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澀江抽齋 その二十九〜その三十五

鴎外選集8(東京堂 1949.9.25)

 1〜9  10〜24  25〜28  29〜35  36〜42  43〜      

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その二十九
天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁抽齋が師友を以て遇してゐた年長者で、抽齋は平素畫を鑑賞することに就ては、なにくれとなく教を乞ひ、又古器物や本艸の參考に供すべき動植物を圖するために、筆の使方、顔料の解方などを指圖して貰つた。それが前年に七十七の賀宴を兩國の萬八樓で催したのを名殘にして、今年亡人の數に入つたのである。跡は文化九年生で二十九歳になる文二が嗣いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻阿佐は、もう五年前にに先つて死んでゐたのである。此年抽齋は三十六歳であつた。
天保十二年には、岡西氏徳が二女を生んだが、は早世した。閏正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男八三郎が生れたが、これも夭折した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽齋が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくし抽齋の事を叙する初に於て、天保十二年の暮の作と認むべき抽齋の述志の詩を擧げて、當時の澀江氏の家族を數へたが、倏ち(*原文「■(倏の犬を火に作る:::大漢和)ち」)來り倏ち去つた女の名は見はすことが出來なかつた。
天保十四年六月十五日に、抽齋は近習に進められた。三十九歳の時である。
是年に躋壽館で書を講じて、陪臣町醫に來聽せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て新に講師が任用せられた。初館には都講、教授があつて、生徒に授業してゐたに過ぎない。一時多紀藍溪時代に百日課の制を布いて、醫學も經學も科を分つて、百日を限つて講じたことがある。今謂ふクルズスである。しかしそれも生徒に聽かせたのである。百日課は四年間で罷んだ。講師を置いて、陪臣町醫の來聽を許すことになつたのは、此時が始である。五箇月の後、幕府が抽齋を起たしむることゝなつたのは、此制度あるがためである。
弘化元年抽齋のために、一大轉機を齎した。社會に於いては幕府の直參になり、家庭に於いては岡西氏徳のみまかつた跡へ、始て才色兼ね備はつた妻が迎へられたのである。
此一年間の出來事を順次に數へると、先づ二月二十一日に妻が亡くなつた。三月十二日に老中土井大炊頭利位を以て、抽齋に躋壽館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期登城を命ぜられた。年始、八朔、五節句、月並の禮に江戸城に往くことになつたのである。十一月六日に神田紺屋町鐵物問屋山内忠兵衞五百が來り嫁した。表向は弘前藩目附役百石比良野助太郎として届けられた。十二月十日に幕府から白銀五枚を賜はつた。これは以下恒例になつてゐるから必ずしも書かない。同月二十六日に長女が幕臣馬場元玖に嫁した。時に年十六である。
抽齋岡西氏徳を娶つたのは、其兄玄亭が相貌も才學も人に優れてゐるのを見て、此人の妹ならと思つたからである。然るに伉儷をなしてから見ると、才貌共に豫期したやうではなかつた。それだけならばまだ好かつたが、には似ないで、却つて父榮玄の褊狹な氣質を受け繼いでゐた。そしてこれが抽齋にアンチパチイを起させた。
最初の妻は貧家の女の具へてゐさうな美徳を具へてゐなかつたらしく、抽齋の父允成が或時、己の考が惡かつたと云つて歎息したこともあるさうだが、抽齋はそれ程厭とは思はなかつた。二人目の妻威能は怜悧で、人を使ふ才があつた。兎に角抽齋に始てアンチパチイを起させたのは、三人目のであつた。
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その三十
克己を忘れたことのない抽齋は、を叱り懲らすことは無かつた。それのみでは無い。あらはに不快の色を見せもしなかつた。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにゐた。そして弘前へ立つた。初度の旅行の時の事である。
さて抽齋が弘前にゐる間、江戸の便がある毎に、必ず長文の手紙がから來た。留守中の出來事を、殆ど日記のやうに悉く書いたのである。抽齋は初め數行を讀んで、直ちに此書信がの自力によつて成つたものでないことを知つた。文章の背面に父允成の氣質が歴々として見えてゐたからである。
允成抽齋に親まぬのを見て、前途のために危んでゐたので、抽齋が旅に立つと、すぐにに日課を授けはじめた。手本を與へて手習をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本づいて文案を作つて、に筆を把らせ、家内の事は細大となくに報ぜさせることにしたのである。
抽齋は江戸の手紙を得る毎に泣いた。のために泣いたのでは無い。のために泣いたのである。
二年近い旅から歸つて、抽齋は勉めてに親んで、の心を安ぜようとした。それから二年立つて優善が生れた。
尋いで抽齋は再び弘前へ往つて、足掛三年淹留した。留守にの亡くなつた旅である。それから江戸に歸つて、中一年置いてが生れ、其翌年八三郎が生れた。八三郎を生んで一年半立つて亡くなつた。
そしての亡くなつた跡へ山内氏五百が來ることになつた。抽齋の身分はが往き、五百が來る間に變つて、幕府の直參になつた。交際は廣くなる。費用は多くなる。五百は卒に其中に身を投じて、難局に當らなくてはならなかつた。五百が恰も好し其適材であつたのは、抽齋の幸である。
五百の父山内忠兵衞は名を豐覺と云つた。神田紺屋町に鐵物問屋を出して、屋號を日野屋と云ひ、商標には井桁の中に喜の字を用ゐた。忠兵衞は詩文書畫を善くして、多く文人墨客に交り、財を捐てゝこれが保護者となつた。
忠兵衞に三人の子があつた。長男榮次郎、長女、二女五百である。忠兵衞允成の友で、嫡子榮次郎の教育をば、久しく抽齋に託してゐた。文政七八年の頃、當時允成が日野屋をおとづれて、芝居の話をすると、九つか十であつた五百と、一つ年上のとが面白がつて傍聽してゐたさうである。は即ち後に阿部家に仕へた金吾である。
五百文化十三年に生れた。兄榮次郎が五歳、姉が二歳になつてゐた時である。忠兵衞は三人の子の次第に長ずるに至つて、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人の女にも尋常女子の學ぶことになつてゐる讀み書き諸藝の外、武藝をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、經學などをさへ、殆ど男子に授けると同じやうに授けたのである。
忠兵衞が此の如くに子を育てたには來歴がある。忠兵衞の祖先は山内但馬守盛豐の子、對馬守一豐から出たのださうで、江戸の商人になつてからも、三葉柏の紋を附け、名のりに豐の字を用ゐることになつてゐる。今わたくしの手近にある系圖には、一豐織田信長に仕へた修理亮康豐と、武田信玄に仕へた法眼日泰との二人しか載せて無い。忠兵衞の家は、此二人の内孰れかの裔であるか、それとも外に一豐の弟があつたか、こゝに遽に定めることが出來ない。
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その三十一
五百は十一二歳の時、本丸に奉公したさうである。年代を推せば、文政九年十年かでなくてはならない。徳川家齊が五十四五歳になつた時である。御臺所は近衞経熈(*原文「二水+熈」)の養女茂姫である。
五百姉小路と云ふ奧女中の部屋子であつたと云ふ。姉小路と云ふからには、上臈であつただらう。然らば長局の南一の側に、五百はゐた筈である。五百等が夕方になると、長い廊下を通つて締めに往かなくてはならぬ窓があつた。其廊下には鬼が出ると云ふ噂があつた。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかと云ふに、誰も好くは見ぬが、男の衣を着てゐて、額に角が生えてゐる。それが礫を投げ掛けたり、灰を蒔き掛けたりすると云ふのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌つて、互に讓り合つた。五百は穉くても膽力があり、武藝の稽古もしたことがあるので、自ら望んで窓を締めに往つた。
暗い廊下を進んで行くと、果してちよろ\/と走り出たものがある。おやと思ふ間もなく、五百は片頬に灰を被つた。五百には咄嗟の間に、其物の姿が好くは見えなかつたが、どうも少年の惡作劇らしく感ぜられたので、五百は飛び附いて掴まへた。
「許せ\/」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を弛めなかつた。そのうちに外の女子達が馳せ附けた。
鬼は降伏して被つてゐた鬼面を脱いだ。銀之助樣と稱へてゐた若君で、穉くて美作國西北條郡津山の城主松平家へ壻入した人であつたさうである。
津山の城主松平越後守齊孝の二女徒の方の許へ壻入したのは、家齊の三十四人目の子で、十四男參河守齊民である。
齊民は小字を銀之助と云ふ。文化十一年七月二十九日に生れた。母はお八重の方である。十四年七月二十二日に、御臺所の養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に壻入し、十二月三日に松平邸に往つた。四歳の壻君である。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移つた。七年三月二十八日には十一歳で元服して、從四位上侍從參河守齊民となつた。九年十二月には十三歳で少將にせられた。人と成つて後確堂公と呼ばれたのは此人で、成嶋柳北の碑の篆額は其筆である。さうして見ると、此人が鬼になつて五百に捉へられたのは、從四位上侍從になつてから後で、只少將であつたか、なかつたかが疑問である。津山邸に館はあつても、本丸に寢泊して、小字の銀之助を呼ばれてゐたものと見える。年は五百より二つ上である。
五百の本丸を下つたのは何時だかわからぬが、十五歳の時にはもう藤堂家に奉公してゐた。五百が十五歳になつたのは、天保元年である。若し十四歳で本丸を下つたとすると、文政十二年に下つたことになる。
五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家と云ふ大名の屋敷を目見として廻つたさうである。其頃も女中の目見は、君臣を擇ばず、臣君を擇ぶと云ふやうになつてゐたと見えて、五百が此の如くに諸家の奧へ覗きに往つたのは、到處で斥けられたのではなく、自分が仕ふることを肯ぜなかつたのださうである。
しかし二十餘家を經廻るうちに、只一箇所だけ、五百が仕へようと思つた家があつた。それが偶然にも土佐國高知の城主松平土佐守豐資の家であつた。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。
五百が鍛冶橋内の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じやうな考試に逢つた。それは手跡、和歌、音曲の嗜を驗されるのである。試官は老女である。先づ硯箱と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお染を」と云ふ。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も濟んだ。それから常磐津を一曲語らせられた。此等の事は他家と何の殊なることもなかつたが、女中が悉く綿服であつたのが、五百の目に留まつた。二十四萬二千石の大名の奧の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐに此家に奉公したいと决心した。奧方松平上總介齊政の女である。
此時老女がふと五百の衣類に三葉柏の紋の附いてゐるのを見附けた。
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その三十二
山内家の老女は五百に、どうして御當家の紋と同じ紋を、衣類に附けてゐるかと問うた。
五百は自分の家が山内氏で、昔から三葉柏の紋を附けてゐると答へた。
老女は暫く案じてから云つた。御用に立ちさうな人と思はれるから、お召抱になるやうに申し立てようと思ふ。しかし其紋は當分御遠慮申すが好からう。由緒のあることであらうから、追つてお許を願ふことも出來ようと云つた。
五百は家に歸つて、に當分紋を隱して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衞は即座に反對した。姓名だの紋章だのは、先祖から承けて子孫に傳へる大切なものである。濫に匿したり更めたりすべきものでは無い。そんな事をしなくては出來ぬ奉公なら、せぬが好いと云つたのである。
五百が山内家をことわつて、次に目見に往つたのが、向柳原の藤堂家の上屋敷であつた。例の考試は首尾好く濟んだ。別格を以て重く用ゐても好いと云つて、懇望せられたので、諸家を廻り草臥れた五百は、此家に仕へることに極めた。
五百はすぐに中臈にせられて、殿樣附と定まり、同時に奧方祐筆を兼ねた。殿樣は伊勢國安濃郡津の城主、三十二萬三千九百五十石の藤堂和泉守高猷である。官位は從四位侍從になつてゐた。奧方は藤堂主殿頭高■(山/松:::大漢和8209)の女である。
此時五百はまだ十五歳であつたから、尋常ならば女小姓に取らるべきであつた。それが一躍して中臈を贏ち得たのは破格である。女小姓は茶、烟草、手水などの用を辨ずるもので、今云ふ小間使である。中臈は奧方附であると、奧方の身邊に奉仕して、種々の用事を辨ずるものである。幕府の慣例ではそれが轉じて將軍附となると、妾になつたと見ても好い。しかし大名の家では奧方に仕へずに殿樣に仕へると云ふに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。
五百は呼名を挿頭と附けられた。後に抽齋に嫁することに極まつて、比良野氏の娘分にせられた時、翳の名を以て屆けられたのは、これを襲用したのである。さて暫く勤めてゐるうちに、武藝の嗜のあることを人に知られて、男之助と云ふ綽名が附いた。
藤堂家でも他家と同じやうに、中臈は三室位に分たれた部屋に住んで、女二人を使つた。食事は自辨であつた。それに他家では年給三十兩内外であるのに、藤堂家では九兩であつた。當時の武家奉公をする女は、多く俸錢を得ようと思つてゐたのではない。今の女が女學校に往くやうに、修行をしに往くのである。風儀の好ささうな家を擇んで仕へようとした五百なぞには、給料の多寡は初より問ふ所でなかつた。
修行は金を使つてする業で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住ひをして、役人に物を献じ、傍輩に饗應し、衣服調度を調へ、下女を使つて暮すには、父忠兵衞は年に四百兩を費したさうである。給料は三十兩貰つても九兩貰つても、格別の利害を感ぜなかつた筈である。
五百は藤堂家で信任せられた。勤仕未だ一年に滿たぬのに、天保二年の元日には中臈頭に進められた。中臈頭は只一人しか置かれぬ役で、通例二十四五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになつた。
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その三十三
五百は藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衞の病氣のために暇を取つた。後に夫となるべき抽齋五百が本丸にゐた間、尾嶋氏定を妻とし、藤堂家にゐた間、比良野氏威能岡西氏徳を相踵いで妻としてゐたのである。
五百の藤堂家を辭した年は、父忠兵衞の歿した年である。しかし奉公を罷めた頃は、忠兵衞はまだを呼び寄せる程の病氣をしてはゐなかつた。暇を取つたのは、忠兵衞を旅に出すことを好まなかつたためである。此年に藤堂高猷夫妻は伊勢參宮をすることになつてゐて、五百は供の中に加へられてゐた。忠兵衞高猷の江戸を立つに先つて、五百を家に還らしめたのである。
五百の歸つた紺屋町の家には、父忠兵衞の外、當時五十歳の忠兵衞、二十八歳の兄榮次郎がゐた。二十五歳の姉は四年前に阿部家を辭して、横山町の塗物問屋長尾宗右衞門に嫁してゐた。宗右衞門がためには、只一つ年上の夫であつた。
忠兵衞の子がまだ皆幼く、榮次郎六歳、三歳、五百二歳の時、麹町の紙問屋山一の女で松平攝津守義建の屋敷に奉公したことのある忠兵衞は亡くなつたので、跡には享和三年に十四歳で日野屋へ奉公に來たが、妾になつてゐたのである。
忠兵衞は晩年に、氣が弱くなつてゐた。は人の上に立つて指圖をするやうな女ではなかつた。然るに五百が藤堂家から歸つた時、日野屋では困難な問題が生じて全家が頭を惱ませてゐた。それは五百の兄榮次郎の身の上である。
榮次郎は初め抽齋に學んでゐたが、尋いで昌平黌に通ふことになつた。の夫になつた宗右衞門は、同じ學校の諸生仲間で、しかも此二人だけが許多の士人の間に介まつてゐた商家の子であつた。譬へて云つて見れば、今の人が華族でなくて學習院に入つてゐるやうなものである。
五百が藤堂家に仕へてゐた間に、榮次郎は學校生活に平ならずして、吉原通をしはじめ、相方は山口巴のと云ふ女であつた。五百が屋敷から下る二年前に、榮次郎は深入をして、とうとうの見受をすると云ふことになつたことがある。忠兵衞はこれを聞き知つて、勘當しようとした。しかし救解のために五百が屋敷から來たので、沙汰罷になつた。
然るに五百が藤堂家を辭して歸つた時、此問題が再燃してゐた。
榮次郎の力に憑つて勘當を免れ、暫く謹愼して大門を潜らずにゐた。其隙にを田舍大盡が受け出した。榮次郎は鬱症になつた。忠兵衞は心弱くも、人に榮次郎を吉原へ連れて往かせた。此時の禿であつた娘が、濱照と云ふ名で、來月突出になることになつてゐた。榮次郎濱照の客になつて、前よりも盛な遊をしはじめた。忠兵衞は又勘當すると言ひ出したが、これと同時に病氣になつた。榮次郎も流石に驚いて、暫く吉原へ往かずにゐた。これが五百の歸つた時の現状である。
此時に當つて、將に覆らんとする日野屋の世帶を支持して行かうと云ふものが、新に屋敷奉公を棄てゝ歸つた五百の外に無かつたことは、想像するに難くはあるまい。姉は柔和に過ぎて决斷なく、其夫宗右衞門は早世したの家業を襲いでから、酒を飮んで遊んでゐて、自分の産を治することをさへ忘れてゐたのである。
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その三十四
五百は父忠兵衞をいたはり慰め、兄榮次郎を諫め勵まして、風浪に弄ばれてゐる日野屋と云ふ船の柁を取つた。そして忠兵衞の異母兄で十人衆を勤めた大孫某を證人に立てゝ、をして廃嫡を免れしめた。
忠兵衞は十二月七日に歿した。日野屋の財産は一旦忠兵衞の意志に依つて五百の名に書き更へられたが、五百は直ちにこれをに返した。
五百は男子と同じやうな教育を受けてゐた。藤堂家で武藝のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文學のために新少納言と呼ばれたと云ふ一面がある。同じ頃狩谷■(木偏+夜:::大漢和14970)齋の女少納言の稱があつたので、五百はこれに對へてかく呼ばれたのである。
五百の師として事へた人には、經學に佐藤一齋、筆札に生方鼎齋、繪畫に谷文晁、和歌に前田夏蔭があるさうである。十一二歳の時夙く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度毎に講釋を聽くとか、手本を貰つて習つて清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直して貰ふとか云ふ稽古の爲方であつただらう。
師匠の中で最も老年であつたのは文晁、次は一齋、次は夏蔭、最も少壯であつたのが鼎齋である。年齡を推算するに、五百の生れた文化十三年には、文晁が五十四、一齋が四十五、夏蔭が二十四、鼎齋が十八になつてゐた。
文晁は前に云つたとほり、天保十一年に七十八で歿した。五百が十一の時である。一齋安政六年八月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭元治元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎齋安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎齋は畫家福田半香の村松町の家へ年始の禮に往つて酒に醉ひ、水戸の劍客某と口論をし出して、其の門人に斬られたのである。
五百鼎齋を師とした外に、近衞豫樂院橘千蔭との筆跡を臨摸したことがあるさうである。豫樂院家熈(*原文「二水+熈」)元文元年に薨じた。五百の生れる前八十年である。芳宜園千蔭は身分が町奉行與力で、加藤又左衞門と稱し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。
五百は藤堂家を下つてから五年目に澀江氏に嫁した。穉い時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取つては、自分が抽齋に嫁し得ると云ふポツシビリテエの生じたのは、三月に岡西氏徳が亡くなつてから後の事である。常に往來してゐた澀江の家であるから、五百の亡くなつた三月から、自分の嫁して來る十一月までの間にも、抽齋を訪うたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とか云ふ問題は、當時の人の夢にだに知らなかつた。立派な教育のある二人が、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年を閲した友人關係を棄てゝ、遽に夫婦關係に入つたのである。當時に於いては、醒覺せる二人の間に、此の如く婚約が整つたと云ふことは、絶て無くして僅に有るものと謂つて好からう。
わたくしは鰥夫になつた抽齋の許へ、五百の訪ひ來た時の緊張したシチユアシヨンを想像する。そして保さんの語つた豐芥子の逸事を憶ひ起して可笑しく思ふ。五百の澀江へ嫁入する前であつた。或日五百が來て抽齋と話をしてゐると、そこへ豐芥子が竹の皮包を持つて來合せた。そして包を開いて抽齋に鮓を薦め、自分も食ひ、五百に是非食へと云つた。後に五百は、あの時程困つたことは無いと云つたさうである。
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その三十五
五百抽齋に嫁するに當つて、比良野文藏の養女になつた。文藏の子で目附役になつてゐた貞固文化九年生で、五百の兄榮次郎と同年であつたから、五百は其妹になつたのである。然るに貞固は姉威能の跡に直る五百だからと云ふので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通稱は祖父と同じ助太郎である。
文藏は假親になるからは、眞の親と餘り違はぬ情誼がありたいと云つて、澀江氏へ往く三箇月許前に、五百を我家に引き取つた。そして自分の身邊に居らせて、煙草を填めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。
助太郎は武張つた男で、髪を絲鬢に結ひ、K紬の紋附を着てゐた。そしてもう藍原氏かなと云ふ嫁があつた。初め助太郎かなとは、まだかな藍原右衞門の女であつた時、穴隙を鑽つて相見えたために、二人は親々の勘當を受けて、裏店の世帶を持つた。しかしどちらも可哀い子であつたので、間もなくわびが■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)つて助太郎は表立つてかなを妻に迎へたのである。
五百抽齋に歸いだ時の支度は立派であつた。日野屋の資産は兄榮次郎の遊蕩によつて傾き掛かつてはゐたが、先代忠兵衞五百に武家奉公をさせるために爲向けて置いた首飾、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあつた。今の世の人も奉公上りには支度があると云ふ。しかしそれは賜物を謂ふのである。當時の女子はこれに反して、主に親の爲向けた物を持つてゐたのである。五年の後に將軍に謁した時、五百は此支度の一部を沽つて、の急を救ふことを得た。又これに先つこと一年に、森枳園が江戸に歸つた時も、五百は此支度の他の一部を贈つて、枳園をして面目を保たしめた。枳園は後々までも、衣服を欲するごとに五百に請ふので、お勝さんわたしの支度を無盡藏だと思つてゐるらしいと云つて、五百が歎息したことがある。
五百の來り嫁した時、抽齋の家族は主人夫婦、長男恒善、長女、次男優善の五人であつたが、間もなくは出でゝ馬場氏の婦となつた。
弘化二年から嘉永元年までの間、抽齋が四十一歳から四十四歳までの間には、澀江氏の家庭に特筆すべき事が少かつた。五百の生んだ子には、弘化二年十一月二十六日生の三女同三年十月十九日生れの四男幻香同四年十月八日生れの四女がある。四男は死んで生れたので、幻香水子は其法諡である。は今の杵屋勝久さんである。嘉永元年十二月二十八日には、長男恒善が二十三歳で月並出仕を命ぜられた。
五百の里方では、先代忠兵衞が歿してから三年程、榮次郎の忠兵衞は勤愼(*ママ)してゐたが、天保十三年に三十一歳になつた頃から、又吉原へ通ひはじめた。相方は前の濱照であつた。そして忠兵衞は遂に濱照を落籍させて妻にした。尋いで弘化三年十一月二十二日に至つて、忠兵衞は隱居して、日野屋の家督を僅に二歳になつた抽齋の三女に相續させ、自分は金座の役人の株を買つて、廣瀬榮次郎と名告つた。
五百の姉を娶つた長尾宗右衞門は、の歿した跡を襲いでから、終日手杯を釋かず、塗物問屋の帳場は番頭に任せて顧みなかつた。それを温和に過ぐる性質のは諫めようともしないので、五百を訪うて此樣子を見る度にもどかしく思つたが爲方がなかつた。さう云ふ時宗右衞門五百を相手にして、資治通鑑の中の人物を評しなどして、容易に歸ることを許さない。五百が強ひて歸らうとすると、宗右衞門の生んだお敬お銓の二人の女に、をばさんを留めいと云ふ。二人の女は泣いて留める。これはをばの歸つた跡で家が寂しくなるのと、が不機嫌になるのとを憂へて泣くのである。そこで五百はとう\/歸る機會を失ふのである。五百が此有樣をに話すと、抽齋榮次郎の同窓で、の姉壻たる宗右衞門の身の上を氣遣つて、わざ\/横山町へ諭しに往つた。宗右衞門は大いに慙ぢて、稍産業に意を用ゐるやうになつた。

〔その36〕〜

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