府は此答に滿足せずに、似寄の品でも好いから出せと誅求した。恐くは情を知つて強要したのであらう。
半井廣明は已むことを得ず、かう云ふ口上を以て醫心方を出した。外題は同じであるが、筆者區々になつてゐて、誤脱多く、甚だ疑はしき■(鹿三つ:そ:離れる・粗い・大きい:大漢和47714)卷である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覽に供すると云ふのである。書籍は廣明の手から六郷筑前守政殷の手にわたつて、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持つて往つた。正弘は公用人渡邊三太平を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
越えて十月十五日に、醫心方は若年寄遠藤但馬守胤統を以て躋壽館に交付せられた。此書が御用に立つものならば、書寫彫刻を命ぜられるであらう。若し彫刻を命ぜられることになつたら、費用は金藏から渡されるであらう。書籍は篤と取調べ、且刻本賣下代金を以て費用を返納すべき積年賦をも取調べるやうにと云ふことであつた。
半井廣明の呈した本は三十卷三十一册で、卷二十五に上下がある。細に■(手偏+僉:れん・けん:巡察する:大漢和12779)するに期待に負かぬ善本であつた。素醫心方巣元方病源候論を經とし、隋唐の方書百餘家を緯として作つたもので、その引用する所にして、支那に於て佚亡したものが少く無い。躋壽館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
幕府は館員の進言に從つて、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、總裁二人、校正十三人、監理四人、寫生十六人が任命せられた。總裁は多紀樂眞院法印多紀安良法眼である。樂眞院■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭安良曉湖で、並に二百俵の奧醫師であるが、は法印、は法眼になつてゐて、當時矢の倉の分家が向柳原の宗家の右に居つたのである。校正十三人の中には伊澤柏軒森枳園堀川舟庵抽齋とが加はつてゐた。
躋壽館では醫心方影寫程式と云ふものが出來た。寫生は毎朝辰刻に登館して、一人一日三頁を影摸する。三頁を摸し畢れば、任意に退出することを許す。三頁を摸すること能はざるものは、二頁を摸し畢つて退出しても好い。六頁を摸したるものは翌日休むことを許す。影寫は十一月朔に起つて、二十日に終る。日に二頁を摸するものは晦に至る。此間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。
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その四十五
半井本の醫心方を校刻するに當つて、仁和寺本を寫した躋壽館の舊藏本が參考せられたことは、問ふことを須たぬであらう。然るに別に一の善本があつた。それは京都加茂の醫家岡本由顯の家から出た醫心方卷二十二である。
正親町天皇の時、從五位上岡本保晃と云ふものがあつた。保晃半井瑞策醫心方一卷を借りて寫した。そして何故か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃由顯の曾祖父である。
由顯の言ふ所はかうである。醫心方徳川家光半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸に於て瑞策に師事した。瑞策が産後に病んで死に瀕した。保晃が藥を投じて救つた。瑞策がこれに報いんがために、醫心方一卷を贈つたと云ふのである。
醫心方瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にゐた人で、江戸に下つたことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈らうとしたにしても、よもや帝室から賜つた醫心方三十卷の中から、一卷を割いて贈りはしなかつただらう。凡そ此等の事は、前人が皆甞てこれを論辨してゐる。
既にして岡本氏の家衰へて、畑成文に託して此卷を沽らうとした。成文錦小路中務權少輔頼易に勸めて元本を買はしめ、副本はこれを己が家に留めた。錦小路は京都に於ける丹波氏の裔である。
岡本氏の醫心方一卷は、此の如くにして傳はつてゐた。そして校刻の時に至つて對照の用に供せられたやうである。
是年正月二十五日に、森枳園が躋壽館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。醫心方校刻の事の起つたのは、枳園が教職に就いてから十箇月の後である。
抽齋の家族は此年主人五十歳、五百三十九歳、八歳、水木二歳、專六生れて一歳の五人であつた。矢嶋氏を冐した優善は二十歳になつてゐた。二年前から寄寓してゐた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移つた。
安政二年が來た。抽齋の家の記録は先づ小さき、徒なる喜を誌さなくてはならなかつた。それは三月十九日に、六男翠暫が生れたことである。後十一歳にして夭札した子である。此年は人の皆知る地震の年である。しかし當時抽齋を搖り撼して起たしめたものは、獨地震のみではなかつた。
學問はこれを身に體し、これを事に措いて、始て用をなすものである。否るものは死學問である。これは世間普通の見解である。しかし學藝を研鑽して造詣の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に體せようとはしない。必ずしも徑ちにこれを事に措かうとはしない。その■(石偏+乞:::大漢和24043)々として年を閲する間には、心頭姑く用と無用とを度外に置いてゐる。大いなる功績は此の如くにして始て贏ち得らるゝものである。
この用無用を問はざる期間は、啻に年を閲するのみでは無い。或は生を終るに至るかも知れない。或は世を累ぬるに至るかも知れない。そして此期間に於ては、學問の生活と時務の要求とが截然として二をなしてゐる。若し時務の要求が漸く増長し來つて、強ひて學者の身に薄つたなら、學者が其學問生活を抛つて起つこともあらう。しかし其背面には學問のための損失がある。研鑽はこゝに停止してしまふからである。
わたくし安政二年抽齋が喙を時事に容るゝに至つたのを見て、是の如き觀をなすのである。
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その四十六
米艦が浦賀に入つたのは、二年前の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦が再び浦賀に來て、六月に下田を去るまで、江戸の騷擾は名状すべからざるものがあつた。幕府は五月九日を以て、萬石以下の士に甲冑の準備を令した。動員の備の無い軍隊の腑甲斐なさが覗はれる。新將軍家定の下にあつて、此難局に當つたのは、柏軒枳園等の主侯阿部正弘である。
今年に入つてから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘を以て大砲小銃を鑄造すべしと云ふ詔が發せられた。多年古書を校勘して寢食を忘れてゐた抽齋も、こゝに至つて■(宀/浸:::大漢和59493)風潮の化誘する所となつた。それには當時産蓐にゐた女丈夫五百の啓沃も與つて力があつたであらう。抽齋は遂に進んで津輕士人のために畫策するに至つた。
津輕順承は一の進言に接した。これを上つたものは用人加藤清兵衞、側用人兼松伴大夫、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の能くこれを遵行するものは少い。概ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに遑あらざるのである。宜く現に甲冑を有せざるものには、金十八兩を貸與してこれが貲に充てしめ、年賦に依つて還納せしむべきである。且今より後毎年一度甲冑改を行ひ、手入を怠らしめざるやうにせられたいと云ふのである。順承はこれを可とした。
此進言が抽齋の意より出で、兼松三郎がこれを承けて案を具し、兩用人の賛同を得て呈せられたと云ふことは、闔藩皆これを知つてゐた。三郎石居と號した。その隆準なるを以ての故に、抽齋は天狗と呼んでゐた。佐藤一齋古賀■(人偏+同:::大漢和601)庵の門人で、學殖儕輩を超え、嘗て昌平黌の舍長となつたこともある。當時弘前吏胥中の識者として聞えてゐた。
抽齋は天下多事の日に際會して、言偶政事に及び、武備に及んだが、此の如きは固より其本色では無かつた。抽齋の旦暮力を用ゐる所は、古書を講窮し、古義を闡明するにあつた。彼は弘前藩士たる抽齋が、外來の事物に應じて動作した一時のレアクシヨンである。此は學者たる抽齋が、終生從事してゐた不朽の勞作である。
抽齋の校勘の業は此頃着々進陟してゐたらしい。森枳園明治十八年に書いた經籍訪古志の跋に、緑汀會の事を記して、三十年前だと云つてある。緑汀とは多紀■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭が本所緑町の別莊である。■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭は毎月一二次、抽齋枳園柏軒舟庵海保漁村等を此に集へた。諸子は環坐して古本を披閲し、これが論定をなした。會の後には宴を開いた。さて二洲橋上醉に乘じて月を踏み、詩を詠じて歸つたと云ふのである。同じ書に、■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭此年安政二年より一年の後に書いた跋があつて、諸子■(衣の間に臼:ほう:集まる・取る・多い:大漢和34299)録惟れ勤め、各部頓に成ると云つてあるのを見れば、論定に繼ぐに編述を以てしたのも、亦當時の事であつたと見える。
わたくし此年の地震の事を語るに先つて、臺所町の澀江の家に座敷牢があつたと云ふことに説き及ぼすのを悲む。これは二階の一室を繞すに四目格子を以てしたもので、地震の日には工事既に竣つて、其中は猶空虚であつた。若し人が其中にゐたならば、澀江の家は死者を出さざることを得なかつたであらう。
座敷牢は抽齋が忍び難きを忍んで、次男優善がために設けたものであつた。
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