澀江抽齋 その十〜その二十四
鴎外選集8(東京堂 1949.9.25)
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25〜28
29〜35
36〜42
43〜
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その十
澀江氏の祖先は下野の大田原家の臣であつた。抽齋六世の祖を小左衞門辰勝と云ふ。大田原政繼、政増の二代に仕へて、正徳元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子重光は家を繼いで、政増、清勝に仕へ、二男勝重は去つて肥前の大村家に仕へ、三男辰盛は奧州の津輕家に仕へ、四男勝郷は兵學者となつた。大村には勝重の往く前に、源頼朝時代から續いてゐる澀江公業の後裔がある。それと下野から往つた澀江氏との關係の有無は、猶講窮すべきである。辰盛が抽齋五世の祖である。
澀江氏の仕へた大田原家と云ふのは、恐らくは下野國那須郡大田原の城主たる宗家ではなく、其支封であらう。宗家は澀江辰勝の仕へたと云ふ頃、清信、扶清、友清などの世であつた筈である。大田原家は素一萬二千四百石であつたのに、寛文五年に備前守政清が主膳高清に宗家を襲がせ、千石を割いて末家を立てた。澀江氏は此支封の家に仕へたのであらう。今手許に末家の系譜がないから■(手偏+僉:れん・けん:巡察する:大漢和12779)することが出來ない。
辰盛は通稱を他人と云つて、後小三郎と改め、又喜六と改めた。道陸は剃髪してからの稱である。醫を今大路侍從道三玄淵に學び、元禄十七年三月十二日に江戸で津輕越中守信政に召し抱へられて、擬作金三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は寶永と改元せられた年である。師道三は故土佐守信義の五女を娶つて、信政の姉婿になつてゐたのである。辰盛は寶永三年に信政に隨つて津輕に往き、四年正月二十八日に知行二百石になり、寶永七年には二度目、正徳二年には三度目に入國して、正徳二年七月二十八日に祿を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。此時は信政が寶永七年に卒したので、津輕家は土佐守信壽の世になつてゐた。辰盛は享保十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守信著の家を嗣いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を享くること七十一歳である。此人は二男(*三男)で他家に仕へたのに、其父母は宗家から來て奉養を受けてゐたさうである。
辰盛は兄重光の二男輔之を下野から迎へ、養子として玄瑳と稱へさせ、これに醫學を授けた。即ち抽齋の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を繼いで、直に三百石を食み、信壽に仕ふること二年餘の後、信著に仕へ、改稱して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年の生であるから、四十七歳で歿したのである。
輔之には登勢と云ふ女一人しか無かつた。そこで病革なるとき、信濃の人某の子を養つて嗣となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であつたから、名のみの夫婦である。此女婿が爲隣で、抽齋の曾祖父である。爲隣は寛保元年正月十一日に家を繼いで、二月十三日に通稱の玄春を二世玄瑳と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の未亡人として遺された。
寛保二年に十五歳で、此登勢に入贅したのは、武藏國忍の人竹内作左衞門の子で、抽齋の祖父本皓が即ち此である。津輕家は越中守信寧の世になつてゐた。寶暦九年に登勢が二十九歳で女千代を生んだ。千代は絶えなんとする澀江氏の血統を僅に繋ぐべき子で、剰へ聰慧なので、父母はこれを一粒種と稱して鍾愛してゐると、十九歳になつた安永六年の五月三日に、辭世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十一歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があつて、名を令圖と云つたが、澀江氏を續ぐには特に學藝に長じた人が欲しいと云ふので、本皓は令圖を同藩の醫小野道秀の許へ養子に遣つて、別に繼嗣を求めた。
此時根津に茗荷屋と云ふ旅店があつた。其主人稻垣清藏は鳥羽稻垣家の重臣で、君を諫めて旨に忤ひ、遁れて商人となつたのである。清藏に明和元年五月十二日生れの嫡男專之助と云ふのがあつて、六歳にして詩賦を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清藏は子を士籍に復せしむることを願つてゐたので、快く許諾した。そこで下野の宗家を假親にして、大田原頼母家來用人八十石澀江官左衞門次男と云ふ名義で引き取つた。專之助名は允成字は子禮、定所と號し、居る所の室を容安と云つた。通稱は初玄庵と云つたが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒學は柴野栗山、醫術は依田松純の門人で、著述には容安室文稿、定所詩集、定所雜録等がある。これが抽齋の父である。
その十一
允成は才子で美丈夫であつた。安永七年三月朔に十五歳で澀江氏に養はれて、當時儲君であつた、二つの年上の出羽守信明に愛せられた。養父本皓の五十八歳で亡くなつたのが、天明四年二月二十九日で、信明の襲封と同日である。信明はもう土佐守と稱してゐた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。
寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に和三郎寧親が支封から入つて宗家を繼いだ。後に越中守と稱した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも親昵して、殆ど兄弟の如くに遇せられた。平生着丈四尺の衣を著て、體重が二十貫目あつたと云ふから、その堂々たる相貌が思ひ遣られる。
當時津輕家に靜江と云ふ女小姓が勤めてゐた。それが年老いての後に剃髪して妙了尼と號した。妙了尼が澀江家に寄寓してゐた頃、可笑しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中達が爭つて其茶碗の底の餘瀝を指に承けて舐るので、自分も舐つたと云ふのである。
しかし允成は謹嚴な人で、女色などは顧みなかつた。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日に娶つたが、これには子が無くて、翌年四月十三日に亡くなつた。次に寛政三年六月四日に、寄合戸田政五郎家來納戸役金七兩十二人扶持川崎丈助の女を迎へたが、これは四年二月に逸と云ふ女を生んで、逸は三歳で夭折した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納れた室は、下總國佐倉の城主堀田相模守正順の臣、岩田忠次の妹縫で、これが抽齋の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
縫は享和二年に始めて須磨と云ふ女を生んだ。これは後文政二年に十八歳で、留守居年寄佐野豐前守政親組飯田四郎左衞門良清に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽齋である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから後には文化八年閏二月十四日に女が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなつた。感應寺の墓に曇華水子と刻してあるのが此女の法諡である。
允成は寧親の侍醫で、津輕藩邸に催される月並講釋の教官を兼ね、經學と醫學とを藩の子弟に授けてゐた。三百石十人扶持の世祿の外に、寛政十二年から勤料五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加へ、八年に又五人扶持を加へられて、とう\/三百石と二十五人扶持を受けることゝなつた。中二年置いて文化十一年に一粒金丹を調製することを許された。これは世に聞えた津輕家の秘方で、毎月百兩以上の所得になつたのである。
允成は表向侍醫たり教官たるのみであつたが、寧親の信任を蒙ることが厚かつたので、人の敢て言はざる事をも言ふやうになつてゐて、數諫めて數聽かれた。寧親は文化元年五月連年蝦夷地の防備に任じたと云ふ廉を以て、四萬八千石から一躍して七萬石にせられた。所謂津輕家の御乘出がこれである。五年十二月には南部家と共に永く東西蝦夷地を警衞することを命ぜられて、十萬石に進み、從四位下に叙せられた。この津輕家の政務發展の時に當つて、允成が啓沃の功も少くなかつたらしい。
允成は文政五年八月朔に、五十九歳で致仕した。抽齋が十八歳の時である。次いで寧親も文政八年四月に退隱して、詩歌俳諧を銷遣の具とし、歌會には成嶋司直などを召し、詩會には允成を召すことになつてゐた。允成は天保二年六月からは、出羽國龜田の城主岩城伊豫守隆喜に嫁した信順の姉もと姫に伺候し、同年八月からは又信順の室欽姫附を兼ねた。八月十五日に隱居料三人扶持を給せられることになつたのは、此等のためであらう。中一年置いて四年四月朔に、隱居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
允成は天保八年十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻縫は、文政七年七月朔に剃髪して壽松と云ひ、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなつた。夫に先つこと八年である。
その十二
抽齋は文化二年十一月八日に、神田辨慶橋に生れたと保さんが云ふ。これは母五百の話を記憶してゐるのであらう。父允成は四十二歳、母縫は三十一歳の時である。その生れた家はどの邊であるか。辨慶橋と云ふのは橋の名では無くて町名である。當時の江戸分間大繪圖と云ふものを閲するに、和泉橋と新橋との間の柳原通の少し南に寄つて、西から東へ、お玉が池、松枝町、辨慶橋、元柳原町、佐久間町、四間町、大和町、豐嶋町と云ふ順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡つて、少し東へ偏つて行く通が、東側は辨慶橋、西側は松枝町になつてゐる。此通の東隣の筋は、東側が元柳原町、西側が辨慶橋になつてゐる。わたくしが富士川游さんに借りた津輕家の醫官の宿直日記によるに、允成は天明六年八月十九日に豐嶋町通横町鎌倉横町家主伊右衞門店を借りた。この鎌倉横町と云ふのは、前云つた圖を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北の方河岸に寄つた所にある。允成が此店を借りたのは、其年正月二十二日に從來住んでゐた家が燒けたので、暫く多紀桂山の許に寄宿してゐて、八月に至つて移轉したのである。その從來住んでゐた家も、餘り隔たつてゐぬ和泉橋附近であつたことは、日記の文から推することが出來る。次に文政八年三月晦に、抽齋の元柳原六丁目の家が過半類燒したと云ふことが、日記に見えてゐる。元柳原町は辨慶橋と同じ筋で、只東西兩側が名を異にしてゐるに過ぎない。想ふに澀江氏は久しく和泉橋附近に住んでゐて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移つたのであらう。この元柳原町六丁目の家は、抽齋の生れた辨慶橋の家と同じであるかも知れぬが、或は抽齋の生れた文化二年に西側の辨慶橋にゐて、其後文政八年に至るまでの間に、向側の元柳原町に移つたものと考へられぬでも無い。
抽齋は小字を恒吉と云つた。故越中守信寧の夫人眞壽院が此子を愛して、當歳の時から五歳になつた頃まで、殆ど日毎に召し寄せて、傍で嬉戲するのを見て樂んださうである。美丈夫允成に肖た可憐兒であつたものと思はれる。
志摩の稻垣氏の家世は今詳にすることが出來ない。しかし抽齋の祖父清藏も恐らくは相貌の立派な人で、それが父允成を經由して抽齋に遺傳したものであらう。此身的遺傳と並行して、心的遺傳が存じてゐなくてはならない。わたくしはこゝに清藏が主を諫めて去つた人だと云ふ事實に注目する。次に後允成になつた神童專之助を出す清藏の家庭が、尋常の家庭でないと云ふ推測を顧慮する。彼は意志の方面、此は智能の方面で、此兩方面に於ける遺傳的系統を繹ぬるに、抽齋の前途は有望であつたと云つても好からう。
さて其抽齋が生れて來た境界はどうであるか。允成の庭の訓が信頼するに足るものであつたことは、言を須たぬであらう。オロスコピイは人の生れた時の星象を觀測する。わたくしは當時の社會にどう云ふ人物がゐたかと問うて、こゝに學問藝術界の列宿を數へて見たい。しかし觀察が徒に汎きに失せぬために、わたくしは他年抽齋が直接に交通すべき人物に限つて觀察することとしたい。即ち抽齋の師となり、又年上の友となる人物である。抽齋から見ての大己である。
抽齋の經學の師には、先づ市野迷庵がある。次は狩谷■(木偏+夜:::大漢和14970)齋である。醫學の師には伊澤蘭軒がある。次は抽齋が特に痘科を學んだ池田京水である。それから抽齋が交つた年長者は隨分多い。儒者又は國學者には安積艮齋、小嶋成齋、岡本况齋、海保漁村、醫家には多紀の本末兩家、就中■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭、伊澤蘭軒の長子伊澤榛軒がゐる。それから藝術家及藝術批評家に谷文晁、長嶋五郎作、石塚重兵衞がゐる。此等の人は皆社會の諸方面にゐて、抽齋の世に出づるを待ち受けてゐたやうなものである。
その十三
他年抽齋の師たり、年長の友たるべき人々の中には、現に普く世に知れわたつてゐるものが少くない。それゆゑわたくしはこゝに一々其傳記を挿まうとは思はない。只抽齋の誕生を語るに當つて、これをして其天職を盡さしむるに與つて力ある長者のルヴユウをして見たいと云ふに過ぎない。
市野迷庵、名を光彦、字を俊卿又子邦と云ひ、初め■(竹冠/員:::大漢和)窓、後迷庵と號した。其他醉堂、不忍池漁等の別號がある。抽齋の父允成が醉堂説を作つたのが、容安室文稿に出てゐる。通稱は三右衞門である。六世の祖重光が伊勢國白子から江戸に出て、神田佐久間町に質店を開き、屋號を三河屋と云つた。當時の店は辨慶橋であつた。迷庵の父光紀が、香月氏を娶つて迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽齋の生れた時、迷庵はもう四十一歳になつてゐた。
迷庵は考證學者である。即ち經籍の古版本、古抄本を捜り討めて、そのテクストを閲し、比較考勘する學派、クリチツクをする學派である。此學は源を水戸の吉田篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)に發し、■(木偏+夜:::大漢和14970)齋が其後を承けて發展させた。篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)は抽齋の生れる七年前に歿してゐる。迷庵が■(木偏+夜:::大漢和14970)齋等と共に研究した果實が、後に至つて成熟して抽齋等の訪古志となつたのである。此人が晩年に老子を好んだので、抽齋も同嗜の人となつた。
狩谷■(木偏+夜:::大漢和14970)齋、名は望之、字は雲卿、■(木偏+夜:::大漢和14970)齋は其號である。通稱を三右衞門と云ふ。家は湯嶋にあつた。今の一丁目である。■(木偏+夜:::大漢和14970)齋の家は津輕の用達で、津輕屋と稱し、■(木偏+夜:::大漢和14970)齋は津輕家の祿千石を食み、目見諸士の末席に列せられてゐた。先祖は參河國苅屋の人で、江戸に移つてから狩谷氏を稱した。しかし■(木偏+夜:::大漢和14970)齋は狩谷保古の代に此家に養子に來たもので、實父は高橋高敏、母は佐藤氏である。安永四年の生で、抽齋の母縫と同年であつたらしい。果してさうなら、抽齋の生れた時は三十一歳で、迷庵よりは十少かつたのだらう。抽齋の■(木偏+夜:::大漢和14970)齋に師事したのは二十餘歳の時だと云ふから、恐らくは迷庵を喪つて■(木偏+夜:::大漢和14970)齋に適いたのであらう。迷庵の六十二歳で亡くなつた文政九年八月十四日は、抽齋が二十二歳、■(木偏+夜:::大漢和14970)齋が五十二歳になつてゐた年である。迷庵も■(木偏+夜:::大漢和14970)齋も古書を集めたが、■(木偏+夜:::大漢和14970)齋は古錢をも集めた。漢代の五物を藏して六漢道人と號したので、人が一物足らぬではないかと詰つた時、今一つは漢學だと答へたと云ふ話がある。抽齋も古書や古武鑑を藏してゐたばかりでなく、矢張古錢癖があつたさうである。
迷庵と■(木偏+夜:::大漢和14970)齋とは、年齒を以て論ずれば、彼が兄、此が弟であるが、考證學の學統から見ると、■(木偏+夜:::大漢和14970)齋が先で、迷庵が後である。そして此二人の通稱がどちらも三右衞門であつた。世にこれを文政の六右衞門と稱する。抽齋は六右衞門のどちらにも師事したわけである。
六右衞門の稱は頗る妙である。然るに世の人は更に一人の三右衞門を加へて、三三右衞門などとも云ふ。この今一人の三右衞門は喜多氏、名は愼言、字は有和、梅園又靜廬と號し、居る所を四當書屋と名づけた。其氏の喜多を修して北愼言とも署した。新橋金春屋敷に住んだ屋根葺で、屋根屋三右衞門が通稱である。本は芝の料理店鈴木の伜定次郎で、屋根屋へは養子に來た。少い時狂歌を作つて網破損針金と云つてゐたのが、後博渉を以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなつたと云ふから、抽齋の生れた時には、其師となるべき迷庵と同じく四十一歳になつてゐた筈である。此三右衞門が殆ど毎日往來した小山田與清の擁書樓日記を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、此推算は誤つてゐない積である。しかし此人を迷庵■(木偏+夜:::大漢和14970)齋と併せ論ずるのは、少しく西人の所謂髪を握んで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衞門と抽齋との間には、交際が無かつたらしい。
その十四
後に抽齋に醫學を授ける人は伊澤蘭軒である。名は信恬、通稱は辭安と云ふ。伊澤氏の宗家は筑前國福岡の城主K田家の臣であるが、蘭軒は其分家で、備後國福山の城主阿部伊勢守正倫の臣である。文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であつたと云ふから、抽齋の生れた時二十九歳で、本郷眞砂町に住んでゐた。阿部家は既に備中守正精の世になつてゐた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移つたのは後の事である。
阿部家は尋で文政九年八月に代替になつて、伊豫守正寧が封を襲いだから、蘭軒は正寧の世になつた後、足掛四年阿部家の館に出入した。其頃抽齋の四人目の妻五百の姉が、正寧の室鍋嶋氏の女小姓を勤めて金吾と呼ばれてゐた。此金吾の話に、蘭軒は蹇であつたので、館内で輦に乘ることを許されてゐた。さて輦から降りて、匍匐して君側に進むと、阿部家の奧女中が目を見合せて笑つた。或日正寧が偶此事を聞き知つて、「壽安は足はなくても、腹が二人前あるぞ」と云つて、女中を戒めさせたと云ふことである。
次は抽齋の痘科の師となるべき人である。池田氏、名は■(大/淵:::大漢和)、字は河澄、通稱は瑞英、京水と號した。
原來疱瘡を治療する法は、久しく我國には行はれずにゐた。病が少しく重くなると、尋常の醫家は手を束ねて傍看した。そこへ承應二年に戴曼公が支那から渡つて來て、不治の病を治し始めた。■(龍+共:きょう・く:供給する・奉る・謹む・〈=共〉:大漢和48837)廷賢を宗とする治法を施したのである。曼公、名は笠、杭州仁和縣の人で、曼公とは其字である。明の萬暦二十四年の生であるから、長崎に來た時は五十八歳であつた。曼公が周防國岩國に足を留めてゐた時、池田嵩山と云ふものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川家の醫官で、名を正直と云ふ。先祖は蒲冠者範頼から出て、世々出雲に居り、生田氏を稱した。正直の數世の祖信重が出雲から岩國に遷つて、始て池田氏に更めたのである。正直の子が信之、信之の養子が正明で、皆曼公の遺法を傳へてゐた。
然るに寛保二年に正明が病んで將に歿せんとする時、其子獨美は僅に九歳であつた。正明は法を弟槇本坊詮應に傳へて置いて瞑した。そのうち獨美は人と成つて、詮應に學んで父祖の法を得た。寶暦十二年獨美は母を奉じて安藝國嚴嶋に遷つた。嚴嶋に疱瘡が盛に流行したからである。安永二年に母が亡くなつて、六年に獨美は大阪に往き、西堀江隆平橋の畔に住んだ。此時獨美は四十四歳であつた。
獨美は寛政四年に京都に出て、東洞院に住んだ。此時五十九歳であつた。八年に家齊に辟されて、九年に江戸に入り、駿河臺に住んだ。此年三月獨美は躋壽館で痘科を講ずることになつて、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋壽館には獨美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
抽齋の生れた文化二年には、獨美がまだ生存して、駿河臺に住んでゐた筈である。年は七十二歳であつた。獨美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸は向嶋小梅村の嶺松寺に葬られた。
獨美、字は善卿、通稱は瑞仙、錦橋又蟾翁と號した。その蟾翁と號したには面白い話がある。獨美は或時大きい蝦蟇を夢に見た。それから抱朴子を讀んで、其夢を祥瑞だと思つて、蝦蟇の畫をかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈つた。これが蟾翁の號の由來である。
その十五
池田獨美には前後三人の妻があつた。安永八年に歿した妙仙、寛政二年に歿した壽慶、それから嘉永元年まで生存してゐた芳松院緑峰である。緑峰は菱谷氏、佐井氏に養はれて獨美に嫁したのが、獨美の京都にゐた時の事である。三人共子は無かつたらしい。
獨美が嚴嶋から大阪に遷つた頃妾があつて、一男二女を生んだ。男は名を善直と云つたが、多病で業を繼ぐことが出來なかつたさうである。二女は長を智秀と諡した。寛政二年に歿してゐる。次は知瑞と諡した。寛政九年(*原文「安政九年」)に夭折してゐる。此外に今一人獨美の子があつて、鹿兒嶋に住んで、其子孫が現存してゐるらしいが、此家の事はまだこれを審にすることが出來ない。
獨美の家は門人の一人が養子になつて嗣いで、二世瑞仙と稱した。これは上野國桐生の人村岡善左衞門常信の二男である。名は晉、字は柔行、又直卿、霧溪と號した。躋壽館の講座をも此人が繼承した。
初め獨美は曼公の遺法を尊重する餘に、これを一子相傳に止め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にゐた時、人が諫めて云ふには、一人の能く救ふ所には限がある、良法があるのにこれを秘して傳へぬのは不仁であると云つた。そこで獨美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取つた。それから門人が次第に殖えて、歿するまでには五百人を踰えた。二世瑞仙は其中から簡拔せられて螟蛉子となつたのである。
獨美の初代瑞仙は素源家の名閥だとは云ふが、周防の岩國から起つて幕臣になり、駿河臺の池田氏の宗家となつた。それに業を繼ぐべき子がなかつたので、門下の俊才が入つて後を襲つた。遽に見れば、なんの怪むべき所もない。
しかしこゝに問題の人物がある。それは抽齋の痘科の師となるべき池田京水である。
京水は獨美の子であつたか、姪であつたか不明である。向嶋嶺松寺に立つてゐた墓に刻してあつた誌銘には子としてあつたらしい。然るに二世瑞仙晉の子直温の撰んだ過去帖には、獨美の弟玄俊の子だとしてある。子にもせよ姪にもせよ、獨美の血族たる京水は宗家を嗣ぐことが出來ないで、自立して町醫になり、下谷徒士町に門戸を張つた。當時江戸には駿河臺の官醫二世瑞仙と、徒士町の町醫京水とが兩立してゐたのである。
種痘の術が普及して以來、世の人は疱瘡を恐るゝことを忘れてゐる。しかし昔は人の此病を恐るゝこと、癆を恐れ、癌を恐れ、癩を恐るゝよりも甚だしく、其流行の盛なるに當つては、社會は一種のパニツクに襲はれた。池田氏の治法が徳川政府からも全國の人民からも歡迎せられたのは當然の事である。そこで抽齋も、一般醫學を蘭軒に受けた後、特に痘科を京水に學ぶことになつた。丁度近時の醫が細菌學や原蟲學や生物化學を特修すると同じ事である。
池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであつたか。從來痘は胎毒だとか、穢血だとか、後天の食毒だとか云つて、諸家は各その見る所に從つて、諸證を攻むるに一樣の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異氣だとして、所謂八證四節三項を分ち、偏僻の治法を斥けた。即ち對症療法の完全ならんことを期したのである。
その十六
わたくしは抽齋の師となるべき人物を數へて京水に及ぶに當つて、こゝに京水の身上に關する疑を記して、世の人の教を受けたい。
わたくしは今これを筆に上するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪ひ、又幾多の先輩知友を煩はして解決を求めた。しかしそれは概ね皆徒事であつた。就中憾とすべきは京水の墓の失踪した事である。
最初にわたくしに京水の墓の事を語つたのは保さんである。保さんは幼い時京水の墓に詣でたことがある。しかし寺の名は記憶してゐない。只向嶋であつたと云ふだけである。そのうちわたくしは富士川游さんに種々の事を問ひに遣つた。富士川さんがこれに答へた中に、京水の墓は常泉寺の傍にあると云ふ事があつた。
わたくしは幼い時向嶋小梅村に住んでゐた。初の家は今須崎町になり、後の家は今小梅町になつてゐる。その後の家から土手へ往くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸の北のはづれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
わたくしは常泉寺に往つた。今は新小梅町の内になつてゐる。枕橋を北へ渡つて、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周圍にある墓をも、境内の末寺の庭にある墓をも一つ一つ檢した。日蓮宗の事だから、江戸の市人の墓が多い。知名の學者では、朝川善庵の一家の墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あつたが、これは例の市人らしく、しかも無縁同樣のものと見えた。
そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃(*原文「迄頃」)作つたもので、いろは順に檀家の氏が列記してある。いの部には池田氏が無い。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であつた。
わたくしは空しく還つて、先づ郷人宮崎幸麿さんを介して、東京の墓の事に精しい武田信賢さんに問うて貰つたが、武田さんは知らなかつた。
そのうちわたくしは事實文編四十五に霧溪の撰んだ池田氏行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、其墓が向嶋嶺松寺にあることを記してある。素嶺松寺には戴曼公の表石があつて、瑞仙は其側に葬られたと云ふのである。向嶋にゐたわたくしも嶺松寺と云ふ寺は知らなかつた。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水も或はそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
わたくしは再び向嶋へ往つた。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊して捜索したが、嶺松寺と云ふ寺は無い。わたくしは絶望して踵を旋したが、道の序なので、須崎町弘福寺にある先考の墓に詣でた。さて住職奧田墨汁師を訪つて久濶を叙した。對談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも兩つながらこれを知つてゐた。
墨汁師は云つた。嶺松寺は常泉寺の近傍にあつた。其畛域内に池田氏の墓が數基並んで立つてゐたことを記憶してゐる。墓には多く誌銘が刻してあつた。然るに近い頃に嶺松寺は廢寺になつたと云ふのである。わたくしはこれを聞いて、先づ池田氏の墓を目撃した人を二人まで獲たのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。
「廢寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。
「墓は檀家がそれ\〃/引き取つて、外の寺へ持つて行きます。」
「檀家が無かつたらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へ遷す例になつてゐます。」
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の後は今どうなつてゐるかわかりませんか。」かう云つてわたくしは憮然とした。
その十七
わたくしは墨汁師に謂つた。池田瑞仙の一族は當年の名醫である。其墓の行方は探討したいものである。それに戴曼公の表石と云ふものも、若し存してゐたら、名蹟の一に算すべきものであらう。嶺松寺にあつた無縁の墓は、どこの共同墓地へ遷されたか知らぬが、若しそれがわかつたなら、尋ねに往きたいものであると云つた。
墨汁師も首肯して云つた。戴氏獨立の表石の事は始て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄蘗の衣鉢を傳へた身であつて見れば、獨立の遺蹟の存滅を意に介せずにはゐられない。想ふに獨立は寛文中九州から師隱元を黄蘗山に省しに上る途中で寂したらしいから、江戸には墓はなかつただらう。嶺松寺の表石とはどんな物であつたか知らぬが、或は牙髪塔の類ででもあつたか。それは兎も角も、其石の行方も知りたい。心當りの向々へ問ひ合せて見ようと云つた。
わたくしの再度の向嶋探討は大正四年の暮であつたので、そのうちに五年の初になつた。墨汁師の新年の書信に問合せの結果が記してあつたが、それは頗る覺束ない口吻であつた。嶺松寺の廢せられた時、其事に與つた寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家が無かつたらしい。當時無縁の墓を遷した所は、染井共同墓地であつた。獨立の表石と云ふものは誰も知らないと云ふのである。
これでは捜索の前途には、殆ど毫しの光明をも認めることが出來ない。しかしわたくしは念晴しのために、染井へ尋ねに往つた。そして墓地の世話をしてゐると云ふ家を訪うた。
墓にまゐる人に樒や綫香を賣り、又足を休めさせて茶をも飮ませる家で、三十許の怜悧さうなお上さんがゐた。わたくしは此女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名には云ふが、其地面には井然たる區劃があつて、毎區に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の中には池田と云ふ家は無い。池田と云ふ檀家が無いから、池田と云ふ人の墓の有りやうが無いと云ふのである。
「それでも新聞に、行倒れがあつたのを共同墓地に埋めたと云ふことがあるではありませんか。さうして見れば檀家の無い佛の往く所がある筈です。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあつた寺が取拂になつて、こつちへ持つて來られた佛です。さう云ふ時、石塔があれば石塔も運んで來るでせう。それをわたくしは尋ねるのです。」かう云つてわたくしは女の毎區有主説に反駁を試みた。
「えゝ、それは行倒れを埋める所も一箇所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てゝ遣る人はございません。それにお寺から石塔を運んで來たと云ふことは、聞いたこともございません。詰りそんな所には石塔なんぞは一つも無いのでございます。」
「でもわたくしは切角尋ねに來たものですから、そこへ往つて見ませう。」
「およしなさいまし。石塔の無いことはわたくしがお受合申しますから。」かう云つて女は笑つた。
わたくしもげにもと思つたので、墓地には足を容れずに引き返した。
女の言には疑ふべき餘地は無い。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいやうな氣がした。そこで歸途に町役場に立ち寄つて問うた。町役場の人は、墓地の事は扱はぬから、本郷區役所へ往けと云つた。
町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かつてゐた。そこでわたくしは思ひ直した。廢寺になつた嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の來なかつたことは明白である。それを區役所に問ふのは餘りに痴であらう。寧ろ行政上無縁の墓の取締があるか、若しあるなら、どう取り締まることになつてゐるかと云ふことを問ふに若くはない。その上今から區役所に往つた所で、當直の人に墓地の事を問ふのは甲斐の無い事であらう。わたくしはかう考へて家に還つた。
その十八
わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府廳で、墓所の移轉を監視するのが警視廳だと云ふことを知つた。そこで友人に託して、府廳では嶺松寺の廢絶に關してどれだけの事が知り得られるか、又警視廳は墓所の移轉をどの位の程度に監視することになつてゐるかと云ふことを問うて貰つた。
府廳には明治十八年に作られた墓地の臺帳とも云ふべきものがある。しかし一應それを檢した所では、嶺松寺と云ふ寺は載せてないらしかつた。其廢絶に關しては、何事をも知ることが出來ぬのである。警視廳は廢寺等のために墓碣を搬出するときには警官を立ち會はせる。しかしそれは有縁のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したと云ふことを屆け出でさせるに止まるさうである。
さうして見れば、嶺松寺の廢せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に遷されたと云ふのは、遷したと云ふ一紙の屆書が官廳に呈せられたに過ぎぬかも知れない。所詮今になつて戴曼公の表石や池田氏の墓碣の踪迹を發見することは出來ぬであらう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
兎角するうちに、わたくしが池田京水の墓を捜し求めてゐると云ふこと、池田氏の墓のあつた嶺松寺が廢絶したと云ふことなどが東京朝日新聞の雜報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知つたものであらう。雜報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けて云つた。自分は曾て府廳にゐたものである。其頃無税地反別帳と云ふ帳簿があつた。若しそれが猶存してゐるなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないと云ふのである。わたくしは無名の人の言に從つて、人に託して府廳に質して貰つたが、さう云ふ帳簿は無いさうであつた。
此事件に關してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を乞うた人は頗る多い。初にはわたくしは墓誌を讀まんがために、墓の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齡だけなりとも知らうとした。わたくしは抽齋の生れた年に、市野迷庵が何歳、狩谷■(木偏+夜:::大漢和14970)齋が何歳、伊澤蘭軒が何歳と云ふことを推算したと同じく、京水の年齡をも推算して見たく、若し又數字を以て示すことが出來ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを忖度して見たかつたのである。
諸家の中でも、戸川殘花さんはわたくしのために武田信賢さんに問うたり、南葵文庫所藏の書籍を檢したりしてくれ、呉秀三さんは醫史の資料に就いて捜索してくれ、大槻文彦さんは如電さんに問うてくれ、如電さんは向嶋まで墓を探りに往つてくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によつて知つたが、恐らくは郷土史の嗜好あるがために、踏査の勞をさへ厭はなかつたのであらう。只憾むらくもわたくしは徒に此等の諸家を煩はしたに過ぎなかつた。
これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあつたのは、富士川游さんと墨汁師とのお蔭である。わたくしは數度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を訪うた。そしてかう云ふことを聞いた。富士川さんは昔年日本醫學史の資料を得ようとして、池田氏の墓に詣でた。醫學史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、當時墓に就いて親しく抄記したものだと云ふのである。惜むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を寫して置かなかつた。又嶺松寺と云ふ寺號をも忘れてゐた。それゆゑわたくしに答へた書に常泉寺の傍と記したのである。是に於いて曾て親しく嶺松寺中の碑碣を睹た人が三人になつた。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは湮滅の期に薄つてゐた墓誌銘の幾句を、圖らずも救拔してくれたのである。
その十九
弘福寺の現住墨汁師は大正五年に入つてからも、捜索の手を停めずにゐた。そしてとう\/下目K村海福寺所藏の池田氏過去帖と云ふものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には生田氏中興池田氏過去帖慶應紀元季秋の十七字が四行に書してある。跋文を讀むに、此書は二世瑞仙晉の子直温、字は子徳が、慶應元年九月六日に、初代瑞仙獨美の五十年忌辰に丁つて、新に歴代の位牌を作り、併せてこれを纂記して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。
此書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、其墓所は或は注してあり、或は注してない。分明に嶺松寺に葬る、又は嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、其妻佐井氏、二代瑞仙、其二男洪之助、二代瑞仙の兄信一の五人に過ぎない。しかし既に京水の墓が同じ寺にあつたとすると、徒士町の池田氏の人々の墓も此寺にあつただらう。要するに嶺松寺にあつたと云ふ確證のある墓は、此書に注してある駿河臺の池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。
此書の記する所は、わたくしのために創聞に屬するものが頗る多い。就中異とすべきは、獨美に玄俊と云ふ弟があつて、それが宇野氏を娶つて、二人の間に出來た子が京水だと云ふ一事である。此書に據れば、獨美は一旦姪京水を養つて子として置きながら、それに家を嗣がせず、更に門人村岡晉を養つて子とし、それに業を繼がせたことになる。
然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は獨美の子で廢せられたと書してあつたらしい。しかもその廢せられた所以を書して放縦不覊にして人に容れられず、遂に多病を以て廢せらると云つてあつたらしい。
兩説は必ずしも矛盾してはゐない。獨美は弟玄俊の子京水を養つて子とした。京水が放蕩であつた。そこで京水を離縁して門人晉を養子に入れたとすれば、其説通ぜずと云ふでもない。
しかし京水が後能く自ら樹立して、其文章事業が晉に比して毫も遜色の無いのを見るに、此人の凡庸でなかつたことは、推測するに難くない。著述の考ふべきものにも、痘科擧要二卷、痘科鍵會通一卷、痘科鍵私衡五卷、抽齋をして筆受せしめた護痘要法一卷がある。養父獨美が視ること尋常蕩子の如くにして、これを逐ふことを惜まなかつたのは、恩少きに過ぐと云ふものではあるまいか。
且わたくしは京水の墓誌が何人の撰文に係るかを知らない。しかし京水が果して獨美の姪であつたなら、縦ひ獨美が一時養つて子となしたにもせよ、直に瑞仙の子なりと書したのはいかゞのものであらうか。富士川さんの如きも、日本醫學史に、墓誌に據つて瑞仙の子なりと書してゐるのである。又放縦だとか廢嗣だとか云ふことも、此の如くに書したのが、墓誌として體を得たものであらうか。わたくしは大いにこれを疑ふのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、其撰者を審にすることを得ざるのを憾とする。
わたくしは獨撰者不詳の京水墓誌を疑ふのみではない。又二世瑞仙晉の撰んだ池田氏行状をも疑はざることを得ない。文は載せて事實文編四十五にある。
行状に據るに、初代瑞仙獨美は享保二十年乙卯五月二十二日に生れ、文化十三年丙子九月六日に歿した。然るに安永六年丁酉に四十、寛政四年壬子に五十五、同九年丁巳に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。齡を記する毎に、殆ど必ず差つてゐるのは何故であらうか。因に云ふが過去帖にも亦齡八十三としてある。そこでわたくしは此八十三より逆算することにした。
その二十
晉の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子善直と云ふものを擧げて、「多病不能繼業」と書してある。其前に初代瑞仙が病中晉に告げた語を記して、八十四言の多きに及んである。瑞仙は痘を治することの難きを説いて、「數百之弟子、無能熟得之者」と云ひ、晉を賞して、「而汝能繼我業」と云つてある。
わたくしは未だ過去帖を獲ざる前にこれを讀んで、善直は京水の初の名であらうと思つた。京水の墓誌に多病を以て嗣を廢せらると云ふやうに書してあつたと云ふのと、符節は合するやうだからである。過去帖に從へば、庶子善直と姪京水は別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかと云ふ疑が、今に迄るまで未だ全くわたくしの懷を去らない。特に彼過去帖に遠近の親戚百八人が擧げてあるのに、初代瑞仙の只一人の實子善直と云ふものが痕跡をだに留めずに消滅してゐると云ふ一事は、此疑を助長する媒となるのである。
そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の殘缺に、京水が刺つてあるのを見ては、忌憚なきの甚だしきだと感じ、晉が養父の賞美の語を記して、一の抑損の句をも著けぬのを見ては、簡傲も亦甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙獨美、二世瑞仙晉、京水の三人の間に或るドラアムが藏せられてゐるやうに思はれてならない。わたくしの世の人に教を乞ひたいと云ふのは是である。
わたくしは抽齋の誕生を語るに當つて、後に其師となるべき人々を數へた。それは抽齋の生れた時、四十一歳であつた迷庵、三十一歳であつた■(木偏+夜:::大漢和14970)齋、三十歳であつた蘭軒の三人と、京水とであつて、獨り京水は過去帖を獲るまで其齡を算することが出來なかつた。なぜと云ふに、京水の歿年が天保七年だと云ふことは、保さんが知つてゐたが、年齒に至つては全く所見が無かつたからである。
過去帖に據れば京水の父玄俊は名を某、字を信卿と云つて寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡して宗經軒京水瑞英居士と云ふ。
これに由つて觀れば、京水は天明六年の生で、抽齋の生れた文化二年には二十歳になつてゐた。抽齋の四人の師の中では最年少者であつた。
後に抽齋と交る人々の中、抽齋に先つて生れた學者は、安積艮齋、小嶋成齋、岡本况齋、海保漁村である。
安積艮齋は抽齋との交が深くはなかつたらしいが、抽齋をして西學を忌む念を飜さしめたのは此人の力である。艮齋、名は重信、修して信と云ふ。通稱は祐助である。奧州郡山の八幡宮の祠官安藤筑前親重の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正今泉氏の壻になつて、妻に嫌はれ、翌年江戸に奔つた。しかし誰にたよらうと云ふあてもないので、うろ\/してゐるのを、日蓮宗の僧日明が見附けて、本所番場町の妙源寺へ連れて歸つて、數月間留めて置いた。そして世話をして佐藤一齋の家の學僕にした。妙源寺は今艮齋の墓碑の立つてゐる寺である。それから二十一歳にして林述齋の門に入つた。駿河臺に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。さうして見ると、抽齋の生れた文化二年は艮齋が江戸に入る前年で、十六歳であつた。これは艮齋が萬延元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
小嶋成齋名は知足、字は子節、初め靜齋と號した。通稱は五一である。■(木偏+夜:::大漢和14970)齋の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽齋の生れた文化二年には甫めて十歳である。父親藏が福山侯阿部備中守正精に仕へてゐたので、成齋も江戸の藩邸に住んでゐた。
その二十一
岡本况齋、名は保孝、通稱は初め勘右衞門、後縫殿助であつた。拙誠堂の別號がある。幕府の儒員に列せられた。荀子、韓非子、淮南子等の考證を作り、旁國典にも通じてゐた。明治十一年四月までながらへて、八十二歳で歿した。寛政九年の生で、抽齋の生れた文化二年には僅に九歳になつてゐた筈である。
海保漁村、名は元備、字は純卿、又名は紀之、字は春農とも云つた。通稱は章之助、傳經廬の別號がある。寛政十年に上總國武射郡北清水村(*現・山武郡横芝町)に生れた。老年に及んで經を躋壽館に講ずることになつた。慶應二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽齋の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあつて、父恭齋に句讀を授けられてゐたのである。
即ち學者の先輩は艮齋が二十一、成齋が十、况齋が九つ、漁村が八つになつた時、抽齋は生れたことになる。
次に醫者の年長者には先づ多紀の本家、末家を數へる。本家では桂山、名は簡、字は廉夫が、抽齋の生れた文化二年には五十一歳、其子柳■(三水+片:::大漢和)、名は胤、字は奕禧が十七歳、末家では■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭、名は堅、字は亦柔が十一歳になつてゐた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳■(三水+片:::大漢和)は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。
此中抽齋の最も親しくなつたのは■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭である。それから師伊澤蘭軒の長男榛軒も略同じ親しさの友となつた。榛軒、通稱は長安、後一安と改めた。文化元年に生れて、抽齋には只一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。
年上の友となるべき醫者は、抽齋の生れた時十一歳であつた■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭と、二歳であつた榛軒とであつたと云つても好い。
次は藝術家及藝術批評家である。藝術家としてこゝに擧ぐべきものは谷文晁一人に過ぎない。文晁、本文朝に作る、通稱は文五郎、薙髪して文阿彌と云つた。寫山樓、畫學齋、其他の號は人の皆知る所である。初め狩野派の文麗を師とし、後北山寒巖に從學して別に機軸を出した。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽齋の生れた文化二年には四十三歳になつてゐた。二人年齒の懸隔は、概ね迷庵に於けると同じく、抽齋は畫をも少しく學んだから、此人は抽齋の師の中に列する方が妥當であつたかも知れない。
わたくしはこゝに眞志屋五郎作と石塚重兵衞とを數へんがために、藝術批評家の目を立てた。二人は皆劇通であつたから、此の如くに名づけたのである。或はおもふに、批評家と云はんよりは、寧アマトヨオルと云ふべきであつたかも知れない。
抽齋が後劇を愛するに至つたのは、當時の人の眼より觀れば、一の癖好であつた。だうらくであつた。啻に當時に於いて然るのみではない。是の如くに物を觀る眼は、今も猶教育家等の間に、前代の遺物として傳へられてゐる。わたくしは甞て歴史の教科書に、近松、竹田の脚本、馬琴、京傳の小説が出て、風俗の頽敗を致したと書いてあるのを見た。
しかし詩の変體としてこれを視れば、脚本、小説の價値をも認めずには置かれず、脚本に縁つて演じ出す劇も、高級藝術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽齋の心胸を開發して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを學者、醫者、畫家の次に數へるのは、好む所に阿るのでは無い。
その二十二
眞志屋五郎作は神田新石町の菓子商であつた。水戸家の賄方を勤めた家で、或時代から故あつて世祿三百俵を給せられてゐた。巷説には水戸侯と血縁があるなどと云つたさうであるが、どうしてそんな説が流布せられたものか、今考へることが出來ない。わたくしは只風采が好かつたと云ふことを知つてゐるのみである。保さんの母五百の話に、五郎作は苦味走つた好い男であつたと云ふことであつた。菓子商、用達の外、此人は幕府の連歌師の執筆をも勤めてゐた。
五郎作は實家が江間氏で、一時長嶋氏を冒し、眞志屋の西村氏を襲ぐに至つた。名は秋邦、字は得入、空華、月所、如是縁庵等と號した。平生用ゐた華押は邦の字であつた。剃髪して五郎作新發智東陽院壽阿彌陀佛曇■(大+周:ちょう:大きい・多い、ここは人名:大漢和5944)と稱した。曇■(大+周:ちょう:大きい・多い、ここは人名:大漢和5944)とは好劇家たる五郎作が、音の似通つた劇場の緞帳と、入宋僧■(大+周:ちょう:大きい・多い、ここは人名:大漢和5944)然の名などとを配合して作つた戲號ではなからうか。
五郎作は劇神仙の號を寳田壽莱に承けて、後にこれを抽齋に傳へた人ださうである。
寳田壽莱、通稱は金之助、一に閑雅と號した。作者店おろしと云ふ書に、寳田とはもと神田より出でたる名と書いてあるのを見れば、眞の氏ではなかつたであらう。淨瑠璃關の戸は此人の作ださうである。寛政六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽齋の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。
五郎作は歿年から推算するに、明和六年の生で、抽齋の生れた文化二年には三十七歳になつてゐた。抽齋から見ての長幼の關係は、師迷庵や文晁に於けると大差は無い。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽齋が此二世劇神仙の後を襲いで三世劇神仙となつたのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽齋の父允成と親しく交つてゐたが、允成は五郎作に先つこと十一年にして歿した。
五郎作は獨り劇を看ることを好んだばかりではなく、舞臺のために製作をしたこともある。四世彦三郎を贔屓にして、所作事を書いて遣つたと、自分で云つてゐる。レシタシヨンが上手であつたことは、同情の無い喜多村■(竹冠/均:::大漢和26032)庭が、臺帳を讀むのが壽阿彌の唯一の長技だと云つたのを見ても察せられる。
五郎作は奇行はあつたが、生得酒を嗜まず、常に養性に意を用ゐてゐた。文政十年七月の末に、姪の家の板の間から墜ちて怪我をして、當時流行した接骨家元大坂町の名倉彌次兵衞に診察して貰ふと、名倉がかう云つたさうである。お前さんは下戸で、戒行が堅固で、氣が強い、それでこれ程の怪我をしたのに、目を廻さずに濟んだ。此三つが一つ闕けてゐたら、目を廻しただらう。目を廻したのだと、療治に二百日餘掛かるが、これは百五六十日でなほるだらうと云つたさうである。戒行とは剃髪した後だから云つたものと見える。怪我は兩臂を傷めたので骨には障らなかつたが痛が久しく息まなかつた。五郎作は十二月の末まで名倉へ通つたが、臂の痺だけは跡に貽つた。五十九歳の時の事である。
五郎作は文章を善くした。纖細の事を叙するに簡淨の筆を以てした。技倆の上から言へば、必ずしも馬琴、京傳に讓らなかつた。只小説を書かなかつたので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が賣に出たと聞いて、大晦日に築地の弘文堂へ買ひに往つた。手紙は罫紙十二枚に細字で書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたと云ふことが、記事に據つて明かに考へられる。こゝに書いた五郎作の性行も、半は材料を此簡牘に取つたものである。宛名の■(艸冠/必:ひつ::大漢和)堂は桑原氏、名は正瑞、字は公圭、通稱を古作と云つた。駿河國嶋田驛の素封家で、詩及書を善くした。玄孫喜代平さんは嶋田驛の北半里許の傳心寺に住んでゐる。五郎作の能文は此手紙一つに徴して知ることが出來るのである。
その二十三
わたくしの獲た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉彌次兵衞の流行を詠んだ狂歌がある。臂を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研ぎ上ぐる刄物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは餘り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自ら居るわけではないが、これを蜀山等の作に比するに、遜色あるを見ない。■(竹冠/均:::大漢和26032)庭は五郎作に文筆の才が無いと思つたらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を讀むやうなる假名書して終れりと云つてゐるが、此の如きは决して公論では無い。■(竹冠/均:::大漢和26032)庭は素漫罵の癖がある。五郎作と同年に歿した喜多靜廬を評して、性質風流なく、祭禮などの繁華なるを見ることを好めりと云つてゐる。風流をどんな事と心得てゐたか。わたくしは強ひて靜廬を回護するに意があるのではないが、これを讀んで、トルストイの藝術論に詩的と云ふ語の惡解釋を擧げて、口を極めて嘲罵してゐるのを想ひ起した。わたくしの敬愛する所の抽齋は、角兵衞獅子を觀ることを好んで、奈何なる用事をも擱いて玄關へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である。
五郎作は少い時、山本北山の奚疑塾にゐた。大窪天民は同窓であつたので後に■(之繞+台:::大漢和38791)るまで親しく交つた。上戸の天民は小さい徳利を藏して持つてゐて酒を飮んだ。北山が塾を見廻つてそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、其人物が小さくおもはれると云つた。天民がこれを聞いて大樽を塾に持つて來たことがあるさうである。下戸の五郎作は定めて傍から見て笑つてゐたことであらう。
五郎作は又博渉家の山崎美成や、畫家の喜多可庵と往來してゐた。中にも抽齋より僅に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑を質すことにしてゐた。五郎作も珍奇の物は山崎の許へ持つて往つて見せた。
文政六年四月二十九日の事である。まだ下谷長者町で藥を賣つてゐた山崎の家へ、五郎作はわざ\/八百屋お七のふくさといふものを見せに往つた。ふくさは數代前に眞志屋へ嫁入した嶋と云ふ女の遺物である。嶋の里方を河内屋半兵衞と云つて、眞志屋と同じく水戸家の賄方を勤め、三人扶持を給せられてゐた。お七の父八百屋市左衞門は此河内屋の地借であつた。嶋が屋敷奉公に出る時、穉なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬のふくさに、紅絹裏を附けて縫つてくれた。間もなく本郷森川宿のお七の家は天和二年十二月二十八日の火事に類燒した。お七は避難の間に情人と相識になつて、翌年の春家に歸つた後、再び情人と相見ようとして放火したのださうである。お七は天和三年三月二十八日に、十六歳で刑せられた。嶋は記念のふくさを愛藏して、眞志屋へ持つて來た。そして祐天上人から受けた名號をそれに裹んでゐた。五郎作は新にふくさの由來を白絹に書いて縫ひ附けさせたので、山崎に持つて來て見せたのである。
五郎作と相似て、抽齋より長ずること僅に六歳であつた好劇家は、石塚重兵衞である。寛政十一年の生で、抽齋の生れた文化二年には七歳になつてゐた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年を享くること六十三であつた。
その二十四
石塚重兵衞の祖先は相摸國鎌倉の人である。天明中に重兵衞の曾祖父が江戸へ來て、下谷豐住町に住んだ。世粉商をしてゐるので、芥子屋と人に呼ばれた。眞の家號は鎌倉屋である。
重兵衞も自ら庭に降り立つて、芥子の臼を踏むことがあつた。そこで豐住町の芥子屋と云ふ意で、自ら豐芥子と署した。そして此を以て世に行はれた。その豐亭と號するのも豐住町に取つたのである。別に集古堂と云ふ號がある。
重兵衞に女が二人あつて、長女に壻を迎へたが、壻は放蕩をして離別せられた。しかし後に淺草諏訪町の西側の角に移つてから、又其壻を呼び返してゐたさうである。
重兵衞は文久元年に京都へ往かうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であつた。抽齋の生れた文化二年には、重兵衞は七歳の童であつた筈である。
重兵衞の子孫はどうなつたかわからない。數年前に大槻如電さんが淺草北清嶋町報恩寺内專念寺にある重兵衞の墓に詣でゝ、忌日に墓に來るものは河竹新七一人だと云ふことを寺僧に聞いた。河竹に其縁故を問うたら、自分が默阿彌の門人になつたのは、豐芥子の紹介によつたからだと答へたさうである。
以上抽齋の友で年長者であつたものを數へると、學者に抽齋の生れた年に二十一歳であつた安積艮齋、十歳であつた小嶋成齋、九歳であつた岡本况齋、八歳であつた海保漁村がある。醫者に當時十一歳であつた■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭、二歳であつた伊澤榛軒がある。其他畫家文晁は四十三歳、劇通壽阿彌は三十七歳、豐芥子は七歳であつた。
抽齋が始て市野迷庵の門に入つたのは文化六年で、師は四十八歳、弟子は五歳であつた。次いで文化十一年に醫學を修めんがために、伊澤蘭軒に師事した。師が三十九歳、弟子が十歳の時である。父允成は經藝文章を教へることにも、家業の醫學を授けることにも、頗る早く意を用ゐたのである。想ふに後に師とすべき狩谷■(木偏+夜:::大漢和14970)齋とは、家庭でも會ひ、師迷庵の許でも會つて、幼い時から親しくなつてゐたであらう。又後に莫逆の友となつた小嶋成齋も、夙く市野の家で抽齋と同門の好を結んだことであらう。抽齋がいつ池田京水の門を敲いたかと云ふことは今考へることが出來ぬが、恐らくはこれより後の事であらう。
文化十一年十二月二十八日、抽齋は始て藩主津輕寧親に謁した。寧親は五十歳、抽齋の父允成は五十一歳、抽齋自己は十歳の時である。想ふに謁見の場所は本所二つ目の上屋敷であつただらう。謁見即ち目見は抽齋が弘前の士人として受けた禮遇の始で、これから月並出仕を命ぜられるまでには七年立ち、番入を命ぜられ、家督相續をするまでには八年立つてゐる。
抽齋が迷庵門人となつてから四年目、文化十四年に記念すべき事があつた。それは抽齋と森枳園とが交を訂した事である。枳園は後年これを弟子入と稱してゐた。文化四年十一月生の枳園は十一歳になつてゐたから、十三歳の抽齋が十一歳の枳園を弟子に取つたことになる。
森枳園、名は立之、字は立夫、初め伊織、中ごろ養眞、後養竹と稱した。維新後には立之を以て行はれてゐた。父名は恭忠、通稱は同じく養竹であつた。恭忠は備後國福山の城主阿部伊勢守正倫、同備中守正精の二代に仕へた。その男枳園を擧げたのは、北八町堀竹嶋町に住んでゐた時である。後經籍訪古志に連署すべき二人は、こゝに始て手を握つたのである。因に云ふが、枳園は單獨に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であつた、弘前の醫官小野道瑛の子道秀も袂を聯ねて入門した。
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